実はロシア人はお酒を楽しい物だとは思っていない
ロシア人といえばお酒、特にウォッカが好き、日本人にはそんなイメージがある。
酒飲みにとってはロシアは同じ仲間として憧れの国でさえある、ロシア人のように酒を人生であると胸を張って誇りたいという謎の憧れだ。
しかしそのロシアではあまりお酒という物は好意的な物とは見られておらず、堂々とお酒が好きだということ自体タブー視されている。
「お酒大好きです」
そんなことを言うロシア人はそれほど多くないとロシア人の動画投稿者が語っていたのを見たことがある。
日本ではお酒が好きなことは時として同じ酒飲み仲間からは良い趣味だと思われたりコミュニケーションが弾んだりする楽しい物だというイメージがあり居酒屋も非常に多い。
その一方ではアルコール大国として知られるロシアは厳格に酒類に対して厳しく、お酒に寛容なのは実はアジアなのである。
ロシアでは夜間での酒類の販売は禁止されており、テレビでも酒類のCMは禁止している。
前述のロシア人ユーチューバー曰く「女性が楽しそうにお酒を飲むCMは違和感しかない」らしい。
本場のロシアや東欧ではお酒が本当に深刻な問題になっており、政府が真剣に対策に乗り出すほど重大な社会問題と化している。
アジアの人々はまだお酒を飲んでも秩序を維持できている方であり「お酒は楽しいもの、かっこいいもの」と言っていられるのもまだ余裕がある証だ。
しかしロシアではそんなことを大っぴらに言えないほど深刻な問題が存在している。
日本でお酒を飲まなければ「ノリの悪いかっこ悪い人」という扱いをされむしろお酒の強さを自慢し合う傾向にあるが、実は本当にお酒に強くアルコール依存症の人々が多いロシアではそういった発言はタブー視されている。ロシア人といえばお酒が好きだ楽しげに語ったり、そういったイメージで見ることは喜ばしくない人々も実は多い。
例えば日本で「俺はタバコに強い」「私はタバコ大好き」といえば少し引かれるだろう。いわばロシアではお酒はタバコ並にシリアスな問題とされており女性がお酒好きなどといえば、それは日本で「私タバコ大好きなの」と口にする事ぐらいドン引きされる。
日本はまだ女性がお酒が好きだとカジュアルに語れるレベルにあるという事でもある。
ブラジルにもサッカーが嫌いな人がいるように、ロシアにもお酒が嫌いな人がいる。
お酒を飲む人は陽気で楽しい人、そう思っていられる国はまだ幸せなのかもしれない。ロシアのようにアルコールに強く、重度の依存症患者がいる国では家庭内暴力に発展することも稀ではない。
ウクライナのお婆ちゃんが「若いころには夫にお酒を飲むためにお金を取られたけど、もうその人はいないから幸せ」と語る姿を見たことがあるが、お酒に絡む問題は日本とは桁違いに多いのが東欧やロシアだ。
南米のサッカーでは日本では考えられないような暴動や騒動が起きるが、それだけサッカーが根付いているから起きる事でもある。ロシアや東欧におけるお酒の問題もこの構造と似ていて、日本では考えられないほどにお酒やサッカーが単なる楽しみや娯楽の上限を超えてしまっている国も存在する。
またロシアでは近年、若者のウォッカ離れが進んでおり欧州産のワインが普及し始めているようである。
「命の水」とも表現されるロシアの魂ウォッカも時代と共に役割が変わっていくのだろう。ロシアという国は必ずしも幸福な時代ばかりではなく、長い苦難を味わってきた国でもある。そういう苦しい時代における心の拠り所としてお酒を飲むという行為が発展してきた背景がある。
ビールは本当にジュース感覚、ウォッカを梅酒という"シロップ"で割る、自家製酒は合法、時として酒用に製造されていない工業製品もアルコール摂取のために使うのがロシアだ。
有名なベレンコ中尉のMIG25亡命事件を扱ったドキュメントにおいても当時の腐敗したソ連の様子が描かれており、機械を清掃するためのアルコールを横流ししそれを軍人が飲んでいる有様だったと伝えられている。
第二次世界大戦中にも食用品のじゃがいもを勝手に蒸留してお酒に変えたり、これまた戦車の整備に使うアルコールを飲料用に使用したりというような仰天エピソードも多い。
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正直に言えばロシアは娯楽があまり多い国ではないだろう。
日本も戦後直後は「カストリ酒」という密造酒が流行ったほど荒んでいたが、時代が発展するにつれて最近ではお酒が飲めない人も増えている。多くに国で娯楽が多様化したり裕福になれば酒への依存度は低くなる傾向にある。
しかしロシアでは暴力、酒、そういった即自的な物が日々の娯楽に直結している。
個人的にはお酒がなによりもの娯楽だという感覚は理解できる。世の中の楽しみは誰の手にも入るものではなく、お酒しか楽しみが無いというのは自分のような負け組の人間には理解しやすい。
楽しいことが少ないがゆえにお酒が唯一の楽しみになるという現象が国単位で起きてしまい、それが重大な社会問題にまで発展しているのがロシアだ。
そういった家庭内暴力などを目の当たりにしているロシア人女性やスラブ文化圏の女性は結婚相手に「お酒を飲まない人」という条件を上げることが多い。例えば一昔前に美人過ぎるバレー選手として話題になったサビーナ・アルシンベコバも理想の男性の条件にお酒を飲まないことを上げていた。
こういうところにロシアやソ連圏の闇の深さが現れているのだろう。
これは日本で「タバコを吸わない人」という条件を結婚相手に求める女性が多い事と似ている。例えば日本のアイドルや女優に対する恋人の条件という質問では結構そういった答えを上げる人は多いが、「お酒を飲まない人」と答える人はほとんど見かけたことがない。
しかしロシアではそういう女性が日本よりも圧倒的に多く、お酒についてロシア人と話すときは典型的なイメージで語る事は避けたほうが良いとされている。
本人は楽しいが周りは迷惑であり体には有害、ロシアにおいてのお酒は日本におけるタバコのような存在として扱われているということを踏まえる必要があるだろう。
お酒を日本人の何倍も飲む文化がある、それゆえに同時にお酒に起因する問題も倍増するというのがロシアにおけるお酒事情なのである。
アル中日記:お酒の飲みすぎで胃がヒリヒリしてきたの巻
お酒をいつもより多く飲んだ日の後はその無理が体調に現れる。
ここ最近お酒の"連戦"が続いていたため内臓が疲弊して来て、胃やがヒリヒリしたり食堂の通る胸に痛みが生じたりしている。
これは典型的な胃酸過多や逆流性食道炎の症状で酒飲みならいずれこの症状の正体を調べる日がやって来る。
謎の痛みも正体がわかれば少しは安心できるのだが、実際にはこういった症状など知らない人生の方が良いだろう。
胃酸過多というのは胃がヒリヒリする症状として現れる上に通常の腹痛に比べて長く続く。
そのため昨晩は中々寝付けず、今日も夕方まではこの感覚があった。
自分はこういう時あまり「痛い」と思わないようにしている。
病は気からという言葉があるが、「痛い」と思ってしまうとますます症状が悪化してしまうことになり精神的にもキツくなってしまう。
自分の場合は「ヒリヒリ君とチクチク君がいるな」と思うようにしていて友達感覚で接している。お酒好きならこういう日もあるよと、そう言い聞かせてネガティブに考えすぎないことが大事だ。
詳しい医学的な説明は避けるが、とにかくお酒を飲みすぎると胃酸のバランスが悪くなり増えすぎてしまうことでこういった胃のヒリヒリやズキズキ感が生じてしまうらしい。
アルコールの粒子は非常に小さいらしく胃の粘膜すら貫通してしまいそこに胃酸がダメージを与えることになる。
簡単に言えば胃の内部がただれているイメージに近い。
まさに感覚としては肌を怪我したときに痛いのと同じで胃も傷つけば痛くなってしまうのだ。
胃という内臓には強力な酸があるというのは有名な話で誰でも知っている。
胃自体がその強力な胃酸に傷つかないのは胃の粘膜があるからなのだが、アルコールはとにかく成分が小さいためその胃粘膜を通り過ぎて胃を荒らしてしまうことになる。
そしてその胃酸が逆流していけばついには食道も荒れてしまうことになり、これが逆流性食道炎という状態だ。強力な胃酸に対する粘膜の無い食道は傷つきやすく、これが胸焼けや胸の痛みの正体ということになる。
お酒を飲んでいるとどうしてもこういう知識をつけなければならないのだが、とにかく簡単な認識としては要するにお酒は体に良くないという事だ。それに加えて脳や肝臓にもダメージがあるのだから本当は飲まないに越したことは無い。
もちろん普通に飲んでいればここまでの状態にはならないのだが無理して連続で毎日飲むとこういうことになる。
そんなアルコールの過剰摂取によって生じた胃痛や胸焼けがやっとのことで少し楽になって来たのでしばらく体を回復させるために禁酒しようと思っている。
なぜ自分がこういうことになったのかというプロセスをここで整理してみたい。
1日目:普段より調子に乗って行けるところまで飲みすぎる。(この状態を終わらせたくないという心理もある。)
2日目:二日酔いになり、頭もどんよりしていて飲む気にならないのでその日は控える。
3日目:ここで1日目に飲んだ酒のダメージがヒリヒリ感として現れ始めるものの、頭からアルコールは抜けているので飲みたくなる。更にこの痛みを紛らわすたいという心理も働き結局飲む。一時的には楽になる物の胃痛が悪化して終了。
この3日目の行動が一番駄目なことで、これはただでさえ弱っている傷に塩を塗るようなものである。
体の怪我も治りかけているときに少しでも早く動かそうとするとまた悪化してしまうように、胃も本来は十分な回復期間を設ける必要がある。
以前こうなったときに自分は2日で大丈夫だと判断し完全回復させないままそこからアルコール摂取生活を再開した。
というよりも胃が不快感を表すまで飲み続けたり、症状が現れた時ほどそれをお酒で紛らわして強引に突破したりして本当にキツくなるまで飲んではすぐに再開するというループが続いている。
こういう時に打ち出すべき対策は基本的に3つ存在する。
1:十分な回復期間を取る。
2:次は飲みすぎない。
3:定期的に飲まない日を作る。
「そもそも飲まない」という対策は不可能なので、最低限この規則だけを守ると今度こそ自分に厳命したい。
出来れば1週間は休ませたいが3日でも上出来としたい。
そしてなるべく1回、1日当たりの負担を減らす。
最後にせめて1週間に2日ほどは飲まない日を作る習慣を心掛ける。
まず今日に関してはさすがに飲まないし、飲んでもいない。
テレビに録画してある番組の消費と読書を交互に行い集中してストイックに過ごすことができた。
アル中基準ではお酒を飲まずに読書をすることはストイックな事なのである。
これを明日もできるかどうかに尽きる。
とにかくこういう時に大事なのは今の飲んでいない時の普通の状態がどれだけ幸せであるかを認識することだ。
二日酔いの頭痛、その後に訪れる胃痛、2種類の苦しみを経験して改めて普通であることの幸せという物を痛感した。完全なる余計な苦労であり時間の無駄にもほどがある。
正しく適切に飲めばお酒はもちろん楽しく、普段にはないパワーや発想も生まれてくる効果がある。それは自分の人生において必要な物だ。
ただ限度を超えてしまうことが自分の中ではまだ課題となっている。
かつては普通にできたこともお酒なしではできなくなってしまうならば、これはメンタルの問題としか言いようがない。
メンタルを強く持って意識をしっかりと持つ、しっかりと更生して元に戻ることが大事だ。やり直せないと考えて酒に逃げるばかりではなく、できることを少しでもいいから始める。
少なくとも飲む量や日を減らすと言うだけでも自分の中では凄い偉業だと言い聞かせて頑張る、そういう一歩から始めるしかない。
それがマイナスもマイナスの場所からのステップでしかないけども自分にとっては大きな一歩なのだから。
アル中日記 今日は二日酔いとの戦いだった
土曜日だからと言って特に特別な事も無く、今日はただ二日酔いを醒ますだけで1日が終わった。
夕方になってもまだアセトアルデヒドと化したアルコールが残っている感覚があるので今日はもう飲まないようにしたい。さすがに昨日飲みすぎたこともありもうそんな気分でもないのだがこういう時に限って結局また呑んでしまう事は多い。
とにかく昨晩はかなりの量を飲んだ。
最近飲める量が体感として減っていることに加え、飲んでも楽しく酔えないことも増えてきている。
日や飲む状況、環境によってコンディションが違っていてわざわざお酒を飲んでも楽しかったのは本当の一瞬だけだったり、逆に昨日のようにいつまでも飲み続けられたりする。
こんなに飲めたこと、そして夜中に目が覚めることなく快眠できたのは久しぶりだった。飲みすぎた上に夜中に目が覚めると正真正銘の地獄だ。
昨晩はとにかくほとんどの時間、動画を見て過ごしこれ以上飲めないと言うところで寝た。家で1人で飲むことの利点は自分のペースで飲めることに加え気分が悪くなればすぐ寝る場所がある事に尽きる。
帰宅手段に気を使うことなくだらだら自分のペースで動画を見ながら飲めなくなるまで飲むというのを自分はよく繰り返している。それゆえに飲みすぎて二日酔いになってしまうのだろう。
ただその翌日、つまり今日は1日中陰鬱で仕方なかった。
昨晩楽しかった時ほど翌日は現実や気分の悪さが押し寄せてきて何をやっていたのだろうかと後悔する。ようやく歩けるようになってから風で頭を冷やすため外を散歩しても、この季節特有の冬が押し寄せる感覚が寂寥感を強くする。
この秋が終わる季節はひたすら孤独感だけが押し寄せてくる、二日酔いでただでさえ憂鬱な時にこの感覚に支配されるとこの世の中から消えたくなってしまう。
冬のイベントが楽しみな人ならば徐々に寒くなるこの感覚は心地よいのかもしれないが、今の自分にとってはただ哀れで惨めな思いが強くなるだけでしかない。人間関係の孤独とふところ事情の寂しさがより一層この季節の寒さによって強く感じられるようになる。
憂鬱で陰鬱な感情、充実感の無さ、世の中に居場所が無いという感覚、将来への不安、自己嫌悪、そういったあらゆる負の感情や現実ばかりが二日酔いの中で自分を攻撃してくる。
それにしてもお酒を飲むことは実に馬鹿げたことだ。
トータルで見れば楽しい時間などわずかな物でしかなく、仮に楽しく過ごせたとしても飲んだ量によってはその倍以上の時間を苦しく過ごさなければならない。
そんなことをわかっておきながらもまた飲んでしまうのだから救いようがないと自分でも思う。
飲めば身体的につらくなるが飲まなければ精神的につらい、どっちに転んでも不幸な結果しか待っていない。何をやっているんだろうなぁ、そんな感覚だ。
そういえば去年の冬も似た様な事を考えていた。
あれからもう1年になってしまうのか。今年の夏の時も、あの夏から1年が経ってしまったのかと思っていたが今年の冬はより一層そんな感情が強い。
この1年本当に何も変わらなかった。相変らず底辺を抜け出せず、人生も上向きに変わっていくことは無くむしろより現実は厳しくなる。年々諦める物、失うものが増えてきていることが続いている。
こんなにつまらない冬をまた迎えることになるとは思ってもいなかったし、同じような1年どころかもっと駄目な1年を過ごすことになるとは考えてもいなかった。
さすがにこの1年で状況は変わるだろうと、変えられるだろうと信じていたがただ自分の無能さを再確認するだけで終わろうとしている。もう数年こんな調子だ、去年もそうだったというデジャブでしかない。
完全に負け組のルートに突入してしまいもはや人生を変えようという気力すら失ってしまった。
どうせ何も変わらない、何もおこらない、楽しい事なんてない、どうせやっても無駄、結局これも最後は駄目になる、そんな事ばかりだということが当たり前になってしまっている。
思い描いていた人生とは違う現実が嫌になる。
懸命に這い上がろうとしていたのが2年ほど前ならば、もう今はどうせ頑張っても無駄という感覚がとうとう自分の中で支配的な感情になっている。初めから諦めることが圧倒的に増えた。
そんな現実から逃れるために酒を飲んでいるが、逆に言えば酒におぼれているから何も良いことが起きず更に現実が嫌になるという悪循環に陥っている。
二日酔いの時はこんなネガティブな事ばかり考えてしまう。
これが自分の現実、そんな人間でしかないのだ。
酒に酔い終わって気分が悪い時に楽しいことを考える事は難しい、そんなときは弱い本当の自分が出てくる。
一昔前はこういう時妄想に逃げていた。
活躍している自分を作って脳内で理想世界を思い描き、それが本当の自分だと考えていた。脳内だからすべてが自由だ、チート級に活躍し世の中から認められている姿を思い描いていた。そっちのほうが本当の自分で今の現実は全部嘘なんだと言い聞かせるような妄想をしていた。
最近ではそんなこともあまりしなくなり来世や天国を信じ始めている。
気にするな、ただ現世がちょっと駄目だっただけなんだと思いながら今の人生についてあまり考えすぎないようにしている。来世や天国が無いのは分かり切っているけど今の人生についてあまり重大に考えすぎる必要もないという感覚になれる。
「人生は一度きり、後悔しないように生きるべき」という強迫観念が今まで強すぎたのかもしれない。誰もが理想的な人生をおくれるようにはできていないのだ。
だからこうしてうまく行かなくなったとき必要以上に苛まれていた。
人生なんて完璧に生きる必要もなければ、そんなに大事な物でもないのだ。
もしかしたら来世があって、天国だってあるかもしれない。もうそれだけが拠り所で、多分昔の人は「よみがえり」や「生まれ変わり」を信じられていたから辛い時代でも頑張れたのかもしれない。
今はそういうことが無いとほぼ科学的に分かり切っているがゆえに現世へのこだわりが強くなりすぎているのではないか。
来世や天国ではもっと恵まれた人間として生まれてもっと認められるし活躍できるかもしれない。そんな非現実的な事を最近では考えている。
貧困も不平等も孤独もそこにはない、主人公にだってなれるし必要な物は揃う。
今はちょっとただ運が悪かっただけなんだ、少しの期間悪い夢を見ているだけなんだ、現世が駄目だったからと言って悩みすぎる必要もないんだ。
ちょっと今の時代がいろいろ合ってなかっただけ、駄目なことが偶然重なっただけ、仕方ない。次の人生はチャンスがある、現世ではたまたま楽しくな人生になってしまっただけだ。
実際にはないんだろうけど、まぁなくても良い。ただ今の現実についてこれ以上もう考えたくないのだ。
つらつらとこんなことを考えていたら気付かないうちに二日酔いもほぼ完全に楽になっていた。さてゲームでもするか。
おそ松さん、案の定オワコンになっていた模様
もはや最近オワコンになったことすら気づかないコンテンツが増えている。
気付けばブームになっており、あっという間に消えている。
『おそ松さん』もそのような昨今の典型的消費型コンテンツの一つになってしまったようである。
既に2期が始まっているものの「つまらない」 と腐女子や女性ファンから見放され、2期までの期間が長すぎたことで多くのファンが離脱した格好だ。
この構図は完全にけものフレンズのパターンに当てはまっているかもしれない。おそ松さんは「けもフレ」より一足先にオワコンになり、2期が話題にならないという点ではけもフレが再びそのパターンを踏襲することになるのではないか。
ちょっと変わったアニメを応援するという意味でも、"男版けもフレ"がおそ松さんだと言える。おそ松さんもブームの本質は声優であり、けものフレンズも「どうぶつビスケッツ」が流行したことを考えればやはり共通点は多い。今のアニメやゲームは声優のブームが無ければ成り立たない時代になっている。
それにしても少し前の「おそ松」ブームは凄かっただけに既にオワコンになってしまったことは衝撃だ。腐女子や女性ファンは男性ファンよりも一つのコンテンツを長く推す印象があったが、それはあまり変わらないようである。
腐女子や女性ファンまでも、嫁や推し声優をすぐ変える男性アニメファンのようになって来ているのではないか。
正直なところ自分はおそ松腐女子は典型的なファッション腐女子でしかなかったと思っている。「腐女子である自分が好き」「腐女子やってる私可愛い」そんなファンが多かった。昨今の男性声優ファンも同じで、かつて濃い人が多かったジャンルがにわか化してきている現象は多い。
逆に今日日ジャニオタのほうがよほど一つのグループやメンバーを推し続ける濃い人が多くなっているという逆転現象が起きている。
おそ松さんがオワコンになった理由として2期までの1年半がブランクになり、その期間に登場した刀剣乱舞などの新たなコンテンツにファン層を奪われたことが上げられている。
コンテンツの入れ替わりが昔に比べて激しく、一度勢いを失ったら取り戻すことが難しい時代になっているのかもしれない。けものフレンズははたして2期で挽回できるだろうか。アニメで2期が成功したパターンはほとんど存在せず、むしろ勢いが失われたことが露骨になってしまう事の方が多い。
おそ松腐女子の「ファッション腐女子」感は今思っても「猫が好きな私好き」みたいな感覚に近く、おそ松腐女子だと名乗ることが目的になっていた印象が否めない。
それで言えば「日本刀鑑賞しにいってます」みたいな刀剣乱舞ファンもちょっと前のおそ松ファンと同じ雰囲気を感じずにはいられない。日本刀カフェのようなものがあるらしく日本刀を見ながら刀剣乱舞の話をすることがブームになっているらしい。
ただ実際はそれもファッションの一環でしかないのだ。
女性オタクはもっと濃いイメージがあったけれども、急速にファッション腐女子が増えたという印象を感じる。
昔の腐女子:すげぇヤバイ奴ら
今の腐女子:ただ単なる流行追いかけてるだけの女子
もちろんすべての女性アニメファンを批判するつもりはなく、今もなお妄想力の高くリスペクトに値する濃いファンは存在する。
良くも悪くもアニメや声優というコンテンツが普及して環境が整ったがゆえに浅いファンも増えやすくなったことは男性オタク業界と共通している。むしろ男性向けアニメで起きたことが、数年遅れで腐女子向けアニメにも起きているのではないだろうか。
女性キャラばかりが出てくる萌えアニメが増えて日常アニメの時代になったように、今とりあえず人気男性声優を使って腐女子ファンを釣るアニメが増えている。
そして男性のアニメファンに起きた変化もこれまた女性アニメファンが数年遅れでたどっている。ソシャゲのキャラクターがブームになることが数年遅れで女性ファンの文化になっていることを見ればこの現象は一定の法則がありそうだ。
男オタクでもオタク仲間から凄いと言われることが目的の人が増えていて、腐女子と言われることが目的の女性ファンと同様のことが起きている。
それで言えば「進撃の巨人」に湧いていた腐女子も消えたが彼女らはどこへ行ったのだろうか。
進撃の巨人で問題になったのがその時の勢いで受注生産フィギュアを注文する物の、完成したときには作品に飽きていてキャンセルするという現象が相次いだという事だ。
結局そういうファンが増えてるというのが実態なのだろう。
そのコンテンツが普及すればファンの民度は下がってしまう事はどのコンテンツにも共通している現象だ。
刀剣乱舞を見て日本刀にはまっている振りをしている女性ファンも、数年後は日本刀などどうでもよくなっているに違いない。
勢いで買った楽器を今押入れに閉まっているかつてのけいおん!ファンと何も変わらないだろう。
ジャニオタにとって応援しているメンバーを変えることは外部からは想像も付かない程重大な出来事だが、腐女子にとって応援しているアニメを変えることは非常にカジュアルなことになっている。まるで一昔前のシーズンごとにすぐ嫁を変えるアニオタのように今の腐女子はコロコロとブームを変えていく。
これもまたインターネットがコンテンツの消耗スピードを加速させた現象の一つで、強い固定ファンが付かない浅いコンテンツはすぐ終焉する運命にある。
今のところ男性声優は未だにあの人が活躍しているのかというぐらい入れ替わっていないが、そのうち女性声優のように数年で入れ替わる時代になるかもしれない。
昔は1人の声優や一つの作品、一つのキャラクターを熱心に応援し続ける濃い女性ファンが多かったが、最近は流行重視のファンが主流になって来ている。逆にジャニーズのようなジャンルのほうがそういった強い固定ファンが多く基盤が強固になっているのも興味深い。
腐女子と呼ばれることが目的化し、SNSで盛り上がるためのツールにBLや男性声優が変化しつつある。
おそ松さんのブーム終焉はそういった女性アニメファンや腐女子のファン層やファン文化の変化を象徴する現象だ見ることができるのではないだろうか。
これ以上絵で夢を追い続けるべきなのかという問い
今の自分に非常に重くのしかかっている問題がある、それはこれからも絵やデザインを続けていくべきなのかということだ。
夢と現実というテーマで見るならばまさに今の自分には現実が突きつけられている。
至極単純に言えばこれ以上絵やイラストを描き続けても明るい将来は見えてこないからきっぱり辞めたほうがいいのではないか、そう考えることが最近増えている。
多くの人に夢を諦めるタイミングというのは訪れる、そして挫折を経験する。
自分の場合既に挫折の真っただ中で、既に人生の希望を見失っている。文字通りの負け組だ。
特に絵やイラストの世界で負けたという実感は強い。
しばらく1年近くほとんど絵を描くこと自体辞めていてここ最近再開したものの、やはり現実は厳しいと改めて思い知らされた。
もうこれ以上細々と続けても光は見えてこないのではないかと疑い始めている自分がいる。
正直に言えば絵が上手い人はいくらでもいて、人気になる人や物は決まっているわけですよ。
特に自分がメインに活動しているピクシブは公式の補完という側面が強く、そして上手い人にしか人権が無い。
黎明期の自由な雰囲気というよりもプロレベルの人がやる場所になり、人気になる人は決まっていて後は成人向けイラストが見られやすいという構図がある。
自分はピクシブを初めてもうすでに3年、始めた当初はペンタブを使い始めたばかりで酷かったが情熱はあった。それが今では大体自分の実力や立ち位置をわかってきて、これが現実かと気づいている。
高校で言えば入学当初は希望に満ち溢れていたのに、高3の頃には早く卒業式終わらねぇかな・・・と惰性で通い続けるようなものだ。
学校が楽しければ名残惜しいがそうでなければ情熱は持てない。
それと同じでピクシブもいろんな人から認められて楽しく和気あいあいと活動できていれば、自分は必要とされているという実感や充実感を得られて毎日が楽しくて仕方ないだろう。始めたころはまだ自分の立ち位置も分からず夢を信じられて楽しかったけどもそれなりに、最近ではツッコミのないボケを延々と繰り返しているような感覚に襲われる時がある。
実際見ても分かるように自分のアカウントなど3年やってあのざまでしかない。
途中1年間休止していた時期はあるものの数年やっても閲覧数はしょぼくランキングに入ったことも当然無く、面白い反応も毎日のようにあるわけではなく、最近ではイメレス(イメージレスポンス)も皆無になった。
こうやって裏で「イラスト描いてる人は性格が悪い」「ネットの人間関係は儚い、社交辞令ばかり」と書いてるのを見られたのかもしれないし、とにかくいろんな人から見放されて一人になった。
何言うてんねんと思われるかもしれないけど、正直自分はもっとできると思ってたし有名になって世に出ていく存在で才能があると信じていた。
例えば自分が書いてるオリジナルロボット、オリジナルガンダム系列のデザインも評価されて今頃スーパーのおもちゃコーナーに行けば自分がデザインしたガンプラやロボットのプラモデルが並んでると思っていた時期があった。
ガンダムやロボットの時代じゃなくなってきたというのもあるけれど、もうメカデザインしてもだいたい結果は予想付くという感覚がある。
自分がオリジナルガンダムを作ろうと思ったのはまだ機動戦士ガンダム00が放送してた頃で、その頃はガンダムがここまで衰退するとは予想していなかったし自分も伸びていくという感覚があった。10代という事もあって根拠のない自信や充実感があった。
今はもう現実に気付き始めて生活のことが心配で酒におぼれて現実逃避しかしなくなって、人生を冷笑している。
本当は今頃スターになって華やかな生活をしていたはずなのにという虚しさもある。もっといろんな人に認められて必要とされている実感を得ながら充実した活動をしているはずだった。
人生の描いた夢や計画に全くといいほど追いついていないどころか、最低な状況に落ちぶれている。借金関連のヤバそうな書類も来てもう死にたいけど死にきれないみたいな感覚にもなっている。お金が無いという現実、夢もないという現実、そればかりが毎日重くのしかかる。
イラストやデザイン、小説、文章に人生をかけてたけどそれが上手く行かなくて、夢を壮大に見過ぎていたがゆえに今の現実が受け入れられないという状況に陥っている。
「俺の人生こんなもんか」と才能が無いことを自覚しつつ、世の中上手い人がいくらでもいるという現実を知る。
人生挫折してからが勝負、才能が無いと自覚してからが本番ではある。
ただそこからもう一度頑張れば頑張るほどにむしろ現実はより鮮明になっていく。
今思えば馬鹿みたいなものだけど才能があると信じてたし世に出ていくと信じてた。
右肩上がりでどんどん自分の実力も世の中からの評価も伸びていくという幻想を夢を追う者なら一度は持つだろう。高校に入学したての頃は青春を過ごせて、良い大学や就職先に行けるという希望に満ちている。
しかしそれは儚くも散りゆく幻想でしかないと3年間過ごす頃には気付くことになる。
そんな惨めな敗戦から今度こそはと信じた夢だった。
憧れの大学には受からなかったけどそれ以外で夢をかなえる、そんなモチベーションを高校卒業後は抱いていた。
その末路が今の悲惨な自分だとは思いもしていなかった。結局また同じように自分は主人公にはなれなかったのだ。
まだ絵を描きたいという思いはあるがどうしても人間というのは慣れると計算してしまう。
「この絵描いてもいつのも感じだろうな」と大体の結果として閲覧数は予想できるし、面白い反応も特にないだろうなというネガティブは方向から入ってしまう。
爆発的にヒットするようなものは自分の能力では描けない、人気になる人やジャンルは決まってると何度も描いていくうちに諦めから入るようになっていく。
SNS受けしやすい人気アニメの二次創作的な漫画でも描けば少しぐらいは反応もあって充実感も得られるのだろうか。
昔ポケモンのイラストを描いていた頃はまだ今よりも閲覧数はあったし、当時より今ならもっと上手くは描ける自信がある。
オリジナルメガシンカやメガシンカ予想というものを描いていたこともあった。
ガンダムやロボットよりはポケモンの方がピクシブでは需要がある上に、当時の自分はポケモン熱があった。
ただ今ではもうメガシンカ自体が実質お蔵入りのような状態で新しく発表されることも無く、今更ポケモン熱失った状態でまたメガシンカの絵を描いても時代遅れな感はある。当時はORAS発売前で新作に対する希望もあったのは大きい。サンムーンになってからポケモンについていけなくなった人間が今更ポケモンの絵を描いても情熱は無いだろう。
それで言えばもうオリジナルガンダム自体も需要は無いという事は自分自身ひしひしと感じてもいる。
ロボット系のイラストはプロレベルに上手い人でもそこまで閲覧数が多くない。自分は今もメカのイラストを描きたいという思いはある物の、やりたいことと世の中の風潮が合致しないという現実はある。
とにかく現実が重くのしかかる。
生活の事を気にせず時間を使えて絵を描けた時期はとうに終わってしまった。
創作で通用しない事、お金が無い事、この2つが重い石のように自分を支配している。
好きなだけでは続けられず、どうしても現実的な収益が必要になる。
DL販売等で収益が得られればいくらでも描いていたいし、一応これからピクシブのBOOTHで販売しようかなという計画はある。壮大な夢は叶えられなくても最低限の生活費が文章とイラストだけでまかなえれば、それは幸せだと思う。
描きたいアイデアはいくらでもあるし1万人に見られる絵や文章よりも、10人がお金を出してくれるイラストやテキストの方が現実にはありがたい。
日給2000円の生活でも好きな絵と文章だけで生活していければ、自分はそれで幸せなのだ。
ただNOTEのほうで既に販売してる有料記事も現実は厳しくほとんど売れず、末端の個人がしょぼいイラスト販売したところで買ってくれる人はいないという予想もつく。
正直ネットで活動を始めたときは、いつか自分の才能を信じてくれて支援してくれたり見出してくれる人が現れてくれるんじゃないかという希望的観測もあった。
しかし現実には年金と借金の督促状が山積みにされる生活にしかならなかった。
いっそのこともうきっぱり絵の世界からは引退して、全く別の世界に飛び込んだほうがよほど幸せなんじゃないかなという思いも最近は大きくなっている。
このまま続けても陽の目を浴びることは無いんだろうなということは気づかないふりをしておきながらも気づいてしまう。
絵の世界は厳しい、本当に自分より上手い人はいくらでもいる。
ゲームのレーティングやランキングで自分の実力を悟るように、自分の現時点の実力とこれからの伸びしろを考えるとそこには現実だけがある。
ただ唯一希望があるとするならばスポーツと違って絵や小説、創作の世界は年齢が関係ないという事。アスリートのように肉体的な衰えは関係なく、下り坂に入る30代が芸術の世界ではまだヒヨッ子のような世界だ。
むしろ世の芸術家を見ていると晩年の方が名作を作っていることが多い。
また生前は評価されなかった画家というのも個人的には憧れがある。
生きてるうちは貧乏画家のように評価されなくてもまだ何かを残していこうかなという思いもあるし、まだ年齢的に諦めるのは早すぎるという思いも無いわけではない。
時代が変わるかもしれないし何か奇跡が起きるかもしれない。
自分が尊敬する本田圭佑はCSKAモスクワ時代にこう言っていた。
「まだ信じてますね、ビッグクラブに行けると」
ロシアリーグ時代、悲壮感が漂う雰囲気の中でファンすら諦めかけているときに本田はそうインタビューに答えていた。そしてその後実際にACミランへの移籍を果たすことになる。
しかもそれは膝に大けがを負いかつてのプレースタイルが続けられなくなった時期の発言で、常人なら心が折れてもおかしくないような過酷な状況での発言だ。
「心が折れたことは無い」とも本田圭佑は発言している。
じゅんいちダビッドソンの「伸びしろですねぇ!」ではないけども、まだ自分のどこかに伸びしろが残されているんじゃないかという思いもある。
どうジャンプしても届かない、数年前に思い描いていた計画ではこんな生活してなかったし普通に自分の作品がアニメ化されたり自分のデザインが何らかの商品になってると信じていた。
それがまさか田舎に出戻って年金と借金を無視し続けて、安酒に溺れる底辺生活に落ちぶれるとは思ってなかった。
それでもどこかで人生が変わるんじゃないかなとまだ少しだけ信じてる自分がいる。
いつか世に出ていく存在なんじゃないか、花が開くんじゃないか、大丈夫大丈夫と呪文のように言い聞かせているときがある。
ただその手段がこれからもこうして絵や文章を書き続ける事なのかはわからない。
実際大体の限度は見えてきていて始めた当初のような根拠のない希望や情熱は無い。自分でも実力の限界はある程度分かってしまっている。
分からなかったから根拠のない自信を持てたし、今頃凄い絵が描けるようになっているとも思ってた。現実にはほとんど成長せずに数年間を過ごしただけだった。
かと言って他に何かができるわけでもない、こういう時エミネムのLose yourselfを聞きたくなる。
「俺は普通の生き方はできない、ラップ以外で生きていけねぇんだ」
大体そんな内容だ、貧困の中でギリギリの状況で夢を追い求めていく世界観が歌われている。
まだ自分が一切ネットに何も投稿していなかったころ、1人部屋の中で大学ノートにアナログでイラストを描いていた。
厨二病ノートのようなものにオリジナルでいろんなデザインをしていて、これをデジタルで書けるようになって色を付けられればものすごく良いものになって世の出ていくんじゃないかなと信じていたことがある。
「これは凄いぞ、こんなことやってる人は他にはいない、世の中を変えられる」
現実を知らないがゆえに壮大な夢を見れた、自分の中だけの世界観で自分を信じられた。
高校卒業後と言えばまだ10代で希望に満ちていたし時間も貯金もあった。
初めての一人暮らし、部屋の中で没頭したように絵をノートに描き無限の世界を妄想していた。街に深夜で歩いても創作のアイデアを練りながら歩いていた、知らない街でどこまでも遠くに行けるような気がした。
気付けば朝まで歩いていて、初めて訪れる街の景色が見たことも無く綺麗だった。
しかしその街を知ることになっていくと自分の立ち位置も分かるようになる、遠くまで行けるという新鮮な感覚は無くなっていく。
自分にとってインターネットというのはまさにそのような場所だったのかもしれない。
都会には何もない、多くの物があるようで何もないのだ。
なぜならばそこには手が届かず手が届く人はもう決まっているからだ。
自分にとって手が届かないものは存在していないものと同義で、最初は手を伸ばそうとしてもいつしか手が届かない事を悟るようになる。手が届くまで伸ばし続けようとしてもその内体力が無くなっていく。ネットもまたそのような場所だ、所詮自分は末端のアウトサイダーでしかない。
ただ、そこに気付いてからが勝負でもある。
物心ついてる時からわかってることだけども自分はすぐに人気者になれるタイプでもなければ可愛がられやすいタイプでもない、認められて褒められやすいタイプは決まってるし要するに主人公タイプではない。
岡崎慎司「どのチームでも一番目立つ奴がいる、俺はそうじゃない」と言っていたけども、そういう感覚は凄くわかる。
レスターが降格圏寸前の不振に陥ってた時「このチームどうでもいいわ、と思ってた時期があった」と語っていてあの笑顔の岡崎ですらそう思う事があるんだなと感じた。
人生不貞腐れる時期があっても自分は良いと思う。
人生、順調に行く事の方が稀でトラブル続きなのは当たり前。
今が自分の中で一番不貞腐れて人生どうでもええわと思ってる時期かもしれない。ただここを乗り越えた先に何かがあるんじゃないかなという微かな希望もある。
分かりやすい希望があるわけではないし、具体的な解決策は全くと言っていいほどない。夢自体が揺らぐしもうそういうのすらどうでもいいや、という思いも酔いが終わって苦しい時間帯の時は考えてしまう。
上手く行ってることが一つも無く、深刻な課題ばかりが山積してる時に人間何を思えるかという自問自答の日々が続く。
人生プランの根本が間違っていたことは事実だ、とにかく戦争すれば勝てるという見切り発車で1939年にポーランドに侵攻したり1941年に真珠湾を攻撃したようなものだったと今では反省している。勝てる見込みがないことを始めてしまった。
今の自分はまさに1945年当時にいるようなものだろう。
まさかこんなことになるならば始めなければよかった、ちゃんと真っ当な道を歩んでいればよかったと後悔しても狂い始めた歯車はもう止まらない。1945年当時に日本やドイツの参謀だったら何も考えたくないだろう、今はまさにそんな感覚だ。山積みの年金と借金の督促状は早期に無条件降伏を受け入れろと無言で発している。
どこで人生の選択を誤ったのか。
終わりゆく人生からとにかく逃げ出したい、全てが嫌になる。
人生勝つタイプと負けるタイプは決まっている。勝者の星のもとに生まれた人と敗者の星のもとに生まれた人がいる。
あらゆる競争に自分は負けてしまった。
ただそれでもまだどこかで人生が変わる時が来るんじゃないかと、最後の最後で勝てばいいと言い聞かせてどん底の時をどう乗り越えるかに人生はかかっている。
本田圭佑は「上手く行ってる時ほど謙虚に、上手く行ってない時ほどビッグマウスに」と言っていた。こんな自分を見てくれてる人がいるんじゃないかと、そしていつか何かが変わるんじゃないかと。
今はそう言い聞かせるしかないけども、最後まで信じられるかどうかだと思う。
AKB48入山杏奈のベトナム旅行が面白い
今自分がかろうじてAKB48系列で好きなメンバーといえば、一周回って入山杏奈になりつつある。指原にしても最初好きではなかったメンバーをいつの間にか好きになっているというのは自分の中で良くあるパターンだ。
昔みたいに本気で清純さみたいなものを信じて熱を上げるということは無いが、たまに気になる存在が入山杏奈だ。
「あんにん可愛い!」みたいな応援の仕方ではなく、今もあの人頑張ってるんだな的な懐古感情にも似ている。
そんな入山杏奈のベトナム旅行記事が結構面白く、元々ベトナムに興味があったこともあって楽しむことができた。
これからは芸能人が旅番組に出演するというよりもこういった企業のホームページやニュースで出演するというスタイルが一般的になっていくのかもしれない。
ニュースサイト+youtubeの動画に、世間的にものすごく有名ではないけども固定ファンはそれなりに多い芸能人やアイドルが出演するというパターンの方が効率が良いともいえる。テレビで大々的に放送する時代から本当にその人が好きな人だけが見る企画というのは現に増えつつある。
そんな新しい旅番組のスタイルという意味でも面白く、一つ一つの動画が短いのでサクサク見ることができた。
それにしてもこういった典型的なキラキラした「女子旅」のようなものは、ここまで突き抜けていると変な嫉妬心みたいなものを抱かずに済む。
というのも、自分は「私旅女子です!キラキラ輝いてます、人生楽しんでます!」みたいなインスタ女子的な物があまり好きになれないひねくれ者なのだ。
この入山杏奈の記事の場合、ニュースサイトの企画であり仕事でやっていることに加え元々アイドル自体がそういった幻想を見せる職だから納得がいく。
(チヤホヤされるためにコスプレをしているコスプレイヤーは好きになれないが、仕事でやらされてる感のあるコスプレは逆に可愛いと思う心理と似ている。)
これが普通の一般女性が「私旅女子です!いいね押して押して!」みたいな写真をインスタに上げてたら「はいはい上級国民乙」と考えてしまうのが自分である。端的に言えば負け組貧乏人の嫉妬やひがみだということは認めよう。
そもそも今の時代、実際どれほどの若い世代が海外旅行に行く余裕があるのかという疑問もある。昔ほど日本の景気も良くなく、海外との物価の差が大きいわけでもない時代に日本からの海外への旅行者が減少するのは必然だと言える。
結局国内旅行が安くて安全な最適解になりつつあるのが昨今の日本の現状だ。
メディアが華やかな海外旅行を打ち出して若者がそういった消費活動をする時代というのは既に終わっている。
輝いている一部の例の裏には無数の惨めな現実があるのだ。現代人はお金も時間もない、仮にどちらかがあったとしても片方が無いことが多い。
そんなやっかみはともかく、アジアの近場に旅行するなら自分はベトナムに行ってみたいと思う。韓国が昔に比べて若者的なスタイリッシュな場所になったように、次はベトナムがそういう旅行先になっていく雰囲気は感じる。
ベトナムと言えばフランスからの独立運動やインドシナ戦争、そしてその後更にあの過酷なベトナム戦争を乗り越えようやく今安定した時代を迎えている国だ。
そのベトナムが女子に人気なスポットになっていくというのは興味深く、こういったキラキラした女子旅のイメージになっていくのは面白い。
日本自体がそもそも敗戦を乗り越え、東京オリンピック以降先進国のイメージになっていったように国のイメージというのは徐々に変わりつつある。
ヨーロッパでもクロアチアはユーゴ内戦のイメージから青いアドリア海のイメージになっているように世界は変わりつつある。
仮に自分がベトナム旅行に行くとするならば確実にベトナム戦争の戦跡や博物館などを巡るだろう。社会主義国らしさを探す旅になり、ベトナム戦争で使用された東側の兵器や鹵獲された米軍の兵器を見てひとり興奮していたい。
またメジャーな観光地ではなく普通のベトナムの街にある食堂や酒場も廻ってみたい。
ベトナム旅行といえば、そういや神木隆之介がテレビの企画で行っていたのを見たことがある。
「神木隆之介20歳の旅 ベトナム国境鉄道をゆく~世界一美しい絶景棚田を求めて~」という番組で、こっちのほうは男子だけあって女子みたいにキラキラしてはなかった。キレイでオシャレじゃない感じのリアルさがあって、中国国境沿いで止められるみたいなシーンもあった気がする。
若者の最先端の街というよりはまだ開発途上国の雰囲気が残っていて、逆にそれが見どころでもあった印象がある。あとハロン湾が綺麗だった(小学生並の感想)
他にテレビで見たベトナムの思い出と言えば、「世界で一番美しい瞬間(とき)」で見た蓮の花が綺麗だったことも覚えている。ベトナムでは蓮の花を収穫するらしく、この国の象徴ともなっているらしい。
とにかく最近ちょくちょくベトナムの名前を聞くようになって来て、イメージも徐々に変わってきているように思う。人口も既に1億近い国で、我々が考えている以上に今ベトナムは急速に変化しつつあるようだ。
ひょっとしたら10年後今とは全く違ったイメージになっているのがベトナムという国なのかもしれない。
厨二的なオリジナル親衛隊制服のデザイン
自分が常日頃デザインのコンセプトにしている「厨二感」の原点になっているものはナチス・ドイツのSS親衛隊にある。
当時の映像を見てもぶっちぎりでかっこよく、さすがファッションデザイナーにデザインさせたと言うだけあって見栄えがいい。カラー映像などで見ると特に鮮明でこの組織が本当にあった時代というのが現実とは思えずまるで映画のように思えてくる。
しかしそれが現実だったのだ。
ドクロの紋章を入れたり古代の文字デザインに取り入れたり、現代の厨二病でもそんな発想はしないだろう。
それを現実にやったのがまさにナチスであり厨病的要素の原点となる物が数多く存在する。
そんな親衛隊に憧れを持つ1人としてオリジナル親衛隊の衣装をデザインしたてみた。
赤が幹部用、黒が全国指導者用、灰色が一般隊員用だが灰色の一般隊員でもエリートの中のエリートという設定だ。ナチスのSSを参考に短剣を装備し、赤はガンダムSEEDのザフト軍の赤服をインスピレーションの題材にしてもいる。
典型的な厨二病行為として授業中のノートの落書きに武器の絵を描くというものがあるけれども自分は軍服や制服のデザインも良くやっていた。こういうオリジナルでデザインする趣味がもっと増えてほしいなとも思うし、こういう楽しみをもっと広めていきたいという思いもある。
授業中のノートの落書き感覚の創作というのが自分のもう一つの原点でもある。
ただこれでもまだナチスSSには遠く及ばない程、史実の方が厨二度高い。まさに現実は創作より奇なりという感覚だ。
ちなみにこの親衛隊はただデザインしたものではなく、創作に使うためにデザインしたという事情もある。
以前書いた記事で厨二的な革命小説の計画を考えていたのだがそれが今少しずつ進んでいる。この作品に登場する親衛隊という設定でこの衣装が登場する予定だ。
村上龍の『愛と幻想のファシズム』のパクり、というかオマージュのような作風をイメージしておりこの親衛隊もその作品に登場する「武装組織クロマニヨン」を参考にしている。そしてそのクロマニヨン自体がナチスのSSを参考にしているという設定だ。
この小説、というよりもショートショートの意味でのSSに近いスタイルの作品は一応現在一つの形になった。とりあえず計画だけでなくわかりやすく形にするため書き上げたのだが、これから更に追加で書いていこうかなとも計画している。
正直なところ「中学生の妄想」のようなものであり、自分を登場させるというかなりイタい作品でもある。ちゃんとした凄い小説というよりも身内の間で読むようなカジュアルなSSという側面が近い。自分や有名人を起用したただ単なるネタ妄想SSと言ったほうが的確だろうか。
ノートに書いて友達だけに見せるようなノリや掲示板にあるようなリアルタイムのアドリブで投稿者が書くようなSSに近いイメージだ。
1話完結でサクサク読めるようなものにし現実に存在する有名人を起用してもある。
これは初めて読んだ人でも登場人物がイメージしやすい事、そして作品に現実的なリアリティを持たせる効果を狙っている。舞台は2030年代の日本という設定であり、必然的に実在の人物も絡んでくることになる。プーチンやトランプといった実在の政治家も歴史上の出来事として登場する。
また作中に登場する武器などの設定も少しずつ考えており、例えばこれはファシズム独裁政権発足後に日本国防軍と親衛隊に配備されるという新型ハンドガンのデザインになる。
最終的にもっと続編や追記をしていった後、一つにまとめて架空の人物名に置き換えるという計画もあるが現時点では自分が楽しむためにしばらくは有名人の名前を使っていく予定だ。とりあえず1話だけ書いた物の、まだ構想段階でありこれからどうなっていくかは自分も分からない。
いつまでも計画段階にしておくのはもどかしいのでとりあえずとりあえず1話だけ仕上げた格好になる。
「独裁と言っても最初は開発独裁という事で進める。シンガポールのリー・クアンユーみたいなものだと説明すれば独裁への抵抗意識も無くなる。」
「総統にはクイーンとビショップ落ちでもチェスで勝てない。」
「中国には北朝鮮に勝手な行動をさせないように釘を刺しておきたい。あの国は何をするかわからない、この機会に二度とないチャンスとして韓国に南進すればアメリカの参戦を招く恐れがある。」
「選挙活動は街頭で親衛隊にパフォーマンスをさせて、幹部はひたすらネット番組でしゃべり倒すことにする。政治番組だと思われないことが大事だ。トランプみたいにわかりやすい言葉しか使わないゆるいトークで若年層を取り込む。」
「科学者や技術者は壮大な国家プロジェクトに携わってる時の方がやる気が出る。人権なんて度外視でいいから思う存分やってくれ。こっちも負ければ戦犯になる覚悟でやってる、全部俺が命令したことにするから気にするな。」
これらのセリフは本当に昨日考えたばかりのアイデアで、現段階では作中に書いていないけれども次回以降に取り入れていこうと思っている。要するにそういう作風というイメージを持ってもらえればありがたい。
この1話は2033年の政権獲得直後という描写だが、革命活動の黎明期を描いた2020年代の話や戦争が始まる2040年代の話も構想上は存在する。まだ時系列を整理してこれから前後で追加していくため明確に1話だとは断言できない。
登場人物やストーリーの流れもまだ構想段階であり逆にこの1話だけで何となく話が分かるようになっており、後は前後を推測してくださいという終わらせ方も可能と言えば可能でもある。
時系列バラバラに自分が思いついたシーンから書いて行って、最後時間を並べ直して整理して一冊に仕上げるというやり方も計画している。
所詮厨二病の妄想レベルや思い付きの作品なので全てアドリブ、まさに"先の事なんて誰も知らない"、そんな感覚で不定期で執筆して行こうかなと思う。