負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

一周回って「バブル時代」が今かっこいいものになりつつある

流行は一周するものだなと改めて感じるのが昨今のバブル再評価ブームだ。

近頃バブル時代にスポットライトを当てた物が増えたり、バブル時代の流行に対して好意的な見方が増えているように思わないだろうか。

例えば音楽やファッションは今むしろバブル時代の物がかっこいいという扱いをされており、10年前はちょっと時代遅れてダサいものだったことと比べて変化しつつある。

 

これは流行の現象に良くあるパターンで「少し古い物が一番ダサいが、かなり古くなればレトロや古典として評価される」という話に近く、バブルもようやく"一昔前"から歴史の中の出来事になったと言える。

 

正直な話自分も00年代の頃は「バブルは古くてダサい」と思っていたし、世の中の風潮としてもそういう認識だった。10年ちょっと前の物というのは新しくもないし、凄く昔の物というわけでもなく中途半端なので一番軽視されがちなところがある。

そこからバブル景気の時代が歴史の中の出来事になって20世紀の文化の一つとして再評価されるようになったというのが昨今の傾向だ。

ちょっとダサイ一昔前の事として取り上げられていた段階から、一つの時代として語られるようになったともいえる。

 

例えばバブル時代の有名な曲で荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」というのは今再ブームのような状態になっており、確かに今聞いてもこの曲はかっこいい。

ファッションも一昔前は古く感じた物が今では一周回ってかなりかっこよく見えるようになっている。

ある意味全力でかっこいいことをしようとしていた時期があの時代だったので、それが今になってやっぱりかっこいいなと再評価されているのではないか。

 

バブル時代は日本経済が絶頂期にあり、東京23区の地価だけでアメリカ全土で買えると言われたり世界の企業ランキングのトップランキングを日本企業が独占していた日本の黄金期でもある。

バブル時代の線引きはどこからどこかまでとするかは経済の視点で見るか文化の視点で見るかではやや異なってくる。バブル崩壊後も文化としては劇的に1年で変わることも無いので大体80年代後半から90年代前半までは似た様な文化だと言えるだろう。

 

そんな華やかな時代の文化で言えば象徴的なグループはジャニーズの光GENJIだろう。

最初自分は光GENJIを見た時今のジャニーズと比べてちょっとダサいなと思っていたことがあるが、今その時代背景を考えるなんて先進的だったんだと再評価している。むしろバブル時代絶頂期のトップアイドルだと考えると瞬間最大風速ではジャニーズ史上屈指の華やかさがあったとも言える。

 

自動車で言えばHONDAのプレリュードがまさにステータスとして人気を集めた時代であり、その伝説は今も語り継がれている。今は高級車はもはや手が届かな過ぎて憧れる事すらなくなっている時代であり、特定の車種が若者の憧れになるという現象すら存在しなくなっている。

 

ガンダムで言えば一番その時代の雰囲気を感じさせるのは新機動戦記ガンダムWだろうか。1995年放送なので時代は少しバブル時代とは離れる物の、本気でかっこいいことをやろうとしていた時代の名残は一番ガンダムWに反映されているように見える。

バブル時代の特徴は当時としては本気でかっこいいことをやっていたものが後から見ればダサかったりちょっと変だったりするというところにある。

そして今の時代にその変な部分やダサい部分が一周回ってもう一度かっこよく見えてくるようになったというのがここ最近のバブル再評価ブームの理由なのではないか。

 

物心ついたころから日本が不景気だったゆとり世代は子供のころはダサいと思ってた昔の文化も大人になって華やかな時代に対する憧れの目線で見るようになる。

そして実際にリアルタイムでバブル時代を経験した世代は今とは違って華やかだった時代に思いをはせて懐かしんでいる。

流石に太陽の塔のや大阪万博の70年代や学生運動や政治の季節の60年代は遠い過去だが、直近の華やかな時代として今バブル時代が注目を集めやすいようになっている。

バブル時代に青春を経験した世代がちょうど社会の中核になって来ているというのもこの背景には存在するかもしれない。例えばお笑い芸人の「平野ノラ」はバブル時代を題材にした芸風で人気を博している。

 

少し古い物が一番ダサく見える現象は、近い時代であるがゆえに今の基準と同じように比べてしまうからかもしれない。

そしてその境界線を越えて本当に古いものになったとき時代を分けて考えるようになることで中立的な評価ができるようになる。

バブル時代も一昔前のちょっとダサくて金に狂乱していた醜悪な時代という評価から、これだけ日本経済や日本そのものが低迷すると「あの時代幸せだったね」という評価になってくる。

 

例えば自分の住んでいる町にも90年代までは経営していたようなリゾートレストランのような建物の廃墟がある。

これが実際に繁盛していた時代に思いをはせると「こんな田舎まで華やかだった時代すげぇ!」と想像せずにはいられない。

単なる映像や記録としてみるだけではなく現代にあてはめて想像すればその時代の価値が理解できるようになる。

 

そもそも10年前の00年代ですらまだ活気はあって子供は大勢いてそれが当たり前だった。その時代よりもさらに華やかという意味ではもはや想像すらできないかもしれない。地域によって異なるが急速に過疎化が多い隠せないほど深刻になり始めたのが00年代の後半に入ってからだろう。

それまでは「減っている」だったものが「そもそもいない」に変わったのがこの10年の変化だ。

 

まだ00年代の前半までは「日本はまだ普通に凄い国」だという感覚はあったが、中国に経済大国としての地位を追い抜かれてから日本人の感覚は大きく変化したように思う。

よく中国人や韓国人が「日本人が近隣諸国を批判して自国を上げるようになったのは自身が無くなってきたから」と評することがある。

どれだけ強がっていても内心近隣諸国に普通に追いつかれていることに内心日本人は気づいてしまっている。今の日本に自信が持てなくなっているというのも少し前の華やかだった時代を懐古したり再評価したりする要因になっていることは否めないだろう。

今も日本が劣っているとは思わないが、昔のようにアジアでは日本一強どころかアメリカに迫ってた時代に比べるとどうしても自信は揺らぐほどに今の日本は低迷しているのは事実だ。

 

そしてこのバブル再評価が華やかな時代を求める渇望に変わればまた日本も良くなるのではないか。

戦後の経済成長にしても富や発展を求めて華やかな先進国を夢見たから成長した部分がある。日本という国は停滞すれば一国でやって行けるような国ではないのであっという間にこれまでの地位から転落してしまう。

やはり華やかな未来を求める情熱が戦後日本史を彩ってきた。

自分自身もその一人だが今の日本人はあまりにも低迷を日常の景色として受け入れすぎてしまっている。

「停滞」「衰退」が日常風景になりもはや何とも思わなくなりつつある日本人が、もっと日本は華やかだったんだという事を知るきっかけになるのであれば80年代の好景気はもう一度大きな役割を果たすことになるかもしれない。

Minichamps 1/43 ホンダ プレリュード 1992 (レッド)

 

大人数アイドルってもうオワコンじゃね?

先日音楽番組のスペシャル放送を見たのだが普段見ないようなグループを見ることができていろんな楽しみや発見があった。

その中でも特に思ったのがもう「学校のクラス」をイメージしたような大人数アイドルはそろそろシステム上限界に近づいているのではないかということだ。

 

とにかく今の時代あまりにもアイドルが増えすぎていて本来ならばステージに立つべきではないような人まで学芸会のノリでステージに立ってしまっている。

それがレベルの低下を招いているのではないかと最近考えるようになっている。

 

例えばAKB48系列の最新グループで言えばNGT48があり、最近よく音楽番組で見かける機会がある。その一方でSTU48は全く見かけないし、SKE48とHKT48はどこかに消えてしまった。かろうじて関西としての特色があるNMB48は今も見かけるが、それ以外は地域色もそれほどなくNGT48にとって代わられるただけのようなものでしかないのがほとんどだ。

どこかが人気になればどこかの人気が無くなるという事を繰り返して、とにかく新しい物を作っては古いものを犠牲にしていくという自転車操業や焼き畑商法のようなことをやっている。

 

NGT48の人気が上がればそれはHKT48やSKE48が人気が下がりオワコンになっているという事でしかないのだ。

特にSKE48はもう完全にオワコンで愛知県や名古屋でのローカル人気もボイメンに奪われているという有様だ。全盛期のSKE48を知っているだけに今の落ちぶれたSKEには涙を禁じ得ない。

HKT48も若さやフレッシュさが売りだったが新しくNGT48が出てくれば結局変わりはいくらでもいるということになる。乃木坂46も欅坂46に取って代わられかけており、数年後はSDN48のように消えていてもおかしくは無い。

 

大人数アイドルの最大の問題点はとにかくとにかく振り付けのレベルを下げざるを得ないと言うところにある。

「このメンバーで頑張っていこう」という団結心も生まれず、振り付けのレベルは全員が平均的にかろうじてできる物でしかない。NGT48の振り付けを見ていると本当に学芸会で適当にダンスを踊っているようにしか見えない。

口パクは当たり前で衣装も似た様なものばかり、そして振り付けも全員でなんとなくクラス会や文化祭のように踊っているだけで完成度が低い。

 

今までのアイドルファンは顔やキャラしか見てない人が多かったのでその推しメンの子がただ出演しているだけでもうれしかったという文化があった。

自分自身もかつてはそういう目線で見ていた時期があるので理解できなくはない。

 

ただ何度もこういうのを見てるとそろそろ飽きが来てさすがにNGT48までは興味を持てないという感情になっている。

W松井がいたころのSKE48はいわゆる本店のAKB48との比較構図があって魅力的に思えたが、そこからNMB,HKT,NGT,STUと版図を広げていくともう似た様な商法を繰り返していることに気付いてさすがに食傷気味になってきた。

おそらく欅坂46の次はまた新しい坂道シリーズが数年後作られているのだろうが、もはや興味を持つ気にもなれない。わざわざ覚えても数年後は古くなっているしメンバーもいなくなっている。

そして普通の女の子を応援しても虚しいことに気付いた人が増えており、こういったアイドルは以前ほど勢いを失っている。

AKB48の全盛期時代は神7と言われ一時はもはやオタクだけでなく社会現象にまでなった。最初はオタク文化の一つだと扱われていたが本当の全盛期の時にはリア充やスポーツ選手ですら「神7の中なら大島優子はタイプ」と言っても恥ずかしくない風潮があったし、板野友美は従来のアイドルオタク層とは異なるヤンキー層にも受けていた。

 

しかしいわゆる"支店"系の姉妹グループ以降、黒髪率が高くなりより清楚なオタク向けのアイドルに特化されていき一般支持を失っていくようになる。 

結局この手のグループは20人のいろんなタイプの子がいるというわけではなく1人、2人とその他大勢のバックダンサーという構図になってしまっている。詳しい人は分かるのかもしれないが所詮はその辺の素人でしかなく、素人ができるレベルのパフォーマンスしかできないという弊害にもなっている。

神7や選抜メンバーのように大体のメンバーが知られているというかつてのような現象はもう起きないようになって来ており、勢いのある欅坂46も実際にはほとんどメンバーが知られていない。

そのためわかりやすい1人だけを中心にして簡単にできるようなダンスやパフォーマンスしかできないのだ。

 

 

逆に女性アイドルでも少人数のグループはそれぞれのメンバーに見どころがあるし、メンバーもファンも愛着を持ちやすい。

昨今のクラスを再現した大人数アイドルに比べると感覚が麻痺して5人や9人というのは少なく思えるかもしれないが、それは同時に全員に見どころがあるという事であることに対して、20人もいれば一人を引き立てる十数人が同じことをやっている構図にしかならない。

実質的に活躍しているメンバーの多様さで言えばむしろ少人数で固定しているグループんの方が多いほどだ。

 

大人数アイドルは振り付けも1人以外は全員同じで個性や変化が無い。

48や46のような大人数アイドルは少し飽きればファンだけでなくメンバーまでもが離脱する構造がある事に対して、少人数アイドルはパフォーマンスにも多様性がある。

 

男性アイドルでもジャニーズなどはメンバー構成が厳格で追加メンバーすらも基本的にはタブーになっている。また海外のアイドルもこういった大人数でわちゃわちゃしたような学芸会のノリは少なく、本当のプロフェッショナルな集団であることが多い。

 

こういったわちゃわちゃした大人数アイドルは最初は「いろんな可愛い子がいる」と自分のタイプの子を見つけることが楽しいのだが、その内それが疲れてくるように感じ始める。

またいつも映るメンバーは決まっているし、ダンスのパフォーマンスも集団で簡単にできるようなものが多くとにかく飽きてしまう。

NGT48も数年前にHKTやSKEで見た物ばかりでメンバーもいよいよ顔の区別がつかなくなってきたし「覚えても無駄」という感覚を持つようにもなってきた。所詮数年前と同じことを繰り返して、少し色や風味を変えた程度に過ぎない。

そう言う光景を見ているとセンター2人を覚えさせて、そこからいろんなメンバーを知ってもらうというシステムもそろそろ限界に近づいてきているのではないかと思わずにはいられない。

 

また大人数でも何となくできるような学芸会パフォーマンスばかり重視するようになると、これはレベルアップの必要性が無くなるというデメリットも存在する。秋元グループが芸能界を支配してから確実に日本のアイドルやエンターテイメントのレベルは下がってしまった。

文化祭的なパフォーマンスと握手会での会話という「学生時代の代替品」としての秋元グループのビジネスモデルは長期間の停滞しか生まなかったと後の芸能史において評価されるのではないか。

歌詞も全てが秋元康の自己投影で彼女らが本当に歌っているわけではないし、秋元の学生時代への憧れのようなものにいつまでも付き合っていたら日本の芸能界のレベルは本当に下がってしまう。

それではまともな人やセンスのある人は海外の物を見るようになってしまうのは仕方がないと言えるだろう。秋元康やオタク層が理想とする「文化祭の雰囲気」でも、実際の文化祭ではおそらくTWICEの方がよほど現役の女子学生に再現されているのではないか。

 

アニメは日常アニメと声優主体の擬似アイドルを量産して劣化し、アイドルは学生時代の代替品を量産して劣化している。

それを日本人が求めていてそれが内需を形成していると言えば聞こえは良いが、同時にかつてカルチャーをリードしていた日本の面影はどんどんなくなって行っているなと感じざるを得ない。

果たして日本のエンターテイメント文化はどのような方向に向かっていくのだろうか。

同世代に対する嫉妬にどう向き合うのかという話

インターネットというものが普及しSNSという概念がごく普通の物として定着している時代になって新たな言葉が生まれるようになった。

「SNS疲れ」という言葉はまさに現代の病理の一つだと言える。

 

電車に乗ると誰もがスマホを起動していろいろとチェックしているがSNSの反応などを逐一チェックしているのだろう。

それほど現代では他者との比較というのが身近になっており、どこに行っても比較が付きまとう。

ゲームをしても今の時代オンライン対戦が主流であらゆるものがランキングや数値に現れるようになっているため行き着く暇がない時代になっている。

 

しかし昔はネットが無かったからと言って消して比較や競争が無かったわけではない。むしろ今よりもシビアであり車や服、身に着けているもの、持っているものでステータスが決まっていた。究極人間というのはどこにいってもどの時代でも競争と比較から逃れられないような生き物なのだ。

本当に競争や比較が無い場所などどこにもなくそれを進歩のための反骨心にするか、嫉妬で終わるかで人生は変わってくる。

 

自分は一昔前まで嫉妬を反骨心にするようなタイプだった。

いわゆる雑草魂というかエリートでも特別も出ないからこそ名も無きところから成り上がろうというような野心を持っていた時代がある。ただそれでも通用しないというのがだんだんとわかってきて最近ではもう疲れるようなことは考えないようにしている。

 

10代の時は「俺が世界を変える」ぐらいに思っていたしジャンルは違うけどもネイマールやジャスティン・ビーバーを超えるという目標を掲げるほど自分を過信していた。

全世界合わせてもその世代を代表するような人間になると信じていたし、それが10代のエネルギーだったように思う。ちょうどネイマールがブラジルで話題になり始めたころに自分は同世代としてライバル視していたがそこから考えられないようなスターにまで彼は上り詰めた。

一方で自分は現実にはただの田舎に出戻った底辺の負け組にしかなれなかったわけで、その頃の途方もない夢のデカさが今では信じられない。

もはやネイマールをライバル視していた時代が黒歴史である。

人生の計画では今の自分は完全にスターで華やかな社交界にいるはずだったのに何しているんだろうなという思いはあるが、今自分が凡人だと受け入れて静かに過ごそうという考え方に切り替わりつつある。

「無限大な夢の後の何もない世の中じゃ」というデジモンのOPの歌詞があるが、まさにそのような感覚だ。

 

そうやって田舎に戻ったというのがあまり嫉妬をしなくて済んでいる要因であり、逆に言えば反骨心を持つきっかけを無くしている要因であるともいえる。

実際外に出ても同世代を見かけることが無く、同性代との交流もほとんど限られているためあまりリアルで自分を比較する機会が無い。

 

自分より上の世代との比較というのはあまり精神的ダメージにならないことが多い。

「そういう時代だから」「時代が違うから」で納得できる部分があり、所詮昔話にしか聞こえないところがあるのでリアリティがなく歴史の中の出来事でしかない。

華やかな時代のエピソードを聞いて羨ましいと言うよりも凄いなとしか思わないのが正直なところだ。

これは自分に限ったことではなく、どの世代も自分より上の世代の話は眩いけれども自分の時代とは違うという境界線を持っている。

そして自分も下の世代からは単なる昔話にしか見られなくなるのである。

 

そのためどうしても「嫉妬」の原因になるのは同世代、同年代であることが多い。

そもそも年代に限らず自分に近い人ほど嫉妬の原因になることがある。よく「途方もない美人はもはや憧れの対象だが自分に近いルックスの人がモテていると嫉妬する」という話を女の人がしているのを見かけるが、それは男でも同じことが言えるかもしれない。

男女に限らず中途半端で自分と変わらなそうに見える人が成功しているときはどうしても嫉妬してしまいがちだ。ジャマイカ人が自分より足が速い時は嫉妬しないが、クラスの男子で自分と立ち位置が似てる人が自分より足速かった時はちょっと悔しいのと同じである。

 

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ただ男の場合、能力で評価されている場合もあるので女性の女性に対する嫉妬とは構造が違う場合がある。

例えばあまり顔のかっこよくないスポーツ選手がモテていてもそれは素直に尊敬できるどころか、「能力や努力で成し遂げたのすげえ!」という風になる。

むしろ良く頑張ったな思うし男性は同性間の評価で女性ほど外見を重視していないところがある。

男性に比べた場合見た目や外見が更に重要な世界で生きてる女性は、それですごく楽な時はあるけど同時にものすごく大変だなというのも理解できる。女性で見た目が良くない事の絶望感というのは男のそれとは比較にならないのではないか。

それゆえに女性間の嫉妬は男性のそれとは違うし、もちろん男に嫉妬が無いと言いたいわけでもない。

 

ただ自分のケースでいえばイケメンにもあまり嫉妬はしない。

イケメンに嫉妬してたらジャニーズ好きになるはずがないわけでむしろジャニーズかっけぇと思ってるほどだ。

男は自分より強い男を素直に認めるところが本能としてあるのかなというのはある。

よく動物のオス同士で争っているとき負けたほうはあっさり退散するが、それは実力以上の相手と戦ったら命に係わるということを彼らは分かっているからだ。

男が言うほどスポーツ選手に嫉妬しないのは本能的に強いオスだと理解しているからかもしれない。

 

自分が嫉妬する対象はネット見てる時が多いかもしれない。

ちょっとした掲示板の書き込みとかSNSの幸せ自慢のような無名の個人が自分より恵まれてる時には苛まれる時がある。

昔のネットは「俺ら社会のはぐれ者の負け組だぜ」みたいな雰囲気があって自虐することが面白い時代だったことがある。

今はそういう雰囲気が無くなってきてSNSに代表されるように幸せ自慢大会になって来てる。

 

結局ネットというのは自分が自信ある話題の時だけは饒舌になるが、自分が自信の無い時は急に無口になりやすい構造になっている。

例えば収入や学歴、身長の話題になったとき自信ある人は一目散に書き込むが、自信が無い人は恥ずかしがって書かない。

昔ならばむしろ一番低い奴や駄目な奴が面白いという風潮があったけれども、今はそういうところノリツッコミする人も減りただ単に見下しあう場所になったという変化はある。

自分の弱みを話す勇気がある人が減ったとも言えるし、その弱みを話した時に面白いと言ってもらえないどころか単に見下される風潮があると誰も自虐をしなくなる。

 

その結果「日本人の平均がこんなはずないだろ」というほどいろんなものが高くなるのだが、そこには裏があり例えば収入に自信がある人も身長の話題では一切言葉を発しないという事も当然起こり得る。

全てが揃ってる人などいるはずもなく誰しも何かしらの欠点があると思えば、わりと嫉妬に苛まれすぎる必要はないなと思えてくる。

全ての要素が平均以上に揃っている人など本当にわずかしか存在しない。

一見勝っているように見える人間もどこかでは負けている。

大多数の人が自慢できる要素がある一方で見下される要素も多くある、その当たり前のことに気づけばそこまで嫉妬で忙しくなる必要もないのだ。

 

SNSというのはどうしても「大本営発表」になりがちなところがある。

まるで日本軍が負けたことは隠して戦果を誇張して勝ってるように見せかけたように、誰もが自分のアカウントでは自分の都合のいいところしか見せない。

みんな"個人の大本営発表"をしていると思えばSNS疲れなんてしなくて済むのだ。

タイムラインで見栄えのいいものしか見せない、それが幸せ自慢大会の正体である。

 

ネットの評価基準というのは極めて画一的なので別の尺度を持てば違う見方ができる。

ネットで見下される物もリアルではその基準は通用しないということが多い。

例えばイケメンの東大生だけど性格にものすごく難があって全くモテないという人と、田舎のヤンキーで若い内から結婚して今は丸くなって幸せですみたいな人とどちらが幸せなのかというと判断は難しい。

前者の人が方が自分の中だけの無駄なプライドがあって、頭良すぎるがゆえにいろいろ考え込んでしまって苛まれることもあるかもしれない。

逆に後者は普通に軽自動車で家族でイオンのフードコートや安い牛丼屋に行くだけでも凄く幸せだと思っているかもしれない。そもそも現代基準で言えば家族連れで休日は軽自動車でマクドナルド行く田舎のヤンキーは十分人生をエンジョイしている勝ち組でさえもある。

 

一番幸せになれないのは中途半端に頭が良いタイプか、頭が悪いのに頭を使おうとするタイプである。(ちなみに自分は後者)

逆に幸せになりやすいのはあまり頭を使わず単純なことに幸せを見出せるタイプだ。考えすぎない方が良いし中途半端に現実を知らない方が幸せなことは多い。東大生ですら本物の人類の天才から比べると中途半端に頭が良いだけでしかなく、頭だけでいろいろ考えすぎると嫌な現実しか答えは出てこない。

それよりは高卒でマイルドヤンキーだけど地元でめっちゃエンジョイしてますみたいな人の方がよほど幸せなのだ。

高い車を買ってネットの評価基準でどうでもいい争いして一人でドライブするしかない人と、ネットでは見下される軽自動車に乗って家族でフードコート行ってる人とどちらが幸せなのか。

そう考えるとインターネットの価値観に流されすぎない事も大事だということがわかる。車のブランドや持ってる車種で言い合いしてる人を見ると、拘り過ぎることは幸せから遠ざかる事のように見えてくる。

 

一番の対処方法はそもそもネットをチェックしすぎないことに尽きる。

自分のリアルな知り合いのフェイスブックをチェックしていちいち他人の行動を調べて苛まれてる人というのが自分は理解できない。

よくネットで幸せ自慢大会のインスタグラムやフェイスブックに疲れたという人がいるけれども、素直に辞めればいいのにと自分のような最近のネットに付いていけない人間は考えるものだ。

安藤美姫や浜崎あゆみ、辻希美のインスタやブログをチェックして粗探ししてる主婦って暇過ぎるなぁとつくづく思う。そもそも女の人は人の生活に興味を持ちすぎだろと男としては考えてしまうものだ。どこからあの原動力や執着心が沸いてくるのかは理解できない。

これも生物の本能としての話で元々原始時代の頃から男は狩りで、女は巣を守るという役割があって「生活」というものを担ってきたから生活に対する興味があるのではないかと推測している。

男性は他人の仕事に対して厳しいが女性は人の生活に厳しい、それは自分が責任と誇りを持ってやっている分野だからだろう。

 

男は良くも悪くも単純で狩りにしか興味が無い。

だからそこまで人の生活に興味関心を抱くことは無く女性特有の嫉妬については解決のしようがないというのが正直なところだ。

 

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それでいえば女性が男性以上にSNSにはまる理由は反応の得られやすさにもあるのではないだろうかと自分は考えている。

男女の違いという海外のジョークでフェイスブックアカウントでは男は一週間たっても公式からしか連絡が来ないが、女性は1週間たてばメッセージや反応に溢れているという画像だ。

男悲しすぎィ、そしてこれすげぇわかるわと思った。

あとゲーム実況の比較画像で「男はゲーム中心、女は自分の顔中心」とか歴史において男が成し遂げたことを列挙して女が成し遂げたことは「イイネ!を稼いだこと」というジョークもあったりする。どこの国でもやっぱり同じというかむしろ海外だと尚更そういう傾向はあるのかなと思う事がある。

 

そう考えるとSNS疲れすると言っている人の多くが女性なことは複数の理由がありそうだ。

女性は男性に比べて他人の生活に興味を持つ傾向がある事、そして女性のSNSは男性に比べて反応が多い事が背景に存在するのではないか。

ママ友同士でお互いの格付けがあるという話は聞くが今はそれがSNSという舞台に移っているのかもしれない。どこにいっても比較と現実が付きまとう時代に現代人は生きている。

 

「やめればいいのに」では現実で仲間外れにされるのもまた難しいところだ。

テレビで最近の若者を取り上げた番組で「タイムラインに流れてきてどうしても同性代との差を感じる」と言っていた人がいたけれども、もう今の時代身内でSNSをすることが当たり前の時代なんだなと隔世の感を感じずにはいられない。

 

やりたくないけど身内とのコミュニケーションの中でどうしても必要という事でTwitterをやる人もいる。

携帯もってなければクラスの話題に付いていけないという時代から、今やSNSをやっていないと付いていけないという時代になっている。

それが今やもう学校を卒業して社会人にあった後も付きまとうようになって来ているので「インスタ映え」なんて言葉が流行るのだ。

しかしタイムラインに流すようなのも前述のように人様に見せても恥ずかしくない"大本営発表"なわけで、それがその人の全てではない。

SNSのために生きているような人生など本当に充実しているのだろうかという疑問も必要なのではないか。

 

そしてそもそも人間関係を最低限にしていくと言うのは良い手段かもしれない。

今の時代「人間関係ダイエット」が必要なほどに様々なしがらみに支配されている。

実際ネットの関係にしろ現実の関係にしろ本当に自分のことを思ってくれてる人なんてなかなかいないわけで、登録人数だけ多くても意味ない事の方が多い。

 

しかし世の中は人間関係の充実度は数の多さのことだと思っている人が一定数存在する。

友達や知り合いの多さと、人脈の広さというのは異なる。

数が増えれば一人に懸ける時間は減る、「数」には本当に意味がないし人間関係は数値ではない。

実際自分のプライベートの連絡先で登録している人の数自体は少なくはないが実際に現役で連絡先として機能してる人は本当に少ない。いざという時に助けになってくれる人の方が大事で数値上の数の多さには本当に意味が無いなと自分は痛感している。

本当にガチで心配してくれる人というのはそう簡単に増えるものではないし、SNSのフォロワーも実質的にちゃんと見てくれてる人というのはフォロワー数の10分の1にも満たない。

 

そういうのを考えたときに「世の中自分の人生に必要ない奴の方が多くね?」という発想も大事になってくる。

タイムラインに自慢だけ流してきてイイネを推せと無言の要求をしてくる人なんて本当に必要な人なのかなと考えることも大事だ。

人間関係の基準で自分が話しかけたときにしか返してこない人というのは自分に興味が無いと思った方が良い。

逆に自分が連絡して来なくても向こうから勝手に連絡して来てくれたり、しばらく話が途絶えてても気にかけて連絡してくれる人というのは本当に自分のことを思ってくれてる。

それも無いような上辺だけの関係はそれまでという事でしかない。

社交辞令上の10人の関係よりも、しばらく音沙汰が無かった時に心配してくれる人や何気に誕生日を覚えてくれてる1人の方が100倍価値がある。

 

つい最近聞いた面白い話で言えば深夜の番組でマツコデラックスとヒャダインが「芸能界って全然連絡し合わない」という話をしていた。芸能交遊録みたいなもの意外なほど少な、連絡し合う事も無ければ実際に食事に行く事も無く、収録と家の行き来が続くらしい。

あのマツコデラックスですら大都会東京のど真ん中で、まるで会社と家を行き来するだけのような生活を送ってるのを見るとリアルで充実してる人の方が少ないんだなと思える。

「現代人ネット見てるだけ説」があってもおかしくない程に皆ネットを見ている。

まさに日本人総ネット民化現象そのものだ。

 

本当はタイムラインにのせる物が無い人の方が大半で、載せてる人も何とか絞り出して載せているか掲載するためだけにわざわざ行動している人が多い。

そのライフスタイル疲れないのかなと自分のような人間としては思うのである。

私生活全てが人から見られることや評価されることを意識したら自分ならば間違いなく疲れる。

 

毎日食事の画像をアップロードしている人は本当に凄い。

おしゃれなカフェにインスタ映えするフォトジニックな写真撮りに行く人って元気だなと心底思う。

自分など買える範囲内の安い缶詰と缶チューハイなどばかりで三日でネタが尽きるだろう。

「今日は昨日のストロングゼロと違って氷結です。最近コンビニ限定の新しい味が出ました」

そんなことしか書けない日記など自分でも楽しくない。

ツイッターでは自分の服のコーディネートをアップしてる人もいるけどあれの何が楽しいのかは謎でしかない。街で歩いて見せる物がいつの間にかツイッターに載せることがピークになっているのが現代の特徴だろう。

 

美味しいお店でご飯を食べる事や話をすることが一番の楽しみだった時代からその写真をSNSに載せる時が一番のピークになってるし、服もSNS用の写真を撮る時が一番気合が入っている時代になっている。

実際いいコーディネートをして街を歩いたからと言ってそれが良いねと褒めてくれる人はいないけどSNSだとイイネを推してくれる人がいる。それがそういう人たちの原動力になっているのではないか。

 

ただそういった行為を「ネットの反応を意識している」と考えること自体が古い考えで、そもそもこういったSNSは現実の知り合い同士でやっていることが多い。

友達同士でネットやるという感覚にどうも付いていけない古いネット民が自分である。

ネットに現実を持ち込みたくないという考えはもう古い考えなのだろうか。

 

自分のようなネットは"リアル"とは断絶されたバーチャル空間だと考えていた世代はもう古い人間でしかなく、不特定多数に見られているという意識を持たず身内だけで完結しているという人が徐々に増えつつある。

ネットに服のコーディネートをアップするのも別に匿名のネットユーザーに魅せることが目的ではなく、それをフォローしているリアルの身内に向けて発信していると考えれば納得も良く。

 

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この記事でも散々書いたけれどもつまりネットにもリアルが入ってくるようになったというのがここ数年間の変化であり、それがネットでも嫉妬するようになった原因の一つだと言える。

 

それこそ昔のネットは負け組のたまり場や社会の吹き溜まりのような場所だったところから、今はネットに現実が侵食して来るようになって一般社会の一部になってしまった。

ネットにもリアルが付きまとうようになった結果、心休まる場所がほとんどないというのはあるかもしれない。現実とは違う空間というある種の幻想が崩壊した結果、今はネットでもリアルと同じような基準が適応されるし、現実でもネットの基準が適応されるようになった。

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その結果自分が行き着いた結論は「あまりネットを見ないようにする事」というシンプルな答えだ。自分はSNSは本当に見なくなったし掲示板も本当に一部のサイトしか見ない。

ツイッターも一瞬やっていた時期があるけれども削除してすっきりしたと思っている。

 

今の時代ネット見ててもどこにも現実があって疲れるだけで普通にテレビや本を見たほうが気が休まるようになっている。

自分にとって至福の時間は深夜に海外サッカーを見ている時間だろうか。海外のスポーツを1人で深夜に見てると別世界にいるような感覚になれる。

今の時代こういう別の世界を一つ作ることが唯一気が休まる方法なのではないか。

別に海外サッカーに限らず古本や昔の映画、そして今では誰もやっていないようなゲームの過去作、そういう世界に閉じこもったほうが現実逃避はできる。

自分のような終わった人間や敗者は現実について行こうなんて考えず、1人だけの世界観に閉じこもったほうが変に苛まれずに済む。

終わった人間というのは自分を世の中からなるべく断絶された場所に置いたほうが生きやすい。

 

ただそれができないのが現代でSNSが若者の必須ツールになる時代というのは面倒だなとは思う。自分だけがクラスの中でこのネットの世界を知っているという現実逃避の場所が今では現実の延長線上に存在するものになっている時代に生きている。

 

「現実は駄目でもネットが楽しいから良いよね」という時代から、ついにはネットが現実の一部として取り込まれた。

徐々に嫉妬しなくていい場所や、競争に忙しくならなくて済むような場所というのが減少しつつある。

それはまさに都市の開発が進んで自然が消えていくというような話で、負け組や弱者というのはこの都市開発によって生息域を失い終いには絶滅危惧種になってしまうのではないか。

しかし皮肉なことに現代社会ではむしろそういった下流の人間の方が増えている。

ホタルが住めなくなった川、野鳥が住めなくなった森林のように社会から弾き出され溢れた人間という者の居場所が無くなりつつある。

10年後は「火垂るの墓」ならぬ「負け組の墓」という映画がつくられているだろう。

12月が来ても大して嬉しくない奴wwww

全く12月になったという気がしないのは自分だけだろうか、せいぜい寒くなったという印象しかない程今年は何も感じない。

冬景色になるわけでもなく何とかに寂れた景色が広がっているだけで、当然冬のイベントが楽しみなわけでもない。

 

去年はまだ「来年こそは一生懸命やる」という気力もあり、なんだかんだで年末のテレビ番組などは面白かった記憶がある。

しかし今年はほぼ何も実感がない。

自分の中で年末の恒例行事となっているクラブワールドカップが始まってもいまいち気分は盛り上がらず、「このままグダグダ紅白歌合戦まで行くんだろうな」という予感がある。

 

12月は毎年自分が上手く行っていない時期と偶然にも重なるのであまり楽しかった思い出が無い。毎年しょうもないクリスマスを過ごしていて、もうそういうもんなんだろうなと自分の中で諦めにも似た感情がある。

毎年厳しい状況で迎えていて素直に楽しかったことはほとんどなく、来年こそちゃんとしようと決意して結局同じような1年が過ぎて「そういえばもう年末だな」と思うまでがテンプレとなっている。

そもそも今年自体が例年にも増して希薄な年で、なんか夏も同じようなことを言っていた気がする。

もうほとんど実質引きこもりのような状態になり世の中との繋がりのようなものはほとんどテレビとネットしかなかった。それも自分が主役になれるわけでもなくただ酒に溺れながら無為に過ごしていた。

むしろ自分が最も駄目になったのが今年だったように思う。

去年からアルコール依存の兆候はあったが今年になってそれが深刻化した1年だった。

 

2017年を総括するならば「酒」という一文字に尽きる。

今年の漢字があるとするならば自分にとっては間違いなく酒である。

それほどにお酒に頼るしかない1年で精神的にも肉体的にも更に駄目な人間になり下がり、もはや頑張ろうとする意欲すらなくなっていった年だったと思う。

例えるならば日本軍とドイツ軍にとっての1944年の12月のようなものだろうか。

楽しみでもなんともなく嬉しくも無く、将来的に夢や希望があるわけでもない。

 

ここ最近で一番マシだったのはちょうど4年前の2013年の12月だろうか。

2014年からはソチ五輪とブラジルワールドカップが控えていてどっちも楽しみで、まだ自分もこんな底辺に落ちぶれておらず将来に向けていよいよ行動を開始していこうという決意の年だった。あの時はまだ自信や余裕もあり現実も知らず、まだ何かをやるだけの力や材料はあった。

 

あれからもう4年も経つのかと思うといろいろと切ない。

本当に何もできない4年だったなと後悔だけが込み上げてくる。昔の自分なら「じゃあ今後の4年間やりなおして、4年後後悔しないようにしよう」と意識高く考えようとしてただろうけど今の自分にそんな余力はもう正直ない。

 

次の年に冬季オリンピックとFIFAワールドカップを控えているという意味では完全に4年前の状況と同じなのに、なぜだかすべてが違う。

ピョンチャンオリンピックなどもはや韓国人ですら悲観的になっているレベルで誰もワクワクしていない。そしてロシアワールドカップもブラジルワールドカップ前に比べるといまいち盛り上がりが足りない。

それは自分個人の心理状況としてもそうで、確かに楽しみではあるけどブラジルW杯前のワクワク感に比べると普通だと言わざるを得ない。

 

ただそんなロシアW杯にすがるしかもう今後楽しみがないほど自分の人生の見通しは暗い。そのロシアW杯ですら今後唯一自分にとって楽しみなイベントでしかないという状況だ。

どうせもう何も楽しみが無いならば割り切ってあと半年間、ワールドカップ本戦を楽しみながら見られるように身を粉にして努力するのもありかもしれない。

 

紅白は自分が応援しているアーティストやグループが複数出るのでそれは楽しみだけれども、正直録画で済まそうかなという思いもある。ガキ使はある時までは見てたけど番組の質が劣化して来て見なくなった。

紅白にしてもガキ使にしても大みそかをダダラダ家族で過ごす人には向いてるけど、1人で全部しっかり見ようと思ったら結構ダレてしまうようになった。

漠然と年末に対するワクワク感も無くなり、別に過ごさなくてもいいやと思うようにもなっている。

 

子供のころは年末に仕事するのはかわいそうと思ってたけど逆に今12月やイベントごとを特別に凄そうという気力も体力もないなぁ感じるようになった。

年末だから奮発して特別に凄そうみたいなのは精神面と経済面の体力があった頃だから出来たけど、今は普通に地味に過ごしても何とも思わない。

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そういえば自分恒例の年末の楽しみ方としてインターネットで海外の中継を見て年末を二度楽しむというスタイルがある。

つまり時差1時間遅れの台湾の年末を見て過ごすのがこれまでの自分の習慣だった。

有名な台北101タワーで花火を派手に演出するのが台湾の恒例の年越しスタイルになっていて、日本の除夜の鐘を聞いた後に今度は1時間遅れてネット中継で台湾のド派手な年越しを見るというのをやっていた。

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ただそれが途絶えたのが一昨年で、もう結構やってないなと今気付いた。

そんなやってなかったか・・・・

そういえばかなり昔の事のように感じるほどにこの過ごし方をやっていない。

こんなこと書いてたら台北行きたくなってきたなぁ。

ただ実際には行けないから日本時間の12時を過ぎたらストリートビューや台湾旅行記を見てネット中継で台北101タワーの花火を見るという過ごし方も面白いかもしれない。

こんな虚しい事でも安酒飲んでればそれなりに楽しくなるもので、何とか安酒を買い込んで文字通り「酒」の1年で締めようかなというプランもある。

 

その変わり来年2018年の年越しは本当に台湾で過ごすという計画を立ててもいいかもしれない。それを来年の目標にしようかな、来年の年越しは台湾で過ごす!

そしてここに台湾旅行記としてアップする、それは自分の中では面白い計画になりそうだ。

一つだけでも何らかの目標を持つと少しは前向きになれる。

今年1年何も面白い事も無く年末も楽しみが無いという人はこんな感じで些細な目標を持ってみてはどうだろうか。

凡人には壮大なことなどできない、あまりにも大きなことを考えるから毎年挫折で終わる。自分は所詮小さな凡人に過ぎない。

ちょっとした小さいことを達成すれば大成功!というような庶民的な目標を持って生きることのほうが実は幸せなんじゃないかな、今年はそんなことに気付いた1年だったのかもしれない。

海外アイドルを応援することのメリットとは

これはあくまで自分の楽しみ方という前提であるのだが、自分は異性のアイドルや芸能人を応援するならば海外アーティストの方が良いと考えている。

海外のアイドルやグループ、芸能人、俳優にしても異性目線で応援していくならば海外の方が幻滅せずに済んだり、現実を知らずに済みやすいという大きなメリットがある。

 

同性を応援する場合は国内アイドルでも楽しいのだが、異性に関しては最近ほとんど女性アイドルに惹かれなくなった。

そんな国内のアイドルや声優に関して本気で応援することの虚しさを自分は感じている。

 

女性アイドルに関しては少し前はAKB48系列が流行り、今では欅坂46のような坂道シリーズが絶頂期にある。さらに日本では声優応援の文化も根強い。

特に最近の日本では「親近感」が重視され、可愛すぎないことやファンとの近さが求められるようになって来ている。SNSの使用であったり、握手会などの接触ビジネスが重要なりどれだけファンに奉仕できるかが重要になっている。

本来のアーティストとしての能力よりもファンにとってどれだけ都合の良い存在になれるかということが「アイドル戦国時代」の世の中では求められているのが現代のアイドル業界の特徴だ。

 

しかし彼女ら女性アイドルや女性声優の現実は知れば知るほど醜い。

ジャニーズと出会うためならばオタクとの過酷な握手会も必死に頑張る彼女らの努力はもはや涙ぐましい。女性声優に関しても養成所時代は遊びまくり、人気になればナイトプール三昧、そしてまるで日本中に知られている有名人であるかのように振る舞う。

地下アイドルはなおさら厳しい世界で、過剰なファンサービスを行い裏ではファンやお偉いさんとくっついている。

 

自分の場合、全盛期の頃に一瞬AKB48が好きだったぐらいでそこまで真剣に熱を上げたことは無いのだが、そういう現実を知ると「うわぁ・・・」と思わずにはいられない。

どうしてもこういう現実の方が先に伝わってくるのはネットという構造があるからだろう。昭和の芸能界はいわば情報が閉ざされた雲の上のような世界だった。

アイドルと言えば異世界の本当に存在するかはわからない高貴な存在だった時代がある。

それが今の時代は良くも悪くも情報が簡単に発信されるようになり、ありがたみが無くなったのではないか。結局のところ芸能界やメディアに騙されている時代の方がプレミア感もあったといういつもの理論に通じる。

 

例えばこれだけ「やらせ」だと認定をする人が増えてテレビが嘘だと暴かずにはいられない人が増えれば、ワクワク感のある心霊番組や探検番組が減ってつまらなくなり、もっとつまらないユーチューバーが増えただけの世界になってしまったのがその象徴たる事例だ。

アイドルも一緒で情報統制がされて、ある程度"秘密のベール"に覆われていたほうが神秘性が保てるのではないかと自分は考えている。

そう言う意味で自分は最近海外のアイドルにはまっている、正確に言えば元から好きだったジャンルに戻ったという表現の方が近い。AKBに関しても周りに影響されて仕方なく見ている内に好きになった程度で、元々は海外アイドルの方を応援していたし声優も人気声優を少し知っているぐらいで実はそれほど熱心にはまったことは無い。

 

やはり海外のアイドルはスキルが高くビジュアルのレベルも高い。

選りすぐりのエリートを厳しくトレーニングしてデビューさせているので「芸能人やアイドルって凄い人たちなんだな」と思うことができる。逆に日本の親近感アイドルはデビューしてから成長していくことを目指しており、その過程が楽しいという人もいるのだが最近はそういうスタイルが増えすぎて飽食気味にある。

海外ドラマを見て日本人が昔の日本らしさを感じるのと同じように、海外アイドルを見て昔ながらの「スペシャルな芸能界」のほうがやはり見ていて感動がある事に気付く。

昔ながらの懐かしさと最先端のスキルが融合しているのが海外のアイドルやガールズグループだ。

日本のアイドルは典型的な今までチヤホヤされてきた人生イージーモードの奴らばかりで努力もせずにダンスが下手でも可愛いからと許されるが、海外の場合は本当に過酷な練習を積んでいるためレベルが高い。

そんな人生イージーモードで適当にやっている国内アイドルのゲスさを見て自分は冷めてしまったのだ。

海外のアイドルが人間的に素晴らしいと言うよりも、国内アイドルがあまりにもゲスすぎて同じゲスならせめて努力してスキルの高い海外アイドルのほうがマシだという話なのである。

 

逆にいわゆるAKB48系列、さかのぼればおニャン子クラブ時代からの「普通のいそうな女の子」というスタイルからは感動ではなく「現実」が見えてくる。

自分がこれまで見たことがある人に当てはめてしまうので、「この子は性格悪い、こういう子いる」と現実が見えてしまう。

同じ日本人だから想像しやすいという事もこの現象に拍車をかける。

アイドルのちょっとした言動や過去がどうしても気になってしまい素直に応援できないという経験をしたことがある人はいないだろうか。

また外国人アイドルが思いっきりぶりっ子していても特に気に入らないが、日本人アイドルがやっていると裏の顔あるのにキャラ作り過ぎだと考えてしまう。

 

どの国にも言える事かもしれない自国の人間には厳しい傾向があり、例えば日本人は日本人に対して厳しいところがある。芸能人と言えども人間で時々羽を伸ばしたくなることがあるが、こちらは真剣に応援しているのだから常にプロでいてほしいという思いがファンの心理でもある。

一方でアイドルに限らず、外国人がちょっと日本の文化やしきたり、マナーを間違っていても「外国人だから仕方ない」と考えるので気にならないことがある。

 

つまり日本のアイドルが少し素行が悪いとその少しが本当に気になってしまうが、外国人アーティストが素行が悪くてもそれほど気にならない。

これはもっとわかりやすい例で言えば日本のスポーツ選手がタトゥーを入れていたら批判されてしまうが、外国人のスポーツ選手がタトゥーを入れいていてもそれは海外の文化なんだろうなとなんとなく納得できてしまう。

 

これが実は重要で同じ日本人のアイドルや声優に対して過度に清純さや素行の良さ、真面目さを求めすぎてしまい、少しでも理想と違うところがあれば幻滅してしまう。

悪い意味で「やっぱりこの子も普通の子なんだな、こんな子が現実にいるはずはない」となってがっかりしてしまう。それがあるから自分はこれまでもあまり本気で日本のアイドルや声優を応援することは無かった。

 

海外のアイドルというのはファンとの間にちょうど良い距離感がある。

昔ならファンと芸能人の間に合った距離が近年は縮まったため、かつてのような距離感が海外との距離感になったとも言える。日本の芸能界はファンに近くなりすぎたが、海外は程よく近くなったのでかつての芸能界との距離感に似ている。

 

言葉がわからなかったり情報が伝わりすぎてこない、また現実をイメージにしにくい、これからが逆に現実に対する"防護壁"のような役割を果たしている。

当然海外にも現実があり、知ってみれば日本と変わらないのかもしれないが知らなくて済むし知っても外国人は外国人で他所の問題だと納得がいく部分がある。

 

今はあまりにも情報が伝わり過ぎたり、リアルが求められ過ぎたりすることでアイドル側もかなり活動が難しくなってきている。

声優というジャンルも元々は二次元のアニメキャラクターの後ろに隠れていたものが、昨今の声優ブームによってむしろその役割の方がメジャーになったことで同時に現実も分かるようになってしまった。

ある意味で神聖な二次元だったものに現実が介入するようになってしまっている。

 

そこには自分たちに近しい人であってほしい一方で、本当に普通の人だったと気付くと幻滅してしまうという複雑な心理がある。特別な人たちがちょっと自分たちに近い要素があれば嬉しいが、最初から自分たちと同じような俗な人間だと気付くとがっかりするのだ。

 

そしてこれはアイドルファン全般に言えるかもしれないが、昨今はとにかく全てを知ろうとしすぎているのではないかとも自分は思う。なんでも探偵のように詮索すればそこに存在するのはうれしい情報ではなく「現実」でしかない。

アイドルファンの文化や風潮として全てを探し出そう、知り尽くそうとしすぎているのではないか、それが悪い意味でのリアリティを生み出してしまっている。

そこに疲れたり幻滅したりした人は程よい距離感のある海外アイドルに居場所を見つけても良いのかもしれない。

ネットから昔のフラッシュ動画が消えつつあるのは悲しい

昨日偶然に昔のとあるフラッシュ動画が懐かしくなり、調べてみようとしたのだがこれを探すのことに結構苦労した。

自分が見たかったのは空耳ソング系のフラッシュ動画だったのだが、見つかったのは違う空耳の物でしかない。知っているはずの面白い動画と秀逸な空耳のものではなく、ただのPVに無理やり感のある空耳歌詞をつけた物だったのだ。

結局自分が知っていたはずのものは見つからず、ネットの物が消えるときは儚いと改めて感じさせられた。

 

実はこういうことが一回ではなく、昔好きだったフラッシュ動画を探そうとするともうそれ自体が存在しなかったり見つけにくかったりすることが多くなった。

動画サイトの登場以降フラッシュ動画はネットにおける主役の座を追われて、今では動画サイトに「懐かしのフラッシュ集」や「やってみた系」がかろうじて存在する程度にとどまっている。本家のフラッシュは見つからない時、それをやってみた系だけは残っているがあまり見る気にはなれない。

 

悲しいことだがそういうフラッシュを運営して維持する人が少なくなり、覚えている人も少なくなりこういったものは消えていくのだろう。

昔のネットを知る人自体がそもそも今では少数派になっていて、それが常識として通用しなくなる。知らない層が多くなったとき、それはいくら過去において常識であったとしても常識としての地位を失う。

自分が「ネット民なら全員知ってるはず」と思っていたものが、今では如実に知らない人の方が多い時代になっている。

もちろんこれはネットに限らず、自分の好きだったお笑い芸人やアイドルを知らない人が新しい世代に多くなることは現実と共通している。そして自分も自分より昔の物のことは知らないのだ。

 

そしてこれはネットというのが現実と同じように歴史の長い世界になったという事を意味する。インターネットと言えばまだ新しい物だった時代から、もう歴史の領域になって来ているのだろう。

 

そうすると当然廃れる文化や流行遅れになる文化も登場し始める。

特に空耳文化は本当に廃れてしまい、面白い偽の歌詞を考えるセンスを持つ人も減った。

世の中の伝統文化や職人文化、そして言語と同じで、後継者がいなくなると廃れていくのがネット文化なのかもしれない。

 

街の様子や店舗などが変化していくことも同じような現象だろう。

例えば子供の頃に自分の街に合ったゲームショップ、カードショップ、おもちゃ屋さんなどは昨今の少子高齢化によって本当に消えつつある。

商店街が大型ショッピングモールができたり、後継ぎがいなくなったりして消滅することに次ぎ今は子供向けのお店も徐々に減ってきている。

飲食店なども消えていく、子供の頃によく行っていたはずのお店なのに10年も経てばどこにあったのかさえもわからない状態になる。

ここに本当にあったのかと想像すらつかず、あの過去が本当に現実だったのかさえも怪しくなる。

 

インターネット文化も同じようにいつまでも存在するように見えて消えるときは儚い。

もはやフラッシュ動画どころかニコニコやyoutube初期の動画なども消えつつある。

ニコニコ動画の藤崎瑞希が消えてからもう何年も経つが、いつの間にか知らない人の方が多い時代になっている。これが忘れられるという事なんだろう、そして本人だけでなく語る人まで消えればもう完全に消滅してしまう。

 

そして唯一覚えていた自分さえもそれを忘れていくともはや存在は無かった事になる。

例えば懐かしくのフラッシュ動画で数話形式のものがあり、それを「いつか見る」と思っていた内に見つけられなくなり今ではどんなものだったのか内容すら曖昧になっている。

自分さえも記憶があいまいになるともう探すことすら不可能になる。

 

変わりゆく時代の中でどうしても消えていく物は存在する。

インターネットは何でもあるように見えて実はない物の方が多い。例えば昔お菓子のおまけ程度に一瞬存在したカードゲームなどを探そうとするとカードショップに存在しないことは当然として、オークションサイトにすら存在しないことがある。

世の中残る物の方が実は少ない、特にネットを見ているとそう感じることがある。

SNS全盛時代になってその傾向はさらに深まったように思う。簡単に投稿できる上に簡単に削除や修正もできるので、いつまでも残っていることの方が少ない。

逆に昔ながらのホームページの方が実は長持ちすることがあり未だに残っているものは多い。

 

しかしそれでも消える物は多く、フラッシュ動画は本当に姿を消しつつある。新しく作られることが無いのは当然としてアーカイブスとして残す人や語り継ぐ人さえも減少してきている。

恋もマイヤヒのような本当に人気だったものは残るが、フラッシュ動画の中ではマイナーだったものは維持する人が1人も存在しないと簡単に世の中に存在しなかったことになってしまう。

例えばアナログの本は一度出版されれば国立図書館に保存される上に、今でもどこかの古本屋に残っていることが多い。

ネットは10年前の物ですら消えるのに、本は30年前の物でも当たり前にいろんなところに残っているのを見るとアナログコンテンツはやはり保存としては強い。

 

そしてこれは何も過去の話ではなく、これからより深刻な問題になっていく。

投稿しやすくもなったが削除しやすくもなった現代においてコンテンツの寿命というのは過去に比べて本当に少なくなっていくだろう。

フラッシュ動画はまだ寿命が長かった部類で、動画サイト時代の動画がどれほど残るのかは疑問符が付く。

供給量が多いので保存が追い付かず、また新しい物も次々と出てくるので昔のフラッシュ動画のように1つ1つを大切にして守っていくような文化は成り立たない。

 

そこそこ有名だったはずのフラッシュ動画ですら残ってない時代に、これからの新しい物が残っていくのだろうか。

例えばアイドルが少なかった時代の昭和アイドルは今もファンが多く存在するが、昨今のAKB48系列のアイドルはアイドル史に決して残らないのではないか。

2,3年だけ在籍して進路決めて辞めていく部活感覚のメンバーも多く、更に競争が厳しいのでそうせざるを得ない状況にもある。アイドルになるのが簡単になったというのは辞めることも簡単になったということを意味する。

ネットコンテンツもこれと同様でネットの世界に送り出すことも簡単になった一方で、消すのも簡単になったし消しても誰も気にせず覚えていない。

 

初期のフラッシュ動画や地元にあったお店などは消えてもまだ誰かが覚えている人がいる方で、これからは覚えてもいない物の方が多い時代になっていきそうである。

まだ昔の物が消えて悲しいと言っている段階はまだ心がこもっている方で、これからは悲しいという感情すらなくなっていくのではないか。

消えることが当たり前になり、消えることを気にしなくなってきているのが現代のネット文化だろう。

例えば自分はフラッシュ動画が消えていることに悲しくなるが、これからの新しい文化やコンテンツが消える事にどれだけ思いを寄せることができるだろうかと考えると、その感情が無くなりかけていることに気付く。

 

ネットが人情ある混沌とした下町から整備された綺麗な都会になって温かみが減ったと自分は例えることがある。

フラッシュ動画が消えることはいわばそんな下町から知っている人がいなくなることに近い。

しかし今のネットから何かが消えることは、都会から一人誰かが去っていく事でしかないのかもしれない。大都会から誰か一人が消える事に誰も思いを馳せない、そんな時代に今のインターネットは入っているのかもしれない。

そしてそれが発展や発達の一つの段階だともいえる。

ネットはいつまでもアングラや下町、辺境ではいられない、大都市へと変貌しつつあるのだろう。

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ゲームをして残るのは結局は「思い出」に行き着くのではないだろうか

ゲームをしていて誰もが一度は考えたことがあるだろう、これをして何の意味があるのだろうかと。

ゲームと言えども楽しい事ばかりではない、勝てなかったり上手くプレーできなかったりすればイライラすることがある。

そんな時ゲームをして何になるのだろうかと考えるものだ。

 

特に最近はオンラインゲームやオンライン対戦、ソーシャルゲームが重要になっており全国や全世界との繋がりやそこでの立ち位置が重要になっている。中には自分のゲームプレー動画を公開する人もおり、当然ながらそこにも苛まれるような要因が発生する。

自分のゲームプレー動画を誰も見ていなかったり、自分が勝てなくなれば自信は失われる。

 

ゲームにおける順位、強さ、そしてプレー動画をどれだけの人が見ているか・・・などと考えていくと本来楽しかったものが楽しく思えてこなくなる。

子供の時に夢中でやっていたゲームがいつの間にか惰性で行っていたり誰かに評価されるためにやっていたりする。

こういった心理状態はまさに「見栄」を重視している状態だと言える。

 

しかし自分は思う、ゲームは儚い、そしてただ楽しければよかった原点に戻るべきだと。

ゲームをしている人ならば自分のゲーム内における順位やコレクション、勝率やレーティングなどの成績を気にするだろう。ゲームというものはこういった"数値"によって目的が発生しモチベーションが上がるように設計されている。

時としてそれはプレイヤー本人にとっては現実の物事より大きな価値を持つ事がある。

 

例えば自分は実力の段階が10段階に分かれているゲームでかつて上位を目指そうと真剣に考えていたことがある。そこに行ければもう何もいらない、それで幸せだとすら思っていた。

ゲームのレーティングで2000代を突破するとかレアアイテムを手に入れるとか、そういうことに憧れていた。

 

しかしここ1年近く自分はそういったオンライン対戦から遠ざかり気付いたことがある。

案外ゲームに対する執着心は無くなるものだという事に。

自分がプレーしていたゲームは主に3タイトル存在する。

・EA FIFAシリーズ(PC版)

・World of Tanks(オンラインゲーム)

・ポケモンシリーズ(3DS)

 

基本的に自分は数多くのゲームをこなすというより少ないタイトルを極めることを重視するプレイヤーで、人間そう多くのゲームをやる時間は無いという考えだった。

3つに絞って集中してその世界を極めようと思っていた。

しかしグラフィックボードの不調によりPCでゲームができなくなり、ポケモンもからも遠ざかり1年以上オンラインからは断絶された世界に合った。

 

そして気付く、自分が執着していたものはそれほど重要ではなかったことに。

例えばWOT(World of Tanks)という戦車ゲームで自分はかなりの時間プレーしていたし、かなり高ランクの戦車もそろえていた。ソ連ツリーを特に重視していて駆逐戦車を極めていた。

当然ながら今でもこのゲームに対する思い入れはあり課金もしてきたので再開の目途が立てばまたやってみたいと思っているが、無くても困らないとは思う程にその積み重ねたアカウントを重視しなくなった。

元々自分は戦車が好きだったことに加え知り合いに紹介されたことでこのオンラインゲームを始め、当初は毎日のようにやっていた。

とくに大学時代は狂ったようにプレーし相当頑張らなければならない戦車も手に入れた。

 

しかしPCのグラフィックボードが故障しプレーができなくなるとこのゲームから遠ざかり、ボイスチャットでプレーする機会も徐々に減少していった。

わざわざPCを修理してもう一度課金してまで始めようと思うとどうしても腰が重い上に、最近このゲーム自体全盛期に比べて過疎り始めてしまっている。

『ガールズ・パンツァー』というアニメが流行っていた時代は日本人ゲーマーも多かったが、後半は露骨に過疎るようになりマッチングにも時間がかかるようになっていく。

まるで永遠に続くように思っていたWOTもいずれはサービスが終了するという現実に気付き始めた。

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その知り合いと話していてよく話すのが「オンラインゲーム儚い論」である。

最初は彼が言っていたオンラインゲームはいつかサービスが終了するので虚しいという話も現実としては実感を抱くことは無かった。しかし実際にWOTが過疎り始めたことに加え、プレー休止期間が1年以上もあるとそれほど執着するほどのものではないように思い始めてきている。

あれほど積み重ねたアイテムも消えるときは儚い、消えなくても自分が価値を感じなくなったら意味がない。

楽しく身内だけで実況しながらプレーできていた時期は本当にわずかな時間だった。

 

またポケモンも一時は「嫁ポケ」と言われる自分が好きなポケモンだけで作り上げたパーティで対戦していたが、ある時途端に価値を感じなくなった。

ポケモンレート対戦が徐々にガチ化していきオンライン対戦の雰囲気が変わっていったことも自分のポケモンに対する帰属意識を失っていく要因だった。

そこに自分自身の私生活上の問題が加わり新タイトルサン&ムーンを買えなくなり、それを機に自分がポケモンに付いていくモチベーションを逸していくことになる。

そしてもはや今の時代ポケモン対戦動画はとにかく攻略情報が重視され、勝つことが至上主義になっている。

ダイヤモンド・パールのバトレボ時代が好きなポケモンを使う事の全盛期で、その後まだ第6世代まではそういった雰囲気が残り火のように存在していたがいつのまにかポケモンもガツガツとしたガチ化の時代になっていく。

現在ポケモンのオンライン接続率は低下しガチ勢しか残っていないような状態になっている。

 

WOTにしてもポケモンにしてもワイワイしていた場所がガチ勢が占拠する時代になると、雰囲気的についていけない時代になりゲーム疲れを起こすようになっていった。

自分としては3タイトルに絞っていたつもりがそれでもこれだけゲームを真剣にすることは普通の人間ならばできないという事に気付いた。

究めるタイトルは3つでも多い、人生には他にやることも多いという現実がある。

ポケモン自体に興味を無くしたわけではなく次回作に自分好みのタイトルが登場すればもちろん再開する可能性はあるが、現在でゲームに本腰を新たに入れていくことはやはり敷居が高い。

 

そんな自分が今かろうじてプレーをしているのはEAのFIFAシリーズである。

ゲームをやっても意味がないと言いながらもゲーム自体は今も好きなのが自分だ。

結局最後に残るのは本当に自分が好きなゲームで、成績やランクなど度外視してでも本当に楽しいからプレーするゲームだ。

 

今自分はオンラインに接続していないFIFAというサッカーゲームをやっているのだが、これに関しては本当にプレーすること自体が好きで毎日のように一人でやっている。古くなったオフラインのPCに入っていたFIFAを1人で延々とやっているのだが、これが十分に楽しい。

FIFAのようなスポーツゲームは毎年発売されるため数年前の作品でも基本操作は変わらず楽しむことができる。

つまり過去作でプレー技術を鍛えても十分に数年後の新作で通じるということになるので無駄にならない。

今はオンラインで最新タイトルができるわけではないが、オフラインでじっくり基礎技術を高めるという事に徹することができる。特に自分の場合複雑なコマンドを覚えるタイプではなく、シンプルな基礎技術を極めることが好きなタイプなのでこれから先も大きな変化はないことが保障されている。

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やはりゲームをやっていてそのタイトルやサービス自体が終了すること、大きくルールが変更することに左右されるのは大変なことだと気付いた。

結局何かを収集するゲームというのはある時突然そこに価値が発生しなくなる。

例えばソーシャルゲームはその典型だ。

ポケモンGOやパズドラ、モンストも全盛期に比べて勢いは失われ、そこに価値が生じなくなるとただの無価値なデータと化すことになる。

懸命に積み重ねたデータもある時"自慢する相手"が存在しなければ意味がなくなる。これは紙幣の価値が暴落すればただの紙切れになることと同じだ。

例えばポケモンGOもサービスが開始された当初にカビゴンやカイリュー、ギャラドス、ラプラスを持っていれば尊敬されたが今ではそこに価値は存在しない。

本家ポケモンもいわゆる「互換切り」という物が行われれば対戦で通用しなくなり意味がなくなる。

 

自分はポケモンXY時代に育てたモンスターに愛着を感じているが、対戦で使えなくなったり最新の環境で通用しなくなれば「どこに意味があるのか」と考えるようになっている。

現役の小中学生の時代に身内にプレーしている人がいてローカル対戦が成立していた時代は「自分はこのポケモンを使っている」というアイデンティティがあった。この町やこの学校でこのポケモンを使っているのは自分だけだという個性が存在した。

しかしオンライン対戦全盛時代になるといわゆるテンプレPTを使うのが正解で、最近はもはや育成せずともダウンロードで強いモンスターが使える時代になっていると聞く。

オンラインでの相対的価値が発生するゲームは自分の愛着だけではどうしても続かない現実がある。

 

結局こういうデータというものは儚く、何も残らないように思えてくる。

特にポケモンはオフラインでの対戦がそれほど充実しておらず、最新のものについていけなくなれば価値は大きく下がる。

あれほど自分が大切に育てたポケモンも、気づけば1年以上そのロムを起動していない。

「この服はいつか着ると思ってても結局着ない」という事を洋服やファッションが好きな人は良く言うが、自分の場合WOTもポケモンも1年以上起動せずとも案外平気だったことに気付く。

名残惜しいデータもいざ長期間プレーしなければそれほど大事ではなく執着するほどの物でもないと考えるようになり、成績や勝率、レート、レアアイテム、キルレシオなどそれほど大きな意味があるのかも分からなくなる。

 

更に言えば3DS以前のDS時代のデータに関してはもはや3年以上起動していない、案外こういうデータは意味が無く一人で楽しめないのならば意味がない。

逆に『ポケモン不思議のダンジョン』というシリーズはほぼオフラインが前提でサービスが終了しても充実しているダンジョンが存在する。本家ポケモンやポケモンGOのデータは今消滅してもショックはないが、不思議のダンジョンのデータはショックを受けるだろう。

本当に自分の中ではあの"冒険"の日々が大事で、1人だけで没頭できるRPGの世界は今だからこそ再評価されるべきなのかもしれない。

 

自分だけで楽しめる絶対的指標と、誰かとの比較によって生じる相対的指標の概念を考えると本当に残るのは前者だ。

紙幣もそこに価値があるから紙であっても大きな意味がある、データもそこに価値を感じる人が自分以外に存在するから意味がある。例えば10年後パズドラのデータに価値を感じる人がどれほど存在するだろうかという疑問はある。

 

そういう意味で「スキル」で残るゲームはアイテムや成績、アカウントで残るゲームより強いのではないかと自分は考えている。

例えばFPSはある程度タイトルが変わってもエイム力や立ち回りの判断力などはそのまま継続される。

自分の場合FIFAはEAが倒産しない限り今後数十年続くタイトルであるという保証が存在し、サッカーという競技が衰退しない限り存在価値がある。

世界的な大企業、世界的メジャースポーツという価値に支えられたFIFAシリーズは余程の事が無い限り廃れない。更に日本だけでなく外国人にも人気が高いため海外に行ったときにその人がFIFAを持っていればデータ関係なしにそこで対戦が成立する。

 

これは演奏スキルがあればある程度楽器をどこでも演奏できることや、チェスや将棋も道具があればその場で誰とでも対戦できることと似ている。

ユダヤ人は「教育は誰にも奪われないしどこにでも持ち運べる」という価値観を持っているように、ゲームのスキルはどんな場所にでも持ち運ぶことができる。

 

その文脈で言えばアナログコンテンツもやはり持続性が存在する。

データという物はサービス終了などの要因によって消えたり価値が存在しなくなるが、アナログコンテンツの寿命は長い。

例えばWOTでいくら強力な戦車を揃えてもそれはグラフィックでしかなく、プレー人口が減れば以前ほどの価値は無い。

しかし自分が懸命に作った戦車のプラモデルなどはおそらく10年後も懐かしく、そして実体や現物として存在している。

 

これに似たことで言えばTCGのようなカードゲームもカードとしてのコレクション性はいつでも持続するどころか古いものとしてより価値が上がっていくケースもある。

『マジックザギャザリング』の古いカードに高値が付いたという話は良く聞くことだ。

逆にポケモンの赤緑時代のリアルタイムのデータにどこに価値があるのかと言えば、それには疑問符が付く。

未だに金銀時代の環境を考察している人は存在する一方で、それが再現できるからと言ってどこまで意味があるのかはやはりどうしても最先端の「プレー人口」の多いタイトルが優先される。

 

その一方で前述のポケモン不思議のダンジョンは一人でも十分に楽しめるダンジョンが残されており、10年後も中々クリアできないダンジョンに挑むことができる。

対戦相手やその価値を承認してくれる自分以外のプレイヤーが存在しなくなれば成立しなくなるコンテンツは危うい運命にある。

 

未だに『風来のシレン』はレトロゲームとしてゲームマニアの間では重宝されていて外伝の女剣士アスカ見参!は高値で取引されていると聞く。オフラインでできるゲームはいつまでも自分でやりこむことができるが、オンラインが前提になっているゲームはいつかその価値が大幅に減ってしまう。

自分はこの前サモンナイトのクラフトソードシリーズというGBA時代のゲームをわざわざ始めたがそれはいくらオンラインがら断絶されていようとも、今の時代誰もやっていなくても楽しむことができた。

ポケモン超不思議のダンジョン

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相対的な価値に依存する物というのは結構危ういなと、特にソーシャルゲームを見ていると感じずにはいられない。

それはソシャゲだけでなく現在の主要コーンシューマータイトルに関しても同じことが言える。

ゲーマーの知り合いは『ガンダムバーサス』のPS4における最新タイトルをプレーしているらしいのだが、彼が言うには今相当に過疎状態に陥っているようである。ついには前作のPS3時代の作品の方がオンライン人口が多くなっており、結局彼はDLCで購入した好きな機体を眺めるだけになっているようだ。

 

最近のゲームにおける情勢というのはオンライン人口の確保がそのゲームの価値を左右するようになっているということに尽きる。

過疎ゲームや収集ゲームをやり続けることにどこまで価値があるのかという事を考えると、自分は遂にFIFAという超メジャータイトルしかやらなくなっていた。

ポケモンもいくら育てても環境が変われば意味が無く、時間をかけて今の段階でそろえることに何の価値があるのか、そしてWOTもいずれサービスが終了して過疎化していく運命にある。

 

スキルが持ち運びできる上にサッカーというメジャースポーツと、EAという大企業に支えられたFIFAは今自分がオフラインでプレー技術を磨いてもどこかに価値が存在する。

それに加えて純粋に自分としては楽しく、時として脳内でプレーしていることもある。

 

あまり自分が心の底から楽しめていないゲームを一時的な数値のためにプレーするのであれば、自分が本当に楽しめる好きなゲームだけをプレーし続けることの方が良いのではないかという事に最近気付いた自分がいる。

 

具体的な自分の例として『モンスターハンターシリーズ』の過去作を安く手に入れたのでプレーしたのだが、どうしても3D酔いしてしまい結局は挫折した。最初のボス的なモンスターを倒して自分の中では完全に満足で、仮にどこかの旅館に泊まって暇なときにやろうかなと"先延ばし"にしている。

 

携帯ゲーム機のいいところはこうして持ち運べるところで、いつか旅行に行く時に暇だったらやろうと先延ばしにできる。クリアできるだけで満足できるRPGはなおさらそこに価値があり、昨今オンラインというのは儚いと自分は思い始めている。

その結果自分がやり慣れたFIFAばかりやっていて、もはや最近それしかしていない。

逆に言えばモンハンばかりする人やFPSばかりする人もいるだろう。

ちなみに自分はFPSを上位者や経験者との間に絶望的に追いつけない差があると感じて、無理にそこで頑張るよりは自分がやり慣れて本当に好きなタイトルを極めた方が良いことに気付いた。

その結果FIFAしかプレーしなくなったという事である。

 

しかし自分は何もこういったオンラインゲームに価値が無いと言いたいわけではない。

例えばWOTにしても明日サービスが終了するとしても、自分が駆け抜けた"戦場"は今も思い出に残っている。

身内だけで実況や雑談をしながら大学時代にプレーしていたことはこれからもずっと懐かしいだろう。

「初心者はすぐKV1使うから困るんだよなぁ」と言いながらソ連のKV-1という戦車を使う人を批判しながらプレーしていた日々もあった。そう言いながらも自分も最初に作り上げた重戦車がKV-1だったのである。

 

そしてポケモンもXY時代にあれだけ真剣に育成したことは懐かしの思い出だ。

ポケモン熱があった頃の自分はポケモンのイラストを描いていたり、ポケモンセンターにグッズを買いにいったりしていた。ロムを起動すれば一応まだ愛着をもって育てたポケモンがいる。

「ポケモンセンターで対戦したアイツ、今も元気かな」と思いを馳せている。

一時対戦コミュニティにいたころのことも懐かしいし、配信されたダークライのダークホールをワンパターンで撃ってくる子供相手に大人げなく「しんぴのまもり」という技を打ち封じて、容赦なく倒したあの頃も今ではいい思い出だ。

 

懐古目的で少し前に10年以上の時を経てプレーしたアドバンス時代のゲーム、1人でやりこんだ不思議のダンジョンシリーズ、あの日駆け抜けたダンジョンが今は懐かしい。

 

FIFAやウイニングイレブンで決めたスーパーゴールは今でも時々思い返して、まるで自分がワールドカップで活躍したかのように一人で興奮する。

結局FIFAで一番楽しかったのが親戚の子供と対戦したことか、クリスマスに悲しく一人でオンライン対戦をしていたら相手の外国人が「メリークリスマス」と言ってきたことだ。

 

そして例のWOTやガンダムバーサスをやっている知り合いも、学生時代に『アーマードコア』というもはや新作が発表されないゲームで顔も知らない仲間とチームを組んでいた頃のエピソードを懐かしそうに話す。

 

ポケモンのBGMを聞くとすべてが懐かしく、そして戻れない日々だと気付く。

しかし戻れないからこそ思い出は美しい。

具体的に詳細な内容は覚えていないのになぜかおぼろげに懐かしい。過疎化した街や昔住んでいた 町が無性に懐かしいように、いくらゲームに意味がなくなったとしても自分だけが覚えていればそれは今も生き続けているのかもしれない。

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