負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ドキュメント72時間の高田馬場ゲーセンの回が神回だった

「普通の人々」が面白い、そしてそこに温かみがあるという構成の番組をよくNHKは作るが、ドキュメント72時間はその中でも特に人気が高い。

芸能人でもない普通の人たちの何気ない生活や日常を取り上げる番組というのは魅力に富んでいて、見ていてとても落ち着く。現代の孤独な社会においては一人でゆっくり見れる番組というものにニーズが集まっているのだろう。

 

そんなドキュメント72時間が今回取り上げたのは東京の高田馬場にある伝説のゲームセンターだ。自分はゲーム自体が好きなことに加えてゲーマーの文化にも非常に強い関心がある。

スポーツにおいてもそのスポーツのファンが作り上げる文化が世界や地域によって異なっていて非常に面白いし、将棋や囲碁のようなジャンルにおいても独自の文化がある。人は昔から対戦が好きなのだ。そして現代のゲームにおいても近年はゲーム実況が流行ったり、インターネット上で様々な攻略情報が考察されたりしている。

ファン文化という形態そのものがもはや一つの関心の対象になって来ている。

 

そんな中で徐々に失われつつあるのがゲームセンターにある筐体(きょうたい)での対戦文化だ。

ネットに接続して対戦するというオンライン対戦が普及したことでローカルコミュニティにおける対戦文化というのは徐々に消滅しつつある。

アケコン、すなわちアーケードコントローラーでの対戦というのはゲーマーにとって一瞬の頂点たる憧れであり、その操作に憧れる者は多い。いわゆるパッドでの操作よりもアケコンでの操作を至上と考える価値観は根強い。自分自身その操作方法すらわからないので純粋に尊敬しているほどだ。

 

この高田馬場のゲーセンを取材した今回の放送内容は、昼間は寂れているが夜中には会社帰りの人々などで盛り上がったり、中には家族に出勤すると嘘をついてスーツでゲーセンに来る人がいたりするという中々濃い内容だった。

よくネットの掲示板で仕事をしていないがスーツで街に出ると社会人になった気になれるという話を見かけることが多いが、まさか実際に存在するというのは衝撃だった。

更に面白い登場人物として、実際にアメリカのEvolutionという大会で上位の成績を収めたことがある人や、この場所に通っているアメリカ人の格闘ゲーマー取り上げられていた。

 

自分がこの番組で見ていて思ったのが「今もリアルの世界には濃くて面白い人々がいる」ということだ。

ドキュメント72時間に登場する人々は実に多様性に富んでいてそこに生活感がある。とても個性があり人間性に魅力がある人々が多い。

最近何もかもがネット社会化し、インターネット上には普通の人しか存在しないのではないかと寂しく思う事がある。昔は面白くて濃い人たちが多いような気がしていたネットも、最近はごく普通の一般庶民で溢れているように感じることが多い。

 

しかし実はかつてネットユーザーが見限ったはずの「リアル」にこそ面白い人たちがいる、そういったアナログ再評価の傾向にあるのではないかと自分は考えている。

 

例えばネットゲームで1か月ログインしなくても、ネット上のゲーム仲間は誰も気づいてくれないし、久しぶりに参加しても「久しぶり、何してたの?」と一言声をかけてくれることは無い。

ネット上の関係というのは一見すると繋がっているように見えるが、実際は個人として気にかけているわけではなく、お互いに表面上の付き合いの他人でしかないことが多い。

しかし常連の喫茶店や居酒屋、温泉などでよく話す人や店員の人は1週間立ち寄らなかったら「久しぶり、大丈夫だった?」と声をかけてくれるのだ。

 

今回の高田馬場のゲーセンの回でも、よく対戦する常連客と仲良くなっていたり相手のことを個人として信頼していたりという濃厚な文化があることが伝わってきた。

ネット社会になっているからこそこういったアナログのローカル空間の温かみが再評価されるのではないかと最近考えることが多い。ネットの人間関係は本当に儚い物で、いろいろなものが上辺の関係や社交辞令だけで済まされる時代になっている。

結局は他人ということの虚しさに気付いた人々が今アナログのローカルコミュニティに居場所を求め始める時代が到来しようとしている。

 

インターネットは全国、全世界の人々と繋がれるように見えて実際はほとんど上辺でありお互い他人に関心が無い冷淡な社会だ。互いに疎遠になればもう二度とその関係が修復されることは無いどころか、もはや相手の存在をもう一度知る事すら不可能なことがある。

 

理想の空間であるように思えたネットのバーチャル社会は実はとても冷淡で何も存在しない、結局行き着く先はこういったアナログ社会なのだ。

例えばゲームセンターで対戦する相手に負けた時、オンライン対戦ならば負けたときに「何ゲームにマジになっちゃってんの」と虚しくなってしまうが、リアルに面と向かって対戦する相手ならば「この人は越えなければならないライバルであり師匠」と尊敬することができる。

 

ネット上の冷淡な関係ならばただの非情な対戦相手に過ぎないが、現実では人間味のある存在に感じられる。

この高田馬場ゲーセンに通っているアメリカ人ゲーマーも「最近はモバゲーやソシャゲのようなゲームがあるけれども、1人でスマホに向かってやるのは寂しいじゃないですか。こういったゲームセンターの文化を守りたい。」という趣旨のことを語っていた。

これがまさに話の本質であり、ただひたすら数値上の上位だけを目指す現代のゲーム文化にそろそろ疑問を投げかける時が来たのかもしれない。

 

この高田馬場のゲームセンターでは毎晩、格ゲーの大会が即席で行われているらしいがそういったローカルの大会で盛り上がる方が、実際はオンライン対戦で上位を極めるよりも楽しいのではないだろうか。気の知れた身内内での大会で優勝したときの喜びは、ネットの高ランキングに達すること以上に喜びがあるだろう。

 

名前も知らないが同じゲーセンに10年通い続けてるので何となく知っているししばらく来なかったら心配になる、そういう暖かい人間関係がこの空間には存在する。

 

昔のゲームの対戦仲間と言えば兄弟や学校のクラスメイトであった。

ゲームではなくとも例えば将棋道場ならば近所のお爺ちゃんだったし、昔のゲームセンターであれば不良のたまり場として不良仲間で対戦し合っていた。

そういった身近な強者に挑んでいた頃の方が、果てしなく途方もないオンラインの世界より実は充実感があったのではないか。

そのゲームセンターでは「ギルティギアというタイトルをしている人は同じ部活動をしている人のような感覚」と語っている女性ゲーマーも登場していたが、そういった部活的な雰囲気という物もあるのかもしれない。

 

将棋だってその道場に通う中で一番強い人はいざネットに参戦すれば、それほど強くは無く中級者の中の上位だと気付くだろう。しかし現実で面と向かえばまるで歴戦の老将のように感じられる。

オンライン対戦でただ数値上で強いだけに見える人も、その人にはこれまでの人生があり、この競技やゲームのために様々な努力をしてきたということが推測できる。

自分を倒した相手にもそれまでのゲーマーとしての人生があり、その人にも個性があるということが現実の空間には存在する。

いずれゲームにおける人間らしい動きというものはAIに代替されるようになっていくだろう。

しかし人間の温かみまではAIには再現できない。

もし今後ゲームセンターやローカルのゲーム大会に生き残る道があるならば、それは1人の個人としての温かみにあるのかもしれない。

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