チェスファンが日本で抱いている疎外感
ここ最近本当によく「将棋」の話題を見かけ、そのブームを実感する。
藤井聡太六段が最年少で優勝し、もはや天才の代名詞となり、ひふみんは様々なバラエティ番組やコマーシャルに引っ張りだことなっている。
そして言わずと知られた羽生善治は多くの人から尊敬されており、自分自身実際に著書を持っているほどだ。
その一方で同じようなボードゲームとして長い歴史があるチェスは日本ではそれほど話題にされることが無く、活気にあふれた将棋と比較すると閑古鳥が鳴いている。
自分は将棋よりもチェス派であり、中学から高校時代にかけて独学でプレーしていたことがある。実力は全く大したことが無いアマチュアでしかなかったが、チェスという競技の世界そのものがとても気に入っていた。
アニメに影響されて始めただけの厨二病でしかなく、実際にはかっこいいからという雰囲気に憧れていただけであった。
これだけ日本でボードゲームが注目されるようになったこと自体は非常に素晴らしい文化ではある。しかしチェスの雰囲気や駒のデザインのほうが好きなので、どうしても今更将棋を始める気にはなれない。
学生の頃にクラスで流行っているゲームには興味を持たず、自分しか持っていないようなゲームをやっていた人は疎外感を感じていただろう。
まさに今の日本でチェスをするというのは流行っていないゲームを1人でやるようなものであり、やっていて寂しさを感じないと言えばそれは嘘になる。
かといって流行りのゲーム、つまり将棋をやる気にもなれないというのが大きなジレンマだ。
またスポーツに例えるならば野球があるのにわざわざクリケットをするようなものだろう。実はクリケットは英連邦文化圏内では非常に高い人気があり、実際は野球以上に世界的に普及している。しかしわざわざ日本でクリケットをするとなるとまず環境が無く道具を手に入れることも難しい、そして道具を手に入れても対戦相手がいない。
またテレビでも放送されず、有名選手を知っている人も周りにおらず、ネット上にファンサイトやコミュニティがあるわけではない。
逆に野球はいろんなところで草野球が行われており、夏は甲子園があり日ごろからプロ野球の観戦で盛り上がることができる。SNSでも野球ファンは多く、野球まとめサイトなども人気を集めているのでとにかく誰かと話すことができる。
実際日本でクリケットの選手を知っている人がいるだろうか、残念ながら自分は一人も知らない。逆に言えば海外では野球がその立ち位置になるのだが、ここは日本だ。
そして同じく日本でチェスのプレイヤーを知っている人がどれほどいるだろうか。
唯一知られているのはアゼルバイジャンのガルリ・カスパロフだが、この選手は将棋の羽生善治と対談したことでむしろ将棋ファンの間でよく知られている。
決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣 [ ガルリ・カスパロフ ]
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ホビー・フィッシャーというアメリカのプレイヤーは世界的には非常に有名であり、チェスの歴史に残るような選手だ。
将棋に例えれば升田幸三のような棋士であり、様々な戦術を考案し既存の概念を打破した存在だ。ソ連がタイトルを独占する時代に米ソ冷戦の真っただ中、アメリカに栄冠をもたらしたというエピソードは世界的に良く知られている。
また人間的にも独特な個性があり型破りで規格外の変人だったことは升田幸三とも似ている。
しかし実際このホビー・フィッシャーすら日本で知っている人は稀で、ノエウェーのマグヌス・カールセン、インドのアーナンド、ブルガリアのトパロフ、キューバのカスパロフ、ロシアのアリョーヒンなどを知っている人は更に限定される。
これらの選手はサッカーにおけるロナウジーニョやジダン、メッシ、クリスティアーノ・ロナウドのように、日本でもあえる程度知られたレベルの上位の選手であったり歴史に名を残す選手であったりするのだが日本人は誰も知らない。
つまりこうして話を共有できる人が存在しない事がまさに疎外感であり、世間の人々が将棋棋士の話題で盛り上がっているとき、そこには孤独感が存在するのだ。
自分以外でチェスについて個人的に話している人をネットで探そうとしても、昔から存在するようなサイトが多くリアルタイム感はあまりない。当然ながらチェスまとめサイトのようなものも無く、カジュアルなトークを出来る場所が無い。
かろうじて将棋・チェス板という掲示板があるが、実際は将棋の話題が殆どでありチェスのスレッドは過疎状態にある。
昔はヤフーチェスという物が存在し自分は中学時代そこでプレーしていたことがあるのだが、それは遂に過疎化が深刻になり閉鎖されることになった。日本で対戦する場所はほぼ皆無に近く、あったとしてもプレイヤーが存在しない。
スマートフォンには一応アプリが存在するがこれも対戦場所として活況としているわけではない。
こうしてネットですら対戦相手が存在しないのだから、現実で対戦相手を見つけることは更に容易ではない。自分はかつてチェスセットを購入したことがあるのだが、結局対戦相手はおらずそれはインテリアと化してしまった。一方で学校のクラスでは休み時間にワイワイと将棋をしているのだから、まるで仲間はずれされたような気分になっていたのも無理はない。
かといって素直に将棋をやる気にもなれないのも複雑な心理であり、チェスファンの多くは今更将棋をする気にはなれないだろう。
確かに日本でもチェス大会は存在するが、これは都会に行かなければまともに成り立っておらず地方では現実にチェスの話が通じる人と合う事は絶望的だ。
自分は将棋の日本文化的な雰囲気の情緒は決して嫌いではない。
例えば地域の将棋道場を映したようなテレビ番組や、その様子を描写した小説のシーンなどには惹かれる。だからこそチェスにこの文化が無いことが悲しく、閑古鳥が鳴いている事が虚しく感じてしまうのだ。
「こういう文化がチェスにもあったら」と無為な空想をすることになる。
ファン文化やコミュニティがネットにも現実にもほとんど存在しないことは寂しい。
例えば将棋まとめサイトやネットニュースなどで棋士の話題を見て盛り上がることが好きだという人は多いはずだ、地域のローカルコミュニティで将棋について話せる場所などでワイワイとすることもきっと楽しいだろう。
こういったボードゲームというのはそうやってワイワイすることも含めて文化なのだが、チェスファンは一人黙々とその世界の研究に没頭するしかなく、この追求というのは中々続く者ではない。
時として文化やコミュニティというのはその競技をやる上でモチベーションにもなるのだ。
しかし現状チェスについて語る人はそれほど多くなく、同じようなファンを見つけることはとても難しくなっている。
もはや存在するのかさえ分からないが日本のクリケットファンは大体同じようなことを感じているだろう。インドクリケットリーグの試合を1人見ていても、その話が通用する人はいない。
海外サッカーはまだ現実で十分に話題が通用する人の出会うことがあるし、ネット上にもファンは多い。日本人選手が出場しないような試合でも多くの日本人が観戦している。
現実でも公園などでサッカーをしている人を見ることもできる。
しかしクリケットやチェスは話が分かる人もおらず、当然街中でプレーしている人など見ることができない。そういった文化として浸透している何気ない光景の雰囲気自体がその競技の魅力になる。
野球でキャッチボールをしたり、休み時間に将棋をしたりするというのはそれほどレベルが高い事ではない。しかしそういったレベルの高くない世界が存在するということが実はとてもその競技にとって大事な事なのである。
自分はチェスは本当に弱いが同じように弱い人が知り合いにいればワイワイ雑談でもしながらプレーすることができる。
チェス同好会のようなものがある大学や高校ならばできなくはないが、こういった"ハイカラ"なものがあるのはやはり都会の一部に限られる。
自分がにわかチェスファンならば、知り合いにはにわか将棋ファンがいる。
その人はそれほどプレーしているわけではないが、いざリアルで対戦しようと思い地域ローカルであっても探そうとすれば対戦相手はいつか見つかるだろう。
チェスファンというのはそれすら滅多にできないのだ。
結局自分が最後にチェスをしたこと自体ギコチェスを半年ほど前にプレーしたのが唯一で、それまでは数年間プレーしていなかった。つまりチェスファンを名乗っておきながら事実上今の自分はプレーから遠ざかっている。
カードゲームを集めても今はそのタイトルの人気が無くなりろくに対戦していない人のようなものだろう。
遊戯王が将棋だとするならばヴァンガードが囲碁で、チェスはマジック・ザ・ギャザリングのようなものだろうか。象棋(シャンチー)という中国版の将棋はもはやチェスより日本でプレーしている人は少なく、未だにバトルスピリッツをしているような人かもしれない。
チェスがマジック・ザ・ギャザリングだと例えたがMTGはまだ日本にファンが多いため、それなりにコミュニティは発展しているだろう。ある程度TCGファンの間では権威があるが、チェスは世界的知名度の割に日本ではあまりリスペクトされていない。
チェスを扱ったアニメや漫画に恵まれているわけでもなく、とにかく文化として楽しむことができないのだ。
競技だけを黙々とするというのは疲れるわけであり、時として息抜きでそういった文化を楽しむことも重要になる。そしてその競技すら日本でする場所がオフラインにもオンラインにもないのだ。
しかしあくまでこれは日本に居場所を求めるから不可能なだけであり、海外にはチェス対戦サイトがいくらでも存在する。
日本語が一切通用しない場所でアカウントを作り対戦するというのはハードルが高いが、自分が中学時代にしていたことなので慣れればそれほど難しい場所ではない。そう思っていたのだが自分がかつてプレーしていた「Chess.com」という最大手は最近日本語に対応し始めているようで、海外に行けば居場所はいくらでも存在する。
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つまりチェスファンは日本に居場所を求めることは完全に諦めて素直に英語やロシア語を勉強したほうが良いだろう。英語のリスニングになると思って字幕が無い番組を見ることも良い勉強にはなる。
ソ連がチェスを国策で強化していた時代の雰囲気が好きならばロシア語との勉強を兼ねることも悪くない選択肢だ。
前述のホビー・フィッシャーは強くなりすぎた結果アメリカにハイレベルなチェス研究書が無く、独学でロシア語を勉強し取り寄せたロシアの棋書で腕を磨いたと言われている。更に自分と同レベルの対戦相手がアメリカに存在しなくなり自分と1人で対戦していたのがフィッシャーだ。
日本でも「蘭学」と言って西洋の学問を学ぶためにオランダ語を勉強していた人が江戸時代から存在する。チェスというのはいわば欧米の学問であり、蘭学のような物だろう。江戸の庶民には理解されないが一部の研究者は当時の海洋国家のオランダ語をマスターし学問を取り入れていた。
福沢諭吉も元々オランダ語を勉強しており、時代がイギリスの時代になりもう一度英語を学び直したというエピソードがある。
江戸の庶民文化が将棋だとするならば、チェスは一部の人しか学んでいない蘭学のような物だと言える。
日本の医学史に残る「解体新書」を作った杉田玄白も、オランダ語の原本のターヘル・アナトミアを参考にしている。
チェスは厨二病と言ったがまさに「誰も知らない物をあえて推してる」というようなアングラ感やプレミア感をモチベーションにすれば楽しく感じられるかもしれない。
それを疎外感と解釈するか、マニアックでコアな世界を知る喜びだと解釈するのかで楽しみは変わる。
ソ連が社会主義国家の威信をかけて国策でチェスをしていた頃の雰囲気や、フランスのカフェでお爺ちゃん仲間同士でチェスをしている雰囲気、キューバのカパブランカがカリブ海の景色を眺めながらチェスの思索耽っていた時の雰囲気、それらの想像をするとチェスという競技は魅力的に思えてくる。
将棋が日常の美ならば、チェスは非日常の美だと言えるのかもしれない。
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