負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

社会人になって仕事すると本当に時間無いよな・・・

ニート生活を辞めて社会復帰への道を歩み始めてしばらく経ったが、とにかく時間の無さを痛感している。

自分の場合は正社員として社会人になってるわけではなく、身内の仕事の加勢に行っているだけでしかないが、それでも生活リズムは週6日勤務、定時通りに帰れないということもありかなりハードである。

半分自営業のようなものなので絶対にこの時間から始まりこの時間に終わるという事も無く、仕事のペースに合わせなければならない。更に職場が非常に遠い場所にあるため、実質的な拘束時間は12時間を超える。

朝はいくらでも早くなるが、夕方はいくらでも遅くなりその逆は無い。

つまり1日の半分は仕事のために過ごしており、自由時間は非常に限られている。

更にその自由時間も「明日も仕事がある」という陰鬱な感情に支配されるため、今までのように気楽には休むことができない。

全ての生活リズムを仕事のために考えなければならず、まさに「仕事をするために生きている」という言葉が相応しい。

その上、給料は最低時給よりも安いため文字通り社会の底辺であり貧困労働者である。

「定時に帰れない」という職場は正社員という事もありそれなりに給与が良いケースは多いため納得のいく部分もある。「定時に帰れないのは仕方ないが、会社に守られてもいる」という大義名分が存在する。

また最低時給を少し上回った程度のアルバイトというのは勤務時間だけは厳格に管理されていることが多く、定時にさえなればそこからは自由時間だということが多い。

 

しかし今の職場は最低時給を下回る薄給労働であることに加え仕事が終わってからの後片付けも含め労働であり、これは実質的に「サービス残業」のような形になっている。

今の自分が現代社会において最底辺の人間であることは言うまでもない。

仕事中や帰路に着く時は急ぐ割に、後片付けだけは無駄に遅いため自分の自由時間はさらに削られるている。後始末をテキパキとやればわざわざ公道で急ぐ必要はないはずなのだが、その発想は無いらしい。まさに日本社会特有の効率の悪さを象徴としたような職場であり、従業員の都合は考慮されていない劣悪な環境となっている。

 

結局のところ底辺の職場というのは、なるべくして底辺になったような人の集まりだというのが自分の経験上当てはまる法則である。

人間というのは相応しい場所に集まる、レベルの低い学校にはレベルの低い生徒しか集まらないし、安い店にはそれ相応の民度の低い客層が集まるのと同じで、低レベルな職場には低レベルな人間しか集まらないのだ。

一般的なチェーン店に行けば躾もされていないような底辺家族が子供が騒いでいることに気を留めもしないが、上流階級が訪れる店ではそういう事も無い。

底辺の人間と距離を置きたければ自分が上辺に加わるしかない。

そしてそんなことを言い続けて、結局そういう職場に戻ってきた自分がまさに底辺なのだ。

自分が無能で無価値だからこういう仕事をするしかない、そんな自分も含めてその底辺層の一員でしかない。

 

それが嫌ならば自分がそのレベルを超える人間になり、上位層の人間になるしかない。上品でなおかつ高度なことを考えている上位層の人間と付き合いたければ、自分もレベルが高い人間になるしかない。

人間というのは同レベルの人間が集まるようにできているし相応しい場所に行き着くようにできている。

この社会の底辺の場所に自分がいるのも、これまで散々ニート生活をし社会から逃げてきたつけなのだ。

戦争に負けた日本兵がシベリアに抑留されて強制労働を数十年強いられ終いには帰国できなかったように、自分も人生に負けた結果この場所に送り込まれたのだ。

 

今の自分はまさにそういった"敗戦処理"としての強制労働を強いられている。

「なんでこんなことをしているんだろうな」と思いながらかつて見た夢の続きを見ようとしている。

アニメMAJORのオープニングとして有名な『心絵』の歌詞に「描いた夢とここにある今、二つの景色見比べても」というフレーズがあるがこの現実も確かな今なのだと割り切っている。

 

どうせこの底辺労働はいつまでも続けるものではなく、もともと即自的に現金を作るためにやっているだけでしかない。

「つまらないことを現金のためにやっているだけ」と言い聞かせているだけでしかないとわかっているから無駄に思い悩むこともない。自分のアイデンティティや個性を肯定するためではなく、ただ現金を作りたいだけでしかないのだ。

仕事に生きる意味や楽しみ、そして社会人としてのプライドや体裁を求めているわけでもなくただ後のニート生活のために日銭を稼いでいるのだと割り切っている。

この仕事が人生を通して続くわけでもなければ、一定の基準に達すれば辞めると決めているからゴールが見えている。

仕事で一番つらいのは先行きが見えないという事である。

週末を乗り越えても"懲役40年"が待ち受けていると考えれば気分は陰鬱なものとなる。

 

正社員の人間が仕事を辞められない構造というのは「次の仕事が見つかる保証がない」「やめてはいけないという職場や家族、そして社会からの圧力がある」というのが主だった理由になる。

電通に勤めていた東大卒業生の女性が数年前に自殺したことがニュースになったが、彼女はこれまでエリートコースとして勝ち続けてきたため負けるという事に抵抗があったのだろう。

自分のように「いざという時はすぐにやめる」「底辺ニートに落ちぶれても何の恥も見聞も無い」と割り切れている人間は、結局図々しく生き残る。

それと似た話で言えばうつ病にかかりやすい人間は「責任感が強く真面目な人」らしい。逆に自分が上手く行かない時に社会や他人のせいにするような図々しい人間はうつ病になることもないようだ。

 

それはまさに自分に当てはまる。

困ったときは社会のせいにしたり、家族や出自のせいにすればいい。

「俺がこんなに苦労してるのは貧乏な家庭に生まれたのと、俺を評価しない社会や若者に優しくない社会が悪いからだ」とお決まりのフレーズを使えば溜飲は下げられるのだ。

そして階級社会の現代日本において出自が重要な事と、若年層が生き辛くなっていることは事実なのだから間違ったことを言っているわけでもない。時として図々しく言い訳をし、「自分はこいつらみたいな底辺とずっと一緒にはいない」とナチュラルに人を見下す人間性が腐った人間でもなければ今の「汚い世の中」は生きていけないのだ。

性格の良い人間が生きやすく評価される様には出来ていないのが社会というシステムだ。

彼女は自分と同世代の人間だったが最終的には社会の底辺を図々しく這いつくばる自分がこのレースには勝った格好となる。その勝ち負けの正体というものが何かわからないが、今の社会は真面目に考えすぎる事は良くないのだ。

 

また最近自分は食後にお酒を飲むという生活を再開している。

金銭的に余裕ができたというポジティブな側面もあるため晩酌はできるようになり、それしか楽しみが無いという実情もある。

 

食後に酒を飲むことには主に2つの目的や効果がある

・その日の疲れを忘れられる

・仕事の励みになる

仕事を続けるにはあまりその日の仕事が疲れて大変な物だったと思わない方がよく、時には忘れることも重要になる。

「体をいっぱい動かして、その後に飲む酒最高ゥ」ぐらいの意識の低さで、労働と快楽を交互に味わうという底辺生活を満喫するのも時には重要であり大半の日本人がそうやって昭和の時代を乗り切ってきたため日本は経済大国でもあった。

また仕事が大変な時に「この勤務が終われば飲める」という目の前の快楽を吊り下げておくことも、あるのと無い事では大きく違う"人参"に向かって走り続けている社会の方が実は活気が良いのであり、何も疑わず馬車馬のように働く人間が多い時代の方が盛況としていた。

 

現代人はあまりにも考えすぎているのだ。

日本人は何も考えずエコノミックアニマルとして動物のように奴隷として働いている生活の方が身の丈に合っていることは歴史が証明している。小国の日本がアメリカや中国のような大国と当りあっていくには個人が組織や社会の犠牲にならなければならない。

戦後の高度経済成長期にモーレツ社員企業戦士と呼ばれる人がいて、仕事を自分のアイデンティティや生きる目的そのものだと何も疑わずに考えていた時代の方が日本人は笑顔に溢れていたのではないか。

 

「個人の自由時間がない」という自分の悩みも実は最近できた種類の悩みでしかない。

「プライバシー」という言葉が浸透する以前の昭和の時代には個人の自由時間など存在しないのが当たり前であり、仕事の後は社員同士で飲みに行くのが当たり前だったのだ。

自分のようなゆとり世代は仕事の後まで上司や社員と付き合いたくないと考えており、それゆえに「最近の若者は付き合いが悪い」と批判される。

そういったゆとり世代を批判する言葉は一概には批判できず、実際に日本社会に活気があった時期は仕事を人生だと考える人が多かった時期であり、「会社」という共同体で一致団結していた時代の日本の方がエネルギーがあったことも事実だろう。

上の世代の考え方を否定するわけではなく、その時代の優位性も認めるが「自分たちにはその生き方ができない」ということをわかってもらいたいというのがゆとり世代の本音だろう。

 

「パワハラ」「ブラック企業」という言葉すら最近まで一般的ではなく、バカンスという概念は遠い憧れでしかない日本においてその社会体制に疑問を持つようになったゆとり世代は異分子でしかない。

自分の身内もまさに仕事が人生のアイデンティティを形成する物だと考えているタイプであり、それゆえに他者の仕事終わりの自由時間を奪う事に何の罪悪感も感じていないのだろう。

 

「正社員が定時に帰れないのは当たり前、新入りが先に帰るのは社会人としてマナー違反」と考えている旧世代の人々は、新しい世代が感じる「労働神格化」への違和感に共感できず、個人が仕事終わりに自分の世界に没頭する生き方に理解を示すことができない。

自分が何も配慮せず居座ることで帰れない人々がいることなどどうでもよく知ったことではない、むしろ自分たちもそうやって生きてきたのだから同じように苦しんでしかるべきだという価値観なのだ。

 

日本人が会社を共同体となる居場所だと考え、仕事を自身のアイデンティティを形成する重要なファクターだと考えている時代は終わった。

しかし依然としてその世代の考えを持つ人も多く、そういった常識や慣習は廃止されていない。それゆえにゆとり世代はこういった現実と理想のギャップに苦しむことになる。

「なんで日本人はこんなに仕事に縛られているのか、仕事だけが人生なのか」という疑問を持つ若い世代は多いはずだ。

自由を容認され「夢」や「個性」を肯定されて育ったゆとり世代は、実際に社会に出たときに自由や夢が無いという現実に直面する。学校で教えられた綺麗事と、社会に出てからの現実が大きく違う事に気付かされる。

 

そういった教育をした側やその新しい考え方を許容しない側が悪いと批判されるのではなく「ゆとりが悪い」「これだから最近のゆとりは」と最近の大人達に叩かれる。

そんな社会に対して不満を持つ若者が今増えているのではないだろうか。

そしてそういう若い世代が居場所とするものはSNSを始めとしたネット上のコミュニティであったり、同世代の友人であったり自分の趣味であったりする。

 

仕事が終わった後は同僚や上司と飲み、会社に奉仕して生きるという考え方が成立しない背景には主に3つの要因がある。

1:会社のために生きても先行きが見えない

2:インターネットという居場所がある

3:個人の趣味に生きることが許容されるようになった

 

まず1番目の理由だが至極単純な理由として今の日本では仕事を生きがいにしたところで幸せにはなれないし、仕事を幸せだと考える価値観が古いものになっており自分を肯定する場所ではなくなってきている。

年功序列終身雇用制が実質的に崩壊し、年金制度のように社会システム自体が老朽化してきている。更に日本経済自体が落ち込み、もはや社会に順応し生きることに肯定的な価値観を抱けなくなっているのが現代人である。

 

更に2つ目の理由として今は「インターネット」という最大のツールがあり、スマートフォンがこれだけ普及して日本人のほとんどがネットユーザーになっている現代において"自分の居場所"はいくらでも見つけることができる。

友達感覚のユーチューバーを見たりSNSでお互いを承認し合って中身意識を感じたり 、ソーシャルゲームに課金しその順位を自分のアイデンティティの拠り所にしたり、日常アニメを見て癒しを求めたりすることも自由なのだ。

 

自分を攻撃してこない優しい仲間に囲まれて一体感を味わうことのほうが、仕事の愚痴をこぼし上から説教をしてくる"大人"と一緒にいる事よりも居心地がいい。

家でお酒を飲みながらバーチャル空間の誰かと擬似的な仲間意識を満たせればそれでよいのだ。時にはお酒も飲まず、極めて健全に過ごす人も"最近の若者"には増えてきている。

そういった理不尽な関係から学べることがあるのも事実だが、やはり自分がされたことを下の世代にもすることを美しい伝統だと考える世代とは価値観が合わないこともまた事実だ。

「ほとんど意味が話が多い」と捉えるのが今の世代であり、前の世代は「そういった意味のない話に付き合うのも社会人としての務め」と考えている。

 

インターネットやSNSがこれだけ普及する以前は、仕事の後にやること自体がそもそもほとんどなかった。しかし今はネットにいくらでもコンテンツが存在するため、個人の自由時間を世代も趣味も違う人と過ごすことに使いたくないという人が増えている。

ゆとり世代はおそらく最も同年代に仲間意識を感じる世代だろう。仲間意識を感じると言うよりも、その世代との付き合い方しか分からず居心地の良さを感じられないとも言いかえることができる。

「自分のことを分かって褒めてくれる人が好き」というのがゆとり世代に共通することなのだが、社会はそういう風にできていないという現実があるのもまた事実だ。教育されたことと現実が明らかに違うという現実に適応できないゆとり世代が増えており、その結果バーチャル空間に居場所を求めるようになっている。

 

個人やプライバシーの概念が重視されるようになった現代というコンテクストにおいてもはや自分と合わない人間と付き合うのはなるべくならば避けたいことであり、勤務時間だけに限定しておきたいという考え方が主流になっている。

「日本人たるもの仕事に生きるべし」と考えている世代と、「自分の時間を大事にしたい」と考える世代では決定的に価値観が異なるためこのギャップに晒されることになる。

 

そして最後に3つ目の要因だが今の時代はかつてほど「オタク」「マニア」というものが偏見を持たれる時代ではなくなっており、趣味に生きる事が当たり前の生き方になっている。

例えば昔の大人というのは漫画やゲームなどはしない物だと思われており、いい年をした男が甘いスイーツを食べていることですら「大人っぽくない」と言われていた時代があった。

大人はジャズを聴いていなければダンディではないという時代から、アニソンを聞くことも自由で「会いに行けるアイドル」に熱を入れることもできるようになった。

 

昔のオタクは差別や偏見と闘いながら定時に自分だけ空気を読まずに帰り、同僚とも飲まず他人からの評価など気にせず趣味に没頭していたが、今の時代では誰もが自分の趣味を気軽に楽しめるようになりネット上に簡単に"同志"を見つけられるようになった。

 つまり今の時代は簡単にオタクになれる時代であり、そもそも自分の趣味や好きなことに生きることが疑問を持たれないようになった。

周りの目線を気にする必要が無くなり、見られ方も変わるようになった。そしてそういった生き方をしている仲間自体が多くなり、ネットやSNSでそういった同志を見つけられやすいようになったのだ。

 

これはオタク文化論に発展することなのだが、本来ならば差別や偏見と闘いながら我が道を行っていたかつてのオタクのほうが精鋭であり濃密だったことは間違いない。

しかしオタク文化がカジュアル化し普及していく流れはもう避けられないだろう。あらゆる文化や技術は使いやすくなることで波及していくのだ。

「ライトなオタクが増えた」というのは別の言い方をすれば、それだけ自分の好きな趣味に生きることが一般文化として普及するようになったも言える。かつての労働者が資本家と闘争し権利を獲得したように、オタクが社会と闘争していた結果、「自分の趣味は自由」という市民権を得られるようになり娯楽が多様化していくようになる。

 

つまり現代は会社や仕事のために生きること自体にメリットがなくなり仕事の後の楽しみが増え、そして自分の世界に生きることが肯定されるようになったためわざわざ居たくもない場所に居続けることの意味がなくなったと考えられる。

 

「定時に帰れない事っておかしいよね、今の時代昔と違って仕事の後にやることは多いし職場の人間より楽しい仲間いっぱいいるんだよ」という時代になったのが現代の大きな流れと言えるかもしれない。

ネットネイティブ世代が今後の主流になればもはや定時に帰ることは厳格に定められるようになり、個人の自由時間がより肯定されるようになるだろう。

いわばゆとり世代というのはその過渡期にある中間世代であり、犠牲となる世代でもある。

 

自分たちは仕事終わりの自由時間を楽しみにしているのに、社会や旧世代の大人たちががそれを許容してくれないのがゆとり世代が直面している現実でもある。

こういった旧世代の観念とは戦い続けなければならない。

ゆとり世代以前の世代も、かつての先人が価値観や制度を変えてきた恩恵を受けている。また今のゆとり世代も、実は上の世代にすでに変えて貰っていることは多いのだ。

それならば今のゆとり世代が次なる世代のためにできることは今ある理不尽な価値観を変える事なのではないか。

 

あと10年後には勤務時間だけでなく「実質的な拘束時間」についても考慮されるようになり、サービス残業が全廃され定時に帰ることが当たり前になり、仕事終わりに別の時間を過ごすことやバカンスの普及なども含めた長期休暇が一般的になっていることなどの実現が果たされていることを期待したい。

上の世代に叩かれる苦しみをどの世代よりも痛感しているゆとり世代だからこそ、次の世代に対する思いやりのある世代になるべきなのではないだろうか。

ゆとり世代はこれまでの世代のように「自分たちはこんなに苦労したのだから、君たちも苦労するべき」だと考える世代になってはいけないはずだ。