負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

日本の左翼はなぜ自分の思想に酔っているのか

左翼思想そのものの是非はともかく、自分は日本の左翼はあまり好きになれない。思想がどうかというよりも日本の左翼特有の自分の思想に酔っている感、左翼思想持ってる自分頭良いだろ感が気取っているように見えて好きではない。

あくまで思想は彼らのファッション道具の一つに過ぎず、政治運動やデモをするときもフェスに参加して「俺輝いてる」感を味わいたいだけでしかないように見える。

「平和を叫んでる自分最高に輝いてる」

「差別を批判してる私正義」

「平和活動をしてる自分が好き」

「弱者の味方してる俺かっけえ」

「左翼は頭がいい、よって自分も頭がいい」

とにかく政治や思想をファッションに使っている人が多く、まともに左翼思想や社会主義、革命などの理念を理解すらしていないのではないだろうか。現にシールズの時も憲法をまともに知らなかったり、安保の時にようやく政治に興味を持ち始めたような人が多く話にならないレベルの教養の低さをさらけ出していた。

結局お祭り騒ぎや反対運動したいだけの人が、たまたまそこに政治があったから乗っかっただけだったり自分は頭が良いと思い込みたい中二病こじらせた人間が左派よりの考え方に飛びついているだけである。

平和を標榜しておきながら攻撃的だったり、差別を批判しておきながら自分は差別的言動をしているダブスタ左翼が非常に多い。

 

思想の内容や本質など彼らにとってどうでもよいのである。ファッションを気取れればいいし、何かに反対しているときの昂揚感を得たいだけである。実際自分の大学時代の極左教授も学生運動の頃の興奮が欲しいだけだったり、とにかくアメリカを叩いていたいだけの教授でしかなかった。

左翼

まだそう言った教授や昔学園闘争をしていた世代、あるいは日本赤軍、連合赤軍のような極左にはまだ知識があったように思える。あの頃の左翼はまだちゃんとインテリが左翼をやっていた頃でそれなりに高学歴や知識人が多く、左翼の話している内容もレベルは高かった。

 

しかしながらよど号ハイジャックのときは北朝鮮についてろくに知らず行き当たりばったりの行動で行ってから後悔しており若気の至りでしかないのも実態であった。その頃の左翼ですら実はそこまで高度ではなく最終的にテロに訴えかける勢力も多かった。実は昔日本では極左テロが横行しており非常に攻撃的であった。

そして現代の左翼はその頃からさらに劣化しており、もはやただの軽いお祭り集団にしか見えず政治思想の基本もよくわかっていないような人が多い。

昔の左翼はまだ見ていて本物感があるしちゃんと頭は良かったが今の左翼は明らかに馬鹿になっている。むしろ左翼ではない自分の方が最近のファッション左翼よりも知識を持っているのではないかとすら思わせられる。

 

左翼思想が悪いというよりもその思想を扱う人間が悪いしすべての左翼を批判しているわけではない。ファッション平和主義者弱者の味方気取りが嫌いなだけであって、その理念をすべて否定しているわけではない。むしろ本物の極左を自分はリスペクトしている。

よく海外の左翼は愛国者で、日本の左翼は単に日本が嫌いなだけと言われるようにこの国の左派はいわば偽左翼やファッション左翼という立ち位置に近い。彼らはなんとなく左翼は頭がよさそうに見えるから気取るために左派思想を掲げているに過ぎない。

 

とはいえなんとなく左翼をやっている人が多いように、右翼にもなんとなく右翼をやっている層も多く左右共に良くわかっていないような層を抱えている。

こういった良くわかっていない層は知識がないにもかかわらず行動力だけはあるため、ネットの掲示板などでも文脈を読まずいきなり政治の話をし始めるため俗に政治厨と呼ばれている。

昔は右派の方が掲示板やコメント欄などで政治の話を空気読まずに始めていたが、今は逆に左翼の方が唐突に右翼批判を始める逆転現象が起きている。いずれにせよこういった政治厨はTPOをわきまえず行動している自分に酔いたいだけなのである。そういった層が左右それぞれのイメージを著しく下げており真の左派や右派にとってはマイナス要因となっている。

日本赤軍私史 パレスチナと共に [ 重信房子 ]

 

昔の2ちゃんねらーのほうがユーモアあって面白かったよな

昔の2ちゃんねるというのはいわば社会のはぐれ者やマニアックな人間が多数派で、漠然としたリアルや現実への反抗心があった。それゆえに現実ではありえないようなネット特有の考えが支配的でありそういうネットでしか通用しない考え方で楽しんでいた。

社会のはぐれ者同士がひねくれた考えで世の中馬鹿にしてたのが昔の2chだったともいえるし、それが面白い時代だった。

 

しかし今はネットも時代が変わりスマホの普及やまとめサイトの乱造によって昔に比べいわゆる一般人や普通の感性の持ち主も2chをみるようになって「その考え方おかしいだろ」と逆に2ch的な考え方を批判しに2chにやってくる時代になっている。

2ch向いてない人がわざわざ2ch見てノリを悪くしてる光景をどこでも見かける。

 

たとえば「情弱は馬鹿」みたいな考えで2ちゃんねらーの間ではよくありがちな風潮だったけど、今は逆にその情弱という言葉を使う人をガチで批判しにかかる人がいる。

2ch的な考え方を2chでいうとすぐシュバババババとそれを批判しにやってくる人がいて、ユーモアと余裕なくなったなぁと思わずにはいられない。

ネットの片隅でやってることなんだから少しひねくれた考えでもいいだろというところに、わざわざそのネットの片隅を見て現実の考え方や常識を持ち出してガチで批判しにかかる人が増えたのがネットを面白くなくした原因でもある。

個人ブログで言ってることに対してもガチで「それは間違ってる」と批判してる人がいるし、2chやインターネットですら息苦しい時代になったとも思う。ネットですら建前や虚勢が大事になって、隙あらば自虐してたのが昔のねらーで、隙あらば自分が語りするのが今のねらーになった。

 

不謹慎なことで喜んでるスレとかも、最初は昔の2chのノリで喜んでるけど後半それをマジで説教する書き込みが増えてきてネットですら監視されて息苦しい時代になっている。

ネット民なんだからネット特有の考えでいいだろという余裕がないし、わざわざそういうところを自分で見にいって説教してる人がいる。

 

じめじめした場所でひねくれ者が片隅で身を寄せ合っているところにわざわざ乗り込んで、「お前らそれは間違ってるぞ!」と監視して現実の考え方を持ち寄ってくるつまらない人が2chにはほんと多くなったなぁ。

全体的にユーモアがなくなったし2chのノリとか考えない人が増えたのは、やっぱりまとめサイトの普及とネットの普及が原因でもある。

数少ない限られた人が見ていた時代が面白かったし、もう2chも昔ほどアングラじゃないんだろうなと思うしこれいうと「2chがアングラ(笑)」みたいに言う人もいる。

いつもの面白い人がやってたところにつまらない人がやってきて、つまらない人しかいなくなる理論と同じで今の2chはユーモアない人が多くなったし現実の考えでマジレスする人が増えた。

結局のところもうネットがネットだけの場所ではなく、リアルの延長線上になったって言ういつもの理論でああいう世界観が続く期間というのは有限だったのかなとも思う。

 

じゃあ逆にそういうアングラがどこにあるかっていうと個人ブログに面白い物が多い。最近「古き良き2chねらー」の雰囲気があるような人のブログを見つけて、結構ひねくれた考えを書いていて面白い。「これだよこれ!」というような雰囲気があり、10年ぐらい前の2chで主流だった考え方を書いている記事が多かった。

ただ残念なのはその個人ブログにもシュババババとリアルの考え方持ち出して批判する人がいるということ。「大人しくしておいてやれよ」と思うし、わざわざ個人ブログを見て反論する人ってよっぽど反論することが好きというか自分の考え方が絶対なんだろうなぁと思う。

「そういう考えもあるだろうな」という余裕がなくなってきてるし、人の考えを否定しない時が済まない余裕のない人が多い。

そういう負け組ブログとか底辺ブログとかは負け組同士でじめじめ語り合ってる方いいのに、わざわざそういうところまで出かけて行って監視してその考え方を否定してる「ひねくれ者矯正マン」みたいな人が多い。

手っきり似たような考えの持ち主が昔の2chのノリでそれわかる~とかやってると思ったら、案の定反論マンのコメントがある。

 

せっかく自分はそういうひねくれ者のブログを見つけて「それわかるわ」と思いたいのに、やっぱり反論しない時が済まない人がどこにでもいる。しかもこういう人って言い逃げで反論に対する反論をしても無駄なことが多い。

同意や賛成しているときは傍観者なのに、自分の意見に合わない時や間違いを見つけたときは脊髄暗射で書きこむのがこの手の面倒な人の特徴。

自分の好みに合ったブログをみてそれに対する共感を書けばいいのに、自分の好みに合わないブログを見つけてその反論をしてる人って疲れないのだろうか。

どうでもいいものどころか、自分に合わないものを監視してそこに文句をつけるという非常にどうでもいい時間の過ごし方をしている人がいる。最近で言えばママタレブログみたいなものを監視して「それ駄目ですよ」とクレーム入れてる人とかも、もっと有益に時間を使えるはずなのに自分から嫌なものを見て嫌な気分になってる。

「嫌なら見るな」であって、例えば自分はツイッターのノリがあまり好きじゃないからツイッターはほとんど見ていないしそれで楽しい。今は自分のノリに合わないもんをおわざわざ見つけに行って批判している人がいる。

 

こういうユーモアないマジレスニキみたいな人がネットつまらなくしてる戦犯だよなぁと思うし、自分を正義や善人だと思ってる説教マンほどたちの悪い物もない。

ネットの片隅ぐらい少しひねくれた考えがあってもいいだろと思うし、それをネタにするぐらいの余裕を持っても良いよなと思う。2chやネットに向いてない人が2chやネットをみてクレームを入れている、今はどこにでもそういうクレーマーが多い。

2chに向いてないなら、2chをみないほうがいい、ただその一言に尽きるのではないだろうか。

軍事用ロボットが発展する時代はやってくるのか?

ロボット好きなら浪漫を見るのが軍事用ロボットの世界である。いわゆるリアルロボットのジャンルが自分は好きで、実際に戦争で使われてそうな雰囲気が好みである。たとえばアーマードコアは自分の理想の一つでゲームをプレーしたことは無いがプラモデルを買ったことがあるほどACの雰囲気が好きである。

また「戦術機」が登場するマブラヴシリーズのデザインも気に入っており自分の理想の一つである。機動戦士ガンダム00のユニオン、人類革新連盟、AEUの量産型モビルスーツもかっこいいと思っており、人型ロボットがあくまでその世界における量産型の兵器として使用されている世界観に惹かれる。「現代兵器の延長線上にありそう」という雰囲気は自分が最も好きな要素であり、ロボットの中でも軍事用ロボットというカテゴリーに惹かれる。

 

例えば自分が昔描いたこのイラストもその軍事用ロボットの一種であり設定上はNATO軍主力モビルスーツという設定であり量産型MSとしてはトップクラスの性能を誇っている。またガンダムKindというオリガンに登場する機体であり、自分の昔のイラストを見てふと懐かしくなってこの記事を書こうと思い至った。

www.pixiv.net

もちろん「軍事用ならばそもそも人型である必要性がない」「人型は兵器に向いていない」という批判はあるのだが、それはある種の高二病であり「リアルじゃない」と否定したがる時期は軍事の世界にはまると一度は訪れる時期である。なぜか軍事ファンは指摘したがる性格の人や知識自慢をしたがる人が多い。

 

今現在人型ロボットというのがどんどん「リアルじゃない」とマジに批判される時代になってきており、だんだんと若者が白けて浪漫がなくなっているのかもしれない。

浪漫や情熱よりも「それ効率悪い、リアルじゃない」と冷めた言い方をすることが今は流行っている時代でもある。ロマンに熱くなるより何かを批判して冷めている方がかっこいいという高二病全盛期になってしまっている。

 

ただその浪漫こそが人型最大のメリットであり、「かっこいいから開発したい」という憧れは何にも代えがたいものがあるし、そういう浪漫を批判するとロボット開発方面に進む人も少なくなってしまうのではないだろうか。

現に大学のロボット工学部などでも人型部門は人気がなく、ほぼ趣味でやっている人が多いようである。これがいい事なのかそれとも、情熱や活気を無くしてしまい長期的に見ればマイナスになっているのかはわからない。

鉄腕アトムマジンガーZガンダムのような人型ロボットは他の形のロボットとは違う浪漫を掻き立てる魅力があり、それらがロボットへの憧れを活気づけてきた伝統がある。今は子供がロボットに興味を持たなくなっているし大人が「それリアルじゃないよね」と冷めてマジになってしまったことが子供のロボット離れにも波及しており、真面目になりすぎる事も良くないなと思わせられる。

 

ロボットアニメなどを見ても「それリアルじゃない厨」や「人型意味ない厨」にすぐマジレスされる時代になりその結果ロボットアニメ全体がだんだんと盛り上がらなくなってきているのが現代だ。

「かっこいい」と思って憧れることは決して悪い事ではないし、ロボットへの憧れを批判する流れは良くないように感じる。

 

ただ軍事ロボットが開発されるとするならば人型はそれほど主力にはならずどちらかというと人型が活躍するのは民間がメインステージであるように思う。将来的には介護用ロボットや建設用ロボットとしてパワードスーツなどが採用されるかもしれない。

仮に軍事用ロボットの発展があるとするならばドローンのような兵器かもしれないし、戦闘機や戦車、イージス艦など上回る存在はガンダムで言うところのモビルスーツよりもモビルアーマーかもしれない。

1stガンダムならばボールやザクレロのような雑魚メカの方が実は現実的には活躍したり、ガンダムSEEDユークリッドザムザザーのような存在がメインになるだろうか。またバクゥは技術次第では戦車に比べて機動力は汎用性が高ければ可能性はあるかもしれない。

「人型ロボットや四足歩行ロボットがそれまでの通常兵器を上回る性能を見せ戦争の形態を急速に変更させた」というような説明がされる時代はやってくるだろうか。もっとも本気で考えるならば、その技術があれば戦車や戦闘機がより発展する方が早いしよく言われるところの「人型作る技術力や予算で凄い戦車を作ったほうが強い」という意見である。実際の所そうなのかなと思うと少しさびしくもあると同時に、逆にその通説を覆す技術革新も期待したい部分である。

「それまではそういった設計思想が通説であったが、技術革新により新型機動兵器は誕生した」という説明を加えれば多少リアリティは保証されるだろうか。

「リアルっぽいもの」をそれがその世界ではリアルだという雰囲気を楽しむ、そういう余裕が今必要なのかもしれない。

底辺薄給派遣バイトでその日暮らししてる奴www

自分はかつて派遣バイトをしていたことがある。それまでバイトをしたことがなかったため、職場に合うかどうか不安でとりあえず「短期バイト」「単純作業」を条件としてアルバイトを探すことにした。

1日単位で出勤でき辞めたかったらすぐ辞められるようなバイトはてっとり早く小遣いやその日暮らしの生活費を足すにはもってこいだったのだ。

 

そしてこういうバイトはたいてい派遣バイトに行き着く。

まずは派遣会社に登録するのだが、面接も形式的なもので中にはネットで写真を送るだけで採用される場所もあった。「履歴書不要」「日払いOK」「短期」「1日限定」など求人サイトでは様々な条件で選べる。

その中で自分はこれまでバイト経験がなかったためほとんど誰とも話さずに単純作業をするだけの仕事を選んだ。

ただひたすらにシールを貼ったり、流れ作業で物を詰めたり、畳まれた段ボール箱にしたりスーパーに並べるための野菜を仕分けたり、とにかく誰にでもできるバイトだ。

 

そしてこういう単純作業というのは実質ロボットの代わりを求めており、とにかく休む暇がなく黙々と8時間きっちり動きつづけなければならない。後に他の種類のバイトも行うのだがこれらは忙しいときは忙しいが暇なときは暇な時があったり作業内容が多様だったりするため最低限のメリハリがある。

 

しかし同じことを立ちっぱなしで8時間もやるというのはただひたすら気が遠くなり、この時ほど8時間が長く感じるものもなかった。中には単純作業、軽作業という物の中々に重労働の物もあり筋肉痛が3日続いた物もある。

またほぼ立ちっぱなしのために膝が痛み、立ち仕事は体の消耗との戦いでいつまでもできないなということを痛感させられた。最初の内は何かを考えながら作業をするのだが、後半になるともはや思考能力も衰え何も考えずただひたすら長い時間が終わるのを待つだけになる。死んだ顔でこういった派遣職場に通っていた。

 

またこの手の仕事は実質社会の吹き溜まりのような場所である。

社会の実態や底辺という物を見ることができる。

すし詰めにされた狭い休憩室では大半の派遣社員が喫煙者であり、まるで死んだような顔ですぐに一服し始めるのだ。我ながら「下には下がいる」と思ったものである。しかしこういった職場に長くいると喫煙しなければやっていけないのであろう、自分もバイトが切り上がった後はすぐに近くのコンビニにより貯金など考えずにお酒と軽食を買い疲れを癒したものである。

 

ここにやってくる労働者の種類は様々で、ずっとこの職場でやっているような中年の男女から一時的なお小遣い稼ぎのためにやってくる大学生などが多かった。

中には既に週5日フルタイムで働いているにもかかわらず、子供が医学部を目指しているため自分のお小遣いがなく土曜日だけやってくるというお父さんもいた。彼に関してはむしろ尊敬の念を覚えたものだ。また主婦層が家計の助けにするために週2,3日来ているというパターンも多かった。

中には高校を中退した子がお小遣い稼ぎにやってくるパターンもあり、ある意味社会の縮図でもある。

底辺薄給といえどもやはり自分のペースでバイトに足を運べて最低限のお金を作るには有益な手段でもある。

そういう意味でむしろ同じ派遣社員の立場にある人は親近感が持てることが多く、自分自身も大した立場ではなくその「社会の吹き溜まり」の一員にすぎないことは自覚しながら働いていた。

 

しかし問題なのはこの手の派遣職場の上司や正社員である。

正直彼らの質は低いと言わざるを得ない。彼らはいわばその職場に居ついており、もう何年もそこでやっており、これからもその職場でやっていくような先行きの見えない立場だ。

同じ作業内容であっても多少給料はいいが派遣の時給とそこまで劇的には変わらない。いい年をした社員が月収20万に満たずこれからもほとんど収入の上昇は期待できない中で何年も同じ仕事を繰り返す。

 

その気が遠くなる現実の中に彼らはおり、あくまで一時しのぎで派遣され週2,3日のシフトで、辞めたい時はすぐにやめれるバイトと違う。

そう大した浮上の見込みもなく毎日同じ作業をやり続け、先行きが見えない中で派遣バイトと同じことをやる生活に彼らは嫌気がさしている。

介護業界なども上司はかなり悪質だと聞くが、単純作業の派遣バイトでもやはり悪質であり、こういった底辺職場に居ついている人間は人間性まで腐ってしまうという人が多かった。

まさに底辺の中でのヒエラルキーであり、その底辺の中ですら末端の存在になる自分が虚しくも感じるのがこういう派遣の単純作業バイトである。社会一般であれば負け組の上司に、まるでロボットのようにこき使われ偉そうにされ「その負け組にこき使われるのが自分なんだな」と自分の小ささを認識せずにはいられない。

何の特技もなく誰でもできることをやるしかない人間に待ち受けているのはこういう最底辺の世界である、そのことを自分は認識した。

 

日本の労働文化自体「仕事は神聖なものである」という認識が強く、薄給であるにもかかわらず真面目さや態度だけは過度に求められる傾向がある。

所詮安い人件費で呼び寄せる派遣労働者など大したものではないということがわからず、プロとしての高い意識が求められるのだ。

 

ただそもそも日本のバイト環境などどこも酷い物である。

近所のコンビニでも業務中に上司に怒鳴られていた若いバイトがいたが、一度社会から落ちぶれた人間というのはこういう薄給のしょぼい環境でこき使われなければならないのである。

似たような短期バイトの求人などでも「どちらかというとテキパキ系の職場です」と書いているのを見かけたが、要するにこれは「薄給だが文句言わず馬車馬のように働く奴隷さん来てください」という事なのである。

一度人生に失敗し社会から落ちぶれればこんな職場しか残っていない、そして誰もがフリーターの自分にしがみついていく。

 

またそもそも日本の労働文化や日本人の仕事に対する価値観もこういった劣悪な環境を促進している部分がある。

日本人の多くが仕事を神聖な行為だと考えており、「社会人」という肩書をスーテタスであるかのように考えている。仕事は我慢してキツいことをやることが美しい美徳であると考えているため、劣悪な職場が生まれやすく改善されにくい。

 

海外のホワイト企業や日本の一部の上流企業では職場の環境が改善され、生産性を向上させるための工夫が導入され始めているが現実的には日本の多くの職場が前時代の形で停滞している。

本来はホワイト企業で見られるような姿がどのような職場でも当たり前のことになっていかなければならないが、未だにサービス残業という時代遅れの風習が残っている美しい仕事の国が日本だ。

先進国の仕事に対する考え方:楽しむことで生産性は向上する、無理は良くない

日本人の仕事に対する考え方:苦労して自分を捧げて我慢して戦い抜くことが美徳

 

教育に対する価値観は徐々に現代化されつつあるが、職場は依然として旧世代の考え方が根付いている。そのため新しい世代は教育された価値観と実際の職場の価値観とのギャップに苦しむことになる。

教育は平成になったのに仕事は依然として昭和、それが日本の現実的な姿だ。

「仕事は神聖な物であり根性と我慢で乗り切り、一人前の社会人になるべき」という精神論が未だに根強い。また旧世代は自分もそうされたのでその価値観を下の世代に強要する傾向にある。

こういった姿を見ていると日本が時代遅れの国になっていくことはもはや必然だと言えるだろう。

elkind.hatenablog.com

カイジの佐原「俺気付いちゃったんすよね、社会に入っていけないってことに」

賭博黙示録カイジの10話ぐらいで金髪の佐原というフリーターと主人公の伊藤カイジが話すシーンがある。

少しうろ覚えではあるのだが「俺気付いちゃったんすよね、このままじゃ社会に入っていけないってことに」「一発当てなきゃいつまでも社会にはいっていけない」というような趣旨のセリフを言っていて、それが今の自分に凄く響く。

貧乏底辺だとほんとただ暮らしているだけというか、先行きの見えない人生の中で何も楽しみがない。結局お金がないとこの世の中何もできない、人並みの幸せもお金があって実現できる。

 

最初その佐原は悪い奴だと思いきや、実はバイトの店長から奪い取った金で「おごりますよ」と飲みに行く気さくなキャラで後の鉄骨渡りでは共闘することになる。この貧乏な底辺の若者同士の寂れた雰囲気が自分は凄く気に入っているし、また自分の状況にも合致する。カイジの部屋で語った「今への絶望」には共感するものが多く、まさに「社会に入っていけない」の一言に尽きる。

 

またその前のセリフでも面白いシーンがある。

エスポワール号帰りのカイジはコンビニバイトで「途中、途中」と言い聞かせながらひたすら冴えないバイト生活をし続けるシーンだ。この発言も今の自分に響くしほとんど似たような事を思っていた。

「今はまだ自分のターンじゃない」

「いつかチャンスがやってくる」

「今はやることをしっかりやるだけ」

「地味な作業の積み重ねの上に花が開く」

今はまるで準備期間であり花を咲かすため成長の時、今は自分が主人公の時間帯ではない、いつかやってくる華やかな時に至るまでの「過程」だと言い聞かせている。今の地味な生活の先には必ず華やかな生活がやってくるという根拠のない自信。

「今は途中」と言い聞かせているカイジのようにただひたすら地味でつまらない生活をしている。そしてそのような生活はなかなか訪れないどころか、いつの間にか膨大な時間が過ぎている。半ばあきらめにも似た感情が自分を支配し「これが俺の人生なのかな」とも思い始めてきている。

 

正直自分の人生設計が失敗して今の自分は全てにおいて落ちぶれている。

人生計画で言えば今頃こんなはずじゃなかった。

計画で言えば4,5年遅れている。

しかしその夢には今のところどうジャンプしても届かない現実がある。

ひょっとすると4,5年経ってもその時はやってこないかもしれない。

そして利根川のいうように「そのすべてが丸々自分の人生だったと気付くのだ」と悟る時が来る。いつか自分のターンがやってくる、そう思って先延ばしに人生プランを考えているうちに取り返しのつかない程時間が経っている。

現に自分の今の年齢は数年前の計画では物凄く充実して大成功しているつもりだったし、世間的にもこの年齢で大成功を収めている人は多い。

自分の人生の遅れを嫌でも実感するし、同級生が順調に進んでいるという話も聞く。そして年下に追い抜かれる感覚がついにやってきている。

ただひたすら取り残され、逆転する方法はなかなか見つからない。

全てをやり直して最初から始めたところで、結局誰かの後追い、最後尾をついていくしかない。

最下位になるために生まれてきたわけじゃない、いつか必ず逆転する、そう思って真面目に努力をすることがなかなかできず、数年後はもっと落ちぶれる。地獄のような人生が待っている、いやもうすでに地獄の底にいるだろう。

やることなすこと努力が失敗し、これが自分の人生なのかなと最近では受け入れ始めても来ているが、その内もはや比較することすら虚しくなり、何も考えずに生きる段階に入っていくかもしれない。

 

屍の様に生きるか、それとも華やかな生活を逆転してもぎ取るのが、それとも逆転など考えずに地道に黙々と当たり前の努力をし始めるのか、開き直って自分のペースで負け組人生を生きるのか、もはやどこに行っても今の所いばらの道しか続いていない。

悲報:ホームレスの平均年齢60歳越え

この15年でめっきり路上生活者、ホームレスは減っている。憲法が保障する最低限度の生活には住居も含まれており行政もホームレス支援に乗り出しているためかつてほど路上生活者は問題ではなくなってきている。

今現在全国に約6200人がおり、平均年齢は61歳だと言われている。

15年前の4分の1に激減しているようである。

 

おそらく今もその生活を続けている路上生活者のほとんどはむしろその生活に慣れていたり気に入っていることで頑なに、そして自主的にその生活を選んでいるのかもしれない。

今更普通の生活に戻ることのほうが責任や負担も増えてかえって気苦労が増えてしまう、必ずしも家があることが幸せな生活とは限らない。

 

彼らは確かに社会の底辺かもしれないが、様々な社会問題や責任に圧迫されいわゆる社畜のように日々生きるためだけに激務をこなしている人の中にはそういうホームレス生活に憧れる人もいるかもしれない。

現実に自分自身、住居はあるが底辺の生活をしており「ホームレスよりはマシ」とは決して思わない。住居があるかどうかが全てではなく住居があっても底辺のつまらない生活をしていたり、逆に家は無くても自由気ままに生きているホームレスもいる。

これだけホームレス支援に取り組んでいるにもかかわらずあえてホームレス生活を選ぶ理由はもしかしたらその生活の方が楽で、そして楽しいからかもしれない。

 

日払いバイトで生きて、廃材やブルーシートで作ったような小屋で生きていればその日払いの給料は自分の趣味に使える。意外と美味しい酒を飲んで、美味しい物を食べて、社会の中で自由に生きているかもしれない。

むしろ今の時代あまりにも家賃が高すぎており、週5日以上、1日8時間以上のフルタイム労働でも家賃と生活費を払うことが精いっぱいという人もいる。ただひたすら毎日生きるためだけに仕事をしクタクタになり自由を満喫できない。

 

家や背負う物、責任がない代わりにやりたい時だけ日払いバイトを行い、普段は自給自足やタダで手に入る物を探すというのもまた一つの生活かもしれない。むしろ彼らの中には自分でビジネスを行って小銭を稼いでいたり、常に路上という生活ではなく人脈を駆使してその日寝る場所を見つけたりして気ままに暮らしているかもしれない。

とくに大阪のあいりん地区のようなホームレスの聖地ではホームレス同士で助け合って、意外といい暮らしをしているようである。一般的にイメージされるような薄汚れたホームレスとちがい、家賃を払わなくて良いため貯金がかなりあるホームレスも存在するようだ。

似た境遇のものと助け合って楽しく生きている方が、毎日おこられたりクレームをつけられるだけのぼっち社畜やめんどくさい人間関係にさいなまれている人よりは自由に楽しく生きているのではないだろうか。

 

正社員であることだけが取柄で実態は高額な家賃や生活費を払うためだけの生活をしており、自由時間もなく話し相手もいない人も現代では数多く存在する。形式上はホームレスより上位層の人間に見えるがそれが楽しい生き方や幸せな生き方に直結しないこともまた事実である。

むしろ本当に悲しいことは現代に6200人ホームレスがいる事ではない。その10倍、100倍の数の惨めな貧困層がいる事である。むしろその6200人のホームレスは自主的に自由を満喫できる生活を選んでいる可能性もある。

むしろ底辺から抜け出せず社会のしがらみの中で一人孤独に苛まれ、惨めな生活を続けている負け組や底辺生活者が数多くいる事ほうが実は社会問題かもしれない。

普通に生きているだけじゃ幸せになれないどころかむしろ惨めな負け組生活を強いられる、今本当に問題なのはこういった新型貧困層なのではないだろうか。

ヤフコメ民ってほんと何と戦ってるんだろうな

ヤフコメ、すなわちヤフーニュースへのコメントを見ているとよく見かける光景がある。どうでもいいニュースをみて「これはどうでもいいくだらないニュースだ!」とわざわざ書き込んだり、「だから何?」「番組を見た内容をただ記事にしてるだけの楽な仕事!」「内容がない!」などとコメントしている光景だ。

 

くだらないニュースを見て、くだらないコメ欄をみて、わざわざくだらないと書き込む、多分これも現代的なストレス発散の一環なのだろう。

有吉が「あいつらはニュースと一日中喧嘩してる」「話し相手がニュースしかいない」といっていたがまさにその通りで、擬似的な話し相手を求めてニュースにコメントをしているのだろう。

そうすると「そう思う」「そう思わない」というところに反応が来るため自分の意見が同意されているのか反対されているのかがわかりやすい。ヤフーニュース自体大手ニュースサイトであり見ている人も多く様々なニュースが豊富なため確かに多くの人に自分のコメントを見てもらえるという特性がある。

個人ブログやSNSなどではなかなか無名の個人の意見が大勢に見てもらえる機会は少ないし、反応も来にくい。しかしまとめブログのコメント欄やヤフーニュースのコメント欄は自分の意見が見てもらいやすい上に反応も来やすいため寂しい暇人にとってはうってつけの場所なのである。

ニュースによっては無名の個人の意見でも数万人に見てもらえる可能性があるのがヤフコメの利点でもあるし、時にはコメントに対してコメントもあるためネットにおける「反応」や「見られている実感」「大勢の人がいる場所の一員感」が欲しい人にとってはてっとり早く満足できるメリットがある。

 

そもそもこういった記事に対してわざわざ同意や賛成のコメントをする人はなかなかおらず、たいていどの場所も「何か一つ反論や指摘がある」という人が書き込むことが多い。反論したくてしたくて仕方ない人がとにかく何かと戦っているのがネットである。

ブログ記事などでも全体の内容にはほとんど触れずどうでもいい間違いを見つけて指摘する人も多い。同意や賛成の時は傍観者なのに、反論や指摘がある時はシュバババババと脊髄反射で書きこむのがこの手の読者の特徴である。

とはいえ話し相手がいっぱいいてリアルが充実している人というのは実は少数派で意外と暇人が世の中多いのだろう。暇人が暇つぶしに見ているのがまとめブログや匿名掲示板、ネットニュースであり必然的に暇人的なコメントが増える。

わざわざどうでもいいニュースをみて「くだらないニュースだ!内容がないこんなもの書きやがって!」とさも自分は有益な情報を求めている忙しい人であるように語っているが、彼らには普段からヤフーニュースのような場所を徘徊して一言文句をつけるぐらいの余裕はあるのである。

 

もしくは余裕のない心の狭い人が増えたのだろう。

何かの間違いが許せない、くだらないものがあってもいいだろうという寛容の心がない。芸能人やテレビ番組のニュースも自分は楽しめていないから、それを楽しんでみている人がいるということが気に食わない、多分そういう心理なのだろう。

「こういうニュースも見ている人はいるんだろうな、需要はあるんだろうな」と思えばいいわけであって、「そんなことまでニュースにするな!」というスタンスの人は一体何と戦っているのだろうか。

世の中その人の為だけにニュースを書いているわけではないのに「自分が求めていないものはすべてくだらない物」と考える自己中心的な人がヤフコメ民には多い。とはいえ前述のようにそれもまたストレス発散の一環なのだろう。インターネットというのはストレス発散や暇つぶしのためのツールであり、そんな高尚な物でもないのだ。

ここはひとつ「ニュースと喧嘩するしか楽しみがない人ががいてもいい」と寛容な心でその多様性を認めるべきなのかもしれない。

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