負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

朗報:ワイニート、ついに働き始める

しばらくの間、実質ニートブログとして記述してきたがこれからは社畜ブログになりそうである。社畜というよりは身内の仕事に加勢しているというイメージに近いのだが、いずれにせよ労働という神聖な行為を行い、「日本仕事帝国」の"臣民"として貢献できそうである。

 

これまで自分はこの仕事至上主義の日本社会において、ニートという非国民の反逆者であり続けた。去年の11月にアルバイトを解雇されて以来役8か月にわたる"抗戦"をし続けてきたがついにこの社会の圧力に降伏し労働者としてその軍門に下ることを決めた。

半年以上無職という名の英雄として粘り続けていたが、この社会の荒波に自分は対抗し続けることができなかった。

一つ目は貯金という補給がいよいよ尽きようとしていたこと、そして二つ目は身内という世論によりこの戦いの継続が困難だと判断せざるを得なくなったことがこの終戦の原因である。

 

この8か月にわたるニートとしての偉大な抗戦は、社会という圧力により駆逐させられることになったのだ。

時として自分はニートであることを誇りにすらしていた、仕事を神格化する日本という国において無職であり続けそれを公言するという事は人格を否定されるリスクを伴っていた。この国において仕事とは人間の価値そのものなのである、それゆえに仕事をしていないという事は存在価値が無いに等しい物として扱われ人格のすべてを否定される。

 

そんな自分の現状を見ていよいよ身内もしびれを切らし、いわば強制徴用のような形で

仕事戦線に狩り出されることになったのだ。

 

しかし自分にとってこれは同時に天佑でもあった。

生活に行き詰まり現金を必要としていた自分にとって日払いで給与が得られるというのは魅力だった。次の振込が待てない程に追い詰められたことが何度もあるため、とにかく日払いで手に入るという事は自分にとってありがたい条件でもある。

 

また身内との仕事という事もあり、それ以外の人間関係は必要なく基本的には自分のペースで労働に勤しむことができる。

自分は人見知りというわけではないのだが、日本人というのは仕事になると人格が変貌するため労働環境における人付き合いは苦手としていた。

 

例えば欧米における安い仕事というのはいわゆる移民がやる気など見せずに、仕方なくこういった底辺の労働を行っているという雰囲気が漂っている。それに対してその国の人々も「安い仕事をしているのだから仕方ない」と気にも留めないが日本という国は薄給の職業に対してもプロとしての精神を求めるのである。

「仕事は尊い」という絶対的な信条があり、どれだけ安い仕事であってもプロとしての態度や姿勢を過剰に求める。

やる気を見せて全力で丁寧な仕事をして欲しければそれだけ給料を上げるべきなのだが、最低時給ギリギリの仕事に対しても「仕事をさせてもらっている」という下等な立場を末端の労働者にも求めるのがこの国なのだ。

またその職業の経験者は、自分より遅く始めた者に対して無条件に上位の立場となり自分もされたのだからという理由で悪しき伝統を受け継ぐ傾向にある。

自分が下の立場の時嫌な思いをしたのだから、自分が上になったときその時の憂さを晴らすために偉そうにするというのが日本人のやり方だ。

 

とにかく日本人というのは異様に「仕事」を神格化しており、人格さえも変貌してしまう。

そんな忌まわしき労働文化がはびこっているこの国において、一度レールから外れた自分が迷い込むことはまさに子羊がサバンナに放り出されるようなものであった。

たかが仕事でしかないのになぜかこの国の人たちはそれで人格を判断し偉そうにする、その文化に自分は適応することができなかったため長らくニートであり続けた。もう仕事という行為そのものが嫌だったのだ。

 

また自分は自由時間がないことを極端に嫌う。

とにかく「明日何かをしなければならない」ということが不安で仕方ない。中高帰宅部だったこともあり、とにかく自由時間がないということに慣れない。

また大学時代はほとんど出席せず、それゆえに中退することになるのだが一度自由を味わった人間というのは中々制約に戻ることができないのだ。

もともと学校自体も嫌いだった、それは人間関係が上手く行かないからという理由ではなく単に誰かから強制的に制約を強いられることが耐えられなかったのだ。

 

日本の学校制度というのはいわば規則的な生活リズムや誰かから何かをさせられることに慣れるための準備期間という側面が強い。

近代国家の優秀な歯車の一つとなるために明治時代に導入された学制の伝統が今も受け継がれ、制約の中に人間を押し込めることが日本では美徳とされている。

 

そういった規則や規制、制限を忌み嫌う自分にとってまさに労働という環境は耐えられない物でしかない。しかし今回かろうじて身内しかいないという環境によって、くだらない「社会人としての常識」とやらを逐一指摘されることが無いというのは気楽でもある。日本の職場におけるこういった指摘はただ単に下の者に対してマウントを取るための憂さ晴らしや粗探しでしかなく、本当は本人のことなどどうでもいいと思っているのだ。

上の人間に対して理不尽に偉そうにされることも、下の人間に対して権威を振りかざすことも、どちらも自分には合わないのだ。

縦社会という物は自分が憎悪する対象の一つであり、日本人が大好きな「上下関係」は、自分にとって大嫌いなものでしかない。

 

こんなことを考える自分はおそらく社会不適合者なのだろう。

日本社会というのは何も考えない人間の方が生きやすいのだ。

人生の意味、生きる目的、生きがいとは何か、そんなことは考えない方がいい。ただ黙って言われたことをやっていればいい。

中途半端に頭がいい人間よりも、勉強はできないが体を動かしガツガツ働くことのできるタイプの方が結局は出世するのだ。

小中学時代の同級生の話を聞いても、自分より明らかに勉強ができないと思っていたタイプが案外手に職をつけて今勝ち組ルートを歩んでおり、中途半端に何かを考えるタイプだった自分はこのように悲惨な負け組に落ちぶれている。

 

自分の人生が何かと考えることは無意味で、ただ先祖代々受け継がれてきたことを何も思わずやる人生の方が日本人は向いているのだ。

「好きな生き方をすればいい」という風潮になったことでむしろ不幸な人が増えたのだ。人生は自由だからというが実際に自己実現できて快適に生きられる人は少ない。

そういう時自分の人生が思い通りにならないと苛まれるのだ。

 

しかし人生を思い通りにするという概念すらなく、村社会の一員として決められたことを全うするだけの人生が普通の生き方だった時代はそんなことを思う余裕すらなかった。

そしてそれが本当は幸せだったのではないか。

下手に人生は好きに生きていいと言われるから、実はそれが綺麗事でしかなく弱者を騙すための嘘でしかないと知ったときに人は不幸を感じるのだ。

 

実際世の中を見ても好きに生きようとした人よりも、親の跡継ぎや身内の伝手で決められた人生を生きている人のほうが幸せになりよい収入を得ていることの方が多いではないか。

好きに生きて自己実現できて人生が楽しいと感じられる人は一部の才能の持ち主や努力家に限られる。

そしてそれが実現できなかったとき他の人は羨ましい人生を生きているのに自分の人生はなぜ惨めなのかと思い悩む。

広大な可能性があるという嘘に踊らされる人生よりも、決められた範囲内で懸命に生きようとする人生の方が実は幸せなのかもしれない。

 

自分がここ数日始めさせられた仕事というのは肉体労働である。

いわゆる3Kの仕事、つまりキツい、汚い、危険という仕事をしている。

その上、薄給なのだが交通網も整備されておらずまともな仕事も残されていない辺境なので選択肢が少ないのも現実だ。

この猛暑の中で外仕事をしており、自分がなりたくなかった「汗水たらして働く大人」になってしまった。ダサいと思っていた姿になっているのだ。

ほんの少し前までクーラーも効いていない部屋で冷えていない酒しか飲めないことにい苛立っていたが、今では外仕事を黙々とこなしお酒も飲まずに過ごすというストイックな生活を送っている。

 

またこの仕事が決して楽しくないわけではない。

完全に単調で疲れるだけの労働というわけではなく、やりがいや達成感が皆無ではない。体を動かすことに充実感を感じないことも無く、頑張って働いた時には喜びを感じる時もある。何もしていなかった時期が長かったため、仕事を終えた後にその1日でお金を生み出せたことに安心感を覚える。今までは減り続ける貯金と先行きの見えない人生に苛まれていたからだ。

 

数年前、派遣バイトをしていた時に高校を中退し日銭を稼ぎに来ていた少年と話したことがある。その時に彼が言ったのは「何もしなかった日の夕方は、今日働いていればお金になったのにと後悔することがある」という事だった。

その少年の言葉を励みにするわけではないが、確かにその日を終えるときに、最低限お金になったという事は充足感をもたらしてくれるし、何もせずに終えた日は不安に襲われる。

 

結局底辺の人間にとって働くことは苦痛だが不安から逃れられる手段であり、働かないことは楽だが将来の不安に苛まれるという二択でしかない。

ニート生活の時期は明日何もしなくていいという代わりに、いつその明日がなくなるやもしれないという恐怖があった。

一方今は働いていることで最低限何かをしているという実感はあり、また得られる給与を貯金することで再びニート生活を再開する資金にすることもできる。

今は「つまらない仕事だが、人生に負けたのだから仕方ない」と言い聞かせてもいる。無理に楽しもうとするよりは、つまらないことを仕方なくお金のためにしていると言い聞かせたほうが気楽なのだ。

仕事に意味は必要ない、ただお金のために嫌なことをするしかないのも現実だ。

 

そんな人生のやるせなさを感じる時自分が参考にしている物がある。

それは漫画カイジで描かれているシーンであり、借金を背負った主人公がコンビニで「途中、途中」と言い聞かせながらアルバイトに勤しむシーン、そしてギャンブルに負けて地下に落とされた伊藤カイジが仲間らと共に3か月間地獄の労働を行うという話だ。

とりあえず自分は今の仕事を3か月とまではいかなくても1か月続けていようと思っている。お金が少し溜まったからいきなり辞めるというのも格好がつかないため、その後何らかの出稼ぎ労働に出かけてフェードアウトするかのような形で以前の様なニート生活に舞い戻ろうと考えている。

そのようにして貯金を貯めた後にまた人生について考え直し、次なる行動を開始したいと思っている。いわば今回の労働は人生を逆転させるための一手を打つための布石なのだ。まとまったお金が無ければ何も始まらないし人生は打開できない。

 

とにかく今は自由時間が無く、ほぼ「働くために生きている」という状態に近いのだがこれも今まで逃げ続けてきた付けを背負っているから仕方ないと言い聞かせている。

むしろ一度も仕事中心で生きたことが無いのであれば、その体験をしてみるのも良いのかもしれない。自分はこれまで月収10万円を超えたことが無い、そして最長で続いたバイトは2か月でしかない。

それもフルタイムではなく週に5日などではなかった。

 

しかし今の仕事は週6日勤務であり、週休二日制などという甘い条件ではない。この部分は身内に合わせなければならないのだが、むしろ自分は休日など必要ないとすら思っている。

下手に休日があるとその日の終わりに「明日仕事がある」という嫌な思いをするからである。これはサザエさん症候群と言われるのだが、日曜日の夕方にあるサザえさんのエンディングを聞くと明日が月曜日だという事を思い知らされ気分が悪くなってしまうという現象である。

休日が無い方が潔く諦められるため、休みを挟む必要などない、これもまたそう言い聞かせている。

 

仕事のために生きてるような生活だがそれも生きるため、仕事がつまらないのは当たり前、仕方なく金を稼ぐためにやっている、どうせ辞める、下手にポジティブな意味合いを見つけるよりもネガティブな現実に納得したほうが気楽だ。

別にそこまで面白くもなく嫌な仕事だが、仕方なく明日も仕事に行くしかない。

今は我慢の時、嫌な仕事を金のためにやるために働きに出る。

負けた人間は底辺を味わうしかないのだ。

だが、それでも絶対に這い上がる。

こんなクソゴミのような底辺人生の言いなりにはならない。