負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

「働からない」ってそれだけで価値があるよな、仕事がないことの幸せ

ここ最近自分の生活は仕事をしておらず、アルバイトで貯めた貯金で食いつないでいる。

つまり実質元フリーターの今はニートである。

バイトを辞めて思うのが「働かなくていい」ってそれだけで心の底から嬉しいということ。明日仕事がないということがどれだけ幸せな事か、明日仕事があるかないかだけで感情は大きく変わってくる。お金を得る事や成功することよりも、何かに縛られない自由の方が自分は好きなのだ。

 

元々自分は社会やコミュニティに溶け込むことが上手いタイプではなく、子供のころから明日学校行くというローテーションや毎日の習慣的な規則が嫌だった。

とにかく明日やらなければならないことがないということが自分にとっては気楽である。バイトをやめてこのありがたみが自分はわかったし、もともと大学を中退したのも気軽にサボれるから行かなくなってしまった結果である。

高校の頃も早く卒業したいなと思ってしかいなくてしかたなく通い続けていた。親がいるから学校に行かないといけなかったし最低限高校を卒業しなければ大学受験ができないという思いもあった。

その高校は夏休みまで補習があるような学校で、たびたび隙を見つけて最低限出席を確認されるとこまでは出て早めに帰ることが多かった。

学校の補修は役に立たないから家に帰って勉強する、というのは建前で実際帰ったらダラダラとネットサーフィンなどをしていた。

 

要するに自分は典型的な怠け者であり、やりたくないことはしたくないし組織に向かない人間なのである。とにかく最低限の労力だけで生きていたいし真面目に頑張りたくないのだ。人間関係も最低限でいいのである。

世の中には二種類の人間がいる。

物凄く頑張って大きな結果を手に入れようとするタイプと、いいものよりも何もしなくていい状況が欲しいというタイプだ。

分かりやすく言うならば後者は激務で月給60万よりも、生活費ギリギリもらえて数万の予算でニートをしていたいタイプだ。世の中頑張る人は物凄く頑張って色んなものを手にいれたらいい、でも自分はそこについていけないし競争しても勝てないからもう最低限のお金で最低限の生活をして世間からは何の価値もない人間に思われてもいいとも考えている。

 

何かを頑張って成し遂げたいという思いは数年前に比べて圧倒的に減少したし、夢を追う事や何かの努力をして結果を手に入れることに失敗してから少し冷めている部分もある。また自分の友人もそういった性格であり、意識低い生活で最底辺を楽に生きるぐらいでいいんじゃないかなとも思っている。

とにかく生きるための費用も、目標も、人間関係も最低限までそぎ落として屍のような生活を送っているがこれで幸せなのである。

世間の目線なんてどうでもいいし、その日暮らしをしていたいだけだ。

サボれるならとことんまでサボるし、凄いことを成し遂げるための意欲やパワーもない。その日暮らしで好きなことをしていたい、明日のことは考えない。

 

例えばスペインなんて若者の半分が失業者なのである。世界を見渡せばダラダラ適当に生活している人がいるし、昼間から酒を飲んでいるような人もいる。

 

何かを先送りにして今日を適当に生きる、やりたいことをやれる。大きな成功はできないが別にそれでいい、老人になったとき何も残らなかったと思ってもそれでいいのである。

10代の頃のように世界を変えたいとも思わなくなったし、世界に認められたいとも思わなくなった。その代りちゃんと頑張って大きなことを成し遂げようとしているスポーツ選手や芸能人を応援する、自分ができないかわりに才能がある人間が頑張ればいい。自分にできるのは彼らの応援だけである。

「自分より上手く行ってる人間を応援していて何が楽しいんだ」という人もいるけど、逆に才能のある人間が自分の代わりに頑張ってくれてるともいえる。

人の成功であってもその人が好きで共感できる人ならば、その人の成功はうれしい。

頑張りたい人はどんどん頑張ればいいし、自分のようにもう頑張ってもどうしようもない人はなんとなく生きていればいいのである。

 

そしてこのニート生活中に何らかの形で収入を作っていく努力をする。もちろんいつまでもニート生活ができるわけではなく、その資金は無くなる。恒常的に40年間働くのが嫌なだけで、お金が無くなったら働くし働いてない期間中はサイドビジネスのようなものを考える。

例えば自分はA8.netアフィリエイトBなんかでアフィリエイトをやっているが、これも不労所得作りの一環である。仕事は嫌だけどブログを書くことは好きだから、ブログで稼げるならアフィリエイトをやるという話である。

現状それほど稼げているわけではないが最低限生活費を保証できるレベルになることがゴールなので元々目標は低い。目標は最低限の収入が不労所得になって最低限の労力で生活することである。

あとは貯金が付きそうになったら1か月だけまとめてバイトするとか、物を売ったりして最低限数か月は食いつなげる貯金を一時的に作るという生活が自分のライフスタイルである。

その間にまたアフィリエイトやって、なるべく軌道に乗せていけるようにブログなどを補足していく生活である。基本的にアフィリエイトによる収入とはすぐに確保できるわけではなく数年単位で地道にブログやサイトを作り続けていくことが必要であり、その末に不労所得や副収入は完成するのである。

最低限のニート生活をするための資金を作り、働いたり働かなかったりと必要な時にお金を作る生活である。わかりやすく言えば働かなくて済む期間を定期的に作っていくやり方である。そして何もしなくてもいい時間を作れるからアフィリエイトを充実させることもできる。

 

どう考えても懲役40年働き続けて老後やっと働かなくて済むようになるというのがおかしく、それは自分には耐えられないのである。

正社員とかまともに職を持っているとかそういう世間体のために40年も我慢したくないし、半年働いて半年は何もせずに生活するというスタイルがあってもいい。

確かに後者は生涯で稼げる収入は40年きっちり勤め上げる人に比べて少ないかもしれない。でも結局時間で言えばきっちり働き続ける人は圧倒的に少ない。

お金を大事にするか時間を大事にするかの2つである。

何も週に5日8時間働いてそれを40年も続ける必要はないのである。

週に3日働いて後の4日は限られた予算の中で自由に過ごす。その自由な時間にサイドビジネスなどにもチャレンジすればいいし、好きなことで食べていけるように工夫することもできる。

 

1か月働いて、次の月は完全に休む、そしてその後の1か月はまた働く、そういう生き方があってもいい。生涯収入だけが全てではないし、真面目に働き続けても今の不景気ではそこまで収入は良くならない。

目指す物は最低限にして目標は下げて、世間体を気にせず仕事をやったりやらなかったりすればいいのである。

老後に自由をまとめて持ってくるよりも、体が動く今に自由を持ってきた方が楽しめるしそもそも老後まで生きてるとも限らない。

 

人生組織から自由になれるのが本当に老後しかないというのはもったいない話である。

 来月のニート生活のために今月は頑張る、そういう考え方があってもいい。ニート生活とフリーター生活を交互にやるという意識低い生き方でも幸せな人は幸せなのだ。

人から認められるとか何かを成し遂げるというのはガッツや野心のある人がやればいいのであって、とにかく何もしなくていい事や明日休みである事の気楽さのほうを重視することもまた一つの生き方なのである。

何かを頑張っていいものを手に入れることも幸せならば明日何もしなくていいという事に喜びを見出すことも一つの幸せなのである。

外国語は好きな言葉を勉強したほうがいいというのは真実か?

好きな物ほど上達しやすいというのはどのジャンルにおいても一つの真理である。そしてそれは外国語の学習においても変わらないのではないだろうか。

そもそも日本人は外国語の学習を楽しんでない人が多く、それゆえに外国語が身についていない人が多い。そして自分自身もまたその一人である。

日本語が話せる外国人や、トライリンガルの人などを見ても言葉の学習を楽しんでいるし積極的に話しているという印象を受ける。

 

日本人の語学学習方法の欠点、つまり外国語が身につかない理由はいくつか存在する。

自分の欠点でもあるし、他の人を見ていてもいくつかの傾向がある。

・消極的で自分からは話さない

・勉強しないといけないものだと思っている

・失敗を恐れる

・好きな言語を勉強せず英語至上主義

・真面目に勉強しており楽しんでいない

・文法を丁寧に勉強する読み書き中心の勉強をしている

・語学習得だけが目的になっている

 

まず消極的で話さない事や、勉強を楽しんでいないことなどはそもそも好きな言語を勉強していないという根本的な原因から始まっている。

結局日本人にとって外国語とは英語であり、学校や会社から強制される物だから初めから英語に対してポジティブな印象を持てない。それが結局外国語の勉強は辛くて大変な物というイメージを作り出しているように思う。

学生時代に英語の学習で苦労したトラウマのようなものがあり、社会に出ても会社や世の中の風潮で「英語出来なきゃ駄目だ」とネガティブな印象を持ちやすい環境がある。

結局人間というのは楽しくない事をしたくないという基本的なものがあるが、それでも我慢しながら苦しいことをやっている。

まさにこの考え方が外国語の学習に持ち込まれていて、楽しくないけど仕方なく英語を一生懸命勉強しなければならないというのが昨今の風潮だ。

 

しかし「好きなことをやっていい」という考えを思い切って持つことが外国語学習の近道のように思う。最近自分は本当に好きで勉強したかったスペイン語の学習を始めた。最近までまさに英語至上主義で英語を勉強していたのだがある程度まで進んだものの伸び悩んでいた。そして結局英語自体が楽しくなくなり語学の学習そのものから遠ざかっていた。

ここで思い切ってもう英語はいいとやめて、本当に好きなスペイン語を勉強しようという決断を下した。この決断が非常によい決断で、すっきりしたし外国語の勉強にもう一度ポジティブな感情を持つことができた。英語が好きだったころの情熱を取り戻すことができた。

本当にスペインや南米、ラテン文化が好きでいつかスペインに行きたいとも思っているしスペイン語自体の響きが好きでもある。

英語の時は将来の具体的な計画なども思いつかなかったり、思いついてもそこまで情熱がなかった。英語ができたところでまぁ日本でいいやとそこまで海の向こうに行くことは考えなかった。

 

しかしスペイン語を勉強し始めたことで本当にスペインに渡りたいと思えるようになり、どんどん積極的に勉強できるようになった。

好きな言語を学ぶことのメリットはまさに上記の日本人の外国語学習の欠点に相反するものである。

・好きだから積極的に話せる

・勉強しなければならないがべ勉強したいに変わる

・意欲が高いため失敗すらも楽しくなる

・真面目ではなく楽しく勉強しているため身に付きやすい

・外国語を使って何かをするというビジョンができる

英語を勉強しているときは海外に行くことを本気で考えていたわけではなかったが今は数年後海外に行くことを本気で考えられるようになった。

また真面目な勉強も行っておらず、とにかくスペイン語を使った好きな物を見ているように努めている。

 

例えば自分はサッカーが好きなので、スペイン語実況付きのサッカーの試合を見ている。スペインリーグの試合や、スペイン代表、アルゼンチン代表、チリ代表などの試合を見ながらスペイン語の実況を聞いている。この勉強を始めてから結構単語や発音を覚えてきており、少しずつ分かるようになってきている。勉強しているというよりもただサッカーを見ているだけという意識がありひたすら楽しい。

第二外国語は英語に比べてほとんど初心者の状態から始めないといけなく、「覚える単語も文法もありすぎて途方もない」という考えになり始めから高い壁を感じてしまう。

英語に比べて基本的な単語すらわからない状態からのスタートである。

 

しかしまずそういった考えを持たないことが大事である。単語も文法もその内覚える、徐々に慣れていけばいいと割り切ることができるし最初ほとんどできないことは当たり前だと安心して勉強している。

いきなりできたら天才であり、英語も元々はbe動詞を四苦八苦して覚えたのである。

第二外国語をいきなり英語のレベルにまで高めようと思う必要はなく、2,3年で話せるようになったら大成功ぐらいに思って始めればいいのである。

 

また本を使った勉強もしていない。いい意味で適当に勉強したほうが楽しいのだ。

「参考書を1ページずつめくっていかなければならない」という強迫観念を持つと進んでいない分厚い参考書が嫌になってくる。

しかし自分は本を使った勉強をしておらず、耳で聞いた単語をその都度ネットで調べればいいぐらいに思っているし見ているのはスペイン語関係なしに楽しめるサッカーである。ここに日本の映像作品にスペイン語字幕を付けたものなどを今後新しい勉強方法として追加すれば自然とわかってくる。

元々母国語の日本語も自然と覚えていったのである。

日本人はそういう勉強方法は大人になってから通じないと先入観を持っているし、外国語の勉強は難しくて大変という考え方も持っている。そして真面目にちゃんとした勉強方法をしなければ身につかないと思っているが、実は真面目なちゃんとした勉強の方が身につかないのである。

むしろテキトー勉強法のほうが続くしかえって身に付く。

 

子供の頃きちんと日本語を勉強したわけではなく、両親の日常の日本語や子供向けの番組を見て日本語を覚えたのである。

逆にきちんと理論づけられて研究された義務教育の教科書や、受験勉強の参考書などで英語が身に付いただろうか、答えはノーだ。

言語は感覚で学ぶものであり、理性できちんと丁寧に学ぶものではないのだ。

好きな言語を適当に勉強することの方が効果がある。

外国語の勉強は真面目なほど効果がなく、適当なほど効果がある。

自分はスペイン語を勉強していると言ってもその内実は適当な勉強に過ぎない。

ただ言語の学習はそう重く真面目な物と考えてはいけないのである。適当な勉強方法であっても勉強していることには変わりない。自分だけの自分に合った方法で勉強七手も「外国語勉強してます」と言えるのである。

日本語が上手い外国人も実際難しい文法書を開いて勉強していたというよりも、ただアニメ見ていただけという人は多い。

日本人は語学の学習を上品で格式高い物だと思っていて、真面目に考えすぎているところがある。「そんな勉強方法では身につかない」と理論づけて真面目に勉強するが結局身につかない。

一方テキトーに勉強している外国人の方が日本語ができているのが現実だ。

 

表向き真面目にちゃんとしようとしていることがかえって心理的な負担になってしまって、失敗を恐れたり勉強が続かなかったりする。そう考えたときにこれからはむしろ普及させていかなければならないのはテキトー勉強方法である。

日本の語学学習者のブログなどを見ていても結構真面目に勉強している人が多い。

外国語の勉強方法が意識高い行為や敷居高い行為になってしまっているのだ。

明治時代にエリートが海外の文献を高度に翻訳しようとしていた時代の発想が今も続いている。外国語の学習自体にブランド価値があり、大学など専門機関で学ぶものだと思っている人が多い。

例えば第二外国語はスペイン語学科やフランス語学科のようなところに入ってしっかり専門教育を受けないと身につかない、留学しないと身につかないと考えている人が多いが、大学で勉強しなくても語学は身に付くし留学しなくても今の時代ネットでいくらでも身につくのである。

「外国語の勉強をしている」と聞いたらさぞかし凄いことをやっているんだろうなと日本人は無意識に想像してしまう。つまり日本人は外国語の勉強を無意識に素晴らしい教養や高度な学問のように考えてしまっている。

実際は大学に入って高い参考書を買ってきちんと勉強して、SNSで意識高い学習方法を報告しなくてもいいのだ。

外国語の学習はテキトーでいいし、誰でも意識低いやりかたできる。

外国語に対する心の壁や敷居を取っ払って、自分のペースで自分の方法で勉強していけばよく、そして絶対的な答えは存在しない。誰かが上手く行った学習方法も自分には合わないことがあるし、無理に正しい勉強の仕方をする必要もない。

外国語の学習に作法はないのである、誰でも今日から外国語学習者になれるのだ。

 

社会人のための<格安>語学留学【寮・食事付き】
172,000円/1ヶ月 の完全マンツーマン留学
フィリピン政府公式認定語学学校【NILS】

1週間39,999円~OK!セブ島ガチ留学

日本人にとって中国語の勉強は本当に役に立つのか?

前回日本人が中国語を勉強することの是非について語ったが、今回は違う視点で中国語について語りたい。

中国語は本当に日本人が勉強する価値があるのか?

まず日本人は漠然と「中国語は将来役に立つ、中国は人口も多く将来的に成長する国だ」という考えを持っている。

本当に中国語や中国文化が好きではな人も「中国語は役に立ちそう」「日本語と似ているから勉強しやすそう」ということで第二外国語として選択することがある。

過大評価というと少し意味は違うのだが、なんとなく日本人は中国語を「これからビジネスで必須」というような目で見ているように思思う。

中国語

ただ実際の所日本人が中国語を勉強するメリットは現状そこまでない。

まず2chのひろゆきが言っていたように「日本語ができる中国人を雇ったほうが早いし安い」という話である。これに関しては過去記事を見ていただきたいのだがとにかく苦労して覚えるほどのリターンは期待できず、シンプルに言えば自分たちより優秀な競争相手が多いという事である。

外国語が話せることの価値は母国語と外国語の総合値で決まるわけであり、「中国人日本語学習者が持つ日本語スキルと中国語スキルの合計値」>>>>>「日本人中国語学習者が持つ中国語スキルと日本語スキルの合計値」という明確な差が存在する。

つまり中国人は日本人が中国語を勉強する以上に、日本語に対して情熱がある人が多く勉強している人の数も多く実戦レベルで日本語が話せている。

逆に日本人が中国語を実戦レベルまで高める道は非常に険しく、更に日本語が喋れる中国人に比べて人件費の面で高い。

 

そしてこの人件費の面が最大の問題で、日本人が中国語ができたところであまり需要がないのが現状だ。ドワンゴの川上量生を取り上げたプロフェッショナルの流儀を見たときに、ドワンゴで専門学校か何かの創設計画が持ち出されその話にまさにこの話が出てきたのである。

川上氏が「中国語は将来可能性がある」ということでその学校の勉強科目に追加しようとしたのだが、実際調べたところやはり需要があるかどうかの壁にぶつかり生徒が中国語を覚えても進路の面では役に立たない可能性が高いという結論に至ったのだ。

 

人口が多いから勉強するという漠然とした目標ではそもそもどういう言語を勉強してもあまり意味がない上に、むしろ人口が多いから向こうの国にライバルが多い。

中国語を必要としている日本企業や語学学校にとっても勉強熱心で人件費の安い中国語ネイティブのほうが使いやすいという側面がある。

 

ただこれに補足するならば、日本人の外国語学習は使うことを想定していないことが多く漠然とただ学問としてやっているような印象を受ける。語学を道具として活躍させるというビジョンや発想が足りないのが日本の外国語学習の現状であるように思う。

英語ですら漠然と勉強しているだけでは「結局使わなかった」で終わり、実際英語を使えていない日本人は多くそもそも使わずに済んでいる。

 

結局のところ必要性を感じておらず、ビジョンを持っていないから日本人は外国語の習得が苦手ともいえるし、ビジョンを持たず漠然と勉強している人が多いように思う。

中国語に関しても使えないとか需要がないという事は決してなく、中国語ができることでできるビジネスは探せばいくらでもある。ただ中国語が目的ではなく、他にやりたいことが中華圏、華僑圏にあってそこでたまたま中国が必要になったというケースならば役に立たないことは無い。

あくまで「中国語」というものを先に持ってきて、そこを目的にして外国語能力で勝負するから日本語のうまい中国人に負けだけに過ぎない。

他に中国や台湾、華僑圏でやりたいことが独自にあってそこで中国語が必要になったから中国語を勉強するというプランならばむしろ希少価値は出てくる。

華流スターの中国語/アルク中国語ジャーナル編集部/及川淳子/本間史【1000円以上送料無料】

価格:2,160円
(2017/12/7 14:00時点)

「中国語と日本語が話せる人」だったら無数にいるためそこで勝負しても勝ち目はない。

何か他にやることや能力があって、その価値がある前提で更なる付加価値として日中両国語が話せるパターンならば大きなメリットにはなる。

言語自体にはそこまで価値はなく道具に過ぎないという考え方がこれから日本人の外国語学習には必要になってくるかもしれない。漠然と外国語ができればいい時代は終わろうとしていて、外国語を使って何をするかのプラスアルファの部分が求められる時代になる。

結局日本語においてもコミュニケーション能力が大事であり、日本語使えることは大前提でそこから何をするかが日本では求められてきた。これは当たり前の事なのだが、今後は外国語もそのような時代になってくるし大きな利益を上げようとすればその部分は必須になる。

結局外国語ができる人というのは日本中にいるし、外国語となるとライバルは世界中に存在する。その時に日本人だけの考え方をすることにどれだけ意味があるのかということも問題になる。

 

漠然と外国語を勉強して「外国語使えるだけで凄いし、何かに役立ちそう」というビジョンなき外国語学習の時代はもう終わりを迎えようとしているように思う。

本当に好きな言語を学んでその国に住んだり、具体的な仕事やビジネスについて考えてたりしないと言語というのは結局身につかない。

言語自体にそこまで価値は無く言語を使って何をするかが大事だという考え方が必要になるだろう。

「外国語ができる事に価値がある」があるという外国語を目的にする考え方ならば中国語にはメリットがそれほどないだろう。しかし「外国語を使って何かをする」という言語を手段の一つとする考え方ならば中国語にはむしろ莫大な可能性があるだろう。

外国語の勉強はビジョンとセットであり、その言語で何をするかというビジョンを含めた勉強が今後は求められるようになるかもしれない。

elkind.hatenablog.com

酒を飲まない人は本当につまらない人なのか?

よく酒を飲むか飲まないかの議論で「酒を飲まない人はつまらない暗い人」みたいなレッテル張りがされることがある。

普通に生活してたら付き合いで酒を飲むことぐらいあるだろうとか、そこまで楽しみを求めない人なんだろうなとかマイナスのイメージで語られることが多い。

結局多くの人が自分の生活を肯定したがり、自分より楽しくなさそうな人を見つけて満足したいのである。

自分自身は大のお酒好きではあるけれども、かといって飲めない人がつまらない人だとかノリが悪い人だとかは思わない。

 

そもそも「つまらない人生」「つまらない人」というのはどういったことを意味するのだろうか。

例えば何らかの付き合いがあり、一緒に飲みに行った時に自分が飲む側の場合は相手が飲まない人よりも飲む人の方がいいという人は多い。

確かに自分もお酒を飲む立場として一緒に誰かと酒を飲んでる時は楽しいことがある。

 

ただ「酒飲んでる人=面白い人」とも思わない。

結局面白いかどうかはあまり酒を飲む飲まないに関係がなく、むしろ酒が入ったことで言動が荒れて嫌な奴になる人も多いし、飲まなくても面白い人はいる。

現に自分の友人は飲まないタイプであり、自分は飲みながら向こうは飲んでないということがあるのだがそこでつまらない奴だなと思ったことは無い。

飲んだらもっと面白くなりそうだなとは思うけども飲まなくても十分面白いので特に気にしないようにしている。ここで「もっと楽しんでもらうために飲ませたい」と思うのは完全なるお節介で、向こうが楽しんでいるなら自分だけが飲んでいる状態でも問題ないだろう。

 

逆に酒が飲んで嫌な奴になる人はこれまでも見てきた。

もちろん飲んで楽しい人もいるので、結局一緒にいて楽しいかどうかは気が合うかどうかに尽きる。

おそらくつまらない人は酒を飲まないから面白くないわけではなく、飲んだところで魅力がない事には変わりないだろう。

「自分は飲んでるのに向こうが飲んでない状態」を嫌悪する心理には相手が楽しめてないのではないかという余計なお節介だけでなく、自分だけが飲んでいることの恥ずかしさや一体感の無さもあるのかもしれない。

本当の仲間なら同じように酔っている状態になりたいという心理はわかるし物足りないと思う事も分かるが、飲んでない状態でも十分楽しいという相手側の心理も理解する必要があるのかもしれない。

 

そして何より本当に面白い人はお酒を飲まなくても楽しいことが多い。

また酒を飲んでない人=つまらない人生を送ってる論も間違っているように思う。

「あんまり飲み会とかイベント行かない付き合い悪い生活してるんだな」というレッテル張りがここでも行われる。

 

むしろこれは逆になることもあって例えば酒を習慣的に常飲している人はつまらない人生を送っている。この最大の証拠が自分である。

つまらない人生や上手くいかない人生を紛らわすために酒に依存しているしたいてい家飲みで安酒を煽っている。誰もいない公園で虚ろな目をしながらワンカップ酒を飲むこともある。

 

逆に酒を飲んでいなくても楽しい人生を送っている人もいる。

お酒は一切やらないが健康で仲間と外出してワイワイしている人と、家で現実逃避のためにお酒を飲み二日酔いに悩まされる人とならば明らかに前者の方が充実している人生だ。

 

客観的に見て楽しい人生なのか、本人が楽しい人生なのかかどうかも問題であり例えば前述の友人は酒を飲まなくとも十分楽しんでいる。

酒やたばこをやらない分お金もありいろんなものを買っていてほとんどお金を飲食にしか使っていないエンゲル係数爆上げ状態の自分からすると確かに楽しそうである。

更に言えば酒は酔いが冷めた後は地獄でありこの時は最高につまらないし嫌な時間である。酔いが冷めて元の状態にまで戻る気分の悪い時間と戦わなければならないため、むしろ酒飲みはつまらない時間を過ごすことが多い。

 

更に客観的に楽しく充実した人生を送っているケースで言えば摂生をしているアスリートなどは充実した人生を送っている。たとえばサッカーポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドは肉体管理を徹底し酒は一滴も飲まないが世界最高の選手に上り詰め世界一のリア充である。

一方既に肉体的にも衰えが見え始め、酒に依存しているウェイン・ルーニーは世界トップレベルのサッカー選手であり大金を稼いでいるのにどこか不幸せそうだ。

 

そしてまさにこのルーニーのようなケースが実は酒飲みの実態なのである。辛いことを紛らわすためやストレスを発散するために酒を飲んでおり充実していたら酒など頼る必要もないのである。

むしろアルコールを飲まずに済んでいる人は楽しいことが人生にいっぱいあるからわざわざ酒を飲まなくてもいいのであり、その部分は羨ましいし自分も酒を飲んでいない時期の方が楽しかったしまだマシだった。酒を飲まずにやっていられる人生ならそれはきっと幸せな人生だ。

お酒に頼る人は自分のように精神的な憂鬱を発散するために飲んでいる場合が多いため一概には明るく楽しい人間だと言えない。

お酒なしでも楽しそうな人と、酒に頼らなければ楽しくなれない上に酒が切れると機嫌が悪くなる人、果たしてどちらがつまらない人だろうか。

 

その一方で人生が上手くいかないから酒の量が増えるわけであり、それなりに楽しい人間はそこまで飲まないし付き合いの時だけ飲むことが多い。

習慣的に常飲している人はいわゆるアルコール依存であり、特に家で一人酒をしている人が「酒を飲まない人はつまらない奴だ」という程滑稽なことは無い。

 

もちろん人生が充実している上に上手なお酒の飲み方ができて本当に楽しい人もいるだろう。ようは人それぞれで人間そんな単純でもないというだけの話である、お酒が好きだがつまらない人間として自嘲気味にそう伝えたい。

 

酒を飲む人にもいろんな種類がいる。

外で誰かと飲む人はお金も持っていて交流関係にも恵まれている、こういう人は確かに楽しい人生を送っているだろう。週に2,3日誰かと外で飲むようなタイプは面白いし家に誰かを呼んで飲んでいるならば面白い人生だと言える。

人付き合いの一環やコミュニケーションツールの一つになっているならば酒は楽しいツールの一つだ。

 

ただここにたいていひとり酒を家で飲んでいる自分のような負け組の人間をカウントしてよいのかどうかは疑問だ。毎日のように一人家で酒を飲んでいるが間違いなく自分はつまらない人生を送っている。人生が上手くいっていないから最低限の楽しみを見つけようとしているのだ。

「酒を飲む人の人生は楽しい」と強がっている人程、実態は惨めな物なのである。

 

逆に酒を飲んでない人も全員が充実しているとは限らない。

酒を飲んでいる人が全員ルーニー系でもないし、酒を飲んでいない人が全員ロナウド系でもない。結局人間や人生というのは酒を飲んでいるか飲んでないかでは判断できないほど複雑な物でもある。

飲む生活にも様々な生活があり、飲まない生活にも様々な生活がある。そしてそれを考えずにレッテルを張る人間が増えている。そんな稚拙な議論に終止符が打たれることを願いたい。

酒で酔わなきゃ人生やってられないよな

酒がない人生は考えられない、しかしそれは心の底から酒を楽しんでいるからではない。

本当に美味しいからのんでいるというよりも、実際の所アルコール補給という側面に近くただ酔うために飲んでいるのが現実だ。

そして気分が悪くなり後悔する、結局飲まなかった方が何かをする効率も良かったり酔い終わった後の最悪な時間が終わるまでの無駄な時間を過ごさずに済む。

この楽しい時間を終わらせたくないがために無理やりにでも追加で飲み続けて後で苦しみ後悔する。当然ながらお金もかかり、生活費や通信費以外のものがほとんど酒に消えていきまさに負の連鎖である。

 

なぜ自分はこんな悪魔の飲み物が好きなのだろうか、ここまで理解しているにもかかわらず飲酒という習慣がやめられない。

それはやはり飲んでいるときが楽しいからに尽きる。

翌日気分が悪く始まってもその内回復してまた呑むことが楽しみになる、完全に頭をアルコールに支配されてしまっている。

飲んでいるときはいつもよりポジティブになれるしいろんなことが楽しくなる、人生で嫌な事や上手くいかない事がどうでもよくなる、そして新しい前向きなアイデアも考えられるようになる。

 

1:いろんなことが楽しくなる

これは一番のメリットでありまずは純粋に楽しい。他に楽しみがないし、楽しみを作り出そうとしても自分の立場や財力では今のところ出来ないことがあまりにも多すぎる。

そういったときに即自的に楽しみを得ることができるし、努力せずにてっとり早く楽しめるから酒を飲むことが貴重な人生の楽しみになっている。

何かの映像を見たりゲームをしたりすることが酒が入った状態だと通常の3倍楽しく感じられる、いわば感性に対するドーピングをしているようなものだ。

 

世の中ものすごくがんばって、いろんなものを手に入れようとする積極的なタイプと、最低限の努力でそれなりの楽しみを見つければいいという消極的なタイプの2種類が存在する。

自分は後者であり良い物を手に入れる事よりも努力をしないことの方が好きなのだ。

そうすると当然ながら何も得られず、楽しみは限られる。所詮お金も地位も無ければ得られるものなど少ないのだ。そういう底辺の人間でも酒ぐらいは合法的にてっとり早く手に入る。そんな即自的な安い楽しみでも自分は十分なのである。

 

2:嫌なことがどうでもよくなる

自分の人生にも世の中にも嫌なことが多すぎる。あれをしなきゃいけないとかま何も成し遂げられていないとか解決していないとか考えると頭がおかしくなりそうだ。

どうしても周りと比較して駄目な自分がいたり、昔思い描いていた人生の計画に追い付いていない自分の現状も腹立たしくなる。

世の中に対する憤りと自分に対する憤りの2種類があって、普段ネガティブな性格の自分はそういう事ばかり考える傾向にある。

そういう時に酒を飲めばもうそんな悩みもどうでもよくなって逆に今が楽しくなる。漠然とした不安もなくなり、余計な物から解放される。

 

いろんな嫌なことがどうでもよくなるし、努力しなくても今が楽しければいいという考えになることができる。努力しないといけないけど、それができなかったりしてこなかったりして今なにも達成できていないという事に対する憤りや不安から解放されて「やらないといけないこと」がどうでもよくなる。

結局それは悪循環であり、ますます成功から遠ざかるのだが、そんなしょぼい人生もいいやと思えるしそんなしょぼい人生すら「通常の3倍効果」で楽しく感じられるのだ。

とりあえず酒を少しグレードアップして、酒の肴ももう少し良い物が食べられればいいというのが今の所現実的な自分の目標である。

 

3:前向きなアイデアを考えられる

酒に酔うと急に自分はポジティブな人間になる。感情の起伏が大きいためまるで性格が違う。これは酒に酔ってる時に限らずしらふのときでも結構波があるのだが、楽しく感じるときや上手く行ってることへの充足感があるときはポジティブになる。

しかし最近自分はネガティブモードな時の方が多い。

そんな時にアルコールが入ると今までどこかに追いやっていた夢ももう一度目指そうと思えたり、こういう新しいことをしたら面白いのではないかというアイデアマンになったりもする。

現実から逃げてる部分もあるが、それは嫌な部分から逃げているともいえる。

まずはその悩みを取っ払う、そしてその状態で今度はポジティブに考える。

自分の発想を邪魔している不安や現実をいったん追いやることで積極的な考えを呼び戻すことができる。

とにかく不安というものが自分にとっては邪魔で、その不安を酒で解消すれば「今を楽しむこと」「将来を夢見る事」の両方ができるようになる。

 

もちろん飲み終わった後には最悪な時間がやってくる。

酔いは冷める、その後に残るには気分の悪さだけである。

その時は最大限にネガティブだ。ものすごくポジティブな自分とものすごくネガティブな自分の両面をこの飲み物は作り出す。

悪魔飲み物でもあり、天使の飲み物である。

そんな飲み物が自分にとっては必要不可欠なものとなっている、もはや自分にとって大事なものは酒だ。悪い飲み物だと思いつつも飲み、大事にしてしまう。

そもそも快楽は健康に必要なのである。

酒も飲まずベジタリアン生活だけをしている人は実は精神的に殺伐としていたりする。

逆にジャンキーな物や肉を食べて酒を飲んで適度に人間の本能が持つ喜びを開放している人は肉体的にも精神的にも健康だったりする。

だから自分は感情の起伏が大きいことは決して悪い事でもないと思っている。

最大限にネガティブになるときもあれば、最高にポジティブになる時もある。

ずっと低空飛行を維持するよりも、ジェットコースターのような滅茶苦茶な感情の変化や人生の変化を楽しむ方がいい、そう思う。

そしてその人生にアクセントをもたらすのがまさに酒なのである。

なぜ大学を中退した自分が今更海外の大学を目指すのか

自分は日本の大学を中退した人間だ。

中途退学者であり、実質の所高卒だ。大学に通っていたことなどどうでもよく世間的には高卒と同じ扱いである。

憧れの大学生活の末に残ったのはただ何の特技も魅力もない惨めな高卒の人間であり、それゆえに自分は負け組の底辺に落ちぶれた。

なぜ大学を卒業できなかったかと言えば、ほとんど大学に行っていなかったからである。面白くない大学、希望と違う大学に嫌気がさし結局単位が取れず必然的に退学の道に進みその後社会にうまく馴染めないという黄金パターンである。

就職を前提として高校に通っていた人は同じ高卒でも技能があり、早く就職しているため社会に上手くなじめている。

自分はもう数年遅れで差をつけられてしまい、高校卒業と同時に就職した人には途方もない実社会でのキャリアの差をつけられてしまっている。大学に進んだにもかかわらず時間を浪費し、結局肩書は同じ。しかも数年の決定的な差がつけられている。

当然ながら無事大学を卒業した人とも差があり、高卒、大卒を問わずかつての学友に大差をつけられてしまっているのが自分の現状だ。

 

そんな状況で社会にも将来にも希望を感じられない日々を過ごし、酒に溺れ最低限の生活ができればいいと自暴自棄になっていた。

何をやってもうまくいかない、認められない、夢を持てない、いつしか自分はこの社会からつまはじきにされたのけ者になっていた。

どうでもよかったし一刻も早く消えてなくなりたかった、将来が灰色にしか見えなくなったのだ。

 

そういう時自分は趣味であった外国語の勉強を「何か将来のためになれば」と漠然と始めることにした。自分にとって社会で通じる唯一のスキルは語学だったからだ。そして今回は英語ではなく第二外国語スペイン語を極めることに決めた。結局好きな言語が一番伸びるからという理由である。

またスペイン自体にも憧れがあり、今までの生活環境とは完全に違う新しい世界に飛び込みたかったのだ。とにかくこの社会から逃げ出したかったのかもしれない。

 

そこで自分はスペインでの生活や仕事について考えたのだが、「どうせなら果たせなかった4年制大学の卒業をスペインで目指しても良いのではないが」というアイデアを思いつく。

最初は何気ない漠然としたアイデアだったのだが徐々に現実的に考えるようになり、3,4年後の「渡西」を計画するようになった。スペイン語を極めることも勿論だが今度こそ面白い大学生活を送りたいし、ちゃんと卒業したい。

スペインの地で学問を究める、そのことに希望が湧いてきたのだ。

 

また欧米人は日本人ほど年齢を気にしないということもメリットの一つだった。

正直自分がここから数年受験勉強を始めて、学費をためたところで「いい大学」と「学費や生活費」を両立するならば最低あと数年はかかる。来年すぐというわけにはいかないのが現実であり高校時代の勉強などほとんど覚えていない。

そんな中今更日本の大学に行ったところで何浪もしている立場でしかなく、10代も来るような大学の中で疎外感にも似たものを感じるのではないかという危惧もあった。

そしてそこから最低4年かけて日本の大学を卒業したところで空白期間のあるただの大卒にしかならない。

日本の文化で考えたとき、こういった人間はただの行き遅れでしかないのである。考えすぎかもしれないが日本ではどうしても年齢とは重要なファクターだ。周りが意識するというよりも自分が意識するという方が近いが、いずれにせよ自分はそういう空間に今更希望を感じれないのである。

 

また学歴の面を考えたときにMARCHなどはいくらでも日本中にいて、早慶、旧帝のような高学歴層ですら実は世の中にありふれているのだ。現実的に自分の能力や学力を考えたときそこにすらたどり着かない可能性もある。

結局その他大勢にしかなれず、「日本の生活」という想定の範囲内の生活しか待っていない。

そういった「平凡」な将来を考えたときにまるでモチベーションや希望もわいてこない。

「3年後絶対に東大を目指す」ということですらどうでもよく感じてしまうのだ。東大卒ですら実は無数にいるのである。本当に唯一無二の人生を目指そうと思ったとき、日本社会ではただの高学歴ですら埋もれる。

そしてその高学歴にすらなれないし、今更目指す気にもなれないのが現実だ。

日本で大学生になるという事にそこまで魅力は感じない。

自分の年齢のすべてを日本で生活してきた自分にとって、良くも悪くもある程度予想がつく。それが自分に実際にできるかどうかはともかく本当に未知のことはそれほどなく刺激がない。

つまり途方もない労力を投じて目指すほどの夢でもないというのが現実的な認識になりそれほどやる気が沸かない。

自分にとって二度目の受験生活には新鮮味も感じないのである。今更数年遅れで今まで誰もがやってきたようなことを送るほどの情熱はもう自分の中で枯渇している。それだったら普通に日本で使えそうな資格試験でも目指して現実的な就職先を探す方がまだ希望が持てる。

 

しかし海外の大学となれば別。そもそも海外生活という未知の世界があり、良い意味でも悪い意味でも予想がつかない。まるで高校生のころのような新鮮な憧れがあるのだ。

ある程度県外での生活を知ってしまった自分にとって今更県外や日本での生活はある程度予想が付き、多少グレードが上がったとしてもものすごく新しい事ではない。

漠然と「県外」とか「大学」という事に未知ゆえの憧れを持っていたあの頃のような情熱はもうないのである。

 

だがこれが「海外の大学」となれば別であり、高校生の頃のようなモチベーションで挑める。元々大学関係なしに欧州での生活に漠然とした夢があり、そこに更に大学進学というもう一つの夢を加えることができるようになった。同じレベルの大学ならば海外の大学や海外生活経験という肩書でも重要なものになるし、逆に海外でも自分は希少価値のある存在になれる。良いか悪いかはともかくレアな存在になれる、とにかく自分はその他大勢に埋もれたくないという強い思いがある。

 

今の所これはできたばかりの青写真に過ぎない。

途方もない漠然とした夢である。

しかしそういう漠然とした大きな夢を抱く情熱すら失っていたのが最近の自分であり、人生を諦めかけていたのだ。そんな人生を諦めかけていた自分にとって久しぶりに新しい夢ができた。

スペイン語なんてつい数日前勉強し始めたに過ぎない、この状況で自分は途方もない夢を見ているのである。

しかし40近くになって何も持たずに渡米したピース綾部のような人もいるのだ。

正直自分はスペイン語なんて一切話せないし、綾部の英語力のほうが自分のスペイン語力よりはまだ高いほどだ。

 

しかし人生チャレンジするのに遅いなんてことは無い。

人生一度は無謀なチャレンジャーになるぐらいの方が楽しい。

むしろ海外挑戦を視野に入れる年齢としては今の自分は早いかもしれないし、そもそも一生日本から出ずに人生を終える人もいる。一度きりの人生一度は海の向こうでチャレンジしたい、その挑戦を考えたときにむしろ自分は早く夢を決めることができたほうかもしれない。

何もない場所から、終わった場所から夢を見る。

夢さえあれば不可能はない。

日本社会で通用しなかった人が海外に活路を求めてもいいよな

自分は間違いなく負け組であり、日本社会のレールから落とされた人間だ。もう日本社会では夢も希望もない、人生に行き詰まり感があり新しいことを始める気がしないという思いにとらわれる。数年後まるで明るい未来を想像できないのだ。挫折し失敗した後に同じ環境で夢を持つことは難しい。

また失敗するだろう、また認められないだろう、そんなことが自分の考えを支配する。

結局のところ自分は日本に向いてなかったのだ。

 

いつしかこの社会の停滞感に飽き飽きして、その社会で底辺に沈む自分に虚しくなり何の希望も持てずになっている。10代の頃に思い描いていた未来や抱いていた情熱は当に消え失せた。

「どうせ社会ってそんなもんよ」と半ばあきらめにも似た境地に達していた。

 

しかしその社会って何だろうか、世の中って何だろうか。

それって世界200あるうちの1つの国に過ぎない日本社会でしかないんだよということに気付いた。200もある国の中のたった1つの国で失敗しただけにすぎない。そして世界は日本だけじゃない。1/200の例を世界のすべてであるかのように語っていては世界観が狭い物にしかならないだろう。

 

そして自分は海外に活路を見出すことにした。ここ最近とにかく海外の事ばかり考えて将来的な日本脱出計画を具体的に考え始めている。

この感情、大学進学や県外に行くことを考えていた頃に似ている。

それまでの自分は所詮片田舎の一つの県がほとんどすべての世界だった。生まれ事態は都会とされている場所だが実際はほとんど辺境の田舎で育っている。

そんな自分にも高校生になると新しいチャンスが訪れる。大学進学で県外に出るチャンスがやってきたのだ。その時の高校生活はバラ色のキャンパスライフを思い描いてとにかく将来に対して明るい希望を持てた。今の高校生活はつまらなくても大学では一花咲かせる、県外では活躍できる、そう思い描いていた。

しかし現実には受験にも失敗し、流れ着いた志望していなかった大学でも失敗し結局中退することになる。

 

それ以来自分は日本社会の中で落ちぶれレールを踏み外し底辺をさまよい生きてきた。

そんな自分にもう一度「あの頃」のような希望が訪れる。

海外留学、海外への進学である。日本で大学を卒業できなかったとしても海外の大学に進学すればいい、そのことに気付いたのだ。元々この発想が生まれたのは自分がスペイン語の勉強をし始めたからである。しかしただスペインに行くだけでは漠然としている、そう考えたときにスペインで大学に通って卒業したいと思ったのだ。

実際スペインの大学は学費が安く、バルセロナマドリードのような主要都市でも生活費が日本に比べて安い。そして元々自分は大学関係なしにスペインにいつか行きたいと憧れていた、情熱の国スペインは自分にとって昔からの憧れである。その憧れに決定的な動機をもたらしたのが大学進学という夢である。

所詮大学中退、つまり高卒でしかない自分に大卒の肩書を得るチャンス、しかも海外の大学卒業という夢がもう一度できた。

 

もう一度大学生活をめざし、今度は自分の手で卒業する。

その壮大なプランはまるで高校一年生の頃のような希望を自分に取り戻させてくれた。

自分が高校生の頃に目指していた大学には結局行けなかったが、その大学を目指していた頃はなんだかんだで未来に希望が持てていた。全てを諦め自暴自棄になり世の中がくだらないと思ってた自分が再び高校時代のような希望を取り戻すことができたのだ。

 

もちろん道は険しい、途方もない夢であり壮大な計画である。

しかしそういった途方もない夢が欲しかったのだ。

何にも希望が持てずただ現実的に寂れたものを追いかけるよりも、10代の頃のようなエネルギッシュな情熱で何かを追いかけたい。

かつて高校生の自分にとっては「県外の大学」が輝いて見えた。

そして今の自分には「海外の大学」が輝いて見える。

結局自分は冴えないつまらない現状を打開するために遠い場所に希望を求めることが好きなのだろう。今度こそ絶対に夢をかなえる、実現できなかった夢の活路を海外に幹出す。

誰もできないと思っているが、自分だけはできると思っている、それが大事なのだ。

終わったはずの夢がまだ僕らの背中に迫る、とどこかの誰かが歌っていた。

 

このアイデアはつい昨日、一昨日に浮かんだアイデアである。

スペイン語の勉強も本当に始めたばかりであり、そもそも大前提となるスペイン語の取得が上手くいくとは限らないし個の勉強が1か月続くことすら不透明だ。そして欧州での生活費、渡航費の貯蓄などを含めると数年がかりの計画になる。

ただ自分は高校の3年を完全に無駄にした。そして大学生活さえも無駄にした。

その経験を活かしてこの3,4年を大切に過ごしたい。

もう二度と同じ轍を踏まない。

日本社会で失敗したことが役に立った、そう言えるように頑張る。

日本で通用しなかったら海外で活躍すればいいのだ。世界200分の1の国に固執する必要などないのである。日本で上手くいっておらずこの先数年頑張っても劇的な変化など見込めない、その停滞や先行きの無さにげんなりしているならば思い切って数年後の海外への脱出計画を考えるべきだろう。

一つの国だけが自分の実力を測る指標ではない。

もちろん日本で上手くいって、日本には大切なものがあり多くの人に認められ充実している人に海外脱出を薦めるつもりはない。

今までこの社会で上手く行っておらず落ちぶれて希望も持てない人に「日本だけが全てではない」と伝えたいのである。何も失う物がないならば海外に挑戦するべきだ。日本に固執する必要もなく、日本の価値観だけが自分がどういう人間であるかを決める絶対的な指標にはならない。

 

良い方向に変化するか、悪い方向に変化するかは予測できないがとにかく海外に行けば何らかの大きな変化は訪れる。日本で認められず落ちぶれている人は思い切って環境を変えるべきだろう。

日本社会が全てではない、ゲームも一つの街だけにいたらつまらないだろう。

海を渡り、そこで新しい人生を始める。

 

このまま日本でチャレンジし続けることに希望もなくもはやチャレンジする意欲すらない、そう言った人は思い切って「海外」というこれまでに考えなかった全く新しい夢を思い描くべきなのかもしれない。

 

それだけで日々の生活が変わる、何か大きな夢を持つことと、変化が訪れるという希望を持つことはメンタルを充実させる。それが上手くいくか行かないかに関わらず今とは違う未来を思い描いて過ごすことはそれだけで心のよりどころになるのではないだろうか。

少なくとも自分は数年後欧州の大学に進学するという夢を持ったことで、つい最近まで失っていた高校時代の頃のような情熱を取り戻すことができた。

少年よ大志を抱けとクラークはいったが、負け組よ大志を抱け、今自分にそう言い聞かせたい。