負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

北朝鮮のミサイル発射ってそんな騒ぐことか?

ここ最近の北朝鮮は本当にミサイルばかり発射しているという印象があり、もはや何度目かさえもわからないし、また発射するだろうとしか思わない。

冷静に考えても見れば隣国に核保有国がありその国が核弾頭を搭載できるミサイルを発射し続けていることは異常事態なのだが、もはや日本人の感覚は麻痺している。

冷戦期のソビエト連邦ですらここまで過激なことをしなかったのではないかと考えると北朝鮮の異常性に気付かされる。

 

しかし正直なところそこまで騒ぐような事でもないという感情になってしまい、日本人のほとんどが感覚麻痺していても仕方がないだろう。もういくら「もっとも強い表現で非難」と日本政府がしたところで彼らは聞かないだろう。

そして下手に挑発に乗ってしまえば被害は甚大になり、見過ごしていたほうが実は犠牲者は少なくて済むという構造がある。

 

平和ボケと言ってしまえばそれまでなのだが、どうせ本当に攻撃してくるわけでもない北朝鮮の相手をしていても疲れるだけでしかないのだ。騒いでるのは一部の人たちであって大部分の人たちはもはや冷めきっているだろう。

不謹慎ではあるがミリタリーファンとしてはミサイル発射に興奮していた部分が無いと言えば嘘になる。しかし最近はもはやそんな感情さえ沸いてこず、日本の日常の景色にもはやミサイルが溶け込んでいる。

 

まず日本人の大部分が認識していないこととして、北朝鮮の幹部や高官、政府中枢の人間というのは本当に戦争をしたがっているわけではないという事情が存在する。

周辺国や西側諸国に対する威嚇行動ともとれ、威勢の良いことを彼らはアナウンスしているが実はあの発言や行動の数々は対外向けではなく北朝鮮国内向けのものである。

 

つまり朝鮮労働党の幹部の人たちは政権維持をするために対外的に強硬な姿勢を貫いているだけでしかない。北朝鮮が本当に平和な社会になってしまえば即座に民主主義の波が押し寄せてしまい、自分たちは政権から追い出され特権を失うことになる。

古くはソ連崩壊前後の共産主義体制の崩壊であり、近年では核兵器を持たない国々の独裁政権が崩壊させられている。

金王朝の一族はルーマニアのチャウシェスクのようになりたくもなければ、イラクのフセインのようになりたくもないと思っている。チャウシェスクの処刑シーンや、フセインやカダフィの悲惨な末路を見て彼らは何としてでも自分たちの政権を維持したいと考えている。

日本やアメリカと対等にわたっていく事など本当はどうでもよく朝鮮民主主義人民共和国を強盛大国として育て上げたいとは微塵たりとも思っていないのだ。

 

「とにかく攻撃しないでください」とまるで派手な色をした昆虫のように警告を発しているだけでしかないのだ。毒針や牙を見せつけてり、見るからに食欲を減退させる色彩を見せつけたりして「食べたら危険」という事を示唆する生き物と基本的な行動は変わらない。

 

その毒針とはまさに核兵器であり、北朝鮮がこれだけ核兵器にこだわる理由は実際彼らが言うように「自衛」が目的であることは間違っていない。

北朝鮮政府は全く嘘はついておらず自衛が目的であることは確かに事実なのである。

 

また最近「グアムを攻撃することができるICBMを開発した」と言うようなことを示唆しており、それに対してトランプ大統領が確実に報復するとも発言しているが北朝鮮がアメリカを攻撃する可能性は極めて低い。

なぜならばアメリカを攻撃した国がどうなったかというのは1941年と2001年の出来事で彼らは良く知っているからだ。

 

しかし核兵器を手放す理由は彼らにはない。

核兵器を持たない独裁政権の国がどうなってしまったかという事も彼らは熟知している。ある意味アメリカがやっていることは民主主義という大義名分によって実行される帝国主義政策でもあり、北朝鮮がアメリカ帝国主義を批判する論理に全く整合性が無いというわけでもない。

 

実は北朝鮮という国はソ連崩壊以降は朝鮮半島の南北統一を完全に諦めており西側諸国に対抗しようというエネルギー自体が残されていない。彼らはある意味穏やかに政権を維持することだけを望んでおり、その生活を保障したいがためだけに核兵器や弾頭ミサイルを開発している。

通常兵器で対抗しようとすれば間違いなく不可能な事であり、ある意味最も合理的な最適解にだけ特化して国家予算を投入している。

 

本当に他国に侵攻したり攻撃を仕掛けたりするという意味では、アメリカの方がよほど危険であり実は北朝鮮というのは比較的安全な国でもあるという見方をすることも可能だ。北朝鮮が過激な行動をしている部分が無いわけではないが、もはや現代においてはプロパガンダ以上の意味合いは持たないだろう。

韓国に侵攻するために地下トンネルを掘っていたり、スパイ育成のために他国の人間を拉致していたりした時代は既に終わっている。

こういった構造を知れば知るほどこういったミサイル問題を殊更に騒ぎだてることが意味のない事のように思えてならない。

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広瀬すず「どうして大人になったとき介護職員になろうと思ったんだろう?」

広瀬すずの職業差別発言が少し前に話題になったが、自分が唯一理解できない仕事がいわゆる介護関係である。

自分自身は広瀬すずの発言に対して「自分が女優になりチヤホヤされてる人間にはわからないが、不本意なことをしなければならないのも大人」だと思っており、照明スタッフにも人生があるはずだと考えている。

主人公になれた人間は、主人公になれず自己実現を出来なかった人間の感情を理解できないだろう。そして自分も10代の時は負け組になることなど想像もしていなかったし、むしろ広瀬すずと同じような思考をしていた立場だ。

 

しかし現代においても介護職員だけは理解できない。

実は自分の身内にも介護関係の職に就いている人がおり、極めて近しい存在のため馬鹿にしているわけではない。介護職員を見下すというよりも、素直にあの給料であの内容の仕事をやっていることが凄いと尊敬さえしている。

その苦労の実態も良くわかり本当に疲弊した姿を見ているため、介護職に就いている人のことを貶そうとは思わない。

言葉は悪いかもしれないが紛れもなく"底辺職"の一つであり、人生を高齢者に捧げる事は自分には出来ない。

月給で換算した場合40万貰えるならばやっても良いという気にはなるが、その半分前後の給料であの仕事をすることは厳しい。

よく言われることだがあまりにも介護職員の給料は低く、その仕事についている人はもう少し報われても良いはずだ。

 

それにしても社会の構造として若者がただ人生や労力の殆どを高齢者の介護に捧げなければならないというのは非常に効率が悪いことだ。

単純に考えてエネルギーのある若年層が、高齢者のためだけに疲弊しているということは効率が悪い社会だとしか言いようがない。

全く介護以外の仕事が社会に存在しないというわけでもなく、何も生み出さない高齢者の世話をするためだけに若い人々のエネルギーが浪費されるだけで終わるというのはもったいないことだという思いの方が強い。

 

自分の身内も介護以外の職業についていれば他に何かを生み出せた可能性があるが、ただ老いていくだけの人間の世話をし続けることのどこに生産性があるのかは疑問だ。

そして同じような人々が多く存在しており、今の日本はただ高齢者に莫大な年金や社会保障予算だけを吸い上げられ、新しい世代が薄給で夢も希望もない人生をおくらなければらなくなっている。

まさに終わるべくして終わろうとしているのが超少子高齢化社会の日本だ。

 

別の言い方をすれば介護職員がいるおかげで介護をしなくて済むという人々も多くおり、その人達としては助かっているだろう。

介護を誰かに任せている人が何か生産的な行為をしていれば間接的には何かを生み出しているかもしれない。

しかし現実の問題として多くの人がただ高齢者層の為だけに疲弊している現実を自分は見てきた。この問題はいずれ決定的な歪として噴出するだろう。

 

介護職を始める人が少なくなれば、求人に対して応募が少なくなり給料が上がっていくのだろうかとも考えたことがある。

現状の労働条件であっても介護職を選ぶ人が十分に存在するため、老人ホーム側はその条件で従業員を雇うことができるという構造が存在する。

資本主義の基本的な構造として従業員が少なくなれば、新しい人材を雇うために給与を向上させなければならなず、適応できない組織は淘汰され廃業していくことになる。

 

一度介護職員が全国規模で組織的なストライキやボイコットを行ったり、デモをしたりすればよいが都合の悪い条件に対して言いなりになっている人が多いことも現実だろう。

こういった場合労働者は経営者側に対して不利になり酷使され続ける。

もっとわかりやすく言えばいじめっ子に対して逆らわない人間はいつまでもいじめられ続けたりパシられ続けたりする事と同じだ。

 

介護職員はブラックだという情報が世間に広がり過ぎたため今後希望者は少なくなるが、反比例するように要介護高齢者層は増え続け、勤務内容はよりハードになるだろう。その時に給料が上がるかという保証は残念ながら存在せず、仕事は増えるのに給料はほとんど増えない。そして現場の従業員は疲弊し、日本社会も疲弊していくという悪循環に陥るのではないだろうか。

 

自分は社会学や経済学の専門家ではないのだが現状若者が介護で疲弊している社会に希望を感じることはできない。末端で働いている介護職員はもちろん悪くなく、自分も身内もその一人である。

先の大戦も戦場の現場で戦っていた兵士が悪いわけではなく、腐敗した上層部の犠牲になったと言える。

現状の疲弊した介護職員の姿を見ると、犠牲になった尊い兵士たちにその姿を重ねて見ずにはいられない。なぜ彼らが犠牲にならなければならないのか、社会保障予算を吸い上げ食いつぶす高齢者層に薄給で奉仕する現場の人間に罪はないはずだ。

 

例えば海外に老人ホームを移転し、老後を海外で過ごすというライフスタイルを日本人の生活として普及させていく事は代案の一つなのではないだろうか。

詳しい実情を勘案したわけではないが例えば月6万で老人ホームに入っている高齢者が、月2万程で同じサービスを受けられる国に行けばその家族は大きく助かるのではないだろうか。

更に日本の賃金水準で日本人に介護サービスを行わせるという構造自体がそもそも間違っているのではないか。

 

月6万で最低限のサービスを受けなければならない高齢者側も、薄給でその仕事をしなければならない従業者側も現状は不幸だ。

同じ額ならばより良いサービスを提供できる安価な労働力を持つ国はいくらでも新興国に存在するだろう。

 

具体的に言えば日本にアジアの国々から介護職員を移民として呼び寄せて、彼らがその激務に耐えられず逃げ出すというケースが存在するが、日本人側がアジアの国々に介護を受けに行くということがあっても良いのかもしれない。

政府事業で海外に老人ホームを作れば現地に雇用も作り出せるのではないかと考えなくもない。

突発的なアイデアと言われればそれまでなのだが、海外の人件費でコストダウンをした介護サービスを実現するか、日本の同額ならばより良いサービスを提供するという考え方にシフトしていくべきではないのか。

 

例えば最低限のサービスで良いから残された家族に少しでもお金を残したいと考える高齢者層も存在するだろう。

また同じ額を払うのであれば至れり尽くせりの介護サービスを海外で受けたほうが幸せな老後だと考える人も存在するのではないか。

自分が高齢者になったときのことを考えた場合、老人ホームになかなか入れず、更に入ったとしても劣悪なサービスしか受けられないという老後の人生よりも海外で快適な老後生活を送ったほうが良いと考えている。

「海外の介護は日本人には合わない」というのも、相応の対価を支払えば十分に提供できるのではないだろうか。

脊髄反射的に考慮する前から否定をし始めるべきではないはずだ。

 

問題の本質をシンプルに考えた場合、日本で日本人に安い給料を払いながら過酷なサービスを要求しているという事にすべての原因が帰結する。

どう考えても現在の給与水準や人件費で介護サービスをさせようとすることは不可能なのだ。それを無理やり実行しようとしているから様々な歪が生じ、「介護はブラック」だと悪名高くなり従業員が集まらず、数少ない介護職員も退職を選ばなければならなくなっている。

その結果老人ホームに入ることが難しくなり、介護をしなければならない家族がいわゆる"介護疲れ"に陥ってしまう。

経済の基本構造に反したことを要求することで、結局消費者が苦労しなければならないのだ。

「お客様は神様」という考え方や「経営者は偉い」という思考は必ず矛盾を引き起こす。

 

経営者側は「サービスに対してしっかり対価を支払う」、従業者側は「支払われた額に対して相応しいサービスを行う」という基本中の基本が日本社会ではなぜか実現できていない。

質の高い労働に対して相応の額を支払う事は当然であり、少ない額に対してそれ以上のサービスを求める事をしてはいけない。

逆に従業員側も少ない額しか支給されないならば、それ以上の労働をサービス精神で提供する必要などないのだ。

 

欧米の基準では至極全うな考え方なのだが、民主主義や労働者の権利を努力で勝ち取った経験が少ない日本人にはこの原理原則が理解できていない。

空気を読んで定時に帰らない事やサービス残業を行うことが常態化している日本においてこの考え方は未だに根付いていない。

上から強いられる理不尽に対して「それは仕方がない事」だと考えてきた日本人の伝統的な気質からして、こういった権利の獲得は非常に難しい問題となっている。

歴史や文化の問題に飛躍して検証しなければならない程この問題は複雑であり「日本人だから」としか言いようがない部分も存在する。

近代化ができていない、自我の形成ができていない、そもそも日本人にそういう生き方は向いていない、そういう根深い問題に行き着く部分も存在する。

 

理不尽を強制する側が悪いと言うよりも「理不尽に従う事を美徳だと考えて、反抗せずに受け入れる人間がいつしかそれを強制する側になる」という構造が全ての根源ともなっている。

なぜ反抗せず権利を獲得しようとしない上にいつしかその理不尽を次の世代に強いるかと言えば、それは日本の歴史に遡る事であり「それが大和民族の性質だ」という説明が最も適切な回答だろう。

狩猟民族ではなく農耕民族なのが日本人であり、作物を黙々と育てて生きてきた伝統が存在する。

「苦しい時は皆で耐えよう」という価値観は農作物が自然災害で台無しになった時にどう乗り越えてきたかという農耕民特有の気質でもある。

 

経営者側が有利であり従業者側は権利を行使しようとせずむしろ従順に受け入れ、いずれ自分がその悪しき伝統を継承するというケースは日本社会のあらゆる局面に散見される。

そしてそういう事を考える新しいタイプの人間は「協調性が無く空気を読めない人間」とレッテルを張られ排除され淘汰されていくという構造が存在する。

理不尽をここまで美化し、それを人生の意味だとすら考えるような民族は世界中を探しても日本人以外に存在しないだろう。

 

勤勉なことは尊いという価値観を信仰して生きてきた日本社会は現在疲弊し、衰退しつつある。

それでも外国人にその勤勉さや真面目さを賞賛されれば、SNSでいいね!を貰ってはしゃぎ回るように日本人の優秀さに自己満足をして問題の根源など考えもしなくなるのだ。

この時代の変化や矛盾を感じ取ることができない大衆はいずれ破滅へと向かうだろう。

 

ただこれらはあくまで自分の主張に過ぎず、本当にこれらの考察が正しいかどうかはわからない。

しかし日本の介護制度に歪が生じ始め、更にカナダの人口に匹敵する3500万人もの高齢者層を抱える日本社会がこの問題と真剣に向き合っていかなければならないのは事実だろう。

都合の悪いことに蓋をし、問題の本質から目を背け議論を先延ばしにするという考え方はもはや通用しない。

絶望的な超少子高齢化社会に対して日本人がどのような解決策を選択するか、どうなるか様子を見てみよう。

仕事を辞めるとほんと開放的な気分になるよなwww

朝起きたときに今日という1日が笑顔でいられるようにそっとお願いする必要が無いというのは本当に気楽なことだ。

そもそも早く起きる必要もなく、起きてから今日は何をしようかと考えることができる、そんな何気ない事が何にも代えられない幸せだ。

仕事を辞めてこの何気ない日常のありがたさを再確認できた。

そして明日も何もしなくていいのだと思える幸せを感じずにはいられない。

まるでバルセロナを退団したネイマールのようにイキイキとし始めている自分がいる。長らくニート生活を続けてきた自分にとってやはりこの感覚が普通なのだ。

 

確かに先行きは見えず何も成し遂げられず残らないような人生かもしれないが、今すぐ先行きを見つける必要もなければ人生とは何かを成し遂げなければいけない物でもない。

そんな小さなことより今日という1日を晴れやかな気分で過ごすことの方が遥かに重要なのだ。

 

仕事が人生の楽しみや目的であり高額な報酬を得られるような職種につくことができているならばそれほど幸せなことは無いだろう。

しかし大部分の人間が不本意なことをしなければならないのが仕事であり、多くの人が我慢をしながら働いているのが社会の実態でもある。

 

なぜ仕事をするのかと言えば夢や自己実現というのは綺麗事であり、基本的にはお金のために誰もが命や時間を削りながら働いている。

自分の時間や体力をお金に変えるために皆労働という行為をしているのである。

 

失業保険や不労所得、遺産や年金というケースが存在するが基本的には仕事を辞めればお金が入って来なくなる人の方が多い。自分自身、今回仕事を辞めたことで無収入の状態に戻り貯金を切り崩していく生活が始まる。

 

しかし人生というのは最低限の出費に抑えればある程度生活できる物なのだ。

極貧生活や底辺生活は一度慣れれば、それなりに満足が行く。

人間の慣れる能力や適応能力というのは案外高い物であり、生活レベルを落とすことに慣れればそれが苦ではなくなる。

生活レベルや社会的な体裁を維持するために大変な仕事をやるか、生活のレベルを落とし恥も見聞もなく過ごすことを選び、労働の苦しみから解放されるかのどちらかを天秤にかけるかのどちらかは自由だ。

 

通帳にお金が入っていない状態に慣れ、その日暮らしの出費を計算する生活に適応することさえできれば仕事など必要な時だけするというスタイルでも生きることは可能になる。

ガツガツ仕事をして高収入を得て、いろんなものを買って夢に向かっていくことが人生だと考える生き方を誰もが選ぶ必要はない。

 

生活レベルが低い事に対する苦痛と、仕事をすることの苦痛のどちらがマシかという選択において自分は前者を選んだ。

現状後者を選んでいる人が多いが、今後前者を選びミニマムな生活をする人はますます増えていくかもしれない。

 

真面目に働けば報われて給料が上がっていくという幻想が崩壊し、アルバイトをするより生活保護受給者になったほうが裕福に暮らせるという世の中の構造が悪いのだ。

「仕事」に対する幻想や希望がとっくに崩壊している現代の日本社会において、もはや仕事は尊いものだという神話は通用しない。

「国家」や「天皇」という神聖な価値観を敗戦によって失った日本人が戦後その崩壊したアイデンティティを埋めるために選んだのが「仕事」という次なる神聖な存在だった。敗戦によって焼け野原になった日本人は朝鮮戦争やベトナム戦争によって発生した特需により多くの仕事に恵まれ、その心をの隙間を埋めることに成功した。

ただ働くだけで人生は幸福へと急発進し、現実に高度経済成長期を迎え日本人は裕福になっていった。

その甘美な時代や成功体験が忘れられない日本人は今も仕事を神格化し続けている。仕事が日本人に幸せを与えてくれた神様のような存在であったことは事実だが、もはや現代においてその神は"人間宣言"を行った。

 

仕事は日本人を幸せにするものではなくなったのだ。

もはや「働いたら負け」という言葉が現実化しており、生活保護受給者になることが勝ち組とされる世の中になっている。

悪いのは生活保護を貰う人間だろうか、それとも生活保護を貰う生活のほうが真面目に働くことよりも遥かに幸せになった社会のほうなのだろうか。

頑張って働いても報われない社会になっているにも関わらず、仕事は美しいという嘘をつき続ける上層部や、その価値観を盲信し同調圧力による強制を敷く「社会人」という存在に疑問を呈する人々が現れても良いはずだ。

 

出来れば自分も生活保護受給者になりたいと思っており、もしかしたら歪な生活保護制度や年金制度によって財政が破綻しなければこの社会は気づかないのかもしれない。

働いたら負けであり仕事をしても幸せが見えてこない社会が間違っているという事実から目をそむけてはいけないのではないだろうか。

 

仕事をすることが人生の最適解だと言われた時代は終焉しているにもかかわらず、「仕事に誇りを持っている生き方は素晴らしい」と綺麗事をプロパガンダのように宣伝する社会の方がおかしいのだ。

仕事をしなければ一人前の社会人ではないという同調圧力に屈し、劣悪な条件で働き疲弊している人間が大勢いる。

 

戦前の日本において「日本人なら」という言葉によってあらゆる理不尽を封殺していたように、現代では「社会人なら」という魔法の言葉によって都合の悪い事には蓋をしている。

日本人としての誇りという言葉が社会人としての誇りという言葉に置き換えられただけであり、全体主義的な村社会は現代も存続している。

勤勉な日本人ならば多少の事は我慢しなければならないし、それができるのが日本人だという価値観をそのまま社会人という言葉に変えただけでしかない。

「社会人ならばこれくらいの事は我慢しなければならないしそれが常識だ」というフレーズは神話のようにこの国の全土に根付いている。

その結果効率の悪い事や理不尽なことは改善されず、老朽化した日本社会というシステムは新しい時代に適応できなくなってきている。

 

農耕民族として共に理不尽や苦境に耐えることがかつての日本人の美徳だったならば、現代では社会人ならば美しい日本社会に奉仕することが美徳なのだ。

大和魂で乗り切れと理不尽な命令をした大本営と、社会人魂で乗り切れと理不尽な慣習を維持し続け下の世代にも強要する人々のどこに違いが存在するのだろうか。

 

日本人は未だに近代的自我を確立できておらず、真の意味で近代化を果たすことができていない。

21世紀の現代においても未開で前時代的な労働文化が維持され続けていることから目を背け続けてきた結果、この国の社会は衰退の道を歩み始めた。

上層部は自分たちの既得利権だけを大事にし、末端の人間は切り捨てる。

若者がいくら苦しもうが高齢者は構わず年金をもらい続け、下の世代を批判し続ける。

上の人間が絶対だという価値観は先の大戦において散見され、そして近代化以前の日本に置いてはそれが常識でもあった。

個人という概念は今の日本においても存在するように見えて存在していない。

この日本列島という島に辿り着いた頃から日本人はそういった文化を育み、そうやって生きてきた。

要するにそういう国であり人々なのだ。

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僕自身仕事をやめる喜びはあった

社畜生活からの"出所"は意外に早く訪れた。

ここ10日間程仕事をしていたが今回も続かず職場で揉めて解雇される形となり、再びニート生活に舞い戻ることを果たすことができた。

 

同胞のニート諸君、恥ずかしながら帰ってまいりました。

なぜこれほどまで早く仕事を辞める事になったかといえば、きっかけは今日の朝での出来事だ。

今日は勤務時間に遅れ、そこから更に仕事内容について新しい注文を要求されたことで自分が反論し口論に発展し「もうこなくていい」と言われたのが大きな流れだ。

まず今朝いつもなら起動するはずの目覚まし時計が機能せず、自分自身それより早く起きていたにもかかわらず「今日は目覚ましが鳴らないが昨晩早く寝たからまだ早い時間なのか」と思っていたらもう時間は過ぎていた。

完全に遅れたわけではないが出発の時間になっており、朝から嫌悪なムードでスタートする。

自分の場合目覚まし時計といってもテレビの予約視聴で起きているためこれが時々機能しないことがある。

これは不運、いやある意味幸運だった。

 

さらに前日仕事内容について帰宅時にやや口論になっていた。

こちらの朝が遅いという意見に対して、そちらの夕方に片付けが遅い事は同じなのではないかと苦言を呈していたという遠因が存在する。

自分は一方的に要求に黙って答えるタイプではなく「要求をするならこちらも要求するのが交渉だ」という姿勢をとっており、以前から言おうとしていたことを今回のタイミングで要望をすることになる。

要求や要望と言っても大袈裟なことではなく、お互い一緒に仕事をする立場としてちょっとした生活習慣に関することなのだがこういった些細なこともタイミング次第では決定的な亀裂になる。

 

本当の社会人としての関係としてだけでなく、それ以前に身内なのだから聞いてもらえることだと思っていたが「これとそれとは別だ」というようなことを言われて口論に発展する。

その結果「もうこなくていい」と言われることになる。

その人というのは以前から自分の反論に困ると「もういい」と議論を棚上げにしてしまうタイプであり、自分も自分でやめたかったため交渉は決裂、無事現在の仕事を辞めることができた。

 

自分の働きに対してそれほど多くの額を出すことは厳しいと考える向こう側と、安い額しか支払われないのだからこちら側もそれ相応の仕事しかしないという価値観の相違も存在した。

 

様々なことを勘案した結果として辞めたいと思っていた時期であり、現在の職場はブラックだとも考えていた。辞めるなら早い方がいいと思っていただけに今回の事はむしろ幸運だったとさえ思っている。

昨日の夜に現在の仕事や人生について考えていたこともあり、もはややめることは既定路線となっていた。

 

現在の職場には決定的な欠点が3つ存在する。

・自分に向いていない仕事であること

・致命的に薄給であること

・拘束時間が非常に長いこと

 

まず一つ目の理由として現在の仕事は「キツい、汚い、危険」といういわゆる3Kの肉体労働であり自分自身始めたいと思っていたわけではなく、強制的に働かされていたという格好になる。

本当にその仕事が好きで、その道で生きていたいと考えているならば現在の環境も絶望的に悪いというわけではなかった。しかし先数年、数十年やっていきたいと思うような仕事ではなかったため本気でやる気にはなれなかった。

 

次に給与に関して非常に低く実質的に最低時給を下回っており、仮に一ヶ月勤務したとしても手元に残るのは出費も含めれば6,7万円が限度であり先行きは見えなかった。

 

また勤務体制に関しても半ば自営業のような形であり、更に1週間に6日勤務しなければならないような業種だった。

「この仕事は朝の8時から5時まで働いて時給が発生するような仕事ではない」と言われ、更に「職人は技術を磨いていけば給料は上がっていく」という旧時代の考え方の持ち主でもあった。

修業期間は小遣い程度で十分だという価値観で育ったため、それを要求してくるようなタイプだったことは否めない。実は以前にもこの仕事を「手伝い」という形でやらされたのだが、その時は体力作りという大義名分でタダ働きをさせられ数日でやめたことがある。

身内なので断れない部分もあり、現代においてもこういった前時代的な職場は数多く存在する。

こういった底辺の仕事をしている人間ほど自分は「職人」だというプライドをアイデンティティの拠り所にしており、理不尽なことを美化する風潮がある。

また努力をすれば収入は上がっていくという給与事情に関しても理論上の話であり、その仕事を本当に好きになり本気で勤しんだ時にだけかろうじて達成できるかできないかという水準であった。

 

こうした肉体労働はいずれ移民のような安い労働力や機械に代替されていく物であり、更に日本の人口構造を考えた場合必然的に需要が下がっていく運命にもある。

自分の肉体が衰えていくことに反比例するように需要は下がり、条件は悪くなっていく。このような仕事に先行きは無く、甘い言葉に騙されずいち早く見切りをつけたことは賢明な判断だったのではないかと思っている。

自分の場合ブランク期間があり、大学を中退し専門技術も習得してこなかったということも背景に存在する。こういった身内の伝手で跡継ぎのように職人の世界で生きていくことは確かに社会復帰を果たす有用な手段になり得た可能性はある。

まともに定職につかず先行きが不透明な生活を送っている中で覚悟を決めてこの仕事に生きることも一つの人生だったのかもしれない。

 

現在の給与事情が悪いと言っても都会のコンビニや業務用スーパー、飲食チェーン店で家賃や水道光熱費代の為だけに仕事をしている人に比べると体感としては大きな差はなかっただろう。

都会で仕事のためだけにに薄給のアルバイトで生きることも、田舎で小遣い程度の稼ぎをしながら修行生活をすることも自分の時間が無くただ何も喜びが無く生きて暮らしているだけということには変わりはないだろう。

 

自分が特別劣悪な条件で仕事をしているわけではないと言い聞かせることも可能だったのは事実だ。 

現代においてそういった生活をしている人はいくらでもいるのだ。

 

社会のレールに上手くはまり順調に生き出世ルートを歩んでいる人間も確かに多いが、同時に今の時代これといって定まった生き方をしているわけではない層も多い。

大学進学率は上がり、浪人や留年という事例は増え、大学院に進むこともあれば就職浪人や仮面浪人を選び人生をやり直そうと考えている人もいる。

 

「モラトリアム期間」という言葉に甘えてはいけないのは事実だが、高校に進学せず仕事を選んでいたような世代の人間とはやはり価値観が合わないという事情も存在する。

自分はこれでも十分にそういった猶予を容認されてきたが、それでも自分以上にまだ年齢が上で道を決められていない人間も多く存在するのだ。

人生を本気でスタートさせるタイミングは早くなくても良い。

 

言葉は悪いかもしれないが「社畜」や「奴隷」として社会に奉仕する人生に覚悟を決めることは10年後でも十分にできる。人生はその時に諦めて、そこから「社会人」という名の奴隷として歯車になっていけば良い。

自分に甘いと言われればそれまでだが自分はまだ好きに生きていいと思っているし、それの何が悪い事なのかとも開き直っている。

アドルフ・ヒトラーは画家という夢に破れ、ニートと浮浪者を行き来するような生活を若い時に続けていた。

その状況から一国の最高権力者にまで上り詰めたのだ。

 

歴史に名を残す革命家や芸術家で社会システムに従順に従っていたいた人間の方が稀だ。社会に反抗し新しい概念を創り出す人間というのは安易にそのシステムに染まってはいけない。

日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成もまた若いころに自由な生活を送り、その時の経験を『雪国』として成就させる。キューバ革命を成功に導いたエルネスト・チェ・ゲバラも南米を放浪していた時期があった。

画材を購入する費用さえ捻出できずに浮浪者のようなその日暮らしの生活をしていた貧乏な画家など無数に存在するだろう。

 

社会に素直に適応することが優秀な要素だとは限らない。

「集団行動」や「空気を読むこと」を重視する日本社会においてこの価値観に逆らう人間は異分子だろう。しかしそのことの異常に気付き始めている新しい世代も増えている。

自分は今回「尊敬できない人間」に逆らい仕事をたった10数日辞めた。

もし日本が「尊敬できない社会」だとするならばもはや従う必要はないのではないだろうか。

 

もし仕事を辞めたいと思っている人間がいるならばいち早くやめたほうがいいだろう。

劣悪な条件で従業員を酷使するブラック企業や旧世代の自称職人など淘汰されてしかるべきなのだ。

労働者が劣悪な条件で酷使され疲弊し消費が低迷し日本経済が衰退しているのは周知の事実である。仮にこういったブラック企業が淘汰され、ホワイト企業が増え、多くの人が生きやすい世の中になれば現状の停滞も打開されるだろう。

時間も無くお金もない、そんな人間が経済に貢献する消費活動をする余裕はなくて当然だ。

そして年金を支払い高齢者を支えたり結婚し家族を養ったりする余裕などなくて当然であり、それができなくなっている日本は衰退の一途を歩み始めている。

 

社会の枠組みからはじき出されたり自ら抜け出したりした人間など無数に存在する。

そして人生が定まらない人間など世界を見渡せば星の数ほどいるのである。

もはや社会システムは老朽化し従順になる物ではなくなってきている。一部の順調な人間を除いて多くの人が不本意な制度に降伏しなければならなくなってきている。

 

しかし横断歩道皆で歩けば怖くないという言葉のように、この社会に素直に従う事も皆で辞めれば何も怖くないのだ。

自分の仕事に本当に満足が行っている人を無理にやめさせようとはもちろん思わないが、本当に精神的にも体力的にも苦痛だと考えている人は自ら命を絶つ前に勇気をもってやめてほしい。

自分のように恥も見聞も無く、社会のせいにして図々しく生きている人間もいるのだから。

劣悪な労働環境など迷惑をかけてでもやめていい、社会の生贄になり犠牲者となる必要などどこにもないはずだ。

 

疲弊してまで見栄や体裁に拘る必要はどこにもない。

「頑張っても報われない社会」ならば本当に最低限の仕事だけをして意識低くミニマムな生活を過ごすだけの人生があってもいい。

一生懸命働けば報われて誰かが決めた幸せにありつけ、そして同じような生き方をしている大衆という概念が存在した前時代とは全てにおいて価値観が異なる。

 

消費しない現代人と言われるが最低限のものしか買わず、その代り「仕事や人生はそれほど頑張らなくてもいい」という安堵を選ぶ層が増えても良いのではないか。

誰かに命令されて雰囲気に従い、まるで体育祭の徒競走のようにゴールまで走らされることだけが人生ではない。

「走るの疲れるからゆっくり歩いてゴールします、ちょっと座らせてください」という人がいても良いはずだ。

 

誰もが順位やタイムを競う必要などなく自分のペースで生きても良いのではないだろうか。走ることが苦手な人を無理やり走らせて、最後にゴールした姿を笑うことが健全だとは思わない。

自分は短距離走は中位程の順位が定位置で、長距離走は苦手で最後にゴールしたことがある。しかもその長距離走については途中仮病で離脱した人間がいたため自分が最下位になってしまったのだが、社会という競争において仮病を使う人間がいても良いのではないだろうか。

小学時代は長距離でも問題がなかったが、中学になると男子はほとんど運動部だったため帰宅部だった自分はその体力についていけなくなったのだ。

 

長距離走は体育測定の時にしかなかったためこの嫌な体験は一度しかないのだが、短距離走に関しては機会があるごとに行われるためいつも最下位でゴールする生徒が本当にかわいそうで仕方がなかったし、笑ったり馬鹿にしたりするような気にはなれなかった。

なぜあのような辱しめを行うのかいつも不思議でしかなかったが、それも日本社会の性質であり、現代社会にもその価値観が継承されている。

 

最下位でゴールした人間を笑う、そういった悪しき価値観が「社会」という名の校庭で大人になっても行われている。

運動だけではない、テストの成績でいつも下の順位だった人間も同様に笑われてきたはずだ。

日本という国は教育の段階から既に順位付けが日常茶飯事となっている。

その数値がまるでその個人の価値や人格を判断するものだという教育が当然のごとく行われている。

物心がついたころからとにかく競争させられ強制的に他者と比べられるため、そこに何も疑問を持たずその習慣を大人になっても続けていく構造が存在する。

誰かに比較されたから今度は誰かを比較するようになる、上の人間に嫌なことを去れたから自分も下の人間に嫌なことをする、その連鎖が続いている。

 

仮に社会人というレースがあるとするならばそれは長距離走だ。

誰もが一目散に走り続けるが途中休む人がいてもいい、そして休憩しているように見えて実は早くゴールにたどり着く手段を開発しているような人がいてもいい。

マラソンのランナーのように体力で走りきる人がいても良いし、自転車や自動車を自力で開発して急速に追い抜く人がいてもいいはずだ。速く走る機械を開発しているときは何もしておらず停滞しているように見えるかもしれないが、それがゴールにたどり着くことを諦めたという事にはならない。

体力で走ることが苦手な人が道具で対抗しようという方法があってもいい。

 

皆が同じようなルールやリズムで走りきる必要はない。

そもそもゴールをしようとせず、ただ休んでいるだけの人がいてもいいしその内に速くゴールする手段を考え付いて習得するかもしれない。

 

我々はなぜ走らされているのだろうか、誰に命じられているのだろうか、走らなければ笑われるのだろうか、そもそもゴールは一つなのだろうか、そして走る手段は他にもあるのではないだろうか。

少し疲れたのでまた休憩タイムを取りたい。

今回自分が仕事を辞めたのはただそれだけの理由なのだ。 

もし疲れたならば休憩してもいい、社会という名のレースもそんなことが当たり前の習慣になっても良いのではないだろうか。

通勤って典型的な奴隷の象徴だよな

よくスーツを着て満員電車に同じ時間帯に乗車していく社会人は奴隷だと評される。

ゾロゾロと同じようなリズムで忙しそうに駅に向かい闊歩する姿はまさにシステムの奴隷そのものだ。

 

そして自分自身仕事をし始めてさっそく通勤という行為にストレスを感じるようになっている。自分の場合自動車通勤であり、身内が運転しているため基本的には座っているだけで良いのだがここにもストレスの要因が存在する。

職場が遠いことに加えて途中カーブが多い悪路となっているため、前日に飲みすぎた日は本当に地獄だった。

更に一応数は減らしてくれているものの喫煙者のため、その煙は当然のことながらストレスになる。それに加えて身内の何気ない仕草や癖が下品なため毎日長時間一緒だとこれも疲れる要因になる。

仕事中はそれほど近くで作業をすることは無いのだが、車内だとどうしても距離が近くなってしまいストレスにさらされる。

自分の軽自動車で通勤するという手段もあるが交通費も負担になり、更に自分はまだ運転技術が浅いため結局時間がかかってしまうことに加え、座っているだけで良いというのも楽なため仕方なく現状の方法を選択している。

 

底辺はなるべくして底辺になっていると最近自分はよく考えているが、育ちが悪い人間というのは何気ない行動にその人の人生が現れるようにできている。

身分の低い人間というのは行動も下品であり、上流階級の人というのは何気ない仕草も洗練されていてエレガントなことが多い。

例えば食事のマナーなどは特に育ちが現れる。いい年をして咀嚼音を立てて食べる事や麺を啜る行為に躊躇が無い事などは、それらの行為を一度も注意されることがなかったような人生を歩んできたという証拠でもある。

要するに良いお店で食事をする機会などにそれほど恵まれず、レベルの低い人間同士での食事しかしてこなかったという事だ。食事のマナーというのはその人の人生や社会性などが反映されるのだ。

安い飲食店に行けば底辺の家族連れが躾のされていない動物のような子供を騒がせているが、これも社会性が現れている。

貧民は貧民が集まる場所に自然と寄っていくのである。

 

そして皮肉なことにそういう場所にいき、そういう層と付き合っている自分がまさに底辺なのだ。底辺の場所に行き着いている自分も含めて社会の底辺や身分の低い人間であり、自分の回りの環境や付き合う相手というのは自分のレベルを表している。

 

それで言えばまさに通勤という行為は個人の社会性を反映している。

例えば電車やバスのような公共交通機関を使えば客層の悪いシーンに出くわすことがある。しかし自動車が買えず、安い電車に混む時間帯にわざわざ乗らなければならない自分というのもまたレベルが低いのだ。

まるで奴隷船のような満員電車に詰め込まれて職場に輸送される光景というのはかつて自分が見下していたものでもあった。

しかし今の自分は食事の時に咀嚼音を立てて食べるレベルの育ちが悪い人間と一緒に仕事をしなければならず、そういう身分の低い人間と付き合っている自分も含めてレベルが低いことの証なのだと考えている。

 

無価値で底辺の奴隷はこういった苦痛に満ちた通勤をしなければならない。

それが奴隷に相応しい事であり、現状自分もその奴隷の一人に落ちぶれている。

レベルの低い生徒が多い学校に行っている自分、客層の悪い店で食事をしている自分、劣悪な手段で職場に輸送される自分、そのとき自分もそのレベルの人間だという事に気付かなければならない。

そこに疑問を持たず同化するのか、その状況からいち早く抜け出して上流階級に加わろうとするかに人生は左右される。

底辺の人間と一緒にいたくなければ自分が上流階級の人間になるしかないのだ。そしてそれが果たせていない時、自分はまだそのレベルの人間でしかないということになる。

 

奴隷が奴隷船に詰め込まれて輸送されるのは当たり前であり、それが嫌ならば上の階級に成り上がるしかない。

最近では痴漢免罪のリスクもありその奴隷船に乗ることはもはや命がけである。もちろん女性だけでなく男性も含めて自分が痴漢されるリスクもあり痴漢も痴漢免罪も含めて、この奴隷船には多大なリスクが存在する。

しかし混む時間帯に安い交通機関で通勤しなければならないことや都市部にある職場から離れた家賃の安い場所に住むしかないこともまた身分相応なのだろう。

 

それにしても通勤というのは本当に効率の悪い行為だ。

なぜこんなことをしているのかと思う事がある。

駅から職場まで距離があり長距離を歩いて行かなければならない時、雨に濡れながら自転車で駆け付けているとき、満員電車に乗っているとき、混雑した道路を運転しなければならない時、まさに自分が奴隷だと思い知らされる。

それも時間に合わせて間に合わせるために生活のリズムを整えなければならない。

自由な仕事を出来ない無能な奴隷というのはこういった社会システムに従わなければならず、今まさに自分は無価値な無能だという現実を突きつけられている。

苦痛な上にこういった実質的な拘束時間に対して給料は発生せず、時として交通費が支払われない職場も存在する。

実質的に通勤は労働の一環であるにもかかわらず、タダ働きをさせられるのが奴隷である。

 

これだけ通勤が精神的にも体力的にも負担になるのならば、いっそのこと住み込みで働く場所に次は務めても良いのではないかと考えている。

寮生活で食事も完備されたような期間限定のバイトというのは実際に求人があるため以前から候補の一つとしては考えていた。

もうしばらく現状の場所で働き続け体力をつければ、却ってそういった住み込みバイトのようなもので一か月間だけ我慢するような生活の方が良いかもしれない。

まさにカイジの地下労働編のような感覚でありそこで現金を作り、その貯金を使い再び気ままな無職生活を始めるというのもアリだ。

通勤時間という物を大幅に短縮できる住み込みの仕事というのは慣れない環境で済むという事を除けばメリットが大きい。

給料も今の場所より良いため時間限定だと割り切って収容されてくるのも一つの選択肢になる。

「働けば自由になれる」という言葉がついに現実にはならなかったアウシュヴィッツ強制収容所やシベリア抑留、逃亡すれば処刑されるISISの現場などに比べればマシだろう。

現代でも北朝鮮の国民が海外に派遣され給料のほとんどは税金として政府に吸い上げられているという事例が存在する。

 

現状の仕事を続けるのか住み込み労働を視野に入れるのか、近場で別の短期アルバイトなどを探すか、とにかくそうでもしなければ現状は打開できない。

そして自由な時間を獲得し何らかのスキルアップを図るしかない。

しばらくはこの奴隷のような生活が続きそうだ。

平日の昼間から酒を飲むニートwww

一時的に断酒生活を行い、更にそのあと社畜になり、お酒を大量に飲むという生活からは遠ざかっていた。

昨日久しぶりに休日があり1日中飲んで過ごすという生活をしていたが、改めて自分がどれだけお酒を飲むかということが再確認できた。今日はどうやら身内の冠婚葬祭関連の用事があるらしく平日だが仕事は無いため、これも久々に前日の二日酔いと格闘するというニート生活時代の懐かしの感覚を味わっている。

 

仕事や労働にポジティブな要素を見つけるとするならば、とにかくやる事を作ることで半ば強制的にお酒から遠ざかることができるという事だ。仕事終わりに飲むことがあっても翌日のことを考えるためセーブして飲むようになる。

当然ながら給料が入ってくることに加え、出費も抑えられるためニート生活をしている日と働いている日では手元に残る金額に大きな差ができる。昨日のような生活を毎日のようにしていたのがかつての自分だった。

 

お酒を飲むと調子も良くなり食欲もわいてくる。

そうなるとお酒のつまみとしていろいろ食べることになり、これも更なる出費となる。社会に希望も居場所ないニートとなると何も楽しみが無くなりアルコールという即自的な快楽しか求めなくなってしまう。

その上時間だけは無駄に多いためやることも無くなり1日の殆どをお酒を飲むためだけに使い気づけば貯金は大きく減っている。そして翌日は二日酔いからスタートし、お酒がなくなっていれば買いに行くというのが基本的な生活リズムになりこれがループのように続く。

 

ただ自分はそういった自由気ままなニート生活が好きであり、今こうして社畜として働いているのもいずれその生活に舞い戻るためである。

労働監獄から出所しシャバに戻れば再びニートになることは決めている。数か月働いて半年休んで貯金がなくなればまた数か月働く、そんな人生のリズムがあってもいいのかもしれない。

普通に長期間働き続ける事ができない人間というのがいても良いはずだ。

働くことや真面目に生きる事、世間体を気にして体裁を重視すること、そんなことから解放された新しいタイプの新人類がまさにニートなのだ。

 

今回の事で1日中酒を飲むことや、平日の昼間から飲むことはやはり自分にあった生活だと再確認した。

懐かしいのはスーパーやコンビニの飲食スペースで気ままにお酒を飲みながらチップスや干物などを肴にすることで、去年は暇さえあればそうしていた。最近は引きこもりがちになり家で飲むことが多かったが昼間から外で一杯やる生活というのは今思えば懐かしい。

田舎のスーパーともなると平日の昼間に来る客層というのは優雅な年金生活者か主婦層が大半であり、自分のような男がその光景に混ざることはある種のプレミア感があったことも懐かしい。

 

人生に自暴自棄になり即自的な快楽だけを求め、意識低く飲み続けることは楽しかった。スーパーやコンビニで現実逃避しながら、騒ぐわけでもなく静かに酒を飲むことは今思えば優雅な生活だったのかもしれない。

先のことなど何も考えず、今さえ楽しければいいと開き直った生活はその日暮らしの刹那的な生き方でもある。しかし途上国などに行けばそうやって酒に溺れているだけの浮浪者など大勢おり、日本でも大阪の新世界周辺でワンカップ酒を昼間から飲んでいるおじさんはお笑い芸人のネタにもなっている。

 

夢があるとするならば昼間から空いている居酒屋で過ごすことなのだが、そういった金銭的余裕も無く最低限の安酒とつまみで過ごすことが多い。酎ハイのロング缶やワンカップ焼酎と袋のスナック菓子か干物、それすら余裕がないときは1本10円程度のスナック菓子を数本買う事だけに留めていた。

酔う事が目的なため居酒屋は高すぎる上に、今住んでいる場所は本当に何もないため遠出することも億劫になり家で飲むことが定番になっている。

安い居酒屋に行く客層よりも更に底辺の人間が自分であり、これが貧乏ニートやワーキングプアの実態でもある。場末の居酒屋にすらいけない底辺の貧困層が日本でも増えてきている。

そしてそんな底辺の生活ですらそれが日常的な習慣になってしまうとその出費は軽視できない物になる。

 

底辺の人間に落ちぶれると本当に出費が食費だけになってしまいエンゲル係数は上がっていく。物欲も下がり欲しい物が無くなり、最近はほとんどお酒とおつまみ系しか買っていない。食費は職場の弁当があるため実質夕食しかかかっていないのだが、これもスナック菓子で済ませることが多く実質的に晩酌と同化しておりミニマムな生活をしている。

日本経済における自分の役割など砂粒よりも小さいだろう。

少し前まではかろうじて雑誌を買うことが多かったがこれも節約のために自重しており、そもそも書店に寄る機会自体が減ってきているためもはや数か月前の話である。

「消費しない若者」と言われるが使うお金がない以上どうしようもなく、お金を持っている人が回してくれないのだからこの貧困の連鎖からは抜け出すことができない。

もしかしたら誰が悪いというわけでもなく、誰かの貧困が自分を貧しくしており、そしてまた自分の貧困が別の誰かを貧しくしているという連鎖構造になっているのかもしれない。

 

本当は欲しい物が無いわけではないのだが買えないとなると徐々に物欲は下がっていき、即自的な快楽を味わえる産物に走るようになる。

漫画カイジのセリフに「ショーウィンドウの向こう側にあるものが自分にとって縁のない物だと感じるようになると諦めるようになる」というようなセリフがあるのだが、どうせ買えない物に興味や関心が失せていくことはまさに自分に当てはまる。

新発売のゲームにワクワクできる感情をまだ失っていない人はきっと幸せだろう、その感情を無くしてしまえば夢も希望もない人生に突入する。

 

物欲は以前に比べて激減しており、最近一番ワクワクした買い物は段ボール箱に入った酎ハイ24本ケースを買ったときである。

昔は手元に残らない食品関連にお金を使う事はもったいないと思っていたが、今では手元に残る物品にはほとんど興味が無くなっている。

お酒やスナック菓子、そして缶詰などが部屋に大量に置いてある事に安心感を覚え、「しばらくの間ひもじい思いをしなくて済む」という感情がある種の楽しみになっている。

 

今の自分がもっとも欲しいのは時間と自由、そして安心だろう。

つまりしばらくの間ニート生活ができるという保証が欲しい。その状況を作るために今社畜としての懲役期間に入っており、出所してまた自由な日々を送りたい。

自分は自由を愛し協調性が無い人間なのだ。

絵や文章を書く時間が膨大にある事、街を気ままに散策して立ち寄った場所で財布を気にせずお酒を買う事、そして明日何も予定がないという安心感を持って眠れること、そんな何気ない些細な幸せに満ちた生活にまた戻りたい。

誰に縛られることもなく、合わせる必要もなく社会とは距離を置いて過ごしたい。

システムという枠組みの外にいる自由人になり、自分のリズムで行きたい。その自由を獲得するためにはやはり戦わなければならない。

明日からはまた仕事だが「後のニート生活のために」を合言葉につまらない今の期間を乗り越えていこうと思う。

社会人になって仕事すると本当に時間無いよな・・・

ニート生活を辞めて社会復帰への道を歩み始めてしばらく経ったが、とにかく時間の無さを痛感している。

自分の場合は正社員として社会人になってるわけではなく、身内の仕事の加勢に行っているだけでしかないが、それでも生活リズムは週6日勤務、定時通りに帰れないということもありかなりハードである。

半分自営業のようなものなので絶対にこの時間から始まりこの時間に終わるという事も無く、仕事のペースに合わせなければならない。更に職場が非常に遠い場所にあるため、実質的な拘束時間は12時間を超える。

朝はいくらでも早くなるが、夕方はいくらでも遅くなりその逆は無い。

つまり1日の半分は仕事のために過ごしており、自由時間は非常に限られている。

更にその自由時間も「明日も仕事がある」という陰鬱な感情に支配されるため、今までのように気楽には休むことができない。

全ての生活リズムを仕事のために考えなければならず、まさに「仕事をするために生きている」という言葉が相応しい。

その上、給料は最低時給よりも安いため文字通り社会の底辺であり貧困労働者である。

「定時に帰れない」という職場は正社員という事もありそれなりに給与が良いケースは多いため納得のいく部分もある。「定時に帰れないのは仕方ないが、会社に守られてもいる」という大義名分が存在する。

また最低時給を少し上回った程度のアルバイトというのは勤務時間だけは厳格に管理されていることが多く、定時にさえなればそこからは自由時間だということが多い。

 

しかし今の職場は最低時給を下回る薄給労働であることに加え仕事が終わってからの後片付けも含め労働であり、これは実質的に「サービス残業」のような形になっている。

今の自分が現代社会において最底辺の人間であることは言うまでもない。

仕事中や帰路に着く時は急ぐ割に、後片付けだけは無駄に遅いため自分の自由時間はさらに削られるている。後始末をテキパキとやればわざわざ公道で急ぐ必要はないはずなのだが、その発想は無いらしい。まさに日本社会特有の効率の悪さを象徴としたような職場であり、従業員の都合は考慮されていない劣悪な環境となっている。

 

結局のところ底辺の職場というのは、なるべくして底辺になったような人の集まりだというのが自分の経験上当てはまる法則である。

人間というのは相応しい場所に集まる、レベルの低い学校にはレベルの低い生徒しか集まらないし、安い店にはそれ相応の民度の低い客層が集まるのと同じで、低レベルな職場には低レベルな人間しか集まらないのだ。

一般的なチェーン店に行けば躾もされていないような底辺家族が子供が騒いでいることに気を留めもしないが、上流階級が訪れる店ではそういう事も無い。

底辺の人間と距離を置きたければ自分が上辺に加わるしかない。

そしてそんなことを言い続けて、結局そういう職場に戻ってきた自分がまさに底辺なのだ。

自分が無能で無価値だからこういう仕事をするしかない、そんな自分も含めてその底辺層の一員でしかない。

 

それが嫌ならば自分がそのレベルを超える人間になり、上位層の人間になるしかない。上品でなおかつ高度なことを考えている上位層の人間と付き合いたければ、自分もレベルが高い人間になるしかない。

人間というのは同レベルの人間が集まるようにできているし相応しい場所に行き着くようにできている。

この社会の底辺の場所に自分がいるのも、これまで散々ニート生活をし社会から逃げてきたつけなのだ。

戦争に負けた日本兵がシベリアに抑留されて強制労働を数十年強いられ終いには帰国できなかったように、自分も人生に負けた結果この場所に送り込まれたのだ。

 

今の自分はまさにそういった"敗戦処理"としての強制労働を強いられている。

「なんでこんなことをしているんだろうな」と思いながらかつて見た夢の続きを見ようとしている。

アニメMAJORのオープニングとして有名な『心絵』の歌詞に「描いた夢とここにある今、二つの景色見比べても」というフレーズがあるがこの現実も確かな今なのだと割り切っている。

 

どうせこの底辺労働はいつまでも続けるものではなく、もともと即自的に現金を作るためにやっているだけでしかない。

「つまらないことを現金のためにやっているだけ」と言い聞かせているだけでしかないとわかっているから無駄に思い悩むこともない。自分のアイデンティティや個性を肯定するためではなく、ただ現金を作りたいだけでしかないのだ。

仕事に生きる意味や楽しみ、そして社会人としてのプライドや体裁を求めているわけでもなくただ後のニート生活のために日銭を稼いでいるのだと割り切っている。

この仕事が人生を通して続くわけでもなければ、一定の基準に達すれば辞めると決めているからゴールが見えている。

仕事で一番つらいのは先行きが見えないという事である。

週末を乗り越えても"懲役40年"が待ち受けていると考えれば気分は陰鬱なものとなる。

 

正社員の人間が仕事を辞められない構造というのは「次の仕事が見つかる保証がない」「やめてはいけないという職場や家族、そして社会からの圧力がある」というのが主だった理由になる。

電通に勤めていた東大卒業生の女性が数年前に自殺したことがニュースになったが、彼女はこれまでエリートコースとして勝ち続けてきたため負けるという事に抵抗があったのだろう。

自分のように「いざという時はすぐにやめる」「底辺ニートに落ちぶれても何の恥も見聞も無い」と割り切れている人間は、結局図々しく生き残る。

それと似た話で言えばうつ病にかかりやすい人間は「責任感が強く真面目な人」らしい。逆に自分が上手く行かない時に社会や他人のせいにするような図々しい人間はうつ病になることもないようだ。

 

それはまさに自分に当てはまる。

困ったときは社会のせいにしたり、家族や出自のせいにすればいい。

「俺がこんなに苦労してるのは貧乏な家庭に生まれたのと、俺を評価しない社会や若者に優しくない社会が悪いからだ」とお決まりのフレーズを使えば溜飲は下げられるのだ。

そして階級社会の現代日本において出自が重要な事と、若年層が生き辛くなっていることは事実なのだから間違ったことを言っているわけでもない。時として図々しく言い訳をし、「自分はこいつらみたいな底辺とずっと一緒にはいない」とナチュラルに人を見下す人間性が腐った人間でもなければ今の「汚い世の中」は生きていけないのだ。

性格の良い人間が生きやすく評価される様には出来ていないのが社会というシステムだ。

彼女は自分と同世代の人間だったが最終的には社会の底辺を図々しく這いつくばる自分がこのレースには勝った格好となる。その勝ち負けの正体というものが何かわからないが、今の社会は真面目に考えすぎる事は良くないのだ。

 

また最近自分は食後にお酒を飲むという生活を再開している。

金銭的に余裕ができたというポジティブな側面もあるため晩酌はできるようになり、それしか楽しみが無いという実情もある。

 

食後に酒を飲むことには主に2つの目的や効果がある

・その日の疲れを忘れられる

・仕事の励みになる

仕事を続けるにはあまりその日の仕事が疲れて大変な物だったと思わない方がよく、時には忘れることも重要になる。

「体をいっぱい動かして、その後に飲む酒最高ゥ」ぐらいの意識の低さで、労働と快楽を交互に味わうという底辺生活を満喫するのも時には重要であり大半の日本人がそうやって昭和の時代を乗り切ってきたため日本は経済大国でもあった。

また仕事が大変な時に「この勤務が終われば飲める」という目の前の快楽を吊り下げておくことも、あるのと無い事では大きく違う"人参"に向かって走り続けている社会の方が実は活気が良いのであり、何も疑わず馬車馬のように働く人間が多い時代の方が盛況としていた。

 

現代人はあまりにも考えすぎているのだ。

日本人は何も考えずエコノミックアニマルとして動物のように奴隷として働いている生活の方が身の丈に合っていることは歴史が証明している。小国の日本がアメリカや中国のような大国と当りあっていくには個人が組織や社会の犠牲にならなければならない。

戦後の高度経済成長期にモーレツ社員企業戦士と呼ばれる人がいて、仕事を自分のアイデンティティや生きる目的そのものだと何も疑わずに考えていた時代の方が日本人は笑顔に溢れていたのではないか。

 

「個人の自由時間がない」という自分の悩みも実は最近できた種類の悩みでしかない。

「プライバシー」という言葉が浸透する以前の昭和の時代には個人の自由時間など存在しないのが当たり前であり、仕事の後は社員同士で飲みに行くのが当たり前だったのだ。

自分のようなゆとり世代は仕事の後まで上司や社員と付き合いたくないと考えており、それゆえに「最近の若者は付き合いが悪い」と批判される。

そういったゆとり世代を批判する言葉は一概には批判できず、実際に日本社会に活気があった時期は仕事を人生だと考える人が多かった時期であり、「会社」という共同体で一致団結していた時代の日本の方がエネルギーがあったことも事実だろう。

上の世代の考え方を否定するわけではなく、その時代の優位性も認めるが「自分たちにはその生き方ができない」ということをわかってもらいたいというのがゆとり世代の本音だろう。

 

「パワハラ」「ブラック企業」という言葉すら最近まで一般的ではなく、バカンスという概念は遠い憧れでしかない日本においてその社会体制に疑問を持つようになったゆとり世代は異分子でしかない。

自分の身内もまさに仕事が人生のアイデンティティを形成する物だと考えているタイプであり、それゆえに他者の仕事終わりの自由時間を奪う事に何の罪悪感も感じていないのだろう。

 

「正社員が定時に帰れないのは当たり前、新入りが先に帰るのは社会人としてマナー違反」と考えている旧世代の人々は、新しい世代が感じる「労働神格化」への違和感に共感できず、個人が仕事終わりに自分の世界に没頭する生き方に理解を示すことができない。

自分が何も配慮せず居座ることで帰れない人々がいることなどどうでもよく知ったことではない、むしろ自分たちもそうやって生きてきたのだから同じように苦しんでしかるべきだという価値観なのだ。

 

日本人が会社を共同体となる居場所だと考え、仕事を自身のアイデンティティを形成する重要なファクターだと考えている時代は終わった。

しかし依然としてその世代の考えを持つ人も多く、そういった常識や慣習は廃止されていない。それゆえにゆとり世代はこういった現実と理想のギャップに苦しむことになる。

「なんで日本人はこんなに仕事に縛られているのか、仕事だけが人生なのか」という疑問を持つ若い世代は多いはずだ。

自由を容認され「夢」や「個性」を肯定されて育ったゆとり世代は、実際に社会に出たときに自由や夢が無いという現実に直面する。学校で教えられた綺麗事と、社会に出てからの現実が大きく違う事に気付かされる。

 

そういった教育をした側やその新しい考え方を許容しない側が悪いと批判されるのではなく「ゆとりが悪い」「これだから最近のゆとりは」と最近の大人達に叩かれる。

そんな社会に対して不満を持つ若者が今増えているのではないだろうか。

そしてそういう若い世代が居場所とするものはSNSを始めとしたネット上のコミュニティであったり、同世代の友人であったり自分の趣味であったりする。

 

仕事が終わった後は同僚や上司と飲み、会社に奉仕して生きるという考え方が成立しない背景には主に3つの要因がある。

1:会社のために生きても先行きが見えない

2:インターネットという居場所がある

3:個人の趣味に生きることが許容されるようになった

 

まず1番目の理由だが至極単純な理由として今の日本では仕事を生きがいにしたところで幸せにはなれないし、仕事を幸せだと考える価値観が古いものになっており自分を肯定する場所ではなくなってきている。

年功序列終身雇用制が実質的に崩壊し、年金制度のように社会システム自体が老朽化してきている。更に日本経済自体が落ち込み、もはや社会に順応し生きることに肯定的な価値観を抱けなくなっているのが現代人である。

 

更に2つ目の理由として今は「インターネット」という最大のツールがあり、スマートフォンがこれだけ普及して日本人のほとんどがネットユーザーになっている現代において"自分の居場所"はいくらでも見つけることができる。

友達感覚のユーチューバーを見たりSNSでお互いを承認し合って中身意識を感じたり 、ソーシャルゲームに課金しその順位を自分のアイデンティティの拠り所にしたり、日常アニメを見て癒しを求めたりすることも自由なのだ。

 

自分を攻撃してこない優しい仲間に囲まれて一体感を味わうことのほうが、仕事の愚痴をこぼし上から説教をしてくる"大人"と一緒にいる事よりも居心地がいい。

家でお酒を飲みながらバーチャル空間の誰かと擬似的な仲間意識を満たせればそれでよいのだ。時にはお酒も飲まず、極めて健全に過ごす人も"最近の若者"には増えてきている。

そういった理不尽な関係から学べることがあるのも事実だが、やはり自分がされたことを下の世代にもすることを美しい伝統だと考える世代とは価値観が合わないこともまた事実だ。

「ほとんど意味が話が多い」と捉えるのが今の世代であり、前の世代は「そういった意味のない話に付き合うのも社会人としての務め」と考えている。

 

インターネットやSNSがこれだけ普及する以前は、仕事の後にやること自体がそもそもほとんどなかった。しかし今はネットにいくらでもコンテンツが存在するため、個人の自由時間を世代も趣味も違う人と過ごすことに使いたくないという人が増えている。

ゆとり世代はおそらく最も同年代に仲間意識を感じる世代だろう。仲間意識を感じると言うよりも、その世代との付き合い方しか分からず居心地の良さを感じられないとも言いかえることができる。

「自分のことを分かって褒めてくれる人が好き」というのがゆとり世代に共通することなのだが、社会はそういう風にできていないという現実があるのもまた事実だ。教育されたことと現実が明らかに違うという現実に適応できないゆとり世代が増えており、その結果バーチャル空間に居場所を求めるようになっている。

 

個人やプライバシーの概念が重視されるようになった現代というコンテクストにおいてもはや自分と合わない人間と付き合うのはなるべくならば避けたいことであり、勤務時間だけに限定しておきたいという考え方が主流になっている。

「日本人たるもの仕事に生きるべし」と考えている世代と、「自分の時間を大事にしたい」と考える世代では決定的に価値観が異なるためこのギャップに晒されることになる。

 

そして最後に3つ目の要因だが今の時代はかつてほど「オタク」「マニア」というものが偏見を持たれる時代ではなくなっており、趣味に生きる事が当たり前の生き方になっている。

例えば昔の大人というのは漫画やゲームなどはしない物だと思われており、いい年をした男が甘いスイーツを食べていることですら「大人っぽくない」と言われていた時代があった。

大人はジャズを聴いていなければダンディではないという時代から、アニソンを聞くことも自由で「会いに行けるアイドル」に熱を入れることもできるようになった。

 

昔のオタクは差別や偏見と闘いながら定時に自分だけ空気を読まずに帰り、同僚とも飲まず他人からの評価など気にせず趣味に没頭していたが、今の時代では誰もが自分の趣味を気軽に楽しめるようになりネット上に簡単に"同志"を見つけられるようになった。

 つまり今の時代は簡単にオタクになれる時代であり、そもそも自分の趣味や好きなことに生きることが疑問を持たれないようになった。

周りの目線を気にする必要が無くなり、見られ方も変わるようになった。そしてそういった生き方をしている仲間自体が多くなり、ネットやSNSでそういった同志を見つけられやすいようになったのだ。

 

これはオタク文化論に発展することなのだが、本来ならば差別や偏見と闘いながら我が道を行っていたかつてのオタクのほうが精鋭であり濃密だったことは間違いない。

しかしオタク文化がカジュアル化し普及していく流れはもう避けられないだろう。あらゆる文化や技術は使いやすくなることで波及していくのだ。

「ライトなオタクが増えた」というのは別の言い方をすれば、それだけ自分の好きな趣味に生きることが一般文化として普及するようになったも言える。かつての労働者が資本家と闘争し権利を獲得したように、オタクが社会と闘争していた結果、「自分の趣味は自由」という市民権を得られるようになり娯楽が多様化していくようになる。

 

つまり現代は会社や仕事のために生きること自体にメリットがなくなり仕事の後の楽しみが増え、そして自分の世界に生きることが肯定されるようになったためわざわざ居たくもない場所に居続けることの意味がなくなったと考えられる。

 

「定時に帰れない事っておかしいよね、今の時代昔と違って仕事の後にやることは多いし職場の人間より楽しい仲間いっぱいいるんだよ」という時代になったのが現代の大きな流れと言えるかもしれない。

ネットネイティブ世代が今後の主流になればもはや定時に帰ることは厳格に定められるようになり、個人の自由時間がより肯定されるようになるだろう。

いわばゆとり世代というのはその過渡期にある中間世代であり、犠牲となる世代でもある。

 

自分たちは仕事終わりの自由時間を楽しみにしているのに、社会や旧世代の大人たちががそれを許容してくれないのがゆとり世代が直面している現実でもある。

こういった旧世代の観念とは戦い続けなければならない。

ゆとり世代以前の世代も、かつての先人が価値観や制度を変えてきた恩恵を受けている。また今のゆとり世代も、実は上の世代にすでに変えて貰っていることは多いのだ。

それならば今のゆとり世代が次なる世代のためにできることは今ある理不尽な価値観を変える事なのではないか。

 

あと10年後には勤務時間だけでなく「実質的な拘束時間」についても考慮されるようになり、サービス残業が全廃され定時に帰ることが当たり前になり、仕事終わりに別の時間を過ごすことやバカンスの普及なども含めた長期休暇が一般的になっていることなどの実現が果たされていることを期待したい。

上の世代に叩かれる苦しみをどの世代よりも痛感しているゆとり世代だからこそ、次の世代に対する思いやりのある世代になるべきなのではないだろうか。

ゆとり世代はこれまでの世代のように「自分たちはこんなに苦労したのだから、君たちも苦労するべき」だと考える世代になってはいけないはずだ。