負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

バルセロナ優勝決定もいまいち感動が薄いのはなぜか

リーガ・エスパニョーラ2017-18シーズンの優勝チームがバルセロナに決定した。

優勝に必要な勝ち点が獲得できたため、事実上残りのリーグ戦は全て消化試合となる。

主要リーグで優勝が決まったのはドイツ、イングランド、そして今回のスペインなのであとはイタリアがどうなるかだ。

 

他のリーグに比べるとスペインは優勝チームが決まっていると言われながらも、なんだかんだで優勝争いはもつれる。

もちろん最終節までも優勝争いが続くのが理想だが、他リーグが早すぎることで比較的混戦しているように思える。

 

今回のバルセロナの優勝は、昨シーズン優勝を寸前のところで逃した上に、開幕前は暗黒期到来だと言われていたこともあったので間違いなく快挙だ。

まさか優勝するとは思っていなかったので嬉しいことに変わりはない。

 

しかしなぜこうも優勝に感動しないかと言えば、それはヨーロッパの国際舞台でバルサが敗退してしまったからだ。バルセロナというのも強豪の宿命としてCLの優勝を求められる、だからこそまさかASローマの前に敗れ去ったということが今も悔やまれる。

 

それに加えて宿敵レアル・マドリードがチャンピオンズリーグで今年も決勝に進みそうなことがバルセロニスタの心が穏やかではない理由だ。

今季のレアル・マドリードといえば開幕直後は停滞しており、遂にあの忌まわしい白い奴らも終わったかと思っていたが、まさか三連覇に大手をかけようとする段階にまではい上がってきた。

恐れていたことが起きてしまったというか、彼らの生命力は尋常ではない。

UEFAと癒着までされるともう他のチームにはどうしようもないというのが現実だ。

 

それに加えて長年チームを支えてきたイニエスタが退団しようとしていることで、一つの時代の終わりを感じずにはいられない。

カンテラの育成哲学を基礎にしたチーム作りも、ここに来ていよいよ時代の節目を迎えようとしている。

なんというか、今のバルサは美学で勝っている感じがしない。

育成組織出身の選手が上手く定着できず去っていくという事態が相次いでいる。

単純にメッシが凄いだけのチームになっているというか、もはやメッシがいる事意外にそれほど価値が無いチームになっているように思える。

 

変革が必要な時にメッシという神がかり的な存在がいることで逆にそこに頼ってしまう構造がある。

メッシの高質なプレーとスアレスの異次元の得点力に支えられているだけで、何かバルセロナが新しいコンセプトを発信しているわけではない。

 

育成とポゼッションというスタイルを重視して世界を席巻していた頃とは異なり、今バルセロナだけが持つ魅力というのをいまいち感じられない。

 

またこれは個人的な事情としてネイマールがいないのはやはり寂しいという思いもある。そしてそれ以前に実はシャビの退団によって自分のバルサ熱は既に減衰しており、あの時にもしかしたら時代は終わっていたのかもしれない。

 

自分はメッシは間違いなく凄いとは思っているが、何か自己投影をするような人間的な魅力はそこまで感じていない。

どちらかというとネチネチした感じのシャビ・エルナンデスやロジカル的であり耽美学者でもあるペップ・グアルディオラのような魅力あふれる哲学者が存在しない。

 

そしてもう一つ個人的な理由として、もはや映像でサッカー観戦をすることにそこまで新鮮味を感じなくなったという問題もある。

結局のところ日本でバルセロナを見ていても、現地ファンとの間には隔たりがありこの壁を越えなければ真のバルセロニスタではない。

スペイン語やカタルーニャ語が分からないことで、真の現地の情報は伝わってこないしその雰囲気も分からない。

自分はバルセロナが美しいサッカーをしているから好きなだけではなく、カタルーニャ州独自の文化にも思い入れがある。

カタルーニャがスペインであるかどうかという問題はともかく、自分はスペイン文化自体が好きでもあるのでよりもっとスペインを感じたいのかもしれない。

 

初めてバルセロナの試合を見たときのような感動はカンプ・ノウでしか味わうことができない。

だからこそ自分はスペインへのサッカー観戦旅行も計画している。

スペインやバルセロナに不思議な魅力を感じるのは、それが自分にとって約束の地であるからだろう。

キリスト教の聖地巡礼でサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す旅程というものがあるのだが、ある意味それと一緒でバルセロニスタにとっての聖地はカンプ・ノウだ。

天理教の信徒が奈良の天理市を目指すような話ではないが、ある意味宗教に近いバルセロナを信仰する人ならば、いずれ訪れなければならないのがカンプ・ノウなのだろう。

自分はユーラシア大陸の「最果ての地」とも言えるイベリア半島にあるスペインにどこか旅情を感じるからこそ、リーガ・エスパニョーラにも魅力を感じているのかもしれない。

またバルセロナというチームは「クラブ以上の存在」と言われ、日本でも話題となったカタルーニャ独立問題と関係が深い。

代理戦争というわけではないが、フランシスコ・フランコの独裁政権時代に弾圧されながら、苦難を乗り越えてきたカタルーニャの象徴となるクラブでもあったのがFCバルセロナだ。

美しいスタイルだけでなく、中央政権に対抗していくという反骨心がバルセロナのもう一つの魅力でもある。

カンプ・ノウに訪れたときは、かつてここでしかカタルーニャ語を話せなかったことに思いを馳せれば、それはサッカーと共に歴史を知るという事でもある。

 

出来ればシャビやイニエスタの全盛期時代にも見に行きたかったが、リオネル・メッシが現役時代の内に行くというのはまだ時間がある。

バルサが好きだと言っておきながら、一度も見に行ったことが無いというのはやはり恥ずかしい思いもある。

それに加えて、もう日本だけで見れることはある程度堪能してしまったのだろう。

これも飽きが来ることの一つであり、自分は映像でサッカー観戦することもある程度やりつくしてしまったのかもしれない。

それを何か自分の新しいモチベーションの一つにしたいし、まさにリアルへの傾倒だ。

もう日常の範囲内で起こり得ることは体験してしまい、ネットもこれ以上刺激が無いという段階になったのならば目指すべきは壮大な目標だ。

 

五体投地といって、地面に伏せては起き上がるということを何度も繰り返しながらチベットのポタラ宮殿を目指すチベット仏教を信仰する人々がいる。

それほどのモチベーションを見習って、自分も情熱の国を目指さなければならない。

聖地へ訪れるために日常を生きる、それが実は古来から人々の原動力だったのではないだろうか。