負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

正直、中国軍の拡大路線にワクワクしてる奴wwww

世の中が何か壮大な方向に発展していくのではないかという憧れはもはや過去のものとなりつつある。21世紀という新世紀が始まる前はこれから世界が明るい方向に発展していくのではないかという感覚がもしかしたらあったかもしれない。

 

しかしいざ21世紀になってみるとどこの先進国も少子高齢化に悩み、それほど劇的に何かが発展していくことは無いどころか緩やかな衰退に入る時代になっている。

 

軍事予算は財政を圧迫し、宇宙開発のような壮大なこともコストパフォーマンスが悪くかつてほど大規模に国運をかけて行われるという事は無い。

つまり世の中いろんなところで「ロマン」が無くなり、重厚長大な物というのは無用の長物になり、そこにもはや憧れを感じなくなってきている。

今の世の中小さなものがスタイリッシュであり、巨大な物に憧れるわけでもなく未来に大きな希望を感じるわけでもない。

 

それって浪漫なくてつまらないよなぁと自分のような人間は考えるのだが、そんな人間にとって唯一希望を持てる国がある。

それは中華人民共和国、つまり中国だ。

誤解無きようにまず前提として自分は決して毛沢東主義者でもなければ、中国の政策路線や中国共産党を賞賛しているわけではない。

敵国というと語弊があるが、対立している国でありながらも中国のやっていることは壮大だなと羨ましく感じることが多い。

中国軍

自国で戦闘機や空母を本気で開発することや、大規模に宇宙開発をする事、更に「一帯一路」のように自国の経済圏を拡大していこうとする事、それらすべてに壮大な構想がある。

結局自分は「大きなこと」をやろうとする人々が好きなだけであり、昨今の日常のささやかな癒しがあれば幸せだよねという発想にはホトホト飽き飽きしているのである。

その意味で中国は良くも悪くも野心というものがあり、壮大な未来が訪れそうな予感を抱かせる数少ない国家だ。

 

まず何よりもその人口と国土は計り知れない。

アフリカの全人口よりも中国の人口は多く、中国国籍を持たないが華僑として中華文化圏に属する人を含めればそこには広大な経済圏が発生する。

更に近年一人っ子政策を廃止し、再びこの巨龍は人口大国として歩み始めようとしている。更に21世紀をリードする大国へと成長するであろうインドとも隣接しており、莫大な規模の一帯がそこには存在する。

 

「一帯一路」というのは現代版シルクロードの建設を行い、中央アジアなど周辺国と共に発展していこうとすることが理念である。

しかしこの実態はかつて日本が掲げていた「五族協和」や「大東亜共栄圏」のような高邁なる理想とは裏腹に、実際は中国の融資によって様々な施設を建設するが高い金利に苦しみ結局は中国に"合法的"に接収されるという代物なのだ。

例えばインドの近くに浮かぶ島国スリランカの港湾施設は中国の融資によって建設されたが、結局ここは実質中国に奪われ将来的に人民解放軍の軍港として使われる可能性が高い。

 

近代史を紐解けば、中国は様々な自国内の施設をかつて世界の列強に支配されていた時期がある。南満州鉄道や旅順港は日本の大陸進出とも関係が深く、香港はつい最近までイギリスに属していた。

いわば中国としてはかつれされたことを同じような手段で近隣諸国に今度はしようとしているのである。

それは日本がかつて日米修好条約という不平等条約を結ばされた経験を生かし、今度は同じ手段で朝鮮を開国させ日朝修好条規という同じく不平等条約を締結したことと似ているかもしれない。

 

中国はまさにかつて列強に蹂躙され利用されたという経験があるからこそ、今度は自分たちが同じ手段で近隣諸国を飲みこもうとしているのだ。

1/48 中国空軍 J-7G 多用途戦闘機 プラモデル[トランペッターモデル]

 

しかし自分は決してこの路線を批判的に見ているわけではない。

「国を大きく発展させていこう」ということを今時の先進国はあまりしなくなっており、衰退と向き合っている。そこに寂しさを覚える人間としては、中国のこういったいわば20世紀型の路線はもはや貴重な事なのである。

ある意味時代遅れの帝国主義的政策をやり、未だに一党独裁を敷いている中国というのはもはや現代にはなかなか見ることができない"古き良き大国"なのだ。

アメリカもかつてほど世界中に干渉するわけではなくなり、どこの国も軍事予算を削減することが最適解というつまらない時代になっている。

 

一方で中国は莫大な人口と資源という国家としての体力があり、更に人権や民主主義というしがらみを度外視し国家のやろうとする事に邁進できる構造がある。

 

自分が中国人の立場だったらと想定するならば、きっとワクワクしているだろう。

中国の路線を批判的に見ている人も自分が中国人だったら、中国共産党の路線は頼もしく感じるはずだ。

 

また中国が拡大路線を取るということは、近隣諸国にとっても脅威になり対抗せざるを得なくなる。

自民党の麻生太郎が「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」と語っているが、中国脅威論が増せば実は日本もアメリカも都合のいい軍拡の理由ができるのである。

ヨーロッパの歴史がなぜあれほど戦いに満ちているのかと言えば、それはヨーロッパの領域に列強がひしめいていたからだと石原莞爾は分析している。

フランスやドイツが定期的に軍拡路線に走るからこそ周辺国はそこへの対抗策を打ち出し発展してきた。それが今の欧州はEUなる物を作り、どこも仲良子よしのつまらない時代になって来ている。

欧州が面白いのはもはやサッカーだけであり、それ以外はオワコンだと言わざるを得ない。

 

そのようにヨーロッパがただ馴れ合い地域に劣化した今、「列強ひしめく世界観」というものを作れるのはアジアしかないのだ。

中国というトラブルメーカーがおり、北朝鮮もいる、ロシアもいる、そしてインドもいる、そし我らが日本も存在する。

平和主義者には激怒されるかもしれないが何が起こるかわからないワクワク感というものが常に存在するのがこの地域だ。

正直本音としては「中国もっと軍拡やってくれよ」というのが本音であり、結局自分はミリタリーDD(誰でも大好き)なのだ。

 

重厚長大なものを作り、壮大な構想を打ち出す大国が絶滅危惧種になりつつある今、むしろ中国は貴重なのだ。大きなことを出来るのは大きな国しかない。

戦前はソビエト連邦という"巨悪"があったからこそドイツは対抗しようとしたし、戦後はアメリカとの熾烈な冷戦を演じた。

明治時代ならば日露戦争の時代のように、南下してくるロシア帝国に怯えてくる時代の方が結局はワクワクして面白かったのである。

やはり悪役は必要であり、日常の癒ししか存在しない世界はつまらないのだ。打倒するべき対象がいるからこそ張り合いという物も生まれるのである。

 

今の中国の拡大主義路線を見ている日本人の感情というのは、戦前大日本帝国が領土と軍事力を拡大し周辺国に影響を及ぼそうとしていた姿を見る感情と似ているかもしれない。

果たして中国は真珠湾まで行けるのか、そして宇宙まで進出が可能か。

 

やはり歴史というのは中国が大きくなければ面白くは無い。

基本的に中国は有史以来大国であり続けてきたわけであり、良くも悪くも世界の中心である「中華」であった。

中国人はその中華の再現をもう一度狙おうとしているだろう。

一帯一路というのはまさに現代版の中華思想であり、その野望は果てしない。

しかし何か大きな世界を作り上げようという情熱がそこにはある。

人々が21世紀に入り失いかけているものを今の中国は示しているのかもしれない。 

1/35 中国主力戦車 96B式 プラモデル[MENG Model]《発売済・在庫品》

 

なぜ最近の若者は「反体制」ではないのだろうか

学生運動を体験した全共闘世代と呼ばれる人の話を聞くとよく「その頃はデモに参加することがかっこよかった」と話すことがある。

新左翼活動に参加した友人が消えることも日常茶飯事で、また長淵剛も「ロックは反体制であるべき」というようなことを語っている。

 

しかし今の若者はむしろ現政権を支持している人の方が多く、それが「最近の若者はなんで今の政権を支持するのかわからない」とテレビ番組のコメンテーターから不思議がられることさえある。

 

今の時代になぜ革命を起こせないかと言えばそれは若者に情熱が無くなっている事だけが原因ではなく、いわゆる頭の良い人たちは基本的に現体制を支持しているからである。

例えばビジネス雑誌プレジデントの読者が評価する歴代総理大臣で、反体制勢力が批判していた総理はことごとく上位に入っており優秀な人は基本的に現政権支持に回ることが多い。

つまり能力を持っている人達はある程度体制側に入ること出来るため、反逆する必要が無い。

自分はどちらかというと革命を起こしていくべきだと考えている立場だが、能力がある人たちは体制側にいるので革命勢力は烏合の衆にしかならないのが現実なのだ。

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また反体制や何かに逆らうということ自体が今の時代やや"暑苦しい"ものになりつつある。

例えば今の若者で長淵剛に共感する人はあまりいないだろう。

機動戦士ガンダムでも昔はジオン公国が好きで、シャア・アズナブルの男としての生き様に憧れる人が多かったが今はむしろ連邦やアムロ・レイに共感する人の方が多い。

日本人には敗者の美学があり、負けた勢力に美意識を見出すことが多いが最近は結局体制が勝つということをナチュラルに理解している人の方が多くなりつつある。

世の中そんな熱くなってもどうせ上手く行かないのだからという事なかれ主義が基本的なスタンスになってきているのだ。

 

時代が変わり今は体制側はそこまで敵視するものではないという考え方になり、実際に自分も「現政権に反発してる人達元気だなぁ」と考えている。

反原発デモしてる人や、わざわざ沖縄まで行って反米軍基地デモをしている人を見るとどこからそのモチベーションが湧いてくるか不思議になるし熱くなれる人は羨ましくもある。

逆に左派に限らず、保守系まとめサイトのコメント欄で周辺国の批判をしている人を見ると執着心凄いなとも感じる。

 

自分の知っている大学の反米極左教授がいるのだが、だいぶ高齢なのに今も反米への高い情熱を維持している。

今の若い世代からするとなぜそこまで反米に熱心になれるのかわからないのだが、「何か大きなものに逆らっている昂揚感」というのは時として生きるエネルギーにもなる。

村上龍の『オールドテロリスト』という小説は高齢者がテロを起こしていくというストーリーなのだが、「老いても維持できるのは怒りという感情だけだ」という台詞がある。

まさにそれが本質で、未だに反体制デモや反米活動、反原発デモをしている人はことごとく高齢化しており、若者でそんな熱い事をしている人はあまり存在しない。SEALDsも結局解散し、安保に勝てないと悟りどこかに消えて行った。

オールド・テロリスト (文春文庫) [ 村上 龍 ]

 

ある意味「反体制」という物が若者の間ではすでにダサいものになっており、何かに逆らっていくようなストーリーはあまり受けることが無い。

初代ガンダムは地球連邦とジオン公国と二つの対立軸だったが、21世紀に入って初代のリメイクのような形で作られたガンダムSEEDはそのようなストーリーになっていない。

最初は連合とザフトの戦いなのだが、いつしかオーブやラクシズという新勢力が現れ、いまいちZAFTにジオンのような魅力は無い。

ガンダムファンにだけを見てもジオンを見て育った世代と、ザフトを見て育った世代では反体制への美学が異なっている。

確かに「コードギアス反逆のルルーシュ」のように巨大勢力に逆らうような話はあるのだが、そこまで広く受け入れられているとは言えず一部の厨二病のような扱いになっている。

 

昔は反体制がトレンドであり、政治熱が冷めて行った後の時代でも校内暴力や暴走族、更に言えば反抗期のようなものがあった。

今の若者世代にとって反逆は一部の厨二病の憧れる事であり、そこまで争いに興味が無いという人の方が多い。

アニメの嗜好も戦う事や争う事よりも、悪いキャラは出てこない仲良しグループの日常を求めるようになって来ている。

今のアニメで嫌な性格のキャラクターはなるべく出てきてはいけないし、同じアニメファンの中で対立することも避けられる。つまり何かの危険を冒したくはないし、仲よくしときたいというのが、今のトレンドでそれはLINEグループやタイムラインを荒らさないほうが嫌われないという感覚に近い。

 

林修が「小池百合子が"排除"という言葉を使ったのはまずかった。現代人は極度に仲間外れにされることを恐れる。」という解説をしていたのだが、体制側にいることが居心地がよく浮いた人間になりたくないというがもはや本音なのかもしれない。

アイドルグループも仲の良さが重要になり、仲が悪い事はそのグループの人気に関わる時代だ。アニメもアイドルも仲良しグループの仲の良さが最重視される時代であり、「LINEグループ化現象」がどこにおいても進んでいる。

 

実際自分も革命熱や政治熱のような物は減衰して来ており、男性ホルモン自体が少なくなってきている。

「危険思想の持ち主が最近少なくなって寂しい」と言いながらも、自分自身がそこまで熱心に戦いを求めなくなった。

男子の女子化が進んでおり、男性ホルモンが徐々に少なくなってきているとも言える。

実際ゆとり世代の自分からすると路上で目が合ったら喧嘩していた時代の話は信じられないし、哀川翔が原宿の竹下通りで抗争していたエピソードは素直に凄いなと感じる。

学生時代一回も肉弾戦の喧嘩をしたことが無いという男子がもう完全なる多数派になっており、今の時代仲が良いことが至上価値として育てられている人の方が多い。

そういう時代にそりゃ反体制になるわけがないのは至極当然の事なのかもしれない。

SNSで日常アニメ見て分かりやすい短いセリフを実況する事に癒しを求める人が増え、もはやLINEグループの身内ではぶられないことを最優先するという時代になっている。

 

これは今自分が勝手に考えた定義だがもはや「ゆとり世代」というよりも、更に「LINEグループ世代」という層が最近は登場している。

自分はギリギリ高校時代はLINEというのが無かった世代なので、正直なところLINEグループを気にするということを10代で体験することはなかった。

今はそれがナチュラルな世代になって来ており、こういう世代からもはや反体制分子が育つことはありえないだろう。

自分のようなゆとりも相当大人しいが、今の日常癒しアニメや親近感ユーチューバーを見て育っている世代は、更に何かに反発することに魅力を感じないのではないか。

ゆとり世代、LINEグループ世代、そして更にあと数年で「ヒカキン世代」という層が登場する可能性もある。

 

反体制に熱心な人は年齢的に高齢化して来ていて、若者の方は精神的に高齢化してきている。

若者が若者らしくなくなっているというか、夢を見ず冷めた人が多くなってきている現実はある。今の日本は高齢者の方が元気になっており、怒りだけが彼らを突き動かしている。

 

逆に若者の間で壮大な夢を持っている人はちょっと暑苦しがられるというか、意識高い系に思われてしまうようになって来ているのかもしれない。

長淵剛は暑苦しいし本田圭佑はちょっと意識高い系だという認識が今の若者の考え方なのではないか。

チェ・ゲバラがかっこいいと思う感性を持った10代はもう絶滅危惧種だろう。

イスラム国に憧れて川崎国を作った連中は今の若者の中では相当レアな部類で、沖縄の成人式で暴れてるような連中も普段はまともな社会人をして反体制活動をするわけではない。

 

育つ時代の背景や雰囲気が違うとどうしても人間というのはその影響を受ける。

政治的激動が日常であり、任侠もの映画や不良映画が流行ったり反体制がトレンドだったりした時代と今のLINEグループとSNSの時代では全てが違う。

ガンダムが1stからSEEDになり、そして今はもはやガンダムを見ない時代になった。

これが時代の思潮の変化を表しているように思えてならない。

良いテロリストのための教科書 [ 外山恒一 ]

 

どうしようもない格差社会の中でどう生きればいいのか

格差社会という言葉がしきりに使われるようになってから既に久しい。

世界は格差が進んでおり、もはやイギリスのように明確な階級社会が存在する国もあるしインドのようにカースト制度が実在する国もある。

 

イギリスの階級社会というのは3つに分かれている

・Upper class(上流階級)

・Middle class(中流階級)

・Working class(労働者階級)

よくサッカーは労働者階級のスポーツだという表現をされることがあるが、自分がサッカーが好きなのはこの労働者階級の文化に共感していることが一つの理由でもある。南米やアフリカの貧困層にとって唯一の娯楽がサッカーであるような文化にも親しみを覚える。

 

また世界的に有名なケンブリッジ大学に進学する人のほとんどが上流階級出身者であり、労働者階級出身者が進学した場合孤独を感じることが多いと言われている。

イギリスの国会議員だったジョー・コックス氏が孤独問題について取り組んでいた時に、労働者階級出身だった彼女はケンブリッジ大学で階級の違いを感じ孤独に苛まれていたという事を実体験として取り上げていた。

 

更にイギリスの場合、多文化共生社会になり古来英国の階級に加えて人種による違いも顕著になり多民族社会を形成し始めている。

 

そしてイギリスほどではないが徐々に均質化された社会だった日本も多様化が進み、様々な「差」が露呈するようになって来ている。

日本に生きていて実際自分は他者との格差を感じることが非常に多く、自分と違う階級の人との関係がほとんどと言っていいほど消滅している。

住む世界が違う、人間としての出来が違う、好きな物や趣味も違う、そういう人々に対して共感能力が欠如し始めてきている。

自分で人間関係の限界を決めてしまっているというか、どうせ自分とは違うと考えるようになって来ている。

 

例えば実社会においても既婚者と未婚者の間の壁というのは年々大きくなってきている。

そもそも日本人の大半が結婚する時代から、未婚社会、ソロ社会になり結婚という物がありふれたものではなくなった。

よくネットでも見かける意見が「同級生や友人が結婚したら話やライフスタイルのリズムが合わなくなり疎遠になった」とか、「ママ友同士でしかつるまなくなった」という類のものだ。昔は誰もが結婚していたが今では結婚すら民間人には縁遠いものになり、かつて当たり前に合った幸せからも取り残される層が増えている。

 

最近は学歴においても大卒と高卒が半々になり、社会格差の一つとなって来ている。

階級が固定され一度人生が決まると劇的な変化は得られない時代になっているため、人生に希望を感じられず冷めている層と情熱にあふれた層の意識の違いは顕著だ。

 

更にここに世代間格差も加えられ、世代が違う人同士の話題が全く異なり、ここにも分断化が発生している。

現実では多少の違いがあっても共有できることを見つけることは可能だが、ネットでは一部の情報しか見えないために少しでも違う人は自分と全く違うという感覚に陥る。

今のネットでよく見かけるのが「レッテル張り」だが、何かの違いを殊更に際立てようとする傾向は非常に強くなっており他者との違いを感じることが多くなってきている。

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例えば昔のネットは「負け組の溜まり場」や社会の吹き溜まりという雰囲気に満たされていたが、今のネットは凄い人が自分語りをしSNSのように「幸せ自慢大会」のような雰囲気になって来ている。

ネットの世界を知っているというだけで共感できた時代からネットの雰囲気自体が変わり、多様化し徐々に最下層の人間に居場所が無くなってきていると感じることが多い。

インターネット上ですら自分のリズムと合わない人の方が多数派になり、いよいよ底辺の人間はネット社会からも排斥される少数派になりつつある。

昔のネットというのはどれだけ自分が負け組で悲惨かというのを自虐する雰囲気があったが、今はなるべく自分を大きく見せようという時代になり、他者との差に苛まれる時代になって来ている。

 

特に今はSNSを身内間で利用することが普及し、タイムラインに同級生の進んだ状況が表示されたり、インスタグラムなどで楽しそうな状況が投稿されていたりするという時代だ。

かつては見えなかった「格差」というものが毎日のように突きつけられる時代になり、人々はその差に苛まれている。

 

差が突きつけられるからこそそこに反感が生まれ、「所詮住む世界が違う他人だ」という感覚になり差を容認できなくなる。

元々人間は同じような種類の人間に共感するようにできている。同じ民族で国家を作り国境を引くという考え方は近代になり完全に確立された。そして多文化共生社会が様々な軋轢を生み、階級社会化が深刻化してきている。

そこまで大袈裟なことではなくとも、自分と趣味や世代が合わない人とも話が合わなくなり、似た様な人間だけで集まり違うジャンルの人々とは一切かかわりが無いという「分断化」の時代が形成されている。

例えばスポーツが好きであっても観戦する競技が違うとむしろそこには非共感が生まれる。

 

未熟な人間というのは閉鎖された縦の繋がりしかなく、横の繋がりが無いという話を聞いたことがある。

横の繋がりというのはまさに自分と違う世界の人々との関係であり、自分と似ていない人との関係である。

サッカー選手の本田圭佑が「スポーツ選手はスポーツ選手としか絡まない。むしろスポーツ選手だからこそ会える他の世界の人と出会うべき」と語っていたが、一見共感できないように思える人々との関係をどう増やしていくかが人生を充実させることになる。

奇しくもサッカーというスポーツ自体、様々な人種や階級、国籍、プレースタイル、ポジションの選手が集まる世界であり、違う人が集まるからこそ良いチームを作れる競技だ。

全く違う11人が集まることで1つの素晴らしいチームが生まれる。

 

自分と似た人間とだけ群れるのは居心地が良く、自分と違う人間と理解し合うには手間がかかる。今の世の中は日本の中ですら少し自分と違う人を理解することが億劫になり、そのわずかな違いを強調する時代になって来ている。

 

しかしそれは理想で、独身は独身といたほうが居心地がよく、ママ友はママ友といたほうが何かと助け合い生活しやすいのが現実だ。

自分が持っていない物を持っている人との話は合わないというのは当然の事であり、逆持ってる人はそれを気遣うことに疲れてしまう。

いろんな人と理解し合うことは理想だが、結局根本的には理解し合えないのが現実なのだ。

 

人種や国籍はもちろんのこと、世代、職種、性別、学歴、階級、地域、趣味、性格、そのわずかな違いは、理想と裏腹に今も大きな違いでありなかなか共感することはできない。

そのように他者への理解力や共感力が年々自分は落ちてきている一人だ。可能性を狭めているのはまさに自分で、結局のところ恵まれない負け組だけでつるんでいるほうが居心地が良いという感覚になって来ている。

コミュニケーション能力も劣化して来ており自分と違う世界の人と話すこと自体がもう疲れるように感じる。

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かつての自分はまさにUpper classの上流階級になることに憧れていたが、今は人生の敗者の持たざる者と同じ空間にいることの方が居心地が良い。

銀の玉を出し入れする景品交換施設に行くと社会の吹き溜まりのような雰囲気がある。自分はそれをするわけではないが、世の中こういう人々が案外多いんだなと思うと安心感を覚える。

また今は行っていないがかつて派遣バイトをしていた時、そこにあった敗者の吹き溜まりのような雰囲気はとても居心地が良かった。

 

よくフェイスブックやインスタグラムの幸せ自慢大会に付いて行けずSNS疲れしているという人がいるが、みんながネットをしないといけない時代というのは実はかなり不幸な事だったのではないかと自分は考えている。

勝ち組になることが難しい格差と階級の時代に、ネットを見なければならない状況というのは無駄に疲れるだけでしかない。

かつてネットを見れば必ずしも成功者だとは言えない人が多く安心したが、今はむしろ逆になっており、現実にある地方の寂れた場末の競輪場やボートレース場のような場所のほうが安息の地なのかもしれない。

何かの支援施設や新興宗教の集会のようなところも自分と同族がいて落ち着くだろう。傷をなめ合うというわけではないが、慰め合える空間のほうが他者への寛容さが欠如し始めてきている今のネットよりは穏やかだ。

もしくは人間のいない自然への旅のようにあえて1人になることも良いだろう。

 

この格差社会はもう本当にどうしようもないのが現実だ。

かつて日本にも存在した身分社会はまた姿を変え復活し始めている。

江戸時代には士農工商という枠組みがあり、明治時代には華族制度が存在した。

戦後それらは廃止され今では部落問題もほとんど聞かなくなっているが、レッテル張りや性別叩き、学歴問題、収入格差などまた姿を変え新たな階級が形成され始めている。

格差社会というのはまさに現代における身分制度の事であり、結局人類というのは平等になれなかったことを意味している。

むしろ現代社会において他者との壁は大きくなり分断が進んでいるように思えてならない。

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チェスファンが日本で抱いている疎外感

ここ最近本当によく「将棋」の話題を見かけ、そのブームを実感する。

藤井聡太六段が最年少で優勝し、もはや天才の代名詞となり、ひふみんは様々なバラエティ番組やコマーシャルに引っ張りだことなっている。

そして言わずと知られた羽生善治は多くの人から尊敬されており、自分自身実際に著書を持っているほどだ。

 

その一方で同じようなボードゲームとして長い歴史があるチェスは日本ではそれほど話題にされることが無く、活気にあふれた将棋と比較すると閑古鳥が鳴いている。

自分は将棋よりもチェス派であり、中学から高校時代にかけて独学でプレーしていたことがある。実力は全く大したことが無いアマチュアでしかなかったが、チェスという競技の世界そのものがとても気に入っていた。

 

アニメに影響されて始めただけの厨二病でしかなく、実際にはかっこいいからという雰囲気に憧れていただけであった。

これだけ日本でボードゲームが注目されるようになったこと自体は非常に素晴らしい文化ではある。しかしチェスの雰囲気や駒のデザインのほうが好きなので、どうしても今更将棋を始める気にはなれない。

 

学生の頃にクラスで流行っているゲームには興味を持たず、自分しか持っていないようなゲームをやっていた人は疎外感を感じていただろう。

まさに今の日本でチェスをするというのは流行っていないゲームを1人でやるようなものであり、やっていて寂しさを感じないと言えばそれは嘘になる。

かといって流行りのゲーム、つまり将棋をやる気にもなれないというのが大きなジレンマだ。

 

またスポーツに例えるならば野球があるのにわざわざクリケットをするようなものだろう。実はクリケットは英連邦文化圏内では非常に高い人気があり、実際は野球以上に世界的に普及している。しかしわざわざ日本でクリケットをするとなるとまず環境が無く道具を手に入れることも難しい、そして道具を手に入れても対戦相手がいない。

またテレビでも放送されず、有名選手を知っている人も周りにおらず、ネット上にファンサイトやコミュニティがあるわけではない。

逆に野球はいろんなところで草野球が行われており、夏は甲子園があり日ごろからプロ野球の観戦で盛り上がることができる。SNSでも野球ファンは多く、野球まとめサイトなども人気を集めているのでとにかく誰かと話すことができる。

 

実際日本でクリケットの選手を知っている人がいるだろうか、残念ながら自分は一人も知らない。逆に言えば海外では野球がその立ち位置になるのだが、ここは日本だ。

そして同じく日本でチェスのプレイヤーを知っている人がどれほどいるだろうか。

唯一知られているのはアゼルバイジャンのガルリ・カスパロフだが、この選手は将棋の羽生善治と対談したことでむしろ将棋ファンの間でよく知られている。

決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣 [ ガルリ・カスパロフ ]

 

ホビー・フィッシャーというアメリカのプレイヤーは世界的には非常に有名であり、チェスの歴史に残るような選手だ。

将棋に例えれば升田幸三のような棋士であり、様々な戦術を考案し既存の概念を打破した存在だ。ソ連がタイトルを独占する時代に米ソ冷戦の真っただ中、アメリカに栄冠をもたらしたというエピソードは世界的に良く知られている。

また人間的にも独特な個性があり型破りで規格外の変人だったことは升田幸三とも似ている。

 

しかし実際このホビー・フィッシャーすら日本で知っている人は稀で、ノエウェーのマグヌス・カールセン、インドのアーナンド、ブルガリアのトパロフ、キューバのカスパロフ、ロシアのアリョーヒンなどを知っている人は更に限定される。

これらの選手はサッカーにおけるロナウジーニョやジダン、メッシ、クリスティアーノ・ロナウドのように、日本でもあえる程度知られたレベルの上位の選手であったり歴史に名を残す選手であったりするのだが日本人は誰も知らない。

チェス

つまりこうして話を共有できる人が存在しない事がまさに疎外感であり、世間の人々が将棋棋士の話題で盛り上がっているとき、そこには孤独感が存在するのだ。

自分以外でチェスについて個人的に話している人をネットで探そうとしても、昔から存在するようなサイトが多くリアルタイム感はあまりない。当然ながらチェスまとめサイトのようなものも無く、カジュアルなトークを出来る場所が無い。

かろうじて将棋・チェス板という掲示板があるが、実際は将棋の話題が殆どでありチェスのスレッドは過疎状態にある。

 

昔はヤフーチェスという物が存在し自分は中学時代そこでプレーしていたことがあるのだが、それは遂に過疎化が深刻になり閉鎖されることになった。日本で対戦する場所はほぼ皆無に近く、あったとしてもプレイヤーが存在しない。

スマートフォンには一応アプリが存在するがこれも対戦場所として活況としているわけではない。

 

こうしてネットですら対戦相手が存在しないのだから、現実で対戦相手を見つけることは更に容易ではない。自分はかつてチェスセットを購入したことがあるのだが、結局対戦相手はおらずそれはインテリアと化してしまった。一方で学校のクラスでは休み時間にワイワイと将棋をしているのだから、まるで仲間はずれされたような気分になっていたのも無理はない。

かといって素直に将棋をやる気にもなれないのも複雑な心理であり、チェスファンの多くは今更将棋をする気にはなれないだろう。

 

確かに日本でもチェス大会は存在するが、これは都会に行かなければまともに成り立っておらず地方では現実にチェスの話が通じる人と合う事は絶望的だ。

 

自分は将棋の日本文化的な雰囲気の情緒は決して嫌いではない。

例えば地域の将棋道場を映したようなテレビ番組や、その様子を描写した小説のシーンなどには惹かれる。だからこそチェスにこの文化が無いことが悲しく、閑古鳥が鳴いている事が虚しく感じてしまうのだ。

「こういう文化がチェスにもあったら」と無為な空想をすることになる。

ファン文化やコミュニティがネットにも現実にもほとんど存在しないことは寂しい。

 

例えば将棋まとめサイトやネットニュースなどで棋士の話題を見て盛り上がることが好きだという人は多いはずだ、地域のローカルコミュニティで将棋について話せる場所などでワイワイとすることもきっと楽しいだろう。

こういったボードゲームというのはそうやってワイワイすることも含めて文化なのだが、チェスファンは一人黙々とその世界の研究に没頭するしかなく、この追求というのは中々続く者ではない。

時として文化やコミュニティというのはその競技をやる上でモチベーションにもなるのだ。

しかし現状チェスについて語る人はそれほど多くなく、同じようなファンを見つけることはとても難しくなっている。

 

もはや存在するのかさえ分からないが日本のクリケットファンは大体同じようなことを感じているだろう。インドクリケットリーグの試合を1人見ていても、その話が通用する人はいない。

海外サッカーはまだ現実で十分に話題が通用する人の出会うことがあるし、ネット上にもファンは多い。日本人選手が出場しないような試合でも多くの日本人が観戦している。

現実でも公園などでサッカーをしている人を見ることもできる。

しかしクリケットやチェスは話が分かる人もおらず、当然街中でプレーしている人など見ることができない。そういった文化として浸透している何気ない光景の雰囲気自体がその競技の魅力になる。

 

野球でキャッチボールをしたり、休み時間に将棋をしたりするというのはそれほどレベルが高い事ではない。しかしそういったレベルの高くない世界が存在するということが実はとてもその競技にとって大事な事なのである。

自分はチェスは本当に弱いが同じように弱い人が知り合いにいればワイワイ雑談でもしながらプレーすることができる。

チェス同好会のようなものがある大学や高校ならばできなくはないが、こういった"ハイカラ"なものがあるのはやはり都会の一部に限られる。

 

自分がにわかチェスファンならば、知り合いにはにわか将棋ファンがいる。

その人はそれほどプレーしているわけではないが、いざリアルで対戦しようと思い地域ローカルであっても探そうとすれば対戦相手はいつか見つかるだろう。

チェスファンというのはそれすら滅多にできないのだ。

 

結局自分が最後にチェスをしたこと自体ギコチェスを半年ほど前にプレーしたのが唯一で、それまでは数年間プレーしていなかった。つまりチェスファンを名乗っておきながら事実上今の自分はプレーから遠ざかっている。

カードゲームを集めても今はそのタイトルの人気が無くなりろくに対戦していない人のようなものだろう。

遊戯王が将棋だとするならばヴァンガードが囲碁で、チェスはマジック・ザ・ギャザリングのようなものだろうか。象棋(シャンチー)という中国版の将棋はもはやチェスより日本でプレーしている人は少なく、未だにバトルスピリッツをしているような人かもしれない。

 

チェスがマジック・ザ・ギャザリングだと例えたがMTGはまだ日本にファンが多いため、それなりにコミュニティは発展しているだろう。ある程度TCGファンの間では権威があるが、チェスは世界的知名度の割に日本ではあまりリスペクトされていない。

チェスを扱ったアニメや漫画に恵まれているわけでもなく、とにかく文化として楽しむことができないのだ。

競技だけを黙々とするというのは疲れるわけであり、時として息抜きでそういった文化を楽しむことも重要になる。そしてその競技すら日本でする場所がオフラインにもオンラインにもないのだ。

 

しかしあくまでこれは日本に居場所を求めるから不可能なだけであり、海外にはチェス対戦サイトがいくらでも存在する。

日本語が一切通用しない場所でアカウントを作り対戦するというのはハードルが高いが、自分が中学時代にしていたことなので慣れればそれほど難しい場所ではない。そう思っていたのだが自分がかつてプレーしていた「Chess.com」という最大手は最近日本語に対応し始めているようで、海外に行けば居場所はいくらでも存在する。

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つまりチェスファンは日本に居場所を求めることは完全に諦めて素直に英語やロシア語を勉強したほうが良いだろう。英語のリスニングになると思って字幕が無い番組を見ることも良い勉強にはなる。

ソ連がチェスを国策で強化していた時代の雰囲気が好きならばロシア語との勉強を兼ねることも悪くない選択肢だ。

前述のホビー・フィッシャーは強くなりすぎた結果アメリカにハイレベルなチェス研究書が無く、独学でロシア語を勉強し取り寄せたロシアの棋書で腕を磨いたと言われている。更に自分と同レベルの対戦相手がアメリカに存在しなくなり自分と1人で対戦していたのがフィッシャーだ。

 

日本でも「蘭学」と言って西洋の学問を学ぶためにオランダ語を勉強していた人が江戸時代から存在する。チェスというのはいわば欧米の学問であり、蘭学のような物だろう。江戸の庶民には理解されないが一部の研究者は当時の海洋国家のオランダ語をマスターし学問を取り入れていた。

福沢諭吉も元々オランダ語を勉強しており、時代がイギリスの時代になりもう一度英語を学び直したというエピソードがある。

江戸の庶民文化が将棋だとするならば、チェスは一部の人しか学んでいない蘭学のような物だと言える。

日本の医学史に残る「解体新書」を作った杉田玄白も、オランダ語の原本のターヘル・アナトミアを参考にしている。

 

チェスは厨二病と言ったがまさに「誰も知らない物をあえて推してる」というようなアングラ感やプレミア感をモチベーションにすれば楽しく感じられるかもしれない。

それを疎外感と解釈するか、マニアックでコアな世界を知る喜びだと解釈するのかで楽しみは変わる。

ソ連が社会主義国家の威信をかけて国策でチェスをしていた頃の雰囲気や、フランスのカフェでお爺ちゃん仲間同士でチェスをしている雰囲気、キューバのカパブランカがカリブ海の景色を眺めながらチェスの思索耽っていた時の雰囲気、それらの想像をするとチェスという競技は魅力的に思えてくる。

将棋が日常の美ならば、チェスは非日常の美だと言えるのかもしれない。

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外国語は20代に入ってからでも十分に上達できる

日本人の間で根深い定説となっているのが、外国語は若いころに勉強していなければ習得できないという考え方だ。

確かに中学生が英検1級を軽々習得したりTOEICで好成績を収めているのを見ると、ある程度の才能が必要であり本格的に学習を開始した時期が早い人が有利だという現実を感じる事はある。

 

結局は言語も才能であり、実際自分は外国語を勉強していて日々伸び悩みと葛藤している。

むしろ大部分の時間において言語というのは分かりやすい進歩を実感できないのが当然であり、20代になり成人すれば脳に劇的な変化が起こることはありえない。

 

しかしだからと言って大人になってから外国語の勉強を諦める必要はない。

そう一部の例外の人と比べたところで、自分の現実は特に変わることは無い。他者との無駄な比較は必要なく、今更帰国子女やハーフ生まれ変われるわけではないのだ。

例えば日本代表でありつい最近までセリエAのインテルに所属していた長友佑都はイタリア語が堪能なことで知られる。

実際にこのようなインタビュー動画を見ても非常に流暢に話しており、現地にもファンが多く今イタリアでもっとも有名な日本人だと言っても過言ではない。

アモーレという言葉が代名詞になったように、「彼はもはやナポリ人であり南イタリアの人間」とさえ言われることがある。

 

www.youtube.com

ところでこの長友佑都がイタリアでサッカーをし始めた年齢は決して若くは無い。

森本貴幸のように10代の頃からセリエAでプレーしていわけではなく、イタリアで最初の所属クラブとなるチェゼーナに移籍したのは23歳ぐらいの時の話だ。

そこからインテルの選手に上り詰めていくことになるのだが、イタリア挑戦自体はそれほど早いわけではなかった。

更にセリエA移籍以前は特別外国語を勉強していたわけでもなく、そこまで頭の良いキャラクターでもなかった。明治大学への入学も推薦でありエリートというわけではない。

 

そんな長友佑都が武器にしているのはただ一つ「コミュニケーション能力」だ。

今シーズンからトルコのガラタサライというチームに移籍することになったのだが、彼は30代に入った今「このチームには様々な国籍の選手がいて、5つ以上の言語が飛び交う。だけどコミュニケーションを取ることが楽しくてたまらない」とむしろ今も前向きになっている。

 

長友のイタリア語習得が凄いところはまず10代ではなく20代前半になってから開始して習得出来たことであり、更に通常義務教育では習う事がない第二外国語だというところに真の凄さがある。

そして彼はそれまでイタリアで生活したことが無かったし、特別セリエAへの移籍を目標にしていたわけではない。

 

また同じくサッカーでブラジルに挑戦したキングカズこと三浦知良もポルトガル語は現地に行ってから覚えており、未だにネイマールと通訳なしで会話するほどの外国語能力を兼ね備えている。

本田圭佑もオランダ時代に英語を学び始め、最近では30歳に入ってから移籍したメキシコリーグで積極的にスペイン語を学び始めている。本田も長友積極的にチームメイトとコミュニケーションを取り、更には外国語でツイートしている、それが上達の理由の一つだとも言える。

結局全てはモチベーションとやる気の問題であり、年齢というものはそれほど関係が無い。

確かに関係あるがもう成人し二十歳を超えた以上、過去には戻れず後悔しても仕方がない。こぼれたミルクを嘆くよりは、コミュニケーションを取ることが楽しいと前向きに考え未だに学習熱が高い長友佑都や本田圭佑を見習う事の方が建設的だ。

 

更にこれは20代に限らず30代以上でも十分に可能なことだ。

20代と30代というのはそれほど脳の機能に関して大きな違いがあるわけでもなく、どちらも成長しきった脳という事には変わりはない。20代にできるならばそれは30代以上にも出来るわけであり、年齢で自分の限界を決めつけるのは良くないのだ。

 

ネットを見渡せば30代、40代でも英語を熱心に勉強している人を多く見かけることができる。

20代ですら言語の世界では立派なベテランであり、日々伸び悩みの中で地道に勉強するしかないしそういう人の方が実際には多数派だ。

伸び悩んでいるときは諦めずに、「すぐには伸びないし成長を簡単には実感できないのが外国語だ」と言い聞かせて地道に勉強するおじさんに徹することが大事だ。

語学は確かに才能だが、逆に言えば才能が無い人の方が多い。

某予備校のコマーシャルで「英語なんて言葉なんだから誰でもできる」というキャッチフレーズがあるが、難しく考えすぎないことも時には必要となる。

 

二十歳を超えれば後は誰もが地道に勉強するおじさん、おばさんになるわけであり、自分のペースでゆっくり着実に勉強していくことが続ける秘訣だ。

そこまで急ぎ過ぎなくてもいい、そんな急に上達する物でもなく、わかりにくい進歩の積み重ねを集めていき伸びない日々と向き合うことが大人になってからの真の外国語の勉強法だと言えるだろう。

いざ冬が終わりそうになるとまた寂しくなる

2月も中旬になって小春日和の暖かい晴天の日が増え始めると、そろそろ冬は終わりゆくことを感じる。暦はまだ2月だがここ数日比較的暖かい日が続き、どこかではフキノトウが芽生え始めているのではないか。

 

もう寒さの頂点は超えてこれ以上寒くなることは無く、温かい春へと向かっていくだろう。

まだ冬季五輪開催期間中ではあるが、オリンピックが終われば冬という雰囲気は過去のものになり、暦も3月になり春へと変わっていく。

 

自分の体感でしかないのかもしれないが冬のピークは2月の前半で、後半はそれほど寒くは無い。前半が寒すぎたがゆえに後半が暖かくも感じるのだろう。夏の8月も同様で半分を過ぎると自然と涼しくなっていく。

しかしこうやって季節の変わり目になるとあれほど忌々しく感じていた暑さや寒さが名残惜しくなることもある。

 

今年の冬は何と言ってもとにかく雪が凄かったし、寒波がずっと上空で停滞していた。

やっと雪が降り終わり晴れたと思ったらまた寒波がやって来るということの繰り返しで、とにかく天気が悪く陰鬱な寒さが続いた。自分の精神状態もだいぶこの陰鬱な天候に左右され、中々晴れやかな気分に離れなかった。

特に自分の場合暖房器具の無い底辺生活をしているので寒さは地獄のようなものであり、「寒いからやる気が出ない」ということばが誇張抜きで事実だった。

お酒を飲み過ぎて気分が悪くなると布団にくるまりながらひたすら虚しく寒さに耐え続けるしかなく、空を見上げれば陰惨な灰色の寒波がどんよりと続き尚更気分は明るくなれなかった。

冬

しかしいざこうして冬が終わりに入ると、厳しかったがゆえに名残惜しくなり寂しくもある。しばらくは過ごしやすい温暖な季節が続くが、どうせまた夏がやって来る。

 

もちろん冬が終われば外での行動はしやすくなるので、外出に前向きな希望を見出すことはできる。

とくに夜間に歩いてコンビニに行くと言う事はしやすくなるのでそれは個人的に楽しみな事の一つだ。

夜の冬の寒さは尋常ではないので歩いて夜道を帰ることになれば悲惨極まりない。

そのため自分は唯一の日常の楽しみである外での一人酒を冬はする機会に恵まれない。歩いてゆっくり行く事も含めて楽しみなので夜出回れないほど寒いとどうしても、家で過ごすということが増えて尚更精神的にふさぎ込み暗くなっていく。

だから暖かくなるのは嬉しいがどこか一抹の寂しさもないわけではない。

松任谷由実の「春よ、来い」という名曲も冬の寒さの中で聞くからしみじみとするが、いざ春になって聞くと冬の寒さがむしろ懐かしくなる。

 

またなんだかんだ言ってこの冬は思い出があったので、もう終わるのかと思うと拍子抜けする。強敵に感じられた今年の冬ももうクリアしたので逆にもう戦う物が無い気がしてくる。

 

楽しかった思い出というのは年末の歌番組や年の瀬の雰囲気のことであり、新年の計画をいろいろ考えていた時は希望に満ちていた。

歌番組のスペシャルが続き、好きなアーティストが出演するといい意味で忙しく日常の中に特別な日があるような感覚になることができる。クリスマスをアイドルを見て過ごしたことも今となっては懐かしい思い出だ。

 

今年の新年はお正月感が無いと書いていたのももうそんな前かという感覚になり、新年になって2か月過ぎようとしていているが特に自分の中で変化は感じられない。

オリンピックはもう半分過ぎようとしていて開幕式であの不気味な人面鳥が出たことも既に懐かしい。ちょうどその頃一時的にネットを使えない時期があり、テレビと本だけで過ごしていたことも今となっては数少ない思い出の一つだ。

 

そしてその五輪も季節と共にもうそろそろで終わりを迎える。

ここから怒涛の早さで夏に向かい気づけば半年を過ぎているだろう。

冬季オリンピックの年はサッカーのFIFAワールドカップとセットだ。

冬季五輪が終わり、そこからチャンピオンズリーグの決勝ラウンドが本格化していくといつの間にか決勝が終わっている。そしてワールドカップが始まっている。

前回大会はソチ五輪とブラジルW杯のセットだったが今年は平昌とロシアのセットだ。

冬季オリンピックが終わる事には冬の祭典が終わったことに虚無感を感じる人も現れるだろう。

今年の冬の終わりがいつも以上に寂しいのは五輪があることももしかしたら理由の一つなのかもしれない。

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人生が虚しいと感じる今日この頃

急に「俺何してんだろうな」とふと一人で考える時がある。

お酒の酔いが覚めた時なんかは特に虚しさが押し寄せてくる。

自分の行いが疑問に感じ自信が無くなる、そして悲しくなる。

 

もうこの先に幸せは待ってないんだろうなと思うと急に心が折れたような感覚にもなるし、理解されることも無い人生なんだろうなとかありえない程ネガティブな感情が沸いてくる。

 

嵐のBelieveという曲の櫻井翔が作詞したラップパートは何度聞いても良くできているなと思う。サクラップは櫻井の心理的な葛藤が良く表れていて歌唱力はともかく歌詞は魅力がある。

一体何を見ているんだろう

一体何をしているんだろう

僕はもう 嗚呼もう走馬灯のよう

(中略)

昨日も今日も今日でそうだろうが 今日は今日でどうかしよう

 

先行きの見えない日々の繰り返し、変えたいと思うのに変わらない現実、変えることが大変な現実、その内いろんなことが虚しくなってくる。

最近の自分はお酒を飲んでいるとき以外心の底から気分が晴れることは無い。何の充実感も無く、充足感も無い。

 

「虚しいから死にたい」と考える人は世の中に多いが、なぜそれだけの理由で死にたいのかというと、それはその"虚しいから"に本当に様々な理由が含まれているからだろう。

"虚しいから"にはいろんな意味がある、とにかくそれはいろんなものであり人それぞれ多くの悩みがある。

情熱が湧きあがっても急にまた消滅する、そのことの繰り返しだ。

何かに向かっている感覚を持てる時と持てない時がある、もちろんそれが無いわけではないが無くなる時もある。人生とは陰と陽の繰り返しであり、沈んでいるときも受け入れなければならない。

 

そもそも理解されたいとか認められたいと期待すること自体間違いなのかもしれない。人間は結局本質的には孤独で自分を真に理解する人は現れない。

100%理解されることはあり得ない話で、自分もまた他者を理解できない。

むしろ誰も理解できない領域を追求する、それが古来から哲学や学問として発達してきたのだろう。誰にも理解できない領域や境地のようなものを目指すことの方が自分のような人間にとっては幸せなのかもしれない。

 

NHKの「こころの時代~宗教・人生~」というお爺ちゃんしか見てなさそうな対談番組を自分はしばしば見ているのだが、山折哲雄という宗教学者が出演した回はとても興味深かった。

『ひとりゆく思想』というサブタイトルだったのだが、その中で「蓄えた知識はいつしか重みになる」という言葉は自分の心に響いたことを覚えている。

しかしそれでも親鸞の書籍だけは今も捨てられないとも語っており、現代人の心の拠り所となるのはむしろ古代の思想家の言葉との問答のような時間なのかもしれない。

今の世の中はむしろ孤独な人の方が多く、イギリスでも「孤独担当相」という役職が作られ世界的な問題になっている。

 

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しかし「こじらせるタイプ」とでも表現したらいいのだろうか、ひとり思索することが好きな類の人間は、自分の思考に閉じこもる方が結局は一番幸せというか性(しょう)に合っているのかもしれない。

誰かから理解されるためでもなく、自分の思考に整理をつけるために古代から哲学者は哲学書を書いてきたのだろう。

 

自分が思索をするのは、西田幾多郎が京都の「哲学の道」を歩いて思索していたことに習い散歩しているときが多い。

更にお酒の酔いが覚めて気分が悪くなっているときはどうしても思考をめぐらすことになる。苦しい時間だがこの時アイデアが浮かんでくることもある、しかし基本的にネガティブなことが多い。

またサッカーの試合を実況や会場音声無しで完全無音にした状態で見たり、旅番組をあえて無音で見たりしながらひとり考える時間は自分の中で大切な時間になっている。

ゆっくり考えて冷静になるのはこういう習慣が一番だ。

欧州サッカーの名将、現マンチェスター・シティ指揮官のグアルディオラや元バルセロナのシャビ・エルナンデス、アルゼンチンのビエルサやサン・パオリのような戦術家はサッカーの試合見ながら人生についても考えているように思える。

そうやって思索を重ねて理論や理想を追求して言った結果があれだけの戦術的なサッカーになるわけであり、理解されないと思っていたものがいつしか理解したい物へと変わっていくこともある。

自分はグラルディオラのサッカーや脳内を理解したいと信奉しているが、あのスタイルはひとりサッカー哲学を追求した思索の結果であり、ある意味偏執的な性格だからこそ作り上げられたのかもしれない。

 

誤解を恐れないと言えばかっこつけた言い方になるかもしれないが、頭おかしい人間だと思われても良いという開き直りのような覚悟を持つと精神的にはむしろ楽になる。

日常生活やプライベートでも変な奴だと思われても良いという考えを持って、無数の失敗を繰り返しても人生は許される。

上手く行っていない時間、から回している時間、結果が出ない日々、かっこ悪くてダサい姿、底辺に落ちぶれている時期、それはもしかしたら必要な時間なのだろう。

今の自分のこの時間は新しい人生観を形成するための時間でもある、そう信じるしかないというか、そうでも意味づけしなければただひたすらに虚しい。

虚しさと葛藤することが今は何のためかわからなくても、後に意味があったと思える時が来る。何として開花するかはわからないし、それが何年後、何十年後かもわからない。もしかしたら完全なる無駄の可能性もある。

 

本田圭佑がモスクワ時代になかなか移籍できず怪我で苦しんでいた時は、今振り返ってもかなり悲壮感があった。

「ビッグクラブに行けるとまだ信じてます」と言っていた時はファンですら諦めていたが、世界一諦めの悪い男は諦めていなかった。

そこからACミランに行ったのは良い物の、セリエAへの挑戦は中々上手く行かず散々かっこ悪い姿も晒すことになった。更に結局ワールドカップでも惨敗して、努力は報われないし奇跡は起こらないというシビアな現実を教えてくれた。

 

努力は報われない物であり、人は自分を理解してくれるわけでもない、更に奇跡は起きないし、自分は幸せにはなれない、これが人生の現実なのだろう。

ただそれが現実だとわかることが人生であり、そこの前提のスタートこそが真の人生なのかもしれない。

 

人生はサッカーと同じように、楽しい時はほんの一部で大部分の時間帯は我慢の時間帯であり、シュートは中々か入らない。しかしそれでもシュートを打つことを恐れず、どれだけかっこ悪く外しても重要局面で決めれば全てが変わる。

笑い者になるような外し方や失敗をしても、そのかっこ悪い姿を誇りに思うことが大事だ。

絶対入ったと思うシュートも入らない時は入らないし、なぜか簡単に入ることも無い事は無い。

基本は上手く行かない時間や楽しくない時間のほうが長い、それは人生にも共通している。

つまり人生は虚しくて当たり前であり、当たり前だからこそ過度に落ち込む必要はないのかもしれない。

「ひとり」の哲学 (新潮選書) [ 山折 哲雄 ]


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