負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

仕事を辞めるとほんと開放的な気分になるよなwww

朝起きたときに今日という1日が笑顔でいられるようにそっとお願いする必要が無いというのは本当に気楽なことだ。

そもそも早く起きる必要もなく、起きてから今日は何をしようかと考えることができる、そんな何気ない事が何にも代えられない幸せだ。

仕事を辞めてこの何気ない日常のありがたさを再確認できた。

そして明日も何もしなくていいのだと思える幸せを感じずにはいられない。

まるでバルセロナを退団したネイマールのようにイキイキとし始めている自分がいる。長らくニート生活を続けてきた自分にとってやはりこの感覚が普通なのだ。

 

確かに先行きは見えず何も成し遂げられず残らないような人生かもしれないが、今すぐ先行きを見つける必要もなければ人生とは何かを成し遂げなければいけない物でもない。

そんな小さなことより今日という1日を晴れやかな気分で過ごすことの方が遥かに重要なのだ。

 

仕事が人生の楽しみや目的であり高額な報酬を得られるような職種につくことができているならばそれほど幸せなことは無いだろう。

しかし大部分の人間が不本意なことをしなければならないのが仕事であり、多くの人が我慢をしながら働いているのが社会の実態でもある。

 

なぜ仕事をするのかと言えば夢や自己実現というのは綺麗事であり、基本的にはお金のために誰もが命や時間を削りながら働いている。

自分の時間や体力をお金に変えるために皆労働という行為をしているのである。

 

失業保険や不労所得、遺産や年金というケースが存在するが基本的には仕事を辞めればお金が入って来なくなる人の方が多い。自分自身、今回仕事を辞めたことで無収入の状態に戻り貯金を切り崩していく生活が始まる。

 

しかし人生というのは最低限の出費に抑えればある程度生活できる物なのだ。

極貧生活や底辺生活は一度慣れれば、それなりに満足が行く。

人間の慣れる能力や適応能力というのは案外高い物であり、生活レベルを落とすことに慣れればそれが苦ではなくなる。

生活レベルや社会的な体裁を維持するために大変な仕事をやるか、生活のレベルを落とし恥も見聞もなく過ごすことを選び、労働の苦しみから解放されるかのどちらかを天秤にかけるかのどちらかは自由だ。

 

通帳にお金が入っていない状態に慣れ、その日暮らしの出費を計算する生活に適応することさえできれば仕事など必要な時だけするというスタイルでも生きることは可能になる。

ガツガツ仕事をして高収入を得て、いろんなものを買って夢に向かっていくことが人生だと考える生き方を誰もが選ぶ必要はない。

 

生活レベルが低い事に対する苦痛と、仕事をすることの苦痛のどちらがマシかという選択において自分は前者を選んだ。

現状後者を選んでいる人が多いが、今後前者を選びミニマムな生活をする人はますます増えていくかもしれない。

 

真面目に働けば報われて給料が上がっていくという幻想が崩壊し、アルバイトをするより生活保護受給者になったほうが裕福に暮らせるという世の中の構造が悪いのだ。

「仕事」に対する幻想や希望がとっくに崩壊している現代の日本社会において、もはや仕事は尊いものだという神話は通用しない。

「国家」や「天皇」という神聖な価値観を敗戦によって失った日本人が戦後その崩壊したアイデンティティを埋めるために選んだのが「仕事」という次なる神聖な存在だった。敗戦によって焼け野原になった日本人は朝鮮戦争やベトナム戦争によって発生した特需により多くの仕事に恵まれ、その心をの隙間を埋めることに成功した。

ただ働くだけで人生は幸福へと急発進し、現実に高度経済成長期を迎え日本人は裕福になっていった。

その甘美な時代や成功体験が忘れられない日本人は今も仕事を神格化し続けている。仕事が日本人に幸せを与えてくれた神様のような存在であったことは事実だが、もはや現代においてその神は"人間宣言"を行った。

 

仕事は日本人を幸せにするものではなくなったのだ。

もはや「働いたら負け」という言葉が現実化しており、生活保護受給者になることが勝ち組とされる世の中になっている。

悪いのは生活保護を貰う人間だろうか、それとも生活保護を貰う生活のほうが真面目に働くことよりも遥かに幸せになった社会のほうなのだろうか。

頑張って働いても報われない社会になっているにも関わらず、仕事は美しいという嘘をつき続ける上層部や、その価値観を盲信し同調圧力による強制を敷く「社会人」という存在に疑問を呈する人々が現れても良いはずだ。

 

出来れば自分も生活保護受給者になりたいと思っており、もしかしたら歪な生活保護制度や年金制度によって財政が破綻しなければこの社会は気づかないのかもしれない。

働いたら負けであり仕事をしても幸せが見えてこない社会が間違っているという事実から目をそむけてはいけないのではないだろうか。

 

仕事をすることが人生の最適解だと言われた時代は終焉しているにもかかわらず、「仕事に誇りを持っている生き方は素晴らしい」と綺麗事をプロパガンダのように宣伝する社会の方がおかしいのだ。

仕事をしなければ一人前の社会人ではないという同調圧力に屈し、劣悪な条件で働き疲弊している人間が大勢いる。

 

戦前の日本において「日本人なら」という言葉によってあらゆる理不尽を封殺していたように、現代では「社会人なら」という魔法の言葉によって都合の悪い事には蓋をしている。

日本人としての誇りという言葉が社会人としての誇りという言葉に置き換えられただけであり、全体主義的な村社会は現代も存続している。

勤勉な日本人ならば多少の事は我慢しなければならないし、それができるのが日本人だという価値観をそのまま社会人という言葉に変えただけでしかない。

「社会人ならばこれくらいの事は我慢しなければならないしそれが常識だ」というフレーズは神話のようにこの国の全土に根付いている。

その結果効率の悪い事や理不尽なことは改善されず、老朽化した日本社会というシステムは新しい時代に適応できなくなってきている。

 

農耕民族として共に理不尽や苦境に耐えることがかつての日本人の美徳だったならば、現代では社会人ならば美しい日本社会に奉仕することが美徳なのだ。

大和魂で乗り切れと理不尽な命令をした大本営と、社会人魂で乗り切れと理不尽な慣習を維持し続け下の世代にも強要する人々のどこに違いが存在するのだろうか。

 

日本人は未だに近代的自我を確立できておらず、真の意味で近代化を果たすことができていない。

21世紀の現代においても未開で前時代的な労働文化が維持され続けていることから目を背け続けてきた結果、この国の社会は衰退の道を歩み始めた。

上層部は自分たちの既得利権だけを大事にし、末端の人間は切り捨てる。

若者がいくら苦しもうが高齢者は構わず年金をもらい続け、下の世代を批判し続ける。

上の人間が絶対だという価値観は先の大戦において散見され、そして近代化以前の日本に置いてはそれが常識でもあった。

個人という概念は今の日本においても存在するように見えて存在していない。

この日本列島という島に辿り着いた頃から日本人はそういった文化を育み、そうやって生きてきた。

要するにそういう国であり人々なのだ。

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