負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

外国語の勉強は強いモチベーションがないと続かない

外国語の勉強を再開して一か月ほどたっているが、やはり定期的にサボッってしまうというか勉強をしない日がある。

大人になってから独学で外国語を勉強しようともなればよほど強いモチベーションがなければ続かない。学校の授業や職場で強制されるわけでもなければ、外国語はわざわざ学ばなくてもいい物であり日本の生活で外国語を使えなくても困ることはほとんどない。

 

そんな外国語の勉強において最も重要なことは「継続」であり、1日勉強しなければそのままズルズルと数日、一週間、一ヶ月とどんどん間が開いてしまう。とにかく日々の学習においてどれだけ習慣として落とし込めるかであり、そのためにもやはり動機づけが必要となる。

バイオリニストやピアニストが一日楽器に触れなければ自分の中で何かが変わったことに気付くのと同じで、外国語もまた勉強しない時間が空くとすぐに積み重ねた物がなくなってしまう。

 

今日はほぼ1日中スペイン語を勉強し、実質日本語よりもスペイン語の方を多く聞いたという1日だった。トータルで10時間近く勉強したのではないだろうか。

とはいえ決して専門的かつ本格的な学習をしていたわけではない。今はとにかく文法の勉強よりもスペイン語的な「感覚」をつかむことを注力しており、ひたすらリスニングを極めている。実質今日やったことと言えばスペイン語実況でのサッカーの試合を見た事と、スペインのポップミュージックを聞いた事、そしてわかりもしないスペインの政治討論番組を見たことだけである。

アルゼンチン代表やスペイン代表の試合を動画サイトで見つけてひたすらそれを何試合も見たり、スペイン語圏以外の試合ならば音声をオフにして別枠で開いたスペイン語の音楽や討論番組を音声のみ聞きながらサッカーの試合を見る。

 

外国語の勉強はとにかく好きな物を学びたい言語で見ることが重要であり、youtubeにいけば基本的にあらゆる教材が揃う。

youtube,ウィキペディア、グーグル翻訳、この3つが外国語勉強の三種の神器であり最低限この3つがあればよほどマイナーでない限り世界中のほとんどの言語を学べる時代になっている。

 

そしてこういった勉強をしているときに初心を思い起こすことも必要になってくる。自分は海外の大学を卒業し留学するという事を目標に掲げて今外国語を勉強してる。

正直に言えば自分の中で「そういえばそういうこと考えていたな」と数週間前に掲げた目標すら風化しつつあった。夢や目標は言葉や文章にして再確認にしなければ維持できず、いつのまにかそれは過去に一瞬抱いていただけの目標になってしまう。

いつのまにか「なんで自分はこの言語を勉強しているのだろうか」と疑問を抱いてしまい、終いには勉強しなくなってしまう。

 

外国語というのはそう簡単に身に付くものではない。

よほど強力なモチベーションと多大な努力がなければ20歳を過ぎてから外国語を身に着けるのは難しい。

しかし外国語の勉強は決して焦ってはいけない。

一刻も早く身に着けなければいけないと真剣になっても、実際よほどの語学の天才でなければそう簡単に目に見えて進歩はしない。

あくまで凡人が20歳過ぎてからこれまで勉強したことがない第二外国語を学ぶというのが今自分が行っているチャレンジであり、目に見えて毎日進歩するようなことはありえない。

 

今日も10時間近く勉強したが「感覚をつかんだ」という曖昧な進歩でしかなく、ここから一週間勉強しなければまた振出しに戻る程度のものでしかない。

言語の勉強というのはいわば筋トレやダイエットのようなものであり、目に見えていきなり進歩することはありえない。

「1か月スペイン語を勉強して何か大きな変化があっただろうか」と問いかけたとき、自分の中ではそれほど大きな変化を実感できていない。

相変わらずスペイン語で話していることの意味は分からない。しかしだんだんと聞き取れる単語や文法のパターンは感覚としてつかみかけており、最初は本当に「パラパラ」と言っているようにしか聞こえなかったスペイン語がある程度何かの構造が存在するという事はわかるようになってきている。今はスペイン語の「パラ」というのが英語で「for」を意味し、どのタイミングで使うかぐらいはわかるようになってきている。

このように音節や音感を理解して、少しずつ単語を覚え始めている。意味は分からないしそれをわざわざ調べようとも思わないがとにかくまるで子供が大人の言っている言葉を少しずつ覚えるような地道な進歩を続けている。

 

「1か月も勉強したのだから何かしらの変化を実感したい」と誰もが外国語の勉強では焦ってしまう。

しかしそういう時に問いかける。

「0歳児が1か月で何か喋れるようになるだろうか?」

今自分は新しい外国語に対しては0歳児とスタートラインは変わらない。厳密には脳の成長という要素も絡んでくるが3年勉強して3歳児と同様の語学力だとしてもそれは遅れているわけではなく普通の進歩なのである。

地頭の良い天才と比較して自分の進歩の遅さを嘆いても仕方がない。

外国語という物はそう簡単に見につくものではない、簡単に話せたらそれは天才だと言い聞かせて「進歩しない自分」と根気強く向き合い続けることが外国語の勉強では最も大事なことである。

長いスパンで考えなければならない事であり、現地に住まず日本で外国語を独学で勉強するというのは進歩が遅くて当たり前だと言える。

10年勉強してネイティブの10歳の子供と同じぐらいに話すことができればそれは十分であり、本来言葉という物はそう簡単に早く身につくものではない。

 

自分は「言語の天才」ではない。

そんな凡人が20を過ぎて飛躍的な頭脳の成長も見込めない状況で、新しくこれまで勉強したことのない外国語を身に着けるならばこれはもう焦らず地道に積み重ねるしかない。

そしてそのためにはやはりモチベーションが必要である。

外国語の勉強はまさに継続は力なりという言葉が当てはまる。特別な勉強方法を導入することよりも、とにかく続く勉強方法を導入することが最大の解決であり「良い勉強方法=続く勉強方法」でもある。

どんなにいい勉強方法でもそれが続かなければ意味がなく、誰から強制されるわけでもなく自主的に勉強するならば自然と習慣として続く勉強方法が必要になる。

「何のためにこの言語を勉強するか」というモチベーションを日々再確認し、日々の生活の一部にどれだけその言語を取り入れられるかが重要になってくる。

海外暮らしをすれば強制的にその言語の触れなければならないが、日本で暮らしている場合自主的に外国語を取り入れなければ結局日本語だけの生活になり日本ではそれで十分な生活が成立する。

その日常の生活に外国語を取り入れるために何かのモチベーションや情熱がなければならない。勉強とは思ってなく好きでやっているという状況作りも必要であり、同時に本当に覚えなければならないという必要性を意図的に実感させるための状況作りも必要になる。

好きでありなおかつ必要性を感じる、この2つのモチベーションが揃ったとき数年後はその言語を新しく習得している可能性が高いだろう。

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お酒の自動販売機って最近減少しつつあるよな

自動販売機の酒類販売というのはまだ場所によっては現存している。

実は自分の家の近くにもお酒の自動販売があり、コンビニさえ遠い田舎在住の人間としてよく愛用している。その地域だけで販売されているローカルな地酒のカップ焼酎も販売しており、これも地域経済だと思って自分は良く購入している。

欲を言えば度数の強い酎ハイ類を完備してくれればよいが売っている酒類は限られている。缶ビールではなぜか二つの商品が混同されており、どちらが出てくるかはランダムになっている。

酎ハイやワインが欲しければまだお酒を飲んでいない段階に自動車でコンビニに走らなければならず、お酒が切れたときは徒歩でこの哀愁を感じさせる旧世代の自動販売に走っている。

田舎に住むと現実的に夜にお酒を飲もうと思ったら普段から買いためておくか、近くの自販機に頼るしかない。当然ながらその時間にはすでに飲んでいるため車で買いに行くこともできない。

 

自分が子供のころはまだ酒類を販売する自動販売機は大手を振って人目に付きやすい場所でも見かけたが、最近は寂れた場所に「左遷」されつつあるのがこういった酒自動販売機だろう。現在自分が住んでいるのは酒類に寛容な地方だが、都会に住んでいた時は一度も見かけることがなかった。都道府県や地域によっては全廃されている程ほどは規制が厳しくなっている。

この田舎の自動販売機ですら元々あったメインストリートではなくより寂れた場所へと移されている。顔見知りの店員さんが「お使い」ならばと子供頃の自分にお酒を売ってくれていた時代はもうセピア色のアルバムの中に眠っている。

 

むしろ地方に帰ってきたとき最初は本当にこの自販機が起動しているのかすら懐疑的であり、「明かりだけついていてもうお酒などは言っていないのだろう」と思っていたところから実際に買うことができたときは感動したものである。数年都会に住んでいたためもはやお酒の自動販売機など全滅しているとさえ思っていた。

地域によってはそれほど見かけない物であり、この現代にお酒が自動販売機で買えるはずもないとさえ思ってしまう程レアなものになっている。

このボロボロの旧世代の自動販売機が本当に稼働しているかは最初疑問だったが、現役で稼働しており今では毎日のようにそこで購入している。

自分はお酒を買い貯めて常備しておくとついつい飲みすぎてしまうため、なるべく買い置きしていないようにしているのだが結局はその自販機に走ってしまう。田舎の場合コンビニでさえ遠く、近くの商店も夕方にはしまってしまう為現実的に夜にお酒を購入しようと思ったら自販機しかないのが現実なのである。

 

世の中が「健全化」に向かう時代にこういった自販機は貴重であり今後も縮小していくであろう。自動販売機でお酒を買うということ自体がもはや現代では信じられない時代になっていっている。何もかも規制を推進し健全な物だけが推奨される現代が本当に正しい方向に向かっているかどうかはわからない。

こういった「健全化ファシズムの時代にお酒の自動販売機はもはや絶滅危惧種であり地方にしか現存していない。大阪の西条区やあいりん地区には残っているらしいが基本的に人目に付く場所からは隔離され始めている。今世の中は他人に厳しい時代になってきており、少しでも悪い物を全力で排除しようという傾向にある。こういった「魔女狩り」によってお酒の自動販売機もいつまで持つかわからないだろう。だんだんと面白い文化が、「健全化」を推進するクレーマーによって排除されていく時代が到来しようとしている。

 

芸能人もスキャンダルが起きればすぐにスポンサーにクレームが入れられその番組を降板させられる。「子供に見せられる健全な物」という大義名分があれば少しでも悪い物は簡単に排除できるのが現代である。

現状日本はお酒が好きな人が多く酒蔵メーカーも多いため、まだ酒類に関しては安泰だが、いずれはイスラム圏のように健全化を求める人々によって厳しい規制が課せられる時代が来るかもしれない。

今世の中で最も声が大きいのは「規制」「健全化」が好きな人々である。

何も悪いことはしない、そういう人々が済みやすい世の中になっている。良い事と言えば良いことなのだが、何かを遵守することだけが持てはやされるようになると当たり障りのない無難なトゲのないことしか生まれなくなるだろう。現にクレーマーに怯えたテレビは当たり障りのない事やクレームが入りにくい事しかしなくなり順調につまらなくなっている。深夜の全く車の通らない横断歩道でさえ信号待ちをしなければ厳しく糾弾されるディストピア管理社会が訪れようとしている。少しの違反や問題さえ許せない潔癖主義の時代がやってくるだろう

 

いずれこの田舎の寂れた自動販売機も引退させされ、日本から全滅させられるかもしれない。自分の人生の上手くいかない時期を支えてくれたこの寂れた自動販売機もいずれ過去のものとなり「ここに昔自動販売機があったんだよな」と懐古する日々がやってくるだろう。

この活気のない地方で唯一夜も稼働していた小さな酒販売所も歴史の遺物として消えていくに違いない。

 

こういった酒類自動販売機の面白いところが「夜の11時から朝の5時までは販売禁止」になっているところであり、こういった規制は海外と似ている部分がある。」実は日本で当たり前に24時間コンビニでお酒を買うことができるのは世界的に珍しく、海外では深夜のアルコール類販売を禁止しているところが多い。

こんな深夜に誰も出歩いていない田舎では治安の事を気にする必要もなく、お酒を飲んで夜中に暴れ出す元気のいい若者などいないが、海外ではアルコールが入ったことで問題を超す人々がまだ深刻な問題なのだろう。

 

まだこの自動販売機を作った時期はこの田舎にもお酒で騒ぐような若い世代がいたのかもしれないが、そんな規制さえ無意味なほどに今この地方は寂れている。おそらくこの町で夜中にお酒を自動販売機で買っているのは自分ぐらいであろう。

酒類自動販売機自体が世の中から排除され、かろうじて残っている地方にはもはやお酒で騒ぐ人すらいない。

そんな寂れた小さな町で今日も自分はコインを投じてお酒を買った。またきっと明日も買うだろう、何もないこの町の夜には寂れた自販機でさえ心の友人なのだから。

「君はいつまで僕にお酒を売ってくれるんだろうね」と心の中で呟きながらこの古い自動販売機に通い続ける。そんな日々がいつまで持つかはきっと神のみぞ知ることなのだろう。

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「差別が怖いから海外に行かない」というのはもったいない

よく日本人が海外に行きたがらない理由として「差別が怖いから行かない」という言葉を聞く。日本人の海外への感情は複雑であり憧憬と恐怖が入り混じっている。

華やかな憧れの場所であると同時に、怖い場所だというイメージも強く実際に日本の基準で考えると危険な目に合ったり嫌な目に合う事は多い。

 

実際海外に行けば黄色人種の日本人が差別に合う地域は存在する。

"名誉白人"の幻想はそこには存在せずアジア人はやはりアジア人として扱われる。

海外サッカー選手の話などを聞いてもヨーロッパでは依然として差別や偏見が存在しているというエピソードは多い。

更に南米のカトリック国に行くとヨーロッパより更に前時代的な考え方が根付いており、レイシズムの問題は今も存在する。

 

しかしこれらの問題を理由にして海外に行かないというのは後ろの向きの考えのようにも映る。過度に海外を礼賛する必要はないが、恐れすぎる必要もなく海外で嫌な目に合ったことは無いという人も多い。

日本にも素晴らしい物は多いが、海外にもやはり良い物はある。

そのいいものを消極的な理由で知らずに終わってしまうのはもったいないのではないだろうか。

 

そもそも日本でも差別はあり、良いものに囲まれた理想の国ではない。

「人種差別」以外の差別も当然存在して、日本人が日本人を差別することはある。

海外における差別が人種によって扱いが変わるという事を意味するのであれば、それは日本でも同じだ。

日本人も相手によって態度変えることは日常茶飯事であり、これもまた差別の一種だ。

 

例えば自分の場合メガネをかけて冴えない姿で買い物する時と、コンタクトに変えて髪型や服装を整えて買い物する時では女性店員の態度が明らかに違う。見た目によってこんなにも扱いに違いがあるのかという事を思い知らされた。

街ですれ違う女性の態度も容姿の違いがそのまま態度の違いに直結するわけで、日本でも差別と認識されないだけで実質的な差別は存在するのである。

「差別」だと意識していないから自由に差別をし放題なのが日本という環境でもある。

人種で差別をしてはいけないが、見た目や雰囲気、性別では自由に差別をしてよい、それが日本という国でもある。

日本は隠れた差別大国であり、人種の多様性が少ないがゆえに日本人の中で差をつけあうことが多い。

差別とは必ずしも人種差別だけではない。

そしてそれが問題視されていない時、人間は堂々と差別行為を行うのだ。日本人も差別をするという意味では外国人と変わらない。

 

見た目が違うだけで人として扱われるか、それ以下のものとして扱われるか、そんなものは日本でもありふれたことなのだ。

そしてこれはむしろ女性側の方が強く感じているかもしれない。

女性の場合メイクやファッション、髪型で印象が大きく変わる。女性側もメイクをしているときとしていない時で男性店員や世の男性の扱いが大きく変わることを経験しているのではないだろうか。

 

人によって態度を変えるなんてことは日本人も日本で当たり前にしていることであって、海外に行くと「人種差別なのではないか」と敏感になるだけで日本でも実質的な差別は横行しているのである。

感覚が麻痺しているだけで日本でも日常的に差別は横行しているのが現状だ。

海外に行けば自分が日本人であることやアウトサイダーであることを意識して、自分に対する扱いに敏感になるため差別だと感じやすいが同様の事は日本でも当たり前に行われている。

 

タブーを言えば日本人も差別的な民族であり、日常的な差別は平然と行っている。

それが差別だと問題視されないだけであり、マウントを取る理由が人種なのかそうでないかの違いしか存在しない。結局相手の見た目や雰囲気でマウントを取るという意味じゃ日本人も外国人同様に差別をしているのである。

相手によって態度を変えるというのは人種や国を問わず人間の本能なのだろう。

それは当たり前のことだと割り切って海外を楽しんだほうが、日本にはない面白い物にも出会える。例え海外で自分に対する扱いが少し違うなと思ったとしても、それは日本でも良くある事だと考えれば特に気にならなくなる。

 

むしろ日本だと日本人同士のわずかな違いが気になるが、海外に行けばある意味全員アジア人として平等になる。却って海外の方が日本で微差に一喜一憂するよりも過ごしやすいのではないか。アジア人の中で更に日本人という区分をしてその中で小さな差をつけ合うことも、海外に行けばどうでもいい小さなことに感じる。

日本人から見たときに黒人が全員黒人に見えるのと同じで、非黄色人種からすればアジア人はどれだけ懸命に差をつけ合おうとしても同じなのである。

 

微細な扱いの差に腹を立てるよりも結局人間は人によって扱いを変える生き物なのだと考えたほうが精神衛生上も良い。

それを言えば自分も人によって扱いを変える場面があるはずだ。

誰かの差別を批判できるのは自分が一切差別をしていない時だけである。

そう考えれば差別を理由に海外を恐れることは凄く小さなことに思えてこないだろうか。

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ポケモン新作ウルトラサン&ウルトラムーンの発売が決定

昨日ポケモンの新作発表があり3DSの新作としてウルトラサンとウルトラムーンが発売されることが決まった。発表前からポケモンファンの間でいろいろ考察されていたためサンムーンのマイナーチェンジ版もある程度予想されていたことでもある。

個人的には赤緑リメイクなのではないかと思っていたけども、BWに対するBW2方式での発売が決まった。前作に「ウルトラ」とだけつけた名称は何ともポケモンらしい。

 

現時点でこの発表についていくつかの感想がある。

1:もうゲームフリークはXYの続編を作る気がない

2:マイナーチェンジ版すら2作出すのがデフォになりそう

3:新しい伝説ポケモンがロボットっぽい

 

まず今回のことでもうXYのリメイクや続編は無いということがはっきりした。もうXYですら4年前の話で同じ3DSでもXYとサンムーンではかなりグラフィックに差がある。だから今更3DSでXYの続編を3DSで出してもかなり違和感があるというのが続編を作りにくい理由なのかもしれない。

XYはまだ作中で描けていない謎も多く続編が期待されていたが仮に続編が出るとすれば次世代ハードでの発売になるだろう。

あとはサンムーンがかなり国際的にヒットしたこともあってサンムーンのマイナーチェンジ版の方が利益が上げられるという考えもあるのかもしれない。

 

次に思うのがこれからマイナーチェンジ版は金銀に対するクリスタルやルビーサファイアに対するエメラルドのように3番目のソフトではなることはもうないだろうなという事。今後BWに対するBW2形式のようになっていくのが恒例になっていくのかもしれない。

ゲーフリはマイナーチェンジ版も2作出したほうが売り上げが大きくなることに気付いたのだろう。個人的にはクリスタルやエメラルドのような形式が好きだったため少し残念な部分はあるが、続編形式の方がストーリーも大幅に補足される為これはこれでありかもしれない。

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そして新しい伝説ポケモンソルガレオルナアーラらしきポケモンがかなりロボットっぽいという事。

見ての通り、ポケモンというよりもうビーストウォーズゾイドに出てきても違和感がないほどメカメカしいデザインになっている。

ウルトラビーストが登場したりジムが廃止されたりとだんだんポケモンらしくなくなっているけども、今回の伝説はもはや何かのロボットのようにさえ見える。ウルトラビーストか何かの影響で変化したのか「ウルトラビースト化したポケモン」なのかもしれない。

www.pixiv.net

そして思ったのが過去に自分がや描いていたようなメガシンカに似ているという事。こういうロボットっぽいポケモンを見て過去の自分が考えていたオリポケが懐かしくなった。むしろ自分は時代を先取りしていた!?(錯乱)と思う程、デザイン的にはむしろ自分好みで結構かっこいいとは思う。

 

過去の伝説もこういう感じでロボットっぽくしたら面白そうだし、伝説の進化や変化で言えばゲンシカイキしたカイオーガグラードンレックウザもかっこよかった。今後はポケモンの中でこういった伝説のフォルムチェンジのようなものはトレンドになっていくのかもしれない。

子供視点で見れば伝説の姿が新しくなることはワクワクするし、ストーリーとしても新しく展開できる。ポケモンが変わっていくことには賛否両論が常にあるけど、時代に合わせていかなければ古くなっていくし毎回大胆なことをするポケモンはなんだかんだで面白い。

誰もが「これはポケモンじゃない」と最初は思いながらも結局慣れていくのがポケモンの伝統でもある。ウルトラビーストも結局受け入れられたしきっと1年後には何の違和感も感じなくなっているだろう。変化することがポケモン最大の伝統なのかもしれない。

オリジナルキャラクターを描く楽しみとは

キャラクターの絵を描くことが好きな人はほとんどの人が一度はオリジナルキャラクターを描いたことがあるのではないだろうか。

オリキャラを描くことは楽しく、創作の中でも人気が高いジャンルの一つだ。

自分でデザインしたり設定したりして楽しむことができるのが特徴でもある。

 

イラスト投稿サイトなどでも数多くのオリキャラが投稿されており多くの愛好者がいる。自分もまたその一人でむしろオリジナル物しか描けないというぐらいにオリキャラばかり描いている。

そんなオリキャラの楽しみや利点はいくつかにわけられる。

1:見本を見ずに描ける

2:自分が原作者になれる

3:自分の画風通りに描ける

4:誰にも気を使う必要が無い

5:自分のキャラには愛着を持ちやすい

 

まず1つ目の理由として見本を見ずに描けるという点がある。これは楽であると同時に、とてもやりがいがある事でもある。

通常既存のキャラクターを描く場合はよほど描きなれた場合を除いて見本を見なければ描くことができない。実は絵を描く上で見本を描きながら丁寧に書いていくのは結構手間がかかる事であり、どこでもいつでも想像さえすれば描くことができるオリキャラとは異なる。

自分が好きなアレンジをして書くことができる上に、創作をしていくというやりがいもある。

 

次に2つ目の利点として原作者になれることがある。オリキャラ最大の楽しみは自分が作ったという満足感を得られることであり、たいていの場合自分しか描いていないので自動的に自分がそのキャラでは一番上手いという状態になることができる。

例えば既存のキャラクターを描いた場合同じキャラを描いている人は無数におり、その中では埋もれてしまったり他の上手い人に引け目を感じることもある。

オリキャラは下手な場合でも自分しか書いていないのでその絵が一番上手いということになるのだ。つまり絵があまり上手でない人ほど実はオリキャラを描いたほうがいい。むしろオリキャラを描くことで画力をつけるという考え方もできる。

 

その理由と関連して来るのが3つ目の自分の画風通りに描けると言う事である。

基本的に絵を描いている人というのは自分の画風を確立していることが多く、逆に言えばその画風でしか描けない場合も存在する。そしてこのような場合どうしても既成のキャラクターを描いてしまうとどこかに違和感がある。

これがオリキャラを描いている人同士でお互いのキャラを描きあうのであれば、それぞれの画風にアレンジされた自分のキャラクターを楽しめるのだが、公式の人気キャラクターを自分の画風にするとどうしてもこれじゃない感がある。

余程人気の作風や画風を確立している人でなければ既成のキャラクターを自分のやり方で描いてもあまり良い絵にはならないだろう。逆にオリキャラは自分の画風がまさに元祖オリジナルであるためどれだけ自由に書いても問題ない。

 

そしてそれがまさに4つ目の理由の誰にも気を使う必要が無いという事である。

既成のキャラクターは少しアレンジを効かせて描いてしまうと、そのキャラを求めている人が時として「このキャラはこんな感じではない」と言ってくるかもしれない。実際にはそのような人はそれほど多くはないが、やはりイラスト投稿サイトのような場所では多少気を使ってしまうのも事実だ。

「このキャラをこれだけアレンジして大丈夫だろうか」と余計に考えてしまったり自重してしまったりする場合もある。

しかしオリキャラはまさに自分がどれだけ自由にしても良い存在であり、余計な気を使うことなく自由気ままに描くことができる。

 

最後に5つ目の理由だが結局のところ自分のオリキャラはどんなキャラクターよりも愛着を持ちやすいのが大きなメリットだ。

アニメや漫画に情熱を無くした場合でもなぜかオリキャラだけは好きだったりするし、数年たっても「そういえばこんなキャラを描いたな」と懐かしくなることがある。

流行のキャラクターをその時描いたところで結局そのアニメや漫画が時代遅れになれば何も残らないが、オリキャラはいつまでも自分だけは楽しむことができる。案外創作というのはこういうことが大事であり、一部の上手い人を除いて末端の絵師はこういったオリキャラに楽しみを見出したほうが結局は満足しやすい。

究極言えば自分が楽しいことが一番であり、どんなことがあっても唯一飽きることが無いのはもしかしたらオリキャラなのかもしれない。

ある意味流行り廃りとは関係ない特別枠が自分のオリジナルキャラクターなのかもしれない。

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日本人にとって中国語は本当に必要なスキルか?

中国語という言語は世界で最も話者が多い言語の一つだと言われている。中国語が使えれば人口14億の中国人を話せるようになり、世界中の華僑と親密な関係を築くきっかけになるだろう。

これから中国語の話者は更に右肩上がりで増え続け世界に対する影響力は拡大するはずだ。

更に言えば中華人民共和国や台湾など日本の隣国としても中国語圏は存在し、彼らとの関係はこれからより重要になるだろう。シンガポールやマレーシア、インドネシアにも華僑は多く存在する。

英語やスペイン語、フランス語よりよほど身近に通じる人々がいるのが中国語である。更に言えば中国は英語が通じる人がそれほど多くなく、これから可能性にあふれる中国語で何かをやりたいならば中国語が必要となるだろう。

 

しかし自分はこのような状況でも中国語を勉強しようと思ったことは無い。

それがまさに「中国語は日本人にとって必要なスキルなのか」というテーマである。

なぜ自分が中国語を勉強しないかというと、まず最大の理由は日本人が中国語を使えるという事にそれほど需要が存在しない事が要因になる。

現実的なビジネスツールとして考えたとき、わざわざ中国語を勉強するぐらいであれば英語を極めたほうがよほど有効である。何が効率が良いかという実利主義の見地で言えば素直に英語を勉強すること以上の利益は見込めない。

中国文化にも詳しく中国や中国人が好きで、中国で独自にビジネスルートを開拓して行ったり中国企業で働くことを目指すほどの親中的な野心家ならば中国語は有効なツールとなるだろう。

 

また中国語は「とりあえず使えたら役に立ちそう」という軽い動機で習得できる程簡単な言語ではない。基本的な事実として中国語の習得は日本人にとって非常に難しく、発音が最も大変なことだと言われている。そして漢字もそれほど共通ではなく同じ漢字を使っているから勉強しやすいというのは幻想に近い。

まだフランス語やスペイン語のほうが英語を勉強した経験が生きると言っていいだろう。実際自分はスペイン語を勉強中だが、英語の勉強経験が非常に役立っている。「漢字ができるから中国語を勉強する」という動機ならば「英語ができるからフランス語やスペイン語を勉強する」という事の方がよほど簡単である。

 

更に言えば中国人とのコミュニケーションにおいては「日本語ができる中国人を雇ったほうが良い」という基本的な事実が存在する。日本語がハイレベルでできる中国人は大勢存在し、わざわざ日本人が難しい中国語を懸命に習得しなくても中国人の通訳を雇ったほうが結局時間と予算の節約になる。

 

ただこれは現時点での話であり、もしかしたらこの状況は変化するかもしれない。

例えば今の日本社会の状況を見ていると、将来的に日本人が中国に出稼ぎに働きに出なければならない時代がやってくるのではないかとも思わせられる。

日本で働くよりも、中国語を使って現地で働いたほうが裕福な暮らしができ、高額な報酬が得られる時代が来るかもしれない。まるで少し前まで中国人が日本で働いたほうが母国より良い暮らしができていたように、今後は日本人が経済的な理由で中国を選ぶ時代になるのではないか。

仮に中国がアメリカのレベルに比類する存在になればわざわざ遠いアメリカに行かずとも、近場の中国にアメリカ並みの働き場所がある時代が来るかもしれない。

今後の中国の発展や日本の衰退によっては現代の考え方は変わるかもしれない。

言語というのは力を持っている国の言語が支配的になるのが歴史の常であり、これから中国語の重要度が上がることはあっても下がることは無いだろう。

いつまでも「日本語の出来る中国人がいるから問題ない」と胡坐をかいていられる時代が続くとは限らない。

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もう日本に一生い続けるだけでは人生の先行きが見通せない時代になり、日本に最も近い大国である中国はメジャーな行先になるかもしれない。

今の所中国人の方が日本語を重視しているが、その内立場が逆転し日本人が中国語を重視しなければならない時代が来るのではないか。

中国自体が徐々に発展し日本人も暮らしやすくなっており、東京や大阪レベルの都市がいくつも存在するほど発展してきている。華やかな暮らしはもしかしたら中国にあるかもしれない。更に意外なことに中国人は親日派が多く、比率ではなく人口で換算した場合で言えば実は世界一の親日大国でもある。日本文化最大の理解者でもあり、日本語を学びたいと思っている中国人は多い。

「ネイティブな日本語を中国人向けに教えることが得意な日本人」というのは実はもっと潜在的な需要があるのではないか。ネイティブな日本語を教えたいと考えている中国人のエリート家庭はもしかしたら専属の家庭教師を雇いたいと思っているかもしれない。本物の日本語を学びたい中国人にとっては「日本語ができる中国人」よりも「ネイティブ日本人」の方が良いのではないか。

そういった独自のルートを探していけば中国というのは大きな可能性があるだろう。

 

とにかく中国語を取り巻く環境は日々刻々と変化しており、今日正しかったことが明日も正しいとは限らない。常に定説は変化する可能性がある。

はたして中国語を日本人が学ぶ価値はあるのか、その答えは今も明確ではない。

中国語に関する動向はこれから日本人が真剣に議論していかなければならないテーマだろう。もはや中国に関する問題は他人事ではない。

世界最大級の大国や言語が間近くに存在することは紛れもない事実であるのだから。

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今ゆとり世代の負け組が増えている

自分はしばらくの間都会という程でもないが、育った場所に比べれば物にあふれた場所に住んでいた。その生活を終えて久しぶりに田舎に戻ってきたのがこの1年の出来事であるが、帰ってきてやはり差という物を感じることは多い。

田舎と言っても県庁所在地の中心部はそれなりに発展しているが、交通網が整備されておらず自動車が必須と呼ばれる地域にまでやってくるとどうしてもその差を実感せずにはいられない。

 

特に思うのが自分と同世代のゆとり世代の惨状であり、時給の安いバイトや職業でその日暮らしをしている人を良く見かける。

例えばかつて久しぶりに自分の中で懐かしの業務センターに行ったときに学生時代に一つ下の後輩と再会したのだが、彼はその業務用スーパーで働いておりとにかくレジ打ちに奔走している。

高校時代からバイトをしており、卒業後も正社員としてそこに内定したらしいのだが「一生田舎の片隅でレジ打ちをするだけの人生なのか」と言葉は悪いが思ってしまう自分がいた。何の浮上の見込みもない人生の中でただひたすらにレジを打ち続ける人生が待っている。

 

しかも彼と別の場所であった時人生について話したのだが、なんとパチをやっているらしい。娯楽の少ない田舎ではパチが唯一刺激となる物なのだろう。ちなみにトータルではマイナスであり、これが田舎の若者のリアルな実態なのかと思わせられた。

職にあぶれバイトで貯めた貯金を切り崩し、酒に溺れているだけの自分が彼のことを批判することは本当はやってはいけない事なのだろう。

その後輩ですら自分よりよほどまともに人生を生きており、世の中の一員として活躍している。レジ打ちも誰かが必要としていることであり、本当に誰からも必要とされず何もしていない自分よりはまともな人間である。

駄文をネットに投稿しているだけの人間よりレジ打ちの方がよほど世の中の役に立っているだろう。

 

しかしこれでいいのか、彼よ本当にそれでいいのか。

人生を説教する立場にないことは承知だが、田舎の片隅でレジを打ちつづけるためだけに生まれてきたわけではないだろう。生活のためには仕方ないことなのだが、田舎というのは惰性で仕方なくこういった仕事を選びただ生きているだけの人が多いのである。

近所のコンビニでも同世代の人がひたすらコンビニ打ちをやっている。

田舎に戻ってきて自分も正直先行きは見えない。このまま何もしなければ彼らと同じ立場になるだろう。もう目標や夢を持つ事すらやめてただ機械のように働く人生がやってくる。

田舎に生まれ育ち大卒の肩書を持つ事に失敗すれば、誰でもやれる仕事しか残っていない。彼らはキャリアアップの事すら考えていないし、もう県外に出ることも考えていないのだろう。少なくともそう考えているようには見えない。

 

そして最大の皮肉は自分が彼ら以下の存在だという事である。

彼らを馬鹿にできる立場ではなく、むしろ彼らに見下される立場にあることは重々承知だ。しかし自分もまた彼らを心の安心材料にしているのかもしれない。

「少なくとも俺はこいつらより考えてるし現状に満足していない。この貧しい現状に満足し何も考えずその底辺に慣れてる奴らよりはマシだ。」

そう言い聞かせている醜い嫌な性格をした自分がいる。

その「並の人間」にすらなることができない人間が、壮大に夢を語る資格などないだろう。しかしそんなところからコツコツ地味にやり直すことにも希望を見いだせず「並の人間になるために生まれてきたわけではない」と人生に言い訳をしている。

「俺が活躍できない人生というゲームはクソゲーだ」

それが自分の本音なのだろう。

かといって今更社会から落ちこぼれた人間、それもゆとり世代のような弱い世代が今更この社会にどう立ち向かっていけばいいのだろうか。そしてこの社会でいくら頑張っても将来的に訪れるのは絶望的な少子高齢化であり、人口の3分の1が高齢者の時代に誰が明るい未来を想像できるというのだろうか。

文句を言う事しかできないというのが自分の実態である。

 

若者の貧困が叫ばれてから久しい。

この社会の若者は一体どのように社会に入っていけばいいのか、どのように這い上がっていけばいいのか。日々の底辺生活の中で先行きは見えてこない。やる事なす事上手くいかず、今やってることも頭打ち感がある。

そんな失敗続きの人間がどう明るい未来を想像すればいい。

負け組であり社会の底辺であり、惨めなゆとりの典型的が自分なだろう。

一度負けた人間や落ちぶれた人間はなかなか這い上がることができない。

ドロップアウトした人間には厳しい現実がある。何をやっても評価されず、チャレンジがことごとく失敗する。社会自体も上向きではなくどんどんと盛り下がっていく時代に放り込まれる。

 

周りを見渡しても同世代が何の希望もない生活を送っている。

彼らはこの国が将来どうなるのか理解しているのだろうか、それとも知らされていないのだろうか。

過疎化が進み、絶望的な少子高齢化へのカウントダウンが始まった現代においてなぜ当たり前に普通の仕事を普通にやれているのだろうか。そのエネルギーはどこから来るのだろうか。

自分が悲観的に考えすぎているのか、彼らがあまりにも何も考えて無さすぎるのか。

今の若者にとってこの社会は夢や野心を持たない方が生きやすい。

「最近のゆとりは夢を持たない」と批判されるが夢を持たない方が生きやすいのである。

自分のように中途半端に夢や人生の意味、自分の価値を考えてしまうような人は思い悩んでしまうのだろう。所詮自分は世の中のパーツに過ぎない、そう考え負け組でもいいと受け入れる人の方が生きやすい。

いや負け組でいいというよりも、特に田舎では自分が負け組だと実感する機会が少なく、それでみんなゆったりと生きている。

都会にいるときはそんなゆったりペースの人生も良いと思えたが、いざ戻ってくるとやはりその虚しさを実感する。

自分は一生を業務用スーパーで過ごすことが内定しているあの後輩のようになりたくない。

 

また自分の身内にも社会で底辺として扱われている職業で働いている人がいる。

職業差別は悪いことだが、そういった仕事を悪い条件で受け入れている人もまたこの歪な体制の擁護者である。

年金を真面目に払う人間がいるからこの制度が廃止されないのと同じで、劣悪な仕事を文句も言わずやり続けるから支配者側が有利になってしまう。

俺はこの社会に働かないという抵抗している。

「こんな社会も国も捨ててやる」という若者が増えたほうが結局この社会は変わるのではないだろうか。

奴隷もこの腐敗した支配者側の仲間である。

なぜ日本の若者やゆとり世代はこの停滞感に疑問を感じないのだろうか。

若者の貧困問題について叫んでいるのは一部だけであり大部分は仕方ないと半ばあきらめにも似た感情でこの停滞を受け入れており、終いには慣れてしまう。そして緩やかに日本社会は傾いていく、その社会が倒壊したとき自分の人生も同時に倒壊する。

そのことに気付かない人々が大勢いる、そして彼らもまた停滞の要因の一つなのである。停滞が停滞を作り新たな停滞を呼ぶ。今日本社会は停滞の悪循環に陥っている。

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