宗教は孤独を癒す居場所としての効果がある
自分は典型的な日本人にありがちな無宗教という名の多宗教であり、とりわけ何かを熱心に信仰しているというわけではない。
強いて言うならばサッカーのFCバルセロナを宗教感覚で応援して神道の世界観が好きなぐらいぐらいで、熱心な仏教徒でもなければキリスト教徒でもなく、新興宗教にも傾倒していない。
更に宗教に熱心な人に対して少し偏見を持っているタイプでもあり、同じ学校にエホバや創価の人がいたら少し身構えてしまう感覚が無いと言えば嘘になる。
無宗教と言いながらクリスマスや除夜の鐘、お正月などを楽しみ、新興宗教はちょっと怖いなという目で見るような典型的なパターンの一人だ。
ただその認識が変わったのは自分がキリスト教の教会に誘われていったときのことである。面白そうな季節のイベントがあるということで、正直「飯目的」で教会に誘われて自分は行って、暇なとき何回か週末通ったことがある。
知り合いの付き合いと興味本位と飯目的で行ったというのが実情で、今も決してキリスト教徒でもなんでもないが「楽しかったな」とは今になって思う。
思ってたのと違ったというか、普通に良い人たちだと思ったし人間としては面白い人が多かった。
今自分がいろんな人と疎遠になったり外出機会も減って事実上引きこもりに近い状態になると人が多い場所が恋しいという感覚にも陥る。
讃美歌を歌ったり、聖書を朗読したり、神父が面白い話をしたり楽しい空間ではあった。しかもその神父も実は元々飯目的で教会に参加したということが始まりらしい。
当時の自分は国家神道の復古と、戦前の天皇制を理想としていたためキリスト教の競技には批判的だったが空間やコミュニティとしての観点で見た場合には非常に楽しかったことを覚えている。
おそらくそういった教会に通っている人の中には「居場所」を求めている人が多いのではないかというぐらいに、温かみはあった。
よく新興宗教のドキュメントや報道などを見て、孤独な若者が居場所を求めて集まっているというようなことが言われているがその感情が凄くわかるようになった。
また新興宗教に対する偏見も奈良県の天理市を訪れたことで変わるようになる。
興味本位で自分は日本最大級の宗教都市である天理市に2回ほど行ったことがあり、今になってその場所が懐かしく思う自分がいる。
「ようこそおかえり」という言葉が掲げられており、信者だったら総本山に参拝に来た時嬉しいだろうなと思うしイスラム教徒がメッカに行くような感覚なんだろうなとも思った。
信者は法被を着ていることが多く、外国人の場合国籍が書いてあるのだが地球の裏側のブラジルからも来ていて驚いたし、駅について早々呪文を唱えているような人もいて異様な空間ではあった。
ただその怪しい雰囲気がだんだんと心地よくなり、また行きたいなと思っている自分もいる。
これもきっと「居場所」を求める感覚の一つで、寂しい人間は宗教に行くと癒されるというのも分かる。
オウム真理教の後継団体「アレフ」に最近若者が集まっているらしく、実際20代でアレフに入った人は人生に行き詰まり「洗脳されてもいいや」という感覚で現実から逃げるように入信したと語っていた。
もう一つの「ひかりの環」は信者同士で集まって、年に数回神社巡りをするらしいがそれも楽しそうだなとは感じた。
そう言うのを見ると孤独で発狂しそうになったときは最後の手段として宗教の場に飛び込むのもありかなと考え始めている自分もいる。
向こうはビジネスで信者を増やしたいだけかもしれなくても、そんな自分を必要として歓迎してくれる人がいたら嬉しくなるのも分かる。
そして似たような信者同士で仲間意識を持つというのも孤独を紛らわすことには役立つのだろう。
流石に今の所そこまで追い込まれていないが頼る場所が無くなり追い込まれたときは逃げるようにして宗教に洗脳されに行く人もいるのは事実だ。
それだけ社会が閉塞感に満ちているという事でもあるし、信者を責めることはできない、そして本人たちは楽しいのも事実だろう。
実際自分が言ったプロテスタントの教会でも同世代がいて、話が合ったりしてその辺の奴とは違う感覚があったし人間としてはまた話したいなと思う自分もいる。他にもいろいろ気さくに話してくれる人がいたり、みんな仲良さそうで独自の空間があった。
そう言うのを新しい信者を騙そうとしているみたいな偏見で見ていた自分もいたが、集まってるのは自分と同じような人たちというか、それぞれ居場所を求めにやってきているような人が多かった。
もう今はその地域にいないため、行く事もないのだが懐かしいなとは思う。
宗教というのは結局のところそういうコミュニティが目的で、人間というのはそういう人が集まる場所が好きなのかもしれない。
行きつけの居酒屋や喫茶店と一緒だったり、友達感覚の親近感重視のユーチューバー動画見たりとか、本質を辿れば全部似ているようにも思う。
「あの教会楽しかったな、あの街面白かったな、あの店また行きたいな、あのサイト面白いよな」という感情は自分の中では全部似たような近い物があることに気付いた。
遥か遠い昔はお寺が地域の人々の集まりで、気軽に困ったときに行くような場所だったと聞くがそういう寄合所というのは人間は必要としているのかもしれない。
オタク文化がそれを代替している時代もあったり今でもアーティストのコンサートなどは来ている客全員濃いみたいなこともあったりする。
地下アイドルのイベントに何で行っているのかと疑問にも思うが、ファンの人たちはその空間が絶対楽しいと思っているだろう。
ももクロはテレビで全盛期に比べて見なくなったが、現場のイベントはかなり盛り上がると聞く。宗教も結局そういうリピーター文化、コミュニティや空間の居心地の良さを本人が感じればファンも信者も本質は同じなんだろうなとも思う。
それで言えばスポーツの現地観戦も一体感が目的で、その一員になれば凄く楽しいはずだ。Jリーグのゴール裏のコアサポーターも当人たちは絶対楽しいだろうし、応援団体に入って一体感を味わって試合後勝った時は一緒に飲みに行ったりするのも楽しそうである。
宗教もローカルアイドルも興味ない自分は、案外J2,J3の地方巡りが肌に合っているのかもしれない。南米でサッカーが宗教のような存在になっているのもある種の共同体意識なのだろう。
「過激な奴ら」とか「変な奴ら」と見られたとしても、その側に入っていると一体感がある。変なデモをして白い目で見られている人たちも、同じく白い目で見られている仲間がいればむしろコアな仲間意識を満たせるのだろう。
反原発のデモ行進は何回か見たことがあるが、太鼓叩いて原発反対と叫びながら歩いている人は本当はそこまで原発に興味が無くて何かに反対している昂揚感が目的なんじゃないだろうかとすら思う。
それほど孤独を癒す仲間意識を感じられる場所というのは貴重な物なのだ。
その一方でノートのほうにも書いたけれども、環境変われば本当に行く場所や居場所が無くなる。この記事では田舎には喫茶店も居酒屋も教会も無いと書いているのだが、書いた後よくよく考えればなぜか田舎に「エホバ」がある事に気付いた。
ただそのエホバは地元からは白い目で見られているというか、怪しい場所扱いは小学校の頃はされていた。
自分が住んでいる町の人は全くそのエホバに行っている人がいる気配は無く、遠いところからわざわざ辺鄙な場所に訪れにやってきている印象がある。
日曜日は本当に車がもの凄く多く停まっていてこれもある種の居場所目的なのだろう。
さすがにエホバは自分の好みでもないし、勧誘をさせられたりお布施が多かったりして大変そうだというイメージがある。実際最近は来ないが、子供のころはエホバの人が来て言ってることに笑ってしまったことが懐かしい。
かつてオウム真理教があれだけ勢力を拡大したことには、バブル経済についていけなくなり孤独を感じた人の求心力となった背景がある。
今ユーチューバーやSNSが流行っているのも、漠然と皆どこかに「居場所」を求めていることの証左でもあるんだろうなと思う。かつて自分も個人サイトがあった頃のゲームのチャットみたいなところに入り浸っていた時期があったわけでそれを批判することもできない。
結局今の世の中外出はお金がかかる物で、最低限近くのフードコートで過ごすというのがライフスタイルになっている人は多い。
居酒屋も外飲みは結構お金がかかり、喫茶店やカフェも場所代や雰囲気代混みの値段でやや高い部分はある。自分に丁度いい店が見つかるとも限らない。
そう言う意味で昨今のユーチューバーというのは家で気軽に見れるし、自分のペースで見ていられるというのが人気の理由なのかもしれない。ネットは選択肢が多いから自分に合ったものが見つかりやすい。
よく天理や創価が3世以降の信者離れが進んで衰退しているとも聞くし、アレフが拡大していくこともない。日本で新興宗教が衰退したというのはオウムのせいもあるが、ネットで十分孤独を癒すことができるようになったというのが大きいのかもしれない。
「ヒカキン信者」という表現が去れたりするし、ネットではよく信者という言葉を見かけるが手軽に宗教っぽいことができるようになったというのも宗教が必要なくなった理由だろう。
それを言えば自分はメッシ信者であり本田圭佑信者でもある。
何か信仰したり、同じ信者同士で仲間意識を感じる事って気持ち悪いけども本人たちは滅茶苦茶楽しいことは間違いない。変な目で見られたとしても変な目で見られてる人同士だと一体感があって、それが心地よく感じる。
未だに中核派は活躍していて本社の寮のような場所で共同生活し革命を企てようとしているらしいが、そのアジト内の仲間の距離感は近くて当人たちは楽しそうに見えるのも事実だ。
過激なことを一緒にやっているという共同体意識が彼らを時代遅れの革命に導いている。例え革命が実現できなくても、「いつかできるかもしれない」と思いながら共同生活して仲間内で過激なことを言い合っていれば一体感がある。
田舎でこうやっていろんな人と疎遠になって孤立するとそういう空間のありがたさも分かるようになる。
その究極の行き場所が2chにある「孤独な男性板」なんだろうなとも思う。あれこそ最も意識が低い居場所の一つだろうし寂しい奴ら同士で一体感味わっていればそれはそれで一種のコミュニティの一つともいえる。
かろうじてネットのアングラ感があるのはこういう専門板になるのだろう。
そしてそれ以外のカジュアル化した大部分の表面だけのネット空間よりは結局リアルのほうが本当の濃い空間になりやすいというのはいつも自分が言っていることで、その一つがまさに教会なのだろう。
このご時世宗教にはまる奴らって絶対濃いわけで実際そうだった。
漠然と「濃い奴ら」を求め、孤独から逃れるのならばあえて宗教に飛び込んでみるのおすすめかもしれない。