ネットから昔のフラッシュ動画が消えつつあるのは悲しい
昨日偶然に昔のとあるフラッシュ動画が懐かしくなり、調べてみようとしたのだがこれを探すのことに結構苦労した。
自分が見たかったのは空耳ソング系のフラッシュ動画だったのだが、見つかったのは違う空耳の物でしかない。知っているはずの面白い動画と秀逸な空耳のものではなく、ただのPVに無理やり感のある空耳歌詞をつけた物だったのだ。
結局自分が知っていたはずのものは見つからず、ネットの物が消えるときは儚いと改めて感じさせられた。
実はこういうことが一回ではなく、昔好きだったフラッシュ動画を探そうとするともうそれ自体が存在しなかったり見つけにくかったりすることが多くなった。
動画サイトの登場以降フラッシュ動画はネットにおける主役の座を追われて、今では動画サイトに「懐かしのフラッシュ集」や「やってみた系」がかろうじて存在する程度にとどまっている。本家のフラッシュは見つからない時、それをやってみた系だけは残っているがあまり見る気にはなれない。
悲しいことだがそういうフラッシュを運営して維持する人が少なくなり、覚えている人も少なくなりこういったものは消えていくのだろう。
昔のネットを知る人自体がそもそも今では少数派になっていて、それが常識として通用しなくなる。知らない層が多くなったとき、それはいくら過去において常識であったとしても常識としての地位を失う。
自分が「ネット民なら全員知ってるはず」と思っていたものが、今では如実に知らない人の方が多い時代になっている。
もちろんこれはネットに限らず、自分の好きだったお笑い芸人やアイドルを知らない人が新しい世代に多くなることは現実と共通している。そして自分も自分より昔の物のことは知らないのだ。
そしてこれはネットというのが現実と同じように歴史の長い世界になったという事を意味する。インターネットと言えばまだ新しい物だった時代から、もう歴史の領域になって来ているのだろう。
そうすると当然廃れる文化や流行遅れになる文化も登場し始める。
特に空耳文化は本当に廃れてしまい、面白い偽の歌詞を考えるセンスを持つ人も減った。
世の中の伝統文化や職人文化、そして言語と同じで、後継者がいなくなると廃れていくのがネット文化なのかもしれない。
街の様子や店舗などが変化していくことも同じような現象だろう。
例えば子供の頃に自分の街に合ったゲームショップ、カードショップ、おもちゃ屋さんなどは昨今の少子高齢化によって本当に消えつつある。
商店街が大型ショッピングモールができたり、後継ぎがいなくなったりして消滅することに次ぎ今は子供向けのお店も徐々に減ってきている。
飲食店なども消えていく、子供の頃によく行っていたはずのお店なのに10年も経てばどこにあったのかさえもわからない状態になる。
ここに本当にあったのかと想像すらつかず、あの過去が本当に現実だったのかさえも怪しくなる。
インターネット文化も同じようにいつまでも存在するように見えて消えるときは儚い。
もはやフラッシュ動画どころかニコニコやyoutube初期の動画なども消えつつある。
ニコニコ動画の藤崎瑞希が消えてからもう何年も経つが、いつの間にか知らない人の方が多い時代になっている。これが忘れられるという事なんだろう、そして本人だけでなく語る人まで消えればもう完全に消滅してしまう。
そして唯一覚えていた自分さえもそれを忘れていくともはや存在は無かった事になる。
例えば懐かしくのフラッシュ動画で数話形式のものがあり、それを「いつか見る」と思っていた内に見つけられなくなり今ではどんなものだったのか内容すら曖昧になっている。
自分さえも記憶があいまいになるともう探すことすら不可能になる。
変わりゆく時代の中でどうしても消えていく物は存在する。
インターネットは何でもあるように見えて実はない物の方が多い。例えば昔お菓子のおまけ程度に一瞬存在したカードゲームなどを探そうとするとカードショップに存在しないことは当然として、オークションサイトにすら存在しないことがある。
世の中残る物の方が実は少ない、特にネットを見ているとそう感じることがある。
SNS全盛時代になってその傾向はさらに深まったように思う。簡単に投稿できる上に簡単に削除や修正もできるので、いつまでも残っていることの方が少ない。
逆に昔ながらのホームページの方が実は長持ちすることがあり未だに残っているものは多い。
しかしそれでも消える物は多く、フラッシュ動画は本当に姿を消しつつある。新しく作られることが無いのは当然としてアーカイブスとして残す人や語り継ぐ人さえも減少してきている。
恋もマイヤヒのような本当に人気だったものは残るが、フラッシュ動画の中ではマイナーだったものは維持する人が1人も存在しないと簡単に世の中に存在しなかったことになってしまう。
例えばアナログの本は一度出版されれば国立図書館に保存される上に、今でもどこかの古本屋に残っていることが多い。
ネットは10年前の物ですら消えるのに、本は30年前の物でも当たり前にいろんなところに残っているのを見るとアナログコンテンツはやはり保存としては強い。
そしてこれは何も過去の話ではなく、これからより深刻な問題になっていく。
投稿しやすくもなったが削除しやすくもなった現代においてコンテンツの寿命というのは過去に比べて本当に少なくなっていくだろう。
フラッシュ動画はまだ寿命が長かった部類で、動画サイト時代の動画がどれほど残るのかは疑問符が付く。
供給量が多いので保存が追い付かず、また新しい物も次々と出てくるので昔のフラッシュ動画のように1つ1つを大切にして守っていくような文化は成り立たない。
そこそこ有名だったはずのフラッシュ動画ですら残ってない時代に、これからの新しい物が残っていくのだろうか。
例えばアイドルが少なかった時代の昭和アイドルは今もファンが多く存在するが、昨今のAKB48系列のアイドルはアイドル史に決して残らないのではないか。
2,3年だけ在籍して進路決めて辞めていく部活感覚のメンバーも多く、更に競争が厳しいのでそうせざるを得ない状況にもある。アイドルになるのが簡単になったというのは辞めることも簡単になったということを意味する。
ネットコンテンツもこれと同様でネットの世界に送り出すことも簡単になった一方で、消すのも簡単になったし消しても誰も気にせず覚えていない。
初期のフラッシュ動画や地元にあったお店などは消えてもまだ誰かが覚えている人がいる方で、これからは覚えてもいない物の方が多い時代になっていきそうである。
まだ昔の物が消えて悲しいと言っている段階はまだ心がこもっている方で、これからは悲しいという感情すらなくなっていくのではないか。
消えることが当たり前になり、消えることを気にしなくなってきているのが現代のネット文化だろう。
例えば自分はフラッシュ動画が消えていることに悲しくなるが、これからの新しい文化やコンテンツが消える事にどれだけ思いを寄せることができるだろうかと考えると、その感情が無くなりかけていることに気付く。
ネットが人情ある混沌とした下町から整備された綺麗な都会になって温かみが減ったと自分は例えることがある。
フラッシュ動画が消えることはいわばそんな下町から知っている人がいなくなることに近い。
しかし今のネットから何かが消えることは、都会から一人誰かが去っていく事でしかないのかもしれない。大都会から誰か一人が消える事に誰も思いを馳せない、そんな時代に今のインターネットは入っているのかもしれない。
そしてそれが発展や発達の一つの段階だともいえる。
ネットはいつまでもアングラや下町、辺境ではいられない、大都市へと変貌しつつあるのだろう。
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