負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

お金もなくなってきたのでそろそろ禁酒することにした

最近お酒を飲むことがあまり楽しくないし、美味しいとも感じられなくなっている。

まるで義務であるかのように、そして惰性であるかのように自分の中で飲まなければならないとして無理に飲んでいるかのような感覚にさえ陥る。

その上一人で飲む安酒はそれほど楽しく飲めないため、酔うために速いペースでのみすぐにダウンとして苦しんでいる時間の方が多い。

自分は無駄に出費をして、時間も失って何がしたいのかとここ最近よく考えるようになっている。

そろそろ本当に生活習慣を見直す機会がきたのではないか、理想は禁酒だが「減酒」でも良いと思っており飲む量や機会を半分にするだけでも自分にとっては大きな進歩である。

 

自分がお酒をもう辞めたいと思った理由はいくつかに分けられる。

1:お酒がおいしくない

この夏になってめっきりお酒を美味しいと感じられなくなった。

一番の理由はすぐにぬるくなりまずくなるからである。

自分が今住んでいる生活環境というのはエアコンが存在しないため扇風機で過ごしているのだが、とにかく冷やしておいたワインや酎ハイが途端にぬるくなってしまい美味しいとは思えなくなる。

 

また冷蔵庫も自由に使えるわけではないため冷やした状態でいつも常備しておくことができずウイスキーや焼酎のように常温でも飲める物を飲むことが多いのだが、これもはやり冷えてないとそれほど美味しくない。

 

一見するとコップに氷を入れて飲めばよいように思えるが、エアコンの効いていない部屋ではすぐに氷も解けてしまいなおさら味が悪くなる。

保冷性の高いタンブラーは一つしか持っておらず、自分の場合時間の経ったコップは綺麗に洗ってから乾ききるまで使いたくないためどうしてもこれ一つでは足りなくなる。酔った状態でダウンして動けなくなれば翌日の為コップ類を準備しておくことも億劫になる。

そのためどうしても簡単に飲める缶酎ハイやワンカップ焼酎、ボトルワインなどがメインになる。

 

更に氷を冷凍庫から取出し準備するというプロセスも深夜にガチャガチャと音を出すと家族に迷惑がかかるため難しい。

一部家族に負担してもらっている費用もあるため、夜中に大きな音を立ててお酒を準備したり毎日お酒を冷蔵庫に入れておくわけにはいかないという事情もある。

家族のいない日中ならば冷やして飲めるが、上述のようにエアコンの無い環境ではすぐに生ぬるい状態になってしまう。

 

自分専用の冷蔵庫とエアコン環境、複数のタンブラーを用意すればこの夏もお酒が楽しめるのだが、果たしてそこまで執着して何の意味があるのだろうかとも考えるようになった。

 

焼酎や日本酒はワンカップの物ならば常温でもそれなりに美味しいため、家族に悟られずに部屋の中で飲めていたのだがさすがに夏になるともっと冷たい物が欲しくなる。

更に焼酎はスルメや缶詰のようなつまみが無ければ魅力が半減する為、節約のためにお酒だけ買うというやり方ではあまり楽しめない。つまみを買う事も経済的負担になるためその分を少しでも今までアルコール類に回してきた。

しかし何かを食べないで強いお酒だけを飲むという事はやはり胃に良くない。

 

以上のような事情が複雑に絡んだ結果、この夏の気温になってから自分はそれほどお酒を楽しめていない。本当に酔う為だけにまずい安酒を我慢して飲んでいるという状態に近い。

安いウイスキーを常温で飲むと、まるで薬を我慢して飲んでいるかのような感覚にさえなる。そんなことをして悪酔いしても楽しくはない。

 

2:経済的にそろそろ厳しくなってきた

自分は今貯金を切り崩して生活しているニートである。労働という行為が嫌になったため定職にはつかず、バイトもせずただひたすらこの数か月、荒んだ酒に依存した生活を続けてきた。

しかしそろそろ貯金の面で黄色信号が点り始め、日々の酒代が負担に感じるようになってきている。仮に1日で500円分の酒を飲むとして、これが10日も続けば5000円になる。そしてこれは一ヶ月のインターネット代を支払えるレベルの金額になる。

少しでもニート生活を延命するにはこの酒代をカットするしかない。

 

そしてそのニート生活の間にスキルアップをしたいという思惑もある。とにかくお酒さえ飲まなければ出費もだいぶ抑えられるためこの生活が数か月先延ばしにできる。

働くことと酒を飲めない事、どちらが嫌かと言えば前者だ。酒が飲めなくても働くよりはマシ、それほどに自分にとって仕事をするというのは大きな負担であり辛い事なのである。

 

3:酔う事で生活の質が落ちている

自分は陰鬱に落ち込んだ気分を変えるために酒を飲んでいる。

このつまらない生活の中で唯一の喜びといっても過言ではないのが酒だったが、その酔いのために多くのものを犠牲にしていることや、何も変わっていかない事の気付いた。

 

まず人間にはテンションが上がっているときと楽しい時があるのは当たり前なのである。

それを無理にお酒の力を使ってあげようとすると必ず後でぶり返しが来る。

楽しい時間を作るが、苦しく楽しくない時間も作る。結局それは飲まない時とトータルでは変わらない。結局無駄にお金を払って楽しくないネガティブな時間を作っていることにしかなっていないのだから本当に意味がない。

美味しくない安酒を劣悪な環境下で飲んでいることもこの悪循環に拍車をかけている。

 

自分の場合朝起きて前日の酔いを醒まして回復したら昼ごろからまた呑み始めるという生活をしているのだが、夕方頃にはダウンし夜中の間はただひたすらに頭痛と戦いながらソファで横になっているという状態が続いている。とにかく時間の無駄でしかなく、一時的にテンションを上げるために膨大な時間を無駄にしている。

 

そしてもっと人生を充実させる全うな努力に切り替えて、別の楽しいことを探すべきだと考えるようになった。てっとり早い快楽に頼るのではなく、もっと様々なことにチャレンジして人生を変えていくことの方が大事だと気付いた。

探せば楽しい事はいくらでもある。

お酒を飲まない学生の方が楽しそうなことや、自分自身お酒の量が少なかった時の方が楽しかったことは人生にこれが必要のないことを証明している。

 

更にお酒も一生飲まないと決めたわけではない。

今頑張って努力することで将来良い環境で良いお酒を飲めるようになるかもしれない。目先の悪い酒より、未来の良い酒を選ぶ、そういう判断をした。

夏に一人でぬるい安酒を飲んでいても何も面白くない。この夏だけでもお酒から離れていたい。

 

おそらくこれから禁断症状が訪れるだろう、そういう時には「今飲めなくても未来にはもっと良い酒を飲める」と言い聞かせることが必要になる。

また週に1,2回だけ良い酒を飲むということもできる。数を減らし一度の質を高めることも良いかもしれない。

そしてそのほうが明らかに健康にとっても良いだろう。

アルコールというのは体に良い物ではなく、飲まないなら飲まない方が明らかに良い。今まで休肝日も作らず飲み続けてきたが、そろそろ一度体を休ませるべき時が来たのかもしれない。自分の体力が露骨に低下し、健康の面でも不調を感じることが増えている。高い度数のアルコールは胃を傷つける。

 

とにかく日々の生活の中で陰鬱な時間があることは当たり前であり、そしてそれはお酒を飲んでも結局後にそれがやってくるだけでしかない。

もう悠長なことを言って現実逃避ばかりしていてはいられない。

その為にもまずはお酒を減らし、断つ。

人生を変えるためにもまずは日々の習慣から変えなければならない。 

「反戦」のヒトラーTシャツを着たホリエモン、ネット民に叩かれる

NHKの番組にアドルフ・ヒトラーを想起させる絵柄の描かれたTシャツを着て出演した堀江貴文が一部の勢力によって批判されている。

これは実際の所ヒトラー賛美ではなく、第二次世界大戦を起こした張本人が「NO WAR」と叫んでいる風刺画であり反戦メッセージを意味しているとホリエモンは主張している。

実際のホリエモンはこれまでそのTシャツを着て批判されたことは無かったらしいが、NHKにそのTシャツで出演したことで批判にさらされている。

「NHKの影響力半端無い」と苦言を呈している。

 

堀江貴文がそういった釈明をするまでもなくそんなことは誰もが理解できることのように見えるのだが、世の中にはヒトラーの絵柄が描かれているだけで脊髄反射的に戦争賛美であるかのように認識する人がいるのである。

NHKの放送程の規模になると、時としてそういった理解力の無い人も視聴者に紛れておりサイレントマジョリティほどネットでは声が大きくなる傾向がある。

 

インターネットの風潮全体として言える事なのだが、最近は小さな事すら許せない人や指摘せずには気が済まない人、そして風刺や冗談を理解できない人が増えている。

例えばゲハ論争にしても昔のネット民が半ば少数のコミュニティで冗談のように言っていたことも、今は本気でとらえるような層が現れ始めている。

ネット的な意見も実際は閉鎖されたコミュニティの中で冗談めかして言っている者が多かったが、それを本気にして現実に持ち出す人が今増えてきている。

 

結局のところこういったユーモアや風刺を理解するには一定水準以上の知能指数が必要であり、そこにすら達していない人が実は大勢いるという事を最近インターネットは証明している。

ネットを普及させたことが間違いだったと最近は語られることが多いが、今回のヒトラーTシャツ批判騒動もその一つの事例なのかもしれない

昔は「半年ROMれ」という言葉があったが今はそれが廃れているのも、ネット初心者や物事を表面的に見るだけの人が多数派になったことの表れだろう。

アドルフ・ヒトラーの風刺Tシャツの意味さえ理解できない人がネット上もかなり増えたのである。

 

「郷に入っては郷に従え」という古い言葉があるが、少し前までのインターネットは「ネットを見ればネットを理解してから発言するべき」という雰囲気があった。

自分自身もネットを始めたときはなんとなくそのノリを理解してから発言をしていたが、今の時代はそれを理解する気が無い人や理解できない人が何も考えずに発言する時代になっている。

 

その結果冗談や風刺を理解できない人が"マジレス"することが急増している。今回のヒトラーTシャツ批判も最近政治や歴史の知識を覚えたての人がヒトラーならば何でも批判すればいいと脊髄反射した形に近い。

おそろしいことに「脊髄反射で反応する」という慣用句すら小難しい言葉だと理解できず思考停止で反論する人がいる事である。

 

自分も決して頭が良いわけではないのだが世の中は広く、第二次世界大戦がどの国や勢力同士の戦いだったかすら知らない人や基本的な慣用句さえ知らない人が多い。

「馬鹿は発言するな」と言われたら自分自身も頭は良くないため発言できなくなるが、その自分を下回るレベルで知性が足りない人がネットには大勢いる。

 

インターネットというのがどうも最近息苦しくなりユーモアが欠如しているように見えるのは、こういった脊髄反射的な人々によるところが大きい。

何かを批判する流れになれば止められず、集団で批判することに一体感を覚える人が大勢いる。

次なる批判対象を探しており、まるで標的やターゲットを探すかのように人の粗を探して回っている。

人の粗を探し細かい部分を指摘し集団で批判する管理社会のような風潮を形成すれば、いずれ自分がその標的にされることを彼らは理解していない。

 

このような風潮が続けば当たり障りのない事や、そこまで考えなくとも理解できるようなことしか受け入れられない時代が来る。

心の狭い人やただ批判したいだけの人が増えればネットは徐々に面白くない物へとなっていくだろう。

いや、現在まさにその過程の最中にある。

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若い時に金がないVS老いてから金がない どちらが悲惨か?

多くの人の人生にとって大事なものはやはりお金である。人生はお金ではないというのは実際は綺麗事ごとであり、生活の質は強く経済的な要因に左右される。

金銭面以外の部分で充実した人生を送れている人も、経済的に裕福になれば基本的にはより幸福になる確率が高い。

「金持ち喧嘩せず」という言葉があるように、勝ち組やお金持ちの人は心が穏やかであり負け組や貧乏人は心が荒んでいる。

 

実際自分は紛れもなく底辺の貧乏人だが毎日の人生がつまらなく、そして精神面も荒んでいる。誰も自分を見て幸せそうな人間だとはみなさないだろう。

中には自分の人生が幸せそうに見える人もいるかもしれないが、基本的には惨めな負け組として見下され日々の生活はおそろしく退屈である。

休日は恋人と街に出かけるという予定もなく、それどころか毎日が休日で貯金を切り崩しているニートでしかない。

 

ここから人生を変えようにしても社会のレールから踏み外れた人間が地方でできることなど薄給の底辺職ばかりだ。逆転を狙ったことをしようにも結局上手く行かず、また元に戻され一歩進んで三歩下がるようなことの繰り返しでしかない。真面目に生きても、人と違う事をやろうとしても手詰まり感がある。

 

その上、世の中や日本社会全体が上向きに向かっていくという事も実感できず自分の人生と社会の見通しも悲惨というダブルパンチのようなことを味わっているのが現代の若者の実態である。

 

若いときに金銭的に恵まれない事の何が悲惨かと言えば、老いた時にすがれる思い出も作れず、周りは楽しそうなのに自分は置いてけぼりにされているという疎外感や嫉妬感を味わわされるところにある。

更に「今は負け組でもここから逆転していつか勝ち組になればいい」という野心も持ちにくい日本社会の現実がここに加わる。

 

今の自分は「これまで楽しくなかったけどこれから楽しくしていけば良い」から「これまでも楽しくなかったからこれからも楽しくないだろう」という感覚に変わり始めてる時期にある。

自分は遅咲きタイプだと信じたい一方で、何やってもうまく行かないタイプなんだろうなという諦めにも似た感情もある。

結局人生を逆転できる人は少数派で、負け組はこれからも負け続ける事例の方が多いのだ。数年前の自分はこれから這い上がり勝つという反骨心を持てていたが、今はこれまで負けてきた上にこれからも負け続ける敗者にしかなれないという現実に気付かされている。

 

男の負け組や弱者は特に悲惨だ。

社会的に「強者」だとみなされている側の中にいる弱者というのは最も世間からの扱いが軽く、同情も支援もされない。

「男ならもっとできるはずだ」「男なのにそんなこともできないのか」という目線でしか見られない。出来て当たり前のことができない人間というのは最も理解から遠い存在に配置され、そして見下される。

 

男性というのは若い時はそれだけで評価されたり優遇されたりしない上に、これから更にお金や社会的地位がなければ異性から評価されにくくなる。

それを言えば女性も基本的には年々若くなくなって評価されなくなり始める恐怖はあるだろう。

自分の性別である恩恵を受けられず不利な点ばかりは思う存分に味わわされる、そんな負け組や持たざる弱者が悲惨なのはどちらも一緒なのかもしれない。

どちらが悲惨かを争ったところで不幸自慢合戦にしかならない。

「俺が女ならもっと同情されて、無能であることも許されたのに」と嘆いたところで、女性の方も苦しんでいる人は多いのである。その人はきっと自分が男だったらこんな目に合わなくて済んだと思っているであろう、隣の芝は青い。

 

それを言うならば「若い時にお金がない事と老いてからお金がない事のどちらが悲惨か」を議論することも無駄な論争でしかないだろう。もっと自分の人生のために有益なことを考えたほうが生産的な行為に違いない。

 

しかし一つはっきり言えることはどちらもやることがないからそういう考察をするしかないのである。

個人的な結論を先に述べるのであれば前者の方が悲惨だろう。

「若い時はお金が無くても楽しめる、何でも楽しい時期だから」というのはもしかしたら後になって気付くことなのかもしれないが現段階では自分の現状が悲惨であり、このつまらない人生にうんざりしている。

 

更に意見を述べるのであれば老いてから金がない事は別にどうでもいいと思っている。

若いときに貯金ばかりしてる人がいるが、老いてから大金を使ったところでそれほど楽しくはないはずだ。体力と感受性が衰えており何事も新鮮味を感じられなくなっている時期にお金があったところで仕方がない。

またそれは同時に貧乏であることや不幸であることへも鈍感になることを意味する。年を取ってから貧しい事はそれほど気にならず、老いてからは思い出さえあればいいのではないだろうか。

その一方で若い時に貧しく楽しくないことは、同世代の楽しんでいる人間に対して嫉妬の念を感じやすく苛まれやすい。

 

少なくとも若い時に金銭的に裕福だが老後は困窮する人生と、若い時に困窮し老後は裕福な人生があるとするならば自分は迷わず前者を選びたい。

 

そして最も悲惨なのは若いときも金がなく老いてからも貧しいという人生だ。ゆりかごから墓場までの期間ずっと貧乏なことほど惨めな物は無い。

そして自分はその両方を経験する確率が高い。

そうならないように当然努力はしているが現状貧乏とは一生付き合っていかなければならなくなりそうだ。

そしてこれは自分一人の問題ではなく、若いときも楽しくなく老いてからも楽しくないという不幸な時期だけ経験する世代が今後増えていくだろう。

 

今の日本の若者というのは「今の自分が駄目でも将来の自分は輝いている」という希望を持ちにくい状況に置かれている。

若いときに貧乏でも「世の中全体がこれから発展していくんだろうな」と希望を持てれば苦しい時期も頑張れるし楽しい。

 

逆に言えば「みんな貧しいし自分ひとりじゃない」と安心できるという側面もあるが、あまり前向きな感情ではないだろう。

とにかく今の世の中は若者が努力をしたくなくなるような雰囲気が蔓延しており、活力や活気がなくなっておりそれをさらに「若者の何某離れ」と揶揄される構造がある。

 

資本主義の世の中はお金がなければ楽しくない仕組みになっているにもかかわらず、今の日本はお金がない若者が増えており、更に新しい世代が這い上がっていきにくい構造になっている。そして一度失敗した場合許されにくい風潮が追い打ちをかける。

それにもかかわらず上の世代からは「野心が無く努力をしない最近の若者」「打たれ弱いゆとり世代」というレッテルを貼られる傾向にあることが更にやる気や活気を削ぐ要因になっている。

今の若者文化が劣化していることは間違いないだろう、使うお金も回って来ず活気もない人間が作る文化など衰退して当然である。若者にお金が回ってこない社会が悪いのか、お金を得ようと努力しない若者が悪いのか、経済学者ではないため正確にはわからない。

ただ自分自身これまでチャレンジをしてこなかったわけでもないし、今スキルを磨いていないわけでもない。

しかしなかなか変わっていかない現実もありそれゆえに毎日が楽しくない。

 

若い時にある最大の強みと言えば時間と将来や未来である。

実はこれらは人生で何よりも大切な物なのだが、暗い見通ししか持てない未来ばかりが広がり、努力をしても結果が出ず無為に過ぎていくだけの時間が続いているときはそのありがたみが実感できなくなる。

「楽しいはずの若い時が楽しくない」という自分の経験上もっとも辛い、そしてそれは今リアルタイムで自分が感じていることでもある。しかもそれがいつまでも続かないという不安にも苛まれる。

 

努力が必ず報われるわけではないように、万人が若いからといってその強みをいかして成功できるわけではない。

前述の「その性別における弱者は自分の性別のメリットを感じにくく、デメリットを感じやすい」という理論に似ているかもしれないが、今の若い世代は若さのメリットを感じにくくデメリットを感じやすい傾向にある。

事実を言うと言い訳として受け取られるかもしれないが、現実に今の若年層は昔の若年層に比べて利点が少なくなり欠点が増えている。

勿論昔の若年層にはなかった利点もあるのだが、昔の若年層にはなかった欠点が更に多いのでトータルでマイナスとなる。

「今の若者にはこんなに良い物があって恵まれている」という反論に対しては賛同できる部分もあるが、「その一方で昔の若者が出くわさなかった不利な状況が増えている上に、昔の若者が得られたものが得にくくなっている」という反論が成立する。

 

昔も「最近の若者はこれだから」という批判は当然あったはずだが、今はそれを言う側が圧倒的多数派になっている上にネットの「ゆとり叩き」のようにそれを目にする機会がかつて以上に増えている。

何を言ってもゆとりの戯言で片づけられてしまう現状がある。

本来ゆとり世代より少し上の世代が批判しなければならない高齢者層なのだが、彼らはむしろ味方になるはずのゆとり世代を叩く傾向がある。

ただ、つべこべ言わず行動する情熱があったのは昔の若者だという事は認めたいし自分に足りない部分でもある。

違う世代の事はどうしてもお互いに理解するのが難しい。

本音を言うならばゆとり世代も「自分たちを理解しない上の世代が悪い」なんて思いたくなく理解されたいと思っている。そして自分たちも上の世代への理解が足りないことを反省しなければならないだろう。

 

これ以上こういった不毛な世代間対立をしても仕方がないので、自分の経験の話をしたい。自分が最大級に惨めな思いをしたのは都会での体験にある。

自分は今は地方で生活をしているが少し前までは全国の中では都市だとみなされる地域にいた。都会というのは物で溢れており、それゆえに何をするにしてもお金がかかり、物が手に入らないことに苛まれやすい。

社会階級や身分といった出自の違い、生まれ持った才能を思い知らされ、貧乏人や持たざる者であるという現実を突きつけられる。そして最終的に責任を運という曖昧な要素になすりつける。

その現実に踏みとどまって這い上がることができればよかったが結局失敗し自分は出戻ることになる。再挑戦の機会は今でも探っており、ここで終わるわけにはいかないと思っているが現状からは程遠い場所にある。

 

ただひたすらに社会における敗北だけを味わって帰ってきたが、とにかくお金がない事や負け組あることを感じやすいのが都会だとも感じた。

今は田舎にいることである意味目をそむけていられる状況なのかもしれない。田舎は同世代や勝ち組をあまり見かけずに済むというのが利点だ。

都会ならば有能な同世代のライバルを街を見ているだけで見かけるが、田舎だと自分が敵わないような嫉妬心をこじらせるような人間を見る機会はそれほど多くないので楽である。

それゆえに野心を持ちにくい構造になっているというのは以前も触れたとおりである。

そして徐々に自分もその一人になってきている現実がある。

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しかし現在ではSNSという存在があり、多くの人が自分の私生活や写真をネット上に乗せている。

フェイスブックやインスタグラムは「幸せ自慢大会」になっている側面もあり、ネットが無い時代に比べて他者との比較に晒されやすくなっている。SNSやネットがここまで普及する以前はインターネット全体がなんとなく"負け組のたまり場"のような雰囲気があったが、今はネットがリアルの延長線上にあるものになってきている。

 

自分はあまりSNSを見るタイプでもなく、他人の観察をすることが好きではないが今はそういう人が増えており「SNS疲れ」というのも社会問題になっている。

今の若者が昔の若者に比べてお金が無い時や勝ち組ではない時に不幸になりやすい理由は、もしかしたらこういったSNSの存在にもあるかもしれない。

人の幸せや自慢話が昔に比べて目につきやすくなっているという構造は今の負け組の若者にとって更に追い打ちをかけているのではないだろうか。

 

SNSをやらない理由に「見せるものが無い」ということをあげる人は多い。

見せるものが大量にある持つ者はネットでも人気者になりやすく、見せるも物がほとんど無い持たざる者は人気者になりにくい。リアルで勝ち組の人がそのままネットでも勝者になり、負け組の人間はネットでも敗者になる時代になってきている。

今の時代は現実にどこまでも追いかけられる、

「デスストーカー」という名前のサソリがいるのだが、まさに現実はデスストーカーであり息絶えるまで執拗に追走してくる。その現実と戦わなければ生き残れない。

とにかくネットにもリアルを持ちこむ人が増え、どこにいてもマウント取りに晒される時代になったことでかつて以上に負け組であることが恥になり許されなくなっている。

インターネットも他人の目線を気にする場所になり自分の恥ずかしい部分を語れない雰囲気になっている。

 

お金がない事と不幸なことを混同することは良くないのかもしれないが、一致する傾向にあることは間違いない。

更に今の若者にとってSNSは必須ツールであり、他人との比較に晒されやすい状況になっている。

そして追い打ちをかけるように社会状況として若者が貧困に陥りやすく将来を明るく見通せない構造がある。

つまりこれらのことをまとめると、今の若者はお金が無く不幸になりやすい上に、現実だけでなくネットでまで他人との比較に晒されやすくなっているため悲惨な状況に陥りやすい。

 

老いているときにお金が無くても、それまでは金銭的に恵まれていた人生だったかもしれないし思い出があれば問題はない。更にもう先行きも長くないためそこまで不幸は感じにくい。「もっといい人生を送りたかった」という後悔はあるかもしれないが、同時に諦めもつきやすい。

 

一方で若い時にお金がないというのはろくな思い出も作れず、同世代との比較に苦しみ、この不幸な時間が老いていく人生の中でこれからも膨大に続くように感じる。

「まだこれからやり直せる」という希望を持てなくはないが、その希望さえ持つ事が難しい世の中になっていることが更に満たされない感情に拍車をかける。

 

将来や未来が良いものにならない不安に苛まれ、そしてその将来や未来が実はすでに今来てるという現実もある。

自分自身人生計画が大幅に遅れてることを実感せずにはいられない上に1年ごとに諦めるものが増えて行ってる。

怨嗟や嫉妬に苛まれ毎日のように誰かのせいにするだけの人生が続く。

もちろん自分の努力不足や実力不足であることはわかっているのだが、その現実と向き合い続けることは疲労をもたらす。

「お金がない若者が悲惨」といったところで、努力してお金を手に入れればいいと言われれば確かにその通りなのであり、まだできることはある。

文句や愚痴をこぼすだけでは人生は何も変わらないことは自覚しており、努力やスキルアップを行っていないわけではない。そのことは言われなくても自分自身が一番理解している。

しかしそのルサンチマンの捌け口をどこかに持ってこなければ人間はやっていられないのである。

 

スポーツや芸能人でも自分より年下の世代が普通に活躍し始め、下の人間に追い越されていく感覚に苦しむ。その一方で自分の計画は遅々として進まずなかなか結果が出ず、社会から取り残されていくような感覚に陥る。

若いときは確かに可能性がありいろいろできるかもしれないが、それは活用しきれるのは有能な人間や元々恵まれた人間が多く、弱者はその恩恵を享受できない。

 

10代の時は壮大な夢を見て自分がこれから新世代だという感覚と時間もあった。20代にはいると現実を突きつけられていく。

若者が楽しいというのは、漠然と子供のころは楽しいはずだという思い込みのようなもので現実には悲惨な生活だけが広がる。努力をして変えようにもなかなか変わらずいつの間にか人生に冷めていく。

 

楽しめる立場にある若い人間は人生が楽しくて仕方がないだろう。

しかし恵まれない若者や無能な若者の現実は悲惨である。そして楽しんでいる同世代に対して怨恨だけが募り、自分をここまで苦しめる社会そのものが憎くなる。楽しめる立場や羨ましがられる場所にいるはず人間がその恩恵を享受できていない時、その不満は倍増する。

若い時にお金が無い時に悲惨なのは「楽しいはずの時期なのに楽しくない」という不満や、楽しんでいる同世代に必要以上に妬みの感情を持ちやすいことが理由だ。

そして「思い描いていた幸福な時期」が予定通りやってこなかったことへの後悔が滲む。

長々と考察する意味もないことを述べたが、以上がお金がない若者が悲惨な理由である。

ブラジル代表ネイマール、また来日マール

もうネイマール何回来日してんねんってぐらい定期的に来ていて、そろそろバルセロナの同僚選手に日本案内ができそうな領域である。趣味や観光というわけではなくスポンサー絡みではあるけども、なんだかんだで有名サッカー選手が日本に来るとサッカーファンとしてはうれしい。

ネイマールは一ヶ月ほど前もマットレスのイベントに訪れて日本の子供たちとサッカーをしていたが、その後秒速でまた日本に訪れた。むしろブラジルにいるのと同じぐらい日本にいるのではないだろうかと思わされるほどだ。

ネイマール

今回はバルセロナと契約した楽天の記者会見のために訪れたようではあるが、メッシやピケまで来るらしくさっそく楽天効果が表れてる。ここ数年バルセロナを見てきた人間としては来季から胸スポンサーがRakutenになるのは不思議な感覚であると同時に、日本企業が活躍してくれるのはうれしい。

自称バルセロニスタならば「日本企業が神聖な海外サッカーに絡んで来るな」という人もいるが、自分は特にそうは思わず「バルサに楽天とかシュールすぎだろ笑」と思いながら来季も楽しみたい。

 

日本のバルセロナファンとしてはこれだけバルサの選手が来てくれるのはありがたく、レアル・マドリードの選手らは何とも薄情だと思わずにはいられない。

実際は情というよりも経済的な理由なのだが、いずれにせよ日本ではバルセロナの方が人気なのは間違いない。

 

特に小学生年代の人気ではネイマールやメッシがレアル・マドリード勢を圧倒しているように見える。日本人の子供たちは海外の子供たちに比べてクリスティアーノ・ロナウドにあまり憧れているようには見えない。

弁慶と牛若丸の頃から日本人は小柄なテクニシャンの方が好きであり、メッシやネイマールはまさにその美学に当てはまるのだろう。ロナウドやイブラヒモビッチの方が好きな子というのは珍しい印象がある。

 

それはともかくネイマールがまさかここまで出世し人気になるとは思っていなかった。

ネイマールが10代でサントスにいたころは「近い世代のライバルとしてネイマールに追い付く」ぐらいに思っていたが、今は差がつけられ過ぎて口が裂けてもそんなことは言えない。ネイマールをライバル視していたこと自体自分にとっては身の程知らずの黒歴史である。

才能や物が違うというのはこういうことを言うのだろう。

 

とはいえネイマールのプレーを見ていると本当に楽しく、見ているだけで自分もサッカーをしたくなる。部屋の中にあるボールで少し足技を練習して脳内でバルセロナの選手である自分を妄想するぐらいしか今の自分には出来ないが、ネイマールに憧れる日本の子供たちにはまだを思い描ける未来が待っている。

 

いつか日本からバルセロナの選手になるサッカー少年が現れてほしいなと思うし、現に久保建英は今最も可能性が高い。

ブラジル人サッカー選手が日本に訪れてスター扱いされる時代から、日本人サッカー選手がブラジルに訪れてスター扱いされる時代が来たらきっと感動するだろう。

三浦知良がブラジルに旅だった時代から時が流れたが、やはり未だにブラジルの壁は厚い。日本代表もフル代表の年代では未だにブラジルに勝ったことがなく実力差を毎回味わわされている。

 

ネイマールはサッカーを遊ぶようにプレーし、人生の楽しみだとも語っている。ブラジル人サッカー選手の多くに言えることだが人生を謳歌し、陽気にサッカーを楽しんでいる。それが美しいプレーや度肝を抜くプレーを生み出し人々を感動させる。

直感と積み重ねてきた技術の融合が想像の領域を超えるプレーを生み出す。

遊び心を持ちながらサッカーをし、そして人生を楽しむ、そんなネイマールの生き方は羨ましくも感じ、そして憧れでもある。

そしてそんなサッカー選手が日本からも現れてほしいなと思う。

指原莉乃さん、番組ロケで訪れたクラブで絡まれて泣く

指原莉乃がリリー・フランキーと深夜に番組をやるという話を聞いて、始まったら見たいというぐらいに思っていたらもう放送開始していたらしい。深夜のマニアックな世界を指原がロケをするという構成らしく、こういう番組が見たかったと思っていたけども結局見る機会もなかった。

 

しかし何気なくネットニュースをみていたらその番組での出来事が話題になっていて、「やっぱり指原莉乃は話題になる能力がほかのAKBメンバーに比べて高い」と思わせられた。もはや今の自分は純粋なアイドルファンではなくゴシップネタやアイドルの本性のようなものが好きで、それゆえに指原莉乃の計算高さのようなものに興味が行く。

 

今回の話題はリリー・フランキーと出演する「真夜中」という番組で深夜のクラブに指原がロケにいくというもので、酔った人のテンションについて行けずガチ泣きしてロケが中止になったというのが大きな流れらしい。

指原莉乃と言えばワンカップ大関のCMをしていたことがありながら、本人は美容のためにあまりお酒を飲んでおらず今回のロケでも酔っている人が苦手と発言している。

 

総選挙三連覇を成し遂げた絶対的アイドルにもかかわらずこういうロケをするのが指原の魅力でもあり、そういうところの面白さの一つであることは間違いない。

そんな今回のロケに対して「さっしーを薄汚ねえ世界に出すな」とSNSで発言する人もいたようだが、指原莉乃の本質を理解している人ならば本当に薄汚いのはさっしーであるというツッコミを入れたほうが良いだろう。

自分は指原の性格の悪さや計算高く演じているところの方が好きであり今回の企画中止もおそらく計算に基づいた物だと思われる。

 

指原は典型的な「涙を武器にする女」であり、計算高く泣くことで話題を作り成り上がってきた過去がある。むしろ現在の指原莉乃に「莉乃ちゃんにそんなことをさせるな」という普通のアイドルファンみたいな層がいたことに驚かずにはいられない。

指原莉乃

テレビ番組の視聴率が取れない時代には普通に放送するより「ガチ泣きして番組の企画が中止」ということのほうがネットニュースにも取り上げられて話題になる。

今の時代ネットで話題になることの方が重要で、ステマだらけなのは間違いない。普通にしてるとテレビといえでも興味を持ってもらえないことを指原莉乃は熟知している。

 

指原という人間はネットニュースやSNSの影響を知り尽くしており、小学校高学年ぐらいから2ちゃんねるの専門板を使いこなしているような人間である。

最近スマホでネットを始めたような人間の一枚も二枚も上手であり非常に計算高い。

「自分が炎上してもコントロールできる」と語っており、ネット民の特性を知り尽くしている。

普通の24歳の女性と言えばツイッターなどのSNSを謳歌しているように見えるが、指原からしたら「最近できたツール」でしかなくyoutubeもなかったような時代からインターネットを使ってきた歴戦のネット民なのである。

 

実際にこのロケが終わった後ラーメンを食べながらカロリーを気にして「クラブで踊って帰ろうかな、フォーチュンクッキー」と発言しておりあれも演技であったかのように匂わせるメンタルの強さを見せている。メンタルの強い指原がクラブで絡まれたぐらいで泣くはずがないわけであり、ほぼ演出と言って間違いないだろう。

世の女性や同じアイドルのライバルが自分の承認欲求と戦っているときに世論を上手く扱うにはどうすればいいのかとかと考えているのが指原莉乃という存在だ。

 

自分の場合その辺も含めて指原が好きであるどころかもはや尊敬しており、昔のネットを知る同世代としても親近感を感じている部分がある。

同世代の女性が「インスタ受けする写真撮って"いいね!"をいっぱいもらいたい」と言っているときに、SNSを駆使して世論を操作して誘導するのが指原莉乃なのである。

24歳の女性だとは思えない「狡猾さ」「計算高さ」を持っており、ただの女性アイドルだと騙されてはいけない。

将来政治家になってもおかしくないような人材であり、実際にAKB選抜総選挙も高度な分析と戦略に基づいて理詰めで3連覇をしている部分がある。

 

AKBに入り自分よりかわいい人がいくらでも存在することを目の当たりにして、自分が正統派のアイドルでは勝負できないことを理解してからは徹底的にイロモノ路線に切り替えて勝負するようになる。

 

おそらく指原が普通にかわいくて、順調にかわいい部分を評価されて持てはやされていたら本当につまらないアイドルになってただろう。それなりに人気のアイドルで終わってただろうし、もうアイドル自体やってなかったかもしれない。

むしろあの可愛くない顔が商売道具であり、今日の指原莉乃を形成している。

本人も捻じ曲がった性格をしていると語っているように、様々なコンプレックスを乗り越え、時にはそれを利用してでも成り上がってきた。

 

普通のアイドルなら自分より容姿に優れたメンバーがいる世界では埋もれて消えていくが、それさえも勝負道具にしてアイドルとして武器にした。歪んだ性格やスキャンダルさえも計算高く利用し、ブログやSNSという最先端のツールを使い世論を操作し自分の有利な状況に誘導してきた。

それがまさに「逆転力」であり、逆境から這い上がる能力を多くの人が評価するのかもしれない。指原莉乃の発言は二重にも三重にも裏を読んで考察しなければならないだろう。

 

小林よしのりがかつて指原莉乃を「異形のアイドル」と評したことがある。

彼女の事は普通のアイドルと同じ目線では見ない方がいいだろう、それは指原莉乃という存在の理解を妨げることになる。

ひねくれ者ほど指原莉乃を好きになり、多少穿った見方をした方が指原莉乃のことは深く理解できる。

仮に今回のことが演技や演出であったとしても、むしろそれが発覚したときにむしろプラスになるのが指原莉乃の強さだと言える。何をやっても自分が勝つ方向に持って行けるという意味では最強の存在だろう。

ゆとり世代最強の女とでもいうべきだろうか、それが指原莉乃を表す言葉かもしれない。

オリキャラは自己満足でも楽しいがそれが落とし穴になる

ネット上で自分のオリジナルキャラクターを投稿して公開したことがある人ならば多くの人が直面したことがあるかもしれない。

中々コメント等の反応が来ない、描いてくれる人が現れないという現実だ。

よくピクシブに「描いてもいいのよ」「むしろ描いてください」というタグがあるのだが、実際に反応されることは稀である。

正直なところオリキャラというのはほとんどが自己満足であり、誰も他人のオリジナルキャラクターにそこまで興味がないのである。

「うちの子は世界一かわいい」といっても結局のところ「どうでもいい他所の子」でしかない。

オリキャラを描いている人というのは自分のキャラクターには反応してほしいが、自分が積極的に人の絵や作品を評価することは無い。

誰もが受け身で自分が注目されたがっているし、人の創作活動に協力するという発想があまりない。

正直なところ他の作者のキャラクターをそれほど評価せずに、自分のキャラクターばかり注目されようとしている自己中心的な投稿者が多いという現実はある。そして正直自分もそうなりかけてるのも反省しなければならない部分ではある。

 

もちろん全員がそうというわけでもなく、本当の魅力的なキャラクターは存在するが自分も含めて大部分はやはり自己満足に終わっているのである。

 

ではなぜこういった現象が起きるのだろうか。

自分が以前考察したようにオリキャラというのは愛着がわきやすく自己満足しやすいコンテンツである。

そして実はそれが落とし穴になっているのだ。

つまり自分が楽しすぎるあまり、読者や閲覧者が置いてけぼり状態になっているのだ。自分だけは物凄く楽しいハイテンションな状態になっているのに、周りは冷めていたり理解していないという事のギャップが大きい。

オリキャラは簡単に自己満足が得られてしまうため、必要な改善点や欠点が覆い隠されてしまい他者にとってはわかりにくいという状態に陥ってしまうのだ。

自分が基本的に認識していることも、その絵や作品を初めて見た人はすべてがわからない。

それゆえに第三者から見た場合何がそこまで楽しいのかわからなくなっており、逆に本人は物凄く楽しいという状態が出来上がってしまう。

それゆえにオリキャラを投稿している人は「なぜこんなに面白いキャラクターを描いたのに何も反応が来ないんだ」という心理状態に直面する。

 

これは自分の反省でもあるのだが「第三者が見たときわかりやすい構造になっているだろうか?」「読者が楽しめるような工夫がされているだろうか?」ということを客観的な視点で見つめ直さなければ本当の評価される日はやってこない。

オリジナルキャラクターは自己満足で簡単に楽しめてしまい、なおかつ自分にはありとあらゆる点で補正がかかって見えてしまう。「自分が作った」という満足感や、完成させた直後の昂揚感は時として現実を見誤らせる。

自分には説明が不要なことも、初めて見た人にはその説明が必要なことが多い。

当然ながらその作品について一番理解しているのは作者なのだが、ネット上のオリジナル作品というのはほとんどの場合無名なため多くの人が事前に予備知識を得ていない状態でその作品に触れることになる。

 

そしてそれらの作品のほとんどが本当はそもそも魅力的でない上にわかりにくく楽しみにくい状態にしかなっていないことが多い。しかし描いた本人はそれが素晴らしいものに見えているのだ。

描いている本人は何にも代えがたい喜びを感じているのだが、他者から見た場合そもそも興味もないわけのわからない物でしかない。そして自分もそんな自称オリジナル作品のようなものを作っている人間の一人なのである。

自分はむしろアナログの手作り感あるオリキャラの細部の工夫なども「それは面白いアイデアだ」と見るのだが、多くの人はそもそもアナログのイラストをそこまで詳細に見ることは無い。

 

本当に評価されるオリキャラや作品を作りたければ自分が作ったことによる満足感が生み出すフィルターや補正を取り払い、客観的に見つめ冷静に改善点を分析するしかない。

さらに初めて見た人でもその作品の全体像が分かりやすい構造や工夫を取り入れる。

例えばどれだけ複雑な設定を持つ世界観であっても、シンプルにイメージとしてわかりやすく理解できるような設定集なども必要だろう。

作者と初めてその作品を知った人との間にある大きな認識の断絶を少しでも埋めなければならない。

「これだけ見ればその世界がすぐにわかる」というわかりやすい説明を文章とイラストで描いた設定画も必要かもしれない。良くあるのが「人物相関図」だがこれも分かりやすい手段だろう。世界観を一人で作りこみ物語を進めていけば良く程自分は孤独になり誰も理解してくれなくなる。そうならないためには自分が持っている認識をわかりやすく他者と共有する工夫が必要になる。

 

更にこういったオリキャラ作品にありがち、というよりもこれは自分の戦略機動伝ガンダムKindに言える事そのものなのだが「キャラが多すぎる」という問題もある。

ここ最近自分が作品作りで意識しているのは意図的にキャラクターを少なくしようとしているということだ。

公式の人気作品ならまだ多少キャラが多くても十分だが、ネット上の個人創作作品でそれほど多くのキャラクターは覚えられない。

サッカー日本代表の11人のスタメンすら完全に覚えている人は少数派の時代に、ネット上の無名の個人創作のキャラクターなど覚えられるのはどう考えても1ケタがが限界なのである。

 

自分もそうだがどうしてもオリキャラやオリジナル作品を描いている人というのは登場人物を増やしたがる傾向にあり、キャラの多さ=その作品が奥深く充実している証と考えることが多い。

むしろキャラクターは少し減らすべきであり、似たような特性ならば3,4人を1人にまとめても問題はない。

例えば悪役を3人描くよりも、1人のキャラクターにまとめてそのキャラを濃く描いたほうが強い印象を持ちやすく覚えてもらいやすい。

キャラを多くするというのは、同時に一人あたりのキャラクターにかけけられる描写が少なくなるという事でもある。印象の薄いキャラクターが有象無象に何人も存在するよりも、物凄く濃いキャラクターが少数いたほうが作品としての質は高くなる。

無理に減らす必要はもちろんないが、アイデアが浮かばない時に無理してまで増やす必要もないだろう。

 

とにかく自分だけが楽しんでいる状態や、その作品を理解している状態というのは第三者から見たときに非常にわかりにくい。

作品を作ることは実はそれほど難しくはないが、それを人に理解してもらう事はとても難しい。

勉強と一緒で自分が理解してテストで良い点を取ることはできても、それを人に説明するという事はもう一段階難易度が高まる。

本当の頭の良さが問われるのは理解していることを理解していない人に説明する時だと言われるが、まさにオリジナル創作というのもこの現象に近い。

どの作者も自分の作品の世界を想像し作りこんでいくのだが、それをわかりやすく説明するプロセスが抜けていることが多い。

 

「なぜこんなに面白い世界を作ったのに誰も理解してくれないんだ」と考える作者は多く、そういった工夫を欠いてしまえば誰も理解してくれないのは当然なのである。

そして読者は理解できないのではなく、理解したいと思っていないのだ。つまり難しい作品を作ることばかりに集中して魅力の部分を軽視している、あるいは自分しかわからない魅力で満足をしている。

むしろ自己満足で世界観を作りこむことよりも、基本的なことを多くの人にわかりやすく伝えることや知ってもらうことに時間を使ったほうが良いのかもしれない。

 

個人で創作作品を描く人というのは例えるならば学者気質の人が多く、自分の世界観を次々と追求していくタイプに分類される。しかしその作品を世の中の広めて誰かがファンになってほしいと願うのであれば、それを説明することが必要になる。また理解したいと思わせる動機付けや切っ掛けも必要になるだろう。

頭は良くて勉強はできても、それを誰かに教えるのが下手な人や勉強する気にさせることができない人は良い教師にはなれない。

オリジナル作品もまさにそれと同じで、複雑な世界観を追求することだけに注力しすぎてもいけない。

 

理解できないという以前に、理解したいとも思っていないことが多い。

まさにこれは勉強したいと生徒に思わせ、なおかつ上手く説明することが求められる教師のような立場に近い。

教師と生徒と言えば上下関係があるような言い方になってしまうが、個人創作の作者とファンというのはむしろ原作者のほうが「理解してもらう、ファンになってもらう」という謙虚な姿勢でなければならない。

 

「自分のこんなにも高尚な作品を理解しない人が悪い」という考え方には決してなってはいけなく、本当に悪いのは理解したいとさえ思わない上にわかりにくい作り方しかできていない作者の方なのである。創作をする人間というのは決して偉そうな存在になってはいけない。見ている人というのはそれを敏感に感じ取る。

「理解してくれるだろう、興味を持ってくれるだろう」という受け身の姿勢では良くなくむしろ提供者側というのは知ってもらうために次々といろんな手段で提供していかなければならない。

「これを理解できない人が悪い」というような姿勢では決して良くなく、ちょっとでも興味を持ってくれた人を大事にしなければならないし、評価されなかったとしても自分の努力が足りなかったと考える必要がある。

何が足りなかったのか、どういうった工夫が必要だったのか、そもそもこのキャラクターや作品は本当に魅力的なのか、そういった視点を持つ事が重要になる。

 

そしてこれはまさに自分の事であり自戒を込めて書いている部分もある。

理解されるための工夫のバリエーションというのはもっと増やしていかなければならないし、興味を持ってもらう切っ掛けというのも足りていなかった部分が多い。

そしてせっかく興味を持ってもらい理解したいと思ってもらっても、楽しめる作品の内容自体がまだ完成しておらずほとんどが準備段階にある。

こうして考えると自分の作品がヒットしないというのは当然の結果だったのだろう。

 

オリキャラやオリジナル作品を作る人というのは常に読者の立場に立って客観的に分析しなければならない。自分と第三者の認識は決定的に異なる、その基本を考えながら創作活動をしていく必要がある。

自分が理解することと第三者が理解することは似ていることのようで大きく違う。

世の中に自分の作品を公開する人はこの事実を踏まえながら作品作りをしていくことが重要であり、また自分がこれまでできていなかったことでもある。

客観的な視点になりすぎれば自分らしさや創造性は失われるが、自分だけの視点でばかり見ていては誰かに理解される日はやってこない。

この両立ができている作者というのは良い作品を作っているに違いない。

お酒を飲まないと不安で仕方がない

最近の自分はもはやお酒以外に楽しみがない。

どんな楽しみもお酒がなければ以前ほど楽しめなくなっている。

そして飲んでいない時は不安や不満に襲われ、ネガティブを煮詰めたような存在になる。

 

しかし酒類を飲めば一気に不安や不満から解消され、いろんなことが楽しく感じられるようになり、未来に対しても希望が湧いてくる。まるでこれが本来の自分であるという充実感を得られる。

本来ならばこんな生活はよくないのだろう。

お酒を飲まずにも幸せでいられる人生ならばそれが理想だ。

しかしお酒以外のことで楽しもうと思えば結局はお金がかかってしまう。たしかにお酒もお金はかかって仕方ないのだが、快楽の中では廉価な部類になる。

 

分かりやすく言えばお酒なしで美味しい物を食べようと思えば値が張ったものを買わなければならないが、お酒があれば安い物でも満足感を得られる。

焼肉屋に行かずとも100円の干物でそれなりに楽しめるし高級寿司屋に行かずとも100円の缶詰で楽しめる。

結局世の中何でも金が必要となり、安い基準で大きな喜びを得ようとしたら酒にしか頼ることができない。お金がかかる娯楽ばかりの世の中で、貧しい負け組の人間が得られる数少ない娯楽はお酒なのである。

そのお酒を飲みながら妄想をすれば映画を見に行く必要もテーマパークに行く必要もない。世の中、少し外出するだけでもどこでもお金を取られる。

 

自分だって本当はもっと明るくいろんな人と出歩いて、いろんなところに行きたいが、結局持たざる者に落ちぶれお金がなければ行動範囲も人間関係も行き着くところまで狭まってしまう。

結局同じことの繰り返しで最低限の行動範囲内で、限られた人間関係に行き着く。人間関係も行動範囲も広げれば出費も増えていくのだ。

もちろん必ずしもそれらが出費の拡大を意味するわけではなく、お金がかからないものもあるのだが基本的にはお金がかかる傾向にある。

その結果やることといえば家でお酒を飲みながらタダできる事ばかりになる。

 

好きでこんな地味な生活をしているわけではなく、お金があれば昼間は街に出て夜は飲み歩くだろう。そしてそのためには努力し現状を少しずつ変えていくことが重要になる、それは正論であり間違ってはいない。

しかしこんな地方では特に頑張ったところで、それほど大きな喜びもなく収入も少ない。がんばって手に入る物と失われる労力や時間を天秤にかければ、頑張らないで最低限の楽しみを見出すことが今の社会では最適解になってしまう。

多くの人が希望を持てない社会になった。

上手くいった人間の話を聞いても、それはその人がそれまでに上手く行った方法でしかない。

人間というのは頑張ろうとするときある程度希望が原動力として必要になるが、今の社会には希望がなく「社会のせいにするな、努力が足りない」と言われるだけでしかない。頑張って幸せになれる社会ならば頑張る人は増えるが、今は「頑張っても無駄」というのが正論になりつつある。

お酒

お酒が入っていなければこのようにどんどんネガティブな思考回路が構築されていく。まるでいつもの口癖のようにそんな言葉しか生み出すことのできない哀れな人間になった。

しかしそんな自分でもお酒が入っていればこんなことは考えずもっと面白いことをポジティブに考えているのだ。ここまで書いてきたことがまさに実例で、自分はお酒が入らないといつもこうなる。

マイナスの考えだけが自分を支配していき、妬みや憎しみ、不安や不満、そしてストレスに襲われる。

 

これを解消するために、そしてつまらない人間から脱却するためにお酒を日頃飲んでいるのだ。

あっという間に一瞬だが自分が抱える不安や問題から逃れられて、もっと前を見定められる。面白いことをしているのは間違いなく飲んでいるときの自分のほうだろう。生活が充実していればもしかしたら飲んでいない時も面白い状態でいられるかもしれないが、生活の質が落ちれば飲んでいない時は絶望的につまらない人間になる。

 

その一方で酔いが冷めたときには更にネガティブな感情に襲われる。酔っていた時なぜあそこまでハイテンションにいろんなことをやっていたのかと恥ずかしくなり嫌悪感にも陥る。

どちらの自分が本物なのかはわからない、ただ嫌悪感だけを感じて何もやらないネガティブな時の自分よりは酔っているときの自分の方がまだ生産的で前向きな人間だろう。

 

昔に比べて飲まない時の自分がかなり後ろ向きな人間になった。

生活が落ちぶれてなかなか這い上がれなくなり、将来の見通しも暗い物ばかりになったせいで飲んでいない時の精神状態の質は格段に落ち、それ以降は飲めるならば飲むという状態が続いている。

まるで現実から逃げるようにアルコールに頼り、それが常態化している。

こういう時逆境に立ち向かいストイックに人生を向上させていくことができる人間ならばよかったが、自分は即自的な快楽に甘えてしまう弱い人間でしかない。

 

もう今更、普通の人間に戻った頑張り始めたところで一体何が待っているというのだろうか。結局誰かに追い付けず後追いにしかなれないなら、諦めて底辺の中で一人酒でも飲んで自己満足で楽しんでいたほうが良いのだ。

成功体験を順調に積み重ねてこられなかった人間は、徐々に努力をすることに冷めていく。どんなに頑張っても中の下が辿り着く限度の中途半端な負け組にしかなれないのなら、頑張らず生粋の負け組にでもなったほうが余計な競争に苛まれずに済むだろう。

人生色んなものを諦めて最低限のさえあればいいという考え方になれば案外気楽なのだ。

 

それでも今でも頑張ろうとする情熱の炎が完全に消えてしまったわけではない。以前に比べて小さな炎になってしまったことは否めないがまだ燃えてはいる。

そしてその炎を少しでも大きくするためにアルコールを注いでいるのかもしれない。

酒に逃げている側面もあるが、酒を飲んで頑張ろうとしている側面もある。99%の後ろ向きな思いと1%の前向きな思いを共存させつつ、その99%に取り込まれないように1%を維持し続けていく。

最後の所でまだ自分は現実に抗戦している。

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