負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

悲報:高梨沙羅ちゃん、成功して人が変わる

何かに成功して成り上がり人が変わるという話は良く聞く話だ。

今最も日本の世の中で「この人変わったな」と感じさせるのがスキージャンプ選手の高梨沙羅選手だろう。

 

何よりもまず騒がれているのはその容姿の変化であり、本職のスキージャンプで結果が出ていない時に「化粧に熱中しすぎて本当の目標を見失っている」と言われることも多い。

実際問題、高梨沙羅が化粧に目覚めてからはまるで人が変わったようにあか抜けて行った。昔の天真爛漫な姿が好きだったというファンは多く、典型的な女子高生が大学デビューしたような姿に寂しさを感じる人は多い。

正直なところ自分自身も化粧にはまる前の普通の女の子のような雰囲気に親近感を覚えていたので、知っている女子が急にメイクに目覚めていて同窓会でめちゃくちゃ変わっていた時のような寂しさを感じないわけでもない。

なお同窓会にはいかなかった模様

 

もちろん女性は男性が考える以上そういったメイクやおしゃれが楽しいと感じる上に、それが時とし自分の趣味そのものになることもある。

例えばそれは男が筋トレにはまるようなものであり、一度はまりだすと他者の目線を気にせず自分の美学やこだわりに突き進んでしまうことと似ている。

 

それにメイクを覚えなければそれはそれで「公共の場で化粧もしないマナーの無い女性」と批判されるのも事実で、高梨沙羅もそういった年頃になったと言える。

化粧をあまりしていない女性アスリートと言えば卓球の石川佳純が存在するが、正直に言うと全盛期のようか可愛さは無くなっている。そしてそうなるぐらいならば多少なりともメイクをした方が良いと感じるのも事実だ。

 

よほど顔が整った美人でもなければ年齢には抗えない現実があり、メイクをしなければ劣化したと騒がれ、メイクをすればあか抜けてオシャレに目覚めた女子大生のようだと批判される。

どちらにしても女性アスリートというのは容姿に厳しい目線が向けられる運命にある。

 

ちなみに自分は女子サッカーの田中陽子という選手が好きなのだが、全盛期に比べれば確かに見る影もない。しかし自分はそれも大人になったという事で受け止めており、プレー自体が好きなので今もファンを続けている。それは同時に自分も年を取ったという事であり、美人アスリートの容姿が変われどもプレーを応援し続けるというファンでありたいとは思う。

 

容姿だけを応援するのであれば最初から女性アイドルを応援し続ければよい話であり、あくまで競技面でのプレーがあってこその女子アスリートである。

 

また高梨沙羅の容姿以外にもう一つ変化があるとするならば、それは金銭感覚にある。

なんと2000万円のベンツのSUVを所有しているらしく、本人は車の雑誌で「好きな物に囲まれている方がパフォーマンスがあがる」とも語っている。

 

メイクを覚えて金銭感覚も変わり、肝心のスキージャンプでの成績も下がり、あの頃の純真な高梨沙羅ちゃんはどこにいったのかという寂しさは当然ある。

しかしこれは甲子園球児が髪を丸めて坊主にして炎天下で過密日程の試合をしている姿に対して、理想の青春像を投影するかのような自分勝手な願望に過ぎないのだろう。

選手本人の意思を無視した自己満足の理想像を投影することに意味はあるのだろうかと考える。

 

「スポーツに懸命に打ち込む理想の爽やかな若者が存在していてほしい」という考えや嗜好を押し付けるような人にはなりたくないと自分は思う。

更に言えば、成功者がお金を使って裕福な生活をする事に反対するような社会というのは発展の見込みがない後ろ向きな世の中であろう。

 

成功しても謙虚であり慎ましくあるべきだという美徳は確かに美しいが、スポーツの世界に華やかな夢を感じさせる選手がいても良いのではないか。

野球やサッカーだけではなくスキージャンプの世界でも頑張れば20代前半でメルセデス・ベンツの高級車を運転できるし、思う存分にメイクをしてスター扱いされるということを高梨沙羅は示している。

卓球の水谷隼も卓球の世界の賞金をアピールし夢を伝えていた。

 

野球選手が「野球は儲かる」という下世話な話をすることは賞賛されるのに、なぜ女性アスリートには慎ましく謙虚な姿を求めるのか、そこに日本社会の矛盾を感じる。

サッカーの本田圭佑も子供たちに夢を与えるという理由で派手な装いをしてフェラーリで空港に到着するというパフォーマンスをしたことがあるが、今の閉塞感漂う日本社会に必要なのはこういった派手な人たちなのではないだろうか。

 

スポーツに限らず「スター不在」と言われるが今の世の中だ。

みんなで貧しくなろう、誰かが裕福なことは気に入らない、そういった後ろ向きな風潮になって来ているように感じずにはいられない。

自分は決して成功者ではないが、成功した人間が明るく振る舞うことには反対ではない。次なる成功者が生まれるためには、その前例となる先駆者が必要なのではないか。

謙虚さという美徳がこの社会をがんじがらめにしている、昨今の世の中を見ているとどうしてもそう感じてしまうしまう現実がある。