NHKの赤報隊事件再現ドラマが結構面白かったという感想
未解決事件を特集したドキュメント番組やドラマというのは興味深く、ネットや書籍などでもこういったことを調べると面白い。
今回自分が見たのはNHKが「赤報隊事件」について制作した再現ドラマであり、未解決事件にワクワクしてしまうような不謹慎な厨二病人間としては中々見ごたえを感じた。
赤報隊事件というのは、1980年代の後半に右翼組織によって行われた一連のテロ事件の総称であり主に、朝日新聞を敵視し彼らを反日分子と規定し"処刑対象"として標的にした。
自分は戦後の政治運動についてある程度興味を持っていながら、実はというとこの事件について知らなかった。
内容としては朝日新聞の阪神支局に猟銃を持ったテロリストが現れ、2人を襲撃し1人は死亡した末に、現在は時効を迎え未解決事件になっているというものだ。
この事件に加えいくつかのテロ活動があり、世紀末の時代の雰囲気を感じさせる。
脅迫電話があったり犯行声明文が送りつけられたり、朝日新聞の特命班が右翼団体と接触するシーンが再現されていたり、ドラマとしては1時間ほどのものだったが非常に興味深い内容だった。
1980年代の歴史教科書問題や、当時の中曽根康弘総理による靖国参拝問題などの背景があり、その文脈で現れた赤報隊という謎めいた地下テロ組織というのは今で言えば厨二病なのだが、実際に行動するところは今とスケールが違う。
昭和が終わり時代が平成に変わり世紀末へと向かう激動、そして最後の昭和的な政治事件であるとこの赤報隊事件について自分は考えている。
「もう現代においてこういうデカい事ってないんだろうな」と、政治活動の主戦場がインターネット上に移行した今になってこの頃の話を聞くと一抹の寂しさを覚えないわけではない。
戦後の凶悪な政治活動と言えばどうしても連合赤軍や東大安田講堂事件、三菱重工ビル爆破事件、渋谷暴動事件、よど号ハイジャックなどのような極左活動を連想する。
しかし不謹慎な言葉を使うならば「右翼も結構頑張ってるな」とこの赤報隊事件の再現ドラマを見て感じた。
右翼はどちらかというと2.26事件のように戦前の活動のイメージが強いが、良く考えてみれば三島由紀夫による自衛隊駐屯地でのクーデター未遂と、1960年に社会党の党首を当時17歳の少年が刺殺した暗殺事件などが存在する。
自分は右翼でも左翼でもなく、もはや現代の政治に冷めている立場であり左右双方に幻滅している。
ネットで近隣諸国の粗探しをして、日本の都合のいいところだけ持ち上げる最近の右派にしても、平和や反原発を叫んでお祭り感覚でデモをしていれば世の中が平和になると思っている左派にしても、どちらも正直「つまらない」と感じている。
どちらもネットでお互いを非難して喧嘩し合っているだけのただの面白くない政治厨でしかなく、政治面で面白い人たちはもういないと悟り興味も無くなっている。
また未だに核マル派はアジトで活動しているが完全に劣化しており何かを起こそうという気配はなく、歴史を変えるような凄いことをしそうな人は左右双方に存在しないのではないかという感覚がある。
それゆえにかつて存在した赤報隊という組織を知り、久しぶりにドキドキ感というかワクワク感のようなものを感じ、「20世紀の激動やっぱすげえ」と厨二病的な感情を抱いた。
今の中途半端な政治厨は左派も右派もつまらない、しかし実際に事件まで起こしたかつての極左と極右は"面白い"というのが自分の発想だ。
一貫したまともな政治信条など持っておらずただ単にエンタメ感覚で面白いかどうかを優先する自分が、最近の左派を「お祭り感覚」と揶揄するのもダブルスタンダードな話だろう。
赤報隊の秘密復刻新版 朝日新聞連続襲撃事件の真相 [ 鈴木邦男 ]
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とにかく戦後昭和の活動家は漠然とした表現かもしれないが情熱のようなものがあった。
未来がどうなっていくかわからない激動の時代だからこそ、本気で未来を良くしようと熱くなれた時代だったのかもしれない。
この頃は左右共に自分の活動の生命を賭けているのでスケールの大きいことができた。逆に今はネットで政治活動をすればそれなりに戦った気になれる時代なので、中途半端な「小者」が多い。
ネットで簡単に活動できないからこそむしろ高いモチベーションをもって彼らは活動をしていた。
また現代人はもう未来が壮大に発展していくとも考えておらず、そこに命をかけてまで活動する気にはなれないのかもしれない。人は未知の物に対しては情熱を持てるが、ある程度分かり切っているときにそれほど情熱を持つことはできない。
政治活動や革命運動に命をかける若者は絶滅危惧種であり、もう"20世紀的な激動"が起きていく可能性は皆無に近い。だからこそ自分のように刺激が欲しい厨二病のような人間にとっては現代の情熱の欠如が虚しく感じるのかもしれない。
濃い奴が集まってそうな政治ですらつまらない浅い奴ばっかりになったんだなという時代に、優先されるのは結局いつものようにささやかな日常の癒しなのだろう。
そして自分自身が既に最近は歴史や政治のドキュメント番組を見ず、普通にユーチューバーを見ているという典型的な現代人になって来ているという皮肉な状態に陥っている。
だかららこそ久しぶりに赤報隊事件のドラマを見てちょっとワクワクしたというか、中曽根総理ですら生ぬるいと脅迫し様々なテロをおこし、散弾銃の扱いに慣れていた右翼の存在にまるで小説の登場人物のようなスケールの大きさを感じたのだ。
今でこそ日本の戦争には正統性があったという類の見方をする人は増えているが、1980年代というのはまだネット右翼という言葉が存在しない時代の話であり、憲法改正という言葉ですらはばかられた時代だった。
思想やその行いに共鳴しているというわけではないのだが「そんな時代に右翼活動していた人って相当ガチだな」と凄さは感じる。
今の時代というのは右派は右派、左派は左派とまるで原理主義のように分断されている上に、お互いをただ非難し合うだけのスケールの小さい争いに終始している。そして非難して終わりでしかないので尚更つまらない時代だ。
逆に言えば政治活動にそれだけ本気で熱くなれた時代という空気というのは、今振り返れば貴重だったのかもしれない。
現代人が大人しくなっていくと言うのはあらゆることに共通しており、政治活動家も大人しくなっていくし、不良や走り屋でさえ軟化していき芸能人も昔ほどギラギラしていない。そしてゆとり世代に代表されるように若者自体が夢を持たず大人しくなってきている。
世の中そんな凄い方向に向かっていくことはもう無くて、コアなオタクやネット民も減ったし高級なものに憧れるよりもソシャゲをして満足で、革命家や政治活動家も何か凶悪な事件を起こすわけではない。
情熱に満ちた時代が20世紀ならば21世紀の現代は虚無感に満ちた時代と言える。
この再現ドラマでは「赤報隊はまだ潜んでいる、いつか活動を再開するかもしれない」という終わり方で締められていたが、はたして彼らは再び表舞台に登場することがあるのだろうか。
それともそのような激動の時代が訪れることはもうありえないのだろうか、20世紀的激動や衝動の終わりと共に赤報隊は役目を終え姿を消していったのかもしれない。
しかし時代が変わる時、再び同じような勢力が台頭してくる可能性は完全に否定しきることはできないはずだ。
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悲報:吉野家コピペ、もうオワコンどころか完全に過去の遺物になる
最近のネットがつまらない最大の理由は、何にでもマジレスする人が増えノリが悪くなったからだと自分は考えているが、その象徴が吉野家コピペマジレス問題だろう。
事の発端はソフトバンクの吉野家セールについて、吉野家コピペを応用したツイートをしたところ、そこに真面目な指摘が入ったという事である。
そしてこのニュースのコメント欄ですらマジレスコメントの応酬になっており、「最近のネット民は吉野家コピペすら知らんのか厨」VS「昔のネタを知ってて当然だと考えるのは老害だ厨」の争いに発展している。
もうこの時点ですでにユーモアも余裕もなく、マウントの取り合いに終始する最近のつまらないネットを象徴しているなぁと残念でならないのだが、これが最近のネットの現実なのだろう。
自分自身はネット懐古厨なので当然この吉野家コピペは知っている、そのため知らないユーザー層が続出している事に寂しさを感じないと言えば嘘になる。
しかし最近はもうネットがそうやって変化していくことは仕方がないことだとも諦めている。
それに加えて、自分だってネットスラングについてはよく知っているが、自分の知らない世代のお笑い番組のギャグを上の世代に持ち出されて「最近の人たちはこれ分からないんだなぁ、世代違うなぁ」と言われたらイラッと来るだろう。
ネットがもうそれだけ歴史の長いものになったとも言えるわけであり、今後最先端ツールに思えたインターネットです世代間ギャップが生じていくことになるだろう。
更にこれは世代や年齢層の問題に限らず、それほど若いころにネットをしていなかった世代が今になってスマートフォンでネットをし始めたというケースも存在する。例えば自分の母親はその典型例で、年齢は当然自分より上だが自分の方がネット歴自体は長いという逆転現象が発生している。
このニュースでもアンケートが「吉野家コピペを知っているか」というアンケートが取られているが、知らないのは最近の学生に限らず昔はネットをしていなかった層も含まれるという事を考慮しなければならない。
そのことを踏まえると、むしろこの吉野家ネタを知っているのは学校のパソコンでフラッシュ動画を見ていたゆとり世代に多く、逆にスマートフォン普及後にネットを始めたような自分の母親世代の人の方が知らない事の方が多いとも言える。
ネット空間自体がまだ未発達で規模自体は小さかったからこそ教養や共通項としてこういうネットスラングは知られていたが、もはやそれが成立しない程に今のネットは巨大化し多様化したとも言える。
ネットにおける常識というのはもはや成立せず「半年ROMれ」の精神は完全に失われたのだ。
つまりもうネットにかつてのノリの良さや面白さを期待すること自体が無駄なのであり、諦めの境地に入っているような心理状態でネットをする人が懐古厨になっているのである。
この吉野家コピペマジレス問題において、最大の問題は「吉野家コピペを知らない事」ではない。
知らない人が存在するのは当然であり、もうネット民なら誰もが知っている事など期待してはいけない時代になっている。それほど多種多様な人々が歴史の長いネットをする時代になっているのだ。
真の問題は「元ネタを知らなくともなんとなく冗談で言っているという推測がつかない人が増えた」という事である。
吉野家コピペに限らず、元ネタを知らずとも明らかに何かの冗談で言っているだろうという推測ができる物は多い。
しかしジョークが通用しない類の人はそれすらわからず、直情的にマジレスをしてしまうのである。そしてそのセンスが無い人が実は結構存在しているという事であり、ある程度冗談を理解するには最低限の知能指数が必要なのだ。
そしてその知能指数に達しない人までも最近はネットを使っているほどにネットが普及したとも言える。
ツイッターにかぎらず、動画サイトやまとめサイトのコメント欄でも冗談がわかっていない人たち程、速攻で感情的に書き込む光景が散見される。
明らかにネタスレをまとめたときにもマジレスコメントが湧くというのは良く見かける事であり、元ネタを知らなくともネタだと推測がつくこと自体がもはや高度な事なのである。
コピペらしきものを見かけたときに調べるという習慣自体がもはや誰にでもあるわけではない。
今のネットというのはつまり「ノリが悪くてつまらない人たちほど行動が早い」という空間になっている。逆に面白い人たち程もうネットの面白さを見限ってROM専になっていることが多い。
昔のネット:面白い人たちが率先して書き込み、そこに面白いツッコミがあった。
今のネット:つまらない人たちほど行動が早く、そこに同じようなつまらない人が反応する。
昔のネットというのは社会から閉ざされた独自の空間だからこそ、面白い人たちが隠れてふざけることができたし、それに対して温かみのある突っ込みがあっただけでなく同じように更にふざける人が多かった。
今のネットはもう面白い人たちがネタやってもつまらないマジレスしか飛んでこないだろうなと見限っており、結局謎の正義感がある真面目な"正義マン"ばかりが行動する時代になってしまった。
何かの面白いことに対してそれ面白いねという反応よりも、自分が理解できない物は全てつまらないという反応の方が多い時代になり、くだらない小さな反論や上から目線の指摘ばかりが蔓延るような空間になったのが今のネットだ。
ダウンタウン以降のお笑いのネタを見ればわかるように、実は冗談やユーモアというものはある程度の頭の良さや素養が必要な物なのである。
そしてその知的水準に達しない人が実は多く、そういう層ほど無駄に行動が早いのだ。まさに吉野家コピペにマジレスしたツイッター民やニュースと喧嘩しているヤフコメ民がその具体例だろう。
更にたちが悪いのは、こういったつまらない人たちはそれがネタだと言われたときにムキになって意地でも釣られたことを認めないことにある。
「それ冗談だったんだ」と素直に認めず、そんなネタを使う方が悪い、知ってて当然だというのは老害だという"逆ギレ"を起こす。
人間の器というのは冗談だと言われたときの後の対応の仕方に違いが現れる。そもそも今の世の中自体が軽い冗談を許容できない息苦しい社会になっているので、もうそういう人の方が多数派だと思った方が良いのだろう。
いや実際には彼らはクレーマー気質のノイジーマイノリティ(うるさい少数派)であり、本当は冗談を理解している人の方が多い。
しかし今のネットは冗談をわかっている人や、その意見に同意している人は行動を起こさない、文字通りのサイレントマジョリティ(静かなる多数派)になっている。
今のネットがつまらない最大の元凶はこういったクレーマーや正義マンがうるさい世の中になったからであり、もはやそれはインターネットという空間に限らず世の中全体の問題になっている。
テレビのやらせにマジになる人が増えたというのもこの文脈上の事であり、つまらない人ほど声が大きく行動が早い世の中になった。
実はこういう人たちは昔も当然いたのだが、それらは家族や友人と言った身内の会話で処理されていた。
しかし今は誰でもネットで意見を発信することができる時代になり、こういったつまらない人たちにも発言権が与えられてしまったのだ。
選挙権が誰にでも与えられると実は理想の民主主義は実現せず、単なる衆愚政治に陥り、結局は制限選挙や独裁政権の時代の方が安定し洗練されていたということが世界中で起きている。
まさに選挙権が誰にでも与えられたことでかえって民主主義が劣化したようなように、今のネットは誰にでも発言権が与えられるようになったことで、かつては家の中で独り言や身内の会話として処理されていたものが、簡単に世の中に出てくるようになっているのだ。
最後にもう一つ吉野家コピペが廃れた理由を挙げるとするならば、単にネットユーザーの中でもそれが流行遅れになったという事である。
使われない物は廃れていくというシンプルな理由であり、お笑い芸人のギャグでもたった数年で忘れ去られていく。
古いギャグが使われなくなるのと同じ構造であり、徐々にかつてのフラッシュ動画のようなノリは通用しなくなっていく。
個人的な意見としてはこういった昔ながらの文化が廃れていくことに寂寥感を感じるのも正直な本音だ。
語り継ぐ人や保存する人が減れば、それはいつしか風化し消えていく。
もうこうしてかつてのネット文化について語る人すら最近は激減しており、本当に世の中から昔の文化が失われつつある。文書に残っていない古代文明の詳細がわからないように、段々と初期のネットの雰囲気というものがこのままでは消えゆく運命にある。
懐古ネタを語ってもそれに「そんなことあったね」と同意してくれる人も減り、それどころかまずそのネタがわからないという人の方が実はもうネット全体では多数派になっている。
かつて当たり前に存在するかのように見えた物も案外儚く消える運命にあり、消えるときは一瞬であり脆く危うい。
まだ吉野家コピペは動画自体が残っているので見ることができるが、実は今探そうと思っても動画自体が存在しないフラッシュのほうが多い。
語る人がいなくなれば本当に消えてしまい過去の遺物になる、それを証明したのがまさに今回の吉野家コピペマジレス問題だと言えるだろう。
OH MY GIRLの女神ユアを崇めましょう
どうしようもなく心細く悲しい時に自分はユアのことを考えると少し救われたような気になれる。
ユアとはOH MY GIRLというアイドルグループのメンバーであり、実際の名前はユ・シアだ。
まずユアの特徴は抜群にスタイルが良く顔が小さい事、そして何よりアイドルとしての笑顔や振る舞いが完ぺきなところに良さがある。こんなアイドルが実際に存在するのかというぐらいに曇りのない晴れ渡った笑顔をするので、まるで女神が実際に存在するのではないかと錯覚するほどだ。
藤田ニコルを限界までフォトショップで修正していけばOH MY GIRLのユアが完成するだろう。
本当に精神的に辛い時に宗教というのは心の拠り所になるものだが、自分の場合はユア様という女神を思い浮かべ、自らの存在を懺悔することで救済を求めると少しだけ楽になる。
非常に気持ち悪い考えなのかもしれないが、自分にとってはユアの方が実際には年下ながら「理想の優しい姉」のようなイメージを投影している。
結局男子というのは、優しいお姉ちゃんに憧れるもので、その姉に承認されて認められたいのだ。
本当に気分が憂鬱な時は「ユアお姉ちゃんごめん」「大丈夫、~君は何も悪くないんだよ」と脳内で妄想上の会話をする事さえある。
実際の姉とはテレビのチャンネル権を独占し、常にジャニーズの番組を見る存在でそんな理想は幻想でしかない上にそもそも自分には姉がいない。
優しい姉が欲しかったからこそ、姉に「よしよし~君は凄いね」と言ってもらいたかったのかもしれない。
ToHeartというゲームでタマ姉というキャラクターが理想の姉を体現しているとかつては言われていたが、アイドル界においてユアはまさに実写版のタマ姉のような存在だと言える。そうは言ってもゲーム自体はやったことがないので名前しか知らないが、とにかく男子が思い描く理想の姉の雰囲気がある。
NMB48の山本彩より年上なのに「さや姉」という感覚にも近いだろうか。
さや姉が姉貴タイプならば、ユアは本当に優しく弟を大事にしてくれそうなタイプだ。
そんな女神ユアに懺悔すれば全てが救われる、彼女こそ救済の女神である。
「自分のような生きる意味のない人間が生きていて申し訳ありません」と信仰告白すれば、「そんなことないよ、~君は何も悪くないよ」と言ってくれる、そんな脳内の会話をしている。
多分そんな言葉を言ってもらいたいのだろうし、男は女性にそうして認められないと癒されないものなのだろう。それが欠けているから自分は人間的に成長していないのかもしれない。現実にそんな姉は存在しないが、アイドルには理想を求められる。
OH MY GIRLには姉キャラの他に「お母さんキャラ」もいる。
思わず「ヒョジョンさん」とさん付けで呼びたくなるぐらい、優しいお母さんのようなオーラがある。グループの中で一番身長が低いながらも最年長のリーダーであり、とにかく優しくオーマイガールのメンバーを見守る。
これまたゲームやアニメに出てくるような理想のお母さんキャラのようなもので、「ママ」と呼ばせてくださいと思わずにはいられない。
場末のスナックにヒョジョンがいたら毎日通いたくなるだろう。
どうしようもなく辛い時、おかんに悩みを打ち明けるようなものでどうしても虚しく気分が陰鬱な時はヒョジョンとユアの母と姉コンビに「ママ、姉ちゃんごめん」とつぶやくとだいぶ楽になれる。何について謝っているかはわからないが、とにかく悲しみが少しだけ晴れるように感じる。
そしてリアルに彼女にしたい自分好みのアイドルは同じくOH MY GIRLのジホで、勝気なヒロインという"設定"にしている。
最初アリンが可愛いと思っていたのだが、よくよく考えたらアリンは可愛い妹枠のような気がするようになった。更に最初そこまでジホは可愛いと思わなかったのに、日に日に可愛く見えるようになってきたので、ヒロインはジホだ。
スンヒはなぜかクラスで女子のグループを仕切っているキャラで、ビニとミミと一緒にいてそこにジホもいる。
そして隣のクラスにはTWICEがいるという設定だ。
TWICEは典型的な「隣のクラスの美人グループ」で自分には縁のない憧れのグループというイメージに近い。
唯一合同授業のような時だけダヒョンと話す機会があるぐらいで、他のメンバーとは話したことが無い。
更にBLACKPINKも同じく隣のクラスの女子グループだが、ちょっと不良感があって怖い異色の4人組集団だ。しかし実際に話してみると拍子抜けするほど優しい子たちというギャップもある。MOMOLANDは下の学年で、Red Velvetは上の学年という感じがする。
男子仲間では平成ジャンプの伊野尾とは気が合うので良くつるんでいて、時々授業をさぼるという間柄だ。不良グループのリーダー格は赤西仁でマジで怖い、そして本田圭佑も同じく上の学年にいる。
仲のいい女子にHKT48の指原莉乃もいるが、指原に関しては本当に異性としては惹かれないので単なる腐れ縁のような関係というこれまた"脳内設定"だ。
自分のクラスや家族にはOH MY GIRLがいて、隣のクラスにBLACKPINKとTWICEがいて別の学年にはMOMOLANDとRed Velvetがいるというとんでもない学園は顔面偏差値がとんでもないことになっているに違いない。
ジャニーズファンがよく「クラスにジャニーズがいたら」という妄想をしているが、その感覚に近いだろう。
なぜ自分はこんな妄想をしているのだろうか、しかし脳内には時として理想の空間が必要になる時があるのかもしれない。
生きてる間に朝鮮半島統一を見ることはできるか
東西冷戦の遺物の象徴ともいうべきなのが朝鮮半島であり、事実上世界最後とも言える分断国家と社会主義国家が存在する。
世界的に見れば本当に珍しい国家形態がすぐそばにあり、それゆえに日本の報道番組でも視聴率が取れるからなのか北朝鮮関連の話題が多い。
そんな朝鮮半島が統一されるムードになりかけたのは冷戦終結の前後の時期と、当時の韓国の大統領だった金大中が北朝鮮を訪問し南北共同宣言をした時だろう。
冷戦終結の時期について調べていると東西ドイツが統一したり、ソ連が崩壊したりEUが発足したりと新しい世界に向かっていくムードを感じることができる。
しかし自分は東西ドイツ統一とソ連崩壊についてはリアルタイムで経験しておらず、ソ連が存在した冷戦の時代を体験して見たかったという憧れもある。むしろ90年代の記憶すらほとんどない世代にとって20世紀の激動は眩く映る。
世の中が激動の時代に入り新しい世界に向かっていく昂揚感、不安と期待のようなものを味わってみたいというのは、停滞した現代に生きる現代人として自然な感覚だろう。
そういう意味で現代人に残されたサイドの"ビッグイベント"が南北朝鮮半島の統一だと言えるかもしれない。
何か世界史に残るような大きな出来事があるとすれば後はもう朝鮮半島統一ぐらいしか、20世紀的な激動は残されていない。現実的には希望や理想は実現せず世界が冷戦終結後良い方向に向かって行ったとは言いにくいが、何かしらの大きな動きがある時の雰囲気を感じてみたいという人は多いのではないか。
東西ドイツの統一とソ連崩壊、そしてそこからEU発足も含め90年代は様々な出来事が刺激的に続いていく。ソ連が存在する時代を体験できなかった世代にとってまさにその激動の時代は憧れの対象だ。
仮に朝鮮半島が統一に向かうのであればその時代の昂揚感に匹敵する可能性はある。
ただ北朝鮮という国は滅びそうでしぶとく滅びない国だ。
冷戦の衝撃ですら崩れなかった分断体制は余程の事が無い限りもう揺るがないだろう。
韓国の反北朝鮮傾向がある人々は「金大中が北朝鮮を延命させた」と悪名高く評価しているようだが、今は中国が北朝鮮を延命させている状況になっている。
むしろ日に日に北朝鮮の体制は強固になっていき、もはや既成事実化している。
社会主義の優等生とさえ言われた東ドイツとの統一ですら、未だに格差があり「連帯税」をドイツ国民は支払わされている。サッカーのブンデスリーガでも東ドイツのクラブはほとんど見当たらず、西ドイツに主要産業が集中している。
脱北者の中には「統一後北朝鮮が韓国の水準にかろうじて並ぶには最低でも50年かかる」と語る人もおり、もはや韓国国内でも統一に夢を見ている人は少なくなってきている。
最近ピョンチャンオリンピックで統一半島旗の問題がニュースをにぎわせているが、韓国国内で統一に夢を見ている人は韓国の現大統領文在寅のような夢見がちな理想家に限られている。
2000年代の前半ぐらいまでは「同じ民族が悲劇的に分断されてしまったのでもう一度統一しなければならない」というムードがあった。有名な韓国映画に「シュリ」という作品があるが、これは1999年の作品だ。南北共同宣言の時に金大中と金正日が同じ冷麺を食べた時統一しそうな気配を感じたという韓国人もいるが、現実的にはその頃からもう20年が過ぎようとしている。
映画『シュリ』のタイトルは朝鮮半島の川に生きる魚の名前から来ており、「元々は同じ川を流れていた」というニュアンスの台詞が語られる内容になっている。この映画自体は感動的な作りなのだが、良くも悪くも分断や統一という言葉にセンチメンタルになれる時期はもう過ぎ去っているのだろう。
シュリ /カン・ジェギュ(監督、脚本),ハン・ソッキュ,キム・ユンジン,チェ・ミンシク,ソン・ガンホ,ユン・ジュサン,パク・ウンスク 【韓国映画】
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2000年の前後という意味ではシドニー五輪の時に南北共同チームで出場したこともあるが、客観的に見ていると今の韓国にはその頃のようなムードは感じられず現実的な人が増えた印象を受ける。
おそらく今の韓国で統一に憧れている人は、その頃の雰囲気を懐かしむ人か憧れている人に限られるのではないか。左派系の人々が夢見がちな理想主義者になる傾向はどの国でも共通しており、それは韓国でも変わらない。
「南北を統一すれば日本や中国を追い越せる大国になれる」と考えている人は愛国心や民族感情に芽生えたての韓国の中学生ぐらいだ。
そんな現実的な時代の中で、無理に統一をシミュレーションするならば軍事的な衝突によって北朝鮮の体制が崩壊することが大前提となる。
現状で北朝鮮が内部から崩壊するというのは考えにくく、金正恩とトランプ大統領の綱渡りのようなゲームがどう動くかにかかっている。
仮にトランプが本当に北朝鮮を攻撃するならば事は一気に動くことになるかもしれない。更に中国も国境沿いに難民キャンプを建設する動きを見せており、必ずしも北朝鮮の体制を堅持させることにこだわっていないというメッセージを発信している。
考えすぎた見方かもしれないが、崩壊後の北朝鮮を米中で分割統治する野心が無いとは言い切れない。
韓国としては建国以来朝鮮半島北部も自国の領土であり、大韓民国が朝鮮半島に存在する唯一の正統な国家と主張しているので領有権は韓国に移る可能性が高い。
しかし前述のように莫大な統一予算がかかるため韓国単独でその負担に耐えきれるとは考えにくい。北朝鮮は美人が多いとも言われているので、韓流アイドルに美人メンバーが増えるぐらいしかメリットは無いだろう。
北朝鮮が新たな国家として単独でスタートすることも考えられる。
どちらかというと東西ドイツの統一や南ベトナムと北ベトナムの例よりもチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分かれたような事を想定する方が自然なのではないか。
元々朝鮮半島の歴史自体、複数の国が存在していた時代の方が長いわけであり必ずしも李氏朝鮮や世宗大王の時代のような形にこだわる必要はないように思える。
百済、新羅、高句麗のように違う国として併存するほうが統一に伴う諸問題を回避できる可能性は高いはずだ。
北朝鮮崩壊後に一番あり得そうなのは、資本主義を取り入れ民主主義化した北朝鮮が国名を変えて存続することのように思える。もう70年も別の分断されれば完全に別の国だろう。平均身長は10cm違い、言葉も同じ朝鮮語のように思えて大きく異なるのが現実である。
また脱北者も朝鮮労働党の体制から逃れてきただけで、今も故郷の出身地に愛着がある人が多いと聞く。更に同じ韓国国内だけでも地域によって対立があり、ここに旧北朝鮮地域が加わることはそう簡単なものではない。
つまり北朝鮮人も故郷としては北朝鮮に愛着があり、韓国人も北部に対して差別的な感情があるので「一つの半島」に夢を見る人は実はどちらにもそれほど多くは無いのが現実なのだろう。
おそらく日本が統治したときの朝鮮以上に、今の韓国がこれから北朝鮮を統治することは難しい。一見すると同じ朝鮮民族だから共存は可能なように見えるが、同じだからこそわずかな違いに目が行きやすいという問題もある。
日本の中ですら韓国民団と朝鮮総連が対立しているというのに、もう今更国家として同じ路線に歩むことは困難だ。
仮にそのような新しい国家が発足したとき、様々な資本が流入しアジア最後の未開拓地が忽然と出現することを意味する。
ミャンマーがアジア最後の秘境だと表現されることもあるが、実は崩壊後の北朝鮮がアジアにおいて資本主義が発達する地域になるのではないか。
そうなった時周辺国の思惑が絡み合い、第一次世界大戦前夜に火薬庫と呼ばれていたバルカン半島のようになっていくというストーリーも考えられる。
中国が本格的に進出し影響力を高めていくならば、アメリカも積極的にプレゼンスを発揮しにかかるかもしれない。ごく少数の難民問題を除けば日本としては対岸の出来事になるのか、それとも極東地域の経済開発を求めてロシアが絡んで来るのか。
金大中の南北共同宣言のときの演説の映像を見たことがあるが、その時「日本、韓国、北朝鮮、中国からシルクロードに続く道ができる」というようなことを語っていた。シベリア鉄道を使えば韓国から陸路でヨーロッパにまで行けるようになると言えば聞こえは良く夢があるように聞こえる。
しかし金大中が現代のシルクロードに夢を見た2000年の頃と今では情勢が異なる。
現実的に考えれば問題が増えるだけで、北朝鮮が緩衝地帯になっている今の方がよほど平和だろう。
ピョンチャン五輪における統一半島旗の問題によって再び南北朝鮮問題が騒がれる機会が多くなっているが、どうも2000年前後の頃のような華々しい未来を思い描く雰囲気のようには感じられない。
やや古典的な理想像に夢を見て追い求めているようにも見えるし、韓国国内でも一部の人々が意図的にプロパガンダのように主張しているように見える時がある。
中には文在寅大統領がノーベル賞を狙っているだけという冷ややかな見方もあり、非現実的な夢と理想を追い求めているようにさえ映る。
このオリンピックが終わった時、韓国の人々はこの一時的な熱狂をどう振り返ることになるだろうか。
二つのコリア 国際政治の中の朝鮮半島 /ドンオーバードーファー(著者),菱木一美(訳者)
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全国の離島めぐりしてる人は面白そう
先日「マツコ会議」という番組で北海道の利尻島という離島に2件だけあるキャバクラを特集していたのだが、これが結構面白かった。
一見すると場末の飲み屋という感じがするが、実は地元の人がよく来てくれたり家族ぐるみの付き合いがあったりと、かなり暖かい空間が形成されていて様子だった。
その中に全国の離島巡りをしながら利尻島のキャバクラに辿り着いた元キャバ嬢の人がいたのが興味深く、そういう人生っていいなとも羨ましくなった自分がいる。
最近地元の中でも更にローカルな地区に行動範囲が限定されているので、全国を転々とする生活は面白そうだと感じたし離島に限らず特定のスポットを巡るというのは結構面白そうである。
お遍路はその典型例で昔から存在しているし、全国の山や神社、滝など自分が好きなタイプのスポットを決めて回るというのはコレクションをしていくようで楽しい。
松尾芭蕉が「奥の細道」で辿った旅程をなぞる旅を現代にしている人もいるだろう。
離島がなぜ好奇心を誘うかと言えば、ある意味閉ざされた環境の中に自分が知らない物があるというワクワク感があるからだろう。
ポケットモンスターのリーフグリーン・ファイアレッドで殿堂入り後に「ナナシマ」というダンジョンが追加されたことがある。今振り返ってもゲーム内でありながらナナシマの冒険は面白かったなと懐かしくなる。
「殿堂入り後にナナシマ行けるようになった時のワクワク感は異常」と今でもポケモンファンの間で言われているが、島は何か好奇心を抱かせる。
ついでに言えばポケスペという漫画版でもナナシマ編は面白かったという記憶がある。
しかしサンムーンの島巡りはいまいちワクワクしない、結局これも思い出補正なのだろうか。もしかしたらもう子供ではないのでゲームではなく実際に島巡りをしなければ本当の楽しみは得られないのかもしれない。
自分が日本国内で一番憧れがあるといえば北海道の礼文島という離島だ。利尻島も含めて北国の離島というのは行ってみたい場所の一つだ。樺太や北方領土が日本領内だった時代のロマンというものにも旅情を感じる。
南樺太が日本領だったらロシアかソ連と国境で接していた可能性があるというのは壮大で悠久なロマンがある。樺太や北方領土にも寂れた場末のバーや居酒屋があった可能性もあると思うとワクワクしてくる。
現実には北海道ですら利用者が減り無人駅が廃止されるので、樺太の開発など手が回らないか、もしくは資源でものすごく華やかに発展していたかのどちらかだろう。
行けない場所やもう存在しない場所だからこそ幻想は大きくなる。
自分の生涯でこのスポットに決めて巡るとするならば確かに離島も面白そうだが、港や港町、漁港にも興味がある。港の雰囲気自体が好きなことに加えて、港町にある海鮮料理やお寿司屋さん、そして居酒屋は情緒がある。青森県の大間町の津軽海峡の冬の雰囲気には旅情を感じずにはいられない。
田舎を巡りたいというのもあるし、寂れた場所を巡りたいというのもあるし、酒場や港にも興味がある。そう考えると港町を次から次へと旅していくと言うのは自分が求めているもの全てが揃うので面白そうだ。実際に何度か数か所港町を巡ったこともあるが、それらはすべて楽しかった思い出がある。京都の舞鶴などももう一度行ってみたい場所だ。
僻地や辺境といっては失礼なので「界の果て」という表現を使うならば、人は世界のどこかの果てに旅情を抱くのだろう。
冷戦時代にソ連が秘密都市にしていた場所や、中央アジアの小都市なども魅力がある。最近発展が目覚ましいカザフスタンのバーでウォッカでも飲めたら楽しそうだ。山奥や遠い港町、そして離島にも人々の息遣いや生活がある
だから人は自分が知らない場所を求めて旅に出るのかもしれない。
あたらしい離島旅行 わざわざ行きたいひみつの島 お気に入りの場所が1つあれば、旅は最高に楽しくなる。
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ドキュメント72時間の高田馬場ゲーセンの回が神回だった
「普通の人々」が面白い、そしてそこに温かみがあるという構成の番組をよくNHKは作るが、ドキュメント72時間はその中でも特に人気が高い。
芸能人でもない普通の人たちの何気ない生活や日常を取り上げる番組というのは魅力に富んでいて、見ていてとても落ち着く。現代の孤独な社会においては一人でゆっくり見れる番組というものにニーズが集まっているのだろう。
そんなドキュメント72時間が今回取り上げたのは東京の高田馬場にある伝説のゲームセンターだ。自分はゲーム自体が好きなことに加えてゲーマーの文化にも非常に強い関心がある。
スポーツにおいてもそのスポーツのファンが作り上げる文化が世界や地域によって異なっていて非常に面白いし、将棋や囲碁のようなジャンルにおいても独自の文化がある。人は昔から対戦が好きなのだ。そして現代のゲームにおいても近年はゲーム実況が流行ったり、インターネット上で様々な攻略情報が考察されたりしている。
ファン文化という形態そのものがもはや一つの関心の対象になって来ている。
そんな中で徐々に失われつつあるのがゲームセンターにある筐体(きょうたい)での対戦文化だ。
ネットに接続して対戦するというオンライン対戦が普及したことでローカルコミュニティにおける対戦文化というのは徐々に消滅しつつある。
アケコン、すなわちアーケードコントローラーでの対戦というのはゲーマーにとって一瞬の頂点たる憧れであり、その操作に憧れる者は多い。いわゆるパッドでの操作よりもアケコンでの操作を至上と考える価値観は根強い。自分自身その操作方法すらわからないので純粋に尊敬しているほどだ。
この高田馬場のゲーセンを取材した今回の放送内容は、昼間は寂れているが夜中には会社帰りの人々などで盛り上がったり、中には家族に出勤すると嘘をついてスーツでゲーセンに来る人がいたりするという中々濃い内容だった。
よくネットの掲示板で仕事をしていないがスーツで街に出ると社会人になった気になれるという話を見かけることが多いが、まさか実際に存在するというのは衝撃だった。
更に面白い登場人物として、実際にアメリカのEvolutionという大会で上位の成績を収めたことがある人や、この場所に通っているアメリカ人の格闘ゲーマー取り上げられていた。
自分がこの番組で見ていて思ったのが「今もリアルの世界には濃くて面白い人々がいる」ということだ。
ドキュメント72時間に登場する人々は実に多様性に富んでいてそこに生活感がある。とても個性があり人間性に魅力がある人々が多い。
最近何もかもがネット社会化し、インターネット上には普通の人しか存在しないのではないかと寂しく思う事がある。昔は面白くて濃い人たちが多いような気がしていたネットも、最近はごく普通の一般庶民で溢れているように感じることが多い。
しかし実はかつてネットユーザーが見限ったはずの「リアル」にこそ面白い人たちがいる、そういったアナログ再評価の傾向にあるのではないかと自分は考えている。
例えばネットゲームで1か月ログインしなくても、ネット上のゲーム仲間は誰も気づいてくれないし、久しぶりに参加しても「久しぶり、何してたの?」と一言声をかけてくれることは無い。
ネット上の関係というのは一見すると繋がっているように見えるが、実際は個人として気にかけているわけではなく、お互いに表面上の付き合いの他人でしかないことが多い。
しかし常連の喫茶店や居酒屋、温泉などでよく話す人や店員の人は1週間立ち寄らなかったら「久しぶり、大丈夫だった?」と声をかけてくれるのだ。
今回の高田馬場のゲーセンの回でも、よく対戦する常連客と仲良くなっていたり相手のことを個人として信頼していたりという濃厚な文化があることが伝わってきた。
ネット社会になっているからこそこういったアナログのローカル空間の温かみが再評価されるのではないかと最近考えることが多い。ネットの人間関係は本当に儚い物で、いろいろなものが上辺の関係や社交辞令だけで済まされる時代になっている。
結局は他人ということの虚しさに気付いた人々が今アナログのローカルコミュニティに居場所を求め始める時代が到来しようとしている。
インターネットは全国、全世界の人々と繋がれるように見えて実際はほとんど上辺でありお互い他人に関心が無い冷淡な社会だ。互いに疎遠になればもう二度とその関係が修復されることは無いどころか、もはや相手の存在をもう一度知る事すら不可能なことがある。
理想の空間であるように思えたネットのバーチャル社会は実はとても冷淡で何も存在しない、結局行き着く先はこういったアナログ社会なのだ。
例えばゲームセンターで対戦する相手に負けた時、オンライン対戦ならば負けたときに「何ゲームにマジになっちゃってんの」と虚しくなってしまうが、リアルに面と向かって対戦する相手ならば「この人は越えなければならないライバルであり師匠」と尊敬することができる。
ネット上の冷淡な関係ならばただの非情な対戦相手に過ぎないが、現実では人間味のある存在に感じられる。
この高田馬場ゲーセンに通っているアメリカ人ゲーマーも「最近はモバゲーやソシャゲのようなゲームがあるけれども、1人でスマホに向かってやるのは寂しいじゃないですか。こういったゲームセンターの文化を守りたい。」という趣旨のことを語っていた。
これがまさに話の本質であり、ただひたすら数値上の上位だけを目指す現代のゲーム文化にそろそろ疑問を投げかける時が来たのかもしれない。
この高田馬場のゲームセンターでは毎晩、格ゲーの大会が即席で行われているらしいがそういったローカルの大会で盛り上がる方が、実際はオンライン対戦で上位を極めるよりも楽しいのではないだろうか。気の知れた身内内での大会で優勝したときの喜びは、ネットの高ランキングに達すること以上に喜びがあるだろう。
名前も知らないが同じゲーセンに10年通い続けてるので何となく知っているししばらく来なかったら心配になる、そういう暖かい人間関係がこの空間には存在する。
昔のゲームの対戦仲間と言えば兄弟や学校のクラスメイトであった。
ゲームではなくとも例えば将棋道場ならば近所のお爺ちゃんだったし、昔のゲームセンターであれば不良のたまり場として不良仲間で対戦し合っていた。
そういった身近な強者に挑んでいた頃の方が、果てしなく途方もないオンラインの世界より実は充実感があったのではないか。
そのゲームセンターでは「ギルティギアというタイトルをしている人は同じ部活動をしている人のような感覚」と語っている女性ゲーマーも登場していたが、そういった部活的な雰囲気という物もあるのかもしれない。
将棋だってその道場に通う中で一番強い人はいざネットに参戦すれば、それほど強くは無く中級者の中の上位だと気付くだろう。しかし現実で面と向かえばまるで歴戦の老将のように感じられる。
オンライン対戦でただ数値上で強いだけに見える人も、その人にはこれまでの人生があり、この競技やゲームのために様々な努力をしてきたということが推測できる。
自分を倒した相手にもそれまでのゲーマーとしての人生があり、その人にも個性があるということが現実の空間には存在する。
いずれゲームにおける人間らしい動きというものはAIに代替されるようになっていくだろう。
しかし人間の温かみまではAIには再現できない。
もし今後ゲームセンターやローカルのゲーム大会に生き残る道があるならば、それは1人の個人としての温かみにあるのかもしれない。
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ワールドカップをスポーツバーで観戦してみたい
今年2018年の自分の中での最大のイベントは夏にロシアで開催されるFIFAワールドカップである。世間ではまだワールドカップムードにはなっていないが、一足早く既に盛り上がっている。
むしろ今年の楽しみは全てここに懸っているといっても過言ではないぐらいモチベーションは高い。
今からどう観戦しようかと計画を立てているほどだ。
まず本当はこのロシアW杯は元々現地観戦する予定でいた。そのためにロシア語を勉強していた時期もあるぐらいに本気でロシアに行こうとしていた。
そこから紆余曲折を経てこの計画は事実上不可能となり、国内観戦に切り替えることになる。現地観戦はロシアの次の2022年カタールワールドカップに出来たら良いぐらいに思っていて、とりあえず今年は国内で観戦する予定だ。
しかし自宅で見るだけなのも味気なくワールドカップ感がないのと、4年前のブラジルの時も同じことをしていたので今年は別の観戦方法を取ってみたい。
そこで思い付いたのがスポーツバーでの観戦だ。
純粋に居酒屋や酒場に行きたいというのもあるし、誰かとサッカー観戦する楽しさも味わえる。
そこで地元で調べてみたところスポーツバー自体の数が少ない上にサッカーを取り扱っているかもわからなく、あったとしてもかなり遠い場所にあるということがわかった。
近場に居酒屋やバー自体はあるものの、スポーツバーのようなしゃれた感じではない。
無いとは思っていたがやはり存在しないようだ。
ロシアでの開催となるとおそらく夜中の放送が多くなるため、交通手段も存在しなかったり深夜営業までしているところも田舎では少なかったりする。
自動車社会の地方ではお酒を飲むことが前提の移動はしにくいのが現実だ。
タクシー代を払ってまでスポーツバーで飲むとなると一試合の観戦につきどれくらいかかるのかというのは考えたくもない。
ただ単に自宅でテレビ観戦するよりは思い出に残るが、結局は一人でテレビ観戦しネットを見ることが最適解になってしまう。つまり自分は4年前のブラジルW杯の時とまるで何も変わっていないどころか、むしろ悪化している。
今年もブラジルの時同様、バルサ避難所を見て過ごすか、ツイッターでアカウントは作らなくても今見ている人いるのかと調べるかが現実的だ。
フットサルサークルにでも入ってサッカー仲間がいれば一緒にワイワイできるが、サッカーにそこまで興味が無い上にお互い実家暮らしの友人だと夜中に出かけて行って観戦するというのも難しい。4年前の時は一応サッカー仲間がいたが、住む場所も変わり現実でサッカー仲間はいない。
日本国内でも選手の地元地域ならば観戦イベントはやっているかもしれないが、日本代表の試合が夜中だとすればなかなか難しそうではある。
Jリーグの地元チームの現地観戦に行けばそういう仲間も見つかるかもしれない。
J1ではなく下部リーグなので牧歌的な雰囲気で応援しに来ている人は中々個性的で友達になったら面白そうだが、こちらもいかんせん遠いので足が伸びない。
サッカーに熱い国はサッカーのために仕事辞めたり、ヨーロッパの場合はそもそもバカンスシーズンに入ってることも多かったりするので観戦仲間は集めやすい。
この一か月間、仕事も学校も行かずサッカー観戦に没頭しますという層は中々日本には存在しない。
皆でバルでお酒飲みながらサッカーを見るという文化はあまり日本では根付いておらず、こういうところは「阪神ファンやカープファンが集う居酒屋」のようなものがある野球が羨ましい。
若者やリア充の集まるスポットではなく、スポーツファンのおやじが集まるような緩い雰囲気の居酒屋があればよいのだが少なくとも自分の地域には存在しなさそうだ。
結局こういった楽しみ方は都会民である上に経済的な余裕がある層にしかできない。次のワールドカップぐらいまでにはそういう生活ができていたら理想なので、今回は仕方なくまた自宅観戦になりそうだ。
そもそもネットを見ながら観戦するのも十分楽しく、更に自宅ならば試合を録画できるというメリットもある。自分はサッカーの試合を録画して分析したり、早送りで見たりすることも好きなので過ごし慣れた部屋がやはり一番になる。
部屋でだらだら飲み食いしながらじっくり観戦するのも悪くは無い。
その代り飲むお酒とおつまみの質は高めたい。
自分はスペイン代表を応援しているのでスペイン産ワインとスペイン産の缶詰を用意して観戦すれば少しはその気になれそうだ。
都会だったらスペイン料理やスペインバルのようなところがあり、そこにスペイン人が来ているかもしれないしお店としても特別なイベントを用意してくれそうではある。もう一つ応援しているのがアルゼンチン代表だが、日本でさすがにアルゼンチン料理屋は限られているだろう。
こういう時日本で人気なイングランド代表やイタリア代表のファンやサポーターは仲間が見つけられそうで楽しそうだ。もっとも今回予選敗退したイタリア代表は出場しないが笑
スペイン人やアルゼンチン人の彼女や友達でもいたらこういう時楽しいんだろうなぁという思いもある。スペイン人以前に田舎なのでそもそも外国人がおらず、自分の身の回りでワールドカップムードを体験することはなさそうだ。
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頼みの綱はネットがどこまで盛り上がるかだ。
おそらく日本代表はグループリーグ敗退が濃厚なので、南アフリカW杯やリオ五輪の時のような日本選手団の活躍で盛り上がるという事は期待できない。
メッシやネイマールのような日本で有名な選手がどこまで活躍できるかに懸っている。ポルトガル代表は今強いのでクリスティアーノ・ロナウドが覚醒さえすれば盛り上がる可能性もある。
本田圭佑が出場するかも日本代表の関心を左右するだろう。ハリルホジッチ監督が選んでくれるか、それとも何らかのサプライズ選考があるのか。南アフリカの時の本田のようにスターになる若手選手が出てくれば良いが、個人的に好きな柴崎岳はそもそも選ばれそうにない。
本田圭佑の応援というのも個人的には大きなモチベーションになっているので、5月の本戦メンバー発表を待ちたい。
そして2022年のカタール現地観戦の計画だが唯一の不安要素としてイスラム圏はアルコールの規制が厳しいという事情がある。カタールはイスラム圏の中では緩い方だがスタジアム内でのアルコール類が禁止されるという話もある。
そう考えると近場で同じアジアの海外に行ってそこで飲むというのもありかもしれない。
例えば中国や東南アジアは海外サッカー熱が高いので、旅行を兼ねた非日常感を味わいに1か月間滞在するというのも面白そうだ。グループリーグは東南アジアで見て、決勝トーナメントからは中国のスポーツバーで見るという計画は壮大で楽しみになってくる。
とりあえず遠い先の事はともかく、今年は現状の環境で工夫して自宅でどれだけ満足のいくワールドカップ観戦ができるかに注力したい。
思っている以上に時間が無い、ワールドカップはもうすぐそこだ。