負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

最近のインターネットはなぜワクワクしなくなったのか

よくインターネットが面白くなくなりワクワクしなくなったという話を聞くし、そういった懐古話を見ることが好きになっている自分がいる。

漠然とネットがつまらなく感じるようになり、昔は良かったという感覚だけが自分を支配している。

 

しかし実はここには一つの構造があり、世の中が面白くなくなったわけではなく自分自身がつまらない人間になったというのが真実に近い。

「最近のネットはワクワクしない」と言っている以上、当然昔のネットも知っているということになる。例えば自分がインターネットを始めたのは大体2004年ごろからでありそう考えると既に10数年ネットに入り浸っているということになる。

本当にもっと昔からネットを知っている人からすれば「その程度懐古厨を気取るな」というレベルでしかないが、それでも既に10年を超えた古参ネット民になっている。

ユーチューバーにハマっている最近の小学生が生まれる以前からネットをしており、そういう子供たちからするともはや自分は「戦前や戦中の昭和を知っているお爺ちゃん」レベルの存在に映っているかもしれない。

戦前や戦中の世代が1990年代のADSLや電話回線の時代のネットだとすれば、自分のように21世紀に入ってからネットをし始めた世代は戦後初期の世代なのだが、いずれ同様に昔の人間としてくくられ区別もされなくなるだろう。

 

子供たちが考える10年前というのは我々が考えている以上に昔の事であり、自分自身90年代ですら遠い昔のように感じ「ソ連があった時代すげぇ」と思っているゆとり世代だ。

つまり今の小学生が「ユーチューブやツイッターが無かった時代すげぇ」と思っていても不思議ではなく、これから自分が子供だったころどんなサイトを見ていたのかというのが当たり前に話される時代になっていくことは間違いない。

「俺の頃ヒカキン流行ってたわ」という世代が今後出てくるわけであり、自分自身既に「厨ポケ狩り講座時代のもこう懐かしい」と言っている立場でもある。

 

結局のところ自分がネットをし始めたときに見たものを懐かしく感じるわけであり、誰もが「自分は幸せな時代に生まれた」と言いたがるのだ。

「子供の頃ネットが無くてよかった」「昭和っていい時代だった」と言っている人も、いざ今の時代を子供の時に体験していれば「ヒカキンやはじめしゃちょーをリアルタイムで見れたことって幸せだよなぁ」と言っているのである。

 

「メッシとクリスティアーノ・ロナウドは大したことない。元祖ロナウドの化け物感の方が凄かった、ロベルト・バッジョのほうが本物のファンタジスタだった」と言ってる懐古サッカーファンと同じで誰もが自分の時代を美化し懐古厨になっていくのだ。

 

ユーチューブなくその代りに個人サイトやフラッシュ動画があった時代の方が面白かったと言ってる自分もマラドーナやロマーリオを美化しているファンと変わらないのだ。

不便だった時代を美化すれば老害になったという証拠なのかもしれない。

土田晃之が最近のサッカーに熱狂できなくなったと言っているが、サッカーのレベルはむしろ向上しており本人が熱狂できない人間になっただけでしかないのと同じだ。

 

しかし楽しめなくなった人が悪いわけでもない。

10年インターネットをしていれば徐々に刺激が無くなり、昔の頃のように楽しめなくなるのは当然の事でありなのだ。

フラッシュ動画はもう帰ってこないし、今youtubeで再投稿されたものを見ても実はそれほど面白くないことに気付く。

アソパソマソや恋のマイヤヒの動画を見ても当時のような感動は無い。スマートフォン登場以前に少数の人だけがネットをやっていた時のプレミア感はもう再現できないし、その感覚に自分が戻ることもできない。

 

その一方で自分は「感性が衰えることは仕方がない」という一般論だけで終わるつもりはない。

結局のところネットは整備され、ユーザーのネットリテラシーが高くなったという事に問題の要因があるのではないだろうか。

昔はネチケットとも言われていたのだがそんな言葉ですらもはや古くなっているが、とにかくネット民のマナーが良くなり治安が良くなり民度が高くなったのだ。

それを良い事と捉えるか、悪い事だと考えるのか、いずれにせよ功罪の両面が存在することは事実だ。

 

昔の東京の下町が懐かしいというオールウェイズの夕日理論でいえば、昔の下町は間違いなく治安が悪かったという悪い部分も存在する。

そして日本人の民度自体も間違いなく今より低かった。

その一方で下町に暖かさがあったことや、日本人に今よりも人情があった側面も存在する。

よく2ちゃんねるからヌクモリティやノリの良さが無くなったと言われるが、同時に昔の2chは荒らしや誹謗中傷も多かった。2chに限らず昔の掲示板の過去ログなどを見た場合、真面目に議論が成立していないケースも多く、今では存在すらしないようなファンサイトなども必ずと言っていいほど荒らされていた。

個人のサイトなどでも荒らされていたり業者のスパムなども多かったが、今はそういうことはほとんど見かけない。

今ではパワハラだと問題にされるようなことも昔ではまかり通っていたのと同じように、今では大きな問題になる書き込みも当たり前のように誰もが書き込んでいた。

一般市民の人権が考慮されるようになったように、今はネットユーザーの人権も保障されるようになった。

間違いなく良い時代にはなったし、生きやすく安全が保障されている。

 

昔のサイトやホームページのような光景を見たければ今はyoutubeのコメント欄が近い姿をしているだろう。

しかし一度民度が高い状態に慣れてしまえば、もう下の民度には戻れないのだ。

自分は最近はニコニコ動画も一切見なくなっており、youtubeもコメント欄は見ないようにしている。強いて言うならばまとめサイトのコメント欄を見ているが、そこも比較的ユーザー層が良い場所を読んでいる。

業者的な人が多いのは現在ツイッターに代表されるSNSだが、そこも一度整備されたものに慣れてしまうと足が遠ざかってしまう。

 

ネットの治安が悪い時代を懐かしみがらも、あの頃には戻れない自分がいる。

先進国の暮らしを知った国民が、途上国の時代に戻れない事と同じで民度が低い場所にはネット上でも戻ることができない。

結局のところ自分がネット初心者のキッズだったから、キッズが多い場所に馴染むことができただけであり今低年齢層が多い場所は見ていられない。逆に今youtubeのコメント欄で喧嘩し合っているような子供も、将来は民度が高い場所しか見なくなっているだろう。

自分がそういうユーチューバーキッズみたいなものを批判しようと思わないのは、自分がフラッシュキッズだった過去があるからだ。

 

その一方で今更自分がユーチューバーで笑う子供には戻れない。

荒削りだが面白い物というのは今も探せば存在するが、良質なものに慣れてしまえば興味がなくなってしまう。

「最近のネットがつまらなくなった」と言っている自分は、実はそれほど新しい物を探そうとしなくなっている。結局いつも見ているところしか見なくなり、探すこと自体が億劫になっている自分がいる。

youtubeなども最近流行のユーチューバーなどには興味が無く、公式のものや海外のものを見ることが日常的な習慣になっている。

 

「ヤバイもの」を求めているし探せば存在することも事実なのだが、それを探さなくなっている自分もいる。

興味関心というものが徐々になくなっていくのが人間だ。

例えば自分は近所の子供が木に登ろうとしているシーンを見たことがあるのだが、そういえば昔の自分も木を見たらどう登ろうか考えていたと懐かしくなった。

木を見て何も思わなくなったらそれは大人になったという事なのだろう。木に登るというのは危険な行為だという認識の方が強くなり冒険しようとしなくなる。

自分にとってちょうど良い良質なものを知ってしまえばそれ以上のものを求めなくなってしまう。まるで昔ながらの同じ菓子パンばかり毎日買っているような高齢者のように、毎日同じサイトやホームページを巡るようになってしまう。

 

この問題を自分は数年前から認識し始めて、何か探そうと努力をするようにしてはいるものの結局「もうネットって何もないな」と思って自分が更新することか、その体力がないときはテレビや本といった既存のものを見るようになっている。

 

自分の場合テレビの録画が結構溜まっており、それを消費することを最近では優先するようになっている。

文章を読むにしても結局既成の本のクオリティの高さにも気づき、ネットの素人はそんな面白い物やヤバイものを書いているわけではないと諦めてもいる。自分が文章を書いている立場でそういう事を考えているのも変なことだが、「マニアックで濃い人は減ってきているな」と思い始めている。

 

まさに浄化されて整備されたのが最近のインターネットであり、「昔の下町にいた面白いおじさん」みたいな人は徐々に町が発展すれば姿を消していく。

ネットにいる人間が凄いオタクでマニアな人たちだと漠然と思い描いていたが、案外普通な人が多いことにも気づく。

「コアでヤバい人」の居場所はどんどんと消滅していき、結局テンプレのような普通の人たちが増えていく。

2ちゃんねらーは全員ヤバイ奴らという認識は古くなり、普通の人たちが普通に利用する場所になり、それは民度が良くなって読みやすくもなっているが昔のような過激さも無くなっている。

 

悪い人も減ったが面白い人も減った。

それを最も感じている一人が自分であり、こうやってブログ記事を書いたりピクシブにイラストを投稿してもほとんど悪口や反論を書いてくる人に出くわさない。

昔だったら自分はもっと反論されて叩かれても仕方がないような事を書いているはずなのだが、特に文句をつけてくるような人にすら会うことが無い。

ネットリテラシーが良くなったことで「ネット上であっても人に悪口を言ってはいけない」という考え方が浸透して、悪口を書かれるという事はほとんどない。

基本的にピクシブでもブログでもほぼ無反応で、見ている人はいるがいきなり何かを言ってくるという事もほとんどない。

 

それは良い面と悪い面の両方があり、何かに対する批判に対して反論があるわけでもないが、同時に情熱的に本気で語っても特に反応が無いという寂しさもある。

これは自分の投稿だけに限らず多くの人に言えることで、ブログやイラスト、そして小説の投稿に対して何もコメントが無いというシーンは多く見かける。

 

悪口を言ってはいけないというネットリテラシーが高くなったことでいきなり荒らすような人も減ったが、同時に共感や賞賛に対しても「書いてもいいのだろうか」と遠慮するようになった。

下町や田舎では会った人に挨拶をしたり距離感が近い部分があるが、都会では街を歩いていれば全員話しかけてはいけない他人でしかない。

まるで街中で何かを演説する人と同様、インターネット上でも熱く語る人は"絡みにくい人"になった。

 

自分が田舎に帰ってきて一番驚いたことが、家族連れに挨拶されたことである。

「そういえば田舎って人に挨拶してたな」と思ったし自分も挨拶をしていた。しかし都会に住んでいたことでその感覚に違和感を覚えるようになった。

 

まさに今のネット民というのは「全員他人」だと教えられている都会と同じであり、知っている人にしか話しかけてはいけないという暗黙の了解が存在する。

ブログやピクシブもいつもコメントし合っているユーザー同士で社交辞令のように話しているようなケースが多く、いきなり匿名で何か書いてくる人というのはマナーが無い人のように見られる傾向がある。

 

実際自分も自分のブログにはいつでも長文で本気で議論をしてくれても良いと思っているが、いざ他の人のブログを見たときに中々コメントする勇気は無いのが実情だ。

自分が長く語っていることに対して本気で語りかけてくる人がいても一向に構わない一方で、自分が逆の立場になると話しかけにくいという感情もやはりある。

ピクシブなどもいつもコメントし合っていた人と疎遠になれば、本当に誰もコメントしなくなり閑古鳥が鳴いているのだがネットが徐々に他人行儀になってきているという側面もある。

 

ネットリテラシーが高くなるというのはマナーが良くなることと同時に、他人でしかなくなるという問題もある。

いきなり絡んでくる不良や輩、チーマー、ヤンキーのような人も減ったが、下町ならではの人情も無くなったし挨拶もする人が減った。

今の時代に不良の集団に絡まれるというのは余程治安が悪い場所でしか存在しない漫画の中だけでの光景でしかないのと同じで、こうやってブログで何かを批判しても真剣に反論して来るような人もいない。

そのためむしろ今の時代ブロガーはやりやすい時代になっていて、コメント欄を閉鎖しなくとも誰も荒らしてくることは無い。

 

自分はもう一つのブログでこの前久しぶりに絡まれたのだが、それに対して懐かしくなった自分もいた。

自分はサッカーでバルセロナが好きなため良くバルサについて書いているのだが、この前ライバルチームのレアル・マドリードのファンから煽られたことがある。

野球の阪神ファンが阪神タイガースについて書いていて、巨人ファンから絡まれるという事もそんな無いのではないだろうか。

 

逆に自分がレアル・マドリードについて煽るようなことを書いてなおかつその記事を見ている人は存在するのだが、煽り返されたことは数えるほどしかない。

確実にネットの治安は良くなっており、業者がスパムを書いてくることも無ければ荒らしてくるような人も絶滅危惧種になっている。

その一方で共感したことに対して熱心に語り返してくるような人も減っており、誰もが他者を攻撃しない一方で傍観者になっているという寂しさも感じている人は多いのではないだろうか。

ネットが整備された都会になっており、いきなり他人に話しかけたりおかしなことをする人がいるような場所ではなくなったのが大きな流れだと言える。

 

まとめコメント欄ですら昔に比べれば明らかに民度が高くなっており、議論のレベルは高くなくても少なくとも何かを話そうとしている人は多く、関係ない荒らしは少なくなっている。

現代において「治安が悪い場所」として残されているのは、youtubeコメント欄のような場所しかなくなっており無法地帯の象徴だったニコニコ動画も最近はユーザーの数が減っている。

 

漠然と昔のネットに懐かしさを感じている人というのは治安が悪いヤバイ場所カオスな空間に思いを馳せている一方で、いざ自分がその時代に戻ろうとしても民度が高い空間に慣れてしまっているため戻ることができない。

 

いきなり悪口を書いてくるマナーの良くない人も減って快適になった一方で、みんなが遠慮し合う他人行儀な空間になったことも事実だ。

街が整備されて治安は良くなった一方で人情が無くなったのと一緒で、ネットでヤバイことをしようとする人も減り、健全な物は増えたが特別面白い人も少なくなってしまった。

ネットが少数の人しか見ていない暗い地下の空間だったから存在したような人はもう絶滅危惧種に近い。

 

「インターネットがリアルの延長線上にあるものになった」というのはもう聞き飽きたフレーズなのだが、実際にそうなっており悪いことをしてはいけないし悪いことを言ってはいけない空間にもなっている。

 

「俺らの時代、あの高校もっと荒れてたからね」とか「昔はもっとヤバいチーマーやヤンキーがいた」と懐かしむ人のように「昔のネットはもっとヤバかった」と語っているのかもしれない。

漫画ごくせんやクローズに出てくるような不良高校生はもはや存在せず、窓ガラスが割られて学級崩壊を起こすような高校もほとんど浄化され絶滅している。

不良集団同士で抗争して「他校の奴らと喧嘩して来たぜ」なんてヤンキー高校生はもはや漫画の世界にしかいない。

 

自分が育った地域でヤバイと言われていた高校があって、身内が進学したときに行ったのだが極めて普通の高校で礼儀正しい生徒が多かったことに驚いた。

高校生の喫煙率が昔に比べて低下しているというニュースを最近読んだのが、それは間違いなく良い事である一方でそれを懐かしむ人もやはり存在する。既に少子化の時代で学生が減っており彼らのマナーも非常に良くなっている。

おそらく10年後のネットのは今以上にユーザーが高齢化し、民度の低いキッズもそれほど多くは無くなっており逆にレアな存在になっているだろう。

不良高校生が消えたのと同じで、ネットから荒らしが消えた、そしてその内少子化で学生自体が少なくなりネットからキッズ自体が減っていくのではないか。

 

掲示板を見れば意味不明な文字列を書こうとしていた人は減り、徐々にネット慣れしたマナーの良い大人ばかりになり非常に快適になっていくことは良い事でもある。

その一方でネットにいる人がただの他人になり、悪口を言ってはいけないが同時に良いことも言えなくなっている側面がある。

 

インターネットを誰もが利用するようになり、ネットリテラシーも向上しているが逆にマナーが良くなりすぎてカオスさも無くなっている。

しかしそんな昔のネットに戻れない自分もいる。

「元ヤン」の人がいざ今ヤンキーに戻ろうしても難しいのと同じで、ネットの掲示板を荒らしまわっていた人も今ではネットリテラシーのある常識的なユーザーになっているのだろう。

ヤンキー高校生にカツアゲされる不安が無くなったのと同じで、今の時代は自分のブログやサイトが荒らされることもないわけで、それは良いこともでもある。

その一方でガンを飛ばされたり喧嘩を売られなくなったことの寂しさを感じている元ヤンの人もいるし、ネットの民度が良くなった事を少し寂しく思う自分もいる。

 

youtubeコメント欄で本気で喧嘩してるキッズをみて「ネットの誰かに熱くなれた元気なころが俺にもあったんだな」みたいな変な感情もある。2年前ぐらいに自分のピクシブのイラストに指摘してきた人がいてその人と反論し合ったことがあったのだがそれですら今では懐かしい。

街を歩いていても喧嘩を売られることが無い安息もある一方で、喧嘩していた頃が懐かしいと思う元ヤンキーやチーマーの人もいるのと似ているのかもしれない。

 

「俺のころヤバかったからね」と言う不良高校の番長だった人も既におっさんで、"あっち系"の映像に残ってる女の子も今では既におばさんなのと一緒で、昔のネットのヤバさを懐かしむ人間もいずれ高齢化していく。

 

これからどうなっていくかはわからないが基本的に日本に限らず社会という物は治安が良くなっていく方向ある。目が合えば喧嘩をしていた時代が終わったように、掲示板やコメント欄は荒らす物だった時代は終わった。

大衆の民度が高くなったように、ネットユーザーの民度も高くなりいろんな規制も厳しくなった。

「社会」になったものは徐々にクリーンになっていき浄化されていく。インターネットというものが社会の一部になり遂に浄化され整備されるものとして扱われるほど巨大になったともいえる。

ネットですらちょっとした冗談で変なことが言えない時代になっており、アングラ社会は消えつつある。

なぜワクワクしなくなったかと言えば、それはあらゆる社会性のあるコミュニティが整備される運命にあるからだと言えるかもしれない。

日本人の民度が高くなり下町がオシャレで綺麗な都市になっていったように、ネットユーザーのネットリテラシーは高くなりバーチャル空間も"綺麗"になっていくのだろう。

note.mu

なぜポケモンGOはユーザーが激減したのだろうか

去年の流行語といえば間違いなく「ポケモンGO」であり、社会現象にもなった。

そんなポケモンGOが今年にはめっきり話題を聞かなくなりもはや世間だけでなくネット上の話題からも完全に消え去ってしまった。

 

もはや未だにポケモンGOをやっている人など皆無であり、オワコンとすら言われなくなっている。オワコンと言われる内はまだアンチがいる程の活力はあるのだが、本当に終わってしまったコンテンツはもはや語られなくなり忘れ去られてしまう。

 

まさに今ポケモンGOは完全に消えゆく運命になり、大幅に激減したアクティブユーザーがここから大きく回復することは無いだろう。

 

実は自分も去年の夏はポケモンGOをやっていた立場であり、シャワーズをゲットしたりエレブーを孵化させたり結構最初の内は頑張っていたのだが途中で完全に飽きてしまい、ジョウト地方が追加されて以降も一回も起動していない。

 

自分が辞めた理由は主に3つある。

・外を歩いてゲットすることは大変たった。

・上位ユーザーについていけないことを悟った。

・単純に誰もやらなくなった。

 

基本的な理由としてやはりゲームは外を歩いてするものではなく、何度かはできたとしても継続することが非常に難しい。いつのまにかポケスポットを通ってもポケモンGOをわざわざ起動しなくなり、最終的にはアンインストールすることになった。

 

モチベーションがあり世間的にも流行っている内は外出してポケモンを集める気になるのだが、ある時途端に起動しなくなる時期がやってくる。

 

自宅周りや通勤や通学の決まった経路に登場するポケモンをあらかたゲットしてしまうともはややることがなくなってしまう。経験値を上げて育てるということもできるのだがやはりカントー地方のポケモンだけでは飽きてしまうのも現実で、ジョウト地方の搭乗が遅かったというのは否めない。

大多数のユーザーが飽きる前にジョウト地方を登場させられなかったというのは失策で、新地方の追加が大きな話題にならなかったというのは致命傷だったと言える。

世の中の大半の人間が通勤や通学と自宅周辺でしか行動しておらず、そこから新鮮味がなくなれば飽きるは当然だった。

 

また通常のゲームと違い自宅でやることが無いというのも難しく、疲れた放課後や帰宅後にわざわざ外出はせず、休日や休暇をわざわざポケモンのために使うほど日本人は暇ではなかったし旅費を工面できるほど現代人は裕福でもない。

やる気がある時は楽しいことも、飽きてしまうとただ単に煩わしい行動になっていくのだ。

 

こういったゲームはとにかく話題性や流行性が重要であり「誰かがやってる」ということ自体に意味がある。ゲーム全般に言えるものだが「ソーシャル」、つまり社会がある事自体に価値があり実質的にはオンラインゲームに近い側面がある。

昨今オンラインゲームが衰退している理由はユーザーが少なくなっているからであり、「ユーザーが存在する」ということが最大の価値になっている。

その最大の価値がなくなってしまえば瓦解するスピードは速くユーザーの多くが離脱してしまう。

流行っているから流行っていたし、流行らなくなったから流行らなくなったというシンプルな事実に行き着く。

 

結局のところポケモンGOは誰かに自慢するためのゲームであり、自慢する相手がいなくなればもはやそこに意味は無くなってしまう。

「まだポケモンGOやってるんだ」と身内で言われてしまったり、SNSで反応が貰えなくなると全く意味がなくなりモチベーションも低下する。

去年の段階でカビゴンやカイリューをSNSにアップすればいいね!がいくらでも貰えたかもしれないが、現在では特に反応もなく、あったとしても小さなコミュニティ内部で一部の人しか騒ぎ立ててもらうことができない。

大多数のユーザーは自慢する相手もいなければ、反応してくれる人もいなくなりなぜ自分がこのゲームをしているのかと虚しくなる構造がある。

「一体感」や「共有感」を重視したコンテンツが昨今増えているが、それはそれを維持できなくなってしまった場合に非常に危ういということをポケモンGOは示したと言えるだろう。

 

この例で言えば「艦隊これくしょん」も内容が無いゲームの一種だと言える。

内容がない代わりに誰かがやっていることに意味があるゲームは誰もやらなくなればオワコン化してしまう。

コミュニケーションコミュニティという快楽に特化したコンテンツが増えていることはゲームに限らずあらゆるジャンルに共通していることだが、その危うさについても考える必要があることをポケモンGOは示したともいえる。

 

コミュニケーションやコミュニティは存在する時は非常に大きなものに見えるが、消えてしまう時は本当に四散してしまい何も残らない。

紙幣がインフレしてしまえばそれがただの紙になることと同じであり、実態として存在しない経済という概念に依存している。通貨を信用する人が存在するからそこには価値がある。

「反応してくれる人」や「自慢する相手」、一員感を得られるコミュニティというものが存在しなくなればオンラインゲームやソーシャルゲームは一瞬で価値がなくなってしまう。

最大の快楽の一つだが無くなる時は一瞬だという儚さがまさにコミュニケーションやソーシャルという概念であり、昨今はその快楽に手を出したゲームやコンテンツが急増している。

SNSや日常アニメの流行、そしてソーシャルゲーム、日本人の多くが「誰か」を求めている時代になった。

日本人の誰もが現在寂しさや孤独を感じており、それを満たすための仲間意識や親近感を求めている。

 

誰かがやっていること自体に意味があるゲーム、中身は無いが親近感はあるユーチューバー、フォロワー数に表示されるだけの人間関係、「あるようで無いような、無いようであるような」という現象が日本各地で起きている。

 

多くの哲学者がこれまで「存在とは何か」という問いかけをしてきたが、あるようで無いような、無いようであるような物のほうが存在を感じられるというのは一つの答えかもしれない。

感じるかどうかが存在であり、感じられなくなれば存在しなくなる。

誰もがやっているときのポケモンGOは最高に面白かったが、誰もやらなくなれば起動さえしなくなることはまさにその具体例だろう。

まさに自分がその一人であり、漠然と存在する「誰か」のためにゲームをしていたのかもしれない。いつか自慢する機会が来るからと期待し育てていたものも、その機会が訪れないことを悟れば途端に虚しくなるのだ。

 

言い換えればいくらポケモンGOでモンスターを育てても、もう誰も見てくれないし驚いてくれないのだ。他のオンラインゲームやソーシャルゲームのようにゲーム内で順位が表示されるわけでもない。

 

逆に現在ポケモンGOをしている人は、例えば朝の散歩の途中に起動することが目的の高齢者が多いとも言われている。

現在ポケモンGOをかろうじて支えているのは実はポケモン世代ではない人々であり、完全に自分の世界を求めてそれで満足している人が多い。

誰かとやることにそこまで興味が無く、自分が楽しければそれで良いという人が最終的にはユーザーとして残る。しかしそういう人はそれほど多くなく、他人の評価に依存している人の方が多い。

あらゆる過疎ゲームは最終的に本当に好きな人だけが残るような構造になっている。

流行っているからやるライトユーザーというのはどのゲームでも減衰していく運命にあり、そういったライト層の淘汰が起きたともいえる。

 

ポケモンGOはおそらく新しいポケモンを探しに別の街に行くリアルサトシのようなタイプの人にとっては今も楽しめるゲームだろう。

よく周りにポケモンがいないから飽きたという意見に対して「マサラタウンから出なければ新しいポケモンに会えないのは当たり前」という反論がある。

その理論は決して間違っていないが、それができるの人が限られているというのもユーザーが減少した理由の一つだろう。

結局大部分の人は日常生活において自宅と学校や職場の行き来に終始するライフスタイルになっており、時間とお金と行動意欲を兼ね備えた日本人は実はそれほど多くは無い。

 

インドアタイプの人間が増えていることは間違いないが、別の言い方をすればインドア趣味が充実しすぎているともいえるし、そこに市民権が存在するようになった。

結局インターネットの登場に行き着くことなのだが、家にいるだけで十分楽しい時代になり「インドアタイプ=暗い人」と直結して考えることができなくなったいる社会背景がある。

外出しなくていい時代になれば皆外出しなくなってしまうのだ。

 

例えばポケモンGOのために外出しているが誰とも話さない人ネットでいろんな人と話している人のどちらが明るい人間なのかと言われれば答えは難しい。

友達とオンラインゲームをしたり、自分のゲーム動画をネット上の誰かに配信したりしている人もいる。

ゲームというのは家でできることが趣味として最大のメリットであり、疲れている上に時間の無い学校や職場からの帰宅後にカジュアルに楽しめることに価値がある。

現代人のライフスタイルに合っているという最大の強みを廃してしまったポケモンGOは案の定流行らなくなった、

 

おそらく今もポケモンGOをやっている人で「陰キャには向いていないゲーム、ポケGOをしている自分は陽キャ」と言い聞かせている人も存在するだろう。

ネットが登場する以前はインドア派は間違いなく陰キャが多かったが、今は必ずしもそうではない時代になってきている。かと言ってSNSでフォロワーが多いから陽キャというわけでもなく、リツイート稼ぎのために四六時中ツイートしているだけの人が陽キャだとも言い切れない。

それと一緒で逆にアウトドア派が必ずしも陽キャだとは言い切れず、一人で釣りや登山をしている人が本当に明るい人なのかというのも難しく彼らが実は他者とのコミュニケーションを苦手としている場合もある。

そう考えるともはや誰もやっていないポケモンGOを一人旅でしているだけの人が陽キャだとも言い切れない。

人間の陰陽論にまで発展することなのだが、結局こういう議論は表面的なレッテル張りになってしまうため本来は中間の概念を作るべきだろう。

 

前述の「あるようで無いような、無いようであるような」の理論と一緒で、世の中一つに見方しかできない物の方が少なく曖昧な物のほうが実は多いのではないか。

「一人でやってることが気にならない陰キャがポケモンGOを未だにやっている」という見方をすることができるし、逆にリアルでその人は周りに友達が多く仲間内で流行っているから続けているパターンもあり、集団で旅に行っている陽キャだというパターンもある。

 

つまり基本的には皆辞めたから流行らなくなったが、リアルコミュニティでやっている人が多いから続いているというパターンも存在する。

いずれにせよ「世間の空気」に同調してやっていた人も漠然と"誰か"を求めていたし、リアルで仲間がいるから続いているという人も"誰か"を求めている。

そして本当に好きだから一人でも続けている人というのも、別の趣味では多くの仲間がいるかもしれない。

 

やや話が飛躍してしまったが、大部分の人に共通していることはやはり周りが辞めたから自分も辞めたというパターンだろう。

コミュニケーションやコミュニティが目的でありそこに特化していたコンテンツは流行らなくなる時は一気にユーザーが離脱してしまう傾向にある。

まさにポケモンGOはその典型例であり、こういう物に特化したものが増えすぎてしまうと何も残らないということを示した一つの実例だろう。

ポケモンGOから世間から消え、結局ポケノミクスなど成立しなかったという一つの失敗例から今後の新しいゲームは学んでいくべきなのかもしれない。

 

更にポケモンGOにはもう一つの失敗要因があり「上位ユーザーについていけなくなった」というも多くの人が辞めた理由として上げている。

ポケモンGOをしていて思ったのがすぐに攻略情報が出回り、攻略サイトが乱造されたことだろう。更にSNSなどでも既に多くの人がレアポケをゲットしている事実に直面し、周りの秘境ジムでさえ強いトレーナーが居座り勝てなくなってしまう。

 

基本的にはただ集めるだけのゆるいゲームまで"ガチ化"してしまうのが現代だと言える。

あらゆるゲームで競争が激化し精鋭化が起き、ついていけないユーザーが離脱しているのが昨今のゲーム事情だ。

本家ポケモンのオンライン対戦も現在では全ユーザーの1%しか参加していない状態になっており、本当は実はライトユーザーが大半なのだがネットというのはどうしても上級者の発言権が強い。

 

ネットは皆凄そうに見えてしまい、自分の弱さや小ささに安心できないという構造がある。インターネットがそういった競争をあまりにも過激化し過ぎてしまったせいで、自分がついていけないという事を感じやすくなったというのは昨今のゲームの多くに共通している。

ポケモンGOの失敗はまさに「精鋭しか残れない雰囲気」を作ってしまったことにあるだろう。むしろ意図しないところでそうなってしまったとも言える、本来ポケモンGOは極めて緩いゲームとして作ったはずだった。

競争意識を抱かず自分のペースで続けられるという人は案外少ない。

更に過酷な競争が好きな人というのはそれほど多くなく、みんなで気軽に楽しみたいだけという人の方が多いのだ。

内容のあるアニメを見る人よりも、誰かと気軽に話題にできる日常アニメを好む人が多い事と似ている。

これもまさしく"誰か"に通じる理論であり、「自慢できる仲間」は欲しいが「引け目を感じる他人」は欲しくないという心理がある。

 

結局辞めた理由の3つのすべてが「誰か」を気にした結果である。

外出するならばわわざポケモンGOを起動しない方が結局人と話せる上に、今のご時世スマホを持ちながらポケモンを探していたら「あの人ポケモンGO未だにやってるのか」と"誰か"に見られてしまう。

ポケモン探しのために外に出るという文化は結局定着しなかった。

 

そして世間で流行らなくなり自慢したり話題を共有したりする相手がいなくなったというのもやは"誰か"を気にしている。現実では周りから続けている人が消え、SNSでは反応やウケが悪くなったことが理由にあるだろう。

 

更に上位ユーザーについていけなくなった、ガチ化の空気に気圧されてしまったというのも引け目を感じさせられる無名の"誰か"を気にしている。

基本的にやはり外出とゲームの相性は悪く、誰もやらなくなったから自分もやめたという人が多く、更にネットがあまりにも競争を激化させすぎてしまった。

 

更に地域格差という問題も顕著であり地方在住者が不満を持ってしまったというのも問題だった。そしてこれにもネットが関係しているのだが、今の時代はそういった地方在住者にも発言の機会があり、東京だけがブームを創り出していた時代から地方が流行に影響を与えられるようになったという要因がある。

 

いくら東京在住者が「田舎者にはできない」と言ったところで、そこに反発した人が多く離脱したことはユーザー離れの大きな理由だと言える。

ネットがガチ化を加速させたともいえるし、ネットがユーザーの不満を発信しやすくなったともいえる。

確かにマサラタウンから積極的に外出しなければならないし、現実の地図を反映している以上地方在住者が不利なことは仕方がないのは事実だ。

 

しかし「それは御最もだけど、じゃあそこまで大変なら辞めます」ということを大衆が選択したというのがまさにナイアンティックやポケモンGOの敗北要因になった。

このご時世、都市部の人間だけや上位勢しか楽しめず、誰かと楽しめないコンテンツというのは即座に飽きられてしまうということをポケモンGOは示した。

その結果最後に残ったのが本当に散歩の時に暇つぶしにするために起動するという高齢者だけというのが現代の世相を表しているように思えてならない。

ニート名言「今日無駄に過ごした日は誰かが休みたかった明日なんだ」

仕事を辞めて再びニートになって何気なく過ごす今日の幸せに気づく。

相変らず貧乏で夢も希望も無く、凄く面白いことがあるわけでもなければ安定した将来が保障されているわけでもない。

 

しかしそれでも「何もしなくていい」という幸せが自分にはある。

少なくとも今日何かしなければならないわけでもなく、明日も仕事が無いので何時に寝ようとも構わない。

今日と明日を心配しなくていい、ただそれだけの幸せがあればそれ以上のものはいらない。何も残らないし後から大変な思いをするかもしれないが、今さえ楽ならばそれでいいのだ。

 

何かの名言で「今日虚しく過ごした日は昨日亡くなった誰かが本当に生きたかった明日」というフレーズがあるが、今日何が何でも休みたかったのに今日出勤しなければならない人も世の中にはいる。

明日絶対に休みたいのに社会がそれを許してくれないという人もいる。

 

確かに自分は貧しいかもしれない、誰からも見放され社会から取り残されているかもしれない。それでも明日誰かに合わせて生きる必要は自分にはないという自由がある。

久しぶりに少しの間だが仕事をしてみて、明日大変なことをしなければならないという事への苦痛や不安を再確認した。いつまでこれをしなければならないのか、次の休みまでで長い、その休日すら明日は出勤しなければならないという不安に苛まれてしまう。

そんな苦しみを味わったことで、何気ない今日のありがたさを理解できるようになった。

 

残念ながら世の中にはパワハラやいじめといった問題が存在する。

今日その地獄からようやく解放されたとしてもまた明日パワハラを受けるために満員電車に乗って出勤しなければならない社会人もいれば、いじめられるために自転車で登校しなければならない学生もいる。

そういう話を聞くと世の中何のために人は生きなければならないのだろうかと思う。同調圧力に屈して残業をしたり入りたくもない部活をやっている人もいる。

一刻も帰りたいのにまだ時間外で拘束され、次も日も同じような日々が始まる。

それがいつまで続くかはわからない、しかし当分の間は続く。

 

社会人は懲役40年であり、学生はその懲役に耐える練習をさせられる。

そして現代人はその懲役から解放されたと思っても今度は年金がもらえず貧困にあえぐ老後を過ごさなければならない可能性が高い。もはや日本に生まれたというただそれだけで負け組や苦しい生活が確定している。

日本人に生まれてしまったことが原罪だと言っても過言ではないような悲惨な人生が待っている。

日本人はこんなにも苦しむために生まれてきたのだろうか?

もちろん仕事も学校も充実している人は存在するが、その人たちと同じ基準で語られ「仕事や学校を楽しまなければならない」ということを強いられる人々も存在する。

今は楽しくないかもしれないが我慢していれば報われるという神話も根強い。

よくスポーツで合わないチームに無理に居続けるよりも所属先を変えたほうがいいという事を聞くが、アスリートに限らずそれは一般の人々にも当てはめることができるのではないだろうか。

 

他者に対しても自分と同じように楽しむことを求めているのに、本当に楽しめるような配慮がなされていないというケースは多い。そして楽しめなかったとき協調性が無いというようなレッテルを貼られてしまうのが日本社会でもある。

仕事や学校を楽しんでいない人に対して偏見があり異様に厳しいのが日本という国だ。

そういう人たちがその環境から離脱することに対する寛容や、別の場所からスタートする工夫とういうのも足りない気がするのは自分だけだろうか。

 

登校拒否をする人や仕事を辞める人、社会に溶け込めない人が悪いというこれまでの考え方が既に偏見に満ちている。

学校というものが得に義務教育段階においては実質的に一つのものしかないという環境もおかしく、誰もが画一的に同じシステムになじまなければならないという発想自体間違っている。

そして仕事というものももっと簡単に手軽にやめても良く、「今仕事してないです」と堂々と言っても良い寛容精神にあふれた社会にしていく必要があるように自分は思う。

誰もが同じような学校に行っていなければならないのか、大人は誰もが仕事をしていなければならないのか、極めて同調圧力が強い日本社会において疑問に思う事は多い。

そしてそのシステムに従ったところで幸せになれない社会というものが既に欺瞞に満ちている。

 

つまり全員が同じように生きてればそれなりに幸せになれる時代が終焉しているにもかかわらず、世の中の風潮として未だに"同調"を求めて「皆で苦しもう」「自分も苦労したのだから君も苦労しなさい」という社会から変化できていない現実がある。

仕事も部活も、そして学校もより簡単にやめてもよい社会になっていいのではないだろうか。辞めた人に対する偏見がなく、更にもう一度スタートするチャンスや別の選択肢がある社会にしていくべきだろう。

多数の人を一つのやり方に当てはめるという考え方が間違いであり、「我慢」や「継続」を美化し続けられなかった人や途中で離脱した人を蔑視したり偏見の目線で見るという国は非常に生きることが難しい国であるように思う。

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悲報:俺氏、この夏の思い出が一切ない

今年の夏って本当に何もなくないか?という漠然とした意識が自分にはある。

とにかく薄っぺらい夏であり、"忌まわしい夏"もいざ終わっていくと思うと少し寂しい部分はあるが同時に空虚な感覚は否めない。

 

自分の今年の夏を端的に言い表すならばエアコンのついてない部屋で暑さや貧困に文句を言いながら、だらだらと社会批判を繰り返していただけの夏だった。

24時間テレビも気づけば終わっており、夏特有のイベントにはもちろん恵まれず、今年は地元の夏祭りにすら参加しなかった。

彼女と海に行くと言う事も無ければ、家族で山に行くとというわけでもない。ただ寂しく独りで安酒を飲んで凄していただけの惨めな夏でしかなかった。

 

去年はまだ充実していないなりに何らかの思い出はあった。

まだ外に出る機会は多く、人と話す機会もあった。地元の夏祭りで氷が入った焼酎を飲みまくり、ポケモンGOブームに便乗し田舎でさえポケモントレーナーに多く出くわした。

ちょうど地元の田舎にリターンしてきた1年目だという事もあり様々な激動があり、新しい生活に適応しようと奮闘してた時期でもある。

 

更に去年の夏はリオデジャネイロ五輪というビッグイベントがあり、日本選手団が歴史上最多のメダルを獲得するなど世間的にも大きく盛り上がった。

安室奈美恵の「Hero」を聞くと去年の夏が非常に懐かしくなり情緒を感じる。

また不謹慎だがやまゆり園の問題もあり、オリエンタルラジオが24時間テレビでパーフェクトヒューマンをやるという皮肉めいた話題もあり光と闇の両面について様々なことを考えさせられた夏だった。

 

サッカーファンとしては自分と同世代のリオ世代が出場しており、結果的には藤春のオウンゴールで敗戦することになるのだがそうめんを食べながらその試合を見ていたことも今思えば懐かしい。

サッカーの話で言えばおそらく来年2018年はロシアワールドカップがあり盛り上がる可能性を秘めている。ちょうど夏季五輪とW杯の中間の年だったため大きなスポーツイベントがなかったという事も何か味気ない印象を感じさせる。

 

しかし実は今年の夏、珍しく野球に興味がない自分がなんと甲子園に盛り上がっていた時期でもある。

この夏自分は10日程夏の暑い中で外仕事をすることになり、現場でラジオとして甲子園の実況が流れる音声を聞いていた。

自分は生粋の懐古マニアであり、既に数日前のことを懐かしみ始めている。仕事がキツいなかで聞こえてきた甲子園やローカルラジオも、リオ五輪のようにもしかしたら来年あたりには思い出話になっているかもしれない。

唯一今年の夏の思い出があるとするならば外仕事をしながら地元のラジオを聞き甲子園を応援していたことだろうか。

日本の野球の前時代的な文化を批判しておきながら、なんだかんだで甲子園の地元高校だけは気になり去年はオリンピックのマイナースポーツにも"感動"していた自分を見るとなんだかんだで日本人だと思わずにはいられない。

エアコンが無い夏も極寒の冬になると意外と懐かしくなり、実はこういった季節感を感じることはその時は辛くとも後から懐かしい情景として感じられるようになる。

 

もし心残りがあるとするならば地元の夏祭りに参加できなかったことだろうか。

ちょうど仕事期間中だったため参加する体力も無く部屋の中から花火を見ているしかなかった。しかも途中からその花火にすら興味が無くなり、終戦後も戦闘が続いた樺太戦について考証したNHKのドキュメント番組を見ており外のムードとは対照的な陰惨な夏を過ごしていた。

 

スポーツイベントに熱狂するわけでもなく、リア充イベントに参加するわけでもなく陰惨な太平洋戦争末期に思いを馳せながら悲しい夏を過ごしたのがこの夏だ。

更にネットを見る機会もそれほどなく、去年のように世間の盛り上がりにも特に関心が無かったため何が起きていたのかもよくわからない。自分が見ていたのは古本屋で買った小説か、サッカー関連のニュースに限定されていた。

海外サッカーがちょうど休止期間中だが実はサッカーニュースや移籍話には盛り上がっていた自分がいる。

もし来年の夏、今を懐かしむことがあるとすれば仕事をしたこと、暑い部屋の中で社会を批判していたこと、陰惨な戦争番組を見ていたこと、そして小説を読んだりサッカーの移籍話に一人盛り上がっていたことだろうか。

 

そしてその来年の夏といえばもちろん自分の中では最大のイベントがある。

ロシアで開催される2018年FIFAワールドカップだ。

世間的には完全に盛り上がりが空気で、日本代表もあまり期待できない状態にあるが個人的には非常に楽しみにしている。まずロシアという国が好きなことに加えて、密かに現ハリルホジッチ体制の日本代表にも期待している部分がある。

2014年のザッケローニ体制があまりにも酷い末路に集結してしまったため、今回は逆に何かサプライズがあるのではないかと期待している。

 

本当はロシアに現地観戦しに行こうと考えていたのだが人生計画に歯車が生じ始めてこういった底辺人生に落ちぶれることになってしまった。

更に言えば今のロシアは少し危険なためむしろ現地に行く必要はないかもしれない。

 

いずれにせよあと1年頑張って来年の夏は思う存分ワールドカップを楽しめるように準備をしたいと現状では考えている。出来ればスポーツバーのようなところでお酒でも飲みながら観戦するか、せめて自宅観戦であっても何か美味しい物を食べながら毎試合楽しめるようには生活レベルを高めておきたい。全国のスポーツバーを回りながらワールドカップ観戦をしているというのは一つの理想的な未来でもある。

このブログともう一つのブログのほうも含めて、毎試合詳細な分析を含んだマッチレポートを書いてみても面白いかもしれない。

 

少しサッカーの話に飛躍しすぎてしまったが、自分も含めて今年の夏何も思い出がなかったという人は今度こそ「来年の夏」に向けて勝負の1年を頑張ってみるのも良いかもしれない。

本田圭佑が「ワールドカップは1年前が全て」と言っていたが、日本代表当落線上にある選手が覚悟を決めた1年を送るように、この夏の終わりから自分も覚悟を決めて頑張っていきたい。

来年の夏自分がどう変化しているか、1年前のこの夏をどう感じるか、惨めだった夏の終わりから這い上がっていく1年にしたい。

インターネットの片隅から革命を起こすことは可能か?

自分は最近のインターネットに関して少し残念に思う事がある。

コアな人々が少なくなりアングラ感が消えたという極めて抽象的な事なのだが、漠然と最近のインターネットに面白みを感じなくなったと思っている。

昔のネットにはもっとヤバイ情報が溢れかえり、危険人物が大勢おり、いつ彼らが何かをしてもおかしくないという雰囲気があった。

中二病と言われればそれまでなのだがインターネット全体が「ヤバイ奴らの集会所」というようなイメージがあった。

 

それらはおそらく自分が多感な人間ではなくなり、またネットが普及したことにより時代に適応せざるを得なかったという事情が存在するからだろう。

もうすでに自分はインターネット環境を手に入れてから既に10年以上が経過しいつの間にか立派な古参ユーザーになっている。

ツイッターどころかyoutubeすらなく、フラッシュ動画というものがありネットの規制も緩かった時代を自分は少し知っている世代だ。

 

しかしそのような世代でさえ実はアングラなコア感が既に消えかけていたと言われており、2ちゃんねるでネオ麦茶事件があった時代もリアルタイムで経験していたわけではない。

『電車男』や『魔法先生ネギま!』のハッピー☆マテリアル騒動より少しあとに本格的にネットに入り浸り、ハルヒ世代に近い存在だと言えるかもしれない。

ただそれ以前から小学校の授業などでインターネットに触れておりまさに典型的なパソコン室で「フラッシュ動画」「2ちゃんねる」を開いてドヤ顔をしていたようなゆとり世代の一人だ。

 

問題はそんな実はネットにおいて"にわか"だったはずのハルヒ世代やらき☆すた世代ですら既に10年選手になっており、いつの間にかセリエAのインテルで長友佑都が最古参の選手になってきていることと似ている。

長友が最近インテルに入団したと思っていたらいつの間にか一番在籍年数が長い選手になっていたというような話であり、いろんなことが結構昔のことになっているのだ。

指原莉乃がブログから成り上がったと思いきやいつの間にかブログというツール自体がSNSに駆逐されつつあり、指原自身ツイッターばかり更新している。しょこたんも既にネットの女神ではなくなっており、今では中皮ファー子だと揶揄されている。

 

つまりこういった時代背景においてもはや「ネットにはヤバイ奴らがいる」という漠然とした認識は老朽化しつつあり、ネットの地下組織から次世代のムーブメントが起きるであろうという期待を抱くことは難しい。

漠然と存在した「ネット民」という共同体幻想は崩壊し、もはやネットの向こう側にいる人はただの一般市民でしかないという現実に誰もが気付き始めている。

インターネット

ここ数年インターネットを見ていて「実はネットユーザーにそれほど濃い人はいない」ということに気付きつつある人は多いのではないだろうか。

もう自分自身ネットを見ていても面白い物を見つけられるという期待感が無くなり、古本屋で買った小説ばかり読んでいる。

 

ネットという世界が徐々に現実の延長線上にあるものになり整備されてきたことがここ10年の大きな流れだろう。

「インターネットにいる人達はヤバイ」という認識で語ること自体が古くなっており彼らはもはや普通の人でしかない。スマートフォンの普及によって日本人総ネットユーザー化が進んでおり、SNSのアカウントを持ちユーチューブを見ているという事が平均的な習慣になっている。

インフルエンサーが次世代の流行を創り出すことは世界的にも進んでいる現象であり、インターネットが危ない人たちの"溜まり場"どころか最先端のファッショナブルな場所にすらなっている。

 

こういったディープな場所が徐々にクリーンなものに変化していくというのは必ずしもネットに限ったことではなく、例えば戦後初期の東京の郊外が徐々に整備されオシャレな街並みに変わっていくという現象は多い。

「インターネットがつまらなくなった」という意見は、「下町文化が無くなった」と嘆く感覚に近いのかもしれない。

「東京タワーが建設される時はワクワクした」という意見も2ちゃんねるが台頭していく時代の昂揚感に近いだろう。今では2ch自体高齢化しており、ニコニコ動画でさえユーザー数が減っている。

普通の人たちが普通に利用するものがインターネットでしかないという冷めた感情に自分自身が支配され始めてきている。

 

この停滞感を打ち破る人たちが登場して欲しいという思いもあるが、もはや「ネットのヤバい人たちが行動を起こす」というシナリオ自体10年前のライトノベルでしか見かけないような使い古されたパターンであり、更にそれは実際にネットで起きるものではない。案外ネットユーザーというのは一人一人は普通の人たちであり、そういった気概も無ければ"危険思想"を持った人もそれほど多くは無い。

危険な考えを持った社会不適合者が革命を起こす、というストーリー自体もはやネットから生み出される物ではない。

 

アングラサイトに最先端の知識を兼ね備えた人々が集まり、世界の転覆を狙った革命を計画するという光景など存在しないのだ。

自分の身の回りには存在しない未知なる人々が独自の空間を創り出しており、何やら新しいことをしようとしているというわけでもなく、大部分の人々が現実と同じように与えられた何かに従っているだけでしかない。

ネットの世界にしか存在しないような突出した個人は結局のところ存在せず、良く見れば極めて普遍的な一般市民なのだ。彼らは本気で世界の転覆を狙うような革命家ではない。

 

スマートフォンの普及によりネットに普通の市民が増えたのか、それとも古参ネットユーザー自体が冷めてしまったのか、それとも元々ネット民自体がそれほどコアな人々ではなく自分が世間知らずだからそう勘違いしていただけなのかはわからない。

結局「最近のネットはつまらなくなった」という漠然とした認識の背景には様々な要因が存在し複雑に絡み合っているため一つの明確な回答を見つけることはできない。

 

しかしワクワクするような地下のアングラ社会はどこに消え去ったのかと嘆いたところで、インターネットが登場しアメリカの工科大学の"ギーク"がコーラを飲みながら徹夜で次世代の潮流を創り出そうと思っていた時代は戻ってこないだろう。

 

『オタクイズデッド』の講義で知られる岡田斗司夫はオタク文化論について最終的にこのような結論を出した。

「今やオタクは消滅しつつあるが、自分が好きな物について周りの人たちに語り継いでほしい」という趣旨の事でありとにかく好きなことについて熱く語るべきだと主張した。

 

しかし自分はそのことに反論したい。

今ネットユーザーやいわゆるオタクという層が語る事はホリエモンとひろゆきの対談タイトルではないのだが「なんかヘンだよね」という事なのではないだろうか。

 

世の中を変革しようとするならば現状の体制について疑問を持つ人が増えなければならない。それは決して右翼と左翼の論争や現政権の打倒をしなければならないという話ではない。

政治議論でネトウヨVSパヨクという稚拙なレベルの話をしたいわけではない。現在のインターネット上における左右の論争はもはや語るべくもない程レベルの低い話であり、ネトウヨにもパヨクにもインテリジェンスは感じ取ることができない。

より根源的な論争が現代は求められており次世代のムーブメントとは何かという事を考察する層が登場してこなければならない。

その為にはおかしいことに対して声を上げなければならず、まさにインターネットというツールはその役割を最大限に担うことができる。

 

左右の論客がお互いをレッテル張りで非難し合っているがそのことからは何も生まれないだろう。文化論や政治議論というのはこれほどまでに稚拙だったのかという危機に現代は直面している。

むしろこの時代において極左と極右は手を取り合う事すら可能だ。彼らが共有しているのは現状に対する強い問題意識だ。また右翼や左翼という問題ではなく、世の中が間違っているというもっとプリミティブな衝動が現代を変えていく原動力になる。

右としての抵抗か左としての抵抗かという問題ではなく、より強い抵抗運動が必要になる。体制への反発というのは必ずしも政治問題に限らずあらゆる局面や慣習、制度について言えることだ。

 

しかしながら現代のインターネットはそういった強い衝動を発露する場所ではなくなってきている。

SNSを利用したことがある人ならわかるかもしれないが、"リアル"以上にインターネットは空気を読まなければならない空間になりつつある

そのコミュニティに相応しい空気感で発言しなければならずそれができなければ"リムられる"という表現のようにフォロワーを解除されてしまう。その空気にウケるような発言をすればいいね!がもらえてリツイートされて自己のアイデンティティを承認された気分になることができる。

 

「リアルっておかしいよね」という事を発信するツールだったインターネットが今ではその現実以上におかしな空間になりつつある。むしろ現実以上に空気を読み慣習に従わなければいけない場所になっている。

 

人間は社会を形成する生き物だと言われている。

そういう意味で今インターネット上では次々と社会が形成され始め、そのコミュニティに空気を読んで適合する意見が徐々に求められつつある。

リアルに反抗していたネットが今では現実の延長に存在するものになり、その現実以上にその場所に従わなければならない者になっている。

周りを気にせずこれまでの既存の社会に縛られず自由に発信できるツールだったはずのネットが現実以上の社会性を生成しつつあることは皮肉な現象だろう。

 

もし以前のインターネットにあったものがそういった「反発」だとすれば、現在は徐々にそれが「順応」へと変化している。

まるでディープな下町や歓楽街がクリーンなオフィス街へと変貌していくような感覚を現在のネットには感じる。

 

抵抗運動のツールとして台頭し始めたインターネットが現在は社会を形成し始めている。現実と同じようにただ空気を読み従うためのものでしかなくなりつつあるネットにおいて何ができるのだろうか。

本当に発信しなければならない考え方や姿勢は何なのか、一人のネット市民としてその"使命"に思いを馳せずにはいられない自分がいる。

自分に大きな革命ができるとは思わないが、少なくとも最近の風潮には反発し発信をし続けたい。

週休2日制は現代人には合わないのではないか

週休2日制、つまり月曜日から金曜日までの5日間働いて土日の2日間休むという一般的な生活リズムの事だ。ゆとり教育以降完全に教育現場でも導入されるようになり、日本人の多くがこの生活様式で生きている。

「週休2日制」は世の中の常識になっている。

実は自分は"最近のゆとり"でありながらも、土曜日が午前中まで登校だった時代は小学校低学年か中学年かぐらいまでの時期は経験している世代になる。

 

しかし自分が今回提唱したいのはその時代への回帰ではなく、「午後からは休みだった土曜日って懐かしいよなぁ」という懐古話をしたいわけではない。

 

むしろより休日を増やすべきだと考えている立場だ。

例えば水曜日が休みだったらどれだけ楽だろうかと学生時代は考えたことがある。少し頑張れば休みが訪れるという期待があるのと無いのとでは大きく気持ちの持ちようが変わってくるため、週休3日以上にするだけでも現代人の多くが精神的に楽な感情になるのではないだろうか。

良く「月曜日が怖い」と言われるが2日頑張ればまた休みがやってくると言うだけでも非常に楽だ。

そして必ずしも水曜日でなくとも金曜日か月曜日を含めて三連休という考え方でもよく、また「今週は2連休だが来週は4連休」という自由なオプションや生き方がもっとあっても良いはずだ。

 

日本社会全体が画一的なシステムで動いており、いわば学校というのはその社会システムに適応するための予行練習の場となっている。

更にそこに加えて放課後の部活や定時に帰らず残業をするという習慣まであり、日本人は生活の大部分を何らかの組織に捧げて生きている。

これだけライフスタイルや娯楽が多様化している現代において、これほど自由が無く生きている日本人の生活様式は疑問だとしか思えない。

自分自身、中高帰宅部だったため、学生社会人が忙しく生きているという生活リズムに適応できていない。

何らかの仕事を探そうとしても定職に就こうとすればほとんど週休2日制という条件ばかりで結局仕事を見つけることができず社会になじめていない。

仕事

「真っ当な社会人」になろうとすればそれは直接週休2日制への適応を意味することが多い。もしかしたらそれ以上に週休1日という現場もあり、自分自身少し前まで身内の手伝いをしていた時期はそのリズムで出勤しなければならなかった。

最低週5日、そして1日8時間以上の生活リズムに適応できない人間は一部の人材を除いて社会に適応できないというのは冷静に考えておかしく、人間というのはそう画一的にはできていない。

 

人間というのはそれぞれ多様であり、一つのリズムや仕組みに全員が適応しなければならないということは不可能である。

しかし日本は明治維新以降の近代国家建設によって均質な国民の量産に明け暮れてきた歴史的背景が存在する。

同質の国民を同じリズムで動かすことで近代日本が成り立ってきたという成り立ちについて批判したいわけではない。その時代はその方式が最も適切だったからだ。

 

しかし人間性が多様化し個々人の生き方、世の中のライフスタイルや娯楽が多様化した現代において、あたかもそれが常識であるかのように未だに慣習として根付いていることに疑問を感じずにはいられない。

 

様々な生き方が考案される時代になったにもかかわらず社会の制度や仕組みがそのニーズに追い付いていないという現実がある。

「自分の夢を追いかけたい」という人が夢と仕事を両立するにはシフトが自由な代わりに給料が少ないアルバイトしかないことが多く、それは特に地方で顕著になっている。

日本人が「家」に人生を捧げる時代は終わり、家族を維持することも必然ではなくなってきている。

更にアルバイトやフリーターという概念が普及し、会社に人生を費やす生き方以外にも回答が生まれた。

 

その一方で今の日本人はやはり会社に守られ家族を作っていく生き方を再評価し始め、その時代が幸福だったのではないかという価値観も芽生え始めている。

いわば今の日本人というのは「中途半端な自由」に苦しんでいるということができる。

会社に人生を捧げることが目的であり学校はその予行練習だった時代から少しずつ自由が容認され始めてきたが、現実問題としてフリーターとしての生き方を選んだ人は社会に溶け込めず、学校では未だに部活動に入部することが常識とされている。

 

基本的に狩猟民族ではない日本人は自由なリズムとは相いれず、農耕社会のシステムに適応し四季折々のリズムに情緒を感じる生き方の方が生きやすいようにできている。

結局のところ「会社にとらわれない人生」を選んだフリーターや派遣社員は困窮しており、誰もが義務教育に従い部活動に入っている。夢の実現に失敗した人間に対するセーフティネットはそれほど多く存在せず、結局のところ社会のレールに従うことが最適解になっている。

 

日本人は基本的に従うことが非常に好きな民族であり、出る杭になるよりもそれを打つ側になることを好む。

 

システムや組織に順応な人間のほうが実は生きやすく、フリーターを選んだ人よりも会社や結婚を人生の目的として選んだ人の方が幸せになっていることが多い。

部活はしない代わりに放課後は自由だと選んだ自分は、結局社会に染まれずその底辺で喘いでいる。

自由な生き方にはリスクがあり挑戦すれば当然失敗する。

まさに自分は自由を過信し、失敗した典型例だろう。

結局のところ部活動に入り社会システムに従う予行演習を行い、言われたとおりに会社に入っていた生き方の方がよほど今より裕福な生活ができていたはずだ。

 

自由な生き方を上辺だけは肯定し賞賛しているように見える日本社会だが、その実態の部分では自由を拒絶している。

余程特別な人材でなければやはり自由と富の両立は不可能である。

 

しかしこういったシステムに満ちた生き方はやはり老朽化している。

一度自由に舵を切ってしまった日本社会がもう一度管理社会に戻ることはできない。

例えばゆとり教育を断行した日本の教育現場がもう一度かつてのような管理教育の時代に戻ることはできない。

土曜日は学校だという時代にもう戻ることはできないし、教師に体罰の権限があるような時代に回帰しようとすればモンスターペアレントが黙っていないだろう。

 

自分はまさに現代の自由な教育に移行する過渡期の人間であり、体罰が常識だった昭和の時代とモンスターペアレントという言葉が普及した現代の中間に位置する世代だと言える。

昔の不自由な管理教育現場と、現在の本当に教師が保護者から抗議されないような教育しか施すことのできない現場のどちらにも共感することができない。

そのどちらかの方向に今後進まなければならないのは事実であり、もしどちらかを選択するならば自分は更なる自由化を推し進めたいと思っている。

 

一度自由を許容された人間はもはや自由の無いシステムに戻ることはできない。

そもそも戦後日本社会全体が自由を求め選んだ側面があり、それは昭和の時代も例外ではない。

平成のゆとり世代だけが自由を求めて甘やかされてきたという認識は間違っている。

 

自由を肯定した日本社会はもうそれを廃絶することはできず、よりその自由を推進することでしか打開できない。

つまり週休2日制に限らず、正社員や定職の現場でも自由な労働制度が導入されるべきであり前時代的な残業システムは廃止されるべきだと言える。更に教育現場でも画一的な義務教育や部活制度の廃止にも踏み切らなければならないだろう。

日本人はもっと休んでもよく、定職の分野でも自由な勤務スタイルが増えていいはずだ。そして学生もそんな画一的な社会人になるための練習としてやりたくない部活動を無理にやる必要はない社会が訪れるべきだ。

 

現代社会の世代間対立の問題は全て「自由を容認されて育った世代」「管理教育で育った世代」のギャップに行き着く。

象徴的な例で言えば大学時代は派手なファッションで髪を染めているが、就職活動になると髪を脱色してスーツを着て面接に挑む姿だ。自由と不自由があまりにも歪な形で共存しており、自由を肯定されたのに社会にいざ出れば自由が存在しないという断絶に苦しむことになる。

 

自由で良いと言われて育ち、その生き方を目指していた世代が社会に出ればそれを否定され別の生き方を強いられる。

「自由を追いかけていいのは一定の年齢まで」という言い方をされるが、自由とはある年齢から捨てなければならない物なのだろうかという問いかけも必要になる。

 

人口が減り経済が停滞している現代において、労働だけは懸命に従事しなければならないというのが今の日本人だ。

働いても裕福にならないのに働くことは忙しいという人生を生きていかなければならない現代人が思い悩むことは必然だ。

昔は仕事をすれば辛くても報われることが多かったが、今は辛いのに報われないというケースの方が圧倒的に多いという社会構造になっている。

 

懸命に働いても幸せにならない社会なのであれば、少なくとも自由な個人の時間だけは増やすべきだろう。

金銭的に裕福に慣れなくなった日本は時間的に裕福になっていく路線を選択する時期に来たのではないか。

金銭だけが全てではなく個人の自由時間から生み出される新しい何かが新しい富や価値をもたらすこともできる。

 

週休3日制になり、個人が自由なタイミングでもう1日自由に休めるようになった社会はきっと今よりよほど面白いものに溢れた世の中になるのではないだろうか。学生も必ずしも部活動に入らなくてよくなれば放課後新しい取り組みを出来るかもしれない。

 

個人のスキルアップや何らかの夢を追う活動をする時間を社会人や学生が今以上に手に入れられる時代になればこの停滞は打破できるだろう。

時代の閉塞感を打ち破るアイデアは個人の自由時間から生まれる。

仕事に疲弊し、その労働から以前より価値や富が生産されなくなっているのが現代の日本だ。これまで日本人は時間の大切さを認識してこなかったため、自由から新しい概念を生成することができなかった。

自由という口約束だけ与えられても実際にその自由を生かすために与えられる時間や制度は存在してこなかったのだ。

 

誰もが同じリズムで同じ人生を画一的に生きる、そのために他人に合わせる事や規則的な生活に馴染む努力をする、その考え方や様式自体がもはや老朽化してきているという事に現代人は気づくべきなのではないだろうか。

なぜけものフレンズは速効でオワコンになったのか

昨今のアニメの消費スピードは非常にハイペースになっており、けものフレンズですら既に話を聞かなくなった。つい最近までネット上で「すごーい!」と話題にされていたけもフレだがあっという間にブームが終息し、もはや見る影もなくオワコンになっている。

 

そしておそらく『けもフレ』がオワコン化しているという事に対して反論すらなく擁護していた人ですら既に飽きて離脱しているだろう。

また涼宮ハルヒの憂鬱やけいおん!、そしてラブライブはもう少しブームが持続する期間が長かったようにも思い、オワコンだという批判に対して一定数以上の信者からの反論があった。

 

しかしけもフレについてはもはやオワコンだという批判もそれに対する反論すらも無い。気づけばブームになっており、いつの間にかそれが終わっていた。けものフレンズに影響されて動物園に行く人が増えたという話題すらもはや完全に過去の事である。

 

始まりすらしなかったレゴランドと、始まって速効終わったけものフレンズ、この2つを見ていると現代におけるブレイクの難しさ、そしてブームの賞味期限の短さを感じる。結局のところインターネットというツールが情報を何もかも加速化させてしまっているのだろう。

「オワコン」という言葉が多用され、すぐにブームの終息感が波及する。その結果瓦解する時は坂を転げ落ちるように速くなる。

逆にラブライブはオワコンと言われつつも、熱心なファンは現存しており「終わる詐欺」の代名詞でもあるガンダムは終わり層で終わらない。

 

空虚なブームというものは終わる時は本当に早く、終わった後に何も残らない。ガンダムやラブライブはいくら終ろうとも未だに好きなファンがおり、その結果商業展開もかつてのペースを持続できないものの続いている。

日本がいくら時代遅れの国になろうが最低限の内需は残されているため、まだ賞味期限は残されているのと同じで寿命が長いコンテンツというのは存在する。

逆に一瞬資源や産物の需要が跳ね上がりそれで成り上がった国というのは終わる時も早い。ガンダムやラブライブが内需体力があり終わったと言われながらも細々と生き残れるコンテンツならば、けものフレンズは本当にただ一瞬ブームだったアニメでしかない。

 

まさにアニメ作品のコミュニケーションツール化、ファストフード店化現象の象徴だろう。つまりけものフレンズは仲間同士で「すごーい!」という共通ワードを使って癒しを求める典型的な消耗品型の日常アニメでしかなかった。

ファストフード店で提供される食品にそれほど意味が無く、一時的な空腹を満たしたり誰かと立ち寄って話をしたりする場所でしかない事と似ており、今やアニメもネット上で架空の仲間と盛り上がるためのものでしかない。

 

そういった批判をしながらも自分自身ハルヒやけいおん!をネットの雰囲気に染まり同化する為だけに見ていた立場であり、現在はこういった萌えアニメ自体に興味が無くなっている。

そのハルヒやけいおん!より消費スピードが速く、もはやアニメがただ単なる集まって話すたの「場所」でしかなくなっている。

そうなってくると何が問題なのかというとあらゆるコンテンツがネット上の盛り上がり重視のコミュニケーションツールとしてしか制作者側が作り出さなくなってしまうという事だ。

製作者側や提供者側がただ単にコミュニケーションの道具として使えるかどうかしか考えなくなってしまう。

 

しかし人間関係においてコミュニケーションというのは重要であり、実はそれ以上の快楽は存在しないとも考えることができる。人間が言葉や文字を開発した経緯というのも円滑なコミュニケーションを進めるためであり、その人間が作り出すコンテンツは全てコミュニケーションに最終的には良くつくようにできている。

ファストフード店に限らず電話やインターネット、通信アプリ、オンライン対戦、その多くが他者とのコミュニケーションを目的にしている。

アニメというのもその道具の一種として現代は適応し、進化してきているという見方もできる。

世の中の流行も本当に内容がある大衆が求めた結果ではなく、その集団やコミュニティ内でのコミュニケーションを円滑にするための道具でしかないケースが多い。そしてそのコミュニケーションという物に何よりも価値があるのだ。実は人間というのは真に内容があるものを求めるタイプよりも、誰かとすることを求めるタイプの人が多い。

 

まさに自分が学生時代は周りと話すためにゲームやカードを買い、ネット上の雰囲気や流行に乗るためにアニメを見ていたタイプの人間に過ぎない。今どれだけ新作のゲームが発売されても興味は持てず、雰囲気の変わったネットの流行にも興味がないためアニメを見ようとも思わない。

きっと今も良いゲームやアニメは探せばあるのだろうが、自分一人でやっていても「あの頃」に仲間たちと楽しんだことには敵わない。コミュニケーション型コンテンツを批判しておきながら、自分自身が何よりも仲間意識を重視していた現実に気付く。

 

けものフレンズは確かに歴史に残らない無名の消耗品でしかないが、そこに生じたコミュニケーションや人間関係には意味があるだろう。

ファストフード店で提供される食品自体に意味はないが、そこで思い出となる話でもすることができればそれは懐かしい光景となる。

内容のあるアニメやコンテンツが少なくなってきていることは事実だが、ある意味人間が最も求めている者に特化するように適応してきているともいえる。

「すごーい!」という言葉でネット上の誰かとコミュニケーションが取れるようになった事自体がけもフレが発明した最大のコンテンツだったのかもしれない。

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