指原莉乃さん、番組ロケで訪れたクラブで絡まれて泣く
指原莉乃がリリー・フランキーと深夜に番組をやるという話を聞いて、始まったら見たいというぐらいに思っていたらもう放送開始していたらしい。深夜のマニアックな世界を指原がロケをするという構成らしく、こういう番組が見たかったと思っていたけども結局見る機会もなかった。
しかし何気なくネットニュースをみていたらその番組での出来事が話題になっていて、「やっぱり指原莉乃は話題になる能力がほかのAKBメンバーに比べて高い」と思わせられた。もはや今の自分は純粋なアイドルファンではなくゴシップネタやアイドルの本性のようなものが好きで、それゆえに指原莉乃の計算高さのようなものに興味が行く。
今回の話題はリリー・フランキーと出演する「真夜中」という番組で深夜のクラブに指原がロケにいくというもので、酔った人のテンションについて行けずガチ泣きしてロケが中止になったというのが大きな流れらしい。
指原莉乃と言えばワンカップ大関のCMをしていたことがありながら、本人は美容のためにあまりお酒を飲んでおらず今回のロケでも酔っている人が苦手と発言している。
総選挙三連覇を成し遂げた絶対的アイドルにもかかわらずこういうロケをするのが指原の魅力でもあり、そういうところの面白さの一つであることは間違いない。
そんな今回のロケに対して「さっしーを薄汚ねえ世界に出すな」とSNSで発言する人もいたようだが、指原莉乃の本質を理解している人ならば本当に薄汚いのはさっしーであるというツッコミを入れたほうが良いだろう。
自分は指原の性格の悪さや計算高く演じているところの方が好きであり今回の企画中止もおそらく計算に基づいた物だと思われる。
指原は典型的な「涙を武器にする女」であり、計算高く泣くことで話題を作り成り上がってきた過去がある。むしろ現在の指原莉乃に「莉乃ちゃんにそんなことをさせるな」という普通のアイドルファンみたいな層がいたことに驚かずにはいられない。
テレビ番組の視聴率が取れない時代には普通に放送するより「ガチ泣きして番組の企画が中止」ということのほうがネットニュースにも取り上げられて話題になる。
今の時代ネットで話題になることの方が重要で、ステマだらけなのは間違いない。普通にしてるとテレビといえでも興味を持ってもらえないことを指原莉乃は熟知している。
指原という人間はネットニュースやSNSの影響を知り尽くしており、小学校高学年ぐらいから2ちゃんねるの専門板を使いこなしているような人間である。
最近スマホでネットを始めたような人間の一枚も二枚も上手であり非常に計算高い。
「自分が炎上してもコントロールできる」と語っており、ネット民の特性を知り尽くしている。
普通の24歳の女性と言えばツイッターなどのSNSを謳歌しているように見えるが、指原からしたら「最近できたツール」でしかなくyoutubeもなかったような時代からインターネットを使ってきた歴戦のネット民なのである。
実際にこのロケが終わった後ラーメンを食べながらカロリーを気にして「クラブで踊って帰ろうかな、フォーチュンクッキー」と発言しておりあれも演技であったかのように匂わせるメンタルの強さを見せている。メンタルの強い指原がクラブで絡まれたぐらいで泣くはずがないわけであり、ほぼ演出と言って間違いないだろう。
世の女性や同じアイドルのライバルが自分の承認欲求と戦っているときに世論を上手く扱うにはどうすればいいのかとかと考えているのが指原莉乃という存在だ。
自分の場合その辺も含めて指原が好きであるどころかもはや尊敬しており、昔のネットを知る同世代としても親近感を感じている部分がある。
同世代の女性が「インスタ受けする写真撮って"いいね!"をいっぱいもらいたい」と言っているときに、SNSを駆使して世論を操作して誘導するのが指原莉乃なのである。
24歳の女性だとは思えない「狡猾さ」や「計算高さ」を持っており、ただの女性アイドルだと騙されてはいけない。
将来政治家になってもおかしくないような人材であり、実際にAKB選抜総選挙も高度な分析と戦略に基づいて理詰めで3連覇をしている部分がある。
AKBに入り自分よりかわいい人がいくらでも存在することを目の当たりにして、自分が正統派のアイドルでは勝負できないことを理解してからは徹底的にイロモノ路線に切り替えて勝負するようになる。
おそらく指原が普通にかわいくて、順調にかわいい部分を評価されて持てはやされていたら本当につまらないアイドルになってただろう。それなりに人気のアイドルで終わってただろうし、もうアイドル自体やってなかったかもしれない。
むしろあの可愛くない顔が商売道具であり、今日の指原莉乃を形成している。
本人も捻じ曲がった性格をしていると語っているように、様々なコンプレックスを乗り越え、時にはそれを利用してでも成り上がってきた。
普通のアイドルなら自分より容姿に優れたメンバーがいる世界では埋もれて消えていくが、それさえも勝負道具にしてアイドルとして武器にした。歪んだ性格やスキャンダルさえも計算高く利用し、ブログやSNSという最先端のツールを使い世論を操作し自分の有利な状況に誘導してきた。
それがまさに「逆転力」であり、逆境から這い上がる能力を多くの人が評価するのかもしれない。指原莉乃の発言は二重にも三重にも裏を読んで考察しなければならないだろう。
小林よしのりがかつて指原莉乃を「異形のアイドル」と評したことがある。
彼女の事は普通のアイドルと同じ目線では見ない方がいいだろう、それは指原莉乃という存在の理解を妨げることになる。
ひねくれ者ほど指原莉乃を好きになり、多少穿った見方をした方が指原莉乃のことは深く理解できる。
仮に今回のことが演技や演出であったとしても、むしろそれが発覚したときにむしろプラスになるのが指原莉乃の強さだと言える。何をやっても自分が勝つ方向に持って行けるという意味では最強の存在だろう。
ゆとり世代最強の女とでもいうべきだろうか、それが指原莉乃を表す言葉かもしれない。
オリキャラは自己満足でも楽しいがそれが落とし穴になる
ネット上で自分のオリジナルキャラクターを投稿して公開したことがある人ならば多くの人が直面したことがあるかもしれない。
中々コメント等の反応が来ない、描いてくれる人が現れないという現実だ。
よくピクシブに「描いてもいいのよ」「むしろ描いてください」というタグがあるのだが、実際に反応されることは稀である。
正直なところオリキャラというのはほとんどが自己満足であり、誰も他人のオリジナルキャラクターにそこまで興味がないのである。
「うちの子は世界一かわいい」といっても結局のところ「どうでもいい他所の子」でしかない。
オリキャラを描いている人というのは自分のキャラクターには反応してほしいが、自分が積極的に人の絵や作品を評価することは無い。
誰もが受け身で自分が注目されたがっているし、人の創作活動に協力するという発想があまりない。
正直なところ他の作者のキャラクターをそれほど評価せずに、自分のキャラクターばかり注目されようとしている自己中心的な投稿者が多いという現実はある。そして正直自分もそうなりかけてるのも反省しなければならない部分ではある。
もちろん全員がそうというわけでもなく、本当の魅力的なキャラクターは存在するが自分も含めて大部分はやはり自己満足に終わっているのである。
ではなぜこういった現象が起きるのだろうか。
自分が以前考察したようにオリキャラというのは愛着がわきやすく自己満足しやすいコンテンツである。
そして実はそれが落とし穴になっているのだ。
つまり自分が楽しすぎるあまり、読者や閲覧者が置いてけぼり状態になっているのだ。自分だけは物凄く楽しいハイテンションな状態になっているのに、周りは冷めていたり理解していないという事のギャップが大きい。
オリキャラは簡単に自己満足が得られてしまうため、必要な改善点や欠点が覆い隠されてしまい他者にとってはわかりにくいという状態に陥ってしまうのだ。
自分が基本的に認識していることも、その絵や作品を初めて見た人はすべてがわからない。
それゆえに第三者から見た場合何がそこまで楽しいのかわからなくなっており、逆に本人は物凄く楽しいという状態が出来上がってしまう。
それゆえにオリキャラを投稿している人は「なぜこんなに面白いキャラクターを描いたのに何も反応が来ないんだ」という心理状態に直面する。
これは自分の反省でもあるのだが「第三者が見たときわかりやすい構造になっているだろうか?」「読者が楽しめるような工夫がされているだろうか?」ということを客観的な視点で見つめ直さなければ本当の評価される日はやってこない。
オリジナルキャラクターは自己満足で簡単に楽しめてしまい、なおかつ自分にはありとあらゆる点で補正がかかって見えてしまう。「自分が作った」という満足感や、完成させた直後の昂揚感は時として現実を見誤らせる。
自分には説明が不要なことも、初めて見た人にはその説明が必要なことが多い。
当然ながらその作品について一番理解しているのは作者なのだが、ネット上のオリジナル作品というのはほとんどの場合無名なため多くの人が事前に予備知識を得ていない状態でその作品に触れることになる。
そしてそれらの作品のほとんどが本当はそもそも魅力的でない上にわかりにくく楽しみにくい状態にしかなっていないことが多い。しかし描いた本人はそれが素晴らしいものに見えているのだ。
描いている本人は何にも代えがたい喜びを感じているのだが、他者から見た場合そもそも興味もないわけのわからない物でしかない。そして自分もそんな自称オリジナル作品のようなものを作っている人間の一人なのである。
自分はむしろアナログの手作り感あるオリキャラの細部の工夫なども「それは面白いアイデアだ」と見るのだが、多くの人はそもそもアナログのイラストをそこまで詳細に見ることは無い。
本当に評価されるオリキャラや作品を作りたければ自分が作ったことによる満足感が生み出すフィルターや補正を取り払い、客観的に見つめ冷静に改善点を分析するしかない。
さらに初めて見た人でもその作品の全体像が分かりやすい構造や工夫を取り入れる。
例えばどれだけ複雑な設定を持つ世界観であっても、シンプルにイメージとしてわかりやすく理解できるような設定集なども必要だろう。
作者と初めてその作品を知った人との間にある大きな認識の断絶を少しでも埋めなければならない。
「これだけ見ればその世界がすぐにわかる」というわかりやすい説明を文章とイラストで描いた設定画も必要かもしれない。良くあるのが「人物相関図」だがこれも分かりやすい手段だろう。世界観を一人で作りこみ物語を進めていけば良く程自分は孤独になり誰も理解してくれなくなる。そうならないためには自分が持っている認識をわかりやすく他者と共有する工夫が必要になる。
更にこういったオリキャラ作品にありがち、というよりもこれは自分の戦略機動伝ガンダムKindに言える事そのものなのだが「キャラが多すぎる」という問題もある。
ここ最近自分が作品作りで意識しているのは意図的にキャラクターを少なくしようとしているということだ。
公式の人気作品ならまだ多少キャラが多くても十分だが、ネット上の個人創作作品でそれほど多くのキャラクターは覚えられない。
サッカー日本代表の11人のスタメンすら完全に覚えている人は少数派の時代に、ネット上の無名の個人創作のキャラクターなど覚えられるのはどう考えても1ケタがが限界なのである。
自分もそうだがどうしてもオリキャラやオリジナル作品を描いている人というのは登場人物を増やしたがる傾向にあり、キャラの多さ=その作品が奥深く充実している証と考えることが多い。
むしろキャラクターは少し減らすべきであり、似たような特性ならば3,4人を1人にまとめても問題はない。
例えば悪役を3人描くよりも、1人のキャラクターにまとめてそのキャラを濃く描いたほうが強い印象を持ちやすく覚えてもらいやすい。
キャラを多くするというのは、同時に一人あたりのキャラクターにかけけられる描写が少なくなるという事でもある。印象の薄いキャラクターが有象無象に何人も存在するよりも、物凄く濃いキャラクターが少数いたほうが作品としての質は高くなる。
無理に減らす必要はもちろんないが、アイデアが浮かばない時に無理してまで増やす必要もないだろう。
とにかく自分だけが楽しんでいる状態や、その作品を理解している状態というのは第三者から見たときに非常にわかりにくい。
作品を作ることは実はそれほど難しくはないが、それを人に理解してもらう事はとても難しい。
勉強と一緒で自分が理解してテストで良い点を取ることはできても、それを人に説明するという事はもう一段階難易度が高まる。
本当の頭の良さが問われるのは理解していることを理解していない人に説明する時だと言われるが、まさにオリジナル創作というのもこの現象に近い。
どの作者も自分の作品の世界を想像し作りこんでいくのだが、それをわかりやすく説明するプロセスが抜けていることが多い。
「なぜこんなに面白い世界を作ったのに誰も理解してくれないんだ」と考える作者は多く、そういった工夫を欠いてしまえば誰も理解してくれないのは当然なのである。
そして読者は理解できないのではなく、理解したいと思っていないのだ。つまり難しい作品を作ることばかりに集中して魅力の部分を軽視している、あるいは自分しかわからない魅力で満足をしている。
むしろ自己満足で世界観を作りこむことよりも、基本的なことを多くの人にわかりやすく伝えることや知ってもらうことに時間を使ったほうが良いのかもしれない。
個人で創作作品を描く人というのは例えるならば学者気質の人が多く、自分の世界観を次々と追求していくタイプに分類される。しかしその作品を世の中の広めて誰かがファンになってほしいと願うのであれば、それを説明することが必要になる。また理解したいと思わせる動機付けや切っ掛けも必要になるだろう。
頭は良くて勉強はできても、それを誰かに教えるのが下手な人や勉強する気にさせることができない人は良い教師にはなれない。
オリジナル作品もまさにそれと同じで、複雑な世界観を追求することだけに注力しすぎてもいけない。
理解できないという以前に、理解したいとも思っていないことが多い。
まさにこれは勉強したいと生徒に思わせ、なおかつ上手く説明することが求められる教師のような立場に近い。
教師と生徒と言えば上下関係があるような言い方になってしまうが、個人創作の作者とファンというのはむしろ原作者のほうが「理解してもらう、ファンになってもらう」という謙虚な姿勢でなければならない。
「自分のこんなにも高尚な作品を理解しない人が悪い」という考え方には決してなってはいけなく、本当に悪いのは理解したいとさえ思わない上にわかりにくい作り方しかできていない作者の方なのである。創作をする人間というのは決して偉そうな存在になってはいけない。見ている人というのはそれを敏感に感じ取る。
「理解してくれるだろう、興味を持ってくれるだろう」という受け身の姿勢では良くなくむしろ提供者側というのは知ってもらうために次々といろんな手段で提供していかなければならない。
「これを理解できない人が悪い」というような姿勢では決して良くなく、ちょっとでも興味を持ってくれた人を大事にしなければならないし、評価されなかったとしても自分の努力が足りなかったと考える必要がある。
何が足りなかったのか、どういうった工夫が必要だったのか、そもそもこのキャラクターや作品は本当に魅力的なのか、そういった視点を持つ事が重要になる。
そしてこれはまさに自分の事であり自戒を込めて書いている部分もある。
理解されるための工夫のバリエーションというのはもっと増やしていかなければならないし、興味を持ってもらう切っ掛けというのも足りていなかった部分が多い。
そしてせっかく興味を持ってもらい理解したいと思ってもらっても、楽しめる作品の内容自体がまだ完成しておらずほとんどが準備段階にある。
こうして考えると自分の作品がヒットしないというのは当然の結果だったのだろう。
オリキャラやオリジナル作品を作る人というのは常に読者の立場に立って客観的に分析しなければならない。自分と第三者の認識は決定的に異なる、その基本を考えながら創作活動をしていく必要がある。
自分が理解することと第三者が理解することは似ていることのようで大きく違う。
世の中に自分の作品を公開する人はこの事実を踏まえながら作品作りをしていくことが重要であり、また自分がこれまでできていなかったことでもある。
客観的な視点になりすぎれば自分らしさや創造性は失われるが、自分だけの視点でばかり見ていては誰かに理解される日はやってこない。
この両立ができている作者というのは良い作品を作っているに違いない。
お酒を飲まないと不安で仕方がない
最近の自分はもはやお酒以外に楽しみがない。
どんな楽しみもお酒がなければ以前ほど楽しめなくなっている。
そして飲んでいない時は不安や不満に襲われ、ネガティブを煮詰めたような存在になる。
しかし酒類を飲めば一気に不安や不満から解消され、いろんなことが楽しく感じられるようになり、未来に対しても希望が湧いてくる。まるでこれが本来の自分であるという充実感を得られる。
本来ならばこんな生活はよくないのだろう。
お酒を飲まずにも幸せでいられる人生ならばそれが理想だ。
しかしお酒以外のことで楽しもうと思えば結局はお金がかかってしまう。たしかにお酒もお金はかかって仕方ないのだが、快楽の中では廉価な部類になる。
分かりやすく言えばお酒なしで美味しい物を食べようと思えば値が張ったものを買わなければならないが、お酒があれば安い物でも満足感を得られる。
焼肉屋に行かずとも100円の干物でそれなりに楽しめるし高級寿司屋に行かずとも100円の缶詰で楽しめる。
結局世の中何でも金が必要となり、安い基準で大きな喜びを得ようとしたら酒にしか頼ることができない。お金がかかる娯楽ばかりの世の中で、貧しい負け組の人間が得られる数少ない娯楽はお酒なのである。
そのお酒を飲みながら妄想をすれば映画を見に行く必要もテーマパークに行く必要もない。世の中、少し外出するだけでもどこでもお金を取られる。
自分だって本当はもっと明るくいろんな人と出歩いて、いろんなところに行きたいが、結局持たざる者に落ちぶれお金がなければ行動範囲も人間関係も行き着くところまで狭まってしまう。
結局同じことの繰り返しで最低限の行動範囲内で、限られた人間関係に行き着く。人間関係も行動範囲も広げれば出費も増えていくのだ。
もちろん必ずしもそれらが出費の拡大を意味するわけではなく、お金がかからないものもあるのだが基本的にはお金がかかる傾向にある。
その結果やることといえば家でお酒を飲みながらタダできる事ばかりになる。
好きでこんな地味な生活をしているわけではなく、お金があれば昼間は街に出て夜は飲み歩くだろう。そしてそのためには努力し現状を少しずつ変えていくことが重要になる、それは正論であり間違ってはいない。
しかしこんな地方では特に頑張ったところで、それほど大きな喜びもなく収入も少ない。がんばって手に入る物と失われる労力や時間を天秤にかければ、頑張らないで最低限の楽しみを見出すことが今の社会では最適解になってしまう。
多くの人が希望を持てない社会になった。
上手くいった人間の話を聞いても、それはその人がそれまでに上手く行った方法でしかない。
人間というのは頑張ろうとするときある程度希望が原動力として必要になるが、今の社会には希望がなく「社会のせいにするな、努力が足りない」と言われるだけでしかない。頑張って幸せになれる社会ならば頑張る人は増えるが、今は「頑張っても無駄」というのが正論になりつつある。
お酒が入っていなければこのようにどんどんネガティブな思考回路が構築されていく。まるでいつもの口癖のようにそんな言葉しか生み出すことのできない哀れな人間になった。
しかしそんな自分でもお酒が入っていればこんなことは考えずもっと面白いことをポジティブに考えているのだ。ここまで書いてきたことがまさに実例で、自分はお酒が入らないといつもこうなる。
マイナスの考えだけが自分を支配していき、妬みや憎しみ、不安や不満、そしてストレスに襲われる。
これを解消するために、そしてつまらない人間から脱却するためにお酒を日頃飲んでいるのだ。
あっという間に一瞬だが自分が抱える不安や問題から逃れられて、もっと前を見定められる。面白いことをしているのは間違いなく飲んでいるときの自分のほうだろう。生活が充実していればもしかしたら飲んでいない時も面白い状態でいられるかもしれないが、生活の質が落ちれば飲んでいない時は絶望的につまらない人間になる。
その一方で酔いが冷めたときには更にネガティブな感情に襲われる。酔っていた時なぜあそこまでハイテンションにいろんなことをやっていたのかと恥ずかしくなり嫌悪感にも陥る。
どちらの自分が本物なのかはわからない、ただ嫌悪感だけを感じて何もやらないネガティブな時の自分よりは酔っているときの自分の方がまだ生産的で前向きな人間だろう。
昔に比べて飲まない時の自分がかなり後ろ向きな人間になった。
生活が落ちぶれてなかなか這い上がれなくなり、将来の見通しも暗い物ばかりになったせいで飲んでいない時の精神状態の質は格段に落ち、それ以降は飲めるならば飲むという状態が続いている。
まるで現実から逃げるようにアルコールに頼り、それが常態化している。
こういう時逆境に立ち向かいストイックに人生を向上させていくことができる人間ならばよかったが、自分は即自的な快楽に甘えてしまう弱い人間でしかない。
もう今更、普通の人間に戻った頑張り始めたところで一体何が待っているというのだろうか。結局誰かに追い付けず後追いにしかなれないなら、諦めて底辺の中で一人酒でも飲んで自己満足で楽しんでいたほうが良いのだ。
成功体験を順調に積み重ねてこられなかった人間は、徐々に努力をすることに冷めていく。どんなに頑張っても中の下が辿り着く限度の中途半端な負け組にしかなれないのなら、頑張らず生粋の負け組にでもなったほうが余計な競争に苛まれずに済むだろう。
人生色んなものを諦めて最低限のさえあればいいという考え方になれば案外気楽なのだ。
それでも今でも頑張ろうとする情熱の炎が完全に消えてしまったわけではない。以前に比べて小さな炎になってしまったことは否めないがまだ燃えてはいる。
そしてその炎を少しでも大きくするためにアルコールを注いでいるのかもしれない。
酒に逃げている側面もあるが、酒を飲んで頑張ろうとしている側面もある。99%の後ろ向きな思いと1%の前向きな思いを共存させつつ、その99%に取り込まれないように1%を維持し続けていく。
最後の所でまだ自分は現実に抗戦している。
自分のオリキャラを人気にしていくのは難しくて当たり前
オリジナルキャラクターの特徴を言い表すのであれば自己満足には最適だが、他者に広めていくことは非常に難しいジャンルだと言える。
自分を満足させることは非常に簡単だが、他者に認めてもらう事は非常に難しい。実際に自分のオリキャラが人気になったり、多くの人がそのキャラクターを覚えてイラストやSSを描いてくれたりすることはあまりない。
逆に版権物や同人物のイラスト人からは認められやすいが自分が本当に満足することは難しい。
オリキャラはそこまでクオリティが高くなくても愛着がわきやすく、自己満足にもってこいである。そういったオリキャラを描く人間として突き当たる現実がある。
「自分はこのキャラクターをものすごく気に入っているのに、世間の人は振り向いてくれない」という現実である。
「なんでこんないいキャラクターなのに誰も認めてくれないの?」と多くのオリキャラ描きの人は思っているに違いない。自分の評価と他者の評価が最もかけ離れているのがオリキャラだろう。
「うちの猫は世界一可愛い」とネットで紹介しても、他者からは良くいる普通の猫にしか見えないのと同じである。
実際の所イラストサイトを見ても有象無象のオリキャラが溢れており、普通に投稿するだけではなかなか反応をもらうことは難しい。
自分のオリキャラにファンができるという事は非常に稀なケースであり基本的には誰も覚えておらず自己満足で終わる。
そもそもネット民というのはよほどクオリティが高い場合や、匿名掲示板のような書き込みやすい状況でしか反応をしない物であったり、特定のユーザー同士でコメントし合う事を暗黙の了解とする状況下でしかコメントをもらうことは難しい。
「私は貴方にコメントしますから、次自分が投稿したときはコメントしてくださいね」というご近所付き合いのようなやり方であり、ネットというのはどのコミュニティにおいてもそういう親しいご近所さんを増やしたほうが反応が来やすい。
自分も昔はそれを楽しみにしていたが、最近は折り合いをつけて一人で黙々と楽しむスタイルに切り替えており、"お返し"しなければ去っていくような人よりもいつも見てくれる人の方がありがたいと思っている。
イラストを描いている人というのは自分も含めて面倒な性格をしており、評価や反応がなかった時はまるで世間から無視されたような感覚になり自己嫌悪に陥る。
「好きでやってるんじゃないのか」と言われれば確かに好きでやっているのだが、正直なところブックマークやいいね!だけでなくコメントのようなわかりやすい反応は欲しいし、いいと思ったら広めて欲しいというのがおそらく絵を描いている人全員の本音である。
「見てもらえている」という実感は大きなモチベーションになりやすい。
更にオリキャラともなれば、自分のキャラクターを描いてもらったりそのキャラクターにファンができたりすれば更に嬉しい。
イラストに限らず例えばツイッターなどでは「承認欲求発散中」「褒めてくれる人だけ反応してください」みたいなタグまであり、基本的人間というのは承認欲求の塊であるが、わざわざそんなことに付き合ってくれる暇な優しい人は中々存在せず結局寂しい思いをするだけでしかない。
「反論いらないけど褒めてください」という都合のいいことに付き合ってくれる人はほとんどおらず、むしろどうでもいい反論や指摘だけして言い逃げしていく人の方が多いのである。
そして虚しくなり辞めていくというのがSNSやイラスト投稿サイトにおける王道であり、自分もそうなりかけていた。昔の自分は本当に反応依存症であり、そのために頑張っていた時期もある。
結局のところ"反応"に依存すると続かないわけであり、この状態から"解脱"した境地に達することが必要になる。
嬉しい反応というのは強力なモチベーションになる一方で、それが不足した場合は禁断症状に陥りやすいというのが自分の経験から導き出した結論である。
「こんなに頑張ったのに何の反応もないのか、無視された・・・やっぱ自分は誰からも必要とされていない」「ネットの世界にも自分の事を認めてくれる人はいないのか、やっぱ自分は価値の無いことしかやっていないのか」とネガティブになり悲しくなっていた。
反応依存症、承認依存症になってしまうとそれが満たせなくなったときに苦労する。
逆に「静かにいつも見てくれる人が一番」だと考え方を切り替え、黙々と創作活動に集中することが大事で更に自己満足に特化する方向にシフトしていくというのが今自分が達している境地である。
どうしてもネットをしていると反応をくれる1人と普通に見ている10人だと前者の方が大きな存在に見えてしまう。しかしそういう人を意識してしまうと今度は逆に自由に書きたいことが書けなくなってしまうことがある。
ブログでもこの現象を経験したことがあって、「もしかしたあの事を書けばあの人を傷つけるかもしれないな」と自分の中で余計な気遣いをしてしまい結局面白いことが書けなくなってしまう。
イラストも一緒で、「このイラストを描いたらあの人の好みに合わないんじゃないかな」と時として自意識過剰な状態に陥る。
結局のところ好きに自由にやることが見ている人にとっても一番面白く、本人も面白く、そして精神衛生上も良い。てっとり早く反応が欲しければ流行ってる最新の人気作品の漫画でも描いたほうが突っ込んでくれる人は出てきやすい一方で、そういう人からのコメントは一過性になりやすい。
自分も昔営業目的で人気作品とコラボしたようなイラストを描いたことがあって閲覧数もあって普段見てくれている人以外からのコメントもあった。
ただそういう人は定期的にいつまでも見てくれるわけではなく、自分もそのイラストをいつまでも描き続けるわけにはいかない。やはり本当にやりたいことがあってそっちを優先したいというのがイラストを描いている人の本音でもあり、人気のために描くことは結局続かないし虚しい。
また「うちのキャラクター知ってください、応援してください」と頭下げて営業して回るのもそれはそれで虚しい物がある。
結局人から評価されることや認めてもらう事、好きになってもらう事は非常にハードルが高い。
時として自分の意志に逆らってまでしなければならないことがある。
基本的に皆、他人に興味がなく自分が一番かわいい。もちろん全員がそうではないし、自分自身世の中の人のことを全て冷徹な目線で見ているわけではない。
しかし、そこまでして頑張って他人に認めてもらうことが重要なのだろうかという考え方も必要で、いい意味で自分を一番優先することが考え方の転換として必要になってくる。
他者からの評価から解脱し自由の翼を手に入れ、自分の好きな事だけをひたすらやる、その境地に達するとこれまで見えてこなかった自由な世界が見えてくる。
「自分の最大のファンは自分」であり、自分を喜ばせるために描いた物の方が結局は本当に評価してもらえる。自分が自分の為だけに作るという究極の「内需」であり自己満足でもある。
日本経済が実は外需や輸出よりも内需や国内消費に支えられているように、オリキャラというのは究極の内需型の「自己消費型コンテンツ」になる。
自分しか知らないオリキャラが人気になっていくのが難しいのは当たり前だと割り切って、徹底的に自分の為にだけにやるのが実は一番最終的な満足度も高い。
反応が欲しければ最新作の漫画でも描いて営業をしていればいいわけであって、あえてオリキャラを選ぶというのは評価されにくいという宿命を受け入れてでもやることなんじゃないかなと自分は思う。
そしてその自己満足の積み重ねがいつか花開く時が来るかもしれない。一つ一つの過程は自己満足であったとしても、最終的な結果は大きく評価されているかもしれない。
今黙々と一つの過程を超えていくことが大事な事であり、即自的な結果ばかり求めていては何者にもなれない。
最高に自己満足をエンジョイし、自給自足状態を楽しむ。
「評価依存症」から抜け出すことができれば、オリジナルキャラクターほど楽しい物もない。結局版権絵を描いてで少し閲覧数が増えたところで生活もほとんど変わらず、その絵を描かなくなればどこかに去っていく人のコメントに依存していても仕方ないのである。
それよりは「最大のファン」である自分を一番大切にする、それがオリキャラを描いている人が大事にする事なのではないだろうか。
インターネット上にはオリジナルキャラクターを描いている人が多く存在するが、少しでもそういう人の参考になれば幸いである。
オリキャラ製作ってかなりコスパいい趣味だよな
自分でオリキャラのイラストを描くことや個人創作をしていて、最近思う事がある。
「この趣味かなりコスパいいな」という事であり、自分が好きな物を自分で自給自足するのだからほとんど出費も必要なく楽しめる上に自分で作ったという達成感も相まって満足度が非常に高い。
最近はオタク経済も活性化しており様々なグッズが発売されているが自分のように負け組の貧しい人間だとそういった商品にはありつけず、ショーウィンドウの向こう側にある手に入らない物でしかない。
ゲームが発売されても、プラモデルやエアガンが発売されても結局今の自分には買えなくなっており、いつからかそういったポジティブな話題もあまり聞きたくない話題になっていた。なぜならば自分がその盛り上がりに参入できないからだ。
そうやって色んなものが買えず寂しい生活をしていたが、そこに希望の光がさした。
「そうだ、買えないならば自分で作ればいい」
久しぶりに個人創作やイラストを描くことを再開して新しい目標や喜びが再び持てたような感覚を最近は得られている。
既成の商品を買わずとも自分で作って楽しめば、ちょうど自分好みのものが完成する。
ここ最近の自分の楽しみと言えばオリキャラのイラストを描いて、好きな音楽を流しながらストーリーやオープニング映像、戦闘シーンなどを妄想することである。
だからアニメを見る必要もゲームを買う必要もない。
理想のものは自分の脳内で作ればいいのであり、それで揃ってしまうのである。
例えば最近ガンダムのゲームが発売されたのだが自分はそもそもテレビとプレイステーション4を持っていない。
しかし自分はオリジナルガンダムを描いているため、脳内の妄想でそのオリガンを戦わせればそれで十分楽しいのである。傍から見れば何をしているかわからないように見えるかもしれないが、自分は0円でガンダムゲームを脳内で楽しんでいるのである。
例えガンダムゲームを購入したとしても自分のオリガンは収録されていない。それよりは過去のガンダムの音楽やBGMを聞きながら自分だけの戦闘シーンを妄想する。
もちろんテレビやプレーステーション、ゲームソフトを揃えられるならばやってみたいが現実的にはその環境も予算もない。
しかし妄想ならば何でもできる。
ガンプラも様々に発売されているが、これも自分でイラストを描けばそれなりに満足感が得られる。むしろガンプラを買って組み立てるよりも、自分でオリジナルモビルスーツのイラストを完成させたときの方が満足度が高い。
「自分で作る」というだけでここまで満足感が得られるならば貧しい負け組の人間にとってこれほどコスパのいい趣味もない。
買った時に比べて自分で作り上げて完成させたときの満足感が大きく、また商品化されていない物も自分でそろえられる。たとえば昔芥川賞を受賞した人がいて「本当に理想に合う自分好みの小説は自分しか作れない」と語っていたが、まさにその言葉に自分は共感せずにはいられない。
例えば自分が好きなガンダムはW,SEED,00の3つなのだがもうこの作品はそれほど展開されておらず最新作は自分の好みに合わない物ばかりなのである。そのためガンダムAGE以降はほとんどテレビシリーズを見ていない。駄作扱いされてるGレコや鉄血を見ても「ガンダムはこんなはずじゃなかった」と虚しいだけでしかない。
しかし「W,SEED,00っぽいオリジナルガンダム」という意味では作ることができるため「放送していないのならば自分で作ればいい」の精神で最近ガンダムKindの製作を少しずつ再開している。そしてこれがかなり楽しく、自己満足でしかなくても自分で作ることの満足感を楽しんでいる。
自分のためだとわりきって細々とやることの楽しさに目覚めているともいえるし、現実にそれしかやることがないという経済的な事情も存在する。自己満足創作が貧しい生活の中の数少ない楽しみになっている。コストに対して究極に満足度が高いのはオリキャラやオリジナル作品を描く個人創作かもしれない。
他にはガンダムに限らず、自分が好きだった音楽などを聞いて気分を盛り上げてそこで好きに妄想してそれを創作に反映してもいる。ある意味自分はもう過去に生きているのかもしれない。楽しかったころの思い出だけにすがって、昔好きだった作品や音楽などを楽しんで自分で妄想して自給自足をしているのが最近の自分の日常である。
最新のものは買えないし、そもそも好みに合うものが少ないため見ようとも思わない。
唯一ジャニーズだけは最新のエンターテイメントとして楽しんでいるが、それ以外は基本「懐古」ばかりしている。
最新のものは買えないし自分の好みに合わない、それならば例え細々とした活動であっても創作をした方が面白いのではないかと思うようになっている。
中二病オリキャラは痛いぐらいの方がいい
自分の中のオリキャラを作る上での美学や哲学があって、それは「痛ければ痛いほど面白い」という事。強力な中二病作品ぐらいのほうが客観的に見ていて面白く、また覚えやすくもある。
インターネット上には無数に個人創作作品が存在している。
無難な作品で目立つこともできない、そして覚えてもらうこともできない。
そのためには多少やり過ぎなぐらいわかりやすくなければならない。
そもそもオリキャラを描いてネットに投稿するという時点で既にイタい行為なのである。イタい行為を既にしているのだからオリキャラ=痛いものであることは当然であり、むしろそこは開き直って思う存分派手なキャラクターを目指したほうが良いのではないかと自分は思っている。
更にネット上には一定数中二病キャラクターや痛いオリキャラに対する需要がある。自分が痛いキャラクターを描いているから、似たような人を見つけたいという思いがあるのかもしれない。
自分も正直中二病系のキャラクターや武器を描いている人間として、似たような絵を描いている人には共感する。むしろこの世界では中二病であることや痛いことは褒め言葉であり、いい感じにトガッったキャラクターを見たときは思わず嬉しくなる。
こういったネット上の個人創作というのは「他者との差別化」が最も重要であり、無難な綺麗なものを書いているだけではライバルがあまりにも多すぎて埋もれてしまう事にもなりかねない。
ラップと一緒で「自分らしさ」を作品に乗せるぐらいの痛いぐらいの考え方の方が面白くはなる。万人に受ける必要はなく、10人中1人ものすごく気に入ってくれる人がいることのほうが自分は大事だと思っている。
無難な優等生作品で印象に残らないよりは、ものすごく特徴のあることをやったほうが結局良いオリジナルキャラクターになるのではないかなと思うし、そういう特徴あるキャラクターがもっとネット上に増えても面白い。
痛ければ痛いほど良いというのは、別の言い方をすればものすごく特徴があるとも言いかえることができる。
「一度見れば覚えるキャラクター」の方が大事で、オリキャラを描いてて一番うれしいのは「あのキャラクター覚えてるし好きだよ」と言ってくれることだと自分は思っている。
「平均点ではないけど、自分はこのキャラクター好きだよ」と思ってくれる人が大事な存在であり、上手さで対抗しようとすればネットにはいくらでもライバルいる。
今更自分が上手さや人気公式作品を補完するような漫画などでは勝負はできない。むしろ「痛さ」や「中二病感」で勝負することが自分ができる事なのではないかなと思っているし、「痛いオリキャラ」も追求すれば誰も真似できないくらい痛いキャラクターが作れるかもしれない。
「中二病キャラや痛いキャラといえばアイツだろ」と思われることの方が自分は目標だと思っているし、改めてその目標を失ってはいけないと最近は思い直している。
またそしてこういう中二病創作文化が盛り上がること自体、インターネットの面白さを取り戻すきっかけにもなるかもしれない。
昔はもっとアングラの個人創作サイトが多かったし、「痛い管理人」みたいな人が結構いてその人たちが面白かったし、そこの痛い住民も集まっていた。
ネットのアングラ感という意味でもこういう中二病要素は大事であり、人間は結局いつまでも中二病なのである。
そういうのを冷めた目で見て、寒いと考える風潮は良くないと思うし、もっと盛り上がってもいいと自分は思っている。
個人創作やオリジナルキャラクターは痛ければ痛いほどいい、なぜならそれは唯一無二の特徴があるからなのではないだろうか。
オリキャラはしっかり描き続ける事が一番大事なこと
オリジナルキャラクター関連の創作を描く上で一番大事なことは何よりも続ける事なのではないかと思う。「努力し続けることが一番の才能」という言葉を聞くが、ことオリキャラやイラストに関しては「描き続けることが一番の才能」なのかもしれない。
オリキャラの作品や世界というのは一朝一夕に完成するものではなく、本当に描く物や作る必要がある物が多く存在する。それらのコンテンツを少しずつでも毎日充実させていずれ大きな世界として完成させることが目的になる。
完璧なものを作ろうとしすぎて挫折するよりも、とにかくその場でできることを積み重ねて最終的に大きなものとして完成させた方がいい。
オリキャラや個人創作の魅力は、どんな形であれ自分が作ったものならば愛着がわくと言うところにある。たとえば駄作アニメが何十話も放送されたとしたら、それはネットで叩かれ自分ももうわざわざ見ようとは思わない。
しかしそれほどクオリティが高くない作品でもオリジナル物をとにかく完成という形にまで完走しきったらそこには充実感や達成感が生まれる。
完全に自己満足と言えばそれまでなのだが、どんなクオリティであっても自分で作ったものならば多少贔屓目でその作品が良い作品に思えてくる。
今すぐに良いと思えなくても数年後にはきっと懐かしくなるだろう、少なくともそれを作っていた時期が懐かしく感じる。
そう考えたときに高いクオリティの物を完成させることを目指すという途方もないことを目指すよりは、とにかく作り続けることが大事になってくる。
自分はピクシブでしばらく投稿をしていない時期があったり、「戦略機動伝ガンダムKind」というオリジナル作品を今実質休止状態にしており、完成させきったことがあまりない。
そういう自分と比べたときにピクシブで細々とであってもずっと活動を続けている人は、とても楽しそうに見えるしとにかく何か作品を完走しきった人を見ると羨ましく感じる。細く長くでも続ける気力がある人を見ていると安心するし、とにかく作品を完成させきった人を見ると尊敬する。
第三者から見ると続けている人や完成している人はやはり印象が良いという事も感じた。
何よりも続けることが大事であり、逆に作品を完成させられずに中途半端に置いているとどこか未練がある。例えるならば完成しきっていないプラモデルがいつまでも部屋の片隅に置いているような感覚に陥る。どんな形であれ、まずはそれを完成させたい。
また久しぶりにピクシブを再開して、少しずつ細々とイラストを描いたりしているのも改めて楽しいことだと気付かされた。オリジナル物コンテンツを充実させていく過程を一番楽しんでいるのは自分かもしれない。
一つ一つは小さなものでしかなくてもそれを少しずつ補完していき、いつか大きなものにしていくという意味ではブログに近い物もある。
いきなり大きなものが作れるわけではない、それがオリキャラや個人創作の世界でもある。
その時の技量でできることをひたすら積み重ねていくことが重要で、そのためにはやはり継続することが最も大切なことになる。
「下手だった時期が懐かしく感じられる」というのもオリキャラの魅力であり、クオリティが低い時期を楽しむ境地になればそれは思い出にさえなる。
もう自分のような昔から絵が好きな人間というのは、昔の自分の絵が恥ずかしいぐらいに下手だという事には慣れ切っていて一周回って下手だった時期も好きになる境地に達している。絵を描いてる人間なら昔の自分の絵が下手だという事実とは生涯付き合っていかなければならないわけであり、そこを気にしていたらきりがない。
それよりも続けることの方が大事であり、そこに成長が生まれる。
「技術を手に入れてから創作活動をする」というよりも、「創作活動をしながら技術を手に入れていく」ということが重要でありこの作品完成しきったら自分自身かなり成長しているだろうなと考えて製作していくことの方が大事なんじゃないかなと自分は思っている。
オリジナル物というのは結局のところ最大のファンは自分であり、自分の作品は魅力を感じやすいところが面白さでもある。
アニメや漫画を見れば見るほど求める作品に対する基準が上がり、過去に見たシリーズよりも面白い物が見つけられにくくなる。
そういう時に自分で作ってしまえば理想に近い物を作ろうとする過程そのものが楽しめるし、全然目標にたどり着かなくても自分だけは愛着を持って楽しむことができる。続けていけばいつかそんな境地に達する日がやってくるかもしれない。
オリキャラやオリジナル作品というのはこの世に存在しない本物の自分のためだけの理想を作り上げる事である。
また自分と似た感性の人ももしかしたら楽しんでくれるかもしれないし、作品内容には惹かれなくても「オリキャラを制作していること」自体の雰囲気に共感してくれるかもしれない。
個人創作の文化の正体はそういったところにあるのかもしれない。