負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜポケモンGOはユーザーが激減したのだろうか

去年の流行語といえば間違いなく「ポケモンGO」であり、社会現象にもなった。

そんなポケモンGOが今年にはめっきり話題を聞かなくなりもはや世間だけでなくネット上の話題からも完全に消え去ってしまった。

 

もはや未だにポケモンGOをやっている人など皆無であり、オワコンとすら言われなくなっている。オワコンと言われる内はまだアンチがいる程の活力はあるのだが、本当に終わってしまったコンテンツはもはや語られなくなり忘れ去られてしまう。

 

まさに今ポケモンGOは完全に消えゆく運命になり、大幅に激減したアクティブユーザーがここから大きく回復することは無いだろう。

 

実は自分も去年の夏はポケモンGOをやっていた立場であり、シャワーズをゲットしたりエレブーを孵化させたり結構最初の内は頑張っていたのだが途中で完全に飽きてしまい、ジョウト地方が追加されて以降も一回も起動していない。

 

自分が辞めた理由は主に3つある。

・外を歩いてゲットすることは大変たった。

・上位ユーザーについていけないことを悟った。

・単純に誰もやらなくなった。

 

基本的な理由としてやはりゲームは外を歩いてするものではなく、何度かはできたとしても継続することが非常に難しい。いつのまにかポケスポットを通ってもポケモンGOをわざわざ起動しなくなり、最終的にはアンインストールすることになった。

 

モチベーションがあり世間的にも流行っている内は外出してポケモンを集める気になるのだが、ある時途端に起動しなくなる時期がやってくる。

 

自宅周りや通勤や通学の決まった経路に登場するポケモンをあらかたゲットしてしまうともはややることがなくなってしまう。経験値を上げて育てるということもできるのだがやはりカントー地方のポケモンだけでは飽きてしまうのも現実で、ジョウト地方の搭乗が遅かったというのは否めない。

大多数のユーザーが飽きる前にジョウト地方を登場させられなかったというのは失策で、新地方の追加が大きな話題にならなかったというのは致命傷だったと言える。

世の中の大半の人間が通勤や通学と自宅周辺でしか行動しておらず、そこから新鮮味がなくなれば飽きるは当然だった。

 

また通常のゲームと違い自宅でやることが無いというのも難しく、疲れた放課後や帰宅後にわざわざ外出はせず、休日や休暇をわざわざポケモンのために使うほど日本人は暇ではなかったし旅費を工面できるほど現代人は裕福でもない。

やる気がある時は楽しいことも、飽きてしまうとただ単に煩わしい行動になっていくのだ。

 

こういったゲームはとにかく話題性や流行性が重要であり「誰かがやってる」ということ自体に意味がある。ゲーム全般に言えるものだが「ソーシャル」、つまり社会がある事自体に価値があり実質的にはオンラインゲームに近い側面がある。

昨今オンラインゲームが衰退している理由はユーザーが少なくなっているからであり、「ユーザーが存在する」ということが最大の価値になっている。

その最大の価値がなくなってしまえば瓦解するスピードは速くユーザーの多くが離脱してしまう。

流行っているから流行っていたし、流行らなくなったから流行らなくなったというシンプルな事実に行き着く。

 

結局のところポケモンGOは誰かに自慢するためのゲームであり、自慢する相手がいなくなればもはやそこに意味は無くなってしまう。

「まだポケモンGOやってるんだ」と身内で言われてしまったり、SNSで反応が貰えなくなると全く意味がなくなりモチベーションも低下する。

去年の段階でカビゴンやカイリューをSNSにアップすればいいね!がいくらでも貰えたかもしれないが、現在では特に反応もなく、あったとしても小さなコミュニティ内部で一部の人しか騒ぎ立ててもらうことができない。

大多数のユーザーは自慢する相手もいなければ、反応してくれる人もいなくなりなぜ自分がこのゲームをしているのかと虚しくなる構造がある。

「一体感」や「共有感」を重視したコンテンツが昨今増えているが、それはそれを維持できなくなってしまった場合に非常に危ういということをポケモンGOは示したと言えるだろう。

 

この例で言えば「艦隊これくしょん」も内容が無いゲームの一種だと言える。

内容がない代わりに誰かがやっていることに意味があるゲームは誰もやらなくなればオワコン化してしまう。

コミュニケーションコミュニティという快楽に特化したコンテンツが増えていることはゲームに限らずあらゆるジャンルに共通していることだが、その危うさについても考える必要があることをポケモンGOは示したともいえる。

 

コミュニケーションやコミュニティは存在する時は非常に大きなものに見えるが、消えてしまう時は本当に四散してしまい何も残らない。

紙幣がインフレしてしまえばそれがただの紙になることと同じであり、実態として存在しない経済という概念に依存している。通貨を信用する人が存在するからそこには価値がある。

「反応してくれる人」や「自慢する相手」、一員感を得られるコミュニティというものが存在しなくなればオンラインゲームやソーシャルゲームは一瞬で価値がなくなってしまう。

最大の快楽の一つだが無くなる時は一瞬だという儚さがまさにコミュニケーションやソーシャルという概念であり、昨今はその快楽に手を出したゲームやコンテンツが急増している。

SNSや日常アニメの流行、そしてソーシャルゲーム、日本人の多くが「誰か」を求めている時代になった。

日本人の誰もが現在寂しさや孤独を感じており、それを満たすための仲間意識や親近感を求めている。

 

誰かがやっていること自体に意味があるゲーム、中身は無いが親近感はあるユーチューバー、フォロワー数に表示されるだけの人間関係、「あるようで無いような、無いようであるような」という現象が日本各地で起きている。

 

多くの哲学者がこれまで「存在とは何か」という問いかけをしてきたが、あるようで無いような、無いようであるような物のほうが存在を感じられるというのは一つの答えかもしれない。

感じるかどうかが存在であり、感じられなくなれば存在しなくなる。

誰もがやっているときのポケモンGOは最高に面白かったが、誰もやらなくなれば起動さえしなくなることはまさにその具体例だろう。

まさに自分がその一人であり、漠然と存在する「誰か」のためにゲームをしていたのかもしれない。いつか自慢する機会が来るからと期待し育てていたものも、その機会が訪れないことを悟れば途端に虚しくなるのだ。

 

言い換えればいくらポケモンGOでモンスターを育てても、もう誰も見てくれないし驚いてくれないのだ。他のオンラインゲームやソーシャルゲームのようにゲーム内で順位が表示されるわけでもない。

 

逆に現在ポケモンGOをしている人は、例えば朝の散歩の途中に起動することが目的の高齢者が多いとも言われている。

現在ポケモンGOをかろうじて支えているのは実はポケモン世代ではない人々であり、完全に自分の世界を求めてそれで満足している人が多い。

誰かとやることにそこまで興味が無く、自分が楽しければそれで良いという人が最終的にはユーザーとして残る。しかしそういう人はそれほど多くなく、他人の評価に依存している人の方が多い。

あらゆる過疎ゲームは最終的に本当に好きな人だけが残るような構造になっている。

流行っているからやるライトユーザーというのはどのゲームでも減衰していく運命にあり、そういったライト層の淘汰が起きたともいえる。

 

ポケモンGOはおそらく新しいポケモンを探しに別の街に行くリアルサトシのようなタイプの人にとっては今も楽しめるゲームだろう。

よく周りにポケモンがいないから飽きたという意見に対して「マサラタウンから出なければ新しいポケモンに会えないのは当たり前」という反論がある。

その理論は決して間違っていないが、それができるの人が限られているというのもユーザーが減少した理由の一つだろう。

結局大部分の人は日常生活において自宅と学校や職場の行き来に終始するライフスタイルになっており、時間とお金と行動意欲を兼ね備えた日本人は実はそれほど多くは無い。

 

インドアタイプの人間が増えていることは間違いないが、別の言い方をすればインドア趣味が充実しすぎているともいえるし、そこに市民権が存在するようになった。

結局インターネットの登場に行き着くことなのだが、家にいるだけで十分楽しい時代になり「インドアタイプ=暗い人」と直結して考えることができなくなったいる社会背景がある。

外出しなくていい時代になれば皆外出しなくなってしまうのだ。

 

例えばポケモンGOのために外出しているが誰とも話さない人ネットでいろんな人と話している人のどちらが明るい人間なのかと言われれば答えは難しい。

友達とオンラインゲームをしたり、自分のゲーム動画をネット上の誰かに配信したりしている人もいる。

ゲームというのは家でできることが趣味として最大のメリットであり、疲れている上に時間の無い学校や職場からの帰宅後にカジュアルに楽しめることに価値がある。

現代人のライフスタイルに合っているという最大の強みを廃してしまったポケモンGOは案の定流行らなくなった、

 

おそらく今もポケモンGOをやっている人で「陰キャには向いていないゲーム、ポケGOをしている自分は陽キャ」と言い聞かせている人も存在するだろう。

ネットが登場する以前はインドア派は間違いなく陰キャが多かったが、今は必ずしもそうではない時代になってきている。かと言ってSNSでフォロワーが多いから陽キャというわけでもなく、リツイート稼ぎのために四六時中ツイートしているだけの人が陽キャだとも言い切れない。

それと一緒で逆にアウトドア派が必ずしも陽キャだとは言い切れず、一人で釣りや登山をしている人が本当に明るい人なのかというのも難しく彼らが実は他者とのコミュニケーションを苦手としている場合もある。

そう考えるともはや誰もやっていないポケモンGOを一人旅でしているだけの人が陽キャだとも言い切れない。

人間の陰陽論にまで発展することなのだが、結局こういう議論は表面的なレッテル張りになってしまうため本来は中間の概念を作るべきだろう。

 

前述の「あるようで無いような、無いようであるような」の理論と一緒で、世の中一つに見方しかできない物の方が少なく曖昧な物のほうが実は多いのではないか。

「一人でやってることが気にならない陰キャがポケモンGOを未だにやっている」という見方をすることができるし、逆にリアルでその人は周りに友達が多く仲間内で流行っているから続けているパターンもあり、集団で旅に行っている陽キャだというパターンもある。

 

つまり基本的には皆辞めたから流行らなくなったが、リアルコミュニティでやっている人が多いから続いているというパターンも存在する。

いずれにせよ「世間の空気」に同調してやっていた人も漠然と"誰か"を求めていたし、リアルで仲間がいるから続いているという人も"誰か"を求めている。

そして本当に好きだから一人でも続けている人というのも、別の趣味では多くの仲間がいるかもしれない。

 

やや話が飛躍してしまったが、大部分の人に共通していることはやはり周りが辞めたから自分も辞めたというパターンだろう。

コミュニケーションやコミュニティが目的でありそこに特化していたコンテンツは流行らなくなる時は一気にユーザーが離脱してしまう傾向にある。

まさにポケモンGOはその典型例であり、こういう物に特化したものが増えすぎてしまうと何も残らないということを示した一つの実例だろう。

ポケモンGOから世間から消え、結局ポケノミクスなど成立しなかったという一つの失敗例から今後の新しいゲームは学んでいくべきなのかもしれない。

 

更にポケモンGOにはもう一つの失敗要因があり「上位ユーザーについていけなくなった」というも多くの人が辞めた理由として上げている。

ポケモンGOをしていて思ったのがすぐに攻略情報が出回り、攻略サイトが乱造されたことだろう。更にSNSなどでも既に多くの人がレアポケをゲットしている事実に直面し、周りの秘境ジムでさえ強いトレーナーが居座り勝てなくなってしまう。

 

基本的にはただ集めるだけのゆるいゲームまで"ガチ化"してしまうのが現代だと言える。

あらゆるゲームで競争が激化し精鋭化が起き、ついていけないユーザーが離脱しているのが昨今のゲーム事情だ。

本家ポケモンのオンライン対戦も現在では全ユーザーの1%しか参加していない状態になっており、本当は実はライトユーザーが大半なのだがネットというのはどうしても上級者の発言権が強い。

 

ネットは皆凄そうに見えてしまい、自分の弱さや小ささに安心できないという構造がある。インターネットがそういった競争をあまりにも過激化し過ぎてしまったせいで、自分がついていけないという事を感じやすくなったというのは昨今のゲームの多くに共通している。

ポケモンGOの失敗はまさに「精鋭しか残れない雰囲気」を作ってしまったことにあるだろう。むしろ意図しないところでそうなってしまったとも言える、本来ポケモンGOは極めて緩いゲームとして作ったはずだった。

競争意識を抱かず自分のペースで続けられるという人は案外少ない。

更に過酷な競争が好きな人というのはそれほど多くなく、みんなで気軽に楽しみたいだけという人の方が多いのだ。

内容のあるアニメを見る人よりも、誰かと気軽に話題にできる日常アニメを好む人が多い事と似ている。

これもまさしく"誰か"に通じる理論であり、「自慢できる仲間」は欲しいが「引け目を感じる他人」は欲しくないという心理がある。

 

結局辞めた理由の3つのすべてが「誰か」を気にした結果である。

外出するならばわわざポケモンGOを起動しない方が結局人と話せる上に、今のご時世スマホを持ちながらポケモンを探していたら「あの人ポケモンGO未だにやってるのか」と"誰か"に見られてしまう。

ポケモン探しのために外に出るという文化は結局定着しなかった。

 

そして世間で流行らなくなり自慢したり話題を共有したりする相手がいなくなったというのもやは"誰か"を気にしている。現実では周りから続けている人が消え、SNSでは反応やウケが悪くなったことが理由にあるだろう。

 

更に上位ユーザーについていけなくなった、ガチ化の空気に気圧されてしまったというのも引け目を感じさせられる無名の"誰か"を気にしている。

基本的にやはり外出とゲームの相性は悪く、誰もやらなくなったから自分もやめたという人が多く、更にネットがあまりにも競争を激化させすぎてしまった。

 

更に地域格差という問題も顕著であり地方在住者が不満を持ってしまったというのも問題だった。そしてこれにもネットが関係しているのだが、今の時代はそういった地方在住者にも発言の機会があり、東京だけがブームを創り出していた時代から地方が流行に影響を与えられるようになったという要因がある。

 

いくら東京在住者が「田舎者にはできない」と言ったところで、そこに反発した人が多く離脱したことはユーザー離れの大きな理由だと言える。

ネットがガチ化を加速させたともいえるし、ネットがユーザーの不満を発信しやすくなったともいえる。

確かにマサラタウンから積極的に外出しなければならないし、現実の地図を反映している以上地方在住者が不利なことは仕方がないのは事実だ。

 

しかし「それは御最もだけど、じゃあそこまで大変なら辞めます」ということを大衆が選択したというのがまさにナイアンティックやポケモンGOの敗北要因になった。

このご時世、都市部の人間だけや上位勢しか楽しめず、誰かと楽しめないコンテンツというのは即座に飽きられてしまうということをポケモンGOは示した。

その結果最後に残ったのが本当に散歩の時に暇つぶしにするために起動するという高齢者だけというのが現代の世相を表しているように思えてならない。