負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ゲームを極めることに意味があるのかと考えるこの頃

ゲームをすることは非常に面白く、自分も昔からずっとゲームをし続けている。

「ゲームが人生」だと言えば大袈裟かもしれないが、自分の人生の中で真剣に追及していきたい物の一つでもある。

小中学生の頃の夢はゲームクリエイターになることでもあり、まさに人生の中で重要な物である。自分は決してゲームが嫌いなわけではない。

 

つい先ほどもゲームをしていてやはりゲームは楽しいと思ったし、ゲームを批判しようとも思わない。よくゲームは無駄な事だとか、子供にさせてはいけないとか、精神に悪影響をもたらすと言われるが、そういった偏見にはもちろん反対の立場である。

 

ゲーマーは様々なタイプに分類される。

・キャラクターや世界観を目的にプレーする人

・ゲーマーのコミュニティがもたらす楽しみを重視する人

・コミュニケーションツールとして考えている人

・プレーの質や実力を極めることを目的とする人

 

自分はどちらかというと最後の質を拾究めることを目的としたタイプである。

ひたすら自分がこれだと決めたタイトルばかりをし続けて上達するために練習し、向上することに喜びを見出す。

 

自分が上手いプレーができたときは一人で自惚れているタイプだ。エキサイティングな勝負を求め良いプレーや美しいプレーに酔いしれる、そんなプレイヤーである。

 

その一方で最近はふと考えることがある

「このゲームが上手くなって自分はどうしたいんだろうか」

「この先の果てに何が待っているのだろうか」

「正直そこまで上手くはならないのではないか」

 

もちろんゲームをメリットがあるかデメリットがあるかでやることはナンセンスであり、やりたいからやっていることは間違いない。

その一方で楽しいことをやり続けるだけが人生ではない。これ以上上手くなるのか、そしてやり続けてどういったことが実現できるのか、そういったことも考える必要がある。

 

自分は今やっているゲームにおいてオンラインランキング最上位層になりたいとも思っているし、世界的な有名タイトルでもあるため世界大会に参加したいとも思っている。

理想は世界チャンピオンになることであり、強くなりたいとも思っているし上手くなりたいとも考えている。結果と中身の両面を追求したいと考えており「魅せて勝つこと」を信条としている。

 

その一方で現実にゲームを極めようとした時その世界は途方もない。

自分はオンライン対戦の高度化を批判的に見ている一方で、やはりオンライン対戦がゲームを高度にしたことについても評価している。

そして自分自身も真剣にプレーを磨き練習している立場である。

 

今の時代どのゲームも高度化しすぎて忙しいと思っているが、同時に本当に自分が好きなゲームについてはやはりオンライン対戦や高度な競争があってほしいと思っている。

ゲームは競技の領域に差し掛かっており真剣にすることは決して悪い事ではない。初心者がなかなか勝てず、どのゲームもすぐに上級者や経験者に叩かれる状況になっているが同時にそれだけ洗練されていることだともいえる。

インターネットを知らなかった時代を懐かしみながらもいざ無くなったら困るように、今オンライン対戦がなくなったらそれはそれで困る。

 

しかしそのオンライン対戦がやはり「途方も無さ」を感じさせる。

昔は全国大会も世界大会も縁遠い事に過ぎなかったが今ではすぐにその世界に直結させられる。オンライン対戦であっという間に全国や全世界の上級者と対戦することができる時代だ。

「ゲームが上手くなる」ということが曖昧だった時代に比べ、今では明確に数値化される。

おそらくそのゲームにおいてオンラインランキングの上位半分に加わることができれば大抵の場合その地域コミュニティにおいて屈指の実力者になったと言えるだろう。

 

しかしオンラインになればそれでもまだ半数以上の人には負けてしまうのである。オンライン対戦における中級者になれば十分実力者と言えるのだが、同時にそれで物足りなさもある。

オンライン対戦がなかった時代には十分満足できた領域も今の時代では満足できない。

例えばスポーツにおいて全国大会出場者というのは、その競技人口全体における上位10%に確実に入るエリートである。誰もが頑張ればなれる領域ではなく途方もない努力や備わった才能を要する。

こういった全国大会出場者は世界大会やプロと比較した場合は末端に過ぎない。甲子園や高校サッカー選手権に出場しプロに慣れた無かった無名の選手など無数に存在するが、現実のスポーツではそれは十分名誉や誇りになる。

 

しかしゲームのオンライン対戦にはそのような指標が存在しない。

地域コミュニティや現実のスポーツにあてはめた場合十分な実力者でも、ゲームの場合は所詮広大なオンラインの中の1人に過ぎない。

いきなり全国や全世界を一まとめにしてその中で位置づけが決められてしまう。またゲームでそういった上位に入っていることは自己満足でしかなく、現実のスポーツのようにそれがリスペクトされることは無い。

 

現実のスポーツならば経験者や実力者として尊敬されるレベルでその競技を極めていても、ゲームだとそれはあまり価値がない物にしかならない。

レーティングやランキングを誇りにしたところで誰も理解できない無意味な自己満足にしかならない。そのためどうしても「そこまで真剣に努力をして意味があるのか」という疑問が投げかけられる。

勝利を重ね上位になることだけを目的にしていれば、それが実現できなかったときに虚無の境地に達することになる。

 

もちろんそういった自分独自の世界を追求し、その領域を楽しむことは素晴らしい。万人に理解されるよりも少数の人にしか理解できない特殊な世界観を楽しみたいのもまた人間だ。

「わかる人だけにはわかるプレーの質」という境地に喜びを見出すこともこういった競技やゲームの魅力であり自分もその部分を追求している。

自己満足ではあっても本当に自分が好きなプレーを極めたときは楽しい。

「練習は裏切らない」という言葉のように、練習し上達しプレーの質が向上したときに大きな喜びを得られる。

昨日よりも上手くなったことが嬉しい。

 

その一方で、練習は裏切らないがゆえにその世界が途方もない。自分にはこのゲームさえあればいいというモチベーションでひたすら極めている人には練習量で叶わないし追い付けない。自分の努力も裏切らないが、他人の努力も裏切らないのである。

スポーツのプロの世界で練習しなければ生き残るのが難しいように、ゲームもまた練習が必要となる。

そういったことを考えたとき「自分はこのゲームを練習し続けて何が実現できるのだろうか」という疑問に駆られる。

 

前述のように自分はゲームが非常に好きであり、未知の領域を極めたいという探究心もある。

しかし自分の人生はゲームだけではない。

仮に時間が無限にあるのならば自分は今やっているゲームを永遠とし続けるだろう。時が止められるならば気が済むまでゲームをやっていたい。

人生がゲームだけをしていれば良いのならば幸せだが、他にもやりたい事ややらなければならない事がある。

ゲームも好きだが他にも好きなことがある、それならばゲームに投じる努力を他の好きな事に使っても良いのではないか。

 

例えば自分が重視している「プレーの質や美しさ」を目的とするならば、最初から芸術方面に注力したほうがいいだろう。ゲームの世界はどちらかというと実力や勝敗が重要であり、芸術性を楽しむ文化がそれほど盛んではない。

そういった芸術方面での自己実現を求めるのであれば初めから文学や美術の方面で頑張った方がいいのかもしれない。

小説や絵は自分の想像を反映できるため好きなことができる上に自由度が高い。ゲーム以上に理想とするものを作り出せるだろう。

 

これから芸術に時間を使って実現できる世界とゲームに時間を使って実現できる世界とを天秤にかけたとき、どちらかが自分の理想とするものに近づけるだろうかと考えたとき後者の伸びしろはそれほど多くは無い。

ゲームの実力は確かに練習すればするほど伸びているのだが、今後数年やり続けても劇的にプレーの向上が見込めるとは思えない。自分の中では上手くなった程度で無数に上位層が存在する。

 

更にゲーマーというのは他人のプレーに厳しく、辛口な傾向にありよ程のことがなければ他人の実力を認めない。そんな厳しい世界で「上手い」という言葉を貰おうと思えば途方もない努力をしなければならない上に、批判の方が集まりやすい。

その一方で芸術関連の世界というのはゲームに比べたとき人の才能を評価する傾向にある。

芸術の世界というのは趣味や好みが重視されるため、実力や上手さ以外のものでも評価されることがある。

 

もちろん芸術も競争社会であることには変わりないのだが、ゲームよりは比較的「嗜好」というものを重視したり評価する傾向にある。

自分の場合本気でこれから極めるのであればやはりゲームより芸術の方が自己実現できる可能性は高いだろう。これは自分のケースにあてはめた場合だが、他にやっている趣味と比較した場合ゲームを本気でやるべきなのかどうかは多くの人が考える必要があることなのかもしれない。

綺麗なことがやりたいのならばゲームよりも絵や文学を志したほうが本当にやりたいことができるだろうし、勝利が重視される世界では理想だけでは戦えない。それどころかゲームの世界は年々勝利至上主義に傾いており、質や趣きを重視することは綺麗事とみなされるようになっている。

 

その一方で自分はゲームをやめるつもりはないと思っている。

日本古来の考え方として「道」という概念がある。

それは必ずしもすべての競争に打ち勝つことが目的ではない。日本の近代競技やスポーツの概念がもたらされる以前は武道は精神的な修行に近い側面があった。

例えば剣道をすることは決して誰よりも剣術に秀でた存在になることが目的の全てではない。

己を鍛え、限界に挑み、自分がこれまで会得できていなかった精神的な境地に達することが目的の一つであるともされてきた。

 

剣道をすることは全国大会や世界大会で競技として優勝することが全てではない。

昔、剣道のドキュメント番組を見たとき80歳を過ぎても最高段位になることを目指し鍛錬を続けている剣道家を見たことがある。

もはや彼らにとって精神修行の領域に達しているのだろう。世俗的な考えとは距離を置き、ひたすら自分の世界や能力を突き詰めることは美しい。弓道などでも大会で優勝することより自分の段位をひたすら極めていくために照準する人もいる。その立ち振る舞いの美しさや精神面の鍛錬に黙々と打ち込む。

剣道や弓道においてはただ結果を出すだけでは昇段することができない。

本質を理解していなければ段位を上げていくことは不可能であり、勝利以上に大切なものが存在する。

 

これは武道に限らず市民大会などで実施される競技においても同じことが言える。マラソン大会などは民間で数多く開催されているが、上位に入ることが全てではない。最下位だとしても完走することに喜びを見出す人もいるし、自分の前回の記録を1秒でも上回ることを目指す人もいる。

市民大会への参加と記録の向上を生きがいとしているお年寄りランナーは、決してオリンピックのマラソン種目に出場できるわけではないだろう。

登山などで難所とされている険しい山に挑むのもそういった「自分との勝負」が目的なのかもしれない。

 

まさに自分の限界と向き合い少しでも向上すること自体に喜びを見出しており、人に勝つ事だけが全てではない。自分と向き合い、自分の限界に挑む、そのことにエネルギッシュな喜びを感じることもまたスポーツの楽しみ方である。

そしてそういった末端の競技者が競技全体を支えている。

ゲームももしかしたらそういった考え方が適応できるのかもしれない。

ランキングに入れない末端のプレイヤーもそのゲームを支えている一員である。

 

さらに優れたプレイヤーの上手さを理解するためにも自分が経験者であるという事は理解の助けになる。

どの競技にも言えることだが、少しでも自分がその競技をした経験があるとその上手さが理解しやすくなる。上手い人のプレーを理解するためにその競技を行うという考え方もできる。たとえばサッカーのリオネル・メッシがなぜ上手いのかというのは、ボールを蹴ったことがある人と蹴ったことがない人では理解度に違いが出る。

本当にメッシの凄さを理解したいならば自分がドリブルやシュートの練習をしてみることが有効である。いくら映像で何度も見るよりも、自分で実際プレーしたほうがその凄さに気付くことができる。

 

末端の競技者であってもその世界の一員であり、経験者であることで上級者の凄味が理解できるようになる。

トッププレイヤーの上手さを理解するために末端のプレイヤーになるという考え方もできる。

ゲームにあてはめるならばFPSや格ゲーなどは世界大会も開かれているが、ほとんどそのゲームをやったことがない自分には上級者の質と初心者の質の違いが判らない。それゆえにその世界大会を楽しむことができない、なぜならば全員同じプレーにしか見えないからだ。

 

その競技のプレーの質は経験者や普段から観戦している人にしかわからない、この法則はほとんどすべての競技に当てはまる。

例えそのゲームや競技の上位層になれなかったとしても、最低限の実力があるだけ上位プレイヤーの質の違いが楽しめるようになる。

そう考えると強くなれなくても自己実現できなくても、その経験は無駄ではなくなる。

 

それは将棋や囲碁も同じなのだろう。

おそらく凄い世界が広がっており、高度な戦いが繰り広げられているのだろうが勉強したことがない自分にはそれが理解できない。

逆にサッカーの試合でワールドカップ決勝やチャンピオンズリーグ決勝が行われた場合「これは凄い」と自分は楽しむことができるし、見ていない人はもったいないとさえ思う。例えその世界の末端の人間であっても、その競技を知っているか知っていないかだけで楽しめる物の数が増減する。

その世界において最下層の競技者であっても、その競技を知らない人よりは最高峰の試合を楽しむことができる。

 

最高峰にたどり着くことよりも、最高峰のものを理解することが目的であっても良いのかもしれない。自分が実際にやってみる事で上位者のクオリティを理解するヒントになるのであれば、それはどんなに弱くても下手でも無駄な事ではない。

 

楽しいからプレーする、勝って上位になりたいからプレーする、自分の世界を追求し向上するためにプレーする、上手い人のプレーを理解するためにプレーする、そのコミュニティの一員になるためにプレーする、人それぞれゲームをする動機を持っている。

ゲームを極めることの意味や目的、それは人それぞれ多岐にわたる理由があるのだろう。 

ゲームをすることに迷った時は自分がこれまで考えていなかった理由を探してみたらより面白くなるかもしれない。

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貧乏だと日常生活が苦痛で仕方がない

ただ日常生活をしてるだけで嫌になる、生きてるという活力がわいてこない。

特にこの夏自分を苦しめていることが2つある。

それはエアコンと冷蔵庫が自由に使えない事である。

エアコンに関してはそもそも壊れており使えない、そして冷蔵庫は家族との複雑な事情があり自由に使うことができない。

しかも家族の吸うタバコの副流煙が入ってこないようにするために部屋を閉め切っておかなければならずなおさら熱気がこもり、閉め切った部屋で扇風機をかけるしかない。いつ熱中症になってもおかしくないような状況にいる。

世の中エアコンが28度設定について揉めているが、そもそも自分はこの夏をエアコンなしで過ごさなければならない。

特に夕方の時間帯は西日が直接当たる部屋にいるため非常に苦痛で仕方がない。

その為あらゆるやる気が削がれており人生が嫌になっている。

 

この状況を改善するには自分でエアコンを購入しなおかつ電気代を払わなければならない、そして冷蔵庫も自分専用の物を買うしかない。

しかしそんな金があったら苦労していないのである。

本音を言えばより自由なリズムで生活するために一人暮らしをしたいが、民度の高い住民が住んでいる場所にある良質な物件に住もうと思えば天文学的な費用が掛かる。

自分は日常生活のストレスに左右されやすいタイプであり、本来はこういった逆境に耐えて這い上がっていかなければならない事は自覚しているがそうは言ってもやはり苦痛だ。

ここからさらに暑くなるというのだから絶望しかない。

 

結局はこの日常の苦悩のすべてが貧乏や貧困に起因する。

自分が今満たされない感情や日々のイライラや苦痛もお金があれば解決するだろう。よく鬱病の人間が大金をもらったらその日から元気になると言われることと一緒で、自分も大金が手に入れば急に明るくなるだろう。

まるで伊藤カイジのように「金だよなぁ、結局金」と独り言をつぶやくしかない。

 

「助けて!○○ちゃんが心臓の病気でアメリカで手術をしないといけないから2億円必要なの!」と高額な募金を募っているが自分はこういいたい。

「助けて、ニート君が快適な生活をこれからもしたいから2億円必要なの!」

前者は乞食だと自覚していないが、自分は乞食と自覚しているだけマシだ。

 

そんなくだらない冗談でも言いたくなるほどに困窮している。

こんなことを言っても誰も手を差し伸べてはくれないだろう。

「自分より下の人間や同レベルの人間がいる」と安心したいがためにこの惨めな自分を"鑑賞"しているに過ぎない。しかし自分もかつて負け組や底辺のブログを見て満足していた時期がある。その償いの時が訪れたのかもしれない。

見下していたら、自分が見下される立場になる。

もう思う存分この惨めな生きる価値もない底辺である自分を見て満足すればいい。結局関わろうとせず他人事として傍観者にいる時が心地よいのである。

 

そこまで生活を変えたければ働きに出ればよいのだが、もう底辺職しかないのが嫌で日雇いバイトさえもしたくない。

つまり「良くない環境で我慢しながらダラダラ暮らす」VS「仕方ないから働きに出る」の両者を天秤にかけて前者を選択しているのである。なんという消極的な選択だろうか。

そしてこんな生活もいつまでも続かずいずれジリ貧になるだろう。

はみ出し者が今更社会に入っていこうとしても底辺職しか残されていない。その結果いつものように「階級社会や一度失敗したら終わりな社会が悪い」「自分を評価しない世の中が悪い」「不況と少子高齢化が悪い」という責任転嫁にも似た愚痴が口癖のように湧いてくるといういつも通りのループ状態に陥る。

何かをやるたびに失敗していればいつの間にか努力や挑戦の気力すらなくなりダラダラと無気力に今を過ごすことが日課になる。成功体験を順調に重ねられず自信を得られなかった人間の末路がこれである。

「がんばって努力をすれば報われる」と思える人間と、「がんばってもまた失敗するだけだ」と思ってしまう人間がいる。

賭博黙示録カイジという漫画に「バスケットゴールが高い位置にあればいずれ投げようとしなくなる」というという自分が大好きなセリフがあるのだが、まさにそのような精神状態に陥っている。

 

しかしこれも身分相応の生活なのだろう。

誰の役にも立たない価値のない人間としてはむしろいい暮らしを出来ている方だ。

価値のない人間はそれ相応の生活をするしかないのである。

世の中は階級社会であり、その底辺の人間などいい暮らしを出来なくて当たり前なのである。それを手に入れたければ成功するしかない。

しかし成功しようにも「勝ち組の椅子は埋まっている、自分は椅子取りゲームに負けた惨めな敗者だ」とこれまたテンプレのような"いつも通り"の言い訳を呟き、指をくわえながら勝ち組様を眺めるしかない。

価値のない人間や役に立たない人間、必要とされない無能に居場所などないのである。

 

また駄目人間としての思考ばかりが駆け巡る、もうこのくだりを何度やったことだろうか。

無価値な人間にはそれ相応の生活しかない、そう言い聞かせながらこの気だるい暑さの中でネガティブな発想ばかりを考える。

 

つい最近聞いた話ではテレビ局は現在ほとんどがコネ入社になっているらしく、無能でも嫌われ者でも親が既得権益層の上級国民ならば高い給料を得られるらしい。

しかしコネ入社と言っても、そういった勝ち組の御子息の連中は海外留学経験があり幼いころから社会の上層部の人間と食事をしたりしているから実は有能で品がある人が多いらしい。

また芸能人なども二世タレントが多く、世の中間違いなくコネ社会や階級社会になっている。アイドルグループなどを見ても、親が有名人という人は多く優秀な形質や能力が受け継がれ優れた教育を受けているのである。

勝ち組はいつまでも勝ち続け、負け組はいつまでも這い上がれない。

インドのカースト制度と同じように世の中「出自」や「身分」が大半を左右する。社会には身分差別がまかり通っている。外国人差別より深刻なのは日本人同士による差別だ。そして自分は比喩的な意味合いにおいて"被差別階級"なのである。

差別され蔑まされいつまでたってもこの社会の上層には入っていけず、上流階級に憧れながらもその夢はかなわず下層階級で一生を終える。

 

そしてそういう恵まれた連中に身分社会の底辺に置かれた人間は「努力不足だからそうなったんだ、自己責任だ」と言われ見下される。

エアコンもない暑苦しい部屋の中で「金持ちか有能な家に生まれたかったなぁ」と虫の声のように溜息をもらす。

これもそれ相応の生活なのだろう。

誰だって夢を見て自分が特別だと思いたいが、その内これが自分にはふさわしい生き方なんだろうなと諦めていく。

そして世の中そんな有象無象の負け組人間がいくらでも存在して不満を募らせている。遂に自分もその一人になってしまった、いや最初からそうなる相応の運命にあったのだろう。

断酒生活、とりあえず1日目は無事成功

昨日から始めている断酒生活だが、まずは久しぶりに1日もお酒を飲まずに終えられた。朝の目覚めは非常に良い。いつもならば今ごろ前日のアルコールがアセトアルデヒドに変わり頭痛や吐き気に苦しんでいるはずだ。

胃のヒリヒリ感もないため間違いなく健康には良いという実感も得えられている。

 

しかし既に朝から飲みたいと思っているのも正直なところだ。

むしろこれだけ体調が万全ならばいい飲み時だとさえ思っている。

飲めば朝から苦しい、飲まなければ朝から飲みたい。

どちらにしてもジレンマがある。

 

そもそも昨日1日を通じて「酒を飲みたい」という考えに支配され続けていた。何気なく読んだ小説にも飲酒シーンが出てきて飲みたいという感情に襲われる。

おそらくテレビを見ていたらアルコール類のCMが流れ、それ以上に飲みたくなっていただろう。アルコール中毒者のために「のどごし音」が自粛されたというニュースを聞いたことがあるが、確かに禁酒生活中だとそれは刺激になるだろうしそもそも日本の文化自体がそこら中が酒であふれている。

 

自分は決してそういう事を規制してほしいとは思わないし、そもそも今も美味しい酒が飲めるならば今すぐにでも飲みたいと思っている。

ぬるくて美味しくもない酒をつまみも無しで飲まないといけないから嫌になっているだけで、キンキンに冷えたロックの果実酒が目の前にあれば有無を言わさず飲むだろう。

 

正直なところ心の底からお酒を辞めたいと思ってこんな生活をしているわけではない。現状の環境ではぬるくて美味しくもない酒を我慢しながら飲まないといけないから仕方なくやめているのと、金銭的な事情もあるから制限しているだけに過ぎない。

 

しかし、それでも1日飲まずに過ごしたことで大きなメリットがあることに気付いた。

まずは自分自身の稼働時間が非常に長くなったことと、即自的な快楽がなくなったことでいろいろな努力をするようになったことが大きな変化である。

いつもならばお酒を飲みながらダラダラ過ごしていたため日常生活の基本的な事すら怠り腐敗していたが、昨日は飲まないことでエネルギッシュになり久しぶりに溜めておいた部屋の片づけをすることができた。

かなり動いたため疲れたが、肉体的に生きているという実感を得られたし達成感があった。

 

また前述のように小説を読むようになり、夜中に静かに小説を読むのは久しぶりに楽しいと思った。お酒で酔っているとどうしても小説を読むことが億劫に感じて音楽を聞くか映像を見るか、ただ横になっているかがメインになっていたが活字を読む習慣を上手く作れるようになりそうだ。

元々自分は小説や文学が好きではあったのだが、最近はお酒の量も増え読書からは遠ざかっていた。

また稼働時間が増えたことで絵や文章を書く時間も今まで以上に確保できるようになった。今までならば動けなくなって絵も描けなくなっているような時間帯にイラストを描けるようになった。小説を読んだり絵を描いたりすればお酒を飲まずとも楽しめそうである。音楽を聴きながら絵を描くことはお酒が無くても十分楽しめると感じた。

自分で何かを作っていく充足感をよって楽しむことで代替できれば生産的な生活になるだろう。

ゲームをすることや面白い作品を見ることなども良い代用になるかもしれない。

 

更にお酒を飲んでいない事そのものに達成感や充実感を得られることにも気づいた。

「味の悪い安酒を飲んでわざわざ頭を痛くして何になる」と言い聞かせてストイックに過ごせばそれなりに達成感がある。傍から見れば1日酒を飲まなかっただけで何がストイックな生活なのかと思われるかもしれないが、まるでしっかり運動したり筋トレしたりしたかのような充足感がある。

 

また酔っていない状態の時も「頭痛を抱えながら寝込んでいるときよりはマシ」と言い聞かせている。酔いの楽しい時間が過ぎてダウンしているときは、アルコールがきれいさっぱり体から消えて欲しいという感覚になる。今はその理想の状態になっていると思えば満たされていなくてもやり過ごせる。

結局お酒を飲んでも楽しい時間はそれほど続かないのである。ましてや一人で安酒を飲んでいるときは酔う事や現実逃避が優先事項になりどうしてもハイペースで飲んでしまう。安酒なはずなのに量が増えるため結局はお金がかかる。

 

そういう金銭面でも飲まない事にはメリットがある。1日飲まないだけでかなり節約した気分になり、少し節酒するだけでもある程度お金が浮く。

 

決してものすごく楽しいというわけではないが、1日が今まで以上に長く感じることはできた。酔っている状態が短距離走のように激しい物だとすれば、飲まない生活というのは体力を上手く分配し長距離走をじっくり走るようなものかもしれない。

 

ちなみに以前久しぶりに飲まない日があったときは翌日がっつり大量に飲んだ。

真の関門は2日目以降である。初日を達成することよりも継続して実現することが最も難しい。

気を引き締めながら今日も過ごしたい。

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お金もなくなってきたのでそろそろ禁酒することにした

最近お酒を飲むことがあまり楽しくないし、美味しいとも感じられなくなっている。

まるで義務であるかのように、そして惰性であるかのように自分の中で飲まなければならないとして無理に飲んでいるかのような感覚にさえ陥る。

その上一人で飲む安酒はそれほど楽しく飲めないため、酔うために速いペースでのみすぐにダウンとして苦しんでいる時間の方が多い。

自分は無駄に出費をして、時間も失って何がしたいのかとここ最近よく考えるようになっている。

そろそろ本当に生活習慣を見直す機会がきたのではないか、理想は禁酒だが「減酒」でも良いと思っており飲む量や機会を半分にするだけでも自分にとっては大きな進歩である。

 

自分がお酒をもう辞めたいと思った理由はいくつかに分けられる。

1:お酒がおいしくない

この夏になってめっきりお酒を美味しいと感じられなくなった。

一番の理由はすぐにぬるくなりまずくなるからである。

自分が今住んでいる生活環境というのはエアコンが存在しないため扇風機で過ごしているのだが、とにかく冷やしておいたワインや酎ハイが途端にぬるくなってしまい美味しいとは思えなくなる。

 

また冷蔵庫も自由に使えるわけではないため冷やした状態でいつも常備しておくことができずウイスキーや焼酎のように常温でも飲める物を飲むことが多いのだが、これもはやり冷えてないとそれほど美味しくない。

 

一見するとコップに氷を入れて飲めばよいように思えるが、エアコンの効いていない部屋ではすぐに氷も解けてしまいなおさら味が悪くなる。

保冷性の高いタンブラーは一つしか持っておらず、自分の場合時間の経ったコップは綺麗に洗ってから乾ききるまで使いたくないためどうしてもこれ一つでは足りなくなる。酔った状態でダウンして動けなくなれば翌日の為コップ類を準備しておくことも億劫になる。

そのためどうしても簡単に飲める缶酎ハイやワンカップ焼酎、ボトルワインなどがメインになる。

 

更に氷を冷凍庫から取出し準備するというプロセスも深夜にガチャガチャと音を出すと家族に迷惑がかかるため難しい。

一部家族に負担してもらっている費用もあるため、夜中に大きな音を立ててお酒を準備したり毎日お酒を冷蔵庫に入れておくわけにはいかないという事情もある。

家族のいない日中ならば冷やして飲めるが、上述のようにエアコンの無い環境ではすぐに生ぬるい状態になってしまう。

 

自分専用の冷蔵庫とエアコン環境、複数のタンブラーを用意すればこの夏もお酒が楽しめるのだが、果たしてそこまで執着して何の意味があるのだろうかとも考えるようになった。

 

焼酎や日本酒はワンカップの物ならば常温でもそれなりに美味しいため、家族に悟られずに部屋の中で飲めていたのだがさすがに夏になるともっと冷たい物が欲しくなる。

更に焼酎はスルメや缶詰のようなつまみが無ければ魅力が半減する為、節約のためにお酒だけ買うというやり方ではあまり楽しめない。つまみを買う事も経済的負担になるためその分を少しでも今までアルコール類に回してきた。

しかし何かを食べないで強いお酒だけを飲むという事はやはり胃に良くない。

 

以上のような事情が複雑に絡んだ結果、この夏の気温になってから自分はそれほどお酒を楽しめていない。本当に酔う為だけにまずい安酒を我慢して飲んでいるという状態に近い。

安いウイスキーを常温で飲むと、まるで薬を我慢して飲んでいるかのような感覚にさえなる。そんなことをして悪酔いしても楽しくはない。

 

2:経済的にそろそろ厳しくなってきた

自分は今貯金を切り崩して生活しているニートである。労働という行為が嫌になったため定職にはつかず、バイトもせずただひたすらこの数か月、荒んだ酒に依存した生活を続けてきた。

しかしそろそろ貯金の面で黄色信号が点り始め、日々の酒代が負担に感じるようになってきている。仮に1日で500円分の酒を飲むとして、これが10日も続けば5000円になる。そしてこれは一ヶ月のインターネット代を支払えるレベルの金額になる。

少しでもニート生活を延命するにはこの酒代をカットするしかない。

 

そしてそのニート生活の間にスキルアップをしたいという思惑もある。とにかくお酒さえ飲まなければ出費もだいぶ抑えられるためこの生活が数か月先延ばしにできる。

働くことと酒を飲めない事、どちらが嫌かと言えば前者だ。酒が飲めなくても働くよりはマシ、それほどに自分にとって仕事をするというのは大きな負担であり辛い事なのである。

 

3:酔う事で生活の質が落ちている

自分は陰鬱に落ち込んだ気分を変えるために酒を飲んでいる。

このつまらない生活の中で唯一の喜びといっても過言ではないのが酒だったが、その酔いのために多くのものを犠牲にしていることや、何も変わっていかない事の気付いた。

 

まず人間にはテンションが上がっているときと楽しい時があるのは当たり前なのである。

それを無理にお酒の力を使ってあげようとすると必ず後でぶり返しが来る。

楽しい時間を作るが、苦しく楽しくない時間も作る。結局それは飲まない時とトータルでは変わらない。結局無駄にお金を払って楽しくないネガティブな時間を作っていることにしかなっていないのだから本当に意味がない。

美味しくない安酒を劣悪な環境下で飲んでいることもこの悪循環に拍車をかけている。

 

自分の場合朝起きて前日の酔いを醒まして回復したら昼ごろからまた呑み始めるという生活をしているのだが、夕方頃にはダウンし夜中の間はただひたすらに頭痛と戦いながらソファで横になっているという状態が続いている。とにかく時間の無駄でしかなく、一時的にテンションを上げるために膨大な時間を無駄にしている。

 

そしてもっと人生を充実させる全うな努力に切り替えて、別の楽しいことを探すべきだと考えるようになった。てっとり早い快楽に頼るのではなく、もっと様々なことにチャレンジして人生を変えていくことの方が大事だと気付いた。

探せば楽しい事はいくらでもある。

お酒を飲まない学生の方が楽しそうなことや、自分自身お酒の量が少なかった時の方が楽しかったことは人生にこれが必要のないことを証明している。

 

更にお酒も一生飲まないと決めたわけではない。

今頑張って努力することで将来良い環境で良いお酒を飲めるようになるかもしれない。目先の悪い酒より、未来の良い酒を選ぶ、そういう判断をした。

夏に一人でぬるい安酒を飲んでいても何も面白くない。この夏だけでもお酒から離れていたい。

 

おそらくこれから禁断症状が訪れるだろう、そういう時には「今飲めなくても未来にはもっと良い酒を飲める」と言い聞かせることが必要になる。

また週に1,2回だけ良い酒を飲むということもできる。数を減らし一度の質を高めることも良いかもしれない。

そしてそのほうが明らかに健康にとっても良いだろう。

アルコールというのは体に良い物ではなく、飲まないなら飲まない方が明らかに良い。今まで休肝日も作らず飲み続けてきたが、そろそろ一度体を休ませるべき時が来たのかもしれない。自分の体力が露骨に低下し、健康の面でも不調を感じることが増えている。高い度数のアルコールは胃を傷つける。

 

とにかく日々の生活の中で陰鬱な時間があることは当たり前であり、そしてそれはお酒を飲んでも結局後にそれがやってくるだけでしかない。

もう悠長なことを言って現実逃避ばかりしていてはいられない。

その為にもまずはお酒を減らし、断つ。

人生を変えるためにもまずは日々の習慣から変えなければならない。 

「反戦」のヒトラーTシャツを着たホリエモン、ネット民に叩かれる

NHKの番組にアドルフ・ヒトラーを想起させる絵柄の描かれたTシャツを着て出演した堀江貴文が一部の勢力によって批判されている。

これは実際の所ヒトラー賛美ではなく、第二次世界大戦を起こした張本人が「NO WAR」と叫んでいる風刺画であり反戦メッセージを意味しているとホリエモンは主張している。

実際のホリエモンはこれまでそのTシャツを着て批判されたことは無かったらしいが、NHKにそのTシャツで出演したことで批判にさらされている。

「NHKの影響力半端無い」と苦言を呈している。

 

堀江貴文がそういった釈明をするまでもなくそんなことは誰もが理解できることのように見えるのだが、世の中にはヒトラーの絵柄が描かれているだけで脊髄反射的に戦争賛美であるかのように認識する人がいるのである。

NHKの放送程の規模になると、時としてそういった理解力の無い人も視聴者に紛れておりサイレントマジョリティほどネットでは声が大きくなる傾向がある。

 

インターネットの風潮全体として言える事なのだが、最近は小さな事すら許せない人や指摘せずには気が済まない人、そして風刺や冗談を理解できない人が増えている。

例えばゲハ論争にしても昔のネット民が半ば少数のコミュニティで冗談のように言っていたことも、今は本気でとらえるような層が現れ始めている。

ネット的な意見も実際は閉鎖されたコミュニティの中で冗談めかして言っている者が多かったが、それを本気にして現実に持ち出す人が今増えてきている。

 

結局のところこういったユーモアや風刺を理解するには一定水準以上の知能指数が必要であり、そこにすら達していない人が実は大勢いるという事を最近インターネットは証明している。

ネットを普及させたことが間違いだったと最近は語られることが多いが、今回のヒトラーTシャツ批判騒動もその一つの事例なのかもしれない

昔は「半年ROMれ」という言葉があったが今はそれが廃れているのも、ネット初心者や物事を表面的に見るだけの人が多数派になったことの表れだろう。

アドルフ・ヒトラーの風刺Tシャツの意味さえ理解できない人がネット上もかなり増えたのである。

 

「郷に入っては郷に従え」という古い言葉があるが、少し前までのインターネットは「ネットを見ればネットを理解してから発言するべき」という雰囲気があった。

自分自身もネットを始めたときはなんとなくそのノリを理解してから発言をしていたが、今の時代はそれを理解する気が無い人や理解できない人が何も考えずに発言する時代になっている。

 

その結果冗談や風刺を理解できない人が"マジレス"することが急増している。今回のヒトラーTシャツ批判も最近政治や歴史の知識を覚えたての人がヒトラーならば何でも批判すればいいと脊髄反射した形に近い。

おそろしいことに「脊髄反射で反応する」という慣用句すら小難しい言葉だと理解できず思考停止で反論する人がいる事である。

 

自分も決して頭が良いわけではないのだが世の中は広く、第二次世界大戦がどの国や勢力同士の戦いだったかすら知らない人や基本的な慣用句さえ知らない人が多い。

「馬鹿は発言するな」と言われたら自分自身も頭は良くないため発言できなくなるが、その自分を下回るレベルで知性が足りない人がネットには大勢いる。

 

インターネットというのがどうも最近息苦しくなりユーモアが欠如しているように見えるのは、こういった脊髄反射的な人々によるところが大きい。

何かを批判する流れになれば止められず、集団で批判することに一体感を覚える人が大勢いる。

次なる批判対象を探しており、まるで標的やターゲットを探すかのように人の粗を探して回っている。

人の粗を探し細かい部分を指摘し集団で批判する管理社会のような風潮を形成すれば、いずれ自分がその標的にされることを彼らは理解していない。

 

このような風潮が続けば当たり障りのない事や、そこまで考えなくとも理解できるようなことしか受け入れられない時代が来る。

心の狭い人やただ批判したいだけの人が増えればネットは徐々に面白くない物へとなっていくだろう。

いや、現在まさにその過程の最中にある。

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若い時に金がないVS老いてから金がない どちらが悲惨か?

多くの人の人生にとって大事なものはやはりお金である。人生はお金ではないというのは実際は綺麗事ごとであり、生活の質は強く経済的な要因に左右される。

金銭面以外の部分で充実した人生を送れている人も、経済的に裕福になれば基本的にはより幸福になる確率が高い。

「金持ち喧嘩せず」という言葉があるように、勝ち組やお金持ちの人は心が穏やかであり負け組や貧乏人は心が荒んでいる。

 

実際自分は紛れもなく底辺の貧乏人だが毎日の人生がつまらなく、そして精神面も荒んでいる。誰も自分を見て幸せそうな人間だとはみなさないだろう。

中には自分の人生が幸せそうに見える人もいるかもしれないが、基本的には惨めな負け組として見下され日々の生活はおそろしく退屈である。

休日は恋人と街に出かけるという予定もなく、それどころか毎日が休日で貯金を切り崩しているニートでしかない。

 

ここから人生を変えようにしても社会のレールから踏み外れた人間が地方でできることなど薄給の底辺職ばかりだ。逆転を狙ったことをしようにも結局上手く行かず、また元に戻され一歩進んで三歩下がるようなことの繰り返しでしかない。真面目に生きても、人と違う事をやろうとしても手詰まり感がある。

 

その上、世の中や日本社会全体が上向きに向かっていくという事も実感できず自分の人生と社会の見通しも悲惨というダブルパンチのようなことを味わっているのが現代の若者の実態である。

 

若いときに金銭的に恵まれない事の何が悲惨かと言えば、老いた時にすがれる思い出も作れず、周りは楽しそうなのに自分は置いてけぼりにされているという疎外感や嫉妬感を味わわされるところにある。

更に「今は負け組でもここから逆転していつか勝ち組になればいい」という野心も持ちにくい日本社会の現実がここに加わる。

 

今の自分は「これまで楽しくなかったけどこれから楽しくしていけば良い」から「これまでも楽しくなかったからこれからも楽しくないだろう」という感覚に変わり始めてる時期にある。

自分は遅咲きタイプだと信じたい一方で、何やってもうまく行かないタイプなんだろうなという諦めにも似た感情もある。

結局人生を逆転できる人は少数派で、負け組はこれからも負け続ける事例の方が多いのだ。数年前の自分はこれから這い上がり勝つという反骨心を持てていたが、今はこれまで負けてきた上にこれからも負け続ける敗者にしかなれないという現実に気付かされている。

 

男の負け組や弱者は特に悲惨だ。

社会的に「強者」だとみなされている側の中にいる弱者というのは最も世間からの扱いが軽く、同情も支援もされない。

「男ならもっとできるはずだ」「男なのにそんなこともできないのか」という目線でしか見られない。出来て当たり前のことができない人間というのは最も理解から遠い存在に配置され、そして見下される。

 

男性というのは若い時はそれだけで評価されたり優遇されたりしない上に、これから更にお金や社会的地位がなければ異性から評価されにくくなる。

それを言えば女性も基本的には年々若くなくなって評価されなくなり始める恐怖はあるだろう。

自分の性別である恩恵を受けられず不利な点ばかりは思う存分に味わわされる、そんな負け組や持たざる弱者が悲惨なのはどちらも一緒なのかもしれない。

どちらが悲惨かを争ったところで不幸自慢合戦にしかならない。

「俺が女ならもっと同情されて、無能であることも許されたのに」と嘆いたところで、女性の方も苦しんでいる人は多いのである。その人はきっと自分が男だったらこんな目に合わなくて済んだと思っているであろう、隣の芝は青い。

 

それを言うならば「若い時にお金がない事と老いてからお金がない事のどちらが悲惨か」を議論することも無駄な論争でしかないだろう。もっと自分の人生のために有益なことを考えたほうが生産的な行為に違いない。

 

しかし一つはっきり言えることはどちらもやることがないからそういう考察をするしかないのである。

個人的な結論を先に述べるのであれば前者の方が悲惨だろう。

「若い時はお金が無くても楽しめる、何でも楽しい時期だから」というのはもしかしたら後になって気付くことなのかもしれないが現段階では自分の現状が悲惨であり、このつまらない人生にうんざりしている。

 

更に意見を述べるのであれば老いてから金がない事は別にどうでもいいと思っている。

若いときに貯金ばかりしてる人がいるが、老いてから大金を使ったところでそれほど楽しくはないはずだ。体力と感受性が衰えており何事も新鮮味を感じられなくなっている時期にお金があったところで仕方がない。

またそれは同時に貧乏であることや不幸であることへも鈍感になることを意味する。年を取ってから貧しい事はそれほど気にならず、老いてからは思い出さえあればいいのではないだろうか。

その一方で若い時に貧しく楽しくないことは、同世代の楽しんでいる人間に対して嫉妬の念を感じやすく苛まれやすい。

 

少なくとも若い時に金銭的に裕福だが老後は困窮する人生と、若い時に困窮し老後は裕福な人生があるとするならば自分は迷わず前者を選びたい。

 

そして最も悲惨なのは若いときも金がなく老いてからも貧しいという人生だ。ゆりかごから墓場までの期間ずっと貧乏なことほど惨めな物は無い。

そして自分はその両方を経験する確率が高い。

そうならないように当然努力はしているが現状貧乏とは一生付き合っていかなければならなくなりそうだ。

そしてこれは自分一人の問題ではなく、若いときも楽しくなく老いてからも楽しくないという不幸な時期だけ経験する世代が今後増えていくだろう。

 

今の日本の若者というのは「今の自分が駄目でも将来の自分は輝いている」という希望を持ちにくい状況に置かれている。

若いときに貧乏でも「世の中全体がこれから発展していくんだろうな」と希望を持てれば苦しい時期も頑張れるし楽しい。

 

逆に言えば「みんな貧しいし自分ひとりじゃない」と安心できるという側面もあるが、あまり前向きな感情ではないだろう。

とにかく今の世の中は若者が努力をしたくなくなるような雰囲気が蔓延しており、活力や活気がなくなっておりそれをさらに「若者の何某離れ」と揶揄される構造がある。

 

資本主義の世の中はお金がなければ楽しくない仕組みになっているにもかかわらず、今の日本はお金がない若者が増えており、更に新しい世代が這い上がっていきにくい構造になっている。そして一度失敗した場合許されにくい風潮が追い打ちをかける。

それにもかかわらず上の世代からは「野心が無く努力をしない最近の若者」「打たれ弱いゆとり世代」というレッテルを貼られる傾向にあることが更にやる気や活気を削ぐ要因になっている。

今の若者文化が劣化していることは間違いないだろう、使うお金も回って来ず活気もない人間が作る文化など衰退して当然である。若者にお金が回ってこない社会が悪いのか、お金を得ようと努力しない若者が悪いのか、経済学者ではないため正確にはわからない。

ただ自分自身これまでチャレンジをしてこなかったわけでもないし、今スキルを磨いていないわけでもない。

しかしなかなか変わっていかない現実もありそれゆえに毎日が楽しくない。

 

若い時にある最大の強みと言えば時間と将来や未来である。

実はこれらは人生で何よりも大切な物なのだが、暗い見通ししか持てない未来ばかりが広がり、努力をしても結果が出ず無為に過ぎていくだけの時間が続いているときはそのありがたみが実感できなくなる。

「楽しいはずの若い時が楽しくない」という自分の経験上もっとも辛い、そしてそれは今リアルタイムで自分が感じていることでもある。しかもそれがいつまでも続かないという不安にも苛まれる。

 

努力が必ず報われるわけではないように、万人が若いからといってその強みをいかして成功できるわけではない。

前述の「その性別における弱者は自分の性別のメリットを感じにくく、デメリットを感じやすい」という理論に似ているかもしれないが、今の若い世代は若さのメリットを感じにくくデメリットを感じやすい傾向にある。

事実を言うと言い訳として受け取られるかもしれないが、現実に今の若年層は昔の若年層に比べて利点が少なくなり欠点が増えている。

勿論昔の若年層にはなかった利点もあるのだが、昔の若年層にはなかった欠点が更に多いのでトータルでマイナスとなる。

「今の若者にはこんなに良い物があって恵まれている」という反論に対しては賛同できる部分もあるが、「その一方で昔の若者が出くわさなかった不利な状況が増えている上に、昔の若者が得られたものが得にくくなっている」という反論が成立する。

 

昔も「最近の若者はこれだから」という批判は当然あったはずだが、今はそれを言う側が圧倒的多数派になっている上にネットの「ゆとり叩き」のようにそれを目にする機会がかつて以上に増えている。

何を言ってもゆとりの戯言で片づけられてしまう現状がある。

本来ゆとり世代より少し上の世代が批判しなければならない高齢者層なのだが、彼らはむしろ味方になるはずのゆとり世代を叩く傾向がある。

ただ、つべこべ言わず行動する情熱があったのは昔の若者だという事は認めたいし自分に足りない部分でもある。

違う世代の事はどうしてもお互いに理解するのが難しい。

本音を言うならばゆとり世代も「自分たちを理解しない上の世代が悪い」なんて思いたくなく理解されたいと思っている。そして自分たちも上の世代への理解が足りないことを反省しなければならないだろう。

 

これ以上こういった不毛な世代間対立をしても仕方がないので、自分の経験の話をしたい。自分が最大級に惨めな思いをしたのは都会での体験にある。

自分は今は地方で生活をしているが少し前までは全国の中では都市だとみなされる地域にいた。都会というのは物で溢れており、それゆえに何をするにしてもお金がかかり、物が手に入らないことに苛まれやすい。

社会階級や身分といった出自の違い、生まれ持った才能を思い知らされ、貧乏人や持たざる者であるという現実を突きつけられる。そして最終的に責任を運という曖昧な要素になすりつける。

その現実に踏みとどまって這い上がることができればよかったが結局失敗し自分は出戻ることになる。再挑戦の機会は今でも探っており、ここで終わるわけにはいかないと思っているが現状からは程遠い場所にある。

 

ただひたすらに社会における敗北だけを味わって帰ってきたが、とにかくお金がない事や負け組あることを感じやすいのが都会だとも感じた。

今は田舎にいることである意味目をそむけていられる状況なのかもしれない。田舎は同世代や勝ち組をあまり見かけずに済むというのが利点だ。

都会ならば有能な同世代のライバルを街を見ているだけで見かけるが、田舎だと自分が敵わないような嫉妬心をこじらせるような人間を見る機会はそれほど多くないので楽である。

それゆえに野心を持ちにくい構造になっているというのは以前も触れたとおりである。

そして徐々に自分もその一人になってきている現実がある。

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しかし現在ではSNSという存在があり、多くの人が自分の私生活や写真をネット上に乗せている。

フェイスブックやインスタグラムは「幸せ自慢大会」になっている側面もあり、ネットが無い時代に比べて他者との比較に晒されやすくなっている。SNSやネットがここまで普及する以前はインターネット全体がなんとなく"負け組のたまり場"のような雰囲気があったが、今はネットがリアルの延長線上にあるものになってきている。

 

自分はあまりSNSを見るタイプでもなく、他人の観察をすることが好きではないが今はそういう人が増えており「SNS疲れ」というのも社会問題になっている。

今の若者が昔の若者に比べてお金が無い時や勝ち組ではない時に不幸になりやすい理由は、もしかしたらこういったSNSの存在にもあるかもしれない。

人の幸せや自慢話が昔に比べて目につきやすくなっているという構造は今の負け組の若者にとって更に追い打ちをかけているのではないだろうか。

 

SNSをやらない理由に「見せるものが無い」ということをあげる人は多い。

見せるものが大量にある持つ者はネットでも人気者になりやすく、見せるも物がほとんど無い持たざる者は人気者になりにくい。リアルで勝ち組の人がそのままネットでも勝者になり、負け組の人間はネットでも敗者になる時代になってきている。

今の時代は現実にどこまでも追いかけられる、

「デスストーカー」という名前のサソリがいるのだが、まさに現実はデスストーカーであり息絶えるまで執拗に追走してくる。その現実と戦わなければ生き残れない。

とにかくネットにもリアルを持ちこむ人が増え、どこにいてもマウント取りに晒される時代になったことでかつて以上に負け組であることが恥になり許されなくなっている。

インターネットも他人の目線を気にする場所になり自分の恥ずかしい部分を語れない雰囲気になっている。

 

お金がない事と不幸なことを混同することは良くないのかもしれないが、一致する傾向にあることは間違いない。

更に今の若者にとってSNSは必須ツールであり、他人との比較に晒されやすい状況になっている。

そして追い打ちをかけるように社会状況として若者が貧困に陥りやすく将来を明るく見通せない構造がある。

つまりこれらのことをまとめると、今の若者はお金が無く不幸になりやすい上に、現実だけでなくネットでまで他人との比較に晒されやすくなっているため悲惨な状況に陥りやすい。

 

老いているときにお金が無くても、それまでは金銭的に恵まれていた人生だったかもしれないし思い出があれば問題はない。更にもう先行きも長くないためそこまで不幸は感じにくい。「もっといい人生を送りたかった」という後悔はあるかもしれないが、同時に諦めもつきやすい。

 

一方で若い時にお金がないというのはろくな思い出も作れず、同世代との比較に苦しみ、この不幸な時間が老いていく人生の中でこれからも膨大に続くように感じる。

「まだこれからやり直せる」という希望を持てなくはないが、その希望さえ持つ事が難しい世の中になっていることが更に満たされない感情に拍車をかける。

 

将来や未来が良いものにならない不安に苛まれ、そしてその将来や未来が実はすでに今来てるという現実もある。

自分自身人生計画が大幅に遅れてることを実感せずにはいられない上に1年ごとに諦めるものが増えて行ってる。

怨嗟や嫉妬に苛まれ毎日のように誰かのせいにするだけの人生が続く。

もちろん自分の努力不足や実力不足であることはわかっているのだが、その現実と向き合い続けることは疲労をもたらす。

「お金がない若者が悲惨」といったところで、努力してお金を手に入れればいいと言われれば確かにその通りなのであり、まだできることはある。

文句や愚痴をこぼすだけでは人生は何も変わらないことは自覚しており、努力やスキルアップを行っていないわけではない。そのことは言われなくても自分自身が一番理解している。

しかしそのルサンチマンの捌け口をどこかに持ってこなければ人間はやっていられないのである。

 

スポーツや芸能人でも自分より年下の世代が普通に活躍し始め、下の人間に追い越されていく感覚に苦しむ。その一方で自分の計画は遅々として進まずなかなか結果が出ず、社会から取り残されていくような感覚に陥る。

若いときは確かに可能性がありいろいろできるかもしれないが、それは活用しきれるのは有能な人間や元々恵まれた人間が多く、弱者はその恩恵を享受できない。

 

10代の時は壮大な夢を見て自分がこれから新世代だという感覚と時間もあった。20代にはいると現実を突きつけられていく。

若者が楽しいというのは、漠然と子供のころは楽しいはずだという思い込みのようなもので現実には悲惨な生活だけが広がる。努力をして変えようにもなかなか変わらずいつの間にか人生に冷めていく。

 

楽しめる立場にある若い人間は人生が楽しくて仕方がないだろう。

しかし恵まれない若者や無能な若者の現実は悲惨である。そして楽しんでいる同世代に対して怨恨だけが募り、自分をここまで苦しめる社会そのものが憎くなる。楽しめる立場や羨ましがられる場所にいるはず人間がその恩恵を享受できていない時、その不満は倍増する。

若い時にお金が無い時に悲惨なのは「楽しいはずの時期なのに楽しくない」という不満や、楽しんでいる同世代に必要以上に妬みの感情を持ちやすいことが理由だ。

そして「思い描いていた幸福な時期」が予定通りやってこなかったことへの後悔が滲む。

長々と考察する意味もないことを述べたが、以上がお金がない若者が悲惨な理由である。

ブラジル代表ネイマール、また来日マール

もうネイマール何回来日してんねんってぐらい定期的に来ていて、そろそろバルセロナの同僚選手に日本案内ができそうな領域である。趣味や観光というわけではなくスポンサー絡みではあるけども、なんだかんだで有名サッカー選手が日本に来るとサッカーファンとしてはうれしい。

ネイマールは一ヶ月ほど前もマットレスのイベントに訪れて日本の子供たちとサッカーをしていたが、その後秒速でまた日本に訪れた。むしろブラジルにいるのと同じぐらい日本にいるのではないだろうかと思わされるほどだ。

ネイマール

今回はバルセロナと契約した楽天の記者会見のために訪れたようではあるが、メッシやピケまで来るらしくさっそく楽天効果が表れてる。ここ数年バルセロナを見てきた人間としては来季から胸スポンサーがRakutenになるのは不思議な感覚であると同時に、日本企業が活躍してくれるのはうれしい。

自称バルセロニスタならば「日本企業が神聖な海外サッカーに絡んで来るな」という人もいるが、自分は特にそうは思わず「バルサに楽天とかシュールすぎだろ笑」と思いながら来季も楽しみたい。

 

日本のバルセロナファンとしてはこれだけバルサの選手が来てくれるのはありがたく、レアル・マドリードの選手らは何とも薄情だと思わずにはいられない。

実際は情というよりも経済的な理由なのだが、いずれにせよ日本ではバルセロナの方が人気なのは間違いない。

 

特に小学生年代の人気ではネイマールやメッシがレアル・マドリード勢を圧倒しているように見える。日本人の子供たちは海外の子供たちに比べてクリスティアーノ・ロナウドにあまり憧れているようには見えない。

弁慶と牛若丸の頃から日本人は小柄なテクニシャンの方が好きであり、メッシやネイマールはまさにその美学に当てはまるのだろう。ロナウドやイブラヒモビッチの方が好きな子というのは珍しい印象がある。

 

それはともかくネイマールがまさかここまで出世し人気になるとは思っていなかった。

ネイマールが10代でサントスにいたころは「近い世代のライバルとしてネイマールに追い付く」ぐらいに思っていたが、今は差がつけられ過ぎて口が裂けてもそんなことは言えない。ネイマールをライバル視していたこと自体自分にとっては身の程知らずの黒歴史である。

才能や物が違うというのはこういうことを言うのだろう。

 

とはいえネイマールのプレーを見ていると本当に楽しく、見ているだけで自分もサッカーをしたくなる。部屋の中にあるボールで少し足技を練習して脳内でバルセロナの選手である自分を妄想するぐらいしか今の自分には出来ないが、ネイマールに憧れる日本の子供たちにはまだを思い描ける未来が待っている。

 

いつか日本からバルセロナの選手になるサッカー少年が現れてほしいなと思うし、現に久保建英は今最も可能性が高い。

ブラジル人サッカー選手が日本に訪れてスター扱いされる時代から、日本人サッカー選手がブラジルに訪れてスター扱いされる時代が来たらきっと感動するだろう。

三浦知良がブラジルに旅だった時代から時が流れたが、やはり未だにブラジルの壁は厚い。日本代表もフル代表の年代では未だにブラジルに勝ったことがなく実力差を毎回味わわされている。

 

ネイマールはサッカーを遊ぶようにプレーし、人生の楽しみだとも語っている。ブラジル人サッカー選手の多くに言えることだが人生を謳歌し、陽気にサッカーを楽しんでいる。それが美しいプレーや度肝を抜くプレーを生み出し人々を感動させる。

直感と積み重ねてきた技術の融合が想像の領域を超えるプレーを生み出す。

遊び心を持ちながらサッカーをし、そして人生を楽しむ、そんなネイマールの生き方は羨ましくも感じ、そして憧れでもある。

そしてそんなサッカー選手が日本からも現れてほしいなと思う。