負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

BTS防弾少年団のM出演取りやめについて思う事

つい先ほど今週のMステが終わったが、そこにBTSの姿は無かった。

正直まさか本当にMステ出演が取りやめになると思っていなかったし、今の時代、テレビ局といえども世論を軽視できない時代になっているのだと改めて感じた。

個人的な意見としてはBTSの出演を巡る問題に関して、この解決方法はいい意味で無難だったと思う。

テレビ朝日はフジテレビの二の舞になることを避けたかったという見方もあるし、この前例によっておそらくNHKも紅白出演は見送るだろう。

 

SNSなどを見ていると、いわゆるアーミーと呼ばれるファンの意見は二極化していて出られなかったことに対して憤りを感じている人と、冷静に仕方がないと考えている人に分かれている。

 

というよりもこの状況でMステの対応に憤っている人は少数派で、大部分のファンはBTSをMステで見たいという思いを抑えて今回の事を受け入れている印象だ。しかし前者の過激な言動が目立ってしまうので、これがK-POPファンのイメージになってしまう可能性と、他の韓流アイドルのイメージ低下にも影響を与える危惧もある。

 

この件で一番怒っているのはむしろ他の韓流アイドルを応援している人達であって、これまで先人が日本で懸命に作り上げてきた信頼を壊しかねない態度への批判が多い。

この騒動後の事務所の対応を見ても、欧米市場があるからもう日本は切り捨てても問題ないと考えているのではないかと疑われても仕方がないし、それはBTSの身勝手だと考える層も存在する。

 

韓流は一枚岩だと思われがちだが実はそうではない、それどころか韓国社会自体がまとまっていない。徴用工問題だって一部の遺族団体の身勝手によって韓国全体が偏見を持たれかねないが、日本で活躍する同胞の足を引っ張っている事など彼らには関係が無い。輸出依存の韓国にとっては、ある意味貴重な外貨を得ている功労者の邪魔をしているわけだ。

 

日本で真面目に活動している他のグループからすると、これからというタイミングでBTSと徴用工遺族は何をしてくれているんだという感覚になってもおかしくは無い。

そのバンタン自体についても、「欧米市場がある」というのは一過性の流行に過ぎず、流行が去っても根強く見捨てないでいる日本ファンを切り捨てるというのは後々響いてきそうだ。

日本ファンの何が韓流アイドルにとって重要かといえば、それは不遇の時にも見捨てずに支えるからだし、実際SNSでもこれからもバンタンを支持しますと宣言しているファンは多い。

 

しかしアメリカで売れたら日本はもういいという姿勢は、今後少しずつファン離れにつながっていくようにも思う。信頼という物は気づかないところで失われていくものだ。

実際他の韓流の男性アイドルにはいくらでも良いグループはいるわけで、必ずしもBTSでなくとも替りはいる。

もっと真面目に日本人ファンを大切にしているグループは存在しているし、SEVENTEENは日韓問題が揺れているときにソウルで日本語の曲を披露したという。ファンも平和的でBTSの過激さとは一線を画している。

また改めてジャニーズの良さも分かったというか、反日的なことが無いどころかむしろ日本の魅力を打ち出そうというコンセプトの曲や衣装もあって自分の中で再評価だ。

 

双方の歴史観が食い違っていて、それ自体は当然だとは思うのだが、中立的な立場で静かにマイペースで楽しむことの難しさを感じるのも本音だ。

自分は韓流についてはあまりそういう争いを見たくないので、なるべく無意味な論争からは距離を置いてきた。しかし時々こういったコリアリスクのような事が起こるので現実を感じてしまうこともある。

韓国人が反日になることは仕方がない部分もある、韓国の世論や教育の事もあるし歴史上の出来事もそうだ。実際自分が韓国人だったら反日になっていなかったとは言いきれない。韓国人の立場を想像すれば理解できないことは無いし、日本も嫌韓をしているのだから、韓国の反日ばかりも批判できない。どちらが先か後かという論争も不毛だ。

 

ただ皇室と原爆についてはデリケートなので、今回は触れてはいけないことに触れてしまい騒動が大きくなっている。イ・ミョンバクが皇室の問題を出したことで反発を招いた時と今回のケースは比較されている。

 

日本人の立場としては謝罪や釈明を求めたいかもしれないし、今回の件に関しては自分もBTS側に非があるように思う。

ただ韓国社会というのも複雑で、基本的に日本は謝罪が足りないと思っている世論の中で、逆に自分たちが日本に謝罪するというのは天と地が入れ替わってもあり得ない。

韓国社会において「親日派」というレッテル張りは社会からの排斥を意味する。

親日派という言葉自体が裏切り者というニュアンスに近い歴史用語として使われているので、なかなか謝罪できないのも現実だ。

国際関係で強硬路線を貫けば英雄だとされ、引いて譲れば弱腰だとされる例は古今東西ありふれている。もはや本人たちの意思を超えて世論がそれを出来なくさせる時がある。

 

この騒動はしばらくは収まりそうにないだろうし、BTSも日本以外の地域での活動にシフトしていくのではないか。ただその場合、日本に戻ってくるという選択肢は保証されていないかもしれない。

また他の韓流のアーティストはこの件で日本との関係には気を付けるようになるだろうから、これで不用意な言動はむしろ減っていくきっかけになる。

ただ問題なのは韓流というものが一括りに見られることで、それはやはり多くの韓流ファンやK-POPファンが危惧している。

特定の国の物だから全部駄目だというのは、文化の発展という面においてはマイナスだ。

 

また反日を乗り越えて日本文化を愛好している韓国人も大勢いるのも事実であり、こういうことは減っては欲しいが、日韓関係においては付き物なのかもしれない。

良い物はやはり良いという感覚も持っておきたいし、悪い部分だけを拡大してみれば何事も楽しめなくなる。

日韓関係に限らず、時としてそういう人もいる、という感覚を持って極端に振れない事が求められているように思う。

BTSラップモンスター「歴史を忘れた民族に未来は無い」←いい言葉だよな

芸能人の過去の発言が取りざたされて、時間を超越して問題になることはしばしばあり、時として国際問題に発展することがある。

この度、韓国のヒップホップグループである防弾少年団、BTSがちょうど徴用工問題というタイミングもあって荒れに荒れ、揺れに揺れている。

その上ミュージックステーション出演が控え、紅白の出場も確実視されているので、炎上しない方がおかしいという状況だ。

次回のMステが天王山であり、このまま紅白に向かうのか、それを阻止するのかという攻防戦が繰り広げられている。NHKとしては受信料支払い拒否を回避するために、BTSの出演を取り下げるのではないかとも予想されており先行きが読めない。

 

まず徴用工問題については「当時の韓国政府」が賠償金を徴用工に支払わなかったことが今になって掘り返されている。

これは当時、韓国が朴正煕(パク・チョンヒ)の独裁政権下にあり国際的に輸出できるまともな産業が無い状況で、やむを得なく日韓基本条約で得た資金をもとに産業化に走ったという背景がある。

朴正煕に言わせれば、個々人に保証するよりも、その資金を元手に国家全体を発展させた方が長期的には国益になるという判断だったはずであり、今の民主主義や人権の理念を適用する余裕が当時の韓国にはなかった。

いつ北朝鮮が南進して来るかわからず、国力も北側が勝っていた時代に選択の余地などなかったのだ。

「民主主義は待ってくれ、今は国民が食う事が先だ」として朴正煕は西側諸国では稀有な程に長期の開発独裁を敷いた。

確かに強権的な側面はあったもののそのおかげで今日の韓国の発展した社会があるのだが、当の韓国人はこの歴史を忘れてしまい、民主化運動世代の声が大きくなっている現状がある。

 

この度、防弾少年団について問題になっているのは主に二つだ。

・RMの「歴史を忘れた民族に未来は無い」という発言

・ジミンの原爆Tシャツ

 

まず一つ目に誤解されているのが、「歴史を忘れた民族に未来は無い」という発言が日本に向けられたものであるという認識だ。

これはスポーツの日韓戦などを見ていると度々目にする言葉だが、これは自国民に対する戒めのような意味合いが強く反日的な発言ではない。

ようするに「朝鮮という国は弱かったor外敵に立ち向かう勇気が無かったから外国に取り組まれることになった」ということを自戒し、「韓国は強い国にならなければならない、そうでなければまた同じように滅亡する」というニュアンスに近い。

 

「日本は過去の歴史を反省しなければ滅亡する」という内政干渉だと勘違いされているが、どちらかというと日本という巨悪に滅ぼされた韓国を、再び負けないようにするために鼓舞する意図で使われている。

 

その認識の上で自分は思うのだが、「歴史を忘れた民族に未来は無い」という言葉は日本人こそ真摯に受け止めなければならないのではないかということだ。

日本が先の第二次世界大戦で敗戦したことは、まさしく国の滅亡だが、主な要因として外交力と国力の欠如があった。

これは朝鮮が日本に取り込まれた理由と同じで、弱肉強食の国際社会では弱い物は必ず強者によって食い物にされる。

日本に外交力や交渉力、先見性、大局観のようなものがあればそもそもアメリカとの無謀な戦争などしなかったはずだ。無実の市民も、純粋な思いで国家に貢献しようと思っていた誇り高き軍人も、爆撃によって焼失した歴史遺産も消えることはなかった。

 

朝鮮だって同じだ、高宗と閔妃の二人が王朝の外交をかき回し混乱させ、近代化より政権の維持に固執しなければ自国で発展する可能性はあった。

事実として福沢諭吉も認めた金玉均という開化派も存在したわけであり、近代化の可能性は存在した。

 

皮肉なのはこの歴史を忘れた民族に、日本人と韓国人のどちらもなろうとしていることだ。

BTSのラップモンスターは自分自身ファンの一人でもあるが、第一にこの発言自体数年前の物で10代の時の物だ。自分自身の10代の時の政治思想や歴史認識を振り返ってみても到底まともなものではないし、現時点でもそうだろう。

人間というのは考え方も変わっていくし、成熟し成長していく。一瞬の過去の発言だけでその人を判断し、更にその民族全体を判断することがあっていいのだろうか。

あの時何となく言ったということだけで、個人の人生全体が判断されるともはや誰も発言できなくなる。

ラップモンスターの発言も全体を見れば「独立のために身を捧げてくれた先祖への感謝を捧げましょう」という意味合いで、日本への批判のニュアンスはそれほど強くない。

それをいうならば日本も神風特別攻撃隊に出陣した人々を賞賛することがあるわけで、どの国にも自国の歴史観というものがある。

 

「歴史を忘れた民族に未来は無い」という言葉自体は、発言する側にも受け手側にもよって多彩な意味を持つ。

しかし抽象的な意味合いとしてこの言葉を見た場合、示唆に富んだ言葉であるように思えてならない。

韓国の場合、近代における日本の統治については厳しく攻め立てるが、過去を振り返れば中国、モンゴル、そして同胞だったはずの北朝鮮にも侵略されたことがある。

「光復節」として彼らが祝う、日本からのいわば解放記念日もアメリカがもたらしてくれたものだが、今ではそのアメリカに対しても反米になろうとしている。

 

原爆の問題に関しては日本人としては当然、快く感じるわけではないが、敗北の象徴としてこれほど響くものは無いのも現実で、「なぜ落とされたのか」という歴史を忘れてもいけない。

 

韓国の歴史、そして抗日ドラマなどを見てみると日本はとても大きな意味を持つ。

ある意味現代の韓国史は日本からの独立をストーリーの序盤にしており、その悪役としての存在感は日本人が思っている以上に大きい。

アメリカに負けた日本は、朝鮮については領土の一つだったし多民族国家の中の少数民族だという認識だったし、時としては気づかない程に市民生活に溶け込んでいた。

一方で韓国人が思い描く自国の近代史は、日本と戦ったという独立闘争の歴史であり、良くも悪くも日本は欠かせない。

 

中国、モンゴル、北朝鮮からの侵略は忘れるのに日本の事は忘れないという矛盾点も確かに問題ではある。独立運動によって現代の韓国が発足したわけではなく、核爆弾の二発とソ連の対日参戦によって大韓民国は現在まで存続している。

 

しかし日本人がここで「朝鮮人は原子爆弾を製造する科学技術力を保有していないどころか、大日本帝国の二等皇国臣民だった」と悦に浸ってよいのだろうか。

原子爆弾を自力で製造することができなかったのは朝鮮人だけではない、日本人も製造できなかった離れ業だ。

日本軍も確かに原爆の製造に着手していたものの、それはドイツに及ばずウランの採取に悩んでいたレベルであり、そのドイツですら間に合わなく敗戦した。

そして戦争が長期化した日本軍はドイツの降伏後も戦いをつづけ、原爆投下後も戦いを続け本土決戦まで想定していた。

ソ連の対日参戦がなければ確実にこの国は竹槍と火縄銃で連合軍に地上戦を挑んでいただろう。現在主要な観光地となっている国土も沖縄戦と同じようになり、それこそ朝鮮戦争で焼け野原になった北朝鮮や韓国のように消え去っていたはずだ。

歴史を忘れた民族に未来は無い、その言葉は見る歴史によって意味合いは違うだろう、しかしこの言葉自体は何も間違ってはいないように思えてならない。

田舎の空き地に増えてる謎の太陽光発電ワロタwwwww

地方の田舎に暮らしていると、明らかに増えたなぁと感じる物がある。

個人経営の商店どころか、公的な施設さえもが消えていくのと大局的に、今やたら太陽光発電が増えているのだ。

自分が田舎の地元にUターンしてきてから、気づけば昔知っていたはずの場所が太陽光発電パネルの設置場所になっているし、現在も大規模な太陽光パネル施設工事が行われている。

 

「昭和の頃は大規模な開発が行われて、自分の町に何かができるワクワク感があった」と憧れている身としては、何かの工事が行われていて期待していたら、単なる太陽光設置工事だったときのがっかり感は言葉にしようがない。

 

工事現場の謎のワクワク感というか、何ができるかと想像を張り巡らされるような刺激も、今では単に太陽光パネルを作っているだけだ。

 

しかし現実的に人口が減っていく田舎に新しい施設を作るメリットは何もない。

時折チェーン店が作られることがある物の、都会にあるような流行りの物ではなく、若者が寄り付かないようなどうでもいい物を利権で連れてきたような物が多い。

この自治体は若い世代を増やし、未来に向かって街を育てていく気が無いんだなという誘致ばかりだ。

 

そういったチェーン店すらやってこないような場所だと、もうこれは資源が産出しない日本に置いては太陽に頼るしかない。

昨今、電力の自由化だと言われ電気の売買は一つの事業になっている。

実際に調べてみると、やはり田舎で太陽光発電が増えているのは事実のようだ。

都会のように空地を駐車場に変えればそれなりに利益が得られるわけでもないし、買い手も付かない空地の利用価値といったら、現実的には太陽光発電しかない。

空き家にしていれば固定資産税はかかるし、廃墟になっていけば近隣に様々なデメリットが存在する。終いには所有者が全員いなくなり、行政が仕方なしに空き家を解体するという状況も溢れている。

 

太陽光発電を設置すればおおよそ10年で元は取れそれ以降は不労所得になるとされているので、いっそのこと解体業者に依頼して始末し、その後は太陽光パネルの設置場にしたほうがいいというのが全体的な流れのようだ。

もちろん今後電気の買い取り価格も下がり、なおかつ行政の補助金も減少する傾向にあるので、以前ほど魅力的な投資とはいえない。

その一方で、かと言って他に利用先も無いので仕方なく太陽光発電の置き場にするしかないというのが現実だ。

 

近隣の住民としても見栄えの悪い空き家がいつまでも経っていると不気味だし、劣化し倒壊するリスクや害獣、害虫の温床となるリスクもあるので、さっぱりとしてもらったほうがいいという事情もある。

高齢化して引き継ぎ手もいなければ家主は大体が老人ホームに入ってしまうので、田舎には日を追うごとに空き家が増えている。

 

よく人生の後始末として「終活」という言葉が取りざたされるが、実際のところ、太陽光発電の設置はその意味合いが強いように思う。

遺産を存続する親族にとっても、利用価値のない土地など買い手がつかなければいっそのこと太陽光発電所として生産的な場所にしたほうが良いだろう。

誰も管理しない空き家が近年問題になっているが、処理できる間に太陽光パネルに変えて未来の遺産にしたほうが、日本も環境エネルギー国家になるだろう。

それで使われない貯蓄が太陽光パネルを通じて今現在の経済に行き渡り、なおかつ衰退するだけの田舎にせめてもの生産的な価値が残るならばそれは、地方の終活としては一つの現実案だ。

 

また個人所有の土地が空地を解体してパネルを設置するだけでなく、大規模に土地を開墾してそれなりの規模の企業や業者が設置するのを見ると、やはり何らかの魅力はあるのだろう。

これ以上何か新しい物が生まれるわけでもなく、なおかつ資源に恵まれないような地域が勝ちを残せる数少ない手段とも言える。

例えば中国が広大な土地で大規模に風力と太陽光で発電するというスケール感はないが、日本の地方の規模が電力を自給自足できるレベルを目指すのであればまさに未来型のエコ都市が実現する。

電力の輸出国とまではいかなくとも自給自足できるレベルになれば、その余力を他に回すことができる。もちろん、それは非効率的な利権に回らなければという前提があっての話ではある。

しかし都市部から離れた需要の無い立地のほうがむしろ有利だというのは田舎にとってもチャンスがあり、また個人の所有者にとっても数少ない土地の有効活用手段であることは間違いない。だからこそ実際に自分の身の回りでも現実的に太陽光発電が増えている。

 

数十年後の電力買取価格はもしかしたら技術革新によって下がるので、この投資は赤字になり無用の長物になる可能性もあるだろうし、逆に世界の電力需要が増え、電力の争奪戦になれば油田に匹敵するような不労所得になる場合もある。

この投資の行先はに関しては現時点では予想がつかないが、利用価値のない土地にとっては藁にもすがるような賭けの対象だ。

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果たして本田圭佑は東京五輪にOAで招集されるのか

滝川クリステルが「おもてなし」と言って東京五輪開催が決定したときは大騒ぎだったものの、いざ2020年が近づいてくるとボランティア不足が問題になったり東京も猛暑の中で果たしてマラソンをやるのかという問題も危惧されたりと、中々のぐだぐだ具合だ。

 

そういえばサマータイム騒動もあったし、今年の夏は連日猛暑の話題で一色だったことを考えると、マジで東京オリンピック大丈夫か・・・と心配になってくる。

これはまだ序章に過ぎず、日本社会の闇や非効率性のような部分はこれから噴出して来るだろうし「戦後日本最後の打ち上げ花火」として大会終了後に景気も下降路線を辿り始めるという見方が多い。

 

日本が先進国になっていく時代の象徴としての1964年の東京五輪に対して、日本が先進国の座から転落していく時代の象徴が2020年の東京五輪になるだろう。

なんというかこういう暗い事でしか話題にならない寂しい国になったなぁとも思うし、もう日本人の気質そのものがバッシングや批判の時にしか盛り上がれない陰湿な性質になってきてるなぁとも感じる。

 

そんな「絶対に笑ってはいけない東京五輪」で個人的に楽しみにしている要素がサッカーであり、本田圭佑のオーバーエイジ枠での参加だ。これは本人がワールドカップ後の目標として公言しているだけでまだ決まったわけではない。

流石に4年後のW杯は年齢的にも厳しい部分はあるが、2年後の五輪は現実的な射程圏内に入るという考えで本田圭佑は逆算して行動を始めた。

 

自分としてもサッカー熱を維持したいという思いがあり、この2年間ケイスケホンダのプロフェッショナルチャレンジとして東京五輪挑戦を楽しみにしていきたいという思いもある。

自分にとってのサッカー熱は半分、本田圭佑熱のようなところがあり本田無くしては自分のサッカー熱は完全には盛り上がらない。

 

現実問題としてはやはり厳しいだろう。

本田圭佑自体「都落ちですとも、そこは否定しません」と認めているようにもう欧州のトップリーグにいるような選手ではなくなっているし、日本代表からも引退している。

今季からオーストラリアリーグでプレーして確かに活躍しているものの、まだ始まったばかりという事もあり圧倒的な数字は残せていない上に、どうしてもリーグのレベルについて疑問符が付くことは否めない。

 

仮にこの2年間オーストラリアリーグでプレーして、そのまま東京五輪代表に選ばれるという事を目指すのであれば余程の活躍が必要になる。

ちなみに本田圭佑の親族にはカヌーと重量挙げで五輪出場経験者がおり、サッカーでも出場するとなれば五輪一家ということになる。

 

サッカーは五輪の中でも観客動員数がトップクラスのため、オリンピックにおける花形競技であり、そこに本田圭佑が出場するとなれば注目度も自然と高まるだろう。

もちろん久保建英を筆頭に、現在若いアンダー世代が国際大会で結果を出し始めているので、ベテランの本田圭佑がそう簡単に割って入れるわけではない。

しかしベテランと若手の融合というのは時として大きな力になることもある。

かつてアルゼンチン代表のリケルメとメッシが融合したときの北京五輪のように、本田圭佑と久保建英がエースの座を継承する大会になればそれは象徴的な大会になるはずだ。

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ちなみにこの北京オリンピックに本田も出場し「それはごもっともだが俺の考えは違った」と迷言を残し、惨敗して大会を去っている。その忘れ物を10年の時を経て取りにくるためにも東京五輪には特別な思い入れがあるのだろう。

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日本代表の五輪における最高成績といえば釜本邦茂が在籍していたチームがメキシコで銅メダルを獲得した例がある。

いい加減この記録を塗り替えない限り、いつまでも釜本邦茂を越えられないということになるのでそろそろ本田圭佑に「ここは俺でしょ」としてもらいたい。

それが現役サッカー選手として本田圭佑に最後に課せられたミッションであり、それを成し遂げた後に思う存分セカンドキャリアを歩んでくれればその後の活躍も期待できる。

日本において「オリンピックメダリスト」というのは時としてワールドカップの実績以上のブランドを持つことがある。

本田が既存の体制に立ち向かっていくのであれば、そういった五輪での実績は手にしておきたいという事情もない事は無い。

 

仮に本田圭佑が東京五輪世代の日本代表に加わるのであれば、現状の見方だとボランチのポジションが有力だとされているし、本田圭佑もそこにチャレンジしようとしている。

メキシコのパチューカに移籍した後、「30歳を超えてからあえてドリブルのような個人技を磨くことに挑戦する」ということをしたので、以前はやらないと語っていたボランチ、守備的ミッドフィルダーのポジションを本格的に極めることになるかもしれない。

そもそもCSKAモスクワ時代にはボランチのポジションをしていたし、Jリーグの名古屋グランパス時代にはサイドバックをしていたこともあるほどユーティリティ性に長けている。

いわゆる「持ってる男」としての得点力を生かして前線で張るようなセンターフォワードの役割で出場することだってあるだろうし、どういった出場の仕方をするかはまるで予想がつかない。

ただいたら面白そうな選手であることは間違いないし、三大会連続ワールドカップの本戦に出場し数字を残している勝負強さというのは、東京五輪世代の若手選手にとって大きな刺激になるはずだ。

 

単に注目度の高さだけで無理に押し入れてもらうのであれば、そんな本田圭佑はもちろん見たくないが、本気で挑戦して2年後東京五輪の舞台に立っていれば面白い大会になることは間違いない。

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次世代大国インドVS中国 生き残るのはどちらか?

「ぶっちゃけインドってどうなん?」とここ最近、インド事情に興味を持ち始めている自分がいる。

今日も一日インドの未来について考えていたのだが、今の日本で「インドの未来どうなるのやら」と思索を重ねている人がどれほどいるだろうか。

おそらく今から自分のインド論について語ったところで"インドに自信ニキ"は現れてくれないだろうが、自分なりのインド論について考察してみたいと思う。

 

そもそもまず日本でインドについて話題になることはあまりない。

ネットニュースでインド情勢の記事が上位に来ることは珍しいし、書店でインド特集の雑誌が置かれることも無ければテレビでインド取材企画が組まれることも無い。

中国についてはこれほど話題になるのに、インドについて日本人は驚くほど無関心だ。

実際日本においてインドに触れる機会があるとするならば、それはインドカレー屋に行ったとか、格闘ゲームでダルシムが好きだったという懐古話くらいだ。

最近では一昔前の瞑想ブームやヨガブームも無くなり、特にインドに興味を持つ機会も減っている。

 

思うに今の日本人のインド認識は、一昔前の中国認識と酷似している。

つまりチャイナドレスのアニメキャラクターか、人民服を着て自転車に乗って天安門の前を走っている、もしくはラーメンマンか芝をスプレーで塗装する環境汚染国家かというイメージと同じように、今の日本人のインド観は「ダルシムの国」や「インド人を右に」で終わる。

 

もしくは映画の時になぜか踊る国であり、ハリウッドに対してボリウッドと称される映画大国として知っている人もいるかもしれない。

自分も過去に一度だけインド映画を見たことがあるのだが、非常にクオリティが高く驚いたことがあるし、インド式の愉快なダンスは国際的にかなりファンが多いのも事実だ。

 

もう少し学術的な知識がある人ならば、インドは英語と数学の大国だと思い浮かべるだろう。

日本の大学入試でも「英国数」は重要視されるが、インドの場合事実上英語が現代文の役割を担っているので英語と数学の二大強化が抜群に優れているという国になる。

世界一の英語大国はアメリカではない、実はインドであり、これから教育水準が上がれば更に英語はこの国で重要な位置を占めていくだろう。

仮に14億の人口の中で、半数の人が英語話者になった場合インドは7億人が英語を理解する国になる。

インド人の英語は非常に訛りが強く決して綺麗な英語というわけではないのだが、もはやインド式の英語として一つの言語であるほどに確立されており、これからインド式英語がグローバルスタンダードになっていく可能性は高い。

そもそも英語の本場であるはずのイギリス人の英語自体が非常に聞き取りにくいので、むしろインド式英語の方が非ネイティブにとっては親しみやすく話者も多いという時代になっていくのではないか。

開発途上国に爆発的な勢いでスマホが普及し、大学に行かずとも最先端の情報に触れることができる今、英語をナチュラルに理解する大量のインド人が世界最先端の論文にネイティブとして触れる時代が来ようとしている。

その一方で日本は大学生ですら英語を聞き取ることができない国だという現実がある。

 

数学に関して言えばインドが「ゼロ」という概念を発見したことは有名であり、またラマヌジャンという稀代の天才を輩出した国でもある。

ラマヌジャンは世界の数学史において間違いなく歴代トップ10に入る天才であり、「天から公式が振ってきた」というひらめきに満ちた天才だと言われている。論理的な記述を詳細に記しているわけではない物の、なぜかそれが証明できてしまうという話もあり、このように時として規格外の天才を生み出すのがインドだ。

また世界の大企業のCEOがインド人経営者になっているというビジネス界の動向もあり、今後国際舞台においてインドの存在感が増すことは間違いなさそうだ。

 

もうひとつ加えるならばインドは軍事面でメキメキと実力を伸ばしており、事実として核保有国であり空母保有国でもあるというれっきとした軍事大国でもある。

現にロシアから大量に最新兵器を買い集めており、空母も元々はロシア製だ。その上、宇宙開発にも力を入れており、インドの科学技術力は決して軽んじるべきではない。

 

インド

「規模が大きいだけの開発途上国は真の先進国にはなれない」という日本人の幻想は、中国の発展を見て完全に崩れ去った。

中国など10年前はGDPで5位ほどで、イギリスと競っていた存在だったが今では日本を追い越してアメリカとバチバチやりあっている。日本が中国に勝っている事といえば精々市民意識と、過去の遺産で取ることができているノーベル賞くらいであり、もはや完全に中国の方が発展している。

誰がこのようなことを想像できただろうか?

「ラーメンマンの国」が日本を超える先進大国になったように、「ダルシムの国」が日本を追い越していくことは時間の問題だ。

開発途上国を舐めてはいけないし、自分たちの先進性を過信してはいけないという教訓を日本人は忘れるべきではない。

 

そしてこのインドと中国は今後、間違いなく世界をリードする国になるだろう。

おそらく10年後の国際ニュースはインド関連か中国関連のどちらかが主流になっており、「中印冷戦」と呼ばれる時代も来るかもしれない。

 

かつて米ソが冷戦を繰り広げた時期はお互いに国家体力に満ち溢れていた時代だが、今からその体力に溢れた国になっていくのは莫大な内需経済が発展する中国とインドだ。

当時でも米ソは人口大国だったが、規格外にその規模を上回るのが中印であり戦後の時代に騒がれた「人口爆発」はむしろこれからやってくる可能性がある。

 

戦後初期の文献などを見ると「中国の人口増加」というのは未来の問題として非常に危惧されていたが、今ではおさまったような感覚がある。確かに都市部では先進国化して少子化の傾向にある物の、「一人が使う資源」という意味で中国はむしろその消費量を増加させつつある。

一人っ子政策も廃止され、仮に中国人やインド人の大半が先進国水準の生活をするようになれば地球はあっという間に枯渇するだろう。

 

幸いなのはこの両国が宇宙開発に力を入れている事であり、両国政府も自国の人口を地球の資源だけでまかなう事には限度があることを認識している。現状、最後のフロンティアであるアフリカに中国は関心を向けているが、今後その"アフリカ利権"を巡ってインドと中国が衝突する可能性も否定はできない。

 

仮に第三次世界大戦の可能性があるならば、アフリカ利権、もしくは宇宙利権のどちらかで中国とインドが競い合う時なのではないか。

その時にこの両国のどちらが生き残るか試されることになる。

世界最大の自由主義国家と共産主義国家が今後100年の覇権を争う時代が来るのか。現に中国とインドの関係は上手くいっているとは言い難い。最近、中印関係は、国境付近における軍事面での協力を模索し雪解けムードにあるものの、共に両国とも中々の「武闘派」国家だ。

軍事パレードが面白く、非暴力を唱えたガンジーのイメージがあるかもしれないが、インドはバリバリの武闘派であり何度もパキスタンとやりあっているような経歴がある。

日本人は中国の軍拡には敏感になる傾向があるが、平和的なイメージと裏腹にインドがしきりに軍事拡張を行っている事実がそこにはある。

 

本来ならば緩衝地帯になるはずであったチベットも今では中国に取り込まれて、二つの超大国が隣接しているのがアジアの現状だ。

逆に言えば中国が戦後初期の段階でいち早くチベットを併合したことが、中印関係において有利に働いたとも言えるだろうか。

更に中国が同盟国として支援しているパキスタンとインドの関係が不安定なことも混乱に拍車をかけている。

中国共産党の幹部指導者はエリートだけあって非常に賢く、ロシアとの対立関係を長年の努力によって改善し、最近では反日を乗り越え日本とも協調路線を歩み始めようとしている。中国の立地上、外敵に囲まれているので近隣に敵を作るとあっという間に不利になる、そのことを彼らはしたたかに理解している。

 

かつてそのチベットのダライ・ラマ14世は中国から逃れ、インドに亡命したことを自伝で語っていたのだが、その著書で彼はインドを絶賛していた。

「中国人のほほえみの裏には何かが隠されているが、インド人のほほえみは本物だ」と語ったり「元々インドとチベットは仏教国なので伝統的に友邦関係にあった」とも記述している。

 

もちろん日本人にとってもインドは仏教国として始まりの地であり、今日の日本に大きな影響を与えた国と言っても過言ではない。

今でこそヒンドゥー教が優勢だが、元々は仏教が生まれた国であり日本人にとっては縁の深い存在だ。戦前、日本の商品が最も売れていた輸出先の一つがインドでもあり、戦後は日印関係にも力を入れてきた歴史がある。

 

自己啓発本にありそうなタイトルかもしれないが「今日からインド人の友達を3人作りなさい」というのが今の日本人にできる事かもしれない。

日本人にとっては世界情勢を知るきっかけにもなるだろうし、当然英語力を高めるきっかけにもなる、そしてインド人が日本に対して友人として好印象を持つことは巡り巡って大きな意味を持つはずだ。

一定の教育水準にある人ならば英語がある程度通じるという意味はやはり大きく、この点でインドは今後大きな可能性を持つ。例えば東南アジアのベトナムやタイに可能性があるからといっても現実には言葉の壁が大きいが、インドは人口15億に達する巨大国家であり英語が通じやすい国だ。

 

大胆なほどに先進性と後進性が混在しながら近未来において確実に存在感を増していく国、それがインドだ。悠久の歴史を経て再び中国が世界の中心に登場してきたように、インドもその機会を後を追うように見つめている。

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昔の女性のゴール→結婚、今の女性の人生のゴール→母親の家事手伝い

「将来の夢はお嫁さんになる事」と幼稚園生が宣言したり、おままごとをして遊んだりするように結婚という物は女性にとってある種の憧れや夢のような存在なのかもしれない。

もちろん誰もが結婚に憧れているわけではないし、昨今は未婚率が急上昇しており女性の結婚離れが進んでいる。

 

どうしても男性の視点からすると、女性側が人生のゴールとして結婚を望んでおり、男性にとっては「人生の墓場」なので避けているという見方をしがちな傾向がある。

しかし実際に、結婚を望んでいないのはむしろ女性の方で最近は男余りということもあり、結婚できない負け組層の悲惨さで言えば男の方が哀愁漂っている時代だ。

 

結婚

結婚がバラ色の夢だった時代は終わり、「夫は小遣い制で、昼間に嫁は豪華なランチを食べている」なんていう典型的な悪妻像は過去のものとなりつつある。

むしろ今の時代「共働き」は必須で女性は働きながら子育てもしなければならず、その上未だに社会も男性も育児に寛容ではなく理解が無いのならば、少子化が進むのは必然だ。

それどころか男性側が結婚相手に収入まで求めるようになれば、女性側としてはどこまで負担を強いるのだと感じても仕方がない。

そもそも女性が結婚してバラ色の生活を送っているというのはドラマにしかないような話でしかなく、実際に自分の母親を見ても苦労していたという人が大半なのではないだろうか。昔から母ちゃんというものは大変だし、現代において働きながら子育てをしているママさんたちは本当に一生懸命生きている。

 

男側としてはこれでも懸命に生きているのだが、もう今の時代家族を支えられる余力のある甲斐性のある大黒柱になることは難しいのも現実で、そしてそこまで結婚に本気になるほどのモチベーションもないというのも実情だ。

いわゆる孤男が1人暮らしでも十分に生活できる環境が揃っている今、男性側が女性を家事の担い手として必要とすることもなくなっているし、更に言えば女性側の家事スキルも年々低下している。

男の甲斐性も低下しているが、女の家事能力も低下していて、なおかつお互いにひとり暮らしができる上に、そういう同性や同年代の仲間も多いとなれば未婚化は避けられない流れだ。

 

もう今の時代、男女が結婚して家庭を築くとなれば昔から交際関係が続いていてついに結婚したというパターンか、社会人になってからお互い本当に好きになって一緒に暮らしたくなったからというパターンくらいしかないのではないだろうか。

しかし現実に大人になってから、打算抜きで本当に好きだから一緒にいたいという恋愛も中々成立しづらいだろう。

結婚相談所や婚活パーティのようなところにいっても、結局お互いに品定めをしているようなものでスペックが物を言う世界が広がり、まるでオークションに出される商品になったかのような錯覚に陥るという経験談もある。

大人になってから自由恋愛で交際相手が見つかるような層は、既にパートナーが存在するわけで、都合よく「職場に出会いが無いだけで、恋愛対象としての魅力はある」みたいな層はそうそう余っていないのだ。

 

前述に「今の時代、家事の担い手を必要としている男性は多くない」と書いたが、「嫁さんの手作りの料理を食べたい」なんていう少年のようなピュアな夢を思い描いている層を除けばやはり独身男性はこれだけの外食大国日本で食には困らない。

そもそも家庭の味を受け継ぎ、花嫁修業で調理が得意な女性が少なくなっているわけで、完全に時代遅れの夢でしかない。その上、共働きを求める甲斐性の無い男性が、愛妻の手作り料理に味を求める資格などないのである。

そんなことは日ごろの感謝をこめて、週末には必ずフレンチレストランで御馳走するという気概の持ち主ぐらいしか求めてはいけないわけであり、底辺の独身男性は惣菜が半額になる時間を待つしかないのだ。

 

その一方で今後家事の担い手を必要とする可能性が高いのは、実は身近な存在、すなわち両親なのだ。

仮に今の女性層が専業主婦を望むのであれば、母親を頼ったほうがよほど成功確率が高いだろう。

 

それほど結婚したいとも思わないし、もう年齢的にも子育ても厳しく独身は覚悟しているという女性がいるとしよう。

結婚のタイムリミットが迫り、趣味はアニメと声優で、夜な夜な独り寂しくガルちゃんを見て泣いているようなイメージ像だろうか。

年齢は40歳、母親は65歳とする。

昭和の時代は25歳で出産は有り触れていたし、もちろん今の時代でも意外に多い。

そう考えると40歳女性で、母親は65歳で年金時給生活が始まるというモデルケースはわりとリアルな数字だ。

そういう女性層が実家暮らしで、母親と一緒に趣味を楽しみ日本のコンテンツ産業を支えているのであればいっそのことその生活を満喫してもらおうという方向もありかもしれない。

 

男性に比べて女性は平均寿命が長く、当然この母親も長く生きるだろう。

世界を見渡せば親の年金をあてにして子は無職という例は結構多く、日本でも今後そういった家庭は増えていくはずだ。

 

今の時代に勝ち組なのは、母親と一緒に持家で暮らして、父親が既に他界して遺産と貯蓄はそこそこあり、年金も入って来るので働かずに済む中年女性層だろう。

これが国民年金ではなく厚生年金だったらなおさら勝ち組だ。

ぎりぎり年金はマイナスにならず、趣味のために時々パートや短期アルバイトをして気ままに暮らす女性を誰が「行き遅れおばさん」と批判できるだろうか、むしろ最強の勝ち組ではないか。

その上、若いころ十分に恋愛を楽しんで愛に対する未練もなく男の現実を知っているのでそれほど夢も見ないとなればもう誰も勝てない。

更に言えばこれから女性主体のコンテンツは充実する傾向にあり、現にアニメやアイドルは女性の購買力頼みだ。

独身女性から資金がいくらでも集まるので豪華なことをやれるというのが、女性主体コンテンツの特徴で、某ジャニーズなどその典型である。

 

つまり今の独身男性は他の優秀な男性に負けているのではない、彼女たちの母親に負けているのだ。

老いていく母親の年金以下の甲斐性しかない負け組男性が増えている悲しい社会構造がそこにはある。

母親の年金よりも頼りにならないと思われている現代日本の男たちの姿がいかに哀れな事か。

 

これからの女性が当てにするのはむしろ母親であり、日本社会の風潮としても女性の家事手伝いはニートとみなされないことが多い。

かつては結婚まで働いて、寿退社で家庭にはいるというのが一つの理想像ではあった。

しかしこれからは母親が年金時給者になるまでほどほどに働いて、その後はパートをして貯蓄を積み立てて逃げ切るというのが女性のライフスタイルになっていくのではないか。

少なくとも自分が女性ならばそうするだろうし、男性との恋愛よりも母親との仲を充実させた方が割に合う。

 

もしくはどうしても結婚したいし子育てがしたいというのであれば、これまた壮絶な男余りになっている中国に嫁ぐというのもありかもしれない。

中国は富裕層の数が非常に多く、なおかつ夢を持ちやる気に満ち溢れている男性も多い。

日本で年収一億の男性と結婚しようと思えば、モデル級の美女や元アイドルなどでなければ難しいが、中国には年収1000万代を含めればかなり裕福な男性も多く、日本以上に発展した都市も出始めている。

日本の場合もう独身でいいという負け組を受け入れた男性も多いが、中国は親も含めて結婚に情熱がある家庭が多く、日本に対するイメージも過去最高の状態なので日本人女性にとっては超売り手市場となっている。

 

一昔前は結婚相手が見つからない女性といえば、よほど何か問題があるのか本人のこだわりがあるのかといイメージだったが、今は普通の女性でも中々結婚相手が見つかりにくくなっている。

それはなぜかと言えば日本人男性が劣化しているから、正確に言えばそれだけ男の活力が削がれてきたからなのだが、いずれにせよ「頼れる男」というのは希少な存在になってきている。

一人でバリバリ生きていけるキャリアウーマンになれないのであれば、母親の年金で逃げ切れそうな世代は母親と一蓮托生して、年金が当てにならなそうな世代は外国人男性探してくださいというのが、今の日本人女性に突きつけられている現実なのではないか。

 

これで余り物になった男は一見悲惨に思われるかもしれないが、実は大正から昭和の時代を除けば誰もが結婚していた時期は珍しく、昔から独身男性は普通の存在だった。

安易な勝ち組ルートは見つからないかもしれないが、男は男で生きていくしかない。

ひとり暮らしは更に簡単な時代になっているし、独身男性向けの娯楽も充実している。

もちろん日本の人口はこうして少子化によって減っていくが、緩やかな撤退戦の段階に入っていると考えれば、この社会構造がどこまで持つかというのは一つの社会実験と考えられるかもしれない。

超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃

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小林祐希は長谷部誠の後継者になり得ると思うんだが

今の新生日本代表の森保ジャパン、正直に言ってかなりスタートの出だしが良くて期待できる。

トンがってるというか、イキッってる若手が多くて期待が持てるので実に自分好みだ。攻撃的にチャンスがあれば隙あらばと攻めてガツガツ攻撃に行く。

荒削りではある物の、点を取られればそれ以上取り返せばいいというスタイルで、見ていてワクワクさせられる。

この勢いの芽を摘まず、戦術を洗練させていけば守備にも攻撃にも強いというチームで次回のカタールW杯に挑めるのではないか。

やはり若者はギラギラしていなきゃいけないというか、そういう華やかな世界を日本中に見せつけることで「次は俺も」となっていく構図に期待したい。

 

よく「ゆとり世代は大人しく野心が足りない」という偏見が存在するが、しっかりとギラギラ情熱に満ち溢れている若手は存在する。

現在の森保ジャパンは、ウルグアイに勝つまでは監督が地味だと言われていたが実は若手が派手で、カズや北沢が選手で監督が岡田武史だったころに近い印象を受ける。

 

そのラストピースとして個人的に期待しているのが、現在オランダのヘーレーンフェーンでプレーしている元ジュビロ磐田所属の小林祐希だ。

ハリルジャパン時代にも定期的に呼ばれてはいたものの、結局西野ジャパンには招集されずロシアワールドカップ行きを逃すこととなった。

 

しかしその落選を決してマイナスと捉えず、「むしろ次回のW杯まで1か月早くスタートできた」とポジティブに考え内心メラメラと2022年のカタールに向けて燃えている男だ。

 

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この男、とにかくインタビューが面白く独自の価値観を持っている。

時にはそれが「本田圭佑の後継者」「偽本田」と取りざたされることがあったものの、本人は「俺は誰も物真似でもなく小林祐希」と全否定する。

しかしながらプレースタイルは左利きの司令塔であり、オランダ1部リーグでプレー、派手なファッションや言動をするのでどうしても本田圭佑を彷彿とさせるものがあるし、自分自身、そこはかとなく香る本田要素に惹かれて興味を持った立場だ。

 

だがよくよくこの男について紐解いていけば、決して本田のコピーではないことが分かって来る、そして小林自身の個性に溢れた魅力を感じられるようになる。

 

例えば本田圭佑が「ボンラチようやらへんで」というタイプならば、小林は必要があればそれを受け入れプレーする。現にオランダリーグでのキャリアはボランチでのプレーであり、地味に欧州の海外組としての出場試合数は多い。

 

本人の希望は前線のアタッカーであり、理想はドイツ代表のメスト・エジルであると語る。いわゆるトップ下、攻撃的ミッドフィルダーとして決定的な一瞬のパスで試合を演出し自分も得点を決めるというスタイルを模索しており、見た目に拠らず天才肌であり芸術肌だ。

その一方で身長は182cmと日本人選手の中では大型であり、これは本田圭佑や長谷部誠と同格クラスである。

 

現在の日本代表に唯一欠けているとするならばまさにこの高さであり、柴崎岳と遠藤航のダブルボランチには足りない物だ。

仮に小林祐希がここから日本代表のスタメン、そしてカタールワールドカップ行きを目指すならばこのダブルボランチの一角が現実的な視野に入るのではないか。

ここから劇的に攻撃センスや得点力が上昇することは考えにくい上に、クラブでもプレーをしていない。

オランダのヘーレンフェーンと言ったところで名だたるビッグクラブではなく、もはや今の時代、海外組だからと言って問答無用で招集される時代ではない。

 

小林がここからステップアップするのであれば、オランダの強豪PSVやアヤックスをめざしそこで不動のスタメンとなることが現実案だろう。

もしそのオランダ上位クラブでCL出場権を獲得し、欧州の国際舞台で活躍すれば日本における彼への注目度も増すはずだ。

 

本田圭佑がオランダのVVVフェンロからCSKAモスクワに渡り、ACミランに辿り着いたキャリア自体は経歴として素晴らしいが内容自体は決していばらの道ではなかった。

むしろ無駄にした時間の方が多いという印象さえ受け、本田がオランダの強豪を目指していればという仮定が今でも語られる。

誰の人間にも言えることだが環境を変えることは並大抵のことではなく、サッカーのリーグにも国によって違いがある。

 

1992年生まれという欧州においては既に若手だとはされなくなっている年齢において、育成リーグのオランダから劇的なステップアップを遂げるには余程の活躍が無ければ厳しい。

ましてや数字を残しにくいポジションで、チーム戦術の縁の下の力持ちを担っている小林にとって、セールスポイントとなる派手な結果は得にくい物がある。

仮に今季の1年で劇的な結果を残せなければ、欧州を流浪しJリーグに帰ってくるという結果もあり得る。

 

小林祐希という男は一人のファンが干渉するまでもなくよく考えている男であるというのは承知の上で、彼が日本代表に復帰する可能性を考えてみたい。

それは端的に言えば長谷部誠の後継者になることだ。

ロシアワールドカップを最後に代表を引退した長谷部も、元々は攻撃的ミッドフィルダーから守備的ミッドフィルダーにポジションを変えて大成した選手だ。

チーム全体に気が利きバランスを取れることが代表だけでなくヨーロッパのクラブでも評価され今もドイツのブンデスリーガで活躍している。

小林もまたオランダでチームメイトの気配りを発揮し、「昔は自分を推しだして尖がっていたけど、今は周りに気を使えるようになった。オランダでは自分よりも更に若手が多い。」と語っている。

 

ある意味ゆとり世代がこれから若手ではなくなっていく構図と似ているし、海外にはもっと生意気でガツガツした後輩が存在するはずだ。野心的だったはずの自分が、牙の鋭さを失い更なる若手に迫られてくる、そのことをひしひしと感じながら焦っている心理も存在するだろう。

 

「最後の勝負ののシーズン」といえばネガティブに感じるが、「本田圭佑もこの年齢の時ロシアやイタリアで逆境に直面しくすぶっていた」と考えると希望も湧いてくる。

 

かつて小林祐希は「宇佐美貴史や柴崎岳が出ている試合は見たくない」と同じプラチナ世代としてライバル心をむき出しにしていた。

もしその柴崎とダブルボランチを組めば日本代表としては頼もしい。

ボランチというポジションに限らず、前線にパスを送る役割として右利きと左利きの選手が混在していたほうが、当然ながら左右のバランスも獲れて攻撃が偏らない。

今の日本代表は右利きの中島翔哉と左利きの堂安律という理想的な両翼に支えられている。

この活き活きとした両翼を思う存分に活躍させるためにも小林のバランス能力は必要とされるかもしれない。

実際にプレースタイルを見たときもワンタッチでパスをさばく能力が非常に高く、前線に送る意識が高い。

 

本人は攻撃的なトップ下を理想に掲げているが、サッカーの世界において詳細なポジションを分類することは困難になってきている。

名前が同じでもクラブのチーム戦術によって役割は異なってくるし、シーズンによっても違ってくる。

クラブが違えば数メートルプレーエリアが違うだけで役割に劇的な変化が現れるものの、ポジションの名称は同じであることも多い。

 

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長谷部誠だけでなく、プレーエリアをやや守備方面に下げながらも攻撃的な役割を発揮し続けたという意味ではモドリッチやクロースはその典型例だ。

またピルロやブスケツは後方からゲームメイクを行い、チームに数々のタイトルをもたらした。

いいミッドフィルダーというのは一試合で派手な活躍をする選手ではなく、気づけばチームに数々のタイトルや実績をもたらしているような選手だ。

せっかく恵まれたフィジカルがあるのであれば全盛期の本田圭佑、もしくはポグバを目指すような体格作りをしたっていいかもしれない。

ポール・ポグバは全世界で見ても化け物のようなモンスター級の選手だが、何もこれからポグバの領域を目指す必要はない。

あくまで日本人選手の中でポグバのような立ち位置になれば、小林祐希の代表での地位とワールドカップ行きの切符は現実味のある物となる。

 

本田圭佑の世間の注目を誘う派手な言動とファッション、そして左利き要素に加え、第二の長谷部誠になれるポテンシャルも兼ね備えている。

カタールワールドカップまでのこの4年間、小林祐希は本田圭佑のように目標に向けて逆算しながら虎視眈々と夢を狙っているはずだ。