負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ最近のお正月は"正月感"が無いのか

お正月をエンジョイできているリア充と、そうでない非リア充がいるならば自分は後者になる。どうもあまりお正月だという実感がわかず、当たり前だが年が変わる事にそこまで意味がないことに気付かされる。

 

カレンダーの暦が変わるだけでしかなく、何かが去年と今年で革命的に変化するわけではない。世の中に劇的な出来事でも起こるのではないか、自分の人生が大きく変わるのではないかという期待は虚しくも泡沫のように消える。

 

正確に言えば変わる物ではなく、"変えていく物"なのだろうが特にやる気やモチベーションが新年になったからと言って湧くわけでもない。

情熱があった頃の自分は新年が始まったら気合を入れていたが、実はその時から3日しか続かなかった人間である。

「今年は毎日勉強しよう」という目標を立てるが、既に元日から何もしないタイプの人間だ。

 

またお正月特有のイベントも自分には無縁なのであまり楽しいという実感がわかない。

子供の時や学生時代ならばお年玉も貰えて、「さて、おもちゃ屋さんが開いたら買に行こう」と思えたがそんなことは大人になれば無縁になる。本来ならば自分がお年玉をあげる側になるのだが、独身であるのでそんなことも無い。

 

お年玉に関して言えば親戚の子に上げるというパターンもあるが、人間関係が希薄な昨今においてあまりそういう事も無い。むしろ上げるつもりなど無いし、上げる物も無い、自分が欲しいくらいだ。

 

また最近物欲が減衰し何か手に入れたいものが無いというのもこの虚しさに拍車をかけている。底辺の貧困層はその状況が続きすぎると、もはや何かが欲しいという感情すらなくなっていく。

カイジの遠藤理論で言えば「バスケットゴールが100m上空にあれば誰も投げようとしなくなる」という話であり、欲しい物が買えない状態が続くともはや興味も無くなっていく。一度底辺の貧困層に落ちぶれれば何かへの欲望さえも無くなっていく、だからこそ何もない新年が楽しくないのだ。

 

本当に虚しく情けないが、本来ならばこういう空白は恋人と過ごせば何の問題も無いのである。むしろ自分の年齢で言えば恋人と過ごしてリア充真っ盛りになっておかなければならないが、それができていれば特に苦労はしない。

 

ただそれでもお正月のテレビ特番などがあるが、自分はめっきりお正月にテレビを見て過ごすということが減った。元々箱根駅伝は見ないようなタイプだし、最近は高校サッカー選手権や天皇杯を見る情熱も無くしている。セレッソ大阪が優勝したというのをネットニュースで知っただけだ。

格付けチェックも見た人の感想をネットで見るぐらいでお正月特有の番組を見る労力は無くなってしまった。

何かを手に入れて楽しめるわけでもない、誰かと過ごして楽しめるわけでもない、自分にとって楽しいことがあるわけでもない、だからお正月感を実感できないという構造がここにはある。

世の中の人は楽しそうにしているのに自分はつまらないどん底にいる、だからこそ尚更虚しく感じる。劣悪な精神状態に陥ると、それまで楽しかったことが楽しく感じられるようになり何もかもが、そしてついには生きることそのものが面倒に感じる。

 

それでも大晦日は歌番組を見て過ごしたが、正直その時が楽しさのピークだった。

それが終わってしまっていざ新年が始まるとどっと現実が押し寄せてくるような虚無感に襲われる。やはり当たり前だがそれは暦という概念がただ変わるだけでしかない。

新年になって別人になるわけでもなく、相変わらず去年と同じ現実がある。

 

仮にドッキリ企画で世間から隔離された空間に何人かを移住させて、徐々に暦を変えていく企画をすれば誰も気づかないだろう。人間は日付の感覚をどこで分からなくなるかという企画があるならば、大抵の人は新年が変わる日のことを気付かない。

 

去年は散々だったから今年は"復興"の年にしていこう目標を掲げることはできる。

毎年今年こそ良い年にしようと意気込むが結局去年より酷い状況になることが続き、終いにはもうそんなことすら思わなくなった。

しかしそれで諦めていても、現実は続くのである。

 

例えば自分ならあまりにもお酒を飲みすぎているライフスタイルをそろそろ改めなければならない。昨晩の散々飲んで今日は朝から押し寄せる現実感が虚しくてたまらない。

 

新年の目標があるならば、もう一つ言語の習得にも本気を出したい。

かなり強いモチベーションを持てる外国語を見つけたので、1年で通訳なしで旅行に行けるぐらいに進歩するのが理想だ。モチベーションがある時は1年でも言語は習得できるが、逆にモチベーションが無い時は何年経ってもしゃべることができない。

 

それで言うのならば来年のお正月は海外で過ごしたい。

自分は日本特有のお正月の雰囲気が好きで、年末をハワイで過ごす人のことが理解できなかった。

しかし「非日常の異空間」という意味では海外で過ごすのもありかなと思うようになった。年末は台湾、新年は韓国というパターンで分けて過ごすのも面白そうだ。結局遠足は前日までが楽しいことや、ゲームは買うまでが楽しいのと一緒で旅行も計画を立てているときが一番面白い。

 

更に正月ではなく旧正月を中国で過ごすというプランも面白そうである。

中国は西暦の正月ではなく日本で言えば2月ごろにある旧正月を大事にすると聞く。中国人は旧正月を祝う事を本当に大事にしているらしく、そこで過ごすのならばお正月を2度楽しめて楽しいのではないか。正直日本で1番イベント感が無いのは誰も節分など興味ない2月なので、中国で代替するというのは一つの計画に入れたい。

 

しかし海外で何日も過ごすというのは経済的に大変な事でもある上に、昂揚感はあるが逆に落ち着かない可能性もある。

非日常感を求めながらも、落ち着く日常を求める複雑な心理があるのだ。

それならば素直に親戚の家で過ごすというのもいいかもしれない。数年前に辺境の山奥にある親戚の家で過ごしたことがあるのだが、今ととなってはそれが良い思い出となっている。

また家族が住む場所を変えたらしいので来年はそこで過ごしてみるのも計画の一つにしたい。

 

なぜお正月の番組を見る気分にならないかというと結局そういうお正月SPは一人で見るには長すぎるからだろう。特番というのは誰かと過ごしながらワイワイ過ごすから楽しく感じるのである。

近年はそれをSNSで共有して楽しむというライフスタイルもあるが、自分はどちらかというと旅行記を投稿している人の物を見ることが多い。

来年は自分が旅行記を投稿する側になれれば一つの夢が叶う事になる。

 

あるいは何かのイベントに参加するかお店で過ごすかというのも一つの選択肢にはいる。

自分が好きなアイドルのコンサートに行くことや、スポーツの試合を観戦しに行く事も楽しみの一つだろう。またはお酒が好きならば居酒屋やバーで過ごすことも、そこに来ている常連客の仲間との楽しみになる。

余り自分はイベントに参加するタイプではないが、例えば毎年コミケに行ってる人は漫画が欲しいと言うよりもその雰囲気を味わう恒例行事として行っているタイプの人が多いはずだ。

創作活動を頑張って自分がコミケに出店する側になるというのも夢の一つではあるが、それはあまりにも非現実的すぎる。成り上がるとか革命を起こすとか世界を変えるとか、そんな大層なことは考えずに一般庶民として現実的な目標を持つことの方が大事だ。

 

居酒屋で過ごすという目標であれば、それは海外旅行と組み合わせてもいいかもしれない。韓国や台湾の酒場的雰囲気の場所で一杯交わして現地の人々と片言の外国語で話すのもよいし、スペインのスポーツバーに行ってFCバルセロナの試合を観戦するというのも少なくとも革命や文学賞受賞に比べれば現実的だ。

よく年越番組で寝台列車で年末年始を過ごす光景を見かけるが、そのアイデアも面白そうだ。シベリア鉄道がこのシーズンも運行しているならば目標になる。

 

今年1年を無理にでもポジティブに妄想すれば少しは気分が上向いてくる。

子供にとっての遠足の待ち遠しさはは大人にとっての一人旅への旅情になる。

結局自分が子供ではなくなり刺激を感じなくなったという話で、大人になればいろんなことに新鮮味が無くなりつまらなくなる。それならば新しいことをしなければならないわけであり、それは旅行なのかもしれない。

 

オタクにとっての"約束の地"はコミケであり、サッカーファンにとっての約束の地は天皇杯であり、天理教徒にとってはそれが奈良県天理市へのお参りなのだろう。

皇室ファンにとっては天皇陛下の新年祝賀を聞きに行くこと、駅伝ファンにとっては箱根駅伝を見に行く事もお正月感を得る行事の一つになっている。

自分は今年の初日の出の時は前日に飲みすぎてうなだれていたので見れなかったが、初日の出を見るために山に登る人もある種の信仰の一つだ。

 

自分も何か毎年行くような場所を作って、その"聖地巡礼"のために1年を頑張って過ごすようにしていけばこの虚無感は無くなるのだろうか。

何かを熱心に追いかけているときや思いを馳せているときというのは楽しい。

 

今年のお正月はまるで買うまでがゲームは一番楽しい理論のように、新年を楽しみにしている大晦日とその雰囲気が続いている12時以降がピークだった。

アイドルの歌番組を見て、その後アイドルの動画配信サイトにコメントを書きまくるという頭のおかしいことをしていたがこれが結構楽しかった。

逆にリアルタイムでこれ見てる人達何なんだよと思いながらも自分もそこに混じっている一体感は中々面白かった。

しかし逆にそれが楽しすぎたがゆえに始まった新年の現実感に打ちひしがれている。

 

楽しすぎた大晦日からの何もない新年、このギャップが虚無感の真の正体なのかもしれない。

しかし人間誰しも時として変なテンションになる時が必要なのである。

まるで海外旅行に行ったときは非日常の昂揚感で性格が変わる人がいるように、自分の場合海外の異性アイドルに変なテンションになれることに気付いた。

コミケに行くオタクのように、正月シーズンにコンサートをしている海外アイドルを見に行くというオタ活も面白そうだ。

宗教にはまってる人達楽しい論でいけば一度キリスト教会のクリスマスイベントに参加したときはなんだかんだで楽しかったし、律儀にエホバの教会に年末も集まってる人たちを見かけたときは「居場所」があることとの重要性を感じた。

 

そういった熱くなれる習慣が今の自分にはないからこそ心に空白が生じる。

そのためには実際に新年に楽しいことがあるという状態を作れなければならない。

今年はその何かを探すための1年にしていきたいと思う。