負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

NHK北朝鮮帰国事業60年後の証言についての感想

1959年から始まり84年まで続いたとされる北朝鮮への帰国事業について、NHKがかなり骨のある特集を組み放送した。

自分はこういったドキュメント番組を見るのが好きで、何かと偏向だと批判されるがNHKの取材力はやはり凄い。一応NNNドキュメントなど民放でもかなり踏み込んだ事を取り上げている番組はあるが、時代の変化によってこういった事を本格的にやれる局は少なくなってきているのが現実だ。

 

帰国事業というのは戦後、在日コリアンを北朝鮮に帰国させようという試みでその存在自体は以前から知っていた。

「朝鮮人は植民地時代に不幸にも強制連行された」というある種のストーリーがあり、それに対して「帰国事業で帰る機会を与えたのにわざわざ残って日本に文句を言うのはおかしい」という問答がされてきた。

 

この帰国事業に関して自分は以前にもいくつかの番組や映画を見たり、著書を読んでその実態について読んだりしてきたのでこのETV特集で初めて知ったというわけではない。

 

全体を通して一番感じた率直な思いをまず上げてみよう。

それは在日コリアンは事実上の日本人だということだ。

この番組に登場した印象的な夫婦は、日本で生まれ育ち戦後日本国籍を剥奪され「地上の楽園」を信じて北へと渡ったと語っていた。

自分は柔道に明け暮れ東京五輪を目指していたら、国籍が日本では無いことで夢が絶たれ、その時に朝鮮総連からの勧誘によって「向こうは教育も住居も全てタダで手厚い保証を受けられる」と誘われ渡ったそうだ。

言葉は今脱北して韓国で暮らしていても、イントネーションやニュアンスを含めて完全な日本語だ。

若い頃の写真を見ても話のトーンを聞いても本当に穏やかな人で「みんな朝鮮人嫌いやんか」と話していたのが胸に響いた。

またいざ帰国船で清津という北朝鮮の都市に降り立ったときの衝撃を語り、「日本だったらいろんな髪型のブームがあって石原裕次郎やリーゼントみたいなのがあったけど皆向こうは貧しい服装で角刈りばかりだった」と話していた。

帰国した日本人も現地の実態に驚き、帰国者を歓迎するために練習させられていた人民も彼らの優雅な佇まいや身なりの優雅さに「天国から降り立ったようだ」とお互いに驚いたという。

つまり信じて予想が相互に崩れたのだ。

片方が地上の楽園だと信じて、もう片方は差別と過酷な生活に苦しむ同胞を哀れみ助けようとしていたはずだった。

 

余談ではあるがこの番組の後に帰国事業について調べたところ、更に後の時代に日本から北へ親戚や家族に合うように行った時に「日本では今も石原裕次郎や美空ひばりが人気なのか」と日本の事情を気にしてたというエピソードも見かけた。

昭和の時代のそういうスケール感が凄いというか、逆に日本に対して望郷の念を抱くという構図も興味深い。

現地では日本から送られてくる物に価値があったともいうし、北朝鮮から日本に残っている親族に要求される物品にも北の現実を感じたという。そこで宣伝される体制の成功に疑問を感じたという人は多い、更にその実情は知っていてもとにかく家族と暮らしたいという思いで帰国した人も存在する。

 

この石原裕次郎のファッションに影響を受けたアジョッシというかおじさんは個人的に魅力を感じた証言者の一人で、「日本から持っていったセイコーの時計を売ったら一瞬金持ちになった」という話が面白かった。当時朝鮮現地の月給の10倍近い値段になったらしい。

それで平壌駅に行けば酒は飲めるし、現地人も恐れて文句を言わなかったという。もし何か言われても「ゲンゴローどっか行け」と怒鳴れば立ち去って言ったという。

これが1960年代の平壌の話で、お金があれば好きに楽しめた社会主義の実態を感じつつも、その当時の雰囲気を想像してみたくなった。一体当時の平壌駅でお酒を飲める食堂とはどんな場所だったのかと。

 

また彼の奥さんも帰国者で、話し方は完全に日本のちょっと性格がキツそうなおばさんで「ゲンちゃんとは絶対に遊ばなかったよ」と語っていた。

 

ここでいう「ゲンゴロー」と「ゲンちゃん」というのは現地の人という意味だ。

戦前は日本人にいじめられたと語る植民地時代を知るお婆ちゃんを別の番組で見たことがあるけれども、実は同じ朝鮮人でもこういった差別意識が無意識に生まれていたのは興味深かった。民族というより文明や文化の水準が実は差別を生むのかもしれない。

 

ここでまた違う証言者の話を出してみよう。

インタビューに応じた彼はもう80代に差し掛かっており、元々朝鮮総連の活動家として同胞を北に送り込んでいた立場だ。そんな彼も北朝鮮に渡ったのだが、考え方の違いに幻滅し今では過去を反省している。

当時資本主義陣営と社会主義陣営の苛烈な競争があったとはいえ、「話にならない」と幻滅の様子を語り現在日本で過ごしている。

 

本当に祖国が嫌いならば帰らないわけで、少なくとも最初は多少の民族意識を抱いていた在日コリアンですらやはり現地の朝鮮北部との差を感じ理解と適応に苦しむのだから、実際朝鮮が日本領になってから統治に関わった日本人はどれくらい衝撃だったのだろうか。

1960年代という朝鮮戦争後の北朝鮮と、戦後復興後の日本との差は同じ近代社会だがそれでも差があった。それならばいわゆる日帝強占期が始まった時代のギャップ、しかも民族は異なる立場だったのだから想像もつかない。

同じ朝鮮人だという民族意識よりも、現実に相対すれば生活や日常の感覚の違いが大きく見えたのだろう。その結果帰国者同士で集まるコミュニティが発生し、結婚のような人間関係も自然と別れていったという。

 

今でも日系ブラジル人は本土の日本人に対して自分たちを見下しているのではないかという考えを持っているというし、逆に意識高い系の帰国子女が同じ日本人にマウントを取ることもある。最近では日本人同士の地域対立煽りも酷い。

そりゃ日本育ちの在日朝鮮人が、現地に対して蔑んだ目線を持つのも仕方がない現象なのかもしれない。

 

更に差別は一方的ではなく、現地朝鮮人も「在日同胞」に対して羨ましいという感情を越え、やがて反発を抱くようになり1970年代や80年代になると帰国者の立場は劣悪になっていく。

この番組では特集されていないが、北朝鮮社会が成熟するにつれて帰国者家族は物を盗まれるなど被差別対照となっていく。日に日に日本の親族に対しても要求が厳しくなり、万景峰号で物品を送らされていたようだ。金正日が影響力を持つようになると貴重な外貨収入源として利用され始める。

また別の映画でも北朝鮮当局や総連に対する不信が描かれており、「在日」は同胞ではなく本国からも日本社会からも排斥される存在として独自の立場となっていく。

そういったいわゆる「僑胞(キョッポ)」の複雑な心理に自分は思いを馳せるが、やはり当事者ではないので究極のところでは理解が及ばないのかもしれない。

いくら自分がそうして想像したところで所詮は日本人の同情だと思われる場合もある。

 

戦前に渡航した人々に対してニューカマーと位置付けられる、80年代以降に日本に渡った韓国人が経営する韓国料理店で韓国語をカタコトで使うと「キョッポ?」と聞かれることがあるが、実は韓国人にとって在日コリアンというのは実質的な外国人なのだ。

それはまさに日系ブラジル人を見る日本人の感覚に近い。

サッカーの李忠成が韓国代表の合宿に参加したらパンチョッパリと言われ、日本代表を選んだことがその象徴だ。

実際コリアタウンにある食堂で韓国出身者や韓国語ネイティブが大半の空間に、在日コリアンのグループが来たことがあったのだが日本人にも韓国人でもない独自の意識を感じた。

 

この番組の証言者として出演した、現在映画監督をしているという女性は自分の兄が帰国船で旅立つ光景をよく覚えているという。

母は認知症でまだ家族が日本で過ごしていた時代の世界観でいるという。総連の活動家ですら我が子を送ることに抵抗があり、むしろ総連の幹部ほど本国から「人質」として子息を利用された。その女性は真相究明といった活動をしない両親にも責任はあったと最後に話していた。

北朝鮮当局が「苦難の行軍」とする90年代の、冷戦崩壊による東側陣営からの支援打ちきりと飢饉による過酷な状況で日本の親族を頼れる帰国者とそうでない帰国者の明暗は別れた。

 

そしてもう一人印象的な女性証言者が語っていたが、この方はいわゆる日本人妻だ。

若い頃の写真は美人で夫も一昔前の韓流俳優のような雰囲気だ。他の番組でも見たのだが、このころ朝鮮人と結婚した日本人女性は結婚するまで朝鮮出身だと気づかなかった事が多いようである。

元々日本は朝鮮を沖縄や北海道、台湾、樺太のような拡大した地域の一環として統治しようという狙いがあった。年月が経つと多少違いはあるかもしれないが日本人同士という感覚だったのだろう。

名前も日本風で教育や言語は共有しているので、言われて朝鮮人だと知ったがそんな事は気にせず親から反対されても結婚を選んだという話は何度か見かけた。

 

むしろ単一民族主義が幻想化されたのは戦後で、戦前は積極的に多民族国家化を推し進めていたのが日本だ。

戦後でも例えば松田優作が在日の血筋に悩むという事例があったが、実は戦前の方が天皇制さえ支持すれば皇国臣民だという、自由平等博愛の理念に賛同してフランス国家を歌えばフランス人みたいな風潮があったのかもしれない。日本統治時代に朝鮮で育った在日コリアン作家の話などを聞いていても、当時は本当に天皇陛下を尊敬していたという話が多い。

 

話を戻すと結局その夫は、騙されて帰国したことを晩年妻に申し訳なく語り、彼女自身も渡朝の前に拒否することを決めていたという。

だが帰国意思の確認は流れ作業でしかなくどうすることもできなかった。元々日本人妻なら3年で帰れるという言葉で決意したが、結局10年経っても20年経っても生活は変わらないので脱北を選ぶことになった。

娘は空腹の末、鶏を窃盗するがそのまま栄養失調で凍え亡くなっていたという。夫もまた亡くなった。もし日本で過ごしていたら今頃孫に囲まれていたが一人だ、それが人生の顛末であり上述の夫妻も「北朝鮮では人生がなかった」と証言している。

 

北朝鮮が6.25戦争、つまり朝鮮戦争以後ソ連の支援で韓国より経済発展でリードしていたという話は多少歴史に詳しい人の間では有名だ。

また今回のドキュメントでは、むしろ金日成がソ連と共謀しこの帰国事業を推進していた事実が明るみにされていた。

公開された冷戦終結後の資料によると、従来在日コリアン側から帰国を打診していたという定説は誤りで、いわば南朝鮮の対する優越性を示すためのプロパガンダという側面を持っていた。

 

日本に居住する朝鮮人のほとんどが朝鮮半島南部出身であるため、彼らがあえて北部を選ぶことは体制の勝利という宣伝の意味合いがあったのだ。

日本人に例えるならば九州出身者があえて地元ではなく東北を選ぶようなもので、実質的に無縁の地に評判を信じて行くような物なのだからそれだけ魅力があるように聞こえたのだろう。

 

当時の日本ではそのように北朝鮮が地上の楽園として称賛されるだけでなく、更に南の韓国の方が危険な国として認識されていたというのも興味深い。李承晩政権が竹島を占領し日本人漁師を拿捕したり、まさにその北朝鮮行きの施設に対して攻撃を加えたりしていた時代だ。

漢江の奇跡と呼ばれる経済発展でが始まる以前の話で、この時の韓国には本当に外国に売る物が何もなかった。

 

ちなみにこの李承晩時代、「北のスパイ」という疑惑をかけられた弾圧が大々的に行われ、特に済州島では被害が大きく多くの人が日本に亡命ししている。

つまり在日朝鮮人の中で戦前に渡ってきたというケースは全体の一部に過ぎず、実際は朝鮮半島内部での内紛を逃れたり、純粋に経済的事情によって戦後に渡航したりした場合が多い。

更に言えば戦前も、日本人の出征による労働力不足が本格化した1940年代以降がいわゆる徴用とされているだけで、それ以前はむしろ不法な対日密航に日本政府は苦心していた。

戦前の日本は人口を増やすどころか逆に満州開拓団や南米移民を推奨するぐらいに人口を減らしたがっていたので、それは深刻な問題だった。

 

だからこそそういった背景もあり、戦後の日本政府は彼らをいわば「負担」とし処遇に悩んでいたのも事実だ。朝鮮戦争当時、吹田事件に代表されるように国内での朝鮮人による反戦活動の意味合いを帯びた暴動騒動も起こっていたので非常に物騒な世の中だったと言える。また在日コリアンの生活保護受給者の割合も高く、まだ経済発展をしておらず高度経済成長期に差し掛かっていない日本にとってその余裕もなかった。

一方で、社会主義建設に夢を見る共産陣営にとっても「解放された祖国」に差別され続けてきた人々を祖国に送り出すことはレーニン的な民族自決論の正当性を強化する意味合いがあったようだ。

 

一人一人はいたって普通の市民であり、あえて誤解を恐れないのであれば、実質的に日本人ともいえる民間人の一人が何か大きな文脈に飲み込まれていった時代だったと言える。

ある日突如として出生が問題になり、大きな政治と歴史の波に翻弄される。日本の日常で地域の話になっても世間話に過ぎないが。しかしそれが民族のアイデンティティだけでなく、その先でも政治問題に更に分裂してしまう、それを大袈裟な悲劇の物語のように宣伝されると違和感を覚えるし現実としてそこまでの主張してくる在日コリアンは少ない。

しかし心の奥底で彼ら、彼女らがそういった思いを断片的に抱えているということについて、共感とまでは行かなくとも尊重的な理解をしたいと自分は思っている。