負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ日常アニメが今急速に増えているのだろうか?

最近のアニメがつまらなくなり劣化した理由に日常アニメの量産が上げられる。

猫も杓子も日常アニメ、もしくは手軽に自分が活躍した感が得られる異世界転生ものばかり。

実際はそんなことないのかもしれないがそれがテンプレ的なイメージになってしまう程これまで日常アニメが"乱造"されてきたことは事実である。

 

現実に最近もっともヒットしたけものフレンズは日常を舞台にした世界観ではないものの頭を使わずにリラックスして見れるアニメであり、その意味ではこういった類のアニメがトレンドになっていると言えるだろう。

 

こういった「日々のささやかな幸せ」を再評価する傾向はアニメだけにとどまっていない。昨今のユーチューバーの流行のように「日常の中の親近感」や、顔見知りのように感じられる人が普通のことをやっていることを求める傾向はもはや日本全体の雰囲気になっているように思う。

けものフレンズを見る人々も、ユーチューバーの何気ない動画を見る人もその日々の生活の中で手軽に手に入りそうな幸せを求めているのだろう。

その世界観の中でゆるいアニメキャラも、いつもゆるいことをやっているユーチューバーを求める人たちもその本質においては変わらない。

 

つまり今に日本人は「日常のささやかな幸せ」や「平穏な日々」を求めている。

大きな夢や壮大なものを思い描く想像力や体力はなくなり、日本人は現在疲労しているのである。もはや日本人は日常にさえ疲れるようほど体力がなくなった。

そしてその「日常」さえ実は手に入っていないのである。

日本社会全体が停滞しそれまで当たり前だった幸せさえ手に入れられる人が減ったことで、最低限の幸せを提供してくれるものを見るようになった。

親近感のある日常アニメやユーチューバーを見ることは「友達感覚」を手軽に満たすことができる。

 

たとえばブラック企業に勤め日々上司に説教され同僚に友人もおらず、出世も見込めず薄給で頑張っている若者が、家に帰った後日常アニメやユーチューバーを見ることに癒しを求めているならば誰がそれを批判できるだろうか。

今日常アニメやユーチューバー動画ですら数少ない"癒し"になっているのが日本の現状なのだ。

頑張っても何か壮大な物が手に入るわけでもなく、ただ生きるためだけに仕事をしている人が大勢いる。そしてそういった仕事に疲れた人々は家に帰宅したときSNSでのお互いの承認や日常アニメ、親近感のあるユーチューバー動画に癒しを求める。

夢を見ろ!と言っても夢を見ない方が現代日本では生きやすい。

夢を思い描くより日常の何気ない幸せを楽しんだほうがいい、そしてそのかつて手軽に手に入るはずだった幸せすら今は手の届かない者になっているという背景がある。

 

もう今のアニメファンはアニメに壮大な世界や想像の世界を求めていない。

自分たちの生活のフィールドにないものや、自分たちから距離があるような作品には"共感"できない。

手の届きそうな日常や想像力が回る範囲内の世界観には共感できるが、遠くなりすぎると共感できなくなる。

 

ただでさえ日常に疲れて希望も見いだせない人間が重い作品や深刻なストーリーを見たら更に疲れてしまうだけなのである。

かつてアニメといえば想像の中の壮大な世界を楽しむことが目的だったが、今は日常の疲れを癒すツールになっている。

ネットの仲間とアニメを見てそれが楽しければ癒される、それが楽しくなければ製作者を集団で叩いてストレスを発散して束の間の"一体感"を味わいそのコミュニティの一員になっていることの安心感を得る。

 

なんJで同じ定型文を使っていれば仲間意識を手軽に得られるのと同じで、今こういった「仲間」さえ希少なものになっている。リアルで頑張って人間関係を拡大し労力を費やしてその関係を維持するのならば、ネットで手軽に仲間意識を感じたほうがお互い気軽だという時代でもある。

もはやアカウントさえない「なんJ」のような匿名コミュニティはさらに気軽だろう。ヤフコメ民がヤフーニュースにコメントして自分の意見に対する同意の数で安心感を得ているのもまたその一環だ。

 

そういったネットのコミュニティで日常アニメを見たりユーチューバーを見れば「一体感」「癒し」も頑張らずに簡単に手に入ってしまう。

現実で頑張ってそれらを揃えようとすることはもはや億劫な物であり、更に頑張れば必ず保障される物でもない。

一方ネットで得られる友達感覚や癒しはまるでファストフードのように手軽に入る。

現実で100人の友達やコミュニティを作ろうと思えば苦労するが、ネットでは100人の友達など簡単に作れる。今のネット時代に人間関係とは登録情報に表示される「数値」なのだ。人間関係を数だとしか思っていない人が今増えている。

 

そしてそんな仲間たちとアニメを一緒に実況してそれがタイムラインに表示されれば最低限人間が欲しい物が手軽に手に入る。

リアルで頑張るよりネットで頑張る方がいい、そのことに現代人は気づいているのかもしれない。そして皮肉なことに自分もリアルで頑張らずネットで頑張っている人間なのだ。

 

「リアルで頑張ることって意味があるのかな」と考え始めた人たちが今バーチャルの世界にこれまでリアルで当たり前にあるはずだったものを求めるようになっている。

友達感覚もネットで満たせばいいし、現実のささいな幸せも日常アニメやユーチューバーを見れば労力もかからず手に入る。アイドルさえ見ればもはや恋人さえ必要ない。

頑張らなくても手に入る物でそれなりの幸せが得られるようになった。

これを言いかえれば考えずに見なくてもそれなりに面白いと思えるアニメが増えた。

 

結局リアルでガツガツ頑張っていた人も日本の高度経済成長期やバブル景気を最後に消え、アニメを真剣に見ていたオタクも日常アニメ量産時代到来により消え、交友関係が広いことを誇りにしていた人も今はSNSで数値を増やすことで満足するようになった。

まるで日常的に料理を作っていた人がインスタント食品の発明により減少したことと同じで、今はいろんなものがインスタントに手に入る時代になった。

何かのゲームのプレイ技術を真剣に極めるゲーマーも減り、リアルマネーを払えば手軽に強くなれるソシャゲをする人が増えた、これもまた即自的なものを求める傾向の一つだろう。

 

もう難しい物を頑張って手に入れようとする時代でもなくなり日本人総意識低い化の時代が到来している。

簡単に増やせるネットの仲間、簡単に勝てるソシャゲ、簡単に見れる日常系アニメ親近感のある握手会アイドルやユーチューバー、いま日本人はカジュアルさや手軽さを最も重視している。

頑張ることに疲れた、いや頑張っても夢がない社会になった。

 

日本人が現実に気付いてきた。

「そんな世界はない、高価な物なんて買えない、頑張っても夢をかなえられる人はごく一部」だという真実に。

 

そんな現実に気付き始めた人が「インスタント化」を求めるようになった。

「毎日料理って頑張って作る必要ないじゃん」 →インスタント食品

「人間関係ってそんな頑張って作る物でもないじゃん」→ネットのインスタント人間関係

「アニメってそんな真剣に見る物でもないじゃん」→インスタント日常アニメ

この風潮に名前を付けるとすれば「大インスタント化時代」であり「カジュアル至上主義」とでも言うべきだろう。

 

アニメの中に凄い世界を求めるというのが古い発想であり、そもそも日本人全体が凄い物を求めなくなってきてる。

芸能もアニメも人生も人間関係も壮大な世界には興味ない。

高価なものを買うことにも興味もなければ海外に行くことにも興味がなく、雲の上の芸能人に興味ない。

その結果様々なものが小規模に細分化し、小粒化したことは否めないだろう。

 

少し寂しいが壮大な芸能界やアニメというものはもう過去のものになっていくだろう。自分に最適な最低限度の幸せを多くの人が見つけられるようになったのなら、それはもしかしたら幸せになりやすいいい社会なのかもしれない。

リア充リア充でガツガツ頑張っていた時代、オタクはオタクで世間ではどうでもいいとされる物に真剣になっていた時代。

今どちらの人々もそれほど頑張らなくなっている時代が到来している。

 

リアルで壮大な夢を掲げていい高額な収入を得ていい車買っていずれは夢のマイホームと頑張っている人は意識高い系扱いされるし、「リアルで負けた」という意識があったことでオタク界では真剣になっていたかつてのオタクも今は少なくなった。

リア充も腕時計を持たず軽自動車で許されるようになったし、オタクも簡単に手軽になれる存在になった。「男が腕時計もしていないのか」という人はやや時代遅れの人であり、かつてバブル時代に青春を体験し車に憧れていたはずの世代でさえ今は軽自動車に乗っている。

オタクという言葉が持っていた蔑称的な意味合いもなくなり「私オタクなんですよ」とアイドルが気軽に公に口にできるようになった。

 

格差は拡大し一部のハイスペック人間だけが勝者になれるリアルに興味を示す人は少なくなり、ネットでインスタントにいろいろなものを求める。

逆にネットやオタク文化を真剣に追及していたオタクもその風潮に同化しかつてのような濃いコアなオタクは減った。

そういった昔ながらのオタクが好んでいた異世界物アニメやゲームは最初から異世界だったが今は異世界への「転生」になっている。

何でも今の異世界転生ラノベは「ライバル」や「師匠」という主人公より上の存在や越えなければならない存在が減ってきているらしい。なぜならば「手軽」に無双できないからである。てっとり早く自分が"イージーモード"で活躍することをラノベに求めているのに、わざわざそのラノベの世界まで現実と同じように苦労したくないのである。

そしてこちらの現実にいる普通の人間が異世界にいくことで、最初から異世界でいるよりはリアリティがあり想像がしやすい。

 

要するに作中でまで苦労したくもなければ想像したくもない、そこに労力は使いたくないというのが現在のラノベ読者の傾向である。想像力すら現代の異世界転生物のファンにとっては労力のかかる面倒な物であり、そういった人々のためにインスタントにラノベが用意されている。もはやライトノベルではなくインスタントノベルといったほうが的確なほどだ。

そしてこれまで述べてきたように即自的に何かを手に入れるという行為はあらゆるジャンルで行われるようになっている。

 

また日常アニメの増加は家族という当たり前にあった共同体が今では手に入れにくいものになり、穏やかな日常そのものが貴重になってきた時代背景も要因にあるだろう。

日常アニメファンは一見すると日常を求めているように見えるが、実は「自分にない日常」を求めてる。もはや「日常」や「普通」という物でさえ簡単には手に入らない時代になった。

アニメの中で描かれている日常や、それまで普通とされていた生活が高価で敷居が高くなり手に入らない時代になった。よく言われるがクレヨンしんちゃんの野原ひろしでさえ現代社会基準では勝ち組なのである。

壮大な世界はあまりにも非現実的だが、実は日常アニメですら本当は非現実的になっている。

自分は日常アニメを見ているわけではないが、平均以下の暮らしをしてるため日常や当たり前の生活を普通に手に入れることの難しさには共感できる。かといって日常アニメやユーチューバーを見る事にはならないがそういった癒しを求めること自体を批判することはできない。

 

当たり前の日常のありがたさに気づき、それも手が届かなくなった現代アニメファンはもうアニメの中で心を痛めたくない。彼らに重い作品や深刻なストーリーを見る体力は残されておらず、ほのぼの世界を楽しむことで日々の疲れを癒したい。

むしろまだ日常アニメを見る体力が残っているだけでも十分であり、もはや自分に至ってはアニメを25話どころか12話見る気力すら残されていない

 

これらのことを総括すると日常アニメ増加の要因は大きく2つに分けられる。

1:日本人がどんどん貧しくなってきている

日本社会が衰退したことでこれまで当たり前にあった日常や幸せすら貴重なものになっている。日本人が頑張って凄い物を手に入れるという時代に疲れ、程よく手に入る物で満足するようになった。そしてその競争からも落ち、ちょっと頑張れば手に入れられるものさえ手に入れられない層も増えたのが現代の状況。

 

2:簡単にオタクになれるようになった

オタクに限らずインスタントに様々な物が手に入る時代になったことで、オタクという肩書やステータスも簡単に手に入るようになっている。

インスタント食品のように「インスタント友人関係」や「インスタント日常アニメ」「インスタント共同体」が増え始めた。そして「インスタントオタク」も増えた。1つ目の理由と複合したことで更に日常アニメや癒しアニメは増えている。

まるでファストフード店でファストフードを食べながら友達と雑談するように、今は日常アニメがそのお店や料理を代替するようになった。

ファストフードにそこまで意味はなく友達と話すためのツールや場所に過ぎないように、もうアニメも"コミュニケーションツール"の一種になりそこまで大きな意味を真面目に求め考察するようなものではなくなった。

 

わざわざファストフードの味を真剣に追及しないようにもはやアニメを真剣に見なくなった。彼らはアニメが理解できないという以前に理解しようとしない。ファストフードの味を真剣に評論することに労力を使いたくないように、アニメを真剣に考察することや想像することに労力を使う事、その過程が面倒になっている。

 

かつてフランスにマクドナルドが進出したとき味覚や料理の教育に熱心なフランス人はフランスの食文化が失われるとして抗議した。

「もっとちゃんとしたフランス料理を楽しみこの文化を守らなければならない」と保守的なフランス人は自国の美しい食文化の保護に乗り出そうとした。

 

もしかしたらかつてオタク文化を美化し最近のオタクを批判している人は、かつてマクドナルドの進出に反対したフランス人のような存在なのかもしれない。

料理はしっかりと味わい楽しまなければならないという美食家とアニメやゲームは真剣に深く楽しまなければならないというオタク、その両者はその文化を重視しない人々からするとただの面倒な人でしかない。

「視聴者層は広がったが質は確実に落ちた」とかつてのオタク文化を知る人々は語る。自分自身かつてはオタク文化をより拡大しネットを普及させ世の中にこれだけ面白い物を広めれば更に面白くなると信じていた。

しかしその先に訪れた現代はかつてのオタクが思い描いていた理想社会ではなかった。

拡大していくことだけが正義ではないしそのコンテンツにとって幸せとは限らないことに気付いた。

 

その一方で閉じてしまうだけでは衰退を免れないというジレンマがある。 最終的にフランス人はアメリカのファストフード文化や日本のインスタント食品文化を受け入れ今フランス全土にマクドナルドがありカップ麺も数多く売られている。

これも時代なのだろう。

日本やアメリカのカジュアルな食文化を受け入れたフランス人のように、オタク文化もまた「日常アニメ」というカジュアル文化を受け入れなければならないだろう。抗えない時代の流れが様々な遠因となり現代文化に影響を与えている、文化とはその社会の反映でもあるのだ。

elkind.hatenablog.com

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