負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

男は金持ちになったら人生逆転できるが女は逆転できない

男の人生が良いのか、女の人生が良いのかということは度々議論される。

「女の人生はイージーモードだからいいね」と男性は妬むし、「日本は男社会だから女性にとっては辛い」と女性は批判する。

そしてこの手の批判は自分の性別のメリットを享受している人の口からは出てこない。

自分がその性別であることに満足しているならばわざわざ異性に嫉妬する必要がないからである。その性別の下層の人間はどうしてもその性別であることのメリットよりもデメリットを感じることの方が多く、それゆえに異性に対する不満が出てきてしまう。

 

実は男女ともにそれぞれのメリットがあり、どちらが損か得かというわけではなく一長一短あるのである。しかし万人が自分の性別の長所を享受できるわけではなく「男であるにもかかわらず男であることで得られる利益が得られない男性」もいれば、「女性であることの利益をそれほど実感できない女性」もいる。

 

隣の芝は青い、それと同じように自分の芝の青さに気付けない人は異性が羨ましく妬ましく感じるのである。

自分は性別対立が好きではないが、昨今の痴漢免罪騒動の事もあり今では男女対立が深刻な問題になりつつある。

まるで男は全員悪であり、女は全員卑怯者であるかのようにお互いに避難し合っている。本当はこういった批判合戦に加わり極端な意見を言う人は一部なのだが、それが異性全員が考えているかのように見えてしまう。

 

このような無意味な論争を解決するならばやはり「どちらにも一長一短ある」という考え方をしなければならないだろう。性転換でもしない限り性別は変えられず、戸籍上の性別は変えられないのである。LGBTという考え方も普及してきているが基本的に生まれ持った性別と人生を共にしなければならないわけであり、お互いを非難し合ったり自分の性別を嘆いても仕方がない。

 

例えばよく男性が語る「女性は金持ちの男と結婚するという最後の手段がある」という理論も、「良い男と結婚できなかった女性は自立できない場合悲惨である」と考えれば女性も大変だなと思えてくるようになる。

男は負け組になれば悲惨だが、まだ逆転チャンスは残されており年を取ってからでもお金や権力を手に入れればいくらでも女性に相手をしてもらえる。お金を持って海外に行けばなおさら女性には困らない。

 

一方女性はいくら勉強してお金持ちになって偉くなったとしても、それが女性としての魅力に直結するわけではない。

むしろ勉強もせずお金を稼ぐ努力をせずに、女性としての魅力を磨いたほうがよほど自己実現ができる。女性は真面目に生きる方が損で遊んで自分磨きをしていたほうが魅力的になるのである。

年老いてからいくら権力をお金を得たところで女性として評価してくれる人はむしろ年々少なくなる。

お金持ちの中高年男性が若い女性と関係を持つという事は世の中にあふれているが、お金持ちの中高年女性が若い男性と関係を持つ事はそれほどメジャーな事ではない。

 

つまり女性という魅力は強力な武器になる一方で、その魅力で勝負できなかった女性は他に逆転の手段がないという状況に陥る。

分かりやすく言えば近藤春菜がいくら芸能人として成功し大金を稼げるようになったところでモテるわけではないが、男性の不細工芸人でモテている人はいくらでもいるという構図が典型例である。

吉田沙保里がいくらアスリートとして活躍したところでこれもモテるわけではないが、男性アスリートはいくらかっこ悪くても競技で活躍すればモテるようになる。

 

この問題の背景にあるのは男性は結局のところ「母体として健康であるかどうか」が最優先の基準になっており、女性は「優れた能力を持っているかどうか」を基準に入れているという事だ。

いくら女性が権力やお金を手にしてもそれが女性としての魅力に直結して、男性にチヤホヤされるかと言えばそうではない。

しかし男性が権力やお金を手にすればどれだけ不細工でも一定数チヤホヤしてくれる女性が現れる。

男の魅力は金で買えるが、女の魅力は金では買えない。

たかじんや志村けんのようなパターンは女性ではなかなか成立しえないのである。

 

いくら近藤春菜に若い男性が寄ってきても、彼女の孤独は癒されない。なぜならば「私は女性として評価されているわけではなくお金で評価されているだけ」という虚しさが付きまとうからだ。

一方お金持ちの男性はそんなことは思わない。「お金を稼いでいることは自分の実力であり、それは能力が評価されている」という考え方に変換できる。お金で女性が寄ってくることを虚しくも感じないし、むしろ開き直ってさえいる人もいる。

たかじんや加藤茶が最後明らかにお金目的の女性と結婚したところで、それは男の人生として幸せな事であり、むしろ年老いても若い女性が寄ってくるほどの財力や権力があったことは誇りにさえなる。

一方女性はそのことを誇りには思えず虚しささえ感じてしまう複雑な心理がある。

「財力があるのは俺が凄いという証拠」と開き直れる男性と、「やっぱり女性として見てもらいたい」と考える女性の違いがあるように思える。

 

負け組、不細工、底辺でもこれから逆転のチャンスがいくらでもあり中高年になってからでも遅くないのが男性だが、女性の場合は現実的なタイムリミットが存在する。加齢することのデメリットを男性は権力や財力で補うことができるが、女性は加齢することのデメリットを補う手段がそれほど多くは無い。

 

ただこれは男が得であり女が損だというわけではない。

男の若さはそれほどメリットもなく評価されないが、女の若さはそれ自体に大きな価値がある。

これは不平等ではなく実は平等なのである。

男の若さ自体に価値はないが、その代りに後半逆転のチャンスが用意されているという事であり、逆に女性は若さに大きな価値がある一方で後半の逆転チャンスはそれほど多くないという帳尻合わせがある。

 

つまり異性のメリットばかり羨んでても仕方がなく、自分の性別というカードで勝負するしかないが人生なのだ。

自分の性別のメリットが何なのか、その部分で勝負すれば活路は開けてくる。

どうやったところで完全に異性にはなれないわけであり、異性の長所ばかり羨んでいても何の解決にもならない。どちらが損か得かというわけではなく、お互い違いがあることによって一長一短があるのである。

 

男女平等を実現しようと叫んだところで現実的にはどうしようもない違いが存在する。その違いを無理やり矯正し、平等を押し通したところでそれは歪な形にしかならない。

 

それよりは差は間違いなくあることを認めて、お互い良いところもあれば悪いところもある、プラスマイナスの総合で判別すればそれほど変わらないという考え方にシフトしていくしかないのではないだろうか。男女平等という考え方が叫ばれている現代において「男と女を同じにしよう」という方向に向かって行っている部分があるが、それは本質的な解決にはならないだろう。

 

どう考えても男女は違うわけであって、女性に「男の若さをもっと評価してください」と言ったところでそれほど考え方は変わらないし、男性に「女を若さや見た目だけで判断するのはやめて」と言ったところで本能は変えられない部分がある。

そういう風にお互い自然の摂理でできているわけであり、歴然とした違いが存在する。

その違いや差を矯正し、単に同化させていこうとすることが「平等」を意味すると自分は思わない。

「差別」と断言すればあらゆる意見を封じることができるようになっている現代だが、差別という言葉を乱用する勢力ほど自分たちによる差別に気付いておらず、自分たちの利点には目がいかず不利益だけを強調する。

そんな不毛な人々がいる限り、真の男女平等は実現しえないのではないだろうか。