負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

日本のオタク文化の斜陽っぷりがヤバイ・・・

その国ご自慢の文化と言えば、世界中いろんな国で思い浮かぶ物だが、戦後日本を象徴する文化の一つがオタク文化だったことは間違いない。

 

戦後昭和は安全保障を日米安保体制の下、安全保障はアメリカに委ね、「経済全振り」で戦後復興とベビーブームによる理想的な人口バランスを背景に成長してきた。

いわば冷戦最大の恩恵を受けた「真の勝者」が日本であり、北方領土と南樺太を失ったぐらいで本土決戦は避けられ、その上経済発展もしたのだから正直ロシアが日本の恩人だったと言っても過言ではないと自分は思っている。

一応不可侵条約は戦局が決まるまでは守ってくれたし、ソ連の対日参戦がなければ泥沼の本土決戦に突入してただろう、そして戦後は冷戦構造において対ソ貿易でも得をした。

 

真珠湾攻撃に至るまでの謀略にソ連が関与したことはタブー視されているが事実ではある、しかしこれまた遡れば日露戦争や第一次世界大戦では得させてもらった部分もある。

ロシアの脅威があったから日本は近代化し、ソ連の脅威があったから工業国として保護され復興し潤った。

イギリスのアシストで日露戦争は勝利し、アメリカに判定勝ちをしてもらい、第二次世界大戦では満州共同開発を蹴って始めた戦争も寛大に許してもらい経済発展を優先できた。

そして今は米英共に日本からの輸入も多く、観光でも多くお金を使ってくれる。

これでも反米を掲げる奴等の特徴=反米天国の北朝鮮とベネズエラに行けと言われたら全力で断り、かわりに沖縄にデモをしにいく

 

そしてそういった工業発展の時代が終わり次に日本に訪れたのは、いわゆるオタク文化やソフトコンテンツの時代だ。

破竹の勢いで経済的に侵攻し、かつては今の米大統領ドナルド・トランプがビジネスマン時代に脅威を語っていた程の日本だったが1985年プラザ合意で勢いは止まる。

しかしそこから10年、次にアメリカに上陸した次なる先鋭部隊はポケモンだった!ポケモンの発売は1995年だ。

ここから日本のオタク文化が世界を席巻する時代は20年続く。

まさに世界が「日流」に意識せずとも接していた時代だ。

今の韓流もサムスンも比較にならないレベルで存在感があり、ようやく今の中国がその頃の日本を再現しようとしているぐらいだ。

 

実はこの日流がコンテンツを支配していた黄金時代というのは、サッカーにおいてイタリアが支配していた時期と似ている。

欧州サッカーにおいて最後にイタリア勢が王座に立ったのは2010年のインテルであり、そこからセリエAは斜陽リーグと化していく。

80年代90年代はセリエAの黄金期であり、サッカー界の公用語がイタリア語だった時代だ。なぜなら名選手ならばイタリアでプレー経験があるため必然と会話が成立し、日本人ではキングカズも中田英寿も在籍していた。

 

しかしイタリアは欧州サッカーの急速なグローバリズム改革の波に飲まれ、今ではスタジアムのインフラ、戦術、業界の体質が老朽化し、ついには直近ワールドカップの出場権を逃すに至った。

唯一現代的な改革のを行っているのがトリノに本拠地を置くユベントスでその成果もあってリーグを8連覇するという脅威の成績を納めているが、国際舞台では敗退し完全に内弁慶となっている。

 

この状況を見てまるでどこかの国で見慣れた光景だと思わないだろうか?

カカーやピルロを擁するACミランがCLでもクラブワールドカップでも頂点に立った時代ですら、涼宮ハルヒの憂鬱が流行った時代くらいだ。

 

陽気な国だと思われがちだが、実は閉鎖的かつ排他的で、旧時代の成功体験に固執し陰気な気質や社会の暗部が残っているというのがカルチョから見えてくるイタリアであり、欧州でトップ扱いされない反動でアジアやアフリカを蔑視する傾向がある。

 

オタク文化やコンテンツに関して言えば日本アジアにおいて一強の存在といっても過言ではなかった。戦前は中国や朝鮮からの留学生も多く後に有名な歴史の登場人物になっているし、戦後は日本のファッション雑誌からトレンドを学ぶ中国や韓国の女性も多かった。

 

今のイタリアサッカーの立ち位置と言えば、イングランドやスペインの後塵を拝し、ドイツとどちらがヨーロッパ三大リーグかを争っている状況だ。

 

現在アジアでコンテンツを発信する四強を上げれば日本、中国、韓国、インドだろう。いわば「アジアコンテンツ四大リーグ」といったところだ。

インドは映画大国であり世界中にIT分野で進出しているし、実際インド映画は面白くダンス文化や食文化といった現代的なトレンドにおいてもポテンシャルを秘めている。英語という発信力と、南アジア系の文化を持つ広大な文化圏がある。

このインドは別枠として、東アジアなら日中韓で異論はないはずだ。

 

韓国にはプレミアリーグ的な要素があるように思う。

KPOPはもはや洋楽のような一つのジャンルになっている。元々JPOPという言葉に対して発生した言葉で当初はダサい響きだったが、今や逆転して日本ではJPOPと言わなくなり邦楽と言い直している。かつてJPOPという言葉はもっとかっこいい響きを持っていた。

外国人はKPOPという言葉が先でJPOPはその真似だとさえ思っているのが現実だ。

 

つまり邦楽を横文字でJPOPと言っていたらいつの間にかKPOPの方が有名になり、もう一度邦楽と言い直して国内でガラパゴス的に消費しているのが今の日本だ。あいみょんや米津玄師が流行っているのもこの流れで、KPOPアイドルのメイクやファッションを昭和っぽいと批判するしかないのが今の日本文化の現実だ。

 

そのKPOPも本当は洋楽をアジア風にアレンジしただけなのだが、そもそも欧米のものをアジア風に取り入れて進化させるのが日本の強みだったのであまり韓国を批判はできない。むしろ誤った自信をつけ欧米から学ぶ姿勢を失い、自国優越主義に走ってしまったから今の惨状があるのだ。

ちなみに典型的なJPOPを歌うあいみょんが東方神起やSurper JuniorのようなSMエンターテイメント系列のファンだったことはタブーとなっている。

 

そのKPOPの世界では今や日本人、中国人、台湾人、タイ人、インドネシア人が活躍しているし、実はメンバーだけでなく、作曲や演出の部分で外国人アーティストを採用している。

先日自分がよく聞いている楽曲の作家を調べたら何と作曲家がスウェーデン人で、KPOPだと思っていたら実は韓国人以外も関わっているというケースが多い。日本だと日本の音楽業界村で回し完結することが多い。もちろんこういった内需の成熟が大国の条件だという側面もあるが、村社会化しすぎることには警鐘を鳴らしておく必要がある。

「過去」という内需は良くも悪くも伝統となっていくだろう。

未だにオリコンのような日本式の集計にこだわり、国際基準に合わせない日本のミュージックビデオはユーチューブで海外から締め出されている事例もある。

 

日本人が海外の事例をみて言う「昭和にあった」という言葉はむしろ高齢化の象徴で、昔話を自慢する姿が何もかっこよくないにも関わらず、そこを自尊心の拠り所にしている内に世界の最先端に置いていかれる。

その昭和に見たものは欧米の周回遅れだったことを知らずに、未だに日本が最先端気分でいる。

その昭和を知らない世代から見ればそれは新しいし、むしろ昭和と比較して進化している部分もある。

 

「日本は先進国として全てを体験した」と思い、過去だけ称賛して現代のトレンドを古びた感性で拒絶していくことを続けていれば、これはいずれ「日本病」「ジャパン症候群」という名の文化用語になるだろう。

ジャパンシンドロームとは先進国が最後に経験する社会的な風潮、というように。

それにいって上の世代は心地よく思い出を抱いてあの世に逝けるかもしれないが、自分達はそうじゃない、そう令和を30代、20代、10代、もしかしたら一桁年代で迎えた世代は思うのだ。

過去の日本を認めつつも、令和のトレンドにおいて日本はもう三番手でも四番手でもいいという姿勢に満足することも面白くない。令和の課題とは台頭するアジアと過去の日本のという幻影だろう。

【祝】令和開節これからの日本が探る未来とは

勢いでタイトルを決めるとよくないっていうパターンですよ。

よく古市とかひろゆきみたいな社会学者風の連中がいいがちな言葉に「これからの日本はソフトランディングの時代になっていくので、お金を使わずとも斜陽と絶望の国で幸せな個人を目指していくべき」みたいな論調がある。

 

正直頭では理解できても納得できない自分がいて、簡単にそんなんで片付けられていいのかって思いもあるわけですよ。大体この二人ってがっつり既得権益層と癒着してるか、旨い汁を先行者の利で吸えていち早く海外逃亡した人であって、本当にガチで苦しんでる底辺の人に寄り添っていないのだ。

とかいいながらここにホリエモンと落合陽一を加えると私的論者四天王としてちょくちょくチェックしているので、だいぶ思想的にヤバい奴らの影響を自分は受けている。

いくらこの人の意見は凄いなとか共感できるなと思っても、やっぱ納得できない部分はあってしかるべきでそれは、ひろゆきも「時々堀江さんの言ってることおかしいと思うときもある」と語っている。

 

どの元号もそうかもしれないけど、急に変わると言われて何が変わるのかといえば名前が変わるわけで魔法ではない。

天皇陛下が生前退位を決断してくださったお陰でこれだけ明るいお祭りムードで迎えられるというのは、31年前に自粛ムードで自身が迎えた経験があるからかもしれない。

しかもその数年後にオウムや震災やらで、マジで平成天皇陛下すげぇよ。(もう今上陛下ではないんだな)

 

だからこそこれだけ勇気ある決断してくをしてくれた庶民派天皇の意向みたいなのを次いで、今度は令和日本という実態を変えなくちゃいけねぇんじゃねぇかなと自分は思うわけだ。

形は物凄い覚悟で200年ぶりの生前退位という形で変えてくれたし、新時代の天皇像も体を張って変えてくれた。

 

平成って停滞の時代と言われながらも実は変化が物凄く激しかった時代で、技術革新と価値観の革新がたった31年で目まぐるしく起きた時代だった。

もう平成を過去形で語ることになる寂しさを感じつつも、何だかんだで平成楽しかったよねと。

 

もしかしたら明治天皇と同じくらいに変化に寛容だったのが平成天皇だったのではないか。国家を富国強兵に導く元首ではなかったが、その変わりに庶民目線で寄り添ってくれた。

 

昔祖父が天皇皇后両陛下の写真を家に飾っているのを見たことがある。それはカラー写真で昭和天皇のものだ。

天皇制というものは2000年の歴史でその時々で変化し、その時々で日本人がどう思うかの反映だった。だからこそ、自分が素直にどう思うかというのは今後平成天皇が基軸になっていくと思う。

 

リービ英雄というアメリカ人ながらに日本語で執筆した作家の作品にこんな言葉がある。

「おまえが皇居の前で天皇陛下万歳と叫びながら切腹をしたところで日本人はおまえを日本人と認めないだろう」

これはアメリカ大使館の役職を勤める父親が日本語を大学で学ぶ息子に告げる、『星条旗の聞こえない部屋』という作品のワンシーンだ。舞台設定は、ケネディ元合衆国大統領の追悼式が登場するので1960年代を振り返った叙述形式だ。

 

確かに戦後に昭和天皇が敗戦で焼け野原になった日本を全国行脚したというエピソードはある。ただそれでも天皇は幻想的な存在だった。

かといってイギリス王室の庶民化とエンターテイメント化が正しいとも思わない。

平成天皇は失礼な言葉ながら、いい塩梅というか中間で抽象的な表現かもしれないが「人徳」があったと思う。

 

もう日本は終わる国だから緩やかな衰退を受け入れて、上手く穏やかに着地していくべきというのは話としてはよく分かるけど、なんかつまらないじゃねぇかと自分は思う。

 

仮に明治天皇が江戸までの時代をダタダラと継承してたら明治維新はなかった。平成天皇はやるべきことをやりきってくれたのに、令和に生きる当の日本人が惰性で変わらずにいたらこの改元はなんだったのかということになる。

名を変えるのは天皇の役割だが、実を変えるのはその時代に生きる人々の役割だ。

日本を「令和」に変えていくのは一人一人の日本に関わる現代人であるように思う。

ワイ平成一桁生まれ、震えが止まらない模様

新元号発表で世の中が令和ブームにわいてる。

個人的にピークだったのは去年の大晦日くらいまでで、その時が「平成最後の」という言葉が一番使われていた印象がある。

新年明けるとDAPUMPのUSAを聞く機会も少なくなり平成最後ムードも下火だったが、ここにきて新元号発表でまた世の中が盛り上がっている。

 

一方で、内心穏やかでない人々がいる。

平成生まれ、中でも初期の一桁生まれは焦りを隠せずにいる。

 

どうやらネットでは昭和世代が平成煽りをしているようで「おまえらもこれからの俺らを煽ってきたように、同じ事をされるようになるんだからな」と論調の物もあれば、「平成は何も産み出さなかった時代」「日本史上最も無能な世代」という恒例のゆとり叩きのようなものもある。

 

こういうことにはもう慣れっこというか、ある意味叩かれなれてるので「はいはいどうせ僕たちゆとりが悪いですよー」と受け流すしかない。

恐ろしいのは昭和からも令和からも挟み撃ちで叩かれる地獄が待っているということで、これから怖くてたまらないのが悲惨なゆとり世代の現実だ。

カイジ「現実ッこれが現実ッ!」

 

平成生まれといっても90年代生まれと、21世紀生まれの二桁世代とでは異なる。二桁生まれのさとり世代は平成初期生まれなんてもうダサいと思ってるだろうし、それは自分が80年代生まれがちょっと古いと思ってきた事の因果応報でもある。

 

自分は平成5年生まれでつい最近26歳になったのだが、はぁこれで俺もついに20代後半かと考えると動悸が止まらない。なんかもう最近スマホネイティブ世代とのジェネレーションズギャップを感じるよ。

最近の自分のアイデンティティといえば「まだ20代」ということぐらいで、令和5年にでもなったら自分のメンタルは崩壊するだろう。

 

いやぁホントにタイムリミットが近づいてるし、キャピキャピしたリア充生活を送ってるわけでもないので若者感がまるでない。

一般的に大学を卒業する年齢が22ぐらいだと考えると、そこを過ぎたくらいから大人になって学生ではないなと思い始めるようになった。その後しばらくはまだ若いと言い聞かせていたが、徐々に諦めムードになり最近考えるのを辞めた。

考えると震えが止まらないからだ笑

 

ただ、それでも平成という時代は自分にとっては愛着がある。馬鹿にされる時代だろうが、ショボかろうが自分にとっては思い入れがあるし思い出補正込みで良い時代だった。

少年漫画黄金期やテレビゲームが目まぐるしく発展した一昔前の時代と比べて、ゆとりが経験してきた文化はどれも小粒だと批判されてきた。それでも当のゆとりから見ればそれが楽しく、あの時代の空気感の中で少年時代を過ごせたことはいい思い出だ。

 

ゆとりおじさん「何がジャンプ黄金期じゃ、ワシらには鋼の錬金術師ととっとこハム太郎がある!」

その俺らの時代の最新作品だったものも、今の10代は知らないんだろうなと懐古ばかりしているから平成一桁生まれは時代についていけないのだ。

 

そうなるとどちらかというと最近の新世代よりも、上の氷河期世代の方に消極的な親近感を抱いてしまうわけで、そういう時はもう俺は老害に片足突っ込んでるんだろうなと思うし、間違いなく「インターネット老害」だと自認している笑

 

10代の頃はまだイキってたというか尖ってたなと思うが今は反抗心もなくなって情熱不足の人間だ。20代前半まではまだその残り火があったが、最近はその気力もない格好だ。

「あの頃の俺ネットでイキってたなぁ」と黒歴史を振り返りつつ、そういえばもうソードアートオンラインでイキリト扱いされてた人ももう20代なんだなと思い始める。

 

平成一桁生まれオタクのイキり行為

・小学校中学年で、学校の怪談系の本や番組にハマる

・高学年頃から中学初期に掛けバイオやメタルギアに目覚めて、「俺ヤベェ怖いゲームやってるぜ感」を出す。ネットにも触れフラッシュ動画と2ちゃんねるでウェルカムトゥーアンダーグラウンドの世界を知る

・中学高校でラノベを読み始め、ニコニコ動画を見て陰陽師とか言い出す。深夜アニメも見始め「うはwww俺オタクwww聖地巡礼行きてーw」「俺がガンダムだ!キリッ」と気取り始める

・コードギアスやデスノートを見て厨二病発症、政治にも目覚め始める

・その後無事つまらない大人になり、成りたくなかった懐古厨に進化

 

その各世代のイキり憧れのいつしかルルーシュからSOAのキリトになり、最近ではスライムになったり深夜アニメよりバーチャルユーチューバー見たり、2chよりもツイッターでの実況になったり、PCでのFPSに憧れる時代から荒野行動になり今に至る。

個人サイトが生きていたPCネット旧石器時代のお爺ちゃんなので、スマホという磨製石器についていけんのじゃ(なおこの文章はスマホで懸命に入力している模様)

 

そういえばもう昭和に生まれて、結婚をせずに平成を終えることを「平成ジャンプ」と言うらしいのだが、出始めの頃の平成ジャンプの映像は今でも懐古として見ることがある。

薮と八乙女のやぶひかシンメの時代の映像なんか見ると、何だかんだで平成も震災までは活気があったんだなと懐かしくなる。ジャニーズについて語り出すと、いつもの赤西がいた頃のKAT-TUN美化おじさんになるのでこの辺にしとこう笑

 

平成の浮かれモードが終わったのは震災で、大体同じ時期のスマホ普及も平成史のターニングポイントだという気がする。

いわゆるネットがバーチャルの虚像から、リアルの実像に変化した時代だ。

 

平成唯一の発展と言えばやはりネットで、大正モダンに対して平成デジタルかサイバーといった所だろうか。

ただネットも日常になりすぎて、デジタルがサイバーワールドとして憧れがあった時代はそれこそデジモンがオワコンになるまでのような気がするが笑

 

ほどほどにコンパクト化して緩やかな繋がりがある気がして、なんとなくスマホが高性能化していく日常というのはあの頃に思い描いていた程の進化ではないだろう。

ネットを普及させれば世界はいい方向に変わると思っていたらその逆だったのかもしれない。

少なくとも10代の頃は自分に対しても社会に対しても夢みがちで、現実に疲れている昭和の大人を馬鹿にしていたら、実は昭和の方が凄かったよねとなりイキるのを辞めた。

どれだけ昭和が凄かったか今になって理解するようになり、ダサいと思ってたものの真実を知る。

 

願わくば大正のように、文化的には平成が面白かった時代として令和の時代に再評価されると良いが、今のところ日本の衰退を象徴するという扱いだ。

まぁそれでいいのですよ、わかる人だけ分かれば、そこに生きた人は楽しかったのだから。そんな平成だ。

 

こんな事言っては何だが、そもそも世代間対立で煽り合う光景を見ると元号という文化の負の側面も出ていて不要論も問われ始めている。

文化考察の区分としては面白いし、何でも現代化することが合理的で正しいというわけでもないので基本的には賛成だが度が過ぎる対立は良くないだろう。

あくまでキノコタケノコ論争程度のものであって、本気にし始める人が現れたときにこういうワイワイとした雰囲気は終焉を迎える。

 

だからもう諦めよう、どうせ平成一桁生まれはこれからおっさんおばさんまっしぐらだ笑

大丈夫、平成を叩いてるおっさんおばさんは爺さんと婆さんになるだけで若くなるわけではない。

 

大体こういった不毛な争いにイライラしているのは 

現実が充実しておらず心に余裕がない人であって、仕事なり恋愛なり上手くいっていれば気にならないのだ。

例えば自分が無職ではなく、心通じ合う彼女でもいれば「元号対立でよくそこまで熱くなれるな」と文字通りゆとりを持って静観していただろう。

悲しいかな、ゆとり世代なのに一番ゆとりが無いのがこの世代だ。

 

金持ちが喧嘩せず貧乏人ほどギスギスして苛立っているのと同じで、人生充実していたら余裕があって煽りは効かず鼻で笑っていられる。

現実が充実していて忙しい人はわざわざ起こらないし、ネットに悪口を書く暇も無いぐらいに恋人と愛のメッセージを送り合うのだ。自分が悪口を書くとき、悪口を書く時間すら惜しいほど充実している人がいる。

そして忙しくない人ほど怒りをぶつけ合うことしかやることがない。

 

昭和煽りに対しても本気で憎しみを感じている人も、平成生まれという事しかすがれるものがない人も同族で、まさに争いは同じレベルでしか生じないという言葉がぴったりだ。

野球ファンとサッカーファンがスポーツに人生乗っけてるもの同士いがみ合い、日本と韓国がネットで悪口を書き合い、ツチ族とフツ族が紛争をする、対立というのは常にそういった近いレベルでの利害の争いでしかない。

 

本当の昭和生まれ昭和育ち程気にしてなく、平成に近い世代ほど平成を憎んでいる、その逆もしかり。

遺恨の種がいつの間にか大きくなりすぎてあまりにも不毛な争いをしている、しかもそれが廃れ行く同じ日本という船に乗っている時にだ。

終戦後満州に置き去りにされた日本人の敵になったのは中国人でも朝鮮人でもソ連兵でもなく同じ日本人だったという。それはシベリア抑留でも同じだった。

 

そう考えると植民地経営において近い部族同士で対立させあって、支配者として上手い汁を吸い付くしたイギリスとフランスはなかなか狡猾な国だったのだなと思えてくる。

血液型、県民性、性別、世代、嗜好、キャラクター、ましてや同じジャンルの中での対立といろいろな分断が増えているが、人はなぜ戦争という行為を思い付いてしまったのだろうという問いに行き着く。

 

そういえば最近、対話を重ねることをテーマとしていたニッポンのジレンマというトーク番組が終わった。結構好きだったんだけどな、と思いつつも古市氏が「震災直後は皆本気だった」と語っていたように徐々に出演者が丸くなっていった側面もある。それは日本社会の傾向とも似ている。

もしかしたら平成の終わりと共に一旦区切りをつける時期が来たのかもしれない。

ただ元号が変わるだけでしかないが、「昭和という時代の空気を体験してみたかった」と思うように平成の空気もそう語られる時が来るのだろうか。

こうして何気なく部屋の片隅でこのように語っているときも、あと一ヶ月後には平成に書いた文章なんだなと思い返すときが来る。同じ空間であるように見えて同じじゃない、それは昭和や大正の頃の日常の変化も同じだだろうし、江戸時代だったらもっと曖昧なはずだっただろう。

元号とは何とも不思議なものだ。

ゲーム一切やらなくなったワイの生活習慣がこちらwwww

ゲームは現代人の生活に必要なのかという哲学的な問いについて考えてみよう。

あなたはゲームを常日頃どれくらい、どの頻度でプレーしますか?と聞かれた場合本当にやり込んでいるヘビーユーザーから、惰性でやっている習慣型のプレイヤー、そしてゲーム実況などで見ることに徹しているという層など多岐に分かれるだろう。

 

ちなみに自分の場合ゲームといった類のものは一切やっておらず、事実上ゲームの無い生活をして1年以上経過している。

「ゲームが無い生活」と言われて想像もできないし、自分は耐えられないという人も多いだろう。実際に自分もかつてはよくゲームをしていたし、小学生のころはゲームクリエイターに憧れ、ずっとゲームだけをして生きていく生活に憧れていた。

今でこそゲーム実況やeスポーツといったジャンルが確立されており、ゲームは立派な職業になっているので、仮にかつての自分が現代に生まれ変わっていたらプロゲーマーを目指していたかもしれない。

ゲーム産業自体については否定するつもりもないし、どちらかといえば応援している立場だが、現実に今のところゲームが無い生活に1年以上適応している自分がいる。

無いなら無いで困らなし、今まで大切にしていたデータも未練はないということを知った。

 

まず自分のゲームライフについて前提として整理したい。

・ソシャゲ→やらないし興味が無い

・携帯ゲーム機→好きだったタイトルに飽きた

・PC→グラフィックボードが稼働しなくなった

 

ソシャゲに関しては一切やるつもりもないので、コンシューマーゲームを推しているような古典的なゲーマーに自分は分類される。スマートフォンやタブレットの性能が向上すれば興味は湧くかもしれないが、どうしてもコンシューマー型に対しての信頼と、ソシャゲに対する偏見を自分は抱いている。

また現実的に人づき合いが限られているとコミュニケーションツールとしても始める機会が無いし、そもそも話題ならばスポーツや芸能の知識、教養で補えるのであまり必要性を感じないという事情もある。これはもちろん人によるので、今のところ自分は必要性が無いというだけの個人的な話だ。

リアルの知り合いが自分と同じくコンシューマー型の人間であることと、相手がソシャゲをやっていたとしても惰性でしかなく、それ以外でコミュニケーションが成り立つという場合、やはり始める理由は見つからない。

ゲーム仲間から人脈が広がっていくケースもあるのて、その点については否定しない。

 

携帯ゲーム機に関しては具体的なタイトルで言えばポケモンシリーズをメインにプレーしていたものの、昨今のオンライン対戦やレーティングシステムの導入によって、ユーザーの雰囲気が変わってしまい自分自身冷めてしまい遠ざかってしまった。

一度遠ざかると別に自分の生活にとって必須ではなかったことに気付く。

レート対戦が導入されて、ポケモン対戦がメジャーになる以前から自分は俗に「三値」といわれるシステムを理解し育成していたが、それはあくまで本当にコンテンツ愛のある趣味人がワイワイしていた雰囲気が好きだったからこそ継続できていたのかもしれない。

ゲームのシステムそのもの自体よりも、その界隈のユーザーたちが作り出すコミュニティの雰囲気が好きだったのかもしれない。

 

それが本当にガチの競技化したり、ゲーム実況に浸食されたりすると、そのかつてとは異なるネットの雰囲気にはついていけなくなり段々と情熱は失われていった。

今ではオンライン接続率もかなり下がり、こういったガチ化路線に多くの人が疲れているし、社会人になってから今の環境でポケモンを続けるというのは非常に難しくなっている。

結局コンテンツの面白さというのはそれ自体のクオリティよりも、ユーザーの質やコミュニティの雰囲気であって、どうしても自分は今のポケモンに好意を抱くことができない。

遊戯王のようなカードゲームも似ていて、本来子供がやる物を少数の「大きなお友達」の人が陰ながら支えている状況が理想であって、そういった大友ユーザーが大手を振って歩くようになるともうこれは既存層が独占して新規層が入りにくい閉じコンの始まりだ。

すべてのゲーム型コンテンツについていえるかもしれないが、結局こういう運命を辿るようになると悟ってしまい、自分はゲームから去って行った。

 

パソコンのゲームについては今も一応、情熱や興味はある物の、3DCGのゲームを起動することが出来ない謎めいた状況になっており、やりたくてもできないという状況になっている。

普段の使用については問題が無いもののおそらくグラフィックボードに問題があって一度修理に出してみるしかないが、現状動画も見れてネットは普通に使えるのでそのままにしている。近いうちに一度PCのメンテナンスを見直したいので、この機会があれば復活するかもしれない。

最新のゲーム機を手に入れたりPCをアップテードしたりする経済力も無ければ、かといってそこまでして戻るほどの魅力も今のゲーム界にはないのが自分を取り巻く現実だ。

 

自分自身のゲーム環境の問題と、ゲームを取り巻く世の中の風潮や状況、この二つがどうも今の自分に合っていないというのがリアルな実情となる。

ではそうしてゲームをやらなくなった&できなくなった状況で、自分が何をしているかという本題にようやく移っていきたい。

 

1:読書時間がめちゃくちゃ増えた

これは物凄く大きな変化で、ゲームをしなくなった替りに何が増えたかといえば、単純に読書時間が増えた。

「やることがないので本を読むしかない」という暇つぶしとして、読書が今になって再浮上してきた。とにかく本を読む、読む、そして読み、自分自答して自分と作者の対話の世界に閉じこもるのが自分の生活習慣だ。

自分で言うのもなんだが、とにかく知識や教養は増えたし、自分で考える時間は本当に多くなった。本というものは値段に対してもっとも手に入れられるものが多いジャンルの一つと言っても過言ではない。

 

コスパの追求という意味においては読書に右に出る物は無い。

自分の場合過去に古本屋で最安値の本を数十冊も集めていたので、それを読んで処理することにしばらく時間を使っていた。図書館を利用すればもはやお金もいらないので、底辺の趣味としては読書以上の物は無い。

それだけでなく、読書で得た物をコンテンツに変換できれば有益な投資にもなるので、漠然とゲームをやっていた時に比べると何か有意義なことをしているような気分になる。

文字だけの世界を通じて想像した世界が、いずれ創作に反映されることもある。

 

正直なところゲームは上手くなったところでどうしようもないというか、「上には上が大勢いる」という途方もない現実に直面する。

自分が本当に好きになったゲームをやり込んでその世界で特別な上級プレイヤーになろうと憧れていた頃は情熱があるが、いずれゲームの世界も現実と同じような才能と努力の世界だと知るようになる。

今の時代ゲームは現実と同じぐらい鍛錬が必要な厳しい世界であり、それだったら最初から現実で努力したほうが良い。

 

ゲームがバーチャルの夢だった時代は終わっており、今や現実そのものがゲームに浸食してきている。

分かりやすく言えば、実際の格闘技の代替として始まった格ゲーが、今や現実の格闘技と同じかそれ以上に極めることが難しい競技になっている。

かつては現実でできないことをゲームならばできるという追求から始まったものが、今では現実かそれ以上に頂点に立つことが難しくなっている。

世間一般では無意味な能力も、一部の世界では極めれば認められるという時代から、その無意味な能力が現実で必要な能力以上に高度な能力になった。

 

それならば最初から現実で役立つことを努力していたほうが良いし、「現実ではくだらないけどもここには自分たちの居場所がある」というゲームに対する幻想も今では消滅しかかっている天然記念物になっている。

現実で活躍している人がネットでも活躍するSNSのように、ゲームも結局現実の一部なのだという悲しい現実がある。

 

2:ユーチューブとテレビを見るようになった

ゲームというのは能動的な趣味で自分でプレーする必要があるが、徐々に人は受動的な趣味を求めるようになる。

それまでゲームをするために使っていた時間で、自分はコンテンツの吸収と大義名分を打ってひたすら動画やテレビを見るようになったのがこの最近の習慣だ。

自分の場合動画と言っても、意識的に海外の動画を見るようにしており、事実上語学の学習として機能している。

 

例えば1時間ストレス発散のために惰性でゲームをするのと、同じ1時間に字幕も翻訳も無い海外のネイティブな動画を見るのとでは、意味合いが違ってくるだろう。

とにかく自分の勉強している言語の動画を調べてみるようになり、ゲームをやるなら語学という感じで勉強している。

特に英語に関してはリスニングならばこの習慣で、ドキュメント番組のような綺麗なナレーションならば大体内容はわかるようになってきたので、学習の成果はあったように思う。

これまでなんとなくゲームをつけるという習慣が、なんとなくyoutubeを開くという習慣になり、その結果これまで見たことのない情報の入り口になった。

 

3:お酒を多く飲むようになってしまった

ゲームをしなくなったことで全てが順風満帆なバラ色というわけではない。

酒は暇と孤独に付け込んでくるのだ。

正直なところ、ちょっとずつお酒を買うよりもその分を貯めていればゲーム機もソフトも手に入れられただろうなという後悔はある。DLCのような課金にしても一回手に入れればそれは残るが、お酒は後悔しか残らない。

何もやることが無い時の心の拠り所、あるいは精神安定剤としてゲームは呆然とやっているとなんとなく安心感に変わってくる。

漠然と何かを求めている時今までならばとりあえずゲームをつけて遊んでいれば気が紛らわせたが、今ではネットサーフィンか散歩、読書、テレビのような平凡な趣味しかなくなっている。

その結果安易にお酒に頼るようになった。

 

ゲームは傍から見ればくだらないことに熱中していて、どうでもいい数値を極めているように思えるが、向上心を満たして成長しているんだという錯覚は満たすことができる。

人間という生き物は時間を無駄に使っていると焦燥感を覚えるようにできているらしい。

自分の場合、ユーチューブを見て語学を極めたり、読書をして知識を得たりしてその気になっているが、そのやる気も無い時は虚無感を抱く。

そういったときゲームでスキルを磨いたりポイントを貯めたりすることに没頭していれば、何かしらの充足感を得られるのではないかとも想像するし、かつての自分はそうだった。

ゲームをやらなくなった隙間を埋めるように、お酒を飲むようになった。しかしその時間で、今まで知らなかった世界に触れていることを思えば、どちらが正しかったかと一概に判断することには迷う。

 

4:積んでいたプラモデルを作る

これは実はというともう「終わった」習慣なのだが、つい先日までプラモ作りに没頭していた。ひたすら過去に積んでいたプラモを何かに取りつかれたようにひたすら組んで、主にガンプラから、ゾイド、アーマードコア、マクロスなどロボット物を組み、哲学の道を歩くかのように思索の世界に自己陶酔していた。

この件についてはこれからいくつか作った完成品などを実物の写真で投稿していきたいと思っていて楽しみにしてもらったらありがたい。

 

プラモを作っているとまるで俗世間から隔離された世界にいる感覚になれるというか、黙々と作業をしていると安心した気分になれる。この静寂の時間に考える物が何か新しい物になってくれればいいなといろいろ妄想していた。

 

ただ過去に積んでいたプラモを今になって組み立てているだけで、新しく買い集めるとなるとプラモは敷居が高い趣味だも思う。

何より作ったとしても置く場所が無かったり、作るスペースそのものが無かったりする。

積んでいたプラモを作りきった今、この生活習慣を再開するにはしばらく時間がかかりそうだ。

 

5:現実への興味が湧くようになった

今の自分の関心はといえば、バーチャルの世界よりもリアリティな世界だ。

RPGの世界にある美しい街よりも、現実の世界を旅してまわりたい、そういった憧憬を抱く。ゲームの世界も所詮作り物で限界にあることを悟ってしまったのだろうか、ゲームの世界に登場する街よりも無名であっても人が住んでいる街に惹かれるようになった。

 

RPGのダンジョンに登場する酒場や喫茶店は同じプログラムの言葉しか喋らないが、現実だと店員さんや常連客との触れ合いがある。もちろんそこで得る情報も多いし、予想外のこともある。

「あのゲームをプレーしたい」という感情や憧れよりも、あの街やあの国に行きたいという感覚の方が強くなり、そういった番組も見るようになった。

昔RPGで訪れた町は思い出の中だと美しいが、実際に今プレーしてみるとそうでもないことに気付く。いわゆる思い出補正という奴だ。しかし現実にいつもより遠目に行った町は、今でも郷愁を誘う。

 

なんとかシティとかなんとかタウンみたいなものに子供の頃に憧れていたのも、いつか大人になればそのような街に行きたいという思いがあったからだ。現実に大人になればそう行動範囲は広がらないことに気付くし、たどり着いたとしても理想郷は無かったと悟ることになるかもしれない。

 

かといって今更ゲームの世界はある程度もう知っているし、それは行動の自由も大人ほどは広くない子供の頃に何も知らないから想像していただけのものでしかない。

 

現実世界は広くても実際に自分が辿り着ける場所は思っていた以上に狭い、ゲームよりも狭い、そのことを悟った現代人はゲームの世界に没入するようになる。

しかしやっぱりゲームも狭い、そして同じように現実しかない。

現実もゲームも大して面白くないというジレンマに直面しながらも、人は大人になった時どちらを選ぶのだろうか。

ゲームにしろ現実にしろ、どちらもあの頃のように輝いて見えるわけではないのは同じだ。しょうもないどちらかしか選ぶしかない。

じゃあどちらでもない面白い新世界を作る?

ハハ、馬鹿げてるけどもうそれしかないだろう。

後はそれができる奴がどれくらいいるかってだけだ。

???「僕は新世界の神になる!ドンッ」

BTS防弾少年団のM出演取りやめについて思う事

つい先ほど今週のMステが終わったが、そこにBTSの姿は無かった。

正直まさか本当にMステ出演が取りやめになると思っていなかったし、今の時代、テレビ局といえども世論を軽視できない時代になっているのだと改めて感じた。

個人的な意見としてはBTSの出演を巡る問題に関して、この解決方法はいい意味で無難だったと思う。

テレビ朝日はフジテレビの二の舞になることを避けたかったという見方もあるし、この前例によっておそらくNHKも紅白出演は見送るだろう。

 

SNSなどを見ていると、いわゆるアーミーと呼ばれるファンの意見は二極化していて出られなかったことに対して憤りを感じている人と、冷静に仕方がないと考えている人に分かれている。

 

というよりもこの状況でMステの対応に憤っている人は少数派で、大部分のファンはBTSをMステで見たいという思いを抑えて今回の事を受け入れている印象だ。しかし前者の過激な言動が目立ってしまうので、これがK-POPファンのイメージになってしまう可能性と、他の韓流アイドルのイメージ低下にも影響を与える危惧もある。

 

この件で一番怒っているのはむしろ他の韓流アイドルを応援している人達であって、これまで先人が日本で懸命に作り上げてきた信頼を壊しかねない態度への批判が多い。

この騒動後の事務所の対応を見ても、欧米市場があるからもう日本は切り捨てても問題ないと考えているのではないかと疑われても仕方がないし、それはBTSの身勝手だと考える層も存在する。

 

韓流は一枚岩だと思われがちだが実はそうではない、それどころか韓国社会自体がまとまっていない。徴用工問題だって一部の遺族団体の身勝手によって韓国全体が偏見を持たれかねないが、日本で活躍する同胞の足を引っ張っている事など彼らには関係が無い。輸出依存の韓国にとっては、ある意味貴重な外貨を得ている功労者の邪魔をしているわけだ。

 

日本で真面目に活動している他のグループからすると、これからというタイミングでBTSと徴用工遺族は何をしてくれているんだという感覚になってもおかしくは無い。

そのバンタン自体についても、「欧米市場がある」というのは一過性の流行に過ぎず、流行が去っても根強く見捨てないでいる日本ファンを切り捨てるというのは後々響いてきそうだ。

日本ファンの何が韓流アイドルにとって重要かといえば、それは不遇の時にも見捨てずに支えるからだし、実際SNSでもこれからもバンタンを支持しますと宣言しているファンは多い。

 

しかしアメリカで売れたら日本はもういいという姿勢は、今後少しずつファン離れにつながっていくようにも思う。信頼という物は気づかないところで失われていくものだ。

実際他の韓流の男性アイドルにはいくらでも良いグループはいるわけで、必ずしもBTSでなくとも替りはいる。

もっと真面目に日本人ファンを大切にしているグループは存在しているし、SEVENTEENは日韓問題が揺れているときにソウルで日本語の曲を披露したという。ファンも平和的でBTSの過激さとは一線を画している。

また改めてジャニーズの良さも分かったというか、反日的なことが無いどころかむしろ日本の魅力を打ち出そうというコンセプトの曲や衣装もあって自分の中で再評価だ。

 

双方の歴史観が食い違っていて、それ自体は当然だとは思うのだが、中立的な立場で静かにマイペースで楽しむことの難しさを感じるのも本音だ。

自分は韓流についてはあまりそういう争いを見たくないので、なるべく無意味な論争からは距離を置いてきた。しかし時々こういったコリアリスクのような事が起こるので現実を感じてしまうこともある。

韓国人が反日になることは仕方がない部分もある、韓国の世論や教育の事もあるし歴史上の出来事もそうだ。実際自分が韓国人だったら反日になっていなかったとは言いきれない。韓国人の立場を想像すれば理解できないことは無いし、日本も嫌韓をしているのだから、韓国の反日ばかりも批判できない。どちらが先か後かという論争も不毛だ。

 

ただ皇室と原爆についてはデリケートなので、今回は触れてはいけないことに触れてしまい騒動が大きくなっている。イ・ミョンバクが皇室の問題を出したことで反発を招いた時と今回のケースは比較されている。

 

日本人の立場としては謝罪や釈明を求めたいかもしれないし、今回の件に関しては自分もBTS側に非があるように思う。

ただ韓国社会というのも複雑で、基本的に日本は謝罪が足りないと思っている世論の中で、逆に自分たちが日本に謝罪するというのは天と地が入れ替わってもあり得ない。

韓国社会において「親日派」というレッテル張りは社会からの排斥を意味する。

親日派という言葉自体が裏切り者というニュアンスに近い歴史用語として使われているので、なかなか謝罪できないのも現実だ。

国際関係で強硬路線を貫けば英雄だとされ、引いて譲れば弱腰だとされる例は古今東西ありふれている。もはや本人たちの意思を超えて世論がそれを出来なくさせる時がある。

 

この騒動はしばらくは収まりそうにないだろうし、BTSも日本以外の地域での活動にシフトしていくのではないか。ただその場合、日本に戻ってくるという選択肢は保証されていないかもしれない。

また他の韓流のアーティストはこの件で日本との関係には気を付けるようになるだろうから、これで不用意な言動はむしろ減っていくきっかけになる。

ただ問題なのは韓流というものが一括りに見られることで、それはやはり多くの韓流ファンやK-POPファンが危惧している。

特定の国の物だから全部駄目だというのは、文化の発展という面においてはマイナスだ。

 

また反日を乗り越えて日本文化を愛好している韓国人も大勢いるのも事実であり、こういうことは減っては欲しいが、日韓関係においては付き物なのかもしれない。

良い物はやはり良いという感覚も持っておきたいし、悪い部分だけを拡大してみれば何事も楽しめなくなる。

日韓関係に限らず、時としてそういう人もいる、という感覚を持って極端に振れない事が求められているように思う。

BTSラップモンスター「歴史を忘れた民族に未来は無い」←いい言葉だよな

芸能人の過去の発言が取りざたされて、時間を超越して問題になることはしばしばあり、時として国際問題に発展することがある。

この度、韓国のヒップホップグループである防弾少年団、BTSがちょうど徴用工問題というタイミングもあって荒れに荒れ、揺れに揺れている。

その上ミュージックステーション出演が控え、紅白の出場も確実視されているので、炎上しない方がおかしいという状況だ。

次回のMステが天王山であり、このまま紅白に向かうのか、それを阻止するのかという攻防戦が繰り広げられている。NHKとしては受信料支払い拒否を回避するために、BTSの出演を取り下げるのではないかとも予想されており先行きが読めない。

 

まず徴用工問題については「当時の韓国政府」が賠償金を徴用工に支払わなかったことが今になって掘り返されている。

これは当時、韓国が朴正煕(パク・チョンヒ)の独裁政権下にあり国際的に輸出できるまともな産業が無い状況で、やむを得なく日韓基本条約で得た資金をもとに産業化に走ったという背景がある。

朴正煕に言わせれば、個々人に保証するよりも、その資金を元手に国家全体を発展させた方が長期的には国益になるという判断だったはずであり、今の民主主義や人権の理念を適用する余裕が当時の韓国にはなかった。

いつ北朝鮮が南進して来るかわからず、国力も北側が勝っていた時代に選択の余地などなかったのだ。

「民主主義は待ってくれ、今は国民が食う事が先だ」として朴正煕は西側諸国では稀有な程に長期の開発独裁を敷いた。

確かに強権的な側面はあったもののそのおかげで今日の韓国の発展した社会があるのだが、当の韓国人はこの歴史を忘れてしまい、民主化運動世代の声が大きくなっている現状がある。

 

この度、防弾少年団について問題になっているのは主に二つだ。

・RMの「歴史を忘れた民族に未来は無い」という発言

・ジミンの原爆Tシャツ

 

まず一つ目に誤解されているのが、「歴史を忘れた民族に未来は無い」という発言が日本に向けられたものであるという認識だ。

これはスポーツの日韓戦などを見ていると度々目にする言葉だが、これは自国民に対する戒めのような意味合いが強く反日的な発言ではない。

ようするに「朝鮮という国は弱かったor外敵に立ち向かう勇気が無かったから外国に取り組まれることになった」ということを自戒し、「韓国は強い国にならなければならない、そうでなければまた同じように滅亡する」というニュアンスに近い。

 

「日本は過去の歴史を反省しなければ滅亡する」という内政干渉だと勘違いされているが、どちらかというと日本という巨悪に滅ぼされた韓国を、再び負けないようにするために鼓舞する意図で使われている。

 

その認識の上で自分は思うのだが、「歴史を忘れた民族に未来は無い」という言葉は日本人こそ真摯に受け止めなければならないのではないかということだ。

日本が先の第二次世界大戦で敗戦したことは、まさしく国の滅亡だが、主な要因として外交力と国力の欠如があった。

これは朝鮮が日本に取り込まれた理由と同じで、弱肉強食の国際社会では弱い物は必ず強者によって食い物にされる。

日本に外交力や交渉力、先見性、大局観のようなものがあればそもそもアメリカとの無謀な戦争などしなかったはずだ。無実の市民も、純粋な思いで国家に貢献しようと思っていた誇り高き軍人も、爆撃によって焼失した歴史遺産も消えることはなかった。

 

朝鮮だって同じだ、高宗と閔妃の二人が王朝の外交をかき回し混乱させ、近代化より政権の維持に固執しなければ自国で発展する可能性はあった。

事実として福沢諭吉も認めた金玉均という開化派も存在したわけであり、近代化の可能性は存在した。

 

皮肉なのはこの歴史を忘れた民族に、日本人と韓国人のどちらもなろうとしていることだ。

BTSのラップモンスターは自分自身ファンの一人でもあるが、第一にこの発言自体数年前の物で10代の時の物だ。自分自身の10代の時の政治思想や歴史認識を振り返ってみても到底まともなものではないし、現時点でもそうだろう。

人間というのは考え方も変わっていくし、成熟し成長していく。一瞬の過去の発言だけでその人を判断し、更にその民族全体を判断することがあっていいのだろうか。

あの時何となく言ったということだけで、個人の人生全体が判断されるともはや誰も発言できなくなる。

ラップモンスターの発言も全体を見れば「独立のために身を捧げてくれた先祖への感謝を捧げましょう」という意味合いで、日本への批判のニュアンスはそれほど強くない。

それをいうならば日本も神風特別攻撃隊に出陣した人々を賞賛することがあるわけで、どの国にも自国の歴史観というものがある。

 

「歴史を忘れた民族に未来は無い」という言葉自体は、発言する側にも受け手側にもよって多彩な意味を持つ。

しかし抽象的な意味合いとしてこの言葉を見た場合、示唆に富んだ言葉であるように思えてならない。

韓国の場合、近代における日本の統治については厳しく攻め立てるが、過去を振り返れば中国、モンゴル、そして同胞だったはずの北朝鮮にも侵略されたことがある。

「光復節」として彼らが祝う、日本からのいわば解放記念日もアメリカがもたらしてくれたものだが、今ではそのアメリカに対しても反米になろうとしている。

 

原爆の問題に関しては日本人としては当然、快く感じるわけではないが、敗北の象徴としてこれほど響くものは無いのも現実で、「なぜ落とされたのか」という歴史を忘れてもいけない。

 

韓国の歴史、そして抗日ドラマなどを見てみると日本はとても大きな意味を持つ。

ある意味現代の韓国史は日本からの独立をストーリーの序盤にしており、その悪役としての存在感は日本人が思っている以上に大きい。

アメリカに負けた日本は、朝鮮については領土の一つだったし多民族国家の中の少数民族だという認識だったし、時としては気づかない程に市民生活に溶け込んでいた。

一方で韓国人が思い描く自国の近代史は、日本と戦ったという独立闘争の歴史であり、良くも悪くも日本は欠かせない。

 

中国、モンゴル、北朝鮮からの侵略は忘れるのに日本の事は忘れないという矛盾点も確かに問題ではある。独立運動によって現代の韓国が発足したわけではなく、核爆弾の二発とソ連の対日参戦によって大韓民国は現在まで存続している。

 

しかし日本人がここで「朝鮮人は原子爆弾を製造する科学技術力を保有していないどころか、大日本帝国の二等皇国臣民だった」と悦に浸ってよいのだろうか。

原子爆弾を自力で製造することができなかったのは朝鮮人だけではない、日本人も製造できなかった離れ業だ。

日本軍も確かに原爆の製造に着手していたものの、それはドイツに及ばずウランの採取に悩んでいたレベルであり、そのドイツですら間に合わなく敗戦した。

そして戦争が長期化した日本軍はドイツの降伏後も戦いをつづけ、原爆投下後も戦いを続け本土決戦まで想定していた。

ソ連の対日参戦がなければ確実にこの国は竹槍と火縄銃で連合軍に地上戦を挑んでいただろう。現在主要な観光地となっている国土も沖縄戦と同じようになり、それこそ朝鮮戦争で焼け野原になった北朝鮮や韓国のように消え去っていたはずだ。

歴史を忘れた民族に未来は無い、その言葉は見る歴史によって意味合いは違うだろう、しかしこの言葉自体は何も間違ってはいないように思えてならない。

田舎の空き地に増えてる謎の太陽光発電ワロタwwwww

地方の田舎に暮らしていると、明らかに増えたなぁと感じる物がある。

個人経営の商店どころか、公的な施設さえもが消えていくのと大局的に、今やたら太陽光発電が増えているのだ。

自分が田舎の地元にUターンしてきてから、気づけば昔知っていたはずの場所が太陽光発電パネルの設置場所になっているし、現在も大規模な太陽光パネル施設工事が行われている。

 

「昭和の頃は大規模な開発が行われて、自分の町に何かができるワクワク感があった」と憧れている身としては、何かの工事が行われていて期待していたら、単なる太陽光設置工事だったときのがっかり感は言葉にしようがない。

 

工事現場の謎のワクワク感というか、何ができるかと想像を張り巡らされるような刺激も、今では単に太陽光パネルを作っているだけだ。

 

しかし現実的に人口が減っていく田舎に新しい施設を作るメリットは何もない。

時折チェーン店が作られることがある物の、都会にあるような流行りの物ではなく、若者が寄り付かないようなどうでもいい物を利権で連れてきたような物が多い。

この自治体は若い世代を増やし、未来に向かって街を育てていく気が無いんだなという誘致ばかりだ。

 

そういったチェーン店すらやってこないような場所だと、もうこれは資源が産出しない日本に置いては太陽に頼るしかない。

昨今、電力の自由化だと言われ電気の売買は一つの事業になっている。

実際に調べてみると、やはり田舎で太陽光発電が増えているのは事実のようだ。

都会のように空地を駐車場に変えればそれなりに利益が得られるわけでもないし、買い手も付かない空地の利用価値といったら、現実的には太陽光発電しかない。

空き家にしていれば固定資産税はかかるし、廃墟になっていけば近隣に様々なデメリットが存在する。終いには所有者が全員いなくなり、行政が仕方なしに空き家を解体するという状況も溢れている。

 

太陽光発電を設置すればおおよそ10年で元は取れそれ以降は不労所得になるとされているので、いっそのこと解体業者に依頼して始末し、その後は太陽光パネルの設置場にしたほうがいいというのが全体的な流れのようだ。

もちろん今後電気の買い取り価格も下がり、なおかつ行政の補助金も減少する傾向にあるので、以前ほど魅力的な投資とはいえない。

その一方で、かと言って他に利用先も無いので仕方なく太陽光発電の置き場にするしかないというのが現実だ。

 

近隣の住民としても見栄えの悪い空き家がいつまでも経っていると不気味だし、劣化し倒壊するリスクや害獣、害虫の温床となるリスクもあるので、さっぱりとしてもらったほうがいいという事情もある。

高齢化して引き継ぎ手もいなければ家主は大体が老人ホームに入ってしまうので、田舎には日を追うごとに空き家が増えている。

 

よく人生の後始末として「終活」という言葉が取りざたされるが、実際のところ、太陽光発電の設置はその意味合いが強いように思う。

遺産を存続する親族にとっても、利用価値のない土地など買い手がつかなければいっそのこと太陽光発電所として生産的な場所にしたほうが良いだろう。

誰も管理しない空き家が近年問題になっているが、処理できる間に太陽光パネルに変えて未来の遺産にしたほうが、日本も環境エネルギー国家になるだろう。

それで使われない貯蓄が太陽光パネルを通じて今現在の経済に行き渡り、なおかつ衰退するだけの田舎にせめてもの生産的な価値が残るならばそれは、地方の終活としては一つの現実案だ。

 

また個人所有の土地が空地を解体してパネルを設置するだけでなく、大規模に土地を開墾してそれなりの規模の企業や業者が設置するのを見ると、やはり何らかの魅力はあるのだろう。

これ以上何か新しい物が生まれるわけでもなく、なおかつ資源に恵まれないような地域が勝ちを残せる数少ない手段とも言える。

例えば中国が広大な土地で大規模に風力と太陽光で発電するというスケール感はないが、日本の地方の規模が電力を自給自足できるレベルを目指すのであればまさに未来型のエコ都市が実現する。

電力の輸出国とまではいかなくとも自給自足できるレベルになれば、その余力を他に回すことができる。もちろん、それは非効率的な利権に回らなければという前提があっての話ではある。

しかし都市部から離れた需要の無い立地のほうがむしろ有利だというのは田舎にとってもチャンスがあり、また個人の所有者にとっても数少ない土地の有効活用手段であることは間違いない。だからこそ実際に自分の身の回りでも現実的に太陽光発電が増えている。

 

数十年後の電力買取価格はもしかしたら技術革新によって下がるので、この投資は赤字になり無用の長物になる可能性もあるだろうし、逆に世界の電力需要が増え、電力の争奪戦になれば油田に匹敵するような不労所得になる場合もある。

この投資の行先はに関しては現時点では予想がつかないが、利用価値のない土地にとっては藁にもすがるような賭けの対象だ。

世界の空き家対策 公民連携による不動産活用とエリア再生 [ 米山 秀隆 ]

価格:2,160円
(2018/11/2 22:06時点)