負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

僕自身仕事をやめる喜びはあった

社畜生活からの"出所"は意外に早く訪れた。

ここ10日間程仕事をしていたが今回も続かず職場で揉めて解雇される形となり、再びニート生活に舞い戻ることを果たすことができた。

 

同胞のニート諸君、恥ずかしながら帰ってまいりました。

なぜこれほどまで早く仕事を辞める事になったかといえば、きっかけは今日の朝での出来事だ。

今日は勤務時間に遅れ、そこから更に仕事内容について新しい注文を要求されたことで自分が反論し口論に発展し「もうこなくていい」と言われたのが大きな流れだ。

まず今朝いつもなら起動するはずの目覚まし時計が機能せず、自分自身それより早く起きていたにもかかわらず「今日は目覚ましが鳴らないが昨晩早く寝たからまだ早い時間なのか」と思っていたらもう時間は過ぎていた。

完全に遅れたわけではないが出発の時間になっており、朝から嫌悪なムードでスタートする。

自分の場合目覚まし時計といってもテレビの予約視聴で起きているためこれが時々機能しないことがある。

これは不運、いやある意味幸運だった。

 

さらに前日仕事内容について帰宅時にやや口論になっていた。

こちらの朝が遅いという意見に対して、そちらの夕方に片付けが遅い事は同じなのではないかと苦言を呈していたという遠因が存在する。

自分は一方的に要求に黙って答えるタイプではなく「要求をするならこちらも要求するのが交渉だ」という姿勢をとっており、以前から言おうとしていたことを今回のタイミングで要望をすることになる。

要求や要望と言っても大袈裟なことではなく、お互い一緒に仕事をする立場としてちょっとした生活習慣に関することなのだがこういった些細なこともタイミング次第では決定的な亀裂になる。

 

本当の社会人としての関係としてだけでなく、それ以前に身内なのだから聞いてもらえることだと思っていたが「これとそれとは別だ」というようなことを言われて口論に発展する。

その結果「もうこなくていい」と言われることになる。

その人というのは以前から自分の反論に困ると「もういい」と議論を棚上げにしてしまうタイプであり、自分も自分でやめたかったため交渉は決裂、無事現在の仕事を辞めることができた。

 

自分の働きに対してそれほど多くの額を出すことは厳しいと考える向こう側と、安い額しか支払われないのだからこちら側もそれ相応の仕事しかしないという価値観の相違も存在した。

 

様々なことを勘案した結果として辞めたいと思っていた時期であり、現在の職場はブラックだとも考えていた。辞めるなら早い方がいいと思っていただけに今回の事はむしろ幸運だったとさえ思っている。

昨日の夜に現在の仕事や人生について考えていたこともあり、もはややめることは既定路線となっていた。

 

現在の職場には決定的な欠点が3つ存在する。

・自分に向いていない仕事であること

・致命的に薄給であること

・拘束時間が非常に長いこと

 

まず一つ目の理由として現在の仕事は「キツい、汚い、危険」といういわゆる3Kの肉体労働であり自分自身始めたいと思っていたわけではなく、強制的に働かされていたという格好になる。

本当にその仕事が好きで、その道で生きていたいと考えているならば現在の環境も絶望的に悪いというわけではなかった。しかし先数年、数十年やっていきたいと思うような仕事ではなかったため本気でやる気にはなれなかった。

 

次に給与に関して非常に低く実質的に最低時給を下回っており、仮に一ヶ月勤務したとしても手元に残るのは出費も含めれば6,7万円が限度であり先行きは見えなかった。

 

また勤務体制に関しても半ば自営業のような形であり、更に1週間に6日勤務しなければならないような業種だった。

「この仕事は朝の8時から5時まで働いて時給が発生するような仕事ではない」と言われ、更に「職人は技術を磨いていけば給料は上がっていく」という旧時代の考え方の持ち主でもあった。

修業期間は小遣い程度で十分だという価値観で育ったため、それを要求してくるようなタイプだったことは否めない。実は以前にもこの仕事を「手伝い」という形でやらされたのだが、その時は体力作りという大義名分でタダ働きをさせられ数日でやめたことがある。

身内なので断れない部分もあり、現代においてもこういった前時代的な職場は数多く存在する。

こういった底辺の仕事をしている人間ほど自分は「職人」だというプライドをアイデンティティの拠り所にしており、理不尽なことを美化する風潮がある。

また努力をすれば収入は上がっていくという給与事情に関しても理論上の話であり、その仕事を本当に好きになり本気で勤しんだ時にだけかろうじて達成できるかできないかという水準であった。

 

こうした肉体労働はいずれ移民のような安い労働力や機械に代替されていく物であり、更に日本の人口構造を考えた場合必然的に需要が下がっていく運命にもある。

自分の肉体が衰えていくことに反比例するように需要は下がり、条件は悪くなっていく。このような仕事に先行きは無く、甘い言葉に騙されずいち早く見切りをつけたことは賢明な判断だったのではないかと思っている。

自分の場合ブランク期間があり、大学を中退し専門技術も習得してこなかったということも背景に存在する。こういった身内の伝手で跡継ぎのように職人の世界で生きていくことは確かに社会復帰を果たす有用な手段になり得た可能性はある。

まともに定職につかず先行きが不透明な生活を送っている中で覚悟を決めてこの仕事に生きることも一つの人生だったのかもしれない。

 

現在の給与事情が悪いと言っても都会のコンビニや業務用スーパー、飲食チェーン店で家賃や水道光熱費代の為だけに仕事をしている人に比べると体感としては大きな差はなかっただろう。

都会で仕事のためだけにに薄給のアルバイトで生きることも、田舎で小遣い程度の稼ぎをしながら修行生活をすることも自分の時間が無くただ何も喜びが無く生きて暮らしているだけということには変わりはないだろう。

 

自分が特別劣悪な条件で仕事をしているわけではないと言い聞かせることも可能だったのは事実だ。 

現代においてそういった生活をしている人はいくらでもいるのだ。

 

社会のレールに上手くはまり順調に生き出世ルートを歩んでいる人間も確かに多いが、同時に今の時代これといって定まった生き方をしているわけではない層も多い。

大学進学率は上がり、浪人や留年という事例は増え、大学院に進むこともあれば就職浪人や仮面浪人を選び人生をやり直そうと考えている人もいる。

 

「モラトリアム期間」という言葉に甘えてはいけないのは事実だが、高校に進学せず仕事を選んでいたような世代の人間とはやはり価値観が合わないという事情も存在する。

自分はこれでも十分にそういった猶予を容認されてきたが、それでも自分以上にまだ年齢が上で道を決められていない人間も多く存在するのだ。

人生を本気でスタートさせるタイミングは早くなくても良い。

 

言葉は悪いかもしれないが「社畜」や「奴隷」として社会に奉仕する人生に覚悟を決めることは10年後でも十分にできる。人生はその時に諦めて、そこから「社会人」という名の奴隷として歯車になっていけば良い。

自分に甘いと言われればそれまでだが自分はまだ好きに生きていいと思っているし、それの何が悪い事なのかとも開き直っている。

アドルフ・ヒトラーは画家という夢に破れ、ニートと浮浪者を行き来するような生活を若い時に続けていた。

その状況から一国の最高権力者にまで上り詰めたのだ。

 

歴史に名を残す革命家や芸術家で社会システムに従順に従っていたいた人間の方が稀だ。社会に反抗し新しい概念を創り出す人間というのは安易にそのシステムに染まってはいけない。

日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成もまた若いころに自由な生活を送り、その時の経験を『雪国』として成就させる。キューバ革命を成功に導いたエルネスト・チェ・ゲバラも南米を放浪していた時期があった。

画材を購入する費用さえ捻出できずに浮浪者のようなその日暮らしの生活をしていた貧乏な画家など無数に存在するだろう。

 

社会に素直に適応することが優秀な要素だとは限らない。

「集団行動」や「空気を読むこと」を重視する日本社会においてこの価値観に逆らう人間は異分子だろう。しかしそのことの異常に気付き始めている新しい世代も増えている。

自分は今回「尊敬できない人間」に逆らい仕事をたった10数日辞めた。

もし日本が「尊敬できない社会」だとするならばもはや従う必要はないのではないだろうか。

 

もし仕事を辞めたいと思っている人間がいるならばいち早くやめたほうがいいだろう。

劣悪な条件で従業員を酷使するブラック企業や旧世代の自称職人など淘汰されてしかるべきなのだ。

労働者が劣悪な条件で酷使され疲弊し消費が低迷し日本経済が衰退しているのは周知の事実である。仮にこういったブラック企業が淘汰され、ホワイト企業が増え、多くの人が生きやすい世の中になれば現状の停滞も打開されるだろう。

時間も無くお金もない、そんな人間が経済に貢献する消費活動をする余裕はなくて当然だ。

そして年金を支払い高齢者を支えたり結婚し家族を養ったりする余裕などなくて当然であり、それができなくなっている日本は衰退の一途を歩み始めている。

 

社会の枠組みからはじき出されたり自ら抜け出したりした人間など無数に存在する。

そして人生が定まらない人間など世界を見渡せば星の数ほどいるのである。

もはや社会システムは老朽化し従順になる物ではなくなってきている。一部の順調な人間を除いて多くの人が不本意な制度に降伏しなければならなくなってきている。

 

しかし横断歩道皆で歩けば怖くないという言葉のように、この社会に素直に従う事も皆で辞めれば何も怖くないのだ。

自分の仕事に本当に満足が行っている人を無理にやめさせようとはもちろん思わないが、本当に精神的にも体力的にも苦痛だと考えている人は自ら命を絶つ前に勇気をもってやめてほしい。

自分のように恥も見聞も無く、社会のせいにして図々しく生きている人間もいるのだから。

劣悪な労働環境など迷惑をかけてでもやめていい、社会の生贄になり犠牲者となる必要などどこにもないはずだ。

 

疲弊してまで見栄や体裁に拘る必要はどこにもない。

「頑張っても報われない社会」ならば本当に最低限の仕事だけをして意識低くミニマムな生活を過ごすだけの人生があってもいい。

一生懸命働けば報われて誰かが決めた幸せにありつけ、そして同じような生き方をしている大衆という概念が存在した前時代とは全てにおいて価値観が異なる。

 

消費しない現代人と言われるが最低限のものしか買わず、その代り「仕事や人生はそれほど頑張らなくてもいい」という安堵を選ぶ層が増えても良いのではないか。

誰かに命令されて雰囲気に従い、まるで体育祭の徒競走のようにゴールまで走らされることだけが人生ではない。

「走るの疲れるからゆっくり歩いてゴールします、ちょっと座らせてください」という人がいても良いはずだ。

 

誰もが順位やタイムを競う必要などなく自分のペースで生きても良いのではないだろうか。走ることが苦手な人を無理やり走らせて、最後にゴールした姿を笑うことが健全だとは思わない。

自分は短距離走は中位程の順位が定位置で、長距離走は苦手で最後にゴールしたことがある。しかもその長距離走については途中仮病で離脱した人間がいたため自分が最下位になってしまったのだが、社会という競争において仮病を使う人間がいても良いのではないだろうか。

小学時代は長距離でも問題がなかったが、中学になると男子はほとんど運動部だったため帰宅部だった自分はその体力についていけなくなったのだ。

 

長距離走は体育測定の時にしかなかったためこの嫌な体験は一度しかないのだが、短距離走に関しては機会があるごとに行われるためいつも最下位でゴールする生徒が本当にかわいそうで仕方がなかったし、笑ったり馬鹿にしたりするような気にはなれなかった。

なぜあのような辱しめを行うのかいつも不思議でしかなかったが、それも日本社会の性質であり、現代社会にもその価値観が継承されている。

 

最下位でゴールした人間を笑う、そういった悪しき価値観が「社会」という名の校庭で大人になっても行われている。

運動だけではない、テストの成績でいつも下の順位だった人間も同様に笑われてきたはずだ。

日本という国は教育の段階から既に順位付けが日常茶飯事となっている。

その数値がまるでその個人の価値や人格を判断するものだという教育が当然のごとく行われている。

物心がついたころからとにかく競争させられ強制的に他者と比べられるため、そこに何も疑問を持たずその習慣を大人になっても続けていく構造が存在する。

誰かに比較されたから今度は誰かを比較するようになる、上の人間に嫌なことを去れたから自分も下の人間に嫌なことをする、その連鎖が続いている。

 

仮に社会人というレースがあるとするならばそれは長距離走だ。

誰もが一目散に走り続けるが途中休む人がいてもいい、そして休憩しているように見えて実は早くゴールにたどり着く手段を開発しているような人がいてもいい。

マラソンのランナーのように体力で走りきる人がいても良いし、自転車や自動車を自力で開発して急速に追い抜く人がいてもいいはずだ。速く走る機械を開発しているときは何もしておらず停滞しているように見えるかもしれないが、それがゴールにたどり着くことを諦めたという事にはならない。

体力で走ることが苦手な人が道具で対抗しようという方法があってもいい。

 

皆が同じようなルールやリズムで走りきる必要はない。

そもそもゴールをしようとせず、ただ休んでいるだけの人がいてもいいしその内に速くゴールする手段を考え付いて習得するかもしれない。

 

我々はなぜ走らされているのだろうか、誰に命じられているのだろうか、走らなければ笑われるのだろうか、そもそもゴールは一つなのだろうか、そして走る手段は他にもあるのではないだろうか。

少し疲れたのでまた休憩タイムを取りたい。

今回自分が仕事を辞めたのはただそれだけの理由なのだ。 

もし疲れたならば休憩してもいい、社会という名のレースもそんなことが当たり前の習慣になっても良いのではないだろうか。