負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

今ゆとり世代の負け組が増えている

自分はしばらくの間都会という程でもないが、育った場所に比べれば物にあふれた場所に住んでいた。その生活を終えて久しぶりに田舎に戻ってきたのがこの1年の出来事であるが、帰ってきてやはり差という物を感じることは多い。

田舎と言っても県庁所在地の中心部はそれなりに発展しているが、交通網が整備されておらず自動車が必須と呼ばれる地域にまでやってくるとどうしてもその差を実感せずにはいられない。

 

特に思うのが自分と同世代のゆとり世代の惨状であり、時給の安いバイトや職業でその日暮らしをしている人を良く見かける。

例えばかつて久しぶりに自分の中で懐かしの業務センターに行ったときに学生時代に一つ下の後輩と再会したのだが、彼はその業務用スーパーで働いておりとにかくレジ打ちに奔走している。

高校時代からバイトをしており、卒業後も正社員としてそこに内定したらしいのだが「一生田舎の片隅でレジ打ちをするだけの人生なのか」と言葉は悪いが思ってしまう自分がいた。何の浮上の見込みもない人生の中でただひたすらにレジを打ち続ける人生が待っている。

 

しかも彼と別の場所であった時人生について話したのだが、なんとパチをやっているらしい。娯楽の少ない田舎ではパチが唯一刺激となる物なのだろう。ちなみにトータルではマイナスであり、これが田舎の若者のリアルな実態なのかと思わせられた。

職にあぶれバイトで貯めた貯金を切り崩し、酒に溺れているだけの自分が彼のことを批判することは本当はやってはいけない事なのだろう。

その後輩ですら自分よりよほどまともに人生を生きており、世の中の一員として活躍している。レジ打ちも誰かが必要としていることであり、本当に誰からも必要とされず何もしていない自分よりはまともな人間である。

駄文をネットに投稿しているだけの人間よりレジ打ちの方がよほど世の中の役に立っているだろう。

 

しかしこれでいいのか、彼よ本当にそれでいいのか。

人生を説教する立場にないことは承知だが、田舎の片隅でレジを打ちつづけるためだけに生まれてきたわけではないだろう。生活のためには仕方ないことなのだが、田舎というのは惰性で仕方なくこういった仕事を選びただ生きているだけの人が多いのである。

近所のコンビニでも同世代の人がひたすらコンビニ打ちをやっている。

田舎に戻ってきて自分も正直先行きは見えない。このまま何もしなければ彼らと同じ立場になるだろう。もう目標や夢を持つ事すらやめてただ機械のように働く人生がやってくる。

田舎に生まれ育ち大卒の肩書を持つ事に失敗すれば、誰でもやれる仕事しか残っていない。彼らはキャリアアップの事すら考えていないし、もう県外に出ることも考えていないのだろう。少なくともそう考えているようには見えない。

 

そして最大の皮肉は自分が彼ら以下の存在だという事である。

彼らを馬鹿にできる立場ではなく、むしろ彼らに見下される立場にあることは重々承知だ。しかし自分もまた彼らを心の安心材料にしているのかもしれない。

「少なくとも俺はこいつらより考えてるし現状に満足していない。この貧しい現状に満足し何も考えずその底辺に慣れてる奴らよりはマシだ。」

そう言い聞かせている醜い嫌な性格をした自分がいる。

その「並の人間」にすらなることができない人間が、壮大に夢を語る資格などないだろう。しかしそんなところからコツコツ地味にやり直すことにも希望を見いだせず「並の人間になるために生まれてきたわけではない」と人生に言い訳をしている。

「俺が活躍できない人生というゲームはクソゲーだ」

それが自分の本音なのだろう。

かといって今更社会から落ちこぼれた人間、それもゆとり世代のような弱い世代が今更この社会にどう立ち向かっていけばいいのだろうか。そしてこの社会でいくら頑張っても将来的に訪れるのは絶望的な少子高齢化であり、人口の3分の1が高齢者の時代に誰が明るい未来を想像できるというのだろうか。

文句を言う事しかできないというのが自分の実態である。

 

若者の貧困が叫ばれてから久しい。

この社会の若者は一体どのように社会に入っていけばいいのか、どのように這い上がっていけばいいのか。日々の底辺生活の中で先行きは見えてこない。やる事なす事上手くいかず、今やってることも頭打ち感がある。

そんな失敗続きの人間がどう明るい未来を想像すればいい。

負け組であり社会の底辺であり、惨めなゆとりの典型的が自分なだろう。

一度負けた人間や落ちぶれた人間はなかなか這い上がることができない。

ドロップアウトした人間には厳しい現実がある。何をやっても評価されず、チャレンジがことごとく失敗する。社会自体も上向きではなくどんどんと盛り下がっていく時代に放り込まれる。

 

周りを見渡しても同世代が何の希望もない生活を送っている。

彼らはこの国が将来どうなるのか理解しているのだろうか、それとも知らされていないのだろうか。

過疎化が進み、絶望的な少子高齢化へのカウントダウンが始まった現代においてなぜ当たり前に普通の仕事を普通にやれているのだろうか。そのエネルギーはどこから来るのだろうか。

自分が悲観的に考えすぎているのか、彼らがあまりにも何も考えて無さすぎるのか。

今の若者にとってこの社会は夢や野心を持たない方が生きやすい。

「最近のゆとりは夢を持たない」と批判されるが夢を持たない方が生きやすいのである。

自分のように中途半端に夢や人生の意味、自分の価値を考えてしまうような人は思い悩んでしまうのだろう。所詮自分は世の中のパーツに過ぎない、そう考え負け組でもいいと受け入れる人の方が生きやすい。

いや負け組でいいというよりも、特に田舎では自分が負け組だと実感する機会が少なく、それでみんなゆったりと生きている。

都会にいるときはそんなゆったりペースの人生も良いと思えたが、いざ戻ってくるとやはりその虚しさを実感する。

自分は一生を業務用スーパーで過ごすことが内定しているあの後輩のようになりたくない。

 

また自分の身内にも社会で底辺として扱われている職業で働いている人がいる。

職業差別は悪いことだが、そういった仕事を悪い条件で受け入れている人もまたこの歪な体制の擁護者である。

年金を真面目に払う人間がいるからこの制度が廃止されないのと同じで、劣悪な仕事を文句も言わずやり続けるから支配者側が有利になってしまう。

俺はこの社会に働かないという抵抗している。

「こんな社会も国も捨ててやる」という若者が増えたほうが結局この社会は変わるのではないだろうか。

奴隷もこの腐敗した支配者側の仲間である。

なぜ日本の若者やゆとり世代はこの停滞感に疑問を感じないのだろうか。

若者の貧困問題について叫んでいるのは一部だけであり大部分は仕方ないと半ばあきらめにも似た感情でこの停滞を受け入れており、終いには慣れてしまう。そして緩やかに日本社会は傾いていく、その社会が倒壊したとき自分の人生も同時に倒壊する。

そのことに気付かない人々が大勢いる、そして彼らもまた停滞の要因の一つなのである。停滞が停滞を作り新たな停滞を呼ぶ。今日本社会は停滞の悪循環に陥っている。

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