負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

人生が虚しいと感じる今日この頃

急に「俺何してんだろうな」とふと一人で考える時がある。

お酒の酔いが覚めた時なんかは特に虚しさが押し寄せてくる。

自分の行いが疑問に感じ自信が無くなる、そして悲しくなる。

 

もうこの先に幸せは待ってないんだろうなと思うと急に心が折れたような感覚にもなるし、理解されることも無い人生なんだろうなとかありえない程ネガティブな感情が沸いてくる。

 

嵐のBelieveという曲の櫻井翔が作詞したラップパートは何度聞いても良くできているなと思う。サクラップは櫻井の心理的な葛藤が良く表れていて歌唱力はともかく歌詞は魅力がある。

一体何を見ているんだろう

一体何をしているんだろう

僕はもう 嗚呼もう走馬灯のよう

(中略)

昨日も今日も今日でそうだろうが 今日は今日でどうかしよう

 

先行きの見えない日々の繰り返し、変えたいと思うのに変わらない現実、変えることが大変な現実、その内いろんなことが虚しくなってくる。

最近の自分はお酒を飲んでいるとき以外心の底から気分が晴れることは無い。何の充実感も無く、充足感も無い。

 

「虚しいから死にたい」と考える人は世の中に多いが、なぜそれだけの理由で死にたいのかというと、それはその"虚しいから"に本当に様々な理由が含まれているからだろう。

"虚しいから"にはいろんな意味がある、とにかくそれはいろんなものであり人それぞれ多くの悩みがある。

情熱が湧きあがっても急にまた消滅する、そのことの繰り返しだ。

何かに向かっている感覚を持てる時と持てない時がある、もちろんそれが無いわけではないが無くなる時もある。人生とは陰と陽の繰り返しであり、沈んでいるときも受け入れなければならない。

 

そもそも理解されたいとか認められたいと期待すること自体間違いなのかもしれない。人間は結局本質的には孤独で自分を真に理解する人は現れない。

100%理解されることはあり得ない話で、自分もまた他者を理解できない。

むしろ誰も理解できない領域を追求する、それが古来から哲学や学問として発達してきたのだろう。誰にも理解できない領域や境地のようなものを目指すことの方が自分のような人間にとっては幸せなのかもしれない。

 

NHKの「こころの時代~宗教・人生~」というお爺ちゃんしか見てなさそうな対談番組を自分はしばしば見ているのだが、山折哲雄という宗教学者が出演した回はとても興味深かった。

『ひとりゆく思想』というサブタイトルだったのだが、その中で「蓄えた知識はいつしか重みになる」という言葉は自分の心に響いたことを覚えている。

しかしそれでも親鸞の書籍だけは今も捨てられないとも語っており、現代人の心の拠り所となるのはむしろ古代の思想家の言葉との問答のような時間なのかもしれない。

今の世の中はむしろ孤独な人の方が多く、イギリスでも「孤独担当相」という役職が作られ世界的な問題になっている。

 

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しかし「こじらせるタイプ」とでも表現したらいいのだろうか、ひとり思索することが好きな類の人間は、自分の思考に閉じこもる方が結局は一番幸せというか性(しょう)に合っているのかもしれない。

誰かから理解されるためでもなく、自分の思考に整理をつけるために古代から哲学者は哲学書を書いてきたのだろう。

 

自分が思索をするのは、西田幾多郎が京都の「哲学の道」を歩いて思索していたことに習い散歩しているときが多い。

更にお酒の酔いが覚めて気分が悪くなっているときはどうしても思考をめぐらすことになる。苦しい時間だがこの時アイデアが浮かんでくることもある、しかし基本的にネガティブなことが多い。

またサッカーの試合を実況や会場音声無しで完全無音にした状態で見たり、旅番組をあえて無音で見たりしながらひとり考える時間は自分の中で大切な時間になっている。

ゆっくり考えて冷静になるのはこういう習慣が一番だ。

欧州サッカーの名将、現マンチェスター・シティ指揮官のグアルディオラや元バルセロナのシャビ・エルナンデス、アルゼンチンのビエルサやサン・パオリのような戦術家はサッカーの試合見ながら人生についても考えているように思える。

そうやって思索を重ねて理論や理想を追求して言った結果があれだけの戦術的なサッカーになるわけであり、理解されないと思っていたものがいつしか理解したい物へと変わっていくこともある。

自分はグラルディオラのサッカーや脳内を理解したいと信奉しているが、あのスタイルはひとりサッカー哲学を追求した思索の結果であり、ある意味偏執的な性格だからこそ作り上げられたのかもしれない。

 

誤解を恐れないと言えばかっこつけた言い方になるかもしれないが、頭おかしい人間だと思われても良いという開き直りのような覚悟を持つと精神的にはむしろ楽になる。

日常生活やプライベートでも変な奴だと思われても良いという考えを持って、無数の失敗を繰り返しても人生は許される。

上手く行っていない時間、から回している時間、結果が出ない日々、かっこ悪くてダサい姿、底辺に落ちぶれている時期、それはもしかしたら必要な時間なのだろう。

今の自分のこの時間は新しい人生観を形成するための時間でもある、そう信じるしかないというか、そうでも意味づけしなければただひたすらに虚しい。

虚しさと葛藤することが今は何のためかわからなくても、後に意味があったと思える時が来る。何として開花するかはわからないし、それが何年後、何十年後かもわからない。もしかしたら完全なる無駄の可能性もある。

 

本田圭佑がモスクワ時代になかなか移籍できず怪我で苦しんでいた時は、今振り返ってもかなり悲壮感があった。

「ビッグクラブに行けるとまだ信じてます」と言っていた時はファンですら諦めていたが、世界一諦めの悪い男は諦めていなかった。

そこからACミランに行ったのは良い物の、セリエAへの挑戦は中々上手く行かず散々かっこ悪い姿も晒すことになった。更に結局ワールドカップでも惨敗して、努力は報われないし奇跡は起こらないというシビアな現実を教えてくれた。

 

努力は報われない物であり、人は自分を理解してくれるわけでもない、更に奇跡は起きないし、自分は幸せにはなれない、これが人生の現実なのだろう。

ただそれが現実だとわかることが人生であり、そこの前提のスタートこそが真の人生なのかもしれない。

 

人生はサッカーと同じように、楽しい時はほんの一部で大部分の時間帯は我慢の時間帯であり、シュートは中々か入らない。しかしそれでもシュートを打つことを恐れず、どれだけかっこ悪く外しても重要局面で決めれば全てが変わる。

笑い者になるような外し方や失敗をしても、そのかっこ悪い姿を誇りに思うことが大事だ。

絶対入ったと思うシュートも入らない時は入らないし、なぜか簡単に入ることも無い事は無い。

基本は上手く行かない時間や楽しくない時間のほうが長い、それは人生にも共通している。

つまり人生は虚しくて当たり前であり、当たり前だからこそ過度に落ち込む必要はないのかもしれない。

「ひとり」の哲学 (新潮選書) [ 山折 哲雄 ]


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