負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

日本人っていつまで原爆ビジネスやり続けるんだろうな

毎年終戦の季節になって思うのが「いい加減日本の夏って陰気すぎないか?」という事だ。

いつまでも、うじうじと敗戦のことを暗いトーンで語りづつけ毎年日本人総動員の「戦争反省会」が始まる。おそらく1945年よりも前の日本の夏はこんな季節ではなかったはずだ。しかしあの敗戦から日本の風物詩に「敗戦」が加わることになる。

空襲、沖縄戦、広島と長崎に落とされた原爆、特攻作戦、そして玉音放送、もはや様式美だ。

火垂るの墓を見て泣いたアピールをするのが日本人にとっての夏だ。

 

「歴史の悲劇を語り継いで同じことを繰り返さないようにしよう」という考え方自体は素晴らしいのだが、日本人は具体的な検証をする事は後回しにして様式美の悲劇に涙して反省した気になっているように思えてくる。

 

日本人は感動が好きだと言われるが、戦争に関しては悲劇を語り悲しい気分になること自体が目的化しているように思える。そしてその悲劇的なムードを内心楽しんですらいるのではないか。

泣ける映画を求める人のように、泣ける戦争を太平洋戦争に求めているのが日本人だ。

 

最近SNSなどで「泣いたアピール」が増えていると言われているが、日本人はどこかで情緒的になることを求めているのかもしれない。そして戦争の悲劇を語ることも実際は悲しいムードになること自体が楽しみになっており、平和を実現しようという大義名分に酔っているだけにしか見えない。

原爆

特に原子爆弾については毎年同じで、相変わらずこの季節になると「犠牲者に哀悼の意を捧げましょう」というトーンで語られる。しかし実際のところ大部分の日本人にとっては他人事であり、「哀悼を捧げている自分」が好きでしかないのだ。

核兵器のことなど現代日本人にはイメージできないことであり、なんとなく哀悼ムードになっているから従っているだけでしかない。

 

また疑問に思うのが原爆が落とされたのは広島と長崎の両方だが、なぜ広島ばかり取りざたされるのかは疑問だ。

多少穿った見方なのかもしれないが広島は原爆ビジネスを上手く確立し、長崎はその利権にあやかることができなかったかのように見える。

情緒的に原爆について騒ぎ立てる姿はどうも「平和ビジネス」のように思えてならない。当の広島県民でさえいい加減鬱陶しいと思っており、宗教的な教育にはうんざりしているのではないだろうか。

 

国民総動員の反省会が繰り広げられる陰気な夏はいつまで続くのだろうか。

逆に言えば戦勝国にとっては夏と言えば誇らしく楽しい季節なのである。結局戦争に負ければその末代まで恥となり、それは敗戦国の人間にとって原罪なのだ。

一度負ければすべてが否定され、異論は許されない。別の方向を向いただけで世界はまだ全体主義が根付いている。

「とにかく戦争と日本は悪かった、絶対に異論をはさむな」というのがこの国の教育だ。

反省ムードを強制することもまた全体主義なのではないか、いい加減陰気な夏はもう終わりにしても良いのではないか。反戦を叫ぶ人々も本当は平和のことなどどうでもよく、ただ単に綺麗ごとを叫んでいる自分が好きなだけでしかない。

 

少なくとも現在の日本の夏は本当に平和を祈る季節ではなく、ただ反省ムードを煽り立てたいだけのものでしかない。

日本の場合、敗戦の歴史が少ないためここまでヒステリックになっているがほとんどの国が敗戦や占領の歴史を当たり前に経験している。一つの戦争や悲劇をここまで大袈裟に考える国はそれほど多くは存在しない。

 

しかもその実態は「悲劇」に涙をする"涙活"になっているのだから本質とはかけ離れている。戦争の話を聞いて涙を流し、犠牲者に共感した気になることが目的化しており、もはや「敗戦」というものが一つのコンテンツにすらなっている。

敗戦ビジネス、原爆ビジネスが蔓延しており時に政治利用すらされている。

具体的な検証や論理的な考察はほとんどされず、ただ情緒的に戦争は悪かったと煽り立て「悲劇」への共感が陰気なムードの中で強いられる。

この国の人々は自分たちに関係する感動や悲劇で泣きたいだけでしかないのだ。

そんな夏を日本は何十年も繰り返してきた。

本当に戦争の悲劇を繰り返さないように願っているならまだしも、単にお決まりの様式美で涙を流すことが目的の"慣習"には付き合ってられない。

日本人はあと何度この陰気な季節を迎えればよいのだろうか。