負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

外国語の習得は一朝一夕に可能なものではない

外国語の習得というのはひたすら地道な作業によって積み重ねられるものであり速効性を求めてはいけない。継続は力なりという言葉がまさにあてはまる物であり、例えば植物の成長や人間の身長などもすぐに伸びるものではない。

薄皮を一枚一枚はいでいく作業と例えている人もいたがすぐに伸びたと実感できるものではないのである。ゲームのように点数がたまっていく物でもないし、実力がたまったところで使わなければ失われていくのが外国語であり、そもそも日常のいろんな能力についても同じことが言える。

基本的に一部の天才を除いて人間というのは簡単に成長しない生き物なのである。

ある意味成長していないという停滞感と戦い続けることが最も重要であり、むしろ成長してないと思っているときほど成長しているのが言葉の能力だ。

 

そもそも母国語の日本語の習得だって赤ん坊のころから日本語付の環境でやっと数年かけて覚えたのである。1歳の頃日本語がペラペラ話せただろうか。3歳ぐらいの頃にようやく話せてそれも始まりでしかなく読み書きや基本的な会話をしっかりできるようになるのは小学校に入ってからである。

「赤ちゃんの頃に覚えたから習得できたけど、今はその能力は無い」という人がいるがまず赤ちゃんの頃もそれほど簡単に習得できたわけではないし親や親戚、友達、そしてテレビや絵本など超日本語漬けの環境が自然と形成されておりそこで育ったのである。

大人になってから赤ちゃんのようには覚えられないという人がいるが、まず外国語に対して赤ちゃんの頃のような環境を作れていないし絶対的に学習量が足りないのである。

 

まるで子供のころは特殊な能力があったかのようにいうが実際問題子供の頃の母国語はとにかく大量に言葉に触れていたから身に付いた物であり、特殊な能力があったわけではない。多少脳のやわらかさや吸収能力の速さがあったことは事実だがまずは大前提として自然に得られた圧倒的な学習量が土台になっているのだ。

 

大人になってからなかなか外国語が習得できないという局面に出くわすが実際の所才能の問題ではなくその言葉に触れる量や時間が圧倒的に足りていないだけなのだ。

子供の頃には特殊なやりかたで身に付いた、子供の頃には魔法の能力があったかのように語る人がいるがまずあの頃にも大前提として圧倒的な学習量があった。

友達と会話すること、テレビを見る事、親や兄弟と会話すること、そのすべてが超エリート教育だったのである。その毎日の小さな積み重ねによって母国語の能力は身についている。

母国語も決して簡単に見についたわけではなく量、時間、失敗、実践により支えられている。自覚は無いが子供のころは物凄く多くの練習をして失敗して苦労して覚えたのである。

 

それと同じで大人になってから外国語を習得しようと思えば当然ながら時間も必要だし、何度も失敗して大量に練習しなければならない。一朝一夕に身につくものではなく地道に積み重ねるのが語学力である。

明確な指標は無く進歩はわかりにくい。検定で点数が上がったからと言って実力が明確に上がったかと言えばそう単純ではないのも語学だ。

TOEICで高得点を取ったり、辞書を丸ごと覚えたり、難しい論文を読めるようになったりしている人がいざネイティブのラジオやテレビ番組を見たときさっぱりわからないというケースに出くわすこともある。

言葉の勉強とは何か一種類をやればいい物でもなく、様々な物の連関によって構成されている。

何か一つのことを極めれば習得できるほど単純ではなく、そしてすぐに進歩する物でもない。

 

しかし途方もないと諦めていては一生習得できない。

明日、明後日、数か月後すぐに習得できるわけではないがいずれにせよ確かなことが一つある。それはどんな言語も始める日は今日が一番早い日だという事である。

学ぼうと思ってる言葉があるならば「いつか暇ができたら」と思うのではなく、今日から学ぶべきだろう。今までの中で今日は最も古い日だが、これからの中では今日が最も新しい日である。

それにどれだけ時間がかかる物であっても、近いうちにすぐ結果を出す必要はないのだ。時間がかかる物なのだから時間がかかってもいい。赤ちゃんだって1歳で言葉が流暢に話せたらそれはむしろ怖い。

今まで勉強したことがない外国語なら1年勉強しても、1歳の赤ちゃんぐらいしか話せなくても何の問題もないのである。外国語の学習は数年単位のものであり、新しい外国語に対する今の自分の年齢は0歳である。

子供の頃のように時間をかけてじっくり成長していけばいいのだ。1年で話せる天才にならなくてもいい、それが外国語のである。