負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

同世代に対する嫉妬にどう向き合うのかという話

インターネットというものが普及しSNSという概念がごく普通の物として定着している時代になって新たな言葉が生まれるようになった。

「SNS疲れ」という言葉はまさに現代の病理の一つだと言える。

 

電車に乗ると誰もがスマホを起動していろいろとチェックしているがSNSの反応などを逐一チェックしているのだろう。

それほど現代では他者との比較というのが身近になっており、どこに行っても比較が付きまとう。

ゲームをしても今の時代オンライン対戦が主流であらゆるものがランキングや数値に現れるようになっているため行き着く暇がない時代になっている。

 

しかし昔はネットが無かったからと言って消して比較や競争が無かったわけではない。むしろ今よりもシビアであり車や服、身に着けているもの、持っているものでステータスが決まっていた。究極人間というのはどこにいってもどの時代でも競争と比較から逃れられないような生き物なのだ。

本当に競争や比較が無い場所などどこにもなくそれを進歩のための反骨心にするか、嫉妬で終わるかで人生は変わってくる。

 

自分は一昔前まで嫉妬を反骨心にするようなタイプだった。

いわゆる雑草魂というかエリートでも特別も出ないからこそ名も無きところから成り上がろうというような野心を持っていた時代がある。ただそれでも通用しないというのがだんだんとわかってきて最近ではもう疲れるようなことは考えないようにしている。

 

10代の時は「俺が世界を変える」ぐらいに思っていたしジャンルは違うけどもネイマールやジャスティン・ビーバーを超えるという目標を掲げるほど自分を過信していた。

全世界合わせてもその世代を代表するような人間になると信じていたし、それが10代のエネルギーだったように思う。ちょうどネイマールがブラジルで話題になり始めたころに自分は同世代としてライバル視していたがそこから考えられないようなスターにまで彼は上り詰めた。

一方で自分は現実にはただの田舎に出戻った底辺の負け組にしかなれなかったわけで、その頃の途方もない夢のデカさが今では信じられない。

もはやネイマールをライバル視していた時代が黒歴史である。

人生の計画では今の自分は完全にスターで華やかな社交界にいるはずだったのに何しているんだろうなという思いはあるが、今自分が凡人だと受け入れて静かに過ごそうという考え方に切り替わりつつある。

「無限大な夢の後の何もない世の中じゃ」というデジモンのOPの歌詞があるが、まさにそのような感覚だ。

 

そうやって田舎に戻ったというのがあまり嫉妬をしなくて済んでいる要因であり、逆に言えば反骨心を持つきっかけを無くしている要因であるともいえる。

実際外に出ても同世代を見かけることが無く、同性代との交流もほとんど限られているためあまりリアルで自分を比較する機会が無い。

 

自分より上の世代との比較というのはあまり精神的ダメージにならないことが多い。

「そういう時代だから」「時代が違うから」で納得できる部分があり、所詮昔話にしか聞こえないところがあるのでリアリティがなく歴史の中の出来事でしかない。

華やかな時代のエピソードを聞いて羨ましいと言うよりも凄いなとしか思わないのが正直なところだ。

これは自分に限ったことではなく、どの世代も自分より上の世代の話は眩いけれども自分の時代とは違うという境界線を持っている。

そして自分も下の世代からは単なる昔話にしか見られなくなるのである。

 

そのためどうしても「嫉妬」の原因になるのは同世代、同年代であることが多い。

そもそも年代に限らず自分に近い人ほど嫉妬の原因になることがある。よく「途方もない美人はもはや憧れの対象だが自分に近いルックスの人がモテていると嫉妬する」という話を女の人がしているのを見かけるが、それは男でも同じことが言えるかもしれない。

男女に限らず中途半端で自分と変わらなそうに見える人が成功しているときはどうしても嫉妬してしまいがちだ。ジャマイカ人が自分より足が速い時は嫉妬しないが、クラスの男子で自分と立ち位置が似てる人が自分より足速かった時はちょっと悔しいのと同じである。

 

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ただ男の場合、能力で評価されている場合もあるので女性の女性に対する嫉妬とは構造が違う場合がある。

例えばあまり顔のかっこよくないスポーツ選手がモテていてもそれは素直に尊敬できるどころか、「能力や努力で成し遂げたのすげえ!」という風になる。

むしろ良く頑張ったな思うし男性は同性間の評価で女性ほど外見を重視していないところがある。

男性に比べた場合見た目や外見が更に重要な世界で生きてる女性は、それですごく楽な時はあるけど同時にものすごく大変だなというのも理解できる。女性で見た目が良くない事の絶望感というのは男のそれとは比較にならないのではないか。

それゆえに女性間の嫉妬は男性のそれとは違うし、もちろん男に嫉妬が無いと言いたいわけでもない。

 

ただ自分のケースでいえばイケメンにもあまり嫉妬はしない。

イケメンに嫉妬してたらジャニーズ好きになるはずがないわけでむしろジャニーズかっけぇと思ってるほどだ。

男は自分より強い男を素直に認めるところが本能としてあるのかなというのはある。

よく動物のオス同士で争っているとき負けたほうはあっさり退散するが、それは実力以上の相手と戦ったら命に係わるということを彼らは分かっているからだ。

男が言うほどスポーツ選手に嫉妬しないのは本能的に強いオスだと理解しているからかもしれない。

 

自分が嫉妬する対象はネット見てる時が多いかもしれない。

ちょっとした掲示板の書き込みとかSNSの幸せ自慢のような無名の個人が自分より恵まれてる時には苛まれる時がある。

昔のネットは「俺ら社会のはぐれ者の負け組だぜ」みたいな雰囲気があって自虐することが面白い時代だったことがある。

今はそういう雰囲気が無くなってきてSNSに代表されるように幸せ自慢大会になって来てる。

 

結局ネットというのは自分が自信ある話題の時だけは饒舌になるが、自分が自信の無い時は急に無口になりやすい構造になっている。

例えば収入や学歴、身長の話題になったとき自信ある人は一目散に書き込むが、自信が無い人は恥ずかしがって書かない。

昔ならばむしろ一番低い奴や駄目な奴が面白いという風潮があったけれども、今はそういうところノリツッコミする人も減りただ単に見下しあう場所になったという変化はある。

自分の弱みを話す勇気がある人が減ったとも言えるし、その弱みを話した時に面白いと言ってもらえないどころか単に見下される風潮があると誰も自虐をしなくなる。

 

その結果「日本人の平均がこんなはずないだろ」というほどいろんなものが高くなるのだが、そこには裏があり例えば収入に自信がある人も身長の話題では一切言葉を発しないという事も当然起こり得る。

全てが揃ってる人などいるはずもなく誰しも何かしらの欠点があると思えば、わりと嫉妬に苛まれすぎる必要はないなと思えてくる。

全ての要素が平均以上に揃っている人など本当にわずかしか存在しない。

一見勝っているように見える人間もどこかでは負けている。

大多数の人が自慢できる要素がある一方で見下される要素も多くある、その当たり前のことに気づけばそこまで嫉妬で忙しくなる必要もないのだ。

 

SNSというのはどうしても「大本営発表」になりがちなところがある。

まるで日本軍が負けたことは隠して戦果を誇張して勝ってるように見せかけたように、誰もが自分のアカウントでは自分の都合のいいところしか見せない。

みんな"個人の大本営発表"をしていると思えばSNS疲れなんてしなくて済むのだ。

タイムラインで見栄えのいいものしか見せない、それが幸せ自慢大会の正体である。

 

ネットの評価基準というのは極めて画一的なので別の尺度を持てば違う見方ができる。

ネットで見下される物もリアルではその基準は通用しないということが多い。

例えばイケメンの東大生だけど性格にものすごく難があって全くモテないという人と、田舎のヤンキーで若い内から結婚して今は丸くなって幸せですみたいな人とどちらが幸せなのかというと判断は難しい。

前者の人が方が自分の中だけの無駄なプライドがあって、頭良すぎるがゆえにいろいろ考え込んでしまって苛まれることもあるかもしれない。

逆に後者は普通に軽自動車で家族でイオンのフードコートや安い牛丼屋に行くだけでも凄く幸せだと思っているかもしれない。そもそも現代基準で言えば家族連れで休日は軽自動車でマクドナルド行く田舎のヤンキーは十分人生をエンジョイしている勝ち組でさえもある。

 

一番幸せになれないのは中途半端に頭が良いタイプか、頭が悪いのに頭を使おうとするタイプである。(ちなみに自分は後者)

逆に幸せになりやすいのはあまり頭を使わず単純なことに幸せを見出せるタイプだ。考えすぎない方が良いし中途半端に現実を知らない方が幸せなことは多い。東大生ですら本物の人類の天才から比べると中途半端に頭が良いだけでしかなく、頭だけでいろいろ考えすぎると嫌な現実しか答えは出てこない。

それよりは高卒でマイルドヤンキーだけど地元でめっちゃエンジョイしてますみたいな人の方がよほど幸せなのだ。

高い車を買ってネットの評価基準でどうでもいい争いして一人でドライブするしかない人と、ネットでは見下される軽自動車に乗って家族でフードコート行ってる人とどちらが幸せなのか。

そう考えるとインターネットの価値観に流されすぎない事も大事だということがわかる。車のブランドや持ってる車種で言い合いしてる人を見ると、拘り過ぎることは幸せから遠ざかる事のように見えてくる。

 

一番の対処方法はそもそもネットをチェックしすぎないことに尽きる。

自分のリアルな知り合いのフェイスブックをチェックしていちいち他人の行動を調べて苛まれてる人というのが自分は理解できない。

よくネットで幸せ自慢大会のインスタグラムやフェイスブックに疲れたという人がいるけれども、素直に辞めればいいのにと自分のような最近のネットに付いていけない人間は考えるものだ。

安藤美姫や浜崎あゆみ、辻希美のインスタやブログをチェックして粗探ししてる主婦って暇過ぎるなぁとつくづく思う。そもそも女の人は人の生活に興味を持ちすぎだろと男としては考えてしまうものだ。どこからあの原動力や執着心が沸いてくるのかは理解できない。

これも生物の本能としての話で元々原始時代の頃から男は狩りで、女は巣を守るという役割があって「生活」というものを担ってきたから生活に対する興味があるのではないかと推測している。

男性は他人の仕事に対して厳しいが女性は人の生活に厳しい、それは自分が責任と誇りを持ってやっている分野だからだろう。

 

男は良くも悪くも単純で狩りにしか興味が無い。

だからそこまで人の生活に興味関心を抱くことは無く女性特有の嫉妬については解決のしようがないというのが正直なところだ。

 

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それでいえば女性が男性以上にSNSにはまる理由は反応の得られやすさにもあるのではないだろうかと自分は考えている。

男女の違いという海外のジョークでフェイスブックアカウントでは男は一週間たっても公式からしか連絡が来ないが、女性は1週間たてばメッセージや反応に溢れているという画像だ。

男悲しすぎィ、そしてこれすげぇわかるわと思った。

あとゲーム実況の比較画像で「男はゲーム中心、女は自分の顔中心」とか歴史において男が成し遂げたことを列挙して女が成し遂げたことは「イイネ!を稼いだこと」というジョークもあったりする。どこの国でもやっぱり同じというかむしろ海外だと尚更そういう傾向はあるのかなと思う事がある。

 

そう考えるとSNS疲れすると言っている人の多くが女性なことは複数の理由がありそうだ。

女性は男性に比べて他人の生活に興味を持つ傾向がある事、そして女性のSNSは男性に比べて反応が多い事が背景に存在するのではないか。

ママ友同士でお互いの格付けがあるという話は聞くが今はそれがSNSという舞台に移っているのかもしれない。どこにいっても比較と現実が付きまとう時代に現代人は生きている。

 

「やめればいいのに」では現実で仲間外れにされるのもまた難しいところだ。

テレビで最近の若者を取り上げた番組で「タイムラインに流れてきてどうしても同性代との差を感じる」と言っていた人がいたけれども、もう今の時代身内でSNSをすることが当たり前の時代なんだなと隔世の感を感じずにはいられない。

 

やりたくないけど身内とのコミュニケーションの中でどうしても必要という事でTwitterをやる人もいる。

携帯もってなければクラスの話題に付いていけないという時代から、今やSNSをやっていないと付いていけないという時代になっている。

それが今やもう学校を卒業して社会人にあった後も付きまとうようになって来ているので「インスタ映え」なんて言葉が流行るのだ。

しかしタイムラインに流すようなのも前述のように人様に見せても恥ずかしくない"大本営発表"なわけで、それがその人の全てではない。

SNSのために生きているような人生など本当に充実しているのだろうかという疑問も必要なのではないか。

 

そしてそもそも人間関係を最低限にしていくと言うのは良い手段かもしれない。

今の時代「人間関係ダイエット」が必要なほどに様々なしがらみに支配されている。

実際ネットの関係にしろ現実の関係にしろ本当に自分のことを思ってくれてる人なんてなかなかいないわけで、登録人数だけ多くても意味ない事の方が多い。

 

しかし世の中は人間関係の充実度は数の多さのことだと思っている人が一定数存在する。

友達や知り合いの多さと、人脈の広さというのは異なる。

数が増えれば一人に懸ける時間は減る、「数」には本当に意味がないし人間関係は数値ではない。

実際自分のプライベートの連絡先で登録している人の数自体は少なくはないが実際に現役で連絡先として機能してる人は本当に少ない。いざという時に助けになってくれる人の方が大事で数値上の数の多さには本当に意味が無いなと自分は痛感している。

本当にガチで心配してくれる人というのはそう簡単に増えるものではないし、SNSのフォロワーも実質的にちゃんと見てくれてる人というのはフォロワー数の10分の1にも満たない。

 

そういうのを考えたときに「世の中自分の人生に必要ない奴の方が多くね?」という発想も大事になってくる。

タイムラインに自慢だけ流してきてイイネを推せと無言の要求をしてくる人なんて本当に必要な人なのかなと考えることも大事だ。

人間関係の基準で自分が話しかけたときにしか返してこない人というのは自分に興味が無いと思った方が良い。

逆に自分が連絡して来なくても向こうから勝手に連絡して来てくれたり、しばらく話が途絶えてても気にかけて連絡してくれる人というのは本当に自分のことを思ってくれてる。

それも無いような上辺だけの関係はそれまでという事でしかない。

社交辞令上の10人の関係よりも、しばらく音沙汰が無かった時に心配してくれる人や何気に誕生日を覚えてくれてる1人の方が100倍価値がある。

 

つい最近聞いた面白い話で言えば深夜の番組でマツコデラックスとヒャダインが「芸能界って全然連絡し合わない」という話をしていた。芸能交遊録みたいなもの意外なほど少な、連絡し合う事も無ければ実際に食事に行く事も無く、収録と家の行き来が続くらしい。

あのマツコデラックスですら大都会東京のど真ん中で、まるで会社と家を行き来するだけのような生活を送ってるのを見るとリアルで充実してる人の方が少ないんだなと思える。

「現代人ネット見てるだけ説」があってもおかしくない程に皆ネットを見ている。

まさに日本人総ネット民化現象そのものだ。

 

本当はタイムラインにのせる物が無い人の方が大半で、載せてる人も何とか絞り出して載せているか掲載するためだけにわざわざ行動している人が多い。

そのライフスタイル疲れないのかなと自分のような人間としては思うのである。

私生活全てが人から見られることや評価されることを意識したら自分ならば間違いなく疲れる。

 

毎日食事の画像をアップロードしている人は本当に凄い。

おしゃれなカフェにインスタ映えするフォトジニックな写真撮りに行く人って元気だなと心底思う。

自分など買える範囲内の安い缶詰と缶チューハイなどばかりで三日でネタが尽きるだろう。

「今日は昨日のストロングゼロと違って氷結です。最近コンビニ限定の新しい味が出ました」

そんなことしか書けない日記など自分でも楽しくない。

ツイッターでは自分の服のコーディネートをアップしてる人もいるけどあれの何が楽しいのかは謎でしかない。街で歩いて見せる物がいつの間にかツイッターに載せることがピークになっているのが現代の特徴だろう。

 

美味しいお店でご飯を食べる事や話をすることが一番の楽しみだった時代からその写真をSNSに載せる時が一番のピークになってるし、服もSNS用の写真を撮る時が一番気合が入っている時代になっている。

実際いいコーディネートをして街を歩いたからと言ってそれが良いねと褒めてくれる人はいないけどSNSだとイイネを推してくれる人がいる。それがそういう人たちの原動力になっているのではないか。

 

ただそういった行為を「ネットの反応を意識している」と考えること自体が古い考えで、そもそもこういったSNSは現実の知り合い同士でやっていることが多い。

友達同士でネットやるという感覚にどうも付いていけない古いネット民が自分である。

ネットに現実を持ち込みたくないという考えはもう古い考えなのだろうか。

 

自分のようなネットは"リアル"とは断絶されたバーチャル空間だと考えていた世代はもう古い人間でしかなく、不特定多数に見られているという意識を持たず身内だけで完結しているという人が徐々に増えつつある。

ネットに服のコーディネートをアップするのも別に匿名のネットユーザーに魅せることが目的ではなく、それをフォローしているリアルの身内に向けて発信していると考えれば納得も良く。

 

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この記事でも散々書いたけれどもつまりネットにもリアルが入ってくるようになったというのがここ数年間の変化であり、それがネットでも嫉妬するようになった原因の一つだと言える。

 

それこそ昔のネットは負け組のたまり場や社会の吹き溜まりのような場所だったところから、今はネットに現実が侵食して来るようになって一般社会の一部になってしまった。

ネットにもリアルが付きまとうようになった結果、心休まる場所がほとんどないというのはあるかもしれない。現実とは違う空間というある種の幻想が崩壊した結果、今はネットでもリアルと同じような基準が適応されるし、現実でもネットの基準が適応されるようになった。

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その結果自分が行き着いた結論は「あまりネットを見ないようにする事」というシンプルな答えだ。自分はSNSは本当に見なくなったし掲示板も本当に一部のサイトしか見ない。

ツイッターも一瞬やっていた時期があるけれども削除してすっきりしたと思っている。

 

今の時代ネット見ててもどこにも現実があって疲れるだけで普通にテレビや本を見たほうが気が休まるようになっている。

自分にとって至福の時間は深夜に海外サッカーを見ている時間だろうか。海外のスポーツを1人で深夜に見てると別世界にいるような感覚になれる。

今の時代こういう別の世界を一つ作ることが唯一気が休まる方法なのではないか。

別に海外サッカーに限らず古本や昔の映画、そして今では誰もやっていないようなゲームの過去作、そういう世界に閉じこもったほうが現実逃避はできる。

自分のような終わった人間や敗者は現実について行こうなんて考えず、1人だけの世界観に閉じこもったほうが変に苛まれずに済む。

終わった人間というのは自分を世の中からなるべく断絶された場所に置いたほうが生きやすい。

 

ただそれができないのが現代でSNSが若者の必須ツールになる時代というのは面倒だなとは思う。自分だけがクラスの中でこのネットの世界を知っているという現実逃避の場所が今では現実の延長線上に存在するものになっている時代に生きている。

 

「現実は駄目でもネットが楽しいから良いよね」という時代から、ついにはネットが現実の一部として取り込まれた。

徐々に嫉妬しなくていい場所や、競争に忙しくならなくて済むような場所というのが減少しつつある。

それはまさに都市の開発が進んで自然が消えていくというような話で、負け組や弱者というのはこの都市開発によって生息域を失い終いには絶滅危惧種になってしまうのではないか。

しかし皮肉なことに現代社会ではむしろそういった下流の人間の方が増えている。

ホタルが住めなくなった川、野鳥が住めなくなった森林のように社会から弾き出され溢れた人間という者の居場所が無くなりつつある。

10年後は「火垂るの墓」ならぬ「負け組の墓」という映画がつくられているだろう。