負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

今のアニメを劣化させた戦犯って「声優オタク」だよな

最近のアニメがなんでここまでつまらないかというと、最大の理由は「声優至上主義」になりすぎたせいなんですよ。ひろゆきから言わせれば「それあなたの感想ですよね」ということをこれから書いていきたい。

 

まず前提として少し前までの深夜アニメは声優にしろその声優ファンにしろ脇役で本当に好きな人だけが好きなコアな世界があった。どちらも出しゃばらずアニメは2次元の美しい世界だという幻想みたいなものがあった。

それが今はアニメは声優ありきで、声優がどんな人なのか見るのは当たり前でSNSで声優個人が情報を発信する時代である。そして新人声優が現れては消えて消耗品のように2,3年後は完全に消えている。

 

萌えアニメや深夜アニメを語ることにおいて声優の話題が必須になり、それまでアングラだった声優文化みたいなものがあまりにもメジャーになり過ぎた。昔のアニメオタクは「2次元じゃないと駄目、中の人などいない」という考え方だったのに、今の時代はアイドル感覚で声優を応援するのが当たり前の時代になった。

どれだけ二次元の声優でも背後には普通に三次元の声優がいることが当たり前になり、むしろ皆その話しかしなくなってる。もはや二次元という幻想世界など存在しなくなり、声優がメインコンテンツになったのである。

声優に興味はなくアニメの理想世界だけ見ていたいという人は主流ではなくなり、声優のレベルもあがったことで安心して声優を見れるようになった。また声優個人が声優業以外のこともやるようになり、もう今のオタクが声優コンテンツに流れるというトレンドは避けられない。

例えば着ぐるみをつかったショーやテーマパークで、着ぐるみの中の人が重要視されるようになったら幻想がなくなるのと一緒で、今のアニメって着ぐるみの中の人がいるのは大前提でその中の人が誰か、面白い人かというのを執拗に求める時代になってる。

 

声優至上主義が行き過ぎた結果二次元世界を夢見ることがオワコンになり、むしろ三次元声優を応援してアニメはおまけ要素になった。なんでもとにかく声優で肝心のアニメは副次的なものでしかない、結局二次元ではなくみんな三次元を求める時代になった。

それゆえにアニメのクオリティそのものが重視されなくなり、誰が声を当てているかやネットでその声優が話題になるかどうかが全てになった。

よくアニメやオタク文化が単なるコミュニケーションツールになったと言われるが、最近ではもはや声優という名のアイドルが活躍するためのおまけになってしまった。

 

「声優なのにかわいい」という時代から「可愛くなければ声優になれない」という時代になって、声優自体がちやほやされたアイドルになり格段にスキャンダルなども増えた。

昔は声優ファンの間でしか話題にされてなかったスキャンダルも、今は声優のスキャンダルがアニメキャラにダイレクトに影響する。それゆえにアニメキャラへの幻想は崩れ去り、アニメを真剣に作りこむ価値がなくなった。

陰に徹していた声優や声優ファンがでしゃばったことで、アニメキャラ=声優というぐらいに関連付けられてしまったのである。

 

決して昔も声優応援文化がなかったわけではないのだが、その頃に応援していたコアなファンにくらべて今は声優を応援することも声優になることも動機が軽い。

アニメ自体も劣化したし、声優応援文化自体も劣化した。

声優専門学校などでも似たような主人公アニメ声で、オタク受けする容姿の量産型アイドル声優が増えてとにかく目指す動機が軽くなった。そしてそこに群がるオタクも昔に比べて声優を応援することの動機が普通のアイドル応援と変わらなくなり浅いファンが集まるようになった。

声優たちは養成所で遊びまくっており、そこにオタクが幻想を夢見て親近感を感じているのだから滑稽である。こういう現実が昔のオタク文化に比べて伝わりやすくなったのもオタク文化をつまらなくした原因かもしれないし、老害かもしれないが今のオタク文化はだんだんと浅くカジュアルになってきている。

 

むしろかつてにわか文化、メジャー文化、一般人文化とされていたものがコアになり、かつてコアだったアニメ文化や声優文化のほうがネットの普及でにわか化してきているのが現状だ。

かつてのようなコアな声優ファンは減り、今の時代ジャニオタの方がよほどマニアックで濃い人が多い。今の声優オタク文化は単なるファッションになり下がった。

 

その結果量産型日常アニメに量産型新人声優が起用されるケースがあり、消耗品として放送され何も残らない。安価なCGで似たようなパターンの1クールアニメつくって、ネットでステマして少し話題にして新人声優を消費する、そういう時代である。

アニメがつまらなくなった背景にはファンやオタクがつまらなくなったことも理由としてあるし、ネットそのものがつまらなくなったことも原因として存在する。

 

これは時代の流れでもあるし避けられない流れかもしれない。

一度完全にオワコンになって崩壊したほうが再生するのではないだろうかとすら思う。本当にコアな人がいったん見限って終わらせた方が新しい発展もあるのではないか。

もうアニメは昔のようにコアなオタクが集まるジャンルではない、ファッションの道具やコミュニケーションツールとしての消耗品になったのである。質より量、一瞬の流行、ネットでの話題性、声優至上主義、今のアニメが劣化した理由は上げればきりがない。これからアニメはどのような方向に向かっていくのだろうか、元アニメファンとして行く末を見守りたい。

海外に異性を求めて旅立つのはアリだと思う

たまに日本人女性が海外に男求めていくパターンがあり、それを日本人男性が批判するパターンは多い。そういうの見ると日本人男性が草食化してる一方で逆に日本人女性が肉食化しててそのガッツはむしろ日本人男性が見習うべきかもしれない。

実は海外や異国の血を求めるのは人間に限らず動物にも共通していて野良猫を研究したデータではメスの猫は同じコミュニティの猫よりも外部から来たオスの猫を求める傾向にあるらしい。生物には違う血と交配することで強い子孫を作ろうという本能があるのかもしれない。

 

そういう意味で外国人好きの日本人女性って間違ってはいなくて、逆に日本人男性もその積極性は見習うべきでもある。日本人女性は海外に行けばモテるとか、外国人男性は積極的だみたいな幻想があるから海外に行く人も多い。

その一方で日本人男性は内向きで、日本人女性が外国人に持っていかれることを指をくわえて見ている傾向にある。それで外国人を求める日本人女性を叩いているけども、むしろここは日本人男性が外国人女性を求めればいいという発想に切り替わるべきなのではないか。

 

日本人男性は外国では自分たちはモテないみたいな漠然とした自信の無さがあるが実際海外留学した人の話を聞いても日本の男性って結構モテるし需要がないわけではない。

そもそもモテるかモテないかでいったら日本でもモテないことには変わらないっていう人ほど、環境を思い切って変えて海外に挑戦するべきなのかもしれない。

例えば海外に行けば佐々木希や橋本環奈みたいな人がその辺にいっぱい歩いてる世界が広がっている。日本だったらアンジャッシュ渡部レベルにならないと佐々木希に相手してもらえなくても、海外だったらもしかしたら相手にしてもらえるかもしれない。

もしろささききやハシカン以上の人がいくらでもいて、日本で1000年に1人しかいない美人が普通にうろついてるのが海外である。

 

そう考えたときに行かないのはもったいないし日本人女性も海外にブラピだのジョニー・デップやデカプリオだの求めて行ってるわけで、今の時代むしろ日本人男性が海外に行くべきなのかもしれない。

もちろんお金目的で騙されるパターンもあるかもしれないが、そこを恐れてても仕方がないし日本にいても結局なかなか結婚できなかったりして行き詰ってる人は多い。そもそも騙されるリスクなど日本でもあるのである。

アンジャッシュ渡部が40代で佐々木希と結婚できたというのは奇跡で、実際一般の日本人男性が結婚しなければならないのは佐々木希や橋本環奈に遠く及ばない人だ。

 

それだったらワンチャン日本人が好きな外国人美女を求めに行ったほうがいいし、日本にいても結局一生橋本環奈レベルに相手にされることもないという諦めにも似た感情がある。そうやって諦めてる人は、アイドルとか声優とかに夢見ず海外に出かけるべきだと思う。

声優にしてもアイドルにしても「そこまで可愛くないけど親近感がある」みたいなスタイルで売ってる子がいるけども、そういう人すらまるで信用ならないのが日本であって、もうそれなら思い切って妥協せず佐々木希や橋本環奈を超える美女を海外に求めに行くべきなのではないだろうか。

 

今の時代だからむしろ日本人男性が海を渡るべきだと自分は思う。

アイドルや声優に夢を見る時間で外国語を勉強しよう、それが日本人男性にできることだ。

日本にいたところで佐々木希や橋本環奈どころか、ブサかわアイドルや声優ですら普通に彼氏持ちでスキャンダルおこす時代で夢も希望もない。

そうやって日本に留まるよりは佐々木希や橋本環奈レベルが当たり前のように街を歩いてる国に行くべきで、海外だから積極的になれるパターンもある。

実際自分も外国人と話してる時はすごくフランクに話せて、日本人と話すよりも話やすかったりする。日本的な感覚で日本人と話してるから恥ずかしいと思う場面でも、外国人と話してるとやたらフランクに話せてる自分がいることに気付く。

 

日本でくすぶって誰からも認められない人ほど思い切って海外に行くべきだし、海外も確かに厳しいかもしれないが厳しいのは日本も変わらないのである。

日本で佐々木希や橋本環奈レベルに相手してもらうのと、佐々木希や橋本環奈レベルがうろうろしてる国で勝負するのか、どちらが難しいか。

日本にいても結局その他大勢で、自分が周りの同年代の日本人と比べてそこまでと区別ではないという事も理解してる。お金の面でも、容姿の面でも、人間としての魅力の面でも自分は大したことは無い。そして当然ながらハシカンやささききに相手にしてもらう程特別ではない。

 

それだったらいっそのこと自分の価値が大逆転する可能性のある国にチャレンジするべきだとも思うし、人生に生まれた国で人生を全うしなければならないというルールもないし同じ国の相手を見つけなければならないというルールもないのである。

職業だけでなく、友人や交際相手、食事、文化、新しい物を求めて海外に行く価値は無限大である。確かに日本は素晴らしい国であり海外は幻想ばかりではない。

しかし日本に留まり続けることに、具体的な希望があるだろうか。

日本人女性は海外に夢を見てどんどん旅立っている。

いま日本人男性はその積極的な部分を見習うべきなのかもしれない。

最近の日本人「結局日本で十分だよな、安全だしコスパいい」

一昔前に比べて留学生が減ったり、海外旅行をする人も減ってきて確実に日本人の海外離れが進んでいる。不思議なことにインターネットが普及し海外の情報を手に入れやすくなった現代のほうが海外志向の人が減っている傾向にある。

勿論経済的な余裕がなくなったという事もあるのだが、金銭的な余裕と憧れにそこまで因果関係があるかは疑問である。むしろ日本人が貧しかった時代の方が漠然と海外に憧れがあったように思う。

 

留学の議論に関して「外国で学ぶ必要がなく十分に日本で学べる」という人が多いし、旅行に関しても「わざわざ危ない目に合って高い金を払って旅行するより日本の方が充実している」という人が多い。

 

正直なところ、日本って全然良い国で彼らの意見は的を射ているのである。

最近の日本再評価論、日本凄いですねブーム、海外の反応ブームで今まで日本人が気付かなかった日本の良さを知る機会が増えている。日本人が日本の良さに気付きだして「海外って神格化して憧れるほどでもない」という事に皆気付き始めて、今日本再評価論のブームがやってきている。

 

留学に関しても漠然と留学するよりは日本で生きていくならば日本のいい大学を出るだけで十分だし、旅行も国内旅行ってものすごくコスパいいのも事実。

海外旅行で日本旅行程充実してる国はなかなかないし、余計なトラブルも起こりにくい。

そこを「トラブルを楽しむ」「未知のことを楽しむ」という人はどんどん減ってきて、費用対効果で充実しているかどうかを選ぶ事に重きを置く人も増えたし、現実に日本のサービスってものすごくレベルが高い。日本だけで生きていく人生も悪くないし、一度も日本から出なくてもそれなりに、いや結構幸せなのである。

 

これって悪い事じゃなくて日本って卑下するほどのものではなく実はいい国ですよね、っていう話になる一方で少しさびしくもあるとは思う。

日本人の価値観が手っ取り早く、現実的に手に入れられる範囲内でそれなりにリターンの確率が高いものを求めていているともいえる。

例えば海外に行ってとんでもなく酷いサービスがでてきたときに、「これも海外だ」っていうサプライズを楽しむことがなくなってきてて、「安定板高品質なサービスを当たり前に受けることが最適解」みたいになってきている現実がある。

海外に行ってとてつもなく酷い目に合うこともあるけど、その一方でものすごく良い物を見つけるというジェットコースターのような旅行ではなく、それなりに安定した穏やかなメリーゴーランドのような体験を今の日本人は求めている。

 

だからネットの旅行記やSNSの報告などでもどれもこれもありふれてて、完全に身内向けになってる現実もある。その身内向けがこれだけ充実してる日本社会って恵まれてるし、内需や国内文化がこれだけ発展して充実してる国は実は珍しい。

それゆえにどれもありふれたものになっていて、横並びの文化にもなっている。

散々言われてきたように突出したものが現れず、平均的に充実していてその平均だけで見れば世界屈指でありトップクラスだ。

ジェットコースターもいいけど、メリーゴーランドも結構いいじゃんって人がいてもいい。

 

そこをどう取るかの問題で、挑戦しなくてもリスクをとらなくても十分な水準のものが楽しめることを良い事ととらえることもできるし、そこから突出した異分子も現れにくいというデメリットもある。

またこういった面を評価して日本再評価論が活性化することで、日本の闇や問題点から目を背けているという現実もある。

実際日本が発展して景気が良かったころの方が日本を卑下して、海外を持てはやしていたし、逆に日本が国際的に影響力を失いアジア諸国にも追いつかれたり追い抜かれたりしてる今日本再評価論で言い聞かせようとしている部分もある。

 

明治の時も海外コンプレックスで欧米に対抗しようとして発展していたし、第二次世界大戦の頃は自信持ちすぎて日本を過大評価して失敗した。実は日本人ってコンプレックスもって自分たちが自信ない時の方が上手くいくし、自信持ってる時の方が失敗する。

ワールドカップの時も前評判低いときの方が成績がいいし、今回はベスト8行けるみたいな雰囲気の時は見事に瓦解する。

自分も昔は日本が好きで「日本人は自身持つべき」みたいなことに賛同していたけども、最近では日本再評価論は長期的に見てマイナスになるのではないかとも思い始めている。

日本の問題点を覆い隠して、内向きになって「なんだかんだでいい国だ」と満足することがはたして本当に将来の日本のためになるのかという疑問はある。

 

「安定してそれなりに良い物」「コスパが良い物」を求めるのも、失敗したくない事や失敗を許せない事の裏返しのような気がするし、ハイリスクハイリターンなことよりも安定性を重視することに先行きはあるのかという疑問もある。

ただ日本で最も安定して発展した時代って実は江戸時代でもある。鎖国をして大きな政変もおこらずわりと安定して長期政権が維持された時代があった。

そしてその頃の町民文化や学問は世界的に見て実は高水準だった。

内需が充実して経済が回り、ほとんど一国で完結することってコンパクト主義、小日本主義の極致でもある。

むしろ今後道州制で更にコンパクトにしていってローカル地域を充実させる方向がもしかしたら正解かもしれないし無駄に海外志向が高いことも正解とは言えない部分もある。

海外志向がいい事なのか、それとも日本再評価論がいい事なのか、そしてこういった議論が出始めていること自体江戸末期に似ている状況にも見える。

 

確かに日本が充実して素晴らしい国であることも事実だがその一方で限界もある。江戸幕府の時代は確かに高水準だったがあのまま続けていたらどうなっていただろうか。

現実に日本だけで考えて、日本で一生生活していくことの生活モデルは崩壊しつつある。終身雇用制度や日本だけで人生を終える事が成り立っていた時代がそろそろ終わろうともしている。

 

「日本で十分」という人は江戸末期の鎖国維持派や尊王攘夷派で、今の時代に真剣に危機感を感じて外に出ていかなければならないと考えている人は討幕派なのかもしれない。本当に日本を再評価するべきだったのは10年前までであり、今再評価するのは現実から目を背けることにもなりかねない。いよいよ幕末がやってきた、幕藩体制の限界が近づいてきたともいえる。

日本は外圧でしか変わらないというが、果たして今の日本は本当に変わらなければならないのだろうか。

かつて幕末の志士たちが幕藩体制の限界を感じたように、今の自分には超少子高齢化社会を迎える既得権益層が支配する現代日本の限界を感じずにはいられない。

elkind.hatenablog.com

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ロシアでの仕事や旅行にはロシア語が必要

自分はロシア語を勉強していた時期があって、その目的は将来的にロシア各地を旅行するためであった。自分にはロシアや東側諸国、旧共産圏の世界が非常に好きで「ありし日のソ連」みたいなものへの憧憬や旅情がある。

 

ロシアもまったく英語が通用しないわけではないのだが、モスクワやサンクトペテルブルクのようなメジャーな観光地に限られる。これに関しては日本に当てはめて考えるとわかりやすく、東京や京都のような国際的な観光地ならばまだ英語が通用することは多いがそれでも中には英語ができる人がいるというぐらいでそこまでメジャーではない。

まして山陰地方や四国、北陸などに「日本的な風景」を求めて里山やローカルな牧歌的な場所に旅行しようと思ったら英語だけでは実際のところ厳しい。

日本の旅行は東京だけでも十分なほど充実しているのだが、典型的な日本は失われつつある。本当に昔ながらの日本を求めて旅行しようとすればローカルな旅が必要になってくるし、そういうところに実は暖かい人がいたり美味しい物や美しい景色があったりする。

 

その例で行くとロシアへの旅行にもいろんな種類があってモスクワやサンクトペテルブルクのような欧州に近い主要都市に行きたい人と、ロシア国内の共和国やウラジオストクなどの東に近い地域に行きたい人とでは目的が異なる。また中央アジアやモンゴルのような旧ソ連圏はロシア語が通じるため一口にロシア旅行と言っても様々な種類がある。

 

自分はどちらかというと本当に誰も言ったことがないところに未知の景色を求めて旅したいタイプである。モスクワやサンクトペテルブルクはもうある程度情報を知っているしネットで旅行記を見れば大体行った気になれるのが正直なところだ。

旧ソ連的なノスタルジーはロシアの中でもローカルな場所にしかないし、日本の旅行ブログなどでもなかなかそういうマイナーなところに行ってる人は少ない。

高画質な映像が見られる時代にロシア好きなら何度も見たワシリー大聖堂みたいなところにっても観光客ばかりわざわざ行く必要性を感じない。

勿論これは人それぞれで超有名なところを実際に見て感動したい人もいる。

ただ自分はこれまで一切見たことがないところに行って新しい発見をしたいタイプであり現地の人しか知らないようなところに憧れがある。

 

ロシアでもサハ共和国ブリヤート共和国のようなシベリアのマイナーなところに行ってみたいし、カザフスタンウズベキスタンのようなほとんど日本人が旅行していないところにも憧れがある。

ロシア文化が好きな人はその時点で既にマイナーな趣味を持っている人が多い。

そう考えたときにロシアの中でもメジャーな観光地に行っても求めてる物はないように思う。

そういう意味で本当にロシアを旅しようとしたらロシア語が必要になるし、現地語が使える旅というのは絶対に面白いに違いない。日本人の海外旅行って現地の言葉どころか英語すら話せずにテンプレ的な観光地巡りに終始していることが多いけど、それってもったいない旅の仕方だなとも思う。

「皆がいってるところに行く」「皆が買ってるものを買う」「誰かがやってるから自分もやる」というのが日本人の典型的な行動だけど、それって面白くない気がするのは自分だけだろうか。チリのウユニ塩湖なんかももう今日本人ばっかりで旅行した気がしないらしいし、日本人って皆がいってるところに行けばそれなりのものが見れるみたいな漠然とした期待があって自分が先駆者になろうとはしない傾向があるように思う。

 

ただこれ日本人に限った事でもないようにも感じる。

自分が外国人に人気な観光地の近くに住んでいてたまにそこに行ったときに、きれいなほど外国人観光客が同じ方向にしか行かないのをみたことがある。でも自分が行く方向にも魅力があってむしろそっちの方が桜や川が綺麗だったりするのに外国人は誰もそこを見つけてない。

ガイドブックに書かれたところにとりあえず行くというのは結局全世界共通なのかなともしれない。

せっかく外国行くのに観光客ばかりのところいっても異国に来た感じがしないし、まして同国の人がいっぱいいるところにいっても新鮮味がないように思う。

例えば今日本の主要な観光地はどこも中国人ばかりだけど、「中国人が日本に中国人を見に来て中国製のものを買ってる」みたいなことになってる。

中国人だけで集まって行動して、中国人ばかりがいるところに行く。

もうそれって日本旅行する意味あるのかなとも居ながら見てるけど、実は日本人も海外旅行で同じようなことをしてたりする。

 

結局なんでそういうことをするかというと、全ての原因はその国の現地語が話せないという事に尽きる。ある程度安全が保障されてて、それなりのものが見れるテンプレルートに皆行きたがるし、言葉ができなければそれしかできない。

旅行というのはコミュ力が最も試されるし必要なアウトドア趣味であって、コミュ力あって現地の人と話せれば一人旅でも楽しめたりする。

一人で旅して、結局誰とも話さないなら哀愁漂う寂しい独り旅になるけど、ガンガン現地の人と話したならばそれってかなりアウトドアで積極的な趣味ともいえる。

逆に顔見知りの仲間と旅行してずっとその人と話してたみたいな旅行って、一見楽しそうに見えて守りに入った消極的な旅行ともいえる。

多分そういう人たちって別にどこかに新しい物を見つけに行くことが目的じゃなくて、その仲間と楽しく過ごすことが目的で行く場所は結局どこでもいいのかもしれない。

旅行自体が目的というよりも、一緒にパーティしたいだけでそれがテンプレ旅行とかどうとか気にしてないのだろう。

あと仲間と旅行する時ってお互い無駄に気を遣ったりして結局楽しめないみたいな話も聞くし、探検家気質な人は一人旅の方がいいのかもしれない。むしろ一人ならば現地で友達を作ればいいし、コミュ力を試すことを楽しむのも旅の楽しさである。

 

だいぶ話が飛躍したけど、結局現地の言葉が必要だし現地の言葉を話すと喜ばれるというのは世界共通。英語圏以外で英語がものすごく通用する地域は既にメジャーな観光地ばかりで観光客が多い。求めるものの違いで、本当にその国が好きで知りたいと思うならば現地語は必要だし、誰かと有名なところに行ければ楽しいという人は英語とガイドブックで何とかなるだろう。

マニアックな海外旅行に必須のツールはロシアに限らず現地語であって、その前提としてコミュニケーション能力がある。徹底的に現地情報調べ上げてテンプレ旅行するよりも言葉を使えるようになってちょっとアドリブ効かせるぐらいの旅の方が楽しい。

本当の旅好きが真に準備するべきはとにかくその国の言葉なのではないだろうか。

外国語の勉強は徹底してネイティブの発音を聞かなければならない

日本の英語教育や外国語教育で最も足りていないのがネイティブの発音を聞くことなのではないだろうか。ネイティブの発音を知らないのにいきなり教科書で文字から入るのが日本式の学習方法である。

明治維新の時に外国語文献の翻訳を徹底して行って西洋文明を取り入れてきた過去があり読解に重きを置いているのが日本の英語教育だ。

 

しかし自分たち日本人が日本語を習得したときにいきなりひらがなを覚えて文法を覚えただろうか。子供の時の言語の習得と、学生になってからの言語の習得は順序がなぜか違っていて子供の時は「発音→文字」の順序で習得し、学生になってからは「文字→発音」の順で勉強していく。

まさにこれが根本的な間違いであり、日本人が外国語の習得ができない最大の原因である。

 

日本語が話せてスラングまで覚えたりタメ語や方言の発音までマスターしている外国人には、本になると途端に読めなくなるというパターンが多い。

逆に日本人は海外文献の難しい論文まで読めるのに、簡単な会話もできなかったり発音がほとんどマスターできていなかったりすることが多い。

 

言語というのは文字だけの世界ではないし、そもそも言語自体文字より先に発音から発生している。母国語も発音から習得して、そもそも言語自体が発音から発生している。

それにもかかわらず学習になるとなぜか文字や文章の世界から入っていく。

自分はこれが全ての間違いの原因になっているのではないかとみていて、今スペイン語の習得においても徹底的にネイティブの発音を聞いて耳で覚える勉強法を行っている。

そして日本語がペラペラの外国人動画投稿者などもたいていそのパターンで習得したと語っていている。とにかく聞いて覚える、感覚で慣れるということが有効だと言われている。

 

またネイティブの発音から覚えるパターンは実は効率がいい。

外国語の単語をスペルや日本語の意味から暗記しても、その後綺麗に発音を覚えられるかと言えばそうではなく、文章や発音記号だけで勉強しているため発音が覚えられなかったりする。

逆に発音でなんとなく覚えてる言葉は実際のスペルを見たときに「この単語聞いたことがある」とすぐに想像がつく。ネイティブの発音を聞きまくった経験というのは必ず後で単語を覚えることに役に立つ。

全ての意味を最初から理解しなくても徹底的にネイティブの発音を聞くことが大事で、逆にスペルや日本語での厳密な意味を丁寧に一つずつ暗記していく方法は途方もなく効率が悪いし正しい発音も身につかなく典型的な読解専門の勉強方法になってしまう。

知識はあるが言葉としてはつかえない、実際日本人の外国語学習者でもそういう人は多い。

 

日本人の外国語勉強は目指す物がそもそも違っていて本気でその言葉をネイティブ並に自然に話すことは最初から無理だとあきらめている人が多いし、その領域を目指してもいない。

そんなものはその国で生まれた人や、帰国子女じゃなければ無理だという諦めにも似た感情が最初から存在する。

その結果どうしても正しい文法で作文したり、丁寧に読解することが優先されてしまいテキストテスト主体の検定で高得点を取ることが目的になってしまっている。

外国人と話すことや外国で生活するということが日本ではリアルな物ではないし、目指す必要もないというのが実態である。

検定の結果=外国語の実力という先入観があるし、外国語が話せることを重要視していない文化的な背景がある。TOEICや英検を神格化しすぎているのが日本人であり外国語を話すことよりも論文や書籍の翻訳家になるような勉強をしているパターンが多い。

 

それゆえにリスニングやスピーキングがそれほど重要視されずどうしても文章の世界が重視されている実態がある。

そのリスニングも綺麗な発音で台本に書かれたことを教材向けに録音している者が多く、ネイティブがリアルな会話で使っているあまり上手くない発音や砕けた喋り方にはかなり弱い人が多い。

自分が英語を勉強していた時期はこの弱点を克服するために海外の有名人のインタビューなどを聞くことが多かった。リスニング教材はもちろん実用的ではなく、スピードラーニングのようなものもあまり実戦的とは言えない。

映画も洋楽も結局は俳優や歌手が綺麗に発音していることが多いし、台本や作詞が整えられている。

それよりは英語圏のネイティブの有名人が台本無しで話しているインタビューやラジオなどを良く聞いていた。たとえば典型的なイギリスの労働者階級訛りの英語などは良く聞いていて歌手のノエル・ギャラガーのお世辞にもきれいとは言えない英語を聞いたり、ベッカムやジェラードのような労働者階級出身のサッカー選手のインタビューなども良く聞いていた。これらの発音はとにかく早く、そして整えられたクイーンズイングリッシュの発音ではない。

 

日本語の学習で言えばNHKアナウンサーの綺麗な丁度良いスピードの発音ばかり聞いていても勉強にならず、本当にリアルな日本語を学びたければバラエティ番組や芸能人のくだけたラジオなどを聞いたほうが役に立つことと似ている。

綺麗に教材として録音されたリスニング教材も、実際はそこまで丁寧な完璧な言い方はしないしそもそもそんな会話しないという物が多い。

それよりはリアルなネイティブの会話を聞いてそこから直接学ぶ方が結局は習得できるし、ネイティブの会話にはすべてが詰まっている。

母国語もネイティブから聞いて覚えたのように、外国語もネイティブから聞いて覚えることが大事である。実際外国語が話せる人は海外での生活経験があったり、外国人の友達がいることが多い。さすがにその環境を今すぐ整えることは難しいが、今はインターネットがあり動画サイトなどでいくらでもネイティブが発音している「リアルな教材」を探すことができる。

もう教材のために作られた会話や文章などから学ぶことはやめよう、それが日本人が外国語を話すための近道かもしれない。

なぜ日本人は核兵器は嫌いなのに、原発は好きなのか

日本人のダブルスタンダードともいえるのが反核兵器国家でありながら原発は推進しているという方針であり、どちらも徹底的に排除しているドイツとは異なる。

核兵器は唯一の被爆国ということもあり非核三原則を掲げ持ち込みすら徹底的に排除しているが、原子力発電は福島原発の件があったにもかかわらず相変わらず推進している。核兵器原発の両方の被害があったにもかかわらず核兵器はNGで原発はOKという二重基準を掲げているのが現状だ。

むしろこの問題に関してはドイツのほうが被爆国ではないにもかかわらず核兵器原発も徹底的に排除していて、本来ならば日本がこういう立場になるべきだったのではないかと思わなくもない。

地熱や波力などそういった自然に恵まれた国であるにもかかわらず、なぜか海外の輸入が必要なウランに頼った原子力発電を推進している。

 

この問題別段自分は反原発だから日本を批判しているという立場ではなく、むしろ核武装も考えたほうがいいと思っている立場である。昨今近隣諸国が核武装を強化している現実があったりそもそもアメリカの核の傘に頼っているわけで、核兵器が必要ないとは言い切れない現実がある。

ただ被爆国として本当に非核を目指すというならばもちろんその道も良いのだが、裏では原発推進していることに「利権や経済絡めば表で言ってることとは別のことをしても良い」というダブスタ要素も感じるというのが本音だ。

非核のような綺麗ごとを掲げるのであればじゃあエネルギーの非核化も掲げるべきだし、原発をここまで推進して原子力にそこまで抵抗がないならば核武装もすんなり受け入れられそうとも思う。

 

自分はそこが不思議で、核兵器にはものすごく反対するのに同じ口で原発は必要というっているところに「それはそれ、これはこれ」みたいな都合のいい大人の理論みたいなものを感じる。

核兵器は領土内に絶対持ち込ませるべきではないというほど核兵器アレルギーなのに、原発福島原発のことがあっても相変わらず稼働させて推進している。

核兵器原子力発電所は違うという意見もあるけど、本質は同じで完全に別物とは言えない。

おそろらく核兵器は爆発したら恐ろしいことになるという漠然とした不安が日本人にはあるが、原発に関しては全国で不安なく受け入れていることを多分ドイツ人は不思議がるのではないだろうか。

別の言い方をすればドイツ人があそこまで徹底的に原子力発電の反対する理由は、日本人感覚で言うところの核兵器への嫌悪感並の感情を原子力発電に対しても抱いているからなのかもしれない。

 

ドイツ人は原発核兵器も本質は同じだから同様に排除するべきという考え方であり、日本人は原発までは良いが核兵器まで来ると駄目という考え方である。そして不思議なことに実際に核兵器原発の被害を受けているのは日本人だということ。これが逆だったらあそこまでドイツ人が原子力に対して反発することもわかるし、日本人が原発を普通に受け入れてることも納得がいく。

つまり実際の被爆国ではないにもかかわらずなぜドイツ人はあそこまで原子力を嫌うのか、そしてなぜ日本人は被爆国であるにもかかわらず原子力は受け入れることができているのか。

むしろ本来は日本人がドイツ人並に徹底的に原子力を排除するべきで、逆にドイツ人は原発ぐらいは受け入れても良さそうに感じる。

 

結局のところ日本という国は本音と建前が共存する国で、核兵器もいざ武装の必要性が出てきたら案外受け入れてすんなり適応する可能性があるし、現に原発も必要だという人が実際かなり多い。

良くも悪くも変わり身が早いのが日本人で、むしろ核大国になる日も来るかもしれない。

後はやはり外圧でしか変わらないというのが日本で非核三原則も世界に対するパフォーマンスみたいなところがあって、本当に日本人が心の底から核兵器に反対しているわけではない。核兵器を持たないのも周辺国から批判されないためであるし、持てる状況になれば普通に持つようになるのではないか。

逆にこれだけ頑なに原発を廃止しないのに、外圧がかかって世界的に原発廃止の流れになればすんなり原発を廃止するのではないか。

実は理想主義者なのがドイツ人で、わりと現実主義なのが日本人なのかもしれない。

ドイツ人は戦後の理念決めたら異常に見えるほど原子力を排除するし、日本人は非核三原則反核はあくまで建前で実用性があって利権や景気が絡むならば国内に無数に原発があっても特に気にしない。

 

調べたところによる40基以上の原発がありアメリカ、フランスに続いて第三位保有国らしい。兵器に使ってないだけで立派な核大国であると言えるし、核兵器持ってない区の中ではトップだ。それどころか核保有国の中国ロシアよりも原発を揃えているのが日本である。

まさに建前と本音で非核三原則を唱えたり、核兵器に声高に反対しておきながら国内では世界第3位の核エネルギーによる発電所を稼働させている。ここまで来たら核武装もタブー視せずに考えるべきだし、建前と本音のギャップがあまりにも大きすぎる。

 

ここまで原発が国中にあることは当たり前に受け入れることができているのに、核兵器は議論すらタブーで持ち込むことすらNGというのは国際的な感覚で見たときかなり不思議な感覚に映るかもしれない。

ドイツ人が原発は一基も持たずクリーンエネルギーだけで国内電力の8割をまかなっている時代に福島後も当たり前に世界第三位の保有数がある原子力発電所を稼働させているのが日本である。

自分は決して反原発というわけではないのだが、こういったダブスタに関しては大きな疑問を感じずにはいられない。核兵器は嫌いだけど原発は好き、その違いは一体どこにあるのだろうか。

日本人がスペイン語話せるとかっこいいよな

スペイン語が話せる日本人は結構希少で、実際そこまで日本人がスペイン語を話している姿は見たことがない。それゆえに話せてるのを見たとき英語を話せることよりも更にかっこよく聞こえる。

例えばサッカーの久保建英バルセロナ時代にスペイン語をマスターしていただけあって、ほぼネイティブ並みに話せておりかっこいい。実はこの動画を見るのは二回目で一回目の時は一切わからなかったがここ最近スペイン語を勉強していたので今回聞くと何となく意味が分かるというか、聞き取れるぐらいにはなった。

久保君さんがスペイン語を話す姿を見て改めてスペイン語はかっこいいと思ったしモチベーションも上がった。

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外国語の学習というのは実際の所「かっこつけ」に近いところもあって、かっこいいから勉強するというのは全然アリなことで自分がスペイン語を今勉強しているのもかっこいいからである。

スペインという国自体がかっこいいし、かっこいい言葉を勉強するならばスペイン語は選んで間違いない言葉だとも思う。

例えば漫画ブリーチの作者久保帯人も「オサレ師匠」とか言われてスペイン語を漫画内で良く使っているらしいし、ジャニーズとかも実際スペイン語をワンフレーズ使う曲は多い。たとえば青春アミーゴ」「抱いてセニョリータ」「アンダルシアに憧れて」などもスペイン語が曲名に使われている。

中二病的なかっこよさもあるし、異国への憧れや情熱とも相性がいい。

 

また自分が最近スペイン語の勉強に凝ってる理由は希少価値があるからでもある。今の時代好きなことを一芸究めることの方が本当に将来的なことを考えたときには役に立つし未来も広がってくる。

なんとなく英語が必要だからという雰囲気に流されて仕方なく勉強したところでそれほど身にはつかない。多分自分が英語の勉強をこれから続けたとしても10年経ってもアメリカやイギリスの子供ぐらいの実力にしかならない。

でも逆に本気でスペイン語が好きで勉強すればこの10年で同時通訳を果たせるぐらいになるかもしれない。それくらい情熱があるし、英語の場合そもそも10年も続かないかもしれない。

スペイン

これまで自分は「ある程度英語ができるから完全にゼロからスペイン語をやるよりは英語を極めたほうがいい」と思っていたけど、やっぱり好きな言葉を真剣に勉強するほうが10年単位で考えたとき実は身につくのである。

やりたくないことを10年続けてもそこまで成長しないし、逆に本気で好きなことは2,3年でものになる。

 

実際自分の英語力は確かに現状スペイン力よりはよほど高いレベルにあるけども、逆に言えば伸びしろもなく頭打ちだしそこまで英語力を伸ばしたいという情熱もない。

なぜなら英語そのものがあまりかっこいいとも思っておらず、英語話せる日本人になったところでいくらでもそういう日本人はいて希少価値は確保できない。

そもそも現状英語ができると言っても英検2級程度の実力でしかなく、大したものではないしその大したことのない英語にこだわり続けるよりも思い切って本当に好きなスペイン語に切り替えたほうがいい。

「これから新しくスペイン語に使う努力を、これまで積み重ねてきた英語に投じたほうがいい」と思ってなかなか踏み出せずにいたけども、別にこだわり続けるほどの英語力でもないし守り続けるほどの英語力でもない。

 

思い切って好きなことをやったほうが一芸になるし、将来英語圏で働きたいとも一切思っていない。決定的にモチベーションがないし、逆にスペイン語を使った職には本当についてみたいしスペイン語圏でも生活してみたい。

それ以前にまずはかっこいいし、昔からの憧れがある。

そもそも自分がスペイン語に憧れたのはクロサギという映画を中学時代に見た時であり、今思えばその時から勉強していれば今頃かなりのものになっていたという思いがある。

でもそれって多分10年後からするとあの時、つまり今始めておけばよかったと思うのである。10年遅かったといっても、逆に言えば10年後からしたら今が10年前でもある。始めるのに遅いなんてことは無いし、どんな時も今が一番早い。

そういう意味で今自分はスペイン語の勉強を真剣に始めようとしている。

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そのモチベーションを上げるためにも前述のように日本人がスペイン語を話す動画を見て「やっぱりスペイン語はかっこいい」と情熱を上げている。

「かっこいい言葉を勉強している」というのは何にも勝るモチベーションで、仕方なく英語を勉強している自分が本気で英語をかっこいいと思って勉強してる人には敵わない。

 

逆にスペイン語は本当にかっこいいと思っているからやる気は本当にある。

今の時代好きなことをやるというのは間違ったことではなく、むしろ好きな分野で勝負するから一流になれる。言葉の勉強に関して一番大事なのは憧れであり、かっこいいと思えるかどうかなのである。

これから英語教育は小学校や幼稚園でも取り入れられるようになり、ネイティブレベルに話せるライバルはいくらでも現れるし追い越される。英語を好きならばもちろん本気で英語を勉強したほうがいいが、好きでないならば本当に好きな第二外国語に切り替えたほうがいいように思う。

 

英語力が凄い人はいくらでもいて日本人だけでなく、他のアジア人はもっと勉強熱心で進んでいる。帰国子女も大勢いるし、英語圏への留学経験がある人は多い。普段から熱心に英会話教室に通ってる人も多い。

そのステージで戦えるほど自分は英語が得意ではないし、そこを目指す情熱もない。逆にスペイン語は日本でトップレベルを目指したいという情熱がある。

 

結局のところ外国語の勉強は本当に好きかどうか、本当にかっこいいと思えるかどうかである。

自分はこれまで何とか無理やり英語をかっこいいと思おうとしてきたけども、結局どんな洋楽アーティストやハリウッド映画、プレミアリーグなど英語圏のコンテンツをみてもあまり感性には響いてこなかった。アメリカやイギリスなどには旅行に行きたいとも思えないし憧れを持てない。

逆にスペイン語は自分の好きなサッカーと密接にかかわっているし、スペインや南米などのラテン諸国には強い憧れがあり、勉強も長く続けられる。ラテンの雰囲気や文化の良さ、そしてスペイン語自体の魅力は自分が子供のころから感じていたものである。

やはりその憧れはあきらめきれない、外国語というのは本当に好きだと思える言葉を勉強するのが一番なのである。