負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

英語や外国語の勉強は何でもいいからとにかくモチベーションが大事

改めて外国語の学習においてモチベーションが大事だということを最近考えている。

最近になってしばらく中断していた、遠ざかっていた英語の学習を再開しているのだがその学習を支えているのはちょっとした些細な動機だ。

 

端的に言えば「英語が話せるアジア人は頭が良いと思ってもらえる」という下心満載の理由だ。

これはアジアの旅行本を読んだ体験談に出てきた話で、付け焼刃や一夜漬けの現地語を話すぐらいなら英語を話したほうがいいというエピソードにヒントを得ている。

 

例えば逆の立場に考えてみるとわかりやすい。

日本に来ている観光客の中国人が中国語で捲し立ててくれば日本人は正直なところ、ちょっと下に見たような感覚になることは否定できない。また中国人が片言の日本語で話していても分かりにくく、これまた稚拙な日本語だと感じたりするだろう。

その一方で中国人が流暢な英語で話して来れば「ちょっとお金持ちの教養のある香港人なのかな?」と想像するかもしれない。

 

アジア系アメリカ人とまでは言わないまでも、欧米の大学に留学経験のあるエリートのように勝手なイメージを抱いてしまう心理がある。英語が話せるというだけで国際的にはただの教養のない東洋人から、むしろIQの高い賢そうなアジア人へと変貌する。

現地語に関してはどうしてもネイティブに対して不利だが、英語という国際的なコミュニケーションツールでは上手に立つことができる。

「英語に合わせろ」というぐらいの推しの強さが無ければ海外ではやっていけない。もちろん現地語を話すことで親近感を抱いてもらえる国がある事も事実だが、あまりそういう人を歓迎しないような国もあるのは事実だ。

 

インド人やシンガポール人が英語ができると言うだけでそのほかのアジア人より凄く感じるように、アジア人と英語の組み合わせはそれだけで仕事ができそうで賢いというイメージに直結する。

逆にインド人やシンガポール人が英語ができなければ、言葉は悪いかもしれないが「開発途上国の人」というイメージになってしまう。

パキスタン人やバングラディシュ人が英語を話せなければ壁を感じるが、一応英語で意思疎通ができるとなれば一気に「教養を持つ知的な文明人」としてそこにリスペクトの精神が生まれる。

 

そして別の言い方をすれば「先進国」としてのイメージがある日本人も、英語ができなければ「未開なアジア人」として扱われることがあるということでもある。

英語が偉いと考えているわけではないが現実的には英語ができない人はちょっと未開だなというイメージは存在する。

日本人が英語出来なくて何が悪い!と思いながらも、いざ英語が通じないアジア人を見たら「ろくに教育も受けてないのか、よくわからない未開な言語で話しやがって」と思うに違いない。

完全なるダブルスタンダードで自分たちは英語が話せないことを開き直っておきながら、いざ外国人に英語が通用しないとなると「教養のない頭の悪い人たち」とみなしてしまうのはおそらく世界共通の現象だろう。

 

現に中国人がカタコトの日本語や中国語で話しかけてくるよりも、流暢な英語で話しかけてきた方が日本人は丁寧な対応をするだろう。

英語への崇拝意識は間違いなく存在する、ならばそれを上手く利用したほうがいいのではないか。ここは素直に英語ができれば賢い文明人に見てもらえるということを利用してそこにあやかることを目的にした方がいい。

変にコンプレックスや意地を持たず、かっこつけるために英語を学んでもいいのではないだろうか。

 

そういったわかりやすいモチベーションがなければ正直外国語の勉強など続きはしない。

自分自身これまで何度も外国語から遠ざかる時期を経験してきた。

やる気がある時は物凄く勉強するが燃え尽きたように勉強しなくなる時がやってくるのだ。そういう時は何でもいいからとにかくモチベーションを喚起する理由を創り出すしかない。

 

時には英語ができない人を見下す意識も必要になるだろう。

アメリカ人やイギリス人のような英語ネイティブは「英語ぐらいで来て当たり前だろ」というノリで自信を持って話している。

英語はスタンダードなのだがらできない奴ができる奴に合わせろという感覚だ。

それぐらい自信を持たなければ英語というのはできない。アジアに行ってアジアの言語を無理やり覚えるよりも「英語をできない馬鹿なお前らが悪い」というぐらいの感覚でゴリ押しすることもときには大事になってくる。

そして英語が上手ければ堪能なほどその権威や説得力は増す。

 

例としてこんなエピソードがある。

どこで聞いたかは覚えていないがアジアのどこかの国で揉めて口論になったとき、英語を使っていたことで近くにいた英語を理解できる人が味方になってくれて議論を優位に進められたという話だ。結局あらゆる問題に置いて味方を多く作れる人の方が有利であり、万人が使う物を使える方が優位に立てるという傾向がある。

 

「英語出来ない奴は未開人」という信念を持てば、英語ができない自分が恥ずかしくなってくる、それで勉強に身が入って最終的に習得出来ればそれはやったもの勝ちなのだ。

どんな目的や意志であっても結局は英語出来たほうが偉い、これは紛れもない事実だと言える。

 

有言実行とかビッグマウスみたいな話で英語ができる自分という虚像を先に作ることでその理想や目標に追い付こうとするのもありかもしれない。

「お前ここまで英語、英語言ってていざ実際に話せなかったら大恥やぞ」と自分であえてプレッシャーをかけることでモチベーションを維持することさえも必要になってくる。決して楽しいだけで努力は続かない、時にそこにはプレッシャーも役に立つ。

 

実際英語ができると頭がよく見える効果というのはアジア人に限らない。

例えばサッカーポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドは英語ができることで国際的なファッションアイコンとなっている。リオネル・メッシがスペイン語しか話せないアルゼンチンの無教養なサッカーしか取り柄のない選手に見える事とは違う。ズラタン・イブラヒモビッチも英語が話せなければ所詮バルカン系のチンピラにしか見えなかっただろう。

 

英語が話せるとそれだけで凄く見えるという意識はむしろ日本人において顕著だろう。よく英語が話せる芸能人のようなシーンを見かけるがなんだかんだでやはりかっこよく見えるし国際的に活躍しているような人に見える。それまで特にインテリというイメージが無かった人も賢そうに見えてくる。

 

卑屈なコンプレックスといえばそれまでなのだが、そのコンプレックスをもやる気に変えて英語を習得出来ればそれは勝ちなのだ。勉強する動機になりさえすれば理由はどんなものでもあっていい、それほど外国語の勉強を続けると言うのは難しい事でもある。

燃料になるものは何でも使う、外国語はそれぐらいのモチベーションでなければ習得することはできない、いやそれ以前に勉強自体が続かない。

逆に言えば何でもいいからやる気や動機があれば続く、そしてそれこそが最も重要な要素だと思う。

日本人が目指すべきは「英語ができる賢いアジア人」なのかもしれない。