ポケモンは海外向けになって情緒が無くなったと思ってる奴・・・
よく最近のポケモンは日本市場より海外市場を重視するようになり、雰囲気が変わってしまったと言われる。
具体的にはBW(ブラック・ホワイト)シリーズから海外デザイナーを起用し始め、XYの頃からは全世界同時発売が基本となっていく。
それに伴い舞台設定も日本の地域から、BWのアメリカのように海外が定番になっていく。最新版のサンムーンはハワイであり、XYはフランスだった。
例えば初代のカントー地方はそのまま関東であり、ジョウトは関西、RSのホウエン地方は九州で、DPのシンオウ地方は北海道であり北方領土や樺太まで含まれている。
コガネシティが大阪の雰囲気を表していたり、エンジュシティが京都というように日本的な雰囲気が色濃く表れていて日本人に合った情緒を感じさせるのがポケモンの特徴だ。
日本のコンシューマーゲーム市場がまだ大きく、日本がゲームの最先端の国だった頃は日本人向けにゲームを作ることがゲーム会社にとってもよかったし海外はその次だった。
しかし今はゲームといえばソシャゲの時代であり、日本人のライフスタイルにコンシューマーは合わなくなってきており、かつてあったような面白いRPGなどは中々作られなくなってきている。
グローバル化時代において、日本向けだけに特化したジャンルというのはもう厳しい時代になっていて今後日本にはソシャゲしかなくなっていくだろう。
アニメももう壮大な物は作られず、アニメファンは簡単なものしか求めなくなり、ついにはバーチャルユーチューバー見てれば満足だという時代になった。
ゲーム会社が衰退する日本のゲーム業界を見限って、海外向けになっていかなければ生き残っていけないという事情は仕方がないと言えば仕方がない。
今後思い出に残る懐かしい情緒のあるゲームはもう登場しないんだろうなと思うと寂しいし、逆に言えばいい大人がゲームの世界に没頭してその旅や冒険に満足してる時点でスケールが小さいのだろう。
かといって海外旅行に頻繁に行けるような大人にもなれなかったわけで、もはやゲームにも創作にも、リアルにも大して面白い冒険や旅はない時代になっている。
壮大な旅をしようと思えばできるが、あまりにも敷居が高いし失うものも多いし、現代人にそこまで行動力はない。
自分のようにいつか旅をしたいと思って旅情を馳せている人間はまだ意識が高い方であり、もう最近は若者が東京に憧れない時代だ。
そういった冒険心すら日々の衰退する日常の中で失っていき、1マイル族とか言われるように身の回りの日常のささやかな幸せがあれば良いという現実的な考えが主流になっている。
そんな何もない日常に適応している時に、それでもふとポケモンで盛大な旅をしたころが懐かしくなる時はある。
確かに自分の中でXYはそこそこやりこんだので思い出には残っているし懐かしい。
BWシリーズも結構面白いダンジョンや仕掛けは多かったし、レート導入のように本格的なオンライン対戦の先駆けとしては画期的だった。
しかしそれ以降、ポケモン界隈も勝って数値を高めることが正義となり、趣味嗜好で語るファンの思い出話よりも明確な攻略情報が重視されるようになり雰囲気も変わっていく。
基本的に男性ファンやゲーマーというのは感性よりも理性で結論を求める傾向にあり、どうしても男性主体コンテンツは理論的な答えや最適解が重視される運命にある。
それでもポケモンはまだ女性ファンが多いジャンルだが、和気あいあいとした雰囲気は徐々になくなりガツガツとしたガチ勢が占拠するムードが漂っている。
個人的にはルビー・サファイア時代のいわゆる第三世代と呼ばれた時代に、合成ポケモンや個人サイトが流行っていた時代が懐かしいしあの頃に三値をしっているからレア感があったと懐古している。
RSのホウエン地方は大自然の中を冒険している感があっていいとか、初代のシオンタウンに着いたときは本当に恐怖だったとか、金銀でカントー地方に行けたときの感動は凄かったなんて話も最近は聞かなくなっている。
それどころかもはやファイアレッド・リーフグリーンでナナシマに行けたときの喜びも色あせた思い出になっており、こういった懐古話をつらつらと語るファン自体が少なくなってきている。
どこも有益で確実で、無駄のない攻略情報ばかりになりファンの気質としても情緒は無くなってしまった。
ゲーム動画なども面白い動画よりも、対戦に役立つ解説動画の方が人気になっているらしく技術的な進歩に対して人間的な温かみは無くなっている。
これは人間の文明が幾度となく直面してきた問題でもあるのだろう。
その結果その雰囲気や風潮に疲れた自分はかつては育成もしっかりしていたがもうポケモンから実質引退しており、サンムーンはクリアしていないし、ウルトラSMにいたっては購入すらしていない。
案外やめるとすっきりするもので、気分は楽になる。
ついには毎回新作を追う事もやめ、気に入った時だけ買えばいいという感覚になれ果てている。
最初の内は3D等身大グラフィックも良いなと思っていたが、やっぱりドット絵の頃の方が味わい深かったなと思うようになっていて完全に「ポケモン老害」と化している。
やはりウルトラビーストの存在を自分はどうしても許容することができなかったし、ジムや自転車の廃止は適応できなかった。
あれほど新作の時だけ文句をつける金銀厨を忌み嫌っていたのに、自分がその成りたくなかった存在になってしまったのだ。
なんというか自分好みの続編がどんどん作られなくなっていくし、時代に自分の感性は追い付かなくなっていくのだろうなという感じずにはいられない。それでいえばスマホでフリック入力はできないし、ポケモンGOもすぐ辞めたし、自分の慣れた物があるとそこから外に出なくなってしまうように人はできているのだろう。
海外のポケモンファンは日本向けに作られていたものをあえてやっていたから楽しいと思っている層と、完全に海外向けにシフトしてからファンになった層ではギャップがあるのだろうかとも考える。
しかしサンムーンの評価は海外の方が高く、外国人ファンは喜んでいるように思う。
完全にマンネリ化を受け入れ既存層向けに特化することを決めたのがガンダム、大胆な改革を行った結果ファン離れを起こし新規層も増えなかった遊戯王、そして現状のところ上手く改革が進んでいるポケモン、と明暗はそれぞれ分かれている。
かろうじて今の自分がポケモンに情熱を感じるとしたら不思議のダンジョンシリーズなのだが、これも新作が出る気配は今のところなく、日本人向けのゲームは全てソシャゲに一極集中していくのだろう。
唯一期待しているとすればswitch系列で、スイッチで自分好みのポケモンが登場すればもう一度情熱は復活するかもしれない。
もしくはポケスペシリーズのように漫画版を楽しむかだ。昔は読んでいたのでもう一度ゆっくり懐古目的で、そして読んでいない新作も見てみたいという思いもある。
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ただそもそも、良い大人がゲームの世界に壮大な冒険を求めること自体が本来間違っているのだ。
大人になるとお菓子で満足できなくなりもっと美味しい物を食べたくなるのと同じで、所詮ゲームというのは子供だましのお菓子でしかない。
本当に刺激を得る冒険をしたければやはりリアルに旅行なり冒険なりをするべきであって、ゲームの世界は実は狭い世界に過ぎない。
その街にいるキャラクターも生活感があるようにみえて実際は設定されたデータでしかなく、深い人生論を語り合うことなどは無い。しかし現実にどこかの個人経営の飲食店に紛れ込んだらコミュ力さえあれば、知らなかった人とも仲良くなれる。
そもそも日本的情緒が欲しければ素直に日本を旅したほうが良いとも考えている。
最近テレビ番組に録画していたいろんな旅番組を見たのだが、これが結構面白くまだ日本には行っていないところが多いなと再評価している部分もある。
登山スポットだけでも自然はかなり恵まれており、離島なども多い。
そして「海外」という追加ダンジョンも無限に存在するわけで、RPGが好きで育った人は本当は大人になったらリアル旅行に行くべきなのかもしれない。
本当は自分もここで旅記事を書きたいし、いつか車で気ままに全国一周に出たいと夢を見てもいる。自転車だけで南米やアフリカを縦断する日本人がいる時代に、最近冒険感のあるゲーム無いよなぁなんて言ってるのはスケールが相当小さい。
更に昔の人の旅行記などを見るとスケール感がさらに大きく、樺太の全体像を確かめた上に、情報が無い時代に極東のシベリアにまで行った間宮林蔵凄すぎだろと驚愕している。
現地の先住民の生活に溶け込んで信頼を経て、その先の情報を教えてもらい道具を貸してもらって行くというのは完全にRPGだなと驚いた。アイヌ民族だけでなく更に北方の別の先住民とも出会い親交を深めていき奥地へ進んでいく過程は冒険心をくすぐる。
他にもネットで読めるちょっとした旅行記なども予想外のドタバタがあって面白いし、クレイジージャーニーのような奇想天外な旅番組も見ていて楽しい。
何かが起こるのが旅だが、RPGの旅はある程度予測がつく物が多いし長年ゲームをしていると慣れてしまう。
しかし現実はどこまでも予測不可能な世界が広がっている。
何もわからないところに情報も持たず飛び込むから面白い。
攻略本や攻略サイトを見ながらテンプレルートで進んでいくRPGが何も面白くないのと同じで、安定したものをやるだけの人生は何も面白くない。
アイテムの取りこぼしは行くべき観光地を逃したみたいな話で、それもまた旅の良さの一つだ。
今の時代完璧にやろうとしたり失敗しないようにしたりすることが目的になり過ぎているように思う。
新しい発見が欲しければ、実は現実はゲーム以上に広大なのだ。
本田圭佑のプロフェッショナルの流儀が楽しみすぎる
今度また本田圭佑がプロフェッショナル仕事の流儀に出演するらしく、これで確か3度目の出演になる。
放送は5月14日なので今から楽しみにしている自分がいる。
本人も公言している通り、今回のロシアワールドカップという最後の戦いに向けて「ラストミッション」というのがテーマになっているようだ。
ワールドカップ後は引退するのか、Jリーグに復帰するのか、それとももう一度欧州に挑戦するのか、それともアメリカに行くのかは分からないし、東京五輪にオーバーエイジ枠として参加する可能性も無いわけではない。
そもそも今のメキシコ、パチューカを選んだこと自体衝撃であり良くも悪くも何をするかわからない存在として常に自分の憧れであり続けた。
思えば2010年の南アフリカワールドカップからずっと追い続けてきた存在なので、すでにもう8年の月日が経とうとしている。ブラジルワールドカップの惨敗からも4年であり、本当にいろんなことがあったなと感慨深い。
実はというと今の自分の「本田圭佑熱」のようなものは以前ほどではなくなっていて、本気で憧れているというよりも惰性で見続けているような部分がある。
ある意味自分にとって原点とも言える存在だった。
ただ今の状況になって、今だからこそむしろ本田圭佑のこれまでの言動を参考にするべきなのではないかと考え直している。
例えばプロフェッショナル仕事の流儀に本田が初めて出演した時は、確かまだロシアリーグ時代で中々移籍できず、半月板損傷というキャリア最大の危機に直面している時だった。
極寒のロシアに幽閉され、なおかつ絶望的な怪我とも戦いビッグクラブ移籍とも言える不可能とも思える夢をファンですら諦めかけていた。
あの時の「悲壮感」にも似たものは、スケール感は違うかもしれないが今の自分にとって近い状況にある。
今思えばあの時の本田の悲壮感は半端ではなかったし、そこから復活を果たし実際にACミランへと移籍する。
しかしこのACミラン時代も決して順調にはいかず、本田のキャリアは不遇の時の方が多い。そもそもサッカーというスポーツ自体、試合中にボールを保持して活躍している時間は限られていて大抵の時間はもどかしく、相手ボールを追いかけまわしているだけに過ぎない。
無駄とも思えるようなプレッシングを懸命にやったり、激しくフィジカルコンタクトを行ったり、中々パスがこなかったりと、そもそもチャンスに恵まれず出場できなかったり、怪我と戦っていたりと楽しくない時間の方が多い。
活躍している時や楽しい時の方が少ない、ただそのわずかなチャンスを狙って日々努力するという典型のような選手がまさに本田圭佑だ。
「サッカーの神様はいると信じている」
「神様どれだけ俺に試練あたえんねんと思うけど、時々ちゃんとご褒美をくれる」
「まだビッグクラブに行けると信じてますね」
「サッカーで心が折れたことは無い」
「自信しかない、自信が無けりゃやってられないでしょ」
「この状況にいるのは世界で自分一人しかいない」
「才能が無いから辞めろと言われたらどれだけの人が一瞬で夢を諦めなあかんねん」
「サッカーは一試合で天と地が入れ替わる」
うろ覚えではあるが、今思えば深いことを言っているなと思う。これだけ批判されたサッカー選手は過去に存在しないだろうし、今もネットを見れば本田関連の話題にはすぐ批判的な意見が飛び交う。
情熱があった頃の自分は本田の奮闘する姿や発言をよく心の支えにしていたなと思うし、逆に今ではそれらを忘れかけている。
本田圭佑はとにかく未開拓な地に挑戦するチャレンジャー精神があり、新しいことに対してよく「楽しみですね」とか「ワクワクしてますね」という言葉を使う。
不安な時ほど楽しみだと言い聞かせることも大事だ。
今の停滞している自分を打破するために、環境を変えようという計画を立てていて、それこそいきなりメキシコのパチューカを選んだような挑戦をしてみたいとも考えている。
不安の方が大きく中々踏み出しきれないが、そろそろ本田圭佑を見習って意識高く前を向いて行こうという思いもある。何のために8年間も本田を追い続けてきたのか、あれほど憧れていたじゃないかと、最近くどいほど自問自答して伸びしろを探している。
本田圭佑の何が面白いかと言えば、何を考えているかわからず予想がつかないところにある。とにかく逆境の中でそれでも前を向き、考え続けるタフな精神力に刺激を受ける。
本田はもっと大変な状況でやっている、本田ならこういう時どう考えるか。
おそらく今回のプロフェッショナルの流儀では序盤、ACミラン最終シーズンの殆ど試合に出られない状況や日本代表からも遠ざかっているどん底の状態から始まるだろう。
ミラン時代初期の頃はまだ試合に出場して批判されていたが、終盤はほとんど試合に出ることなく不遇時代を過ごしていた。
代表からも遠ざかり、そもそも今回のロシアW杯は出場が危ぶまれていた。
よくここまで盛り返した裏には凄まじい努力があったに違いない。
もちろんここまで持ち上げられて、ワールドカップ本戦で醜態を晒せば日本サッカーの歴史上最も叩かれるだろう。
それでもそのリスクを引き受け、むしろその状況を楽しんでいるように見える。
プレッシャーを自分で自分にかけることはよくアスリートがすることだが、今だからこそ本田圭佑のその意識の高さを見習うべきなのかもしれない。
20代負け組のこれからの人生プラン
いわゆる底辺系として直面するのが、その孤独感であり、理解されない事へのもどかしさである。
もはや今の不景気の時代では底辺が世の中には溢れているのだが、20代やゆとり世代の悲惨さというものは注目されにくい状況にある。
20代ならばまだ人生をやり直せるだろうし、可能性にあるだろうと思う人もいるかもしれない。
自分だって「10代の負け組です、人生オワタ」なんて言ってる人を見ればまだ全然可能性あるぞと思ってしまうだろう。
しかし人には理解されない当人なりの苦しみがあり、それぞれの難しさがある。
学生など実際はブラックであり、大人以上に環境は変えづらいだろうし無給でひたすら厳しい環境に居続けなければならない。華やかな青春という理想像とは裏腹に、学生の方がむしろブラックな環境で懸命に生きているはずだ。
そして今の日本ではゆとり世代に対する風当たりが強く、社会に出れば最近の若者はこれだからと批判され、親からも社会からも理解されない。
欲を言えば同じような境遇にある人と、お酒でも飲みながらダラダラと現状について語り合いながら今後の人生について語りたいし、今の状況をお互いに肯定し合いながら未来への展望を語り合いたい。
しかし中々そうやって親しげに語りかけてくれる人はいないし、時々反応があるかと言ったら嬉しくない批判の事の方が多い。人の温かさや優しさを求めている時にかぎって、冷たく陰湿な人々が世の中には多い。
それでも自分よりもっと辛い言葉を浴びせかけられている人や、更に嫌な環境にいる人がいると思えばわがままを言っていられない。
社会のレールから踏み外れた人間が、されこれから人生をどう歩んでいけばいいのかとなるとこれは非常に迷う。
20代の負け組がどういう状況なのか例えるとするならば、それは「戦時中」に近い。
どう考えてももうアメリカに勝てない敗戦間近の状況であり、下手に可能性があるかのように感じるからこそ達が悪い。いっそのこと降伏文書に調印して、真の負けを認めれば開き直れるのかもしれないが、まだ戦時下にあるというのが気分が落ち着かない理由だ。
更に自分の場合、地方在住の孤独な底辺であり、同じような底辺仲間とオフ会を開催して話し合うという事も出来ない。自分がある意味で尊敬している底辺ブロガーの先輩とも言えるべき、そしてここを始めたきっかけとなる方がいるのだが、その人は定期的に底辺仲間同士でオフ会を開いていて羨ましく感じることがある。
やはり年齢や境遇の近い人同士で悩みを話し合えると落ち着くし、それが居場所になるのだろうが、東京近辺や鉄道網が発達している地域でなければ中々それは難しい。
底辺仲間同士のネット上の繋がりがあることが、とてもうらやましく感じるが中々今の自分にそういった状況は作れない。
何も変わらない日々が続き、かといって何かを始めようという活気づいた思いも沸いてこないし、応援してくれる人や共感してくれる人もいない。
一度社会のレールから外れた人間が今後どういった人生プランを思い描くかという事に今の自分は悩んでいる。
自分なりにできることを模索しているというのが今の自分の状況だが、なかなか身近な人々からは理解されることなく、白い目で見られているのできつい状況にある。
何もやっていないような冷淡な目線で見られ、自分なりの努力は評価されにくいし、同じような目標に向かっていき励まし合う仲間にも恵まれない。
まさに孤軍奮闘であり、孤独の中での葛藤が日々続く。
気分は中々晴れやかにならない、だからこそ安直にお酒に頼ってしまい後悔する。
閉じこもりたい、逃げたい、何も考えたくない、そんなネガティブな思考から朝が始まる事以上につらいことは無い。
しかしそれでも自分よりもっと辛い環境にいる人のことを思うと、こんなことには甘えていられない。
自分のようなゆとり世代の底辺負け組の人、もちろん他の世代であっても社会から排斥された人々が少しでも、落ち着けるような憩いの場を作っていきたいというのが元の始まりだ。
自分だって嫌なことを言われて落ち込むし、精神的に荒んで何を考えているのだろうと反省することもある。
本当に嫌な人間になってしまっている自分が情けない。
無能であることや駄目な事が中々許されず、ただ見下されるだけで許容されることも無い、自己責任論の強い社会に息苦しさだけが募る。
そして何もできない自分がもどかしく、迷惑をかけている人々に対して生きていても仕分けないと何度も考える。
理解されることも無い虚しさ、もう一度やりなおしたいという思いに対する社会の冷淡さと非情さ、その孤独感に苛まれる。
それでも前を向くしかないので、ここ最近の自分は「仕事を選ばない」ということをモットーにしようとしている。
女優の有村架純がなぜ生き残ったのかといえばそれは仕事を選ばなかったからに他ならない。
有村架純と言えば自分と生年月日が近く個人的に親近感を抱いでおり、なおかつ尊敬する存在だ。
連続テレビ小説「あまちゃん」で共演した能年玲奈に比べ、当初は主役ではない印象が強かったが、今では紅白歌合戦のメインパーソナリティを務めるほどに成長している。
有村架純を見習うのであれば、その仕事を選ばずなんでもやるという胆力であり、一生懸命生きる姿そのものだ。
自分と世代が近いと言えば防弾少年団というHIPHOPアーティストグループも仕事を選ばず懸命に生きている。
元々HIPHOPを目指していたのに、今ではアイドルだけでなく、もはやダンスで評価されるようになっており本人たちも今では一番ダンスを厳しく求められると口にしている。
その上、吉本新喜劇のような番組にも出演するし、バラエティ能力も求められる。
更に言えば彼らは韓国人男性としての運命に逆らえずいずれ徴兵される運命にある。
またグラビアアイドルの武田玲奈も、書店を巡っていると相変らず表紙を飾っている姿を目にする。
その理由はなかなか恥ずかしそうなコスプレでも仕事選ばずにやるからだ。
かつては咲-saki-の実写化にも出演していたが、その仕事を選ばない姿勢が業界で評価されているのだろう。
かつて自分がやっていたバイトでも様々なタスクを求められていたが、なんだかんだで仕事を覚えて言われればやっていた。
人間その状況下に置かれれば適応力を発揮するのだ。
やればできると自分に言い聞かせて、とにかくなんでもやってみようという前向きな思いを今の自分は何とか引き出そうと懸命に自分に言い聞かせている。
プロフェッショナルの流儀のテーマソングではないが、あともう一歩だけ前に進もうというのが今の自分の最大の目標だ。
東京マルイさん、ようやくAK47を次世代電動ガンでリメイクする
久しぶりに東京マルイの新製品をチェックしたところ、銃に詳しい者の間で知らぬ者はいないAK47が発表されていた。
それどころか歴史を変えた武器の一つであり、エミネムの歌詞に登場したり、国旗のデザインとして取り入れられたりと象徴的な存在だ。
東京マルイのAK47と言えばエアガンマニアの間では名作と評判が高く、自分自身いずれは手に入れたいと思っていた商品だ。
しかしそんなロングセラーのAK47も自分が子供のころからカタログに載っているような製品なので非常に息が長い。
プラモデルなどでもそうだがホビー業界ではヒット商品は細かな改良はある物の、長期的に生産され続ける傾向にある。
実際に東京マルイ製AK47も昔の商品ではあるものの電動ガンとして考えたときには、今でも通じる基準となっており実銃と同じく剛性には定評がある。
カスタム用のベースとしても活用できるので、わざわざリメイクする必要が無いと言えばないのも事実だ。
エアガンというのは威力規制のこともあり、これ以上性能の面で劇的に発展することは見込めないので新製品には付加価値が必要になってくる。
そんなAK47がこの度、「次世代電動ガン」としてリニューアル化されたことは自分にとって非常に嬉しい知らせだ。
ここで話を一旦整理してみることにする。
・旧式の電動ガンでベストセラーになったAK47
反動や実銃のようなボルトの作動、初弾装填のメカニズムはないものの、現代のサバイバルゲームでも通用する傑作と言われている。
質感も生産された年代としては高く、カスタムベースとしても使える。
旧式といえばネガティブなイメージを持つかもしれないが、単に反動のようなギミックが存在しないだけでクオリティは非常に高い。
・次世代電動ガンでリメイクされたAK47
命中精度など性能面で大幅な向上は無いが、質感やギミックでは大幅に強化されている。
従来のAK47に比べて見違えるほど高性能になったわけではないが、基本設計の違いによって細部のクオリティは向上している。
自分は東京マルイの関係者ではないのでわからないが、おそらく次世代電動ガン化に至った最大の理由は、AK47の人気になあるのではないかと考えている。
つまるところAK47という実銃自体の人気が非常に高いため、ガンダムに登場するザクをプラモデル化すればヒットするという構造と似ている。
ちなみにこのAK47の前に実はAK74系列が次世代型として商品化されており、このシリーズが今回の「新型AK47」のベースになっている。
これまたガンダムに例えるならばHGUCの技術を活用しHG版のザクをリメイクしたが、HG版のザクも十分に高クオリティだというイメージだ。
まず基本的に東京マルイというメーカーは東側の銃をほとんどエアガン化することが無い。
ここ最近の東京マルイは、サバゲーの普及と共に「サバゲー用品」として重視した商品を開発している印象を受ける。
昔からそうではあったが、かつて以上に東京マルイはサバゲーの道具としてエアソフトガンを開発しており、もはやエアガンはスポーツ用品の一つとしての側面が強い。
需要の変化を上手く見越しているとでも言えばよいのか、今の時代エアガンはもはやサバゲー前提のコンテンツになっているように思う。
サバゲーマー受けするような商品展開が重視され、企業イメージとしてもスポーティなことをマルイは心がけている。
ニッチなファン層向けの商品展開では先細りの運命にあったので、この転換は功を奏したとも言える。
またライセンスのことなどを考えると、東側よりも西側の銃の方が商品化しやすいというメリットがあったり、そもそも日本市場では西側製のもののほうが人気があるという事情も存在する。
自分は東京マルイというメーカーのファンではあるのだが、唯一不満があるとするならば東側の銃が少ないということだ。
もっともこれは日本のミリタリーファン自体の風潮も関わってくることであり、実際東側の銃で知名度がある物は少ない。
例えばガスブローバックシリーズで東京マルイがトカレフやマカロフを出すとは思えないし、戦前の枢軸国側の拳銃も商品化されていない。
南部や、ルガー、ワルサーは遠い昔にエアコッキングガンで出されたのが最後であり、日本のガンマニアの嗜好も大きく変化している。
東側のライフルで商品化すると言っても、中国人民解放軍の95式歩槍がヒットするとは思えないし、ロシア軍のAN94もマニアの間では待望論があるが大規模な商品展開は望めないだろう。
更に近年FPSの流行によって、史実よりもゲームにおける性能面で銃を評価するファンが増えたのではないかとも推測している。
FPSファンは銃が好きなわけではなく、ゲームジャンルとして愛好しており実銃に関してそこまで関心が無いことが多い。
そのコンテンツ内におけるファンの傾向の変化というのはどのジャンルでも取り上げられることだが、今のエアガンファンはサバゲー前提のファンが多く、いわゆる実銃マニアやコレクターのような存在は少なくなっているように感じる。
エアガン界の雰囲気としてもサバイバルゲームをしてこそ本流という雰囲気があり、純粋にただエアガンというアイテム自体が好きな人や、いわゆる「お座敷シューター」というのは肩身が狭くなっているのではないか。
サバイバルゲームがこれだけ市民権を得たことはもちろん喜ばしいことだし、そのおかげでエアソフトガンの市場が拡大したならば歓迎するべきことだ。
実際にとあるHey! Say! JUMPというジャニーズのグループのメンバー間で流行っているのがサバゲーらしく、女性向け雑誌で爽やかな若手俳優がサバゲーを趣味だと言っても引かれることは無い。
もはやサバイバルゲームが凶悪でイメージが悪い遊びではなくなっている。
サバゲーがスポーツの一つとして定着している時代であり、若者受けするコンテンツの一つとも言える。
オタク産業が広く受け入れられている今、むしろ今後萌えアニメとコラボしていくことも、求められることかもしれない。
例えば戦車や戦艦のスケールモデルは「ガールズ&パンツァー」や「艦これ」のヒットによって恩恵を受けた。
「うぽって!!」というサバゲー題材のアニメもあり、そもそも昔からエアガン雑誌は女性モデルを起用していたので今更と言えば今更ではある。
また東京マルイはサバゲー用品としてエアガンを開発していると書いたが、実際には元からサバゲー前提のメーカーであり、むしろサバゲーの普及に最も貢献したのがマルイだ。
それまでは弾が発射できればよかっただけのものを、実戦的な命中を狙える段階にまで発展させたのは東京マルイである。
更に近年ではリアリティの面でも向上しており、むしろオールドファンからすれば東京マルイがここまでリアルさを重視するようになったことに隔世の感がある。
性能面でもリアリティの面でも東京マルイは長け出ており、企業としても優秀な人材が集まっているのだろう。
他のメーカーが生き残るとするならばマニアックな銃を製品化することだろうし、例えば東側製だと中華系のメーカーが強い。
ただどうしても中国、香港、台湾のような中華系のエアガンは品質にむらがありチューニングが必要だというイメージがある。それも昔に比べてだいぶ安定してはいるのだが、やはり東京マルイが持つ信頼性はブランド価値が高い。
そんな東京マルイが唯一、東側系列の銃で開発を行っているのがAK系列であり、その象
徴であり原点とも言えるAK47を今回リメイクしたというのがおおまかな流れだ。
旧型AK47はずっとまさに自分にとって青春とも言える憧れだった。
この新型AK47を今の自分の憧れの一つにできれば、失った情熱を思い起こせるかもしれないと密かに期待している。
バルセロナ優勝決定もいまいち感動が薄いのはなぜか
リーガ・エスパニョーラ2017-18シーズンの優勝チームがバルセロナに決定した。
優勝に必要な勝ち点が獲得できたため、事実上残りのリーグ戦は全て消化試合となる。
主要リーグで優勝が決まったのはドイツ、イングランド、そして今回のスペインなのであとはイタリアがどうなるかだ。
他のリーグに比べるとスペインは優勝チームが決まっていると言われながらも、なんだかんだで優勝争いはもつれる。
もちろん最終節までも優勝争いが続くのが理想だが、他リーグが早すぎることで比較的混戦しているように思える。
今回のバルセロナの優勝は、昨シーズン優勝を寸前のところで逃した上に、開幕前は暗黒期到来だと言われていたこともあったので間違いなく快挙だ。
まさか優勝するとは思っていなかったので嬉しいことに変わりはない。
しかしなぜこうも優勝に感動しないかと言えば、それはヨーロッパの国際舞台でバルサが敗退してしまったからだ。バルセロナというのも強豪の宿命としてCLの優勝を求められる、だからこそまさかASローマの前に敗れ去ったということが今も悔やまれる。
それに加えて宿敵レアル・マドリードがチャンピオンズリーグで今年も決勝に進みそうなことがバルセロニスタの心が穏やかではない理由だ。
今季のレアル・マドリードといえば開幕直後は停滞しており、遂にあの忌まわしい白い奴らも終わったかと思っていたが、まさか三連覇に大手をかけようとする段階にまではい上がってきた。
恐れていたことが起きてしまったというか、彼らの生命力は尋常ではない。
UEFAと癒着までされるともう他のチームにはどうしようもないというのが現実だ。
それに加えて長年チームを支えてきたイニエスタが退団しようとしていることで、一つの時代の終わりを感じずにはいられない。
カンテラの育成哲学を基礎にしたチーム作りも、ここに来ていよいよ時代の節目を迎えようとしている。
なんというか、今のバルサは美学で勝っている感じがしない。
育成組織出身の選手が上手く定着できず去っていくという事態が相次いでいる。
単純にメッシが凄いだけのチームになっているというか、もはやメッシがいる事意外にそれほど価値が無いチームになっているように思える。
変革が必要な時にメッシという神がかり的な存在がいることで逆にそこに頼ってしまう構造がある。
メッシの高質なプレーとスアレスの異次元の得点力に支えられているだけで、何かバルセロナが新しいコンセプトを発信しているわけではない。
育成とポゼッションというスタイルを重視して世界を席巻していた頃とは異なり、今バルセロナだけが持つ魅力というのをいまいち感じられない。
またこれは個人的な事情としてネイマールがいないのはやはり寂しいという思いもある。そしてそれ以前に実はシャビの退団によって自分のバルサ熱は既に減衰しており、あの時にもしかしたら時代は終わっていたのかもしれない。
自分はメッシは間違いなく凄いとは思っているが、何か自己投影をするような人間的な魅力はそこまで感じていない。
どちらかというとネチネチした感じのシャビ・エルナンデスやロジカル的であり耽美学者でもあるペップ・グアルディオラのような魅力あふれる哲学者が存在しない。
そしてもう一つ個人的な理由として、もはや映像でサッカー観戦をすることにそこまで新鮮味を感じなくなったという問題もある。
結局のところ日本でバルセロナを見ていても、現地ファンとの間には隔たりがありこの壁を越えなければ真のバルセロニスタではない。
スペイン語やカタルーニャ語が分からないことで、真の現地の情報は伝わってこないしその雰囲気も分からない。
自分はバルセロナが美しいサッカーをしているから好きなだけではなく、カタルーニャ州独自の文化にも思い入れがある。
カタルーニャがスペインであるかどうかという問題はともかく、自分はスペイン文化自体が好きでもあるのでよりもっとスペインを感じたいのかもしれない。
初めてバルセロナの試合を見たときのような感動はカンプ・ノウでしか味わうことができない。
だからこそ自分はスペインへのサッカー観戦旅行も計画している。
スペインやバルセロナに不思議な魅力を感じるのは、それが自分にとって約束の地であるからだろう。
キリスト教の聖地巡礼でサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す旅程というものがあるのだが、ある意味それと一緒でバルセロニスタにとっての聖地はカンプ・ノウだ。
天理教の信徒が奈良の天理市を目指すような話ではないが、ある意味宗教に近いバルセロナを信仰する人ならば、いずれ訪れなければならないのがカンプ・ノウなのだろう。
自分はユーラシア大陸の「最果ての地」とも言えるイベリア半島にあるスペインにどこか旅情を感じるからこそ、リーガ・エスパニョーラにも魅力を感じているのかもしれない。
またバルセロナというチームは「クラブ以上の存在」と言われ、日本でも話題となったカタルーニャ独立問題と関係が深い。
代理戦争というわけではないが、フランシスコ・フランコの独裁政権時代に弾圧されながら、苦難を乗り越えてきたカタルーニャの象徴となるクラブでもあったのがFCバルセロナだ。
美しいスタイルだけでなく、中央政権に対抗していくという反骨心がバルセロナのもう一つの魅力でもある。
カンプ・ノウに訪れたときは、かつてここでしかカタルーニャ語を話せなかったことに思いを馳せれば、それはサッカーと共に歴史を知るという事でもある。
出来ればシャビやイニエスタの全盛期時代にも見に行きたかったが、リオネル・メッシが現役時代の内に行くというのはまだ時間がある。
バルサが好きだと言っておきながら、一度も見に行ったことが無いというのはやはり恥ずかしい思いもある。
それに加えて、もう日本だけで見れることはある程度堪能してしまったのだろう。
これも飽きが来ることの一つであり、自分は映像でサッカー観戦することもある程度やりつくしてしまったのかもしれない。
それを何か自分の新しいモチベーションの一つにしたいし、まさにリアルへの傾倒だ。
もう日常の範囲内で起こり得ることは体験してしまい、ネットもこれ以上刺激が無いという段階になったのならば目指すべきは壮大な目標だ。
五体投地といって、地面に伏せては起き上がるということを何度も繰り返しながらチベットのポタラ宮殿を目指すチベット仏教を信仰する人々がいる。
それほどのモチベーションを見習って、自分も情熱の国を目指さなければならない。
聖地へ訪れるために日常を生きる、それが実は古来から人々の原動力だったのではないだろうか。
正直今のネットに飽きてきたor冷めてきた奴wwww
ネットつまらなくなったよなぁという懐古厨になってしまうが、なんというか単に自分は飽きているんだろうなという結論に行き着く。
自分のネット歴を計算すると小学校の頃にパソコン室でネットを始めて、その後自分専用のPCを手に入れたということになるので、既に今の中学生の一生分の時間が経っている。
冷静に考えて中学生の年齢丸々ネットで過ごしていると、もうあらかたのことは知っている事になるわけで、そりゃ飽きが来て刺激が無くなるよなぁとなってしまう。
ネットをやり過ぎたし、ある意味一番楽しかった黄金期の時代を経験したからこそ今が物足りなく感じるのかもしれない。
結局10年以上ネットをやってきて行き着いたのが、その冷淡さや浅さであったり、薄っぺらさであることに気付く。
インターネットのバーチャル空間が面白い人々であふれた、現実とは隔離された広大な空間に思えていたのは錯覚でしかなく、実は現実の延長線上に存在するものに過ぎない。
大して面白い人がいるわけでもないし、自分のよき理解者がいるわけでもない。
濃密な空間に思える物は全て表面上で、同じ空間にいるという一体感など虚構に過ぎない。どうせ冷たい他人同士が仲間であるかのような感覚を持ったところで何も残らないのが現実だ。
ネットに暖かい人はおらず、実はお互いが冷やかに見ている空間に過ぎない。
自分自身もうネットで見るものも無くなってきたというか、単純に自分の感性が衰えただけなのかもしれないが、もう刺激を得られるものは無い。
大抵の時間はお酒を飲みながらyoutubeを見て過ごしており、それもほとんどが海外の動画だ。かろうじて自分にとって新鮮味を感じるのが海外コンテンツであり、日本のコンテンツで見ているのは実質ジャニーズぐらいしかない。
女性アイドルに関しては完全に韓流にシフトしているし、サッカーも日本代表を応援するのは今回のロシアワールドカップが最後になるかもしれない。それ以降は海外サッカーさえあればいいという感覚になっていくだろうし、アニメやゲームも熱量を感じるものは少なくなっている。
もう今更ポケモンをしようとも思えないし、何か究めるならば語学だという考え方になっている。
今感じるのは言葉の壁で、外国語がもっとできるようになれば海外のネットが面白くなるだろうと感じている。単純に日本のネットに飽きたというか、そろそろ見限りをつける時期に来たのだろう。
面白い物はもうないよなぁというよりも、自分の感性と合わなくなっている。
ネットで大きなことを出来ると信じていたのは自分が単純に青い夢を見ていられた時期だからだ。現実には何かすごいことが始まるわけではないし、冷めた人が白い目で見ているだけに過ぎない。
ピクシブやニコニコ動画、ツイッターも露骨に衰退していて、もう今はユーチューブ一強状態になっているなと感じる。面白い個人サイトが反映していた時代は終わっているし、個人が何かやろうとすることに対して冷淡だよなぁと感じることの方が多い。
そのユーチューバーも昔のように個人がやっているというよりも、もう大手事務所に入っているような実質芸能人になっており個人の力で何かするという時代でもなくなっている。個人の創作や活動に夢を見れた時代はもう終わっているというか、今日日情熱を持った人はあまりいないし、それを応援する風潮でもないなと思う。
今のユーチューバーやソシャゲが面白いと感じる人は楽しいのかもしれないが、自分のように日本のユーチューバーはうざいと感じる人にとっては面白くない。
逆に海外のユーチューバーは面白く、言葉の壁さえ超えればもう一度楽しめるのではないかとも期待している。
そもそも普通に芸能人やテレビのほうが面白いと再評価しており、かつて「テレビは時代遅れ、これからはネットの時代」と思っていた頃の自分とは真逆の発想をしている。
テレビの権力がまだ大きかった時代は逆らっていたが、ネットがもうこれだけ普及すると逆に特別な空間ではないことに気付く。
一般化と均質化が進んだ結果、似たような物しか作られなくなった。
定型文でしか会話ができない人が増えたし、そもそもスタンプやいいねのように省略化されたコミュニケーションで済まされる時代になっている。
ネットってもっと面白い方向に大きくなっていくのだと思っていたら、訪れたのは違った未来でしかなかった。醜い現実が存在するだけでしかなく、むしろリアルの方が深みがある事に気付く。
これは自分のような懐古厨の考え方で、今のネットに適応できている人は大勢いるだろう。
前述のように単純に自分がもう10年以上もネットをしているからこそ、大体のことが想像がつくし現実を悟っているのだ。
衰退論になってしまうがいろんなオンラインゲームが活況としてた時代は終わり、どこも過疎化が押し寄せ、それほど明るい未来にはなっていかない。
個人サイト、個人の創作は全部ユーチューバーになっていくし、ゲームは全部がソーシャルゲームという最適解に行き着くだろう。
いろんなジャンルである程度テンプレ的な最適解が見つかっていて、皆それをして表面上の一体感を得ているだけの時代になった。
ネットユーザーの個人それぞれに凄く個性があって面白いと思っていたのは幻想で、ごく普通の一般市民の集合体に過ぎなかったとも言える。
結局整備されすぎると均質化されるという話であり、なおかつ自分もそこに染まっていく。
そしてそろそろ一旦区切りをつけて、現実にシフトしていこうかなと最近の自分は考えている。社会に取り残されたがそれでも自分は抗う、とか言ってないで普通に現実社会に溶け込んでいこうかなと思っている。
もうネットに期待しても大して面白い事にはならないだろうし、結局世界は変えられない。分相応の人生を生きるべきというか、普通の奴になれよという話なのだろう。
いろんなことを見尽くしてきたがゆえに、もう新鮮味はそこにはない。
今でもネットは無いと困るし、なんだかんだで好きではあるが昔ほど執着心があるわけでもないという事に気付く。
自分が何か新しい物を見つけようと思わなくなったし、見つけても想像の範囲内に過ぎない。新しく面白い物が作られていない、もしくは新しい物は作られているが自分の感性には合わない。
そういった諸々の事が積み重なって、今の自分には刺激は無いのだろう。
世の中冷めている人が増えたと言っておきながら、一番冷めているのは自分だ。
単純にネットで長く暮らしすぎて、感性が劣化したし自分の範囲内に面白い事は起こり得ないことに気付いた。
「あの頃」という存在もしない幻想は時を経つほど美化されるが、同時に現実はつまらなくなっていく。この反比例の現象に自分は苛まれているのかもしれない。
実はもともとネットというのは大したものでもなく、そこまで期待しすぎるものでもなかったのだろう。
満州国が五族協和の新時代を作っていくユートピアになると本気で信じていた人は純粋すぎたわけで、現実には瓦解して悲惨な末路を迎えただけにすぎなかった。
ネットはそんなユートピアでもなんでもないし、素晴らしい人々が大勢いる約束の地でもない、それが真実だったのかもしれない。
堂安律、今私が最も期待する男の名である
世の中の日本人「カー娘のもぐもぐタイムが可愛い!ザキトワが秋田犬飼いはじめた!大谷翔平の二刀流がロサンゼルスで大絶賛!日本相撲協会が何か問題を起こしているぞ、とにかく叩け!」
そんな日本凄いですね報道や、悪者を糾弾することでエクスタシーを満たす現代人の姿に飽き飽きしている今の自分を活気づけてくれる男がいる。
堂安律、今サッカーオランダリーグでメディアの無関心を気にせず孤軍奮闘を続け、大きな夢を追う兵庫県出身の左利き選手だ。
ウィング大国オランダで、果敢にサイドを切り裂き挑戦し続ける堂安の野心的な姿はとても刺激的であり、日本サッカー界の未来を感じさせる。
日本人選手の聞いていて心地が良い大本営発表的活躍とは異なり、今の堂安律は本物だ。得点とアシストという明確な数字がその活躍を証明しているだけでなく、実際のプレーをみていても大きなスケール感のポテンシャルを感じさせる。
社会の暗いニュースが続く時代、疲れ切った心を癒す報道しか求めない日本の風潮に逆行するかのように意欲的に挑戦し続ける。
挑戦することが無意味だと諦めきった日本社会に風穴を開ける存在だ。
彼は未来は明るくなっていかないと受け入れてしまっている日本人の気質に真っ向から反する。日本が明るくなっていかないなら、自分は海外で明るい夢を追い求めればいいという発想の転換が彼にはできる。
サッカーという競争が厳しく、必ずしも日本人が活躍しやすいわけではない環境にあえて飛び込み自分を変えようとしている。
日本人が内向き志向になり、自国の良い部分だけを聞き、全員で安心し合う時代に堂安律は驚くほどに積極的であり海外志向だ。
この男、非常に果敢であり外国人的なメンタルをしている。
今の時代、日本人は内向き志向か海外志向かで極端に分かれている。
衰退する日本に妥協するか、ここを飛び出して夢を追い求めるか。
むしろ「外国人の方が自分に合わせろ」というぐらいの勢いで我を貫く姿勢は、謙虚さが美徳だと思っており、和を乱さないことを心がける今の後ろ向きな日本の若者と大きく異なる。日本に可能性がなくとも、海外には無限のフロンティアがあるという視野の転換ができる柔軟な思考力がある。
何かを積極的に起こしていき批判されることや失敗を恐れず、旋風を巻き起こし世の中を席巻することを夢見るタイプの人間が例外的に表れる。
それがかつては三浦知良や中田英寿であり、本田圭佑であり、そしてその系譜は堂安律や中島翔哉に受け継がれている。
サッカーに限らずTWICEの日本人メンバーなどを見てもわかるように、むしろ若者ほど海外に夢を見なければならないだろう。残念ながらこの国は若い世代の挑戦する国ではなく、完全に老衰しきったムードが漂い始めている。
今の時代「日本でそれなりに満足できるよね」という後ろ向きな思考はもはや時代遅れだ。その後ろ向きな馴れ合い的仲間意識に満足できるタイプの人間と、満足できないタイプの人間がいるのならば堂安は後者だろう。
「CLベスト4に進出するクラブに移籍する」と堂々と夢を掲げる姿は、ほどほどの日常的な幸せに皆で満足していればなんとなく安心感があるよねという最近の日本人の考え方の真逆を行く。
サイドプレイヤーという最も攻撃的に意欲的にリスクを恐れず仕掛けなければならないポジションで奮闘する堂安律は、この度その功績が認められフローニンゲンと完全契約を勝ち取る。
本田圭佑以降こういった海外志向の強い日本人選手が登場しないのではないかと思っていたが、むしろオランダで奮闘する堂安律、ポルトガルで挑戦し続ける中島翔哉と後継者が相次いでいる。
日常に妥協し、希望を持たないから不幸でもないというさとり世代だと批判されながらもむしろその風潮に逆らう若者はこうして確実に存在する。
停滞した空間の居心地の良さに安息の地を求める人々と異なり、彼らは海の向こうに大きな野望を求める。
ロシアワールドカップ後の新星日本代表があるとするならば、左サイドは中島翔哉、右サイドは堂安律という姿を思い浮かべることができる。
センターフォワードは南野拓実か小川航基のような威勢の良い選手をストライカーしたい。
元々日本人は農耕社会の中で何かの社会的抑圧を受け入れることを容認することが長年ごく普通の人生だったが、時折その圧力に対して反発する狩猟民族的な価値観を持つ個人が現れることがある。
空気を読み和を乱さず、小さな仲間意識を維持し安心感を満たすことだけに人生を捧げることに幸せを感じるタイプの人間ならば堂安律には魅力を感じないだろう。
社会に埋没した個人同士の楽ではあるが後ろ向きな共感よりも、上を向く個人同士の衝突を堂安は愛する。
国や社会という単位どころか、日常のコミュニティが全てだと考える現代の若い世代とはまるで真逆の存在がいる。
堂安律、今私が最も期待する男の名である。