負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ワイ平成一桁生まれ、震えが止まらない模様

新元号発表で世の中が令和ブームにわいてる。

個人的にピークだったのは去年の大晦日くらいまでで、その時が「平成最後の」という言葉が一番使われていた印象がある。

新年明けるとDAPUMPのUSAを聞く機会も少なくなり平成最後ムードも下火だったが、ここにきて新元号発表でまた世の中が盛り上がっている。

 

一方で、内心穏やかでない人々がいる。

平成生まれ、中でも初期の一桁生まれは焦りを隠せずにいる。

 

どうやらネットでは昭和世代が平成煽りをしているようで「おまえらもこれからの俺らを煽ってきたように、同じ事をされるようになるんだからな」と論調の物もあれば、「平成は何も産み出さなかった時代」「日本史上最も無能な世代」という恒例のゆとり叩きのようなものもある。

 

こういうことにはもう慣れっこというか、ある意味叩かれなれてるので「はいはいどうせ僕たちゆとりが悪いですよー」と受け流すしかない。

恐ろしいのは昭和からも令和からも挟み撃ちで叩かれる地獄が待っているということで、これから怖くてたまらないのが悲惨なゆとり世代の現実だ。

カイジ「現実ッこれが現実ッ!」

 

平成生まれといっても90年代生まれと、21世紀生まれの二桁世代とでは異なる。二桁生まれのさとり世代は平成初期生まれなんてもうダサいと思ってるだろうし、それは自分が80年代生まれがちょっと古いと思ってきた事の因果応報でもある。

 

自分は平成5年生まれでつい最近26歳になったのだが、はぁこれで俺もついに20代後半かと考えると動悸が止まらない。なんかもう最近スマホネイティブ世代とのジェネレーションズギャップを感じるよ。

最近の自分のアイデンティティといえば「まだ20代」ということぐらいで、令和5年にでもなったら自分のメンタルは崩壊するだろう。

 

いやぁホントにタイムリミットが近づいてるし、キャピキャピしたリア充生活を送ってるわけでもないので若者感がまるでない。

一般的に大学を卒業する年齢が22ぐらいだと考えると、そこを過ぎたくらいから大人になって学生ではないなと思い始めるようになった。その後しばらくはまだ若いと言い聞かせていたが、徐々に諦めムードになり最近考えるのを辞めた。

考えると震えが止まらないからだ笑

 

ただ、それでも平成という時代は自分にとっては愛着がある。馬鹿にされる時代だろうが、ショボかろうが自分にとっては思い入れがあるし思い出補正込みで良い時代だった。

少年漫画黄金期やテレビゲームが目まぐるしく発展した一昔前の時代と比べて、ゆとりが経験してきた文化はどれも小粒だと批判されてきた。それでも当のゆとりから見ればそれが楽しく、あの時代の空気感の中で少年時代を過ごせたことはいい思い出だ。

 

ゆとりおじさん「何がジャンプ黄金期じゃ、ワシらには鋼の錬金術師ととっとこハム太郎がある!」

その俺らの時代の最新作品だったものも、今の10代は知らないんだろうなと懐古ばかりしているから平成一桁生まれは時代についていけないのだ。

 

そうなるとどちらかというと最近の新世代よりも、上の氷河期世代の方に消極的な親近感を抱いてしまうわけで、そういう時はもう俺は老害に片足突っ込んでるんだろうなと思うし、間違いなく「インターネット老害」だと自認している笑

 

10代の頃はまだイキってたというか尖ってたなと思うが今は反抗心もなくなって情熱不足の人間だ。20代前半まではまだその残り火があったが、最近はその気力もない格好だ。

「あの頃の俺ネットでイキってたなぁ」と黒歴史を振り返りつつ、そういえばもうソードアートオンラインでイキリト扱いされてた人ももう20代なんだなと思い始める。

 

平成一桁生まれオタクのイキり行為

・小学校中学年で、学校の怪談系の本や番組にハマる

・高学年頃から中学初期に掛けバイオやメタルギアに目覚めて、「俺ヤベェ怖いゲームやってるぜ感」を出す。ネットにも触れフラッシュ動画と2ちゃんねるでウェルカムトゥーアンダーグラウンドの世界を知る

・中学高校でラノベを読み始め、ニコニコ動画を見て陰陽師とか言い出す。深夜アニメも見始め「うはwww俺オタクwww聖地巡礼行きてーw」「俺がガンダムだ!キリッ」と気取り始める

・コードギアスやデスノートを見て厨二病発症、政治にも目覚め始める

・その後無事つまらない大人になり、成りたくなかった懐古厨に進化

 

その各世代のイキり憧れのいつしかルルーシュからSOAのキリトになり、最近ではスライムになったり深夜アニメよりバーチャルユーチューバー見たり、2chよりもツイッターでの実況になったり、PCでのFPSに憧れる時代から荒野行動になり今に至る。

個人サイトが生きていたPCネット旧石器時代のお爺ちゃんなので、スマホという磨製石器についていけんのじゃ(なおこの文章はスマホで懸命に入力している模様)

 

そういえばもう昭和に生まれて、結婚をせずに平成を終えることを「平成ジャンプ」と言うらしいのだが、出始めの頃の平成ジャンプの映像は今でも懐古として見ることがある。

薮と八乙女のやぶひかシンメの時代の映像なんか見ると、何だかんだで平成も震災までは活気があったんだなと懐かしくなる。ジャニーズについて語り出すと、いつもの赤西がいた頃のKAT-TUN美化おじさんになるのでこの辺にしとこう笑

 

平成の浮かれモードが終わったのは震災で、大体同じ時期のスマホ普及も平成史のターニングポイントだという気がする。

いわゆるネットがバーチャルの虚像から、リアルの実像に変化した時代だ。

 

平成唯一の発展と言えばやはりネットで、大正モダンに対して平成デジタルかサイバーといった所だろうか。

ただネットも日常になりすぎて、デジタルがサイバーワールドとして憧れがあった時代はそれこそデジモンがオワコンになるまでのような気がするが笑

 

ほどほどにコンパクト化して緩やかな繋がりがある気がして、なんとなくスマホが高性能化していく日常というのはあの頃に思い描いていた程の進化ではないだろう。

ネットを普及させれば世界はいい方向に変わると思っていたらその逆だったのかもしれない。

少なくとも10代の頃は自分に対しても社会に対しても夢みがちで、現実に疲れている昭和の大人を馬鹿にしていたら、実は昭和の方が凄かったよねとなりイキるのを辞めた。

どれだけ昭和が凄かったか今になって理解するようになり、ダサいと思ってたものの真実を知る。

 

願わくば大正のように、文化的には平成が面白かった時代として令和の時代に再評価されると良いが、今のところ日本の衰退を象徴するという扱いだ。

まぁそれでいいのですよ、わかる人だけ分かれば、そこに生きた人は楽しかったのだから。そんな平成だ。

 

こんな事言っては何だが、そもそも世代間対立で煽り合う光景を見ると元号という文化の負の側面も出ていて不要論も問われ始めている。

文化考察の区分としては面白いし、何でも現代化することが合理的で正しいというわけでもないので基本的には賛成だが度が過ぎる対立は良くないだろう。

あくまでキノコタケノコ論争程度のものであって、本気にし始める人が現れたときにこういうワイワイとした雰囲気は終焉を迎える。

 

だからもう諦めよう、どうせ平成一桁生まれはこれからおっさんおばさんまっしぐらだ笑

大丈夫、平成を叩いてるおっさんおばさんは爺さんと婆さんになるだけで若くなるわけではない。

 

大体こういった不毛な争いにイライラしているのは 

現実が充実しておらず心に余裕がない人であって、仕事なり恋愛なり上手くいっていれば気にならないのだ。

例えば自分が無職ではなく、心通じ合う彼女でもいれば「元号対立でよくそこまで熱くなれるな」と文字通りゆとりを持って静観していただろう。

悲しいかな、ゆとり世代なのに一番ゆとりが無いのがこの世代だ。

 

金持ちが喧嘩せず貧乏人ほどギスギスして苛立っているのと同じで、人生充実していたら余裕があって煽りは効かず鼻で笑っていられる。

現実が充実していて忙しい人はわざわざ起こらないし、ネットに悪口を書く暇も無いぐらいに恋人と愛のメッセージを送り合うのだ。自分が悪口を書くとき、悪口を書く時間すら惜しいほど充実している人がいる。

そして忙しくない人ほど怒りをぶつけ合うことしかやることがない。

 

昭和煽りに対しても本気で憎しみを感じている人も、平成生まれという事しかすがれるものがない人も同族で、まさに争いは同じレベルでしか生じないという言葉がぴったりだ。

野球ファンとサッカーファンがスポーツに人生乗っけてるもの同士いがみ合い、日本と韓国がネットで悪口を書き合い、ツチ族とフツ族が紛争をする、対立というのは常にそういった近いレベルでの利害の争いでしかない。

 

本当の昭和生まれ昭和育ち程気にしてなく、平成に近い世代ほど平成を憎んでいる、その逆もしかり。

遺恨の種がいつの間にか大きくなりすぎてあまりにも不毛な争いをしている、しかもそれが廃れ行く同じ日本という船に乗っている時にだ。

終戦後満州に置き去りにされた日本人の敵になったのは中国人でも朝鮮人でもソ連兵でもなく同じ日本人だったという。それはシベリア抑留でも同じだった。

 

そう考えると植民地経営において近い部族同士で対立させあって、支配者として上手い汁を吸い付くしたイギリスとフランスはなかなか狡猾な国だったのだなと思えてくる。

血液型、県民性、性別、世代、嗜好、キャラクター、ましてや同じジャンルの中での対立といろいろな分断が増えているが、人はなぜ戦争という行為を思い付いてしまったのだろうという問いに行き着く。

 

そういえば最近、対話を重ねることをテーマとしていたニッポンのジレンマというトーク番組が終わった。結構好きだったんだけどな、と思いつつも古市氏が「震災直後は皆本気だった」と語っていたように徐々に出演者が丸くなっていった側面もある。それは日本社会の傾向とも似ている。

もしかしたら平成の終わりと共に一旦区切りをつける時期が来たのかもしれない。

ただ元号が変わるだけでしかないが、「昭和という時代の空気を体験してみたかった」と思うように平成の空気もそう語られる時が来るのだろうか。

こうして何気なく部屋の片隅でこのように語っているときも、あと一ヶ月後には平成に書いた文章なんだなと思い返すときが来る。同じ空間であるように見えて同じじゃない、それは昭和や大正の頃の日常の変化も同じだだろうし、江戸時代だったらもっと曖昧なはずだっただろう。

元号とは何とも不思議なものだ。