負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

創作のモチベーションを最強の保つ方法を思いついた件

自分で創作活動をしていると最も問題になるのがそのモチベーションの維持だろう。

実際自分で創作していて虚しくなったという人は多く、インターネット上の投稿でも途中で辞めてしまっている作品が多い。

自分自身ここ最近は絵も小説も書いておらず制作からは遠ざかっているが、何気なく創作論を知人と話していた時に基本的なことに気付いた。

 

それは「世の中には自分好みの作品がもう登場することは無い」、または「自分の好みに合った作品は有限」という悲しい事実である。

もう世の中のオタク文化はかつての物ではなくなり自分好みのものは今後生産されることが無い、それならば自分で自分好みの物を作るしかないのだ。

例えば具体例として自分が求めている作品は絶望的に先行きが無い。

 

1:厨二病的なロボットアニメ

2:過激な革命を描いた小説

 

まず「厨二病的なロボットアニメ」だが、これは具体的には機動戦士ガンダムSEED、機動戦士ガンダム00、そして新機動戦記ガンダムW、そしてコードギアス反逆のルルーシュのことを意味している。

 

自分がガンダムファンを自称しておきながらここ最近のガンダムシリーズをほとんど見ていない理由は、素直に言って自分好みの作品がもう存在しないからに尽きる。ガンダムAGE以降のシリーズは自分の好みとは相いれないため、自分は現役のガンダムファンからは遠ざかりほとんど懐古厨のような状態になっている。

さらに近年のアニメから「コードギアス反逆のルルーシュ」のような衝撃を受けることも無く、ほとんどアニメ熱を失っていた。

時代は日常アニメの全盛期になり、壮大な戦争や過激な戦いは求められなくなっていく。「デスノート」のようなダークヒーローものの作品も無くなり、俺TUEEEEをしたいだけの「なろう小説系」のラノベの時代になった。

 

「世の中がちゃんと戦争をしなくなった」と言えば何を不謹慎なことを言っているのかと思われるかもしれないが、アニメの中で壮大な戦争を行っていた時代はもはや過去のものになりつつある。

巨大勢力同士が工業製品として製作した兵器同士が架空の世界でぶつかり合う作品は極めて少なくなっているのが現実だ。

そもそもロボットというジャンル自体がもう若者受けしなくなり、時代はモンスターや能力で戦うことこそがかっこいい風潮になっている

ゲームもソーシャルゲームの時代になり、自分の感性は時代遅れのものになりは何もかも時代から取り残されている。

 

自分の好みを追求しようと思えば、それらが奇跡的に重なるような作品はもう今後現れないだろう。

ヒイロ・ユイ「教えてくれ五飛、もうモビルスーツはこの世の中に必要ないのか?」

壮大な戦いにロマンを求める自分に現代で居場所はない、そう気付いたときそういった作品を作れるのは自分自身しかいないことに気付くのだ。

 

ガンダム自身はまだ現在も続いているコンテンツだが自分が好きなW,SEED,00のように複数のガンダムが存在し、それらを操縦するキャラクターのデザインがジャニーズ風の美少年のパイロット達となると最近はそういう物も存在しない。

前述の三作品が自分の好みに合い過ぎていたがゆえに他の作品には満足がいかない。

そして今後サンライズもそういった作品を作りはしないだろう、そもそもガンダム自体がかつての比べて勢いを失いつつある。自分好みの新作が発表される以前に、まず新作が今後コンスタントに作られるかどうかすら不透明だ。

 

コードギアスのような厨二病全開のアニメも今後は現れないだろう。

「ソードアートオンライン」のような異世界転生物なら存在するが、自分はあくまでミリタリー要素や現実の国家と通じるような世界観での戦いが見たいという嗜好が存在する。

ジャニーズ風のイケメンのキャラデザ、ロボットやミリタリー要素、政治や歴史要素、そして盛大な戦争の中にある厨二病感、これらが都合よく重なる作品などもう今後登場しないだろう。

結局これを満たしたければやはり自分でオリジナルガンダムを作るしかない。

 

ここに「キャプテン翼」にあるような各国の強豪国のエースに特色があり、国際舞台で競い合う雰囲気という好みや「タイタニック」や「もののけ姫」のようなかっこいい主人公やロマンの雰囲気、「青春アミーゴ」のようなレトロな雰囲気を加えれば、もうこれらの嗜好を揃えられるのは自分しかいないのだ。

自分にしか理解できないようなこだわりは自分にしか実現できない。

更に自分の好みと世間の好みが逆行しているならば、なおさらその作り手は自分しか存在しないということになる。

愛と幻想のファシズム(上)[ 村上龍 ]

 

更にもう一つの「過激な革命を描いた小説」というのも今日日なかなか存在しない物になっている。

具体的な作品名を言えば村上龍の『愛と幻想のファシズム』なのだが、自分にとってこの著作があまりにも理想的すぎて代替作品を見つけられないという状態になっているのだ。

そもそも現代の若者から情熱が消え去りもはや革命や暴動というものは過去のものになりつつある。そんな情熱の無い時代に対して抱く寂寥感を満たすのは架空の世界にしかない。

 

そういった過激な暴動やテロリズム、虐殺、戦争や独裁に向かう雰囲気、そんな昂揚感は村上龍にしか描けない。そして結局のところ村上龍の著作も"有限"なのである。

自分はまだ村上龍作品の中で読んでいない著作が存在するが、読んでしまえばそれは一度読んでしまったものとして新鮮さを失い未知の体験ではなくなる。

 

未知の体験は有限だ。

実際、自分が愛してやまない『愛と幻想のファシズム』も最初に読んだ時、数年ぶりに読んだ時の楽しさはもう存在しない、それが虚しい。

村上龍自身も既に高齢化しており、彼が永遠に執筆してくれるという保証はない。

 

こうなってしまえば結局は自分が書くしかないのだ。

とある芥川賞受賞作家が言っていたが「自分の好みに合う物は自分で作るしかない」ということばは真実である。

まして自分の好みが世間の流行と逆行しているならばなおさらその生産者は自分しか存在しない。市場に存在しない物は自分で作るしかない、それは例えば自分の家に完全に合う家具は日曜大工でハンドメイドするしかないことと似ている。

 

個人創作というのはいわば日曜大工のようなものだ。

創作とはそんな大層な物でもない、ただ自分の家に合うようなものを自分で作るように、自身の感性に完全にフィットするものは自己生産するしかないだけの話である。

時代が壮大な戦いを求めなくなり日常のささやかな幸福を希求する時代に突き進もうとしている中で、第二次世界大戦やコズミックイラのような世界にはロマンがあると言っている人間は今時頭のおかしい人間でしかない。

1980年代に執筆された村上龍の作品を今更美化してもあまり共感は得られないだろう。

 

自分の求める物が古くなり現役で制作する人が消えてしまった、そういう行き場のない人々が自分の為だけにコンテンツを生産する時代が来るのではないか。

正直に言えば今のインターネットというのはもはや個人創作の時代ではない。

個人創作に夢を見て自分の作品がネットで盛り上がっていくという幻想を抱くからこそ挫折し、そして虚しさを味わうことになる。

 

「誰かのためではなく自分のため」

そんなことを歌う歌詞は多いが個人創作とはまさにそのようなものだ。

自分好みのものは自分にしか作れない、自分が本当に好きなものを作る、その原点に戻ることも大事な事なのかもしれない。

個人創作に夢はもうないだろう、既にそういう時代ではなくなっている。ネットに投稿される物は年々プロフェッショナル化、高クオリティ化しており、今更個人の小さな手作りの物が評価されるわけではない。

 

究極のところは創作というのは自己満足であり、最大の消費者は自分ということになる。

もう第三者やネットに期待する時代でもなければ、個人が新しいトレンドを生み出せる時代ではないだろう。

そして「第三者に期待する時代ではない」というのは自分の創作が誰かに評価されることを期待しないほうがいいという意味だけではない、もはや誰も面白いコンテンツを生産することは無いという意味でもある。

 

最近「アーマードコア」というゲームが完全に新規作品制作から撤退したという話を聞いたことがある。

資本主義という現実にコンテンツは抗えない、売れない物は資本主義の世界では作れないのだ。結局どれだけ自分の好みの物であっても資本主義の原理がその理想を打ち砕くならば、最終的な生産者は自分しか存在しなくなる。

企業というものはボランティアで本当に素晴らしい物を作ろうとしているわけではない、あくまで資本主義という世界の中で戦っているに過ぎない。だからこそ本当に良い物は現実に淘汰される運命にある。

 

世の中がだんだんとつまらなくなっていっているのか、自分が単に時代に付いていけなくなっているのか、その答えは分からない。

しかし自分好みのものを作る人々も消え、そして自分の感性を理解する人も存在しなくなった現代において最後に頼れるのは自分しかいないのだ。

自分の理解者も存在しなければ、自分のために何かを作ってくれる人もいない、それならば自分のためだと開き直ることも必要になる。

世の中に本当に面白い物はもう存在しない、今後も"あの頃"のようなものが登場することはないだろう。自分の思い出の中にだけあるような世界は自分にしかわからない。

 

更に言えば創作というのは自分が当事者や主人公になれると言うところに最大の利点がある。

自分がその世界を思い通りにできる、厨二病的な表現かもしれないが作家というのはまるで手の上で世界を動かすことができる。

そこには誰かの作品を享受する以上の昂揚感が存在する。どんなゲームも誰かが描いたストーリーを後追いにするだけに過ぎないが、自分で描くストーリーというのは自分でさえも知らない体験なのだ。

あの日、あの時RPGの世界で体験した壮大な冒険以上の世界がそこにはある。

誰もそのストーリーを知らない、そして自分自身も。

想像は全てが自由だ、どれだけの内容であっても許される、何もかもが可能だ。

人から理解されることなんて考えない方が良い、自分の好みに振り切って自分のためにだけに作ったものの方が実は第三者から見て面白いのではないか。

他者から理解されることを捨てたほうがむしろ他者から理解される。今すぐ理解される必要もなければ、そもそも理解されるために作る必要すらない。

 

自分好みのキャラクターをいくらでも登場させられる、自分好みの演出や展開も自由、そして資本主義という原理に囚われずに永遠に制作が可能だ。

自分の好みをすべて揃えられる、そして自分の好に合ったかつてのようなコンテンツをもう誰も供給してくれないだろう。

自分の理想に合致するものはもう市場に登場しない、だからこそ自分で作るしかない切実な事情がある。

もう世界に期待してはいけない、あの頃の未来も存在しない。

 

しかしそれゆえに自分のためだけだとさえ開き直れば創作の情熱は維持できる。

いつか明治時代の文豪のようにどこかの旅館に数か月泊まりながら、1人架空の世界に集中して壮大な世界を描いてみたい。

創作の世界にはこの世の中に存在しない約束の地が存在するのだから。

小説家になる方法 本気で考える人のための創作活動のススメ