負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

若い時に金がないVS老いてから金がない どちらが悲惨か?

多くの人の人生にとって大事なものはやはりお金である。人生はお金ではないというのは実際は綺麗事ごとであり、生活の質は強く経済的な要因に左右される。

金銭面以外の部分で充実した人生を送れている人も、経済的に裕福になれば基本的にはより幸福になる確率が高い。

「金持ち喧嘩せず」という言葉があるように、勝ち組やお金持ちの人は心が穏やかであり負け組や貧乏人は心が荒んでいる。

 

実際自分は紛れもなく底辺の貧乏人だが毎日の人生がつまらなく、そして精神面も荒んでいる。誰も自分を見て幸せそうな人間だとはみなさないだろう。

中には自分の人生が幸せそうに見える人もいるかもしれないが、基本的には惨めな負け組として見下され日々の生活はおそろしく退屈である。

休日は恋人と街に出かけるという予定もなく、それどころか毎日が休日で貯金を切り崩しているニートでしかない。

 

ここから人生を変えようにしても社会のレールから踏み外れた人間が地方でできることなど薄給の底辺職ばかりだ。逆転を狙ったことをしようにも結局上手く行かず、また元に戻され一歩進んで三歩下がるようなことの繰り返しでしかない。真面目に生きても、人と違う事をやろうとしても手詰まり感がある。

 

その上、世の中や日本社会全体が上向きに向かっていくという事も実感できず自分の人生と社会の見通しも悲惨というダブルパンチのようなことを味わっているのが現代の若者の実態である。

 

若いときに金銭的に恵まれない事の何が悲惨かと言えば、老いた時にすがれる思い出も作れず、周りは楽しそうなのに自分は置いてけぼりにされているという疎外感や嫉妬感を味わわされるところにある。

更に「今は負け組でもここから逆転していつか勝ち組になればいい」という野心も持ちにくい日本社会の現実がここに加わる。

 

今の自分は「これまで楽しくなかったけどこれから楽しくしていけば良い」から「これまでも楽しくなかったからこれからも楽しくないだろう」という感覚に変わり始めてる時期にある。

自分は遅咲きタイプだと信じたい一方で、何やってもうまく行かないタイプなんだろうなという諦めにも似た感情もある。

結局人生を逆転できる人は少数派で、負け組はこれからも負け続ける事例の方が多いのだ。数年前の自分はこれから這い上がり勝つという反骨心を持てていたが、今はこれまで負けてきた上にこれからも負け続ける敗者にしかなれないという現実に気付かされている。

 

男の負け組や弱者は特に悲惨だ。

社会的に「強者」だとみなされている側の中にいる弱者というのは最も世間からの扱いが軽く、同情も支援もされない。

「男ならもっとできるはずだ」「男なのにそんなこともできないのか」という目線でしか見られない。出来て当たり前のことができない人間というのは最も理解から遠い存在に配置され、そして見下される。

 

男性というのは若い時はそれだけで評価されたり優遇されたりしない上に、これから更にお金や社会的地位がなければ異性から評価されにくくなる。

それを言えば女性も基本的には年々若くなくなって評価されなくなり始める恐怖はあるだろう。

自分の性別である恩恵を受けられず不利な点ばかりは思う存分に味わわされる、そんな負け組や持たざる弱者が悲惨なのはどちらも一緒なのかもしれない。

どちらが悲惨かを争ったところで不幸自慢合戦にしかならない。

「俺が女ならもっと同情されて、無能であることも許されたのに」と嘆いたところで、女性の方も苦しんでいる人は多いのである。その人はきっと自分が男だったらこんな目に合わなくて済んだと思っているであろう、隣の芝は青い。

 

それを言うならば「若い時にお金がない事と老いてからお金がない事のどちらが悲惨か」を議論することも無駄な論争でしかないだろう。もっと自分の人生のために有益なことを考えたほうが生産的な行為に違いない。

 

しかし一つはっきり言えることはどちらもやることがないからそういう考察をするしかないのである。

個人的な結論を先に述べるのであれば前者の方が悲惨だろう。

「若い時はお金が無くても楽しめる、何でも楽しい時期だから」というのはもしかしたら後になって気付くことなのかもしれないが現段階では自分の現状が悲惨であり、このつまらない人生にうんざりしている。

 

更に意見を述べるのであれば老いてから金がない事は別にどうでもいいと思っている。

若いときに貯金ばかりしてる人がいるが、老いてから大金を使ったところでそれほど楽しくはないはずだ。体力と感受性が衰えており何事も新鮮味を感じられなくなっている時期にお金があったところで仕方がない。

またそれは同時に貧乏であることや不幸であることへも鈍感になることを意味する。年を取ってから貧しい事はそれほど気にならず、老いてからは思い出さえあればいいのではないだろうか。

その一方で若い時に貧しく楽しくないことは、同世代の楽しんでいる人間に対して嫉妬の念を感じやすく苛まれやすい。

 

少なくとも若い時に金銭的に裕福だが老後は困窮する人生と、若い時に困窮し老後は裕福な人生があるとするならば自分は迷わず前者を選びたい。

 

そして最も悲惨なのは若いときも金がなく老いてからも貧しいという人生だ。ゆりかごから墓場までの期間ずっと貧乏なことほど惨めな物は無い。

そして自分はその両方を経験する確率が高い。

そうならないように当然努力はしているが現状貧乏とは一生付き合っていかなければならなくなりそうだ。

そしてこれは自分一人の問題ではなく、若いときも楽しくなく老いてからも楽しくないという不幸な時期だけ経験する世代が今後増えていくだろう。

 

今の日本の若者というのは「今の自分が駄目でも将来の自分は輝いている」という希望を持ちにくい状況に置かれている。

若いときに貧乏でも「世の中全体がこれから発展していくんだろうな」と希望を持てれば苦しい時期も頑張れるし楽しい。

 

逆に言えば「みんな貧しいし自分ひとりじゃない」と安心できるという側面もあるが、あまり前向きな感情ではないだろう。

とにかく今の世の中は若者が努力をしたくなくなるような雰囲気が蔓延しており、活力や活気がなくなっておりそれをさらに「若者の何某離れ」と揶揄される構造がある。

 

資本主義の世の中はお金がなければ楽しくない仕組みになっているにもかかわらず、今の日本はお金がない若者が増えており、更に新しい世代が這い上がっていきにくい構造になっている。そして一度失敗した場合許されにくい風潮が追い打ちをかける。

それにもかかわらず上の世代からは「野心が無く努力をしない最近の若者」「打たれ弱いゆとり世代」というレッテルを貼られる傾向にあることが更にやる気や活気を削ぐ要因になっている。

今の若者文化が劣化していることは間違いないだろう、使うお金も回って来ず活気もない人間が作る文化など衰退して当然である。若者にお金が回ってこない社会が悪いのか、お金を得ようと努力しない若者が悪いのか、経済学者ではないため正確にはわからない。

ただ自分自身これまでチャレンジをしてこなかったわけでもないし、今スキルを磨いていないわけでもない。

しかしなかなか変わっていかない現実もありそれゆえに毎日が楽しくない。

 

若い時にある最大の強みと言えば時間と将来や未来である。

実はこれらは人生で何よりも大切な物なのだが、暗い見通ししか持てない未来ばかりが広がり、努力をしても結果が出ず無為に過ぎていくだけの時間が続いているときはそのありがたみが実感できなくなる。

「楽しいはずの若い時が楽しくない」という自分の経験上もっとも辛い、そしてそれは今リアルタイムで自分が感じていることでもある。しかもそれがいつまでも続かないという不安にも苛まれる。

 

努力が必ず報われるわけではないように、万人が若いからといってその強みをいかして成功できるわけではない。

前述の「その性別における弱者は自分の性別のメリットを感じにくく、デメリットを感じやすい」という理論に似ているかもしれないが、今の若い世代は若さのメリットを感じにくくデメリットを感じやすい傾向にある。

事実を言うと言い訳として受け取られるかもしれないが、現実に今の若年層は昔の若年層に比べて利点が少なくなり欠点が増えている。

勿論昔の若年層にはなかった利点もあるのだが、昔の若年層にはなかった欠点が更に多いのでトータルでマイナスとなる。

「今の若者にはこんなに良い物があって恵まれている」という反論に対しては賛同できる部分もあるが、「その一方で昔の若者が出くわさなかった不利な状況が増えている上に、昔の若者が得られたものが得にくくなっている」という反論が成立する。

 

昔も「最近の若者はこれだから」という批判は当然あったはずだが、今はそれを言う側が圧倒的多数派になっている上にネットの「ゆとり叩き」のようにそれを目にする機会がかつて以上に増えている。

何を言ってもゆとりの戯言で片づけられてしまう現状がある。

本来ゆとり世代より少し上の世代が批判しなければならない高齢者層なのだが、彼らはむしろ味方になるはずのゆとり世代を叩く傾向がある。

ただ、つべこべ言わず行動する情熱があったのは昔の若者だという事は認めたいし自分に足りない部分でもある。

違う世代の事はどうしてもお互いに理解するのが難しい。

本音を言うならばゆとり世代も「自分たちを理解しない上の世代が悪い」なんて思いたくなく理解されたいと思っている。そして自分たちも上の世代への理解が足りないことを反省しなければならないだろう。

 

これ以上こういった不毛な世代間対立をしても仕方がないので、自分の経験の話をしたい。自分が最大級に惨めな思いをしたのは都会での体験にある。

自分は今は地方で生活をしているが少し前までは全国の中では都市だとみなされる地域にいた。都会というのは物で溢れており、それゆえに何をするにしてもお金がかかり、物が手に入らないことに苛まれやすい。

社会階級や身分といった出自の違い、生まれ持った才能を思い知らされ、貧乏人や持たざる者であるという現実を突きつけられる。そして最終的に責任を運という曖昧な要素になすりつける。

その現実に踏みとどまって這い上がることができればよかったが結局失敗し自分は出戻ることになる。再挑戦の機会は今でも探っており、ここで終わるわけにはいかないと思っているが現状からは程遠い場所にある。

 

ただひたすらに社会における敗北だけを味わって帰ってきたが、とにかくお金がない事や負け組あることを感じやすいのが都会だとも感じた。

今は田舎にいることである意味目をそむけていられる状況なのかもしれない。田舎は同世代や勝ち組をあまり見かけずに済むというのが利点だ。

都会ならば有能な同世代のライバルを街を見ているだけで見かけるが、田舎だと自分が敵わないような嫉妬心をこじらせるような人間を見る機会はそれほど多くないので楽である。

それゆえに野心を持ちにくい構造になっているというのは以前も触れたとおりである。

そして徐々に自分もその一人になってきている現実がある。

elkind.hatenablog.com

 

しかし現在ではSNSという存在があり、多くの人が自分の私生活や写真をネット上に乗せている。

フェイスブックやインスタグラムは「幸せ自慢大会」になっている側面もあり、ネットが無い時代に比べて他者との比較に晒されやすくなっている。SNSやネットがここまで普及する以前はインターネット全体がなんとなく"負け組のたまり場"のような雰囲気があったが、今はネットがリアルの延長線上にあるものになってきている。

 

自分はあまりSNSを見るタイプでもなく、他人の観察をすることが好きではないが今はそういう人が増えており「SNS疲れ」というのも社会問題になっている。

今の若者が昔の若者に比べてお金が無い時や勝ち組ではない時に不幸になりやすい理由は、もしかしたらこういったSNSの存在にもあるかもしれない。

人の幸せや自慢話が昔に比べて目につきやすくなっているという構造は今の負け組の若者にとって更に追い打ちをかけているのではないだろうか。

 

SNSをやらない理由に「見せるものが無い」ということをあげる人は多い。

見せるものが大量にある持つ者はネットでも人気者になりやすく、見せるも物がほとんど無い持たざる者は人気者になりにくい。リアルで勝ち組の人がそのままネットでも勝者になり、負け組の人間はネットでも敗者になる時代になってきている。

今の時代は現実にどこまでも追いかけられる、

「デスストーカー」という名前のサソリがいるのだが、まさに現実はデスストーカーであり息絶えるまで執拗に追走してくる。その現実と戦わなければ生き残れない。

とにかくネットにもリアルを持ちこむ人が増え、どこにいてもマウント取りに晒される時代になったことでかつて以上に負け組であることが恥になり許されなくなっている。

インターネットも他人の目線を気にする場所になり自分の恥ずかしい部分を語れない雰囲気になっている。

 

お金がない事と不幸なことを混同することは良くないのかもしれないが、一致する傾向にあることは間違いない。

更に今の若者にとってSNSは必須ツールであり、他人との比較に晒されやすい状況になっている。

そして追い打ちをかけるように社会状況として若者が貧困に陥りやすく将来を明るく見通せない構造がある。

つまりこれらのことをまとめると、今の若者はお金が無く不幸になりやすい上に、現実だけでなくネットでまで他人との比較に晒されやすくなっているため悲惨な状況に陥りやすい。

 

老いているときにお金が無くても、それまでは金銭的に恵まれていた人生だったかもしれないし思い出があれば問題はない。更にもう先行きも長くないためそこまで不幸は感じにくい。「もっといい人生を送りたかった」という後悔はあるかもしれないが、同時に諦めもつきやすい。

 

一方で若い時にお金がないというのはろくな思い出も作れず、同世代との比較に苦しみ、この不幸な時間が老いていく人生の中でこれからも膨大に続くように感じる。

「まだこれからやり直せる」という希望を持てなくはないが、その希望さえ持つ事が難しい世の中になっていることが更に満たされない感情に拍車をかける。

 

将来や未来が良いものにならない不安に苛まれ、そしてその将来や未来が実はすでに今来てるという現実もある。

自分自身人生計画が大幅に遅れてることを実感せずにはいられない上に1年ごとに諦めるものが増えて行ってる。

怨嗟や嫉妬に苛まれ毎日のように誰かのせいにするだけの人生が続く。

もちろん自分の努力不足や実力不足であることはわかっているのだが、その現実と向き合い続けることは疲労をもたらす。

「お金がない若者が悲惨」といったところで、努力してお金を手に入れればいいと言われれば確かにその通りなのであり、まだできることはある。

文句や愚痴をこぼすだけでは人生は何も変わらないことは自覚しており、努力やスキルアップを行っていないわけではない。そのことは言われなくても自分自身が一番理解している。

しかしそのルサンチマンの捌け口をどこかに持ってこなければ人間はやっていられないのである。

 

スポーツや芸能人でも自分より年下の世代が普通に活躍し始め、下の人間に追い越されていく感覚に苦しむ。その一方で自分の計画は遅々として進まずなかなか結果が出ず、社会から取り残されていくような感覚に陥る。

若いときは確かに可能性がありいろいろできるかもしれないが、それは活用しきれるのは有能な人間や元々恵まれた人間が多く、弱者はその恩恵を享受できない。

 

10代の時は壮大な夢を見て自分がこれから新世代だという感覚と時間もあった。20代にはいると現実を突きつけられていく。

若者が楽しいというのは、漠然と子供のころは楽しいはずだという思い込みのようなもので現実には悲惨な生活だけが広がる。努力をして変えようにもなかなか変わらずいつの間にか人生に冷めていく。

 

楽しめる立場にある若い人間は人生が楽しくて仕方がないだろう。

しかし恵まれない若者や無能な若者の現実は悲惨である。そして楽しんでいる同世代に対して怨恨だけが募り、自分をここまで苦しめる社会そのものが憎くなる。楽しめる立場や羨ましがられる場所にいるはず人間がその恩恵を享受できていない時、その不満は倍増する。

若い時にお金が無い時に悲惨なのは「楽しいはずの時期なのに楽しくない」という不満や、楽しんでいる同世代に必要以上に妬みの感情を持ちやすいことが理由だ。

そして「思い描いていた幸福な時期」が予定通りやってこなかったことへの後悔が滲む。

長々と考察する意味もないことを述べたが、以上がお金がない若者が悲惨な理由である。