負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ワイバルサ、グリーズマン獲得でウッキウキ

この度、フランス代表アントワーヌ・グリーズマンのバルセロナ移籍が長い交渉の末、正式に決まった。

それはそれは本当にひと悶着もふた悶着もある遺恨を残しかねない取引であり、無事こうして決まってひとまず自称バルセロニスタとしては安心している。

 

正直この移籍騒動に関して言えばぶっちゃけバルサが悪い、そこは認める。というかPSGの選手に無断で手を出そうとしたり、リバプールからコウチーニョを強奪したりとここ最近のバルセロナは品が無いのも事実で周囲に敵を作りまくっているのも事実だ。

アトレティコとはレアル・マドリード程は因縁の関係ではなかったが、これでもう完全に恨まれたし実際バルサアンチのアトレティの方々は日本でも急増している。

実際アルダ・トゥランの時もトラブルがあったので、少しずつ怒りのマグマが溜まっていたのだろう。

 

ごめんねごめんね~(煽りやめぇ)

バルセロニスタ「うるせぇ黙れ、真に一流選手はバルサでプレーする資格があるんだからさっさと渡さないお前らが悪い」

これぞメガクラブ式ジャイアニズム!

かつてはレアル・マドリードのそういう横暴な姿勢を批判していたのに、今度は自らが成りたくなかったヒールになっている、そこに痺れる憧れるゥ!

 

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アントワーヌ・グリーズマン選手、改めてFCバルセロナにようこそ、君のバルサでの活躍に期待しているよニチャア

気持ち悪いことがバルセロナのアイデンティティーであるとシャビ先生から学んだことだと思ってるんでね、延びしろですねぇ!

 

とハッスルしすぎな自分だが、ちょうど一年前頃にもグリーズマンの移籍は噂され、自分自身楽しみにしていたのでようやく願いが叶ったという思いだ。

もう28歳というのも事実であるため、アトレティコとしても高給取りのグリーズマンが移籍金まで残していった事は十分だろう。それでロナウド二世イケメンのジョアン・フェリックス君まで取れたなら文句なしですやんと。なんで我々バルサを恨むのかわかりませんねぇ、最近こういう意味不明な八つ当たりするクレーマー多くないですか?と小一時間問い詰めたい。

 

ところで練習拒否で強行移籍にこぎ着けようとしているネイマールさんはマジでどうする気なんや。

いくら金満大正義バルサでもこの状態でネイマール取ったら財政規定に抵触は免れないだろうし、そもそもお宅のPSGさんがバルサ憎しで許してくれへんのでおまんがな。

 

ただネイマールまで復帰させたら豪華さだけはかつての銀河系軍団レアルを越えるだろう。ただし弱いというところまでコピーして。

現代サッカーのメガクラブはリーグ優勝とCLの制覇を両輪として求められるので、二軍でも準ビッグクラブ並の戦力を揃えることは当たり前になっている。この場合同時器用にさえ拘らなければ問題はない。メッシと役割は重なるが、どちらかが不在になる状況も長いシーズンでは考えられる。

 

しかし現状バルベルデという指揮官はあまりローテーションが得意ではなく、それで昨シーズンはチャンピオンズリーグを寸前で取り逃しているのでそこは不安だ。

リーグ戦だけ華やかに格下狩りをしてCLで勝ち進めない光景はさすがにもう見飽きている。

あのCLでの屈辱的敗退は非常にショックで自分自身もうサッカーはどうでもいいやと思った程だった。今回のグリーズマン獲得でようやく傷心から復活し、来季に対する希望や情熱もまた戻りかけている最中だ。

やはりバルセロニスタはこうでなければならない。

信仰心をそう簡単に失ってはならないのだ。

バルサマンセー!

 

そしてそれに加えて日本サッカーが今抜群に面白いのも自分のサッカー熱がわりとすぐ復活した要因だ。

久保建英のマドリー移籍と、中島翔哉のポルト移籍はこれ以上ない好材料でシーズン開幕前から既に楽しい。

ちなみにバルサは手塩に育てた久保をかっさらわれたパニックバイでなぜか鹿島の安部を獲得したが、最近こういうバルサのダサさも目立つようになってきている。個人的には安部に期待しているものの、コアなバルセロニスタの間ではフロントに対する不満が強くなってきている。

自分自身、久保をあんな簡単に目先の理由で見捨てて久しぶりのカンテラ成功例を逃したのはちょっと間抜けだと思ったし、日本人以外からも久保を逃した事に対する不満は噴出している。

 

またここだけの話、メッシに対する不信も以前のような神格化時代と比べて表面化し始めているのも事実だ。

特に南米選手権での失態はメッシの威信と偶像性を傷つけた。

元から一部のバルセロニスタの間ではもはやメッシ依存の特殊な戦術がバルサの限界を作り出しているという批判があったが、今回の件でメッシはクリスティアーノのような栄光をもたらさない存在なのではないかという疑惑が生じている。

そもそもメッシは32歳なのでそろそろ休養も必要になってきているが、相方のスアレスよろしく試合に出たがりおじさんと化しているので扱いが難しい。

その上バルベルデは聖域には手出し出来ないことなかれおじさんなので更に事態は深刻だ。

28歳のグリーズマンがまだピチピチに動ける若者扱いされ、もはや守備での貢献を期待されているというバルサの深い闇はタブーだ。

 

更に本来若手のはずのデンベレ君が素行不良とスペ体質というおまけ付き、世界よこれがバルサだ!

フレンキー・デ・ヨング君「俺はなぜこんな所に・・・」

ラキティッチ「居座るやでーw」

コウチーニョ「新しいスケープゴートが来てくれた」

ブスケツ「おう、若手は言うこと聞けよ」

ピケ「新入りにはいたずらで洗礼浴びせたろ」

デリフト君「クリロナ先輩、ユーベ選んで良かったっす!」

なんてことにならなければいいが・・・

 

そういえばあれだけイキッていたプレミアオタはガチでどこに消えたのか。

プオタ「時代はプレミアリーグ!CLもELもプレミア勢対決!リーガはオワコン!」

久保移籍でプレミアの話題は四散、リバプールなんてもはや誰も話題にせず三日天下

ついでにアザールもレアル確定、ポグバもおそらくスペイン行き。

あ、一人プレミアに行きそうな奴がいるかも・・・

 

数年後

某ゴルファー「こんにちは、マンチェスター・ユナイテッドのガレス・ベイルです」

中国人「天安門事件とか正直どうでもいい」←まあ分かる

香港の市民デモが今世界中の話題となっており、第二次天安門事件だと例える声もある。

そこでつい最近、天安門事件に関するドキュメント番組を見たのだが実際の中国人に聞いてみると「知らない」「どうでもいい」という意見が多く、中国共産党の見解としてももう終わった事なのでこれ以上語ることはないという感じだ。

 

中国人のそういった態度を見て憤る思いも分からなくは無いが、逆に中国人の立場で考えれば別に日本人が犠牲になった訳でもないんだし別に大多数の中国人は今で幸せなんだからとやかく言うんじゃねぇよというのも分からなくは無い。

 

確かに米中貿易戦争が加熱してきてはいるものの、もう中国の発展は経済や技術どころか更には文化コンテンツまで成熟する段階に入ってきていて、先進国と差がなくなり始めている。

既に人工知能や5Gの技術はもちろん、有名どころではTiktokにしろアズールレーンにしろ、身の回りの中国製品どころかアプリやゲームまで日本人は中国文化にどっぷり浸かってるわけで、その内、中国にしか作れない物ばかりになっていくだろう。

 

正直現実の生活や発展の方が大事であり、綺麗事みたいな民主主義の理念なんてぶっちゃけ何の役にも立たないわけで、人権が乱用されてポリコレ天国になった国はどこも悲惨だ。

その上形だけ自由選挙があるだけで、実際シルバーデモクラシーと上級国民ゲーになって民主主義なんで壊滅してる日本からすりゃ、もうこういう不毛な論争はどっちでもいい。

 

日本人ですらそう思うんだから、いくら外からディストピアだろうと言われても、当の中国人は落ちぶれた自称先進国の西側先進国の方がよっぽど哀れに見えるだろう。

 

そもそも民主主義の国でない人は人間味が無くて暗いというのは冷戦時代のソ連に対する偏見で、実際のソ連人は役所の冷たい対応などを除けば実は暖かい人が多かったし、芸術も評価されているものは多い。

多少民主主義社会の人々と考え方の違いはあるかもしれないが、中国人も人間味があり自身と活気に満ちており、逆に日本人の方が暗い社会とネットの普及で自らディストピア化しているよなぁと思うのだ。

文化だって規制の中では育たないというが、現に中国は第三次産業やソフトコンテンツが発展するというか、もう日本を抜いて独自の広大な内需で成り立ち、更には輸出する段階になっている。

 

天安門事件が起きたのは1989年で中国はまだ開発途上国だった。日本で言えば1960年代くらいの生活水準や社会意識だろうか。実際自分の父親が1980年代の中国に社員旅行で行った話を聞くと、本当にそのぐらいの感覚だったようだ。

 

その時は現代の体制に疑問を抱き新しい社会を夢見るが、いざ発展してみるとそんなことどうでもよくなってくるのが人間だ。

日本だって戦後少し経った時代は反安保だといって大規模なデモをしていたが、岸内閣が強行採決で退陣して、その後池田内閣で高度経済成長を迎えたら興味を失っていった。極左活動も1970年代に入れば政治の季節が終了して世間からの支持を失っていく。

結局貧しい時代だからこそ不満もあるし新しい未来への憧憬がかきたてられ意識が高くなっていくが、いざ発展すると皆タピオカブームみたいなものにしか関心が無くなっていくわけだ。

最近だとSEALDsがはしゃいで盛り上がっていたが見事に消えていったことが既に懐かしい。特に今のネットだとああいう意識高いノリは馬鹿にされるので、中国も似たような状況なのだろう。

 

中国人からすれば天安門事件は過去の安保闘争や最近のSEALDsを時の政権が武力で鎮圧したようなもので、「暴動」を上手く処理したというイメージに近い。

不謹慎だが中国人の立場からすればそれくらいやって当然という感覚だろうし、80年代に学生運動してた世代なんて今の中国に若者からすれば暑苦しいおっさんやおばさんにしか思えないだろう。

 

いわゆる「80後」や「90後」と呼ばれる世代であり、彼らは裕福な現代中国しか知らず、「天安門事件で中国当局はこんなに酷いことをした、なぜ中国人は黙っているんだ!」と西側の人間が上から目線で説教してきたところで鬱陶しいとしか感じないのも当然だ。

今の日本は衰退しかかっているからこそ、「今は革命が必要だが日本人はデモストライキを冷笑するから何も変わらない、昔の若者は情熱があった」という論調になるが、中国はあれだけ発展していたら民主主義の理念(笑)になるのも頷ける。

 

そもそも中国は4000年の歴史で強い皇帝の時ほど安定と繁栄を享受し、確固とした指導者がいないときは戦乱で荒廃していたという長い経験がある。

近代民主主義など最近できた薄っぺらい戯れ言という感覚なのだ。

大体、日本人だって歴史のほとんどが帝と貴族による支配か軍事政権だったわけで、民主主義に目覚めたのはここ最近の話だ。

幕府というのは武人による統治であって、実は軍事独裁で軍人が偉い時代というのは何も昭和の軍国主義時代だけではない。

中国はガチガチの専制国家であり、日本は筋金入りの武人国家だというのが本来の国民性に合っているのではないか。

逆にアジアで最も民主主義が成熟した国だと意識高く誇っている韓国が産み出したアジアのスーパースターが文大統領であるのだから、民主主義ってなんだろうなと思わざるを得ない。しかもその韓国が経済発展を遂げたのは軍事政権下であるし、実際左派の意識高いノリのうんざりしている韓国人は多い。

中国が皇帝による専制、日本が武人による統治だとすれば、韓国の歴史上、儒教に熱を上げてきた時は周辺国に侵略されてきた。机上の教理に酔っているといかに国が脆いかがわかる事例だ。そして今は熱心に民主主義という理念に系統しており、彼らはアジアで最も市民意識に目覚めた成熟した国家だと思っている。

 

最近、日本にトランプ大統領がやって来て媚びた外交だと揶揄された。目覚めたリベラルの宿敵トランプに喜ぶ日本と、民主主義の砦を自負するイギリスの対比が鮮明だったが、正直日本からすればトランプ兄貴ほど頼もしい味方はいないだろう。

別に一国の首相が道化を演じて媚を売ろうが、元々安倍はそんなキャラなんだし、日本の最高権威は天皇なのだからその誇りが守られれば民間人の首相が雑用をすることぐらい構わないというのが日本人の感覚だ。

良くも悪くも日本は特殊なのだ。帝と将軍のどちらかが偉いという感覚で生きてきたので、いつの時代も総理大臣は二番手であって共和国ではない。

 

だから実は物の見方によっては実は中国人が共産党独裁や習近平体制を称賛する感覚は、日本人からするとわりと理解しやすい部分がある。

よくありがちな量産型民主主義国家と違って、自分達は独自の体制があるという人とは違うアイデンティティのような意識があるのかもしれない。

また最近中国は意外と反日を控えており、例えば旭日旗問題で意外なほど寛容でつい先日も海上自衛隊を歓迎し現地のミリタリーファンが「歴史ある海軍」として写真撮影に殺到した程だ。

韓国としては対日同盟として味方だと思っていた中国に梯子を外された格好で、旭日旗問題で勝ちたければ中国にはかつてのような反日国家に戻られると困るわけだ。

 

かといって中国に今回の香港のように飲み込まれるのも困るわけで、アメリカとの関係は大事にしておきたい。

正直アメポチ上等でキングトランプ閣下にF35売ってもらって空母認めてもらって何ならイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドに続く第5の同盟国として信頼してもらった方が日本は安泰だ。

 

ただ日本に米中の間で巧妙に生き延びる外交センスがあるかといわれれば微妙で、ここら辺は二枚舌どころか五枚舌もある英国には遠く及ばない。

仮に戦国時代のような謀略に長けた武将が今いれば、同じ島国の日本にもそんなセンスがあったし明治の薩長の時代にはそういった気概があった。これも全ては民主主義を美化し、武人を軽視してしまったツケだ。

 

中国といえば皇帝と科挙という官僚主義だが、これはまさに習近平と共産党エリートにあてはまる。

明治維新の残り香があった日清日露、第一次大戦までの時代と比較して、東條が首相になっていく経緯を見てもわかるように官僚主義になると途端に無能になる日本とは真逆で、中国は中華という秩序を皇帝と官僚が治めているときが安定している。

 

中華という文明から離れた島国の戦闘民族の我々はある意味野蛮な存在であって、実は世界最凶のアングロサクソンのような本能の戦闘センスで生きてきた。

よく韓国人は「やはり島国はサイコパス」と日英を見て言うが、日本人って小綺麗に優等生ぶろうとするのは辞めて、素直に本性を認めた方がいい気はすると思っている。

 

逆に漢民族というのは我々が思っている以上に本来は温厚で、常に外敵に悩まされてきた歴史が長く、それゆえに反動で中華思想と掲げたり、今みたいな拡張政策を続けたりする面がある。

これはロシア人と瓜二つで、端から見れば膨張政策のように見えるが実は過去の辛い歴史による不安ゆえの行動だ。

一見優等生に見えるイギリスや日本が実はバリバリの武闘派で強敵に喧嘩売りまくって、実は問題児や不良に見える中露が臆病な内弁慶だというのは興味深い構図だ。

 

ソ連が防衛戦争には滅法強かったが侵略戦争は苦手としていたように、実は人民解放軍はほとんど対外戦争で勝利したことがない。自国民や平和に過ごしていたチベット、ウイグルには内弁慶でいじめまくったが、アメリカ相手に勇敢に戦って鍛えられてたベトナムには一瞬で撃退されたのが中国軍だ。

また中国最大の領土として毛沢東や周恩来が回復しなければならないと掲げた清帝国の領土も満州人が成し遂げたものであり、元はモンゴル人の国家だ。

現代中国の中心は漢民族だが、歴史を見てみると漢民族というのは外的に攻撃的になったことは少なく、どちらかというと文明や文化を発展させてきたわりと平和的な民族なのだ。

 

なので習近平主席が演説で「中国は平和国家だ」と何かと平和を強調するのは、まあ漢民族の歴史観としてはギリギリ嘘ではない笑

逆にバリバリの戦闘民族日本人が戦後しれっと平和国家の振りをしてる姿の方が彼らからすれば不気味に映るだろう。

資源もなく体格も小さい日本人が東洋どころか西洋にまで喧嘩を売りまくってたことを中国人は覚えている。それどころか巧妙な外交で渡り合い、今でも米英と上手く付き合えているというのは不可思議な話だ。もちろん外交は仲良しごっこの馴れ合いではなく時に厳しいこともあるので、ちょっと米英が厳しくなったからといって勘違いして絶交するとこの前のようなことになるのは教訓だ。

 

実はこの香港デモの直前に大きな布石があったことを知っておかなければ話は見えてこない。

そもそも今回問題になっている法案は数ヵ月というか一年前から問題になっていたが、そんな文脈の中トランプが台湾を国家として承認したばかりだった。

また就任して間もない頃に台湾をTAIWANだとツイッターで言及し、トランプはアメリカ大統領史上初めて台湾という呼称を使った大統領でもあった。

イスラエルの首都はエルサレムと同じくらい重要な発言をしているので、世界は変わりつつある。

 

アメリカ「台湾は独立国家」

中国「香港は中国」

こんな感じの対立がバチバチ火花を散らしている。

いわゆる中国と台湾の両岸問題だが、今回の件で中国の本性を知って台湾で親中派が減少し総統選挙候補のほとんどが台湾の独立を守れるのは我が党だけと強調する事態に発展している。

 

台湾に対する中国の圧力といえば、かつてTWICEの台湾人メンバーであるツウィが番組内で渡された台湾国旗を振っただけで「独立活動家」とみなされ謝罪に追い込まれたことがある。

実際この後、韓国で活動する台湾出身の芸能人はプロフィーでも「中国台湾」という微妙な表記をされるケースが増えているので、トランプが台湾を国家として認めた影響は大きい。

 

トランプ「ツウィをいじめた中国に言ってやる、TAIWAN NO1!!!」

トランプはONCEだった!?

 

同じ美人独立運動家といえば香港の周アグネスさんがちょっと話題になっているけれども、やっぱ美人がジャンヌ・ダルクみたいに救国の女神として現れると応援したくなるのは万国共通だ。

実際ジャンヌは不細工だった説と美少女だった説とがあるが、もう浪漫のためにヤンデレ厨ニ少女だった説で自分は解釈している笑

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それでいえばアグネス・チョウちゃんは欅坂46が好きらしいので、中国から黒い羊として扱われている香港版まほほんとして好きになっちゃうだろう?

そして気づいたのが香港人は「香港人」という言葉を意識して強調する傾向があるという点で、実際香港人は中国に対して優越意識のような物を持っているという話はこれまで何度か聞いたことがある。

そもそも言語も広東語寄りで文化や価値観も大きく違い、中国共産党に媚を売ってるジャッキー・チェンの現地評価は低いようだ。

実際自分の年齢だとまだ香港がイギリス領だった時代に生まれているし、周アグネスさんもギリギリ中国になったばかりか英国領だったかという時代だろうから親世代は完全に香港というアイデンティティがあるだろう。

自分も親から香港旅行の話を聞かされたり、漫画や映画で香港を見たりした時の印象なので、最近ここまで中国化しているというのはちょっとカルチャーショックだ。

中国人が海外旅行に行った時に「香港人です」といえば扱いが違うというエピソードもあるように、そりゃ香港人が自分の出自を大事にしたいという思いも理解できる。

 

ツウィが謝罪動画をあげさせられたときも「中国人として」と言わされていたが、どこか表情は暗かったのが印象的だ。

アメリカの大学で台湾人が生徒会のような学生組織のリーダーになったときも本省人から抗議と嫌がらせがあったようで、数の暴力で少数派の台湾人や香港人は窮地に立たされている。

日本の意識高い系デモと違って本当に命がかかっているから、雨傘デモにしても本気度が違う。

今後中国が香港を強行的に併合してしまえば、香港の金融産業や観光産業は付加価値を失い中国の一つの省として細々と過疎化していくだろう。

中国には他に様々な特区があるし、他の省が発展して優位性を失った省も存在する。香港は香港だから価値があるのであって、中国の一つの小さな領域になってしまうと希少価値は半減する。

 

周アグネスちゃんに「私は中国人です。習近平主席を尊敬しています。」とツウィみたいな悲しい顔で謝罪動画を投稿させたくなければ欅オタのおまえら全力で行けよ。

そして中国当局が香港のジャンヌ・ダルクを欲しがれば、もうひとり別のアグネスがいるではないか。

アグネスちゃんは大事だけどアグネスチャンはどうぞどうぞ、でも安倍はアグネス・チャンのファンなんだよなぁ・・・笑

 

そんな周アグネスちゃんが戦わなければならないのは欅坂の曲で言えばサイレントマジョリティーではない、ノイジーマジョリティーというもっと大きな強敵だ。

今や中国は一つの国家だけでも完結できるほど巨大で、実はアフリカの全人口合わせた数より多いという現実がある。

更に中央アジアのキルギスやカザフスタンや東南アジアのスリランカやミャンマーを準植民地レベルに仕立てあげ、欧州はモンテネグロを手中に収めたと思ったらイタリアに着々と進出し元々ドイツとはズブズブの関係にある。

 

軍事拡大をし併合した地域は発展しているというロジックを駆使する姿は、かつて批判していた帝国主義の日本とまんま同じ事をしているが、ドイツと別のチームになりそうなのは幸いである。そしてイタリアがこっちに逃げてきたらいよいよ座敷わらしがやって来たと可愛がって迎え入れようではないか、おあとがよろしいようで。

NHK北朝鮮帰国事業60年後の証言についての感想

1959年から始まり84年まで続いたとされる北朝鮮への帰国事業について、NHKがかなり骨のある特集を組み放送した。

自分はこういったドキュメント番組を見るのが好きで、何かと偏向だと批判されるがNHKの取材力はやはり凄い。一応NNNドキュメントなど民放でもかなり踏み込んだ事を取り上げている番組はあるが、時代の変化によってこういった事を本格的にやれる局は少なくなってきているのが現実だ。

 

帰国事業というのは戦後、在日コリアンを北朝鮮に帰国させようという試みでその存在自体は以前から知っていた。

「朝鮮人は植民地時代に不幸にも強制連行された」というある種のストーリーがあり、それに対して「帰国事業で帰る機会を与えたのにわざわざ残って日本に文句を言うのはおかしい」という問答がされてきた。

 

この帰国事業に関して自分は以前にもいくつかの番組や映画を見たり、著書を読んでその実態について読んだりしてきたのでこのETV特集で初めて知ったというわけではない。

 

全体を通して一番感じた率直な思いをまず上げてみよう。

それは在日コリアンは事実上の日本人だということだ。

この番組に登場した印象的な夫婦は、日本で生まれ育ち戦後日本国籍を剥奪され「地上の楽園」を信じて北へと渡ったと語っていた。

自分は柔道に明け暮れ東京五輪を目指していたら、国籍が日本では無いことで夢が絶たれ、その時に朝鮮総連からの勧誘によって「向こうは教育も住居も全てタダで手厚い保証を受けられる」と誘われ渡ったそうだ。

言葉は今脱北して韓国で暮らしていても、イントネーションやニュアンスを含めて完全な日本語だ。

若い頃の写真を見ても話のトーンを聞いても本当に穏やかな人で「みんな朝鮮人嫌いやんか」と話していたのが胸に響いた。

またいざ帰国船で清津という北朝鮮の都市に降り立ったときの衝撃を語り、「日本だったらいろんな髪型のブームがあって石原裕次郎やリーゼントみたいなのがあったけど皆向こうは貧しい服装で角刈りばかりだった」と話していた。

帰国した日本人も現地の実態に驚き、帰国者を歓迎するために練習させられていた人民も彼らの優雅な佇まいや身なりの優雅さに「天国から降り立ったようだ」とお互いに驚いたという。

つまり信じて予想が相互に崩れたのだ。

片方が地上の楽園だと信じて、もう片方は差別と過酷な生活に苦しむ同胞を哀れみ助けようとしていたはずだった。

 

余談ではあるがこの番組の後に帰国事業について調べたところ、更に後の時代に日本から北へ親戚や家族に合うように行った時に「日本では今も石原裕次郎や美空ひばりが人気なのか」と日本の事情を気にしてたというエピソードも見かけた。

昭和の時代のそういうスケール感が凄いというか、逆に日本に対して望郷の念を抱くという構図も興味深い。

現地では日本から送られてくる物に価値があったともいうし、北朝鮮から日本に残っている親族に要求される物品にも北の現実を感じたという。そこで宣伝される体制の成功に疑問を感じたという人は多い、更にその実情は知っていてもとにかく家族と暮らしたいという思いで帰国した人も存在する。

 

この石原裕次郎のファッションに影響を受けたアジョッシというかおじさんは個人的に魅力を感じた証言者の一人で、「日本から持っていったセイコーの時計を売ったら一瞬金持ちになった」という話が面白かった。当時朝鮮現地の月給の10倍近い値段になったらしい。

それで平壌駅に行けば酒は飲めるし、現地人も恐れて文句を言わなかったという。もし何か言われても「ゲンゴローどっか行け」と怒鳴れば立ち去って言ったという。

これが1960年代の平壌の話で、お金があれば好きに楽しめた社会主義の実態を感じつつも、その当時の雰囲気を想像してみたくなった。一体当時の平壌駅でお酒を飲める食堂とはどんな場所だったのかと。

 

また彼の奥さんも帰国者で、話し方は完全に日本のちょっと性格がキツそうなおばさんで「ゲンちゃんとは絶対に遊ばなかったよ」と語っていた。

 

ここでいう「ゲンゴロー」と「ゲンちゃん」というのは現地の人という意味だ。

戦前は日本人にいじめられたと語る植民地時代を知るお婆ちゃんを別の番組で見たことがあるけれども、実は同じ朝鮮人でもこういった差別意識が無意識に生まれていたのは興味深かった。民族というより文明や文化の水準が実は差別を生むのかもしれない。

 

ここでまた違う証言者の話を出してみよう。

インタビューに応じた彼はもう80代に差し掛かっており、元々朝鮮総連の活動家として同胞を北に送り込んでいた立場だ。そんな彼も北朝鮮に渡ったのだが、考え方の違いに幻滅し今では過去を反省している。

当時資本主義陣営と社会主義陣営の苛烈な競争があったとはいえ、「話にならない」と幻滅の様子を語り現在日本で過ごしている。

 

本当に祖国が嫌いならば帰らないわけで、少なくとも最初は多少の民族意識を抱いていた在日コリアンですらやはり現地の朝鮮北部との差を感じ理解と適応に苦しむのだから、実際朝鮮が日本領になってから統治に関わった日本人はどれくらい衝撃だったのだろうか。

1960年代という朝鮮戦争後の北朝鮮と、戦後復興後の日本との差は同じ近代社会だがそれでも差があった。それならばいわゆる日帝強占期が始まった時代のギャップ、しかも民族は異なる立場だったのだから想像もつかない。

同じ朝鮮人だという民族意識よりも、現実に相対すれば生活や日常の感覚の違いが大きく見えたのだろう。その結果帰国者同士で集まるコミュニティが発生し、結婚のような人間関係も自然と別れていったという。

 

今でも日系ブラジル人は本土の日本人に対して自分たちを見下しているのではないかという考えを持っているというし、逆に意識高い系の帰国子女が同じ日本人にマウントを取ることもある。最近では日本人同士の地域対立煽りも酷い。

そりゃ日本育ちの在日朝鮮人が、現地に対して蔑んだ目線を持つのも仕方がない現象なのかもしれない。

 

更に差別は一方的ではなく、現地朝鮮人も「在日同胞」に対して羨ましいという感情を越え、やがて反発を抱くようになり1970年代や80年代になると帰国者の立場は劣悪になっていく。

この番組では特集されていないが、北朝鮮社会が成熟するにつれて帰国者家族は物を盗まれるなど被差別対照となっていく。日に日に日本の親族に対しても要求が厳しくなり、万景峰号で物品を送らされていたようだ。金正日が影響力を持つようになると貴重な外貨収入源として利用され始める。

また別の映画でも北朝鮮当局や総連に対する不信が描かれており、「在日」は同胞ではなく本国からも日本社会からも排斥される存在として独自の立場となっていく。

そういったいわゆる「僑胞(キョッポ)」の複雑な心理に自分は思いを馳せるが、やはり当事者ではないので究極のところでは理解が及ばないのかもしれない。

いくら自分がそうして想像したところで所詮は日本人の同情だと思われる場合もある。

 

戦前に渡航した人々に対してニューカマーと位置付けられる、80年代以降に日本に渡った韓国人が経営する韓国料理店で韓国語をカタコトで使うと「キョッポ?」と聞かれることがあるが、実は韓国人にとって在日コリアンというのは実質的な外国人なのだ。

それはまさに日系ブラジル人を見る日本人の感覚に近い。

サッカーの李忠成が韓国代表の合宿に参加したらパンチョッパリと言われ、日本代表を選んだことがその象徴だ。

実際コリアタウンにある食堂で韓国出身者や韓国語ネイティブが大半の空間に、在日コリアンのグループが来たことがあったのだが日本人にも韓国人でもない独自の意識を感じた。

 

この番組の証言者として出演した、現在映画監督をしているという女性は自分の兄が帰国船で旅立つ光景をよく覚えているという。

母は認知症でまだ家族が日本で過ごしていた時代の世界観でいるという。総連の活動家ですら我が子を送ることに抵抗があり、むしろ総連の幹部ほど本国から「人質」として子息を利用された。その女性は真相究明といった活動をしない両親にも責任はあったと最後に話していた。

北朝鮮当局が「苦難の行軍」とする90年代の、冷戦崩壊による東側陣営からの支援打ちきりと飢饉による過酷な状況で日本の親族を頼れる帰国者とそうでない帰国者の明暗は別れた。

 

そしてもう一人印象的な女性証言者が語っていたが、この方はいわゆる日本人妻だ。

若い頃の写真は美人で夫も一昔前の韓流俳優のような雰囲気だ。他の番組でも見たのだが、このころ朝鮮人と結婚した日本人女性は結婚するまで朝鮮出身だと気づかなかった事が多いようである。

元々日本は朝鮮を沖縄や北海道、台湾、樺太のような拡大した地域の一環として統治しようという狙いがあった。年月が経つと多少違いはあるかもしれないが日本人同士という感覚だったのだろう。

名前も日本風で教育や言語は共有しているので、言われて朝鮮人だと知ったがそんな事は気にせず親から反対されても結婚を選んだという話は何度か見かけた。

 

むしろ単一民族主義が幻想化されたのは戦後で、戦前は積極的に多民族国家化を推し進めていたのが日本だ。

戦後でも例えば松田優作が在日の血筋に悩むという事例があったが、実は戦前の方が天皇制さえ支持すれば皇国臣民だという、自由平等博愛の理念に賛同してフランス国家を歌えばフランス人みたいな風潮があったのかもしれない。日本統治時代に朝鮮で育った在日コリアン作家の話などを聞いていても、当時は本当に天皇陛下を尊敬していたという話が多い。

 

話を戻すと結局その夫は、騙されて帰国したことを晩年妻に申し訳なく語り、彼女自身も渡朝の前に拒否することを決めていたという。

だが帰国意思の確認は流れ作業でしかなくどうすることもできなかった。元々日本人妻なら3年で帰れるという言葉で決意したが、結局10年経っても20年経っても生活は変わらないので脱北を選ぶことになった。

娘は空腹の末、鶏を窃盗するがそのまま栄養失調で凍え亡くなっていたという。夫もまた亡くなった。もし日本で過ごしていたら今頃孫に囲まれていたが一人だ、それが人生の顛末であり上述の夫妻も「北朝鮮では人生がなかった」と証言している。

 

北朝鮮が6.25戦争、つまり朝鮮戦争以後ソ連の支援で韓国より経済発展でリードしていたという話は多少歴史に詳しい人の間では有名だ。

また今回のドキュメントでは、むしろ金日成がソ連と共謀しこの帰国事業を推進していた事実が明るみにされていた。

公開された冷戦終結後の資料によると、従来在日コリアン側から帰国を打診していたという定説は誤りで、いわば南朝鮮の対する優越性を示すためのプロパガンダという側面を持っていた。

 

日本に居住する朝鮮人のほとんどが朝鮮半島南部出身であるため、彼らがあえて北部を選ぶことは体制の勝利という宣伝の意味合いがあったのだ。

日本人に例えるならば九州出身者があえて地元ではなく東北を選ぶようなもので、実質的に無縁の地に評判を信じて行くような物なのだからそれだけ魅力があるように聞こえたのだろう。

 

当時の日本ではそのように北朝鮮が地上の楽園として称賛されるだけでなく、更に南の韓国の方が危険な国として認識されていたというのも興味深い。李承晩政権が竹島を占領し日本人漁師を拿捕したり、まさにその北朝鮮行きの施設に対して攻撃を加えたりしていた時代だ。

漢江の奇跡と呼ばれる経済発展でが始まる以前の話で、この時の韓国には本当に外国に売る物が何もなかった。

 

ちなみにこの李承晩時代、「北のスパイ」という疑惑をかけられた弾圧が大々的に行われ、特に済州島では被害が大きく多くの人が日本に亡命ししている。

つまり在日朝鮮人の中で戦前に渡ってきたというケースは全体の一部に過ぎず、実際は朝鮮半島内部での内紛を逃れたり、純粋に経済的事情によって戦後に渡航したりした場合が多い。

更に言えば戦前も、日本人の出征による労働力不足が本格化した1940年代以降がいわゆる徴用とされているだけで、それ以前はむしろ不法な対日密航に日本政府は苦心していた。

戦前の日本は人口を増やすどころか逆に満州開拓団や南米移民を推奨するぐらいに人口を減らしたがっていたので、それは深刻な問題だった。

 

だからこそそういった背景もあり、戦後の日本政府は彼らをいわば「負担」とし処遇に悩んでいたのも事実だ。朝鮮戦争当時、吹田事件に代表されるように国内での朝鮮人による反戦活動の意味合いを帯びた暴動騒動も起こっていたので非常に物騒な世の中だったと言える。また在日コリアンの生活保護受給者の割合も高く、まだ経済発展をしておらず高度経済成長期に差し掛かっていない日本にとってその余裕もなかった。

一方で、社会主義建設に夢を見る共産陣営にとっても「解放された祖国」に差別され続けてきた人々を祖国に送り出すことはレーニン的な民族自決論の正当性を強化する意味合いがあったようだ。

 

一人一人はいたって普通の市民であり、あえて誤解を恐れないのであれば、実質的に日本人ともいえる民間人の一人が何か大きな文脈に飲み込まれていった時代だったと言える。

ある日突如として出生が問題になり、大きな政治と歴史の波に翻弄される。日本の日常で地域の話になっても世間話に過ぎないが。しかしそれが民族のアイデンティティだけでなく、その先でも政治問題に更に分裂してしまう、それを大袈裟な悲劇の物語のように宣伝されると違和感を覚えるし現実としてそこまでの主張してくる在日コリアンは少ない。

しかし心の奥底で彼ら、彼女らがそういった思いを断片的に抱えているということについて、共感とまでは行かなくとも尊重的な理解をしたいと自分は思っている。

日本のオタク文化の斜陽っぷりがヤバイ・・・

その国ご自慢の文化と言えば、世界中いろんな国で思い浮かぶ物だが、戦後日本を象徴する文化の一つがオタク文化だったことは間違いない。

 

戦後昭和は安全保障を日米安保体制の下、安全保障はアメリカに委ね、「経済全振り」で戦後復興とベビーブームによる理想的な人口バランスを背景に成長してきた。

いわば冷戦最大の恩恵を受けた「真の勝者」が日本であり、北方領土と南樺太を失ったぐらいで本土決戦は避けられ、その上経済発展もしたのだから正直ロシアが日本の恩人だったと言っても過言ではないと自分は思っている。

一応不可侵条約は戦局が決まるまでは守ってくれたし、ソ連の対日参戦がなければ泥沼の本土決戦に突入してただろう、そして戦後は冷戦構造において対ソ貿易でも得をした。

 

真珠湾攻撃に至るまでの謀略にソ連が関与したことはタブー視されているが事実ではある、しかしこれまた遡れば日露戦争や第一次世界大戦では得させてもらった部分もある。

ロシアの脅威があったから日本は近代化し、ソ連の脅威があったから工業国として保護され復興し潤った。

イギリスのアシストで日露戦争は勝利し、アメリカに判定勝ちをしてもらい、第二次世界大戦では満州共同開発を蹴って始めた戦争も寛大に許してもらい経済発展を優先できた。

そして今は米英共に日本からの輸入も多く、観光でも多くお金を使ってくれる。

これでも反米を掲げる奴等の特徴=反米天国の北朝鮮とベネズエラに行けと言われたら全力で断り、かわりに沖縄にデモをしにいく

 

そしてそういった工業発展の時代が終わり次に日本に訪れたのは、いわゆるオタク文化やソフトコンテンツの時代だ。

破竹の勢いで経済的に侵攻し、かつては今の米大統領ドナルド・トランプがビジネスマン時代に脅威を語っていた程の日本だったが1985年プラザ合意で勢いは止まる。

しかしそこから10年、次にアメリカに上陸した次なる先鋭部隊はポケモンだった!ポケモンの発売は1995年だ。

ここから日本のオタク文化が世界を席巻する時代は20年続く。

まさに世界が「日流」に意識せずとも接していた時代だ。

今の韓流もサムスンも比較にならないレベルで存在感があり、ようやく今の中国がその頃の日本を再現しようとしているぐらいだ。

 

実はこの日流がコンテンツを支配していた黄金時代というのは、サッカーにおいてイタリアが支配していた時期と似ている。

欧州サッカーにおいて最後にイタリア勢が王座に立ったのは2010年のインテルであり、そこからセリエAは斜陽リーグと化していく。

80年代90年代はセリエAの黄金期であり、サッカー界の公用語がイタリア語だった時代だ。なぜなら名選手ならばイタリアでプレー経験があるため必然と会話が成立し、日本人ではキングカズも中田英寿も在籍していた。

 

しかしイタリアは欧州サッカーの急速なグローバリズム改革の波に飲まれ、今ではスタジアムのインフラ、戦術、業界の体質が老朽化し、ついには直近ワールドカップの出場権を逃すに至った。

唯一現代的な改革のを行っているのがトリノに本拠地を置くユベントスでその成果もあってリーグを8連覇するという脅威の成績を納めているが、国際舞台では敗退し完全に内弁慶となっている。

 

この状況を見てまるでどこかの国で見慣れた光景だと思わないだろうか?

カカーやピルロを擁するACミランがCLでもクラブワールドカップでも頂点に立った時代ですら、涼宮ハルヒの憂鬱が流行った時代くらいだ。

 

陽気な国だと思われがちだが、実は閉鎖的かつ排他的で、旧時代の成功体験に固執し陰気な気質や社会の暗部が残っているというのがカルチョから見えてくるイタリアであり、欧州でトップ扱いされない反動でアジアやアフリカを蔑視する傾向がある。

 

オタク文化やコンテンツに関して言えば日本アジアにおいて一強の存在といっても過言ではなかった。戦前は中国や朝鮮からの留学生も多く後に有名な歴史の登場人物になっているし、戦後は日本のファッション雑誌からトレンドを学ぶ中国や韓国の女性も多かった。

 

今のイタリアサッカーの立ち位置と言えば、イングランドやスペインの後塵を拝し、ドイツとどちらがヨーロッパ三大リーグかを争っている状況だ。

 

現在アジアでコンテンツを発信する四強を上げれば日本、中国、韓国、インドだろう。いわば「アジアコンテンツ四大リーグ」といったところだ。

インドは映画大国であり世界中にIT分野で進出しているし、実際インド映画は面白くダンス文化や食文化といった現代的なトレンドにおいてもポテンシャルを秘めている。英語という発信力と、南アジア系の文化を持つ広大な文化圏がある。

このインドは別枠として、東アジアなら日中韓で異論はないはずだ。

 

韓国にはプレミアリーグ的な要素があるように思う。

KPOPはもはや洋楽のような一つのジャンルになっている。元々JPOPという言葉に対して発生した言葉で当初はダサい響きだったが、今や逆転して日本ではJPOPと言わなくなり邦楽と言い直している。かつてJPOPという言葉はもっとかっこいい響きを持っていた。

外国人はKPOPという言葉が先でJPOPはその真似だとさえ思っているのが現実だ。

 

つまり邦楽を横文字でJPOPと言っていたらいつの間にかKPOPの方が有名になり、もう一度邦楽と言い直して国内でガラパゴス的に消費しているのが今の日本だ。あいみょんや米津玄師が流行っているのもこの流れで、KPOPアイドルのメイクやファッションを昭和っぽいと批判するしかないのが今の日本文化の現実だ。

 

そのKPOPも本当は洋楽をアジア風にアレンジしただけなのだが、そもそも欧米のものをアジア風に取り入れて進化させるのが日本の強みだったのであまり韓国を批判はできない。むしろ誤った自信をつけ欧米から学ぶ姿勢を失い、自国優越主義に走ってしまったから今の惨状があるのだ。

ちなみに典型的なJPOPを歌うあいみょんが東方神起やSurper JuniorのようなSMエンターテイメント系列のファンだったことはタブーとなっている。

 

そのKPOPの世界では今や日本人、中国人、台湾人、タイ人、インドネシア人が活躍しているし、実はメンバーだけでなく、作曲や演出の部分で外国人アーティストを採用している。

先日自分がよく聞いている楽曲の作家を調べたら何と作曲家がスウェーデン人で、KPOPだと思っていたら実は韓国人以外も関わっているというケースが多い。日本だと日本の音楽業界村で回し完結することが多い。もちろんこういった内需の成熟が大国の条件だという側面もあるが、村社会化しすぎることには警鐘を鳴らしておく必要がある。

「過去」という内需は良くも悪くも伝統となっていくだろう。

未だにオリコンのような日本式の集計にこだわり、国際基準に合わせない日本のミュージックビデオはユーチューブで海外から締め出されている事例もある。

 

日本人が海外の事例をみて言う「昭和にあった」という言葉はむしろ高齢化の象徴で、昔話を自慢する姿が何もかっこよくないにも関わらず、そこを自尊心の拠り所にしている内に世界の最先端に置いていかれる。

その昭和に見たものは欧米の周回遅れだったことを知らずに、未だに日本が最先端気分でいる。

その昭和を知らない世代から見ればそれは新しいし、むしろ昭和と比較して進化している部分もある。

 

「日本は先進国として全てを体験した」と思い、過去だけ称賛して現代のトレンドを古びた感性で拒絶していくことを続けていれば、これはいずれ「日本病」「ジャパン症候群」という名の文化用語になるだろう。

ジャパンシンドロームとは先進国が最後に経験する社会的な風潮、というように。

それにいって上の世代は心地よく思い出を抱いてあの世に逝けるかもしれないが、自分達はそうじゃない、そう令和を30代、20代、10代、もしかしたら一桁年代で迎えた世代は思うのだ。

過去の日本を認めつつも、令和のトレンドにおいて日本はもう三番手でも四番手でもいいという姿勢に満足することも面白くない。令和の課題とは台頭するアジアと過去の日本のという幻影だろう。

【祝】令和開節これからの日本が探る未来とは

勢いでタイトルを決めるとよくないっていうパターンですよ。

よく古市とかひろゆきみたいな社会学者風の連中がいいがちな言葉に「これからの日本はソフトランディングの時代になっていくので、お金を使わずとも斜陽と絶望の国で幸せな個人を目指していくべき」みたいな論調がある。

 

正直頭では理解できても納得できない自分がいて、簡単にそんなんで片付けられていいのかって思いもあるわけですよ。大体この二人ってがっつり既得権益層と癒着してるか、旨い汁を先行者の利で吸えていち早く海外逃亡した人であって、本当にガチで苦しんでる底辺の人に寄り添っていないのだ。

とかいいながらここにホリエモンと落合陽一を加えると私的論者四天王としてちょくちょくチェックしているので、だいぶ思想的にヤバい奴らの影響を自分は受けている。

いくらこの人の意見は凄いなとか共感できるなと思っても、やっぱ納得できない部分はあってしかるべきでそれは、ひろゆきも「時々堀江さんの言ってることおかしいと思うときもある」と語っている。

 

どの元号もそうかもしれないけど、急に変わると言われて何が変わるのかといえば名前が変わるわけで魔法ではない。

天皇陛下が生前退位を決断してくださったお陰でこれだけ明るいお祭りムードで迎えられるというのは、31年前に自粛ムードで自身が迎えた経験があるからかもしれない。

しかもその数年後にオウムや震災やらで、マジで平成天皇陛下すげぇよ。(もう今上陛下ではないんだな)

 

だからこそこれだけ勇気ある決断してくをしてくれた庶民派天皇の意向みたいなのを次いで、今度は令和日本という実態を変えなくちゃいけねぇんじゃねぇかなと自分は思うわけだ。

形は物凄い覚悟で200年ぶりの生前退位という形で変えてくれたし、新時代の天皇像も体を張って変えてくれた。

 

平成って停滞の時代と言われながらも実は変化が物凄く激しかった時代で、技術革新と価値観の革新がたった31年で目まぐるしく起きた時代だった。

もう平成を過去形で語ることになる寂しさを感じつつも、何だかんだで平成楽しかったよねと。

 

もしかしたら明治天皇と同じくらいに変化に寛容だったのが平成天皇だったのではないか。国家を富国強兵に導く元首ではなかったが、その変わりに庶民目線で寄り添ってくれた。

 

昔祖父が天皇皇后両陛下の写真を家に飾っているのを見たことがある。それはカラー写真で昭和天皇のものだ。

天皇制というものは2000年の歴史でその時々で変化し、その時々で日本人がどう思うかの反映だった。だからこそ、自分が素直にどう思うかというのは今後平成天皇が基軸になっていくと思う。

 

リービ英雄というアメリカ人ながらに日本語で執筆した作家の作品にこんな言葉がある。

「おまえが皇居の前で天皇陛下万歳と叫びながら切腹をしたところで日本人はおまえを日本人と認めないだろう」

これはアメリカ大使館の役職を勤める父親が日本語を大学で学ぶ息子に告げる、『星条旗の聞こえない部屋』という作品のワンシーンだ。舞台設定は、ケネディ元合衆国大統領の追悼式が登場するので1960年代を振り返った叙述形式だ。

 

確かに戦後に昭和天皇が敗戦で焼け野原になった日本を全国行脚したというエピソードはある。ただそれでも天皇は幻想的な存在だった。

かといってイギリス王室の庶民化とエンターテイメント化が正しいとも思わない。

平成天皇は失礼な言葉ながら、いい塩梅というか中間で抽象的な表現かもしれないが「人徳」があったと思う。

 

もう日本は終わる国だから緩やかな衰退を受け入れて、上手く穏やかに着地していくべきというのは話としてはよく分かるけど、なんかつまらないじゃねぇかと自分は思う。

 

仮に明治天皇が江戸までの時代をダタダラと継承してたら明治維新はなかった。平成天皇はやるべきことをやりきってくれたのに、令和に生きる当の日本人が惰性で変わらずにいたらこの改元はなんだったのかということになる。

名を変えるのは天皇の役割だが、実を変えるのはその時代に生きる人々の役割だ。

日本を「令和」に変えていくのは一人一人の日本に関わる現代人であるように思う。

ワイ平成一桁生まれ、震えが止まらない模様

新元号発表で世の中が令和ブームにわいてる。

個人的にピークだったのは去年の大晦日くらいまでで、その時が「平成最後の」という言葉が一番使われていた印象がある。

新年明けるとDAPUMPのUSAを聞く機会も少なくなり平成最後ムードも下火だったが、ここにきて新元号発表でまた世の中が盛り上がっている。

 

一方で、内心穏やかでない人々がいる。

平成生まれ、中でも初期の一桁生まれは焦りを隠せずにいる。

 

どうやらネットでは昭和世代が平成煽りをしているようで「おまえらもこれからの俺らを煽ってきたように、同じ事をされるようになるんだからな」と論調の物もあれば、「平成は何も産み出さなかった時代」「日本史上最も無能な世代」という恒例のゆとり叩きのようなものもある。

 

こういうことにはもう慣れっこというか、ある意味叩かれなれてるので「はいはいどうせ僕たちゆとりが悪いですよー」と受け流すしかない。

恐ろしいのは昭和からも令和からも挟み撃ちで叩かれる地獄が待っているということで、これから怖くてたまらないのが悲惨なゆとり世代の現実だ。

カイジ「現実ッこれが現実ッ!」

 

平成生まれといっても90年代生まれと、21世紀生まれの二桁世代とでは異なる。二桁生まれのさとり世代は平成初期生まれなんてもうダサいと思ってるだろうし、それは自分が80年代生まれがちょっと古いと思ってきた事の因果応報でもある。

 

自分は平成5年生まれでつい最近26歳になったのだが、はぁこれで俺もついに20代後半かと考えると動悸が止まらない。なんかもう最近スマホネイティブ世代とのジェネレーションズギャップを感じるよ。

最近の自分のアイデンティティといえば「まだ20代」ということぐらいで、令和5年にでもなったら自分のメンタルは崩壊するだろう。

 

いやぁホントにタイムリミットが近づいてるし、キャピキャピしたリア充生活を送ってるわけでもないので若者感がまるでない。

一般的に大学を卒業する年齢が22ぐらいだと考えると、そこを過ぎたくらいから大人になって学生ではないなと思い始めるようになった。その後しばらくはまだ若いと言い聞かせていたが、徐々に諦めムードになり最近考えるのを辞めた。

考えると震えが止まらないからだ笑

 

ただ、それでも平成という時代は自分にとっては愛着がある。馬鹿にされる時代だろうが、ショボかろうが自分にとっては思い入れがあるし思い出補正込みで良い時代だった。

少年漫画黄金期やテレビゲームが目まぐるしく発展した一昔前の時代と比べて、ゆとりが経験してきた文化はどれも小粒だと批判されてきた。それでも当のゆとりから見ればそれが楽しく、あの時代の空気感の中で少年時代を過ごせたことはいい思い出だ。

 

ゆとりおじさん「何がジャンプ黄金期じゃ、ワシらには鋼の錬金術師ととっとこハム太郎がある!」

その俺らの時代の最新作品だったものも、今の10代は知らないんだろうなと懐古ばかりしているから平成一桁生まれは時代についていけないのだ。

 

そうなるとどちらかというと最近の新世代よりも、上の氷河期世代の方に消極的な親近感を抱いてしまうわけで、そういう時はもう俺は老害に片足突っ込んでるんだろうなと思うし、間違いなく「インターネット老害」だと自認している笑

 

10代の頃はまだイキってたというか尖ってたなと思うが今は反抗心もなくなって情熱不足の人間だ。20代前半まではまだその残り火があったが、最近はその気力もない格好だ。

「あの頃の俺ネットでイキってたなぁ」と黒歴史を振り返りつつ、そういえばもうソードアートオンラインでイキリト扱いされてた人ももう20代なんだなと思い始める。

 

平成一桁生まれオタクのイキり行為

・小学校中学年で、学校の怪談系の本や番組にハマる

・高学年頃から中学初期に掛けバイオやメタルギアに目覚めて、「俺ヤベェ怖いゲームやってるぜ感」を出す。ネットにも触れフラッシュ動画と2ちゃんねるでウェルカムトゥーアンダーグラウンドの世界を知る

・中学高校でラノベを読み始め、ニコニコ動画を見て陰陽師とか言い出す。深夜アニメも見始め「うはwww俺オタクwww聖地巡礼行きてーw」「俺がガンダムだ!キリッ」と気取り始める

・コードギアスやデスノートを見て厨二病発症、政治にも目覚め始める

・その後無事つまらない大人になり、成りたくなかった懐古厨に進化

 

その各世代のイキり憧れのいつしかルルーシュからSOAのキリトになり、最近ではスライムになったり深夜アニメよりバーチャルユーチューバー見たり、2chよりもツイッターでの実況になったり、PCでのFPSに憧れる時代から荒野行動になり今に至る。

個人サイトが生きていたPCネット旧石器時代のお爺ちゃんなので、スマホという磨製石器についていけんのじゃ(なおこの文章はスマホで懸命に入力している模様)

 

そういえばもう昭和に生まれて、結婚をせずに平成を終えることを「平成ジャンプ」と言うらしいのだが、出始めの頃の平成ジャンプの映像は今でも懐古として見ることがある。

薮と八乙女のやぶひかシンメの時代の映像なんか見ると、何だかんだで平成も震災までは活気があったんだなと懐かしくなる。ジャニーズについて語り出すと、いつもの赤西がいた頃のKAT-TUN美化おじさんになるのでこの辺にしとこう笑

 

平成の浮かれモードが終わったのは震災で、大体同じ時期のスマホ普及も平成史のターニングポイントだという気がする。

いわゆるネットがバーチャルの虚像から、リアルの実像に変化した時代だ。

 

平成唯一の発展と言えばやはりネットで、大正モダンに対して平成デジタルかサイバーといった所だろうか。

ただネットも日常になりすぎて、デジタルがサイバーワールドとして憧れがあった時代はそれこそデジモンがオワコンになるまでのような気がするが笑

 

ほどほどにコンパクト化して緩やかな繋がりがある気がして、なんとなくスマホが高性能化していく日常というのはあの頃に思い描いていた程の進化ではないだろう。

ネットを普及させれば世界はいい方向に変わると思っていたらその逆だったのかもしれない。

少なくとも10代の頃は自分に対しても社会に対しても夢みがちで、現実に疲れている昭和の大人を馬鹿にしていたら、実は昭和の方が凄かったよねとなりイキるのを辞めた。

どれだけ昭和が凄かったか今になって理解するようになり、ダサいと思ってたものの真実を知る。

 

願わくば大正のように、文化的には平成が面白かった時代として令和の時代に再評価されると良いが、今のところ日本の衰退を象徴するという扱いだ。

まぁそれでいいのですよ、わかる人だけ分かれば、そこに生きた人は楽しかったのだから。そんな平成だ。

 

こんな事言っては何だが、そもそも世代間対立で煽り合う光景を見ると元号という文化の負の側面も出ていて不要論も問われ始めている。

文化考察の区分としては面白いし、何でも現代化することが合理的で正しいというわけでもないので基本的には賛成だが度が過ぎる対立は良くないだろう。

あくまでキノコタケノコ論争程度のものであって、本気にし始める人が現れたときにこういうワイワイとした雰囲気は終焉を迎える。

 

だからもう諦めよう、どうせ平成一桁生まれはこれからおっさんおばさんまっしぐらだ笑

大丈夫、平成を叩いてるおっさんおばさんは爺さんと婆さんになるだけで若くなるわけではない。

 

大体こういった不毛な争いにイライラしているのは 

現実が充実しておらず心に余裕がない人であって、仕事なり恋愛なり上手くいっていれば気にならないのだ。

例えば自分が無職ではなく、心通じ合う彼女でもいれば「元号対立でよくそこまで熱くなれるな」と文字通りゆとりを持って静観していただろう。

悲しいかな、ゆとり世代なのに一番ゆとりが無いのがこの世代だ。

 

金持ちが喧嘩せず貧乏人ほどギスギスして苛立っているのと同じで、人生充実していたら余裕があって煽りは効かず鼻で笑っていられる。

現実が充実していて忙しい人はわざわざ起こらないし、ネットに悪口を書く暇も無いぐらいに恋人と愛のメッセージを送り合うのだ。自分が悪口を書くとき、悪口を書く時間すら惜しいほど充実している人がいる。

そして忙しくない人ほど怒りをぶつけ合うことしかやることがない。

 

昭和煽りに対しても本気で憎しみを感じている人も、平成生まれという事しかすがれるものがない人も同族で、まさに争いは同じレベルでしか生じないという言葉がぴったりだ。

野球ファンとサッカーファンがスポーツに人生乗っけてるもの同士いがみ合い、日本と韓国がネットで悪口を書き合い、ツチ族とフツ族が紛争をする、対立というのは常にそういった近いレベルでの利害の争いでしかない。

 

本当の昭和生まれ昭和育ち程気にしてなく、平成に近い世代ほど平成を憎んでいる、その逆もしかり。

遺恨の種がいつの間にか大きくなりすぎてあまりにも不毛な争いをしている、しかもそれが廃れ行く同じ日本という船に乗っている時にだ。

終戦後満州に置き去りにされた日本人の敵になったのは中国人でも朝鮮人でもソ連兵でもなく同じ日本人だったという。それはシベリア抑留でも同じだった。

 

そう考えると植民地経営において近い部族同士で対立させあって、支配者として上手い汁を吸い付くしたイギリスとフランスはなかなか狡猾な国だったのだなと思えてくる。

血液型、県民性、性別、世代、嗜好、キャラクター、ましてや同じジャンルの中での対立といろいろな分断が増えているが、人はなぜ戦争という行為を思い付いてしまったのだろうという問いに行き着く。

 

そういえば最近、対話を重ねることをテーマとしていたニッポンのジレンマというトーク番組が終わった。結構好きだったんだけどな、と思いつつも古市氏が「震災直後は皆本気だった」と語っていたように徐々に出演者が丸くなっていった側面もある。それは日本社会の傾向とも似ている。

もしかしたら平成の終わりと共に一旦区切りをつける時期が来たのかもしれない。

ただ元号が変わるだけでしかないが、「昭和という時代の空気を体験してみたかった」と思うように平成の空気もそう語られる時が来るのだろうか。

こうして何気なく部屋の片隅でこのように語っているときも、あと一ヶ月後には平成に書いた文章なんだなと思い返すときが来る。同じ空間であるように見えて同じじゃない、それは昭和や大正の頃の日常の変化も同じだだろうし、江戸時代だったらもっと曖昧なはずだっただろう。

元号とは何とも不思議なものだ。

ゲーム一切やらなくなったワイの生活習慣がこちらwwww

ゲームは現代人の生活に必要なのかという哲学的な問いについて考えてみよう。

あなたはゲームを常日頃どれくらい、どの頻度でプレーしますか?と聞かれた場合本当にやり込んでいるヘビーユーザーから、惰性でやっている習慣型のプレイヤー、そしてゲーム実況などで見ることに徹しているという層など多岐に分かれるだろう。

 

ちなみに自分の場合ゲームといった類のものは一切やっておらず、事実上ゲームの無い生活をして1年以上経過している。

「ゲームが無い生活」と言われて想像もできないし、自分は耐えられないという人も多いだろう。実際に自分もかつてはよくゲームをしていたし、小学生のころはゲームクリエイターに憧れ、ずっとゲームだけをして生きていく生活に憧れていた。

今でこそゲーム実況やeスポーツといったジャンルが確立されており、ゲームは立派な職業になっているので、仮にかつての自分が現代に生まれ変わっていたらプロゲーマーを目指していたかもしれない。

ゲーム産業自体については否定するつもりもないし、どちらかといえば応援している立場だが、現実に今のところゲームが無い生活に1年以上適応している自分がいる。

無いなら無いで困らなし、今まで大切にしていたデータも未練はないということを知った。

 

まず自分のゲームライフについて前提として整理したい。

・ソシャゲ→やらないし興味が無い

・携帯ゲーム機→好きだったタイトルに飽きた

・PC→グラフィックボードが稼働しなくなった

 

ソシャゲに関しては一切やるつもりもないので、コンシューマーゲームを推しているような古典的なゲーマーに自分は分類される。スマートフォンやタブレットの性能が向上すれば興味は湧くかもしれないが、どうしてもコンシューマー型に対しての信頼と、ソシャゲに対する偏見を自分は抱いている。

また現実的に人づき合いが限られているとコミュニケーションツールとしても始める機会が無いし、そもそも話題ならばスポーツや芸能の知識、教養で補えるのであまり必要性を感じないという事情もある。これはもちろん人によるので、今のところ自分は必要性が無いというだけの個人的な話だ。

リアルの知り合いが自分と同じくコンシューマー型の人間であることと、相手がソシャゲをやっていたとしても惰性でしかなく、それ以外でコミュニケーションが成り立つという場合、やはり始める理由は見つからない。

ゲーム仲間から人脈が広がっていくケースもあるのて、その点については否定しない。

 

携帯ゲーム機に関しては具体的なタイトルで言えばポケモンシリーズをメインにプレーしていたものの、昨今のオンライン対戦やレーティングシステムの導入によって、ユーザーの雰囲気が変わってしまい自分自身冷めてしまい遠ざかってしまった。

一度遠ざかると別に自分の生活にとって必須ではなかったことに気付く。

レート対戦が導入されて、ポケモン対戦がメジャーになる以前から自分は俗に「三値」といわれるシステムを理解し育成していたが、それはあくまで本当にコンテンツ愛のある趣味人がワイワイしていた雰囲気が好きだったからこそ継続できていたのかもしれない。

ゲームのシステムそのもの自体よりも、その界隈のユーザーたちが作り出すコミュニティの雰囲気が好きだったのかもしれない。

 

それが本当にガチの競技化したり、ゲーム実況に浸食されたりすると、そのかつてとは異なるネットの雰囲気にはついていけなくなり段々と情熱は失われていった。

今ではオンライン接続率もかなり下がり、こういったガチ化路線に多くの人が疲れているし、社会人になってから今の環境でポケモンを続けるというのは非常に難しくなっている。

結局コンテンツの面白さというのはそれ自体のクオリティよりも、ユーザーの質やコミュニティの雰囲気であって、どうしても自分は今のポケモンに好意を抱くことができない。

遊戯王のようなカードゲームも似ていて、本来子供がやる物を少数の「大きなお友達」の人が陰ながら支えている状況が理想であって、そういった大友ユーザーが大手を振って歩くようになるともうこれは既存層が独占して新規層が入りにくい閉じコンの始まりだ。

すべてのゲーム型コンテンツについていえるかもしれないが、結局こういう運命を辿るようになると悟ってしまい、自分はゲームから去って行った。

 

パソコンのゲームについては今も一応、情熱や興味はある物の、3DCGのゲームを起動することが出来ない謎めいた状況になっており、やりたくてもできないという状況になっている。

普段の使用については問題が無いもののおそらくグラフィックボードに問題があって一度修理に出してみるしかないが、現状動画も見れてネットは普通に使えるのでそのままにしている。近いうちに一度PCのメンテナンスを見直したいので、この機会があれば復活するかもしれない。

最新のゲーム機を手に入れたりPCをアップテードしたりする経済力も無ければ、かといってそこまでして戻るほどの魅力も今のゲーム界にはないのが自分を取り巻く現実だ。

 

自分自身のゲーム環境の問題と、ゲームを取り巻く世の中の風潮や状況、この二つがどうも今の自分に合っていないというのがリアルな実情となる。

ではそうしてゲームをやらなくなった&できなくなった状況で、自分が何をしているかという本題にようやく移っていきたい。

 

1:読書時間がめちゃくちゃ増えた

これは物凄く大きな変化で、ゲームをしなくなった替りに何が増えたかといえば、単純に読書時間が増えた。

「やることがないので本を読むしかない」という暇つぶしとして、読書が今になって再浮上してきた。とにかく本を読む、読む、そして読み、自分自答して自分と作者の対話の世界に閉じこもるのが自分の生活習慣だ。

自分で言うのもなんだが、とにかく知識や教養は増えたし、自分で考える時間は本当に多くなった。本というものは値段に対してもっとも手に入れられるものが多いジャンルの一つと言っても過言ではない。

 

コスパの追求という意味においては読書に右に出る物は無い。

自分の場合過去に古本屋で最安値の本を数十冊も集めていたので、それを読んで処理することにしばらく時間を使っていた。図書館を利用すればもはやお金もいらないので、底辺の趣味としては読書以上の物は無い。

それだけでなく、読書で得た物をコンテンツに変換できれば有益な投資にもなるので、漠然とゲームをやっていた時に比べると何か有意義なことをしているような気分になる。

文字だけの世界を通じて想像した世界が、いずれ創作に反映されることもある。

 

正直なところゲームは上手くなったところでどうしようもないというか、「上には上が大勢いる」という途方もない現実に直面する。

自分が本当に好きになったゲームをやり込んでその世界で特別な上級プレイヤーになろうと憧れていた頃は情熱があるが、いずれゲームの世界も現実と同じような才能と努力の世界だと知るようになる。

今の時代ゲームは現実と同じぐらい鍛錬が必要な厳しい世界であり、それだったら最初から現実で努力したほうが良い。

 

ゲームがバーチャルの夢だった時代は終わっており、今や現実そのものがゲームに浸食してきている。

分かりやすく言えば、実際の格闘技の代替として始まった格ゲーが、今や現実の格闘技と同じかそれ以上に極めることが難しい競技になっている。

かつては現実でできないことをゲームならばできるという追求から始まったものが、今では現実かそれ以上に頂点に立つことが難しくなっている。

世間一般では無意味な能力も、一部の世界では極めれば認められるという時代から、その無意味な能力が現実で必要な能力以上に高度な能力になった。

 

それならば最初から現実で役立つことを努力していたほうが良いし、「現実ではくだらないけどもここには自分たちの居場所がある」というゲームに対する幻想も今では消滅しかかっている天然記念物になっている。

現実で活躍している人がネットでも活躍するSNSのように、ゲームも結局現実の一部なのだという悲しい現実がある。

 

2:ユーチューブとテレビを見るようになった

ゲームというのは能動的な趣味で自分でプレーする必要があるが、徐々に人は受動的な趣味を求めるようになる。

それまでゲームをするために使っていた時間で、自分はコンテンツの吸収と大義名分を打ってひたすら動画やテレビを見るようになったのがこの最近の習慣だ。

自分の場合動画と言っても、意識的に海外の動画を見るようにしており、事実上語学の学習として機能している。

 

例えば1時間ストレス発散のために惰性でゲームをするのと、同じ1時間に字幕も翻訳も無い海外のネイティブな動画を見るのとでは、意味合いが違ってくるだろう。

とにかく自分の勉強している言語の動画を調べてみるようになり、ゲームをやるなら語学という感じで勉強している。

特に英語に関してはリスニングならばこの習慣で、ドキュメント番組のような綺麗なナレーションならば大体内容はわかるようになってきたので、学習の成果はあったように思う。

これまでなんとなくゲームをつけるという習慣が、なんとなくyoutubeを開くという習慣になり、その結果これまで見たことのない情報の入り口になった。

 

3:お酒を多く飲むようになってしまった

ゲームをしなくなったことで全てが順風満帆なバラ色というわけではない。

酒は暇と孤独に付け込んでくるのだ。

正直なところ、ちょっとずつお酒を買うよりもその分を貯めていればゲーム機もソフトも手に入れられただろうなという後悔はある。DLCのような課金にしても一回手に入れればそれは残るが、お酒は後悔しか残らない。

何もやることが無い時の心の拠り所、あるいは精神安定剤としてゲームは呆然とやっているとなんとなく安心感に変わってくる。

漠然と何かを求めている時今までならばとりあえずゲームをつけて遊んでいれば気が紛らわせたが、今ではネットサーフィンか散歩、読書、テレビのような平凡な趣味しかなくなっている。

その結果安易にお酒に頼るようになった。

 

ゲームは傍から見ればくだらないことに熱中していて、どうでもいい数値を極めているように思えるが、向上心を満たして成長しているんだという錯覚は満たすことができる。

人間という生き物は時間を無駄に使っていると焦燥感を覚えるようにできているらしい。

自分の場合、ユーチューブを見て語学を極めたり、読書をして知識を得たりしてその気になっているが、そのやる気も無い時は虚無感を抱く。

そういったときゲームでスキルを磨いたりポイントを貯めたりすることに没頭していれば、何かしらの充足感を得られるのではないかとも想像するし、かつての自分はそうだった。

ゲームをやらなくなった隙間を埋めるように、お酒を飲むようになった。しかしその時間で、今まで知らなかった世界に触れていることを思えば、どちらが正しかったかと一概に判断することには迷う。

 

4:積んでいたプラモデルを作る

これは実はというともう「終わった」習慣なのだが、つい先日までプラモ作りに没頭していた。ひたすら過去に積んでいたプラモを何かに取りつかれたようにひたすら組んで、主にガンプラから、ゾイド、アーマードコア、マクロスなどロボット物を組み、哲学の道を歩くかのように思索の世界に自己陶酔していた。

この件についてはこれからいくつか作った完成品などを実物の写真で投稿していきたいと思っていて楽しみにしてもらったらありがたい。

 

プラモを作っているとまるで俗世間から隔離された世界にいる感覚になれるというか、黙々と作業をしていると安心した気分になれる。この静寂の時間に考える物が何か新しい物になってくれればいいなといろいろ妄想していた。

 

ただ過去に積んでいたプラモを今になって組み立てているだけで、新しく買い集めるとなるとプラモは敷居が高い趣味だも思う。

何より作ったとしても置く場所が無かったり、作るスペースそのものが無かったりする。

積んでいたプラモを作りきった今、この生活習慣を再開するにはしばらく時間がかかりそうだ。

 

5:現実への興味が湧くようになった

今の自分の関心はといえば、バーチャルの世界よりもリアリティな世界だ。

RPGの世界にある美しい街よりも、現実の世界を旅してまわりたい、そういった憧憬を抱く。ゲームの世界も所詮作り物で限界にあることを悟ってしまったのだろうか、ゲームの世界に登場する街よりも無名であっても人が住んでいる街に惹かれるようになった。

 

RPGのダンジョンに登場する酒場や喫茶店は同じプログラムの言葉しか喋らないが、現実だと店員さんや常連客との触れ合いがある。もちろんそこで得る情報も多いし、予想外のこともある。

「あのゲームをプレーしたい」という感情や憧れよりも、あの街やあの国に行きたいという感覚の方が強くなり、そういった番組も見るようになった。

昔RPGで訪れた町は思い出の中だと美しいが、実際に今プレーしてみるとそうでもないことに気付く。いわゆる思い出補正という奴だ。しかし現実にいつもより遠目に行った町は、今でも郷愁を誘う。

 

なんとかシティとかなんとかタウンみたいなものに子供の頃に憧れていたのも、いつか大人になればそのような街に行きたいという思いがあったからだ。現実に大人になればそう行動範囲は広がらないことに気付くし、たどり着いたとしても理想郷は無かったと悟ることになるかもしれない。

 

かといって今更ゲームの世界はある程度もう知っているし、それは行動の自由も大人ほどは広くない子供の頃に何も知らないから想像していただけのものでしかない。

 

現実世界は広くても実際に自分が辿り着ける場所は思っていた以上に狭い、ゲームよりも狭い、そのことを悟った現代人はゲームの世界に没入するようになる。

しかしやっぱりゲームも狭い、そして同じように現実しかない。

現実もゲームも大して面白くないというジレンマに直面しながらも、人は大人になった時どちらを選ぶのだろうか。

ゲームにしろ現実にしろ、どちらもあの頃のように輝いて見えるわけではないのは同じだ。しょうもないどちらかしか選ぶしかない。

じゃあどちらでもない面白い新世界を作る?

ハハ、馬鹿げてるけどもうそれしかないだろう。

後はそれができる奴がどれくらいいるかってだけだ。

???「僕は新世界の神になる!ドンッ」