負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

朗報:タイラントさん、まだオリジナル遊戯王を作っていた

自分が創作活動をする上でたまに刺激を貰っているのがガチで10代が手作り感ある感じで作っている作品だ。

「自分にもそういうエネルギーあったよなぁ」と思いながら、失いかけているものを取り戻すことができるのがこういう本当に厨二病感ある動画やイラストだ。

厨二病の手作り感ある創作は面白いし自分が理想とするジャンルでもある。

 

特にこのtylant100という投稿者は自分が今現在唯一気に入っているユーチューバーだと言っても過言ではない。

一見すると最近のヒカキンに憧れて始めたような10代のキッズ投稿者のように見えるが実は違う。むしろタイラントさんはインターネット上における創作歴でいえば自分より2年近く先輩になる。

 

事の始まりは「youtubeに自作遊戯王作ってる奴いるぞ」ということが話題になったことだ。某掲示板で晒されて自分はこの人を知ったのだがその時中学生になったばかりだったのがこのタイラントさんであり、まさに「リアル厨二病」と言える存在だ。

実家の自動車のナンバーが映りこんでいて再投稿したという騒動すらあったほど、ガチで中学生が制作していたノリがある。しかも友達仲間で作っているわけではなく完全にすべてを1人でやっているからさらに凄い。

 

自分は熱心なファンというわけではないのだがたまに「まだ活動してるのかな?」と調べることがあり、未だにあの「遊戯王END OF THE DARKNESS」シリーズを作っていて安心した自分がいる。

そんなタイラント君がもうすぐ高校卒業か大学一回生ぐらいの年齢だと思うと時が経つの早いなとも思うし、他人事ながら自分の弟を見るような感覚でほっこりせずにはいられない。 

 

www.youtube.com

 

しかも凄いのが微妙に動画編集技術のレベルが年々上がっているという事で、レベルはそこまで高くないけども実際自分がこの編集ができるかと言えばできないことを思うと尊敬しているし憧れもある。

自分が中高生の頃であればなおさらこのような編集はできないから、下手だなとか全く思わない。自分がやったときの難しさを知っていると馬鹿にする気にはなれないなぁと思う。

 

活動歴が自分より長いこともあって「タイラントさん」だと思っているし、ジャニーズも入所日が遅ければ年下に敬語を使わないといけない的なノリで自分の中では先輩だと思っている。ある意味自分にとって厨二病の先輩がタンラントさんである。

 

このダークネスシリーズの凄いところは全部自分でアフレコしているという事にある。自分自身の映像、自分がコスプレした映像、ゲームキャラの画像、遊戯王カードの画像などに自分で声を当てていてそれぞれのキャラを全部自分で演じているというなんとも手作り感溢れる構成だ。

しかも最近では外の撮影が厳しくなり全部部屋でやっているというところも微笑ましく、そういう切な製作事情があると言うところも面白い。

そんな中高生が自分の身の回りで揃う素材だけでがんばって作ってる感、本当に好きでやっている感に刺激を受ける。

他には「プリキュア」「龍が如く」「とある科学の超電磁砲」などの作品が好きなようでそういったシリーズ関連の動画も上げている。

 

「個人創作ってこういうことだよなぁ」と本当に好きでやるということを失いかけている自分に問いかけてくるものがある。

自分自身好きなようにやっているように思いながら実は結構これでいいのかと悩むことが無いと言えば嘘になる。むしろ自分の創作については「なんでこれやってるんだろうな」と疑問に思う事の方が大半で、情熱が湧いたり無くしたりの繰り返しでもある。

 

そんな時に10代の少年が本当に好きでそれほど多くの人が見てなくても楽しそうにやっている姿を見て昔の自分を見ているような感情にもなるし、厨二病的な原点に立ち帰ることもできる。

 

最近「ユーチューバー」という言葉定着してむしろ憧れのような意味合いがある時代になっているけども、出始めの頃は「ユーチューバー(笑)」という侮蔑的な意味合いがあり「しょぼい動画投稿者」的なニュアンスのほうが強い時代があった。

 

むしろ今も一部のアイドル的な人気を持つ投稿者を除いて自称動画投稿者的な人が大半だとも思う。ただ自分はそういう元来の"しょぼいyoutuber"のほうが好きで、プロや芸能人並になって来てる最近のネットと違う個人活動の雰囲気の方に謎の落ち着きを覚える。

 

自分だけが見ている親近感あるユーチューバーみたいなものが人気になりがちだけども、実際はもう芸能人や有名番組並の時代になっていてそこに友達感覚持つのもなんか違うよなぁと感じずにはいられない。

自分だけの友達感覚で人気ユーチューバーや動画投稿者を見ていても、所詮最近流行のものと変わりないわけでもうアングラ感はあまりない。テレビ並に見られている規模の物を見て芸能人と変わらないしユーチューバーを見てるというのが既に普通の流行になっている時代に雑誌で特集されるような人を見てもそこに友達感覚や親近感はないと自分は思う。

すでに雲の上の存在であり、もう立派な芸能人になってしまった人に親近感を抱いても虚しいし生きる世界が完全に違う。

 

そんな中で良い意味で昔ながらの「誰が見てるんだよこれ」的な単なる趣味動画投稿者のほうに自分は味わいを感じる。ユーチューブがこれほどメジャーになってからやり始めた人とは違う面白さがある。

そういう意味でタイラント君は自分の中では、最近この2,3年でヒカキンに憧れてユーチューバー始めた子とは違うなと思って見ているし前述のとおり年下であっても先輩ともいえる存在だ。

アイドル感覚のユーチューバーと違って、誰もいない河川敷で細々と七輪の炭火火焼して一人で安酒飲んでるおじさん投稿者とかのほうが自分は好きだなとも思う。

 

正確には年齢わからないけどもおそらくそろそろ大学か就職ぐらいの時期で、彼の創作活動が環境や財力の変化によってどうなっていくのかというのは興味深い。

中高生の頃は情熱があって「大学の4年間あれば凄いことができる」と思ってたのに、結局無駄に浪費した自分のような失敗は繰り返さないでほしいなとも少し心配している自分もいる。

大量の時間があって思う存分創作や制作ができる、結局何もできなかったり何にもならなかったりするのが大学という時間でもある。

自分が中高生、大学初期ぐらいに描いていた「厨二病ノート」を見ると、この頃に思い描いてたこと全然できなかったなという事の方が多い。

 

タイラント君は「遊戯王END OF THE DARKNESS」を外で撮影できなくなったと言っているけども、いざ自分が大学生になって自由な時間もあって製作環境が整ったとしてもこの頃のような情熱あるものが作れるとは限らない。

自分も今作ってる物と、授業中のノートに落書きで書いていたものとどっちの自由度が高いかと言われれば回答には悩む。あの頃の妄想力の方が高かったよなぁ、と謎の厨二病センスの衰えのようなものも感じるし「思ったように成長できなかったな」という思いもある。

 

環境が整って良い場所で自由に撮影したものが面白いのか、部屋の中にある限りの素材で工夫して情熱で補ってた頃の方が面白いのかは難しい問題になる。

よくユーチューバーでも「狭いアパートで撮影してた頃の方が面白かった」という人はいるし、自分もペンタブではなくアナログでノートに描いてた頃の方が発想の自由さはあったと思う。そういう時にこういう10代のリアル厨二病を見ると希望を取り戻せる。

 

タイラント君のいいところは、しっかりこの遊戯王ダークネスのオリキャラに情熱を持っていることでもある。

オープニングに恒例のオリキャラがかっこよくOP風に登場して、エンディングには全部自分で演じているこれまで登場したオリキャラのオールスター集合絵も登場する。

 

これの何がそこまで自分の心に響いたのかというと「自分しかわからない自分のオリキャラへの愛着」にある。

自分の考えた最強のオリジナルキャラクター集合時のオールスター感は、自分でオリキャラを描いたことがある人にしかわからない魅力がある。

自分でここまで作ってきたという思い入れがあるから、傍から見たらイタい上にしょぼく見えるかもしれないけど愛着を持つ。

「タイラント君、このキャラクター全員好きなんだろうな」という作者ならではの特別な思い入れがすごくわかる気がする自分がいる。

 

ましてや彼の場合、自分で声変えながら専門的でもない見様見まねのアフレコをしているから面白い。これがどこかの養成所である程度の専門教育を受けた人がやっていたら「はいはい、上手いね」としか思わないけども、中学の頃から自分独自の工夫でやっていると個人の手作り感あっていいなぁと思う。

遊戯王初期の風間俊介の演技がなぜか面白い事と似ているかもしれない。

 

タイラント君は本当に遊戯王好きなんだなという思いが伝わってくるし、5年がかりで10数話作り続ける熱量に自分が失いかけているものを見出したりもする。

結局こういう作品は自己満足でもいいし、それを作る過程で何らかの技術向上や制作経験が得られれば次につながってくるから無駄では決してない。

そして10年後「そういえば俺こんな作ったわ」と無性に懐かしくなる時が来る。

そういう無名の創作というのはどこかで大切なものになる日が来るし、絶望的に誰も見ていないわけではない。

 

そういう姿を見て続けることの大事さを再確認した自分もいるし、そんな姿に刺激を受けて「こういうのやっていいんだ」と思う人が新しく出てくればそれは凄くいいことだとも思う。

外山恒一「ラジカルな学生運動を復活させなければ革命は不可能」

世の中やネットからコアでヤバイ奴や革命を企てるようなアングラな危険思想の持ち主が減少してきている!

というのは常日頃自分が主張していることなのだが、そういった絶滅危惧種的な面白い人がどこにいるのかという疑問を持つ人は実は今もどこかに潜伏しているのではないかとも思う。

 

そんな自分が今かろうじて面白いなと思う人は極めて限られている。

「皆普通の人に見えてきたし世の中普通の人が増えた、いや普通の人が大半だという事に気付いた」という幻想の崩壊に端を発する自分の絶望を癒す人は案外メジャーなところにいる。

面白いキレのある人はアンダーグラウンドにいなくて、既に有名になっている人が多い。アスリートや芸能人、アイドルは本当に面白い人が多いし捻ってマイナーなところを狙わないほうが実は面白い。

例えば声優やユーチューバーからコアな人を探し出すより、普通にジャニーズやサッカー選手を見たほうが超面白い奴いっぱいいるのだ。逆に前者のほうが意外と普通で俗な人ばかりで、そこに集うファンも普通の人が多いという現実に気付かされた。

中二病時代やアングラ時代の終焉とでもいうべきなのだろうか。

 

ただそんな中でも「アングラで面白い人間」というのはいるもので、この人中々過激だぜって人を紹介していくことも"地下活動"には必要になってくる。フランスからの独立を願う戦前のベトナムの革命活動家が日本や中国のアジア主義運動家に活路を見出したように、自分はいつか外山恒一という男に話を聞いてみたいと思っている。

 

今日日ネットユーザーに「面白い人教えてくれ」と聞いたら良くわからないユーチューバーの名前が帰ってくるのだろうが、それは何か違うという疑問を抱く人はいるだろう。

「そんなんじゃねぇんだよな、もっと危険人物感ある奴教えてくれよ」と思う自分がいるのだ。

そんな自分が知っているネットの危険人物が外山恒一である。

外山恒一

外山恒一と言えばインターネットに長年親しんでいる人ならば伝説の東京都知事選政権放送で一度は目にしたことがあるのではないだろうか。散々面白動画的なものでネタにされた泡沫候補であり、「選挙なんて意味がない」という言葉を選挙戦を使い挑発した男だ。

 

そして知名度だけは無駄に高い男でありながら、その思想の深みまで探ろうとする人はそれほど多くない。正直なところで言えばただの面白候補としてネタにされただけで終わったが、実は今もアングラな革命活動を続けている一人だ。

 

外山恒一が好きな言葉、それは「ラジカル」であり、すなわち急進的という意味だ。

80年代の学生運動という学生運動史の中ではやや下火にあった時代を詳しく知る人であり、おそらく幼少期に60年代や70年代の過激な活動に昂揚感を覚えた世代だろう。

80年代というのはいわば日本経済の絶頂期であり、戦後昭和の政治的な激動のあった時代とその後に訪れるオウム真理教という新興宗教の時代の中間にある時期で政治的な学生運動よりも経済が重視された狭間の時代だと自分は見ている。

それゆえに逆にコアな人も多く、外山恒一はまさにその時代の反管理教育運動からスタートした存在だ。

そのクライマックスとも言えるのが例の東京都知事選だったが、革命は失敗し今は細々と活動を続けている。

 

situation.jp

しかしその細々と革命運動を続けている雰囲気が自分は好きであり、数年前まではバーラジカルというところでいわば客寄せのように勤務していたようである。外山恒一がラジカルバーにいた時代はもう終わったが、その時の店に行ってみたかったなという妙な憧れもある。

 

そして最近では「自分はやはり一つの場所に留まるよりも全国を回りたい」としてアングラバー巡りをしているようである。そんな活動日誌を読むことが自分は好きなのだが、この記事は中々面白くラジカルな学生運動の再建を企図しているという内容だった。

学生運動からでなければ革命の展望は見えてこないという思想は中々興味深い。

 

しかも一見ガチな革命地下活動と思いきや普通に左翼的な教養を教えていて、知識としては中々ためになりそうなところも面白い。興味本位で行ってみたいとも思ったし参加費無料で交通費さえ出せれば食事と寝場所は提供してくれるようである。これは去年の事であり今年は夏も終わったが、来年もやるのであれば参加してみたいとも思った自分がいる。

 

単なる興味本位であり「こんなところに参加する奴、超コアでヤバイだろ」という思惑もある。

外山恒一本人も当然会ってみたい一人だが、逆にこのご時世今も彼に興味関心を抱き続けている人は間違いなくマニアックな人だろうしそういう人と仲間になってもみたい。

右翼とも左翼とも単純に断定できないその思想の深みを吸収したいと自分は考えており、「そこに集う人はリアルにヤバイ奴だろ感」もある。

危険な人に会ってみたいという中二病というか冒険心というか、そんな漠然と燻った思いが自分にはあるのだろう。 日本のどこかにまだとんでもない人が潜伏しているのではないか、そんな非日常を求める旅情にも似た感覚が未だに自分を支配しているのだ。  

elkind.hatenablog.com

昔の玩具やおもちゃを調べるとワクワクする件

最近漠然と無気力状態にあったのだが、久しぶりにオリジナル武器を描いたり厨二病的な妄想やアンダーグラウンド感について書いていたりしたらちょっとだけ情熱を取り戻せるようになった。

自分がネットで創作をし始めたころの原点が懐かしくなって、武器を描くの楽しいなと再確認できた。アングラ感の妄想とか厨二病考察とか楽しいなとかここ数日そんなことを考えていて昔の感覚を取り戻しつつある。

 

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最近描いたのがこの氷属性の槍で過去作のリメイクでもある。

この武器を描いた後に「そういえば俺昔変形武器描いてたな」と思い立って脳内で構想していたら「特撮の武器」が急に懐かしくなってきたのだ。

ギミックある武器と言えば最近ではモンスターハンターのイメージがあるが、自分の中では「特撮の玩具や食玩って変形する武器多かったよな」という思いが芽生えてきた。

じゃあ自分の中で懐かしい特撮なんだと思って調べようと思ったのが「ビーファイターカブト」という作品である。

 

自分が武器を描く上で理想としているのは特撮ヒーローの武器でメカっぽいデザインが好きな部分がある。特撮の武器かっこいいよなぁと未だに思っていて、しかも自分が見ていた頃の物が懐かしい。

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そして感動したのが肝心のビーファイターよりも「ビークラッシャーデスコーピオン」という悪役のサソリのキャラがちゃんと出てきたことである。幼少期の頃に漠然と覚えているサソリのキャラクターが未だにかっこいいと思っていて正体を知りたかったのだが結構その界隈では有名なキャラらしい。

自分がこのサソリ型メカのイラストを描いたのも、漠然とそのキャラが懐かしくなったからだと思う。脳内に合ったスコーピオンキャラのイメージを元にこの絵を描いたはずだ。

 

ついでにムカデリンガーという悪役も覚えていて、ちゃんとビーファイター見たら最近の自分が叩きがちな日常アニメ見るよりよっぽど楽しそうだとも思った。無理に最新作見る必要ないんだよなぁ、と。

 

個人的にサソリという生き物には非常に思い入れがあり、デススティンガーというゾイドのメカも非常に好きで厨二感マックスなあのデザインには今もしびれる。

デススティンガーは実はウミサソリでガイサックという小さい方が本当のサソリという設定の様だ。ゆとり世代にとってデススティンガーってカリスマ的存在なぐらいに人気があった。

 

更にビーストウォーズにもサソリ型のキャラがいたと思って調べたら「スコルポス」と「クイックストライク」というキャラらしい。

このスコルポスの方は自分より少し世代が前の頃の物でおもちゃ屋に売ってなくて買えなかった記憶がある、そしてクイックストライクのほうは友達が確か持っていたはずで個人的に懐かしい思い出がある。

当時の友達がクイックストライク買ってもらってた時はすげぇと思ったし、ザリガニのギムレットも羨ましかったなぁというのが懐かしい。

 

ビーストウォーズの玩具の殆どが自分がキッズの頃だったからほとんど綺麗な形で残っていなくて、いつかオークションサイトかリサイクルショップを巡って買い集めようという密かな野望がある。

最新のおもちゃより自分が子供の頃に持っていたものを買い直すとか買えなかったものを買うというのは男の浪漫だと自分は思う。

この前もオークションサイトで100万ぐらいで未開封の特撮ロボが落札されたという話題を見たけど子供の頃のおもちゃって謎の思い入れあるよね。

 

このコラーダはさらに懐かしいなぁ、これ滅茶苦茶好きだったし祖父から買ってもらったときは滅茶苦茶興奮した記憶がある。サソリも好きだけど蛇はもっと好きで特にコブラは自分の中最強クラスに好きな生き物の一つ。

他にもデカいタコの奴とか凄く好きでビーストウォーズの思い出は本当に懐かしい、結局懐古なんだよなぁ。おかんにあのオクトパスのメカを無理言って買ってもらったときは本当に嬉しかった。

blog.goo.ne.jp

 

それにしてもコレクションとして今も綺麗に昔のおもちゃ保管してる人の家行ってみたいなぁ、こういうおもちゃレビューしてる人の家にガチでいってオタク講義聞かせてもらうのは夢でもある。

そして思ったのがちゃんと調べればまだネットもワクワクするところは多いね、捨てたもんじゃない。最近ネットつまらなくなったと思ってたけど昔の物で調べると結構コアな人はまだいるんだなと思う。

 

メタルインセクト

 

自分の中で最大級に懐かしいのはこのジャム社の「メカ昆虫シリーズ」でトンボとハチは持っていたけど田舎だったからバッタとカブトムシが中々買えなかった思い出がある。こういう古いサイトでテキストでしかリンクを貼れないような昔ながらのサイトってレトロ感あって懐かしいよなぁ。

 

しかもメカ昆虫は未来昆虫になったりメタルインセクトになったり同じ金型でもいろいろバリエーションがあるらしい。こんな色違いバージョンがある事は知らなかった。

自分の周りにあったのはまさにこの四色のタイプで、特にバッタメカが欲しくて欲しくて仕方がなかったけど遂に手に入れることはできなかったのもちょっとした懐かしい日々の出来事だ。

更にヘラクレスオオカブト版を手に入れた子が自分より下の学年に出たという噂を聞いたときは何とか見せてもらおうとそのクラスに行った思い出がある。

photozou.jp

 

でもバッタメカ今ちゃんとした写真で見るとそこまでかっこよくないなぁ。

やっぱ思い出補正なんだろうね、カタログか何かで子供の時に見るからかっこよく見えるんだろうと思う。こういう古いサイトちゃんとこれからも残っててほしいなぁ、昔見てたサイトが無くなってる時の悲しさは地元のお店が閉店すること並に寂寥感がある。

バッタメカ

 

おもちゃで調べると本当に懐かしい物が続々と出てくる。

とくにミニプラは本当に懐古感情を刺激する、しかもミニプラのちょっと大きめの物と更に小さいチョコボールの上に小さくついてる方の二種類がある。前者ラムネ一個入ってるだけでむしろミニプラのほうがメインなことが多い。

しかも結構オークションで高値で取引されていて、やっぱり男の浪漫みんな捨てきれないんだなってのはちょっと嬉しい。

その食玩についているような飴とか結構美味しいし同じ味無いんだよね。

未だに「メガレンジャーの食玩についていた飴」の味が懐かしくて、何味なのかわからないし同じ味を見つけられてないというのがちょっとした謎だったりする。ビーストウォーズの食玩についていたガムの味もいわゆる思い出の味だ。

食玩版のビーストウォーズ更に懐かしい、パッケージ見るだけで泣けてくる。

 

食玩で言えば確かガオレンジャーの今でいうガラケー型の変身アイテムと、ハリケンジャーの更にカブトライジャーとクワガライジャーの食玩も懐かしい。調べるとゴウライチェンジャーというらしく玩具版は見つかるのだが食玩版が見つからない。自分の勘違いだろうか、ミニプラで買ったような記憶があるんだよなぁ。

しかも手に入れた手段が特殊だからなおさら思い入れがある。

 

自転車に補助輪なしで乗れるようになって行っちゃいけない校区外に親に内緒で買いに行ったことが個人的なエピソードとして懐かしい。田舎だから近場にいい食玩を置いているところが無くて自転車で校区外に行くしかなかったのだ。

今の時代は地元の小学生までヘルメット着用になっていて、そんなことするガキいないだろうなぁとも思う。

「俺がガキだったころは上級生が自転車乗りながら片手でエアガン撃ちまくっててちょっと怖いと思いながらも憧れたもんだ」という治安悪い民度低いエピソードもある。

 

もう今エアガンが流行る小学校とかないだろうし、校区外にノーヘルで勝手に行く子いないだろうなぁ。そういうちょっとした冒険が今となっては懐かしいものになるけど、これも健全化の波なのだろう。

皆3DSでユーチューバー見る時代はちょっと寂しいよね、と思いながら昔のおもちゃ紹介してるサイトを見るのが楽しい。

bhb-kws.jugem.jp

 

yaplog.jp

買えなかったおもちゃ懐かしい論で言えばこのギンガマンのギガフェニックスとギガライノスも思い入れがある。

正式名称すらわからず漠然と「何かの特撮に出てきた赤と青のロボでそれぞれ5体ぐらいに分離する奴」というイメージだけがあってスーパー戦隊公式サイトを見てやっと正体が分かった。 これだよこれ、キッズ向けの本で見て憧れてたんだよなぁ。

 

でもこういう曖昧なイメージにありがちな事として、今見るとちょっと思ってたのと違うというケースが多い。子供の頃のセンスと今では当然違うしおもちゃのチラシでみるからワクワクするのだろう。

それで言えば近所のスーパーのチラシでおもちゃばかり映ってるのとかもう最近無いんじゃないだろうか。あのチラシだけで満足できた子供の時代は貴重だ。

コロコロコミックやテレビマガジンとか今どうなってるんだろうなぁ、今そういうの集めてみると面白いかもしれない。当時の物でもいいし最近の物でも面白そうだ。

 

コロコロは大人向けのコロコロアニキというものもあるらしいけど、だんだんと昔の物が大人になった当時の世代向けになって来てるのは最近よく見かける現象でもある。昔の物にしか興味が無くなると年を取ったという事なのだろうか。

食玩も今の方が間違いなくクオリティは高いけども欲しいのは中古でも昔の物だ。

リサイクルショップ巡りしたら更に懐かしい物が多いんだろうなぁ、ネットに載せていないようなものは絶対あるはずだ。

田舎の辺境にあるリサイクルショップに実はお宝が眠っていたみたいな話は聞くけど、「日本のどこかに面白い店がある」という幻想にも似た期待が自分にはある。

 

ゆとり論で言えば良く聞くのは「天才てれびくんで見ていた人懐かしい」という話で、橋本甜歌(現:てんちむ)が好きだった男子は多い。

「俺の中では未だにあの頃のてんかりんなんや・・・」と変化を受け入れられない人も多いのではないだろうか。今更ユーチューバーになられても興味が無いけど結構人気を博しているようである。

 

しかも調べてみたらワイの好きだった木内江莉という子が普通に結婚してて子供までいて、これが同世代に取り残されていく感覚なんだなぁと謎の失恋みたいな感覚にとらわれずにはいられない。

これだから嫌なんだよ、自分が同窓会に行かない理由はこういう同年代とか近い世代の近況知りたくないからというのが大きい。

天てれ戦士の現在調べない方がいい論をここに提唱したい、思い出の幻想が崩れるから。調べるとしたらやっぱり昔好きだったおもちゃとかゲームなんだよなぁ、レトロ趣味最高だぜ。SNSとかでも同世代チェックしない方が絶対いいよ、本当に無駄だから。

思い出の中に閉じこもることが最強なんや。

 

 

Pets!Pets! 〜魅惑の生き物の部屋〜

そんな思い出でいえば自分がもう10年以上も前に見ていたサイトが残っていた時のうれしさ。このサイト懐かしくなって定期的に見るけども、何を取り扱ってると言ったら「タランチュラ」や「サソリ」のような怪しい生物でガチで自分が消防だったころに見ていたのがこの場所である。

 

苦手な人は絶対見ない方がいいけどもとにかく写真が豊富で情報量も凄い。このサイト数年前見たときは結構画像が切れていたけど今年見れなくなった画像を補完してくれたらしい。しかもリアルタイムで別のブログとツイッターもやっていててかなりアングラ感がある。こういうのなんだよなぁ、今も探そうとすればちゃんと面白いところは見つかる。

 

このサイト見てた頃の自分は大人になったらタランチュラ飼おうという夢があったけども結局今も実現できていない。

ただこういう生き物やペット系のサイトは個人感あっていいよなぁとも再確認できたしたまに生き物系とか、釣り系とか調べると抜群に面白いんだよね。

猫はレアな血統種を取り扱ったサイトだといいけど昨今のユーチューバーで再生数稼ぐためだけに猫利用してる人は好きになれない。猫が好きではなく猫が好きな自分が好き系の人と違って、マニアックな生物は本当に好き感が伝わってくるのが良い。

可愛い猫も飼い主がでしゃばり始めるとなんか好きになれなくなる。

 

それにしても懐古サイト巡りは楽しい、プルーストの「失われた時を求めて」ではないけども昔からあるところは非常に面白い。ただ玩具系は更新が止まっているところが多くて、この人たち今何しているんだろうなぁという思いもある。それゆえに昔ながらのサイト感があって楽しいのだけれども更新止まった場所を見るとあの時代は返ってこないことにも気づく。

そう言う人たちは今SNSに移ってしまったのだろうか。

 

あとは無くなったサイトにいた人も行方が分からない。

昔ポケ熱(ポケモン熱狂的ファンはココが違う!)というサイトがあって、ポケモンチャットという場所があったような気がするのだがそこにいつもいた人が無性に懐かしくなる。ただハンドルネームで覚えているだけで連絡先も知らないしそのサイトが閉鎖されればもう完全に縁が無くなる。

 

正確なハンドルネームは間違っているかもしれないけど悟空、タカユキの2人はプルコギのこと覚えてるかなぁ。イツメン(いつもいるメンバー)として話してたけど何話してたかさえも覚えてない。なぜかこの2人だけは今も覚えてるけど今本当に何してるんだろうか、多分自分が一番落ちぶれてるだろうなぁ。

あの時代から小学生一人が育つには十分な時間が過ぎてしまった。

 

今のぽけりんキッズとか妖怪キッズもこういう懐古厨になって行くんだろうか。

ツイッターで「インターネット老人会」というハッシュタグを見つけたけど、自分より更に昔を知ってる人もいて尊敬の念を抱く。これは戦後初期生まれのお爺ちゃんが戦時中を知る世代のお爺ちゃんを更にリスペクトする感覚に近いのかもしれない。

 

今も昔を調べればこれだけ楽しい物があるということを再確認できたのは良い発見だった、特に昔のおもちゃ探しは楽しすぎる。こんなものまで残ってるのかという驚きの連続だった。

今度は懐かしのフラッシュ動画巡りでもしてみようか、きっとあの頃の感覚が少しだけ取り戻せるような気がする。

底辺の自分がネットの片隅で駄文を量産する理由

正直に言えば自分の文章は美しくも無く、正しいことを書いているわけではない。ただ単に底辺の人間がその場の思い付きで人生について語っているだけの駄文だらけのブログだ。

 

更に言えば自分は一時ブログを削除しようとすら思っていたこともある。

ただそれでも感情や思想、日常の発散場所として利用するのもありなんじゃないかと思って思いとどまったのがこの語り場を始めた経緯だ。自分の人生の記録として、この時こんなことを考えていたなということも振り返ることができる効果もある。

それゆえに少し前に書いていたことと今書いていることに違いや矛盾が生じることもあるのだが、「少し前に考えていたことはもう古くて」という椎名林檎の曲に登場する歌詞のように考えというのは移ろい変遷していくのも出もある。

 

何より自分のやることが執筆しか他に楽しい事がないという生活の実情もある。

漠然とインターネットの世界に面白い物があるのではないかと期待しているより、自分で書いたほうがいいのではないかとも思うようになった。

それが結構自分の中で暇つぶしになっていることもあるし、どこの誰かか知らない人が少しでも息抜きに読んでくれたらそれはとてもうれしいことだと思う。

アングラ感のあるブログを作ろうとしていて、そこに集う人がいて社会の吹き溜まりみたいな場所になってくれたらという理想もある。

「社会の吹き溜まり感」とか「アングラ感」みたいなものが自分の好きなもので、寂れた場末の場所というか最近のネットから失われつつある個人っぽさも大事なんじゃないかなとも考えている。

底辺

楽しくない生活の中で考える事の記録、それがたとえ駄文の量産だったとしてもそれをもしかしたら必要としてくれる人がいるかもしれない。

つまらない生活の中では絶対発散の場所が必要で、同じようにそういうつまらない物をむしろ拠り所にする人の一瞬の暇つぶしにでもなればとも考えている。

時に誰も言えなかった過激な事や受けの悪いことも書くことはあるし、それが回り回ってバタフライ効果のような感じで世界のどこかに小さな変化をもたらしてくれればという思いもある。

みんな幸せなわけじゃない、つまらない人生を送っている人間はここにだっているから安心してほしいとも大袈裟だけど考えていたりする。

寂しい人間が虚ろな表情をしながら読んでいても、それはむしろ自分が理想としていたことでもある。

 

世の中で不満持ってる人が共感してくれればそれはそれでいい、この考えちょっと変だけどもしかしたら世の中に同じこと思っている人がいるんじゃないかなという思いもある。

 

「お前の苦労理解できるわ」とか「俺に似た奴がいる」「自分みたいにキツイ状況にいる人がいるんだな」とかそんな感じで見てもらえればいいんじゃなとも思う。

インターネットというのがSNSに代表されるように、幸せ自慢大会みたいな場所になって来て自分を大きく見せる時代になって来てる中で、寂しい底辺の生活をしている人がいることも伝えたいし世の中には本当はそういう人が大勢いる。

社会はそんな明るくない、もっと現実があるし良いところしか見せようとしない今のネットは居心地の悪さも感じる。

 

最近のネットの風潮についていけない人の居場所みたいになってくれればいいし、自分自身が何よりそういった記事を読んでくれる人をありがたいとも思っている。具体的にこういう人が読んでいるというのはわからないけども、少しでも読んでくれる人がいるなら続けていきたいな、と。

 

吹き溜まりでもなんでもとにかく普通では書けないことも書いていく場所にしたいしそれでいいんじゃないかなぁ。本音で飾らないことをただ黙々と書き連ねる、最近の雰囲気の変わった掲示板やSNSでは誰も書けないことを独りだから匿名の人相手に書ける。

流石に自分の暗い面白くない人生を一人で抱え込んでもこれは辛いけど、ネットの片隅で、もしかしたら誰かが見てるかもしれない。

 

そんな場所に自分の記録、そして誰かの暇つぶしになるなら、たとえ駄文であっても書き連ねたい。

だらだらと底辺の人間が独り語りして、それを独り暮らしで誰にも相手にされない人が夜中にお酒でもちびちびと飲みながら読んでいる、そんな姿を想像している自分もいるしそれが理想でもある。

人生は理想通りに上手く行く物ではない、最底辺に落ちぶれて恥ずかしい蔑まれる人間になってしまう事もある。

 

元々自分はブログを始めるときに「綺麗に使おう」とか「ウケよう」とか「よく見られよう」とかそんな期待をしていたけど今はそう思わない。ダラダラ文句や不満を書く誰も言いたがらない過激なことを書くとか、とにかく最初に思っていた理想の綺麗な使い方はもうやめようと思った。

 

どうせ削除してネットから消え去ろうと思っていた時に踏みとどまって、それが10年後「こんな荒んだ時期があったんだな」と懐かしむときが来てもいいのかもしれない。そういう個人の記録であったとしてもそういうのが現代文学の一つなんじゃないかなという壮大な考えもある。

雑記ブログというのはいわば雑誌であって時代の反映でもある。それは大きな時代というよりも、人生という名の一人の個人の時代の発露なのかもしれない。

だから自分はたとえそれがネットの片隅で、そして駄文であったとしても書きつづけたいのだ。

なぜ若者は高級車やスポーツカーに憧れなくなったのか

車が富のやステータスの象徴だった華やかな時代はもはや終焉している。

バブルの頃は当時の若者間のカースト制度や女性からの評価に自分の車が直結する時代だったと聞くし、もっと昔のまさにクレしんのオトナ帝国に出てくるトヨタ2000GTの時代は子供たちに強い車への憧れがあったと聞く。

古本屋で昭和を特集した本を見たとき、街に登場したスポーツカーに子供たちが集まっている写真を見かけて「この頃の車への情熱や憧憬って凄いな」と思ったものだ。

更に当時は外車への舶来品信仰が強く、子供たちは街で見かける外車のエンブレムを見つけた数を競いながら登下校をしていたとも聞いたことがある。

 

今の時代は若者が来るまでステータスを競い合う時代でもなければ、女性も軽自動車で男が迎えに来ようが何とも思わず、逆に車に拘っているようなオタクは車は充実しているのに乗せる人がいないという時代だ。

 

それどころかもはや車の所有はコストパフォーマンスが悪いものになり、駐車場代もかかる都会では維持費がかかる上に公共交通機関が充実しているため、それで十分だという現実的な時代になっている。

頑張らなくてもいい時代になり、楽になったともいえるがその一方で日本社会自体が衰退しかけている。貧しいことがもはや当たり前になり、富を夢見る動機が減ってきている。

 

「車に憧れない最近の若者を見て寂しいと思う」という昔を知る世代、そして情熱的な時代に憧れる若い世代も当然存在する。

 

ここでまず前提として自分の車に対する立場を明らかにしておきたい

・某掲示板に騙されて時間をかけてマニュアル免許を習得した。

・ボロい中古の軽自動車を所有

・都会にいる間は免許を取れと言われていたものの必要ないという事で拒否していたが、自動車社会の田舎に戻ったことで重い腰を上げ免許を習得してからもうすぐ1年になる。

・車に興味が無いわけではなく、免許を取っていなかった時期も憧れていた。

・ゆとり世代

・イタリア車好き 

・車への情熱があった時代のエネルギーに憧れている。

その一方で最近の若者が車に興味が無い事も理解できる。

 

更にMTを苦労して習得したのに、今普通にATで乗っているという何がしたかったのかよくわからない立場でもある。当初はガンダム的なメカ操作に憧れてマニュアル免許を習得したのだが、正直AT楽だなと思い中古車もATを運転している。

 

そんな自分が昔の若者と今の若者を比べて思うのが「貧乏だけど憧れはあった昔の若者」「貧乏であることを受け入れ憧れすら持たなくなった今の若者」であるように感じる。

若者がアルバイトを一ヶ月間本気ですればBMWを買えたバブル時代はともかく、昔の若者が必ずしもいい車を持てていたわけではない。

しかしそこには「憧れ」や「夢」があり、いつか手に入れようという情熱があった。

憧れるのはタダなのだから高級車やスポーツカーを手に入れる自分の姿を男子ならば想像していたのだろうと推測する。

今の若者の問題点は「憧れはタダ」であるにもかかわらず、高級なものに憧れなくなってきているところにある。

 

現状買えなくてもいつか自分は出世して高級外車やスポーツカーを買えるようになるという根拠のない自信があった昔の若者と、どうせ世の中そんな裕福になっていかないという事を肌身で理解して夢すら持とうとしなくなった今の若者に違いがある。

 

高度経済成長期ぐらいの若い世代は寝る前に自分が出世して成金になってマイホームやマイカーを持つ姿を想像していたが今の若者はその想像すらしなくなった。

高級車がいつか欲しいと思っている自分は少数派で、車、いやそれ以前に高い物にもはや興味が無い人が多い。

 

まさに卵が先かヒナが先かというような話で、若者が夢を持っても無駄な社会が悪いのか、憧れること自体はただなのにそれすらしなくなった今の若者の方が悪いのか、おそらくそのどちらでもあり、どちらでもないだろう。

 

そのほかの要因としては娯楽が多様化して他に出費が増えたという事も存在するだろう。可処分所得が減ったのは必要な出費が増えたという事にも原因が存在する、昔ならばスマートフォン代など必要なかったのだ。

スケール感が小さくなったことでいえば、若者間のステータスがソシャゲの課金データにもなっているところにあるだろう。

いいね!の数やソシャゲの課金データで競い合うスケール感の小さな争いで満足する今の若者が悪いのも事実だが、所有する車で競い合うスケールの大きい争いができた時代は幸運な時代でもあったことも事実だ。

小さなことで満足する野心の無い若者も、小さなことぐらいしか手に入れられない社会も両方悪いのではないかと自分は考えている。

 

例えばインドや中国のような新興国の若者が出世意欲や起業意欲が高く野心家が多いと言われるが、彼らは高級車やスポーツカーへの憧れも持っているだろう。

現状手に入れられなくとも根拠のない自信と野心を持っている若者が多い社会と、夢すら持たなくなった若者が多い社会とどちらが将来的に期待できるのかといえば前者だろう。

スタートラインはむしろ中国やインドの若者の方が現時点では後方にあったとしても、そういった情熱や野心に突き動かされている新興国の若者にいずれ日本の若者は追い越されていくことになる。

 

今の日本の若者は「周りもそうだから」と少し言い訳していて、「コスパ悪いしそれって無駄でしょ」という理由が初めに出てくるようになっている。

実は世の中の経済発展を考えたときに無意味なものへの憧れがある方が活気は溢れているのであり、ネットが普及させた「コスパが悪い」という言葉に日本人全員が染まりきると本当に貧しい社会しかやって来なくなる。

日本人の関心事が「タダでも抱ける憧れ」から、憧れる事にすら疲れて諦めて「介護どうしようかな」という時代になって来ている。

介護や生活というそういう現実的な事があまりにも大きくなりすぎて、憧れる暇すらなくなり気力も無くなってきている。

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憧れはタダであり、その憧れが多い社会の方が活気には溢れているし将来的に期待できるがその憧れですら心理的な負担になりつつある時代になったともいえる。

更に同世代にそういった憧れを持っている時代遅れの若者が少なくなったのもこの風潮に拍車をかけているだろう。

自分が特別でもなく将来の夢は叶えられないという現実を知ったのが最近の若年層でもあり求める物や夢の種類が変容しつつある。

これは想像でしかないが高度経済成長期にしてもバブル期にしても、身の回りの同世代を見渡せばいい車に乗っていたりそういう先輩がいたり、そして友達が実は車を買ったとかそういう話が日常の光景になっていたのではないか。

逆に今の若者は、そんな話を滅多に聞かないし街でいい車を見かけても自分とは縁のないただの日常の背景にしか思わなくなっている。

 

例えばいい車を止めている家を見たときの反応は今と昔では異なるだろう。

昔の若者は「この家金持ちだな、自分もなってやろう!」と思っていたが、今の若者は金持ちの家だなと思うだけまだマシでそのことを特別意識することすらなくなっている。

ナチュラルに富に興味が無く、貧乏である事にもコンプレックスが無い。

そして身の回りにも景気がいい話が無く精々ソシャゲの課金額が多いという話題しか聞かない、みんな似た様なもので現実なんてそんなもんだろという安心感がある。

軽自動車でもいい時代どころか、車持っていない人も増えてそれが普通のことになって来ている。

メルセデス・ベンツやフェラーリを見たときの反応は日本の若者中国の若者では間違いなく違う、その違いこそが両国の未来の違いなのではないかとも思う。

 

車という極めて象徴的かつ分かりやすい富の象徴というのは今になって思えば必要だったのではないかと自分は考えている。

分かりやすい憧れというのは必要でそれに向かって皆が邁進している方が実は景気が良くていい時代で、「個性が大事でみんな違ってみんな良い」が許されると夢を持つ人よりも妥協する人の方が多くなる傾向がある。

五輪やワールドカップも大衆全員が熱狂し皆流行に流されていた時代の方が、コスパ重視して流行叩きする時代より華やかだったように思う。

「流行興味ない」という人が集まりやすく一体感を味わえるような時代になるとスケールの大きい物は現れにくくなる。

 

自分自身は2ch脳ではあるが「流行ってどうでもいいし、コスパ重視するのが情強だろ」という2ch脳の人が増えすぎるとあまり良くないということが判明したのが日本人総ネット民化現象の結末だ。

テレビ叩きが生み出しのも結局やらせ監視社会で、嘘を許容できない息苦しい社会でしかなかった。

「高い物に憧れるって無駄だよね、日常のささやかな幸せが大事なんだよ」的な価値観よりも日本人は馬車馬のように富や経済に突っ走ってたエコノミックアニマルだった時代のほうが幸せだった。

 

今は若者が夢の話をする事すら忙しいほどに疲弊していたりそれを意識高い系として冷めた目で見る時代になり、ユーチューバーを見てSNSの承認の数で満足するスケール感の小さい時代になった。

もちろんその一人一人は一切悪くは無いのだが、寂しい時代だなとも思うし自分自身その一人になりつつあることに気付く。ついに自分までもが高級車に興味ない若者層の一人になって来ているなと最近気付いた。

 

少し前の成り上がろうとしていた時期は積極的に高級車の画像を調べてたが最近は全然見なくなった。底辺に居つきすぎている自分がいる、居心地がよくなっているような感覚もある。

 

貧乏でありなおかつ貧乏を許容している若者が今は多いし、みんなそうだからという安心感がある。

貧乏だけど憧れがあったのが昔の若者で、ここが最大の違いなのだろう。情熱すら持たなくなって野心が無い典型的なゆとり世代になりつつある。

日本中の若者が高級車に憧れる時代の方がエネルギーはあった。

ビートたけしが「出世していい車に乗ってやろう、良い飯を食べられるようになってやろうと思っていた」とインタビューで語っていたけども、そういう若者は減ってきている。

バブル崩壊で確実の日本人の経済大国としての自尊心にヒビが入り、中国に経済で追い抜かれたことで完全に心が折れてしまった。

それ以降成金という夢を持つ事自体が馬鹿馬鹿しいものになり、"癒し"が大事になった。

 

そういう価値観の変化の末路が日本の衰退という現実を知ったとき、結局世の中が成金趣味の方がよかったんじゃないかとも考える。

日本の自動車メーカーが「車に情熱があった時代のエネルギーをもう一度」的なコマーシャルを流して若者に情熱を伝えようとしているが、それを今の若い世代は冷めた目で見ているか、そもそも興味を抱かない。

そういう暑苦しい言葉に興味がなくなったとも言えるし、情熱を持ってもどうせ無駄に終わるという事を肌身で理解している。

 

しかし野球選手の所有車の話題に盛り上がってた時代の方が華やかだったのではないかと、その時代のエネルギーを想像して憧憬を抱く自分がいる。

スーパーカーに集まる昭和の子供たちのエネルギーが後の日本の発展を支えた。

中国のモーターショーのスケールを見てそれをただ下品な成金とだけ批判する姿を見ると、今の日本の寂しさや衰退と比較せずにはいられない。かつて日本は世界最先端のモーターショーが開催される国だったはずだ。

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本田圭佑が空港にフェラーリで駆け付けるのも「わかりやすいスター象を作り子供が憧れるようにするため」と言っているが、その姿を冷笑する若者よりも憧れる人の多い世の中の方が間違いなく活気はあるだろう。

アフリカのサッカー選手が金色に拘り、車をゴールドに染める光景は良く見かけるがそういうエネルギーが今の日本人には必要なのかもしれない。メイウェザーやクリスティアーノ・ロナウドが愛車を顕示することも社会のエネルギー情勢には役に立っている部分がある。

そういう富の顕示を自重して皆で慎ましく質素に貧しくなろう、というのが今の日本人の価値観であるように思える。

バブル崩壊というトラウマででお金を使うことが悪という風潮になってしまった。

日本人が富や発展に興味関心を失えばあっという間に貧困国に落ちぶれるだけなのではないかと自分は考えている。

 

今自分が貧しい若者も憧れはタダなのだから途方もない夢をもっと描いてもいいのかもしれない。

成り上がりたいという意識をどれだけ持てるか、成り上がりたいという意識を強く持っていいる方が将来は明るい。

 

 

 

「底辺であることを認めてはいるが底辺でいいと思ったことは一度もない」

そんな底辺名言を考えずにはいられない。

これ以上ないというそこを味わったとき程もっと高いところに行ける。 底辺で終わるつもりはない、こんなとこで終われない、そういう意識を持てるかどうかに人生はかかっている。

「ギリギリでいつも生きていたいから」と デビューし「つまらねぇ毎日抜け出すぜ」と歌っていたグループを見て育った世代がそういう野心を持っても良いのかもしれない。

 

しかし最近の自分は本当にそういう意識の高さが無くなってきている。

徐々に頑張っても無駄だという感覚に支配され始めてきているのだ。

その地域では富裕層の集まる「勝ち組エリア」を散策して将来の華やかな自分を想像したり、高級車の画像を調べたりすることが一時に比べて明らかに減った。高級レストランやバーのような華やかな食事について調べることも少なくなった。

 

どうしてもそんな夢を描いても無駄だと感じるようになって来ている。少しでも可能性がを感じられているときはその情熱を燃やすことができるが、その見込みがないことを知ると逆にそんなことをしている自分が虚しくなる。

そして夢や憧れを持たないようになっていくという構造が存在する。

真の問題は若者がわずかでもその可能性をリアルな感情として抱けるかどうかなのだろう。

 

「焼肉」「寿司」などのワードに加え「高級」とい加えて調べてその画像を見ながらカップ麺を食べる、そんな底辺行為の中では野心の高いことをしていたがそれすらしなくなった自分がいる。

それで満足するわけじゃない、「いつか食べられるようになるぞ」と思いながら安い食事を食べていた。これが本物の底辺だったらただ食べてるだけだが、カップ麺と安酒という情けない食生活の中でも遠い未来や本当の自分を想像してかろうじて野心を保とうとしていたのがかつての自分だった。

 

しかし今は成り上がることも這い上がることも考える機会は減少している。

本当の自分は今の自分だし、未来はもっと酷いと冷笑するようになってしまった。

高級車の画像も本当に調べなくなったし、見ても虚しくなり興味が無くなりかけている。高い車で旅行に行く事も想像しなくなった。

今の自分にはもう一度あの頃のエネルギーが必要なのかもしれない。

そして自分に限らず若い世代の多くが諦めた夢を取り戻して成り上がる事を夢見れば日本はもう一度輝けるのではないだろうか。 

負け組ワイの口癖「人生つまんねぇわ・・・・」

漠然と人生がつまらないという感情がいつの間にか日常の友人のようなものにさえなって来ている今日この頃の日々だ。

 

具体的にどう表現していいのかわからない程に、とにかくつまらない、人生がひたすらつまらないし夢も希望も見えてこない。楽しいことがガチでなくなってきており、ひたすら陰鬱になりかけてきている。

最近リアルにお酒以外で楽しいと思ったことがほとんどなく、何もないという言葉に尽きる。

何がつまらないのか正体も分からない、とにかくそれが普通の感情になってしまっていて唯一お酒を飲んでいるときだけ癒されるがそれ以外は楽しくないという極端な生活になっている。

何もしてないからつまらないのか、何かをしても上手く行かないからつまらないのか、それすらも良くわからない。口癖のように「人生つまんねぇな」と何もない日々に溜息混じりで言葉を発することしかできない。

 

スポーツやテレビ番組を見たりするのは楽しみではあるけども、それも最近お酒なしでは楽しめない。安酒と最低限のつまみを片手に、自分が好きな時代の歴史ドキュメント番組を見て「ここではないどこか」に思いを馳せる、そんな現実逃避しかやることが無い。

 

少し前はまだ輝かしい未来を思い描き這い上がろうとする気力のようなものはかろうじて残り火のようにあったが、最近「それいつの間にか消えてた」という事に気付いた。

もはや欲望と野心すらなくなりつつあるし、ポジティブは情熱はとっくにない。創作熱や人生変えていこうみたいな情熱もどこかで心が折れた。

少し前に語学熱があったときがあったけども、あれすらも無い。正直海外留学とかもう興味のカケラもない、頑張る心が折れてひたすら惰性しか考えなくなった。

留学熱と創作熱があったころはまだマシ、そういう拠り所すらなくなってもはややりたいことが無いし、新しいことを始める気力もない。

結局上手く行かないんだなという事に行き着くし、本当に諦めが早くなったと思う。

それを普通に受け入れてしまって、過去に合った負けん気すらなくなってきている。上手く行かなかったときの悔しさや反骨心すら消滅し、そこから新しいことを始めようとすら思わなくなってしまった。

 

カイジ「底辺は恥じゃねぇ!這い上がろうとしない底辺こそが恥・・・・!」

這い上がれば勝ち、勝ちなんだよ!

負けたからって屑じゃない可能性を追わないことがクズ・・・!

そんなことを思ってた時代すら過去のことで、這い上がろうとしないでカイジの地下労働で意識低く酒におぼれて居ついてる方の居住者になりつつある自分がいる。

 

何もする気が無いのにつまらないという感情だけはある、しかしそれを発散していこうというエネルギーが無い。即自的な酒という快楽にしか興味が無くなる。

そんなことをさっき書き尽くしたがその記事でも書いたように「つまらないと嘆くことが唯一の楽しみ」的な心理状態になっている。

もはや「つまんねぇ」と考える事しか唯一のモチベーションが無くなってきている。

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 有名な歌の替え歌で言えば「社会の底辺時代の破片が胸へと突き刺さる」と生気を失った顔で口ずさむ自分がいる。

カイジがコンビニバイトで「途中途中」と言い聞かせているが、その気力すらなくもうここが定位置なんだなという事に悲しみすら抱かなくなって来ている。

特に酒が入っていない時はすべてが陰鬱に感じる。

現実からスタート、輝いた未来云々よりも底辺をまず生きる、そう言い聞かせていられた頃ですらもはや過去の話だ。

 

負け組ブログ的な人で「世間では底辺扱いされる年収300万」みたいなことを書いている人がいて、300万もあるのかよと逆に驚いた。こちとらあと2,3か月しかネット代払えねぇだろうなというレベルだぜ。

年収が低ければ負け組扱いされる現実というけども、年収という概念すらないのが自分だ。

 

かつては当たり前にあった結婚や家族というものも高級品と言われる時代、社会の一員に慣れてる気がしない人が大勢存在するだろう。

しかしまともな人間になろうとする気力すらもう失われている。

もう俺って人権ないんだなって思う、それぐらいどうでもいい存在で社会に置いていかれるだけでしかない。

 

戦後高度経済成長期に日本人皆が裕福になろうとしてた方がよかったし、エコノミックアニマルだった時代はなんだかんだで幸せだったんだと思う。経済とアイデンテイティを失った日本人はこれからどうしていけばいいのだろうか。

そんな日本人とか社会とか大きなことを考える前に、しっかり自分のことを考えることが本当は大事な事なのだろう。

しかしこれと言ってやりたいことや情熱がもはや枯渇している。

もう悠長にやりたいこと探して自分探ししてる段階でもないのだが、最低限少しでも面白そうだなと感じるものがもう周りになくなってきている。

興味関心が無く無気力、情熱すらない、ただ諦めにも似た感情とつまらないという溜息がそこにはあるだけ。

「隕石落ちて消え去りたい」みたいな新聞の投稿で有名な文章があるけども、まさにその心境についに到達した。

惰性という言葉すら下回る良くわからない何か、もはや自分が何なのかわからなくなってきた。漠然とあったなんらかのエネルギーが完全に「つまんねぇな」という感情に変わってしまったのだろう。

なぜ独裁政権の話はワクワクするのか

独裁政権の歴史を調べることが面白い理由はスケール感の大きさにあるのではないかと思っている。

例えばアドルフ・ヒトラーが第三帝国を作ろうとしたり、ヨシフ・スターリンが戦後核開発や宇宙開発を推し進めたり、毛沢東が文化大革命を行おうとしたり、とにかくやろうとしていることが大きく歴史の勉強としては非常にワクワクするものがある。

 

スターリンが水爆作ろうとしてた頃とか極秘の核施設を作ろうとしていた頃は本人も側近もかなりワクワクしていたんだろうなと思うし、その時代を想像するとかっこいいと思う自分がいる。冷戦初期の新しい秩序が形成されていく激動の時代に惹かれる。

スターリン様式の建築もかっこよくモスクワ大学は特にデザインがかっこいいし、計画だけで終わった建築も実際実現していた場合の姿を想像したくなる。

ソ連の秘密都市や閉鎖都市も、極秘感があってそういう物に惹かれるのは厨二病的心理がある。日本でも田中角栄が日本列島改造論を実行しようとしてロッキードで失脚するまでの流れは戦後史の中で非常に面白く、キャラとして独裁者や強力な指導者面白いよなぁと思うのだ。

 

朝鮮半島もパク・チョンヒVSキム・イルソンのキャラ濃い指導者同士が競い合っていた時代は面白そうで、いつ本当に朝鮮戦争が再開するかわからない切迫感をイメージせずにはいられない。

 

仮にドイツが戦争に勝っていたらゲルマニア計画が実行されて、ベルリンが凄い都市になっていたのだろうかとも考える。

独裁者にありがちなのが昔から権威を示すために巨大建造物を作ろうとするところであり、織田信長の安土城も一種の独裁者が作った建築物の一つだと見ることもできる。

あまりお城に興味が無い自分でも安土城には浪漫を感じるし、巨大建築物へのワクワク感はいろんな人に共通しているのかもしれない。一昔前世界最大級の廃墟と言われていた北朝鮮のリュギョンホテルや、北朝鮮版凱旋門なども魅力があり共産圏の独裁者変な物作りがち説はよく言われる。

 

良くも悪くも民主主義だとできないことを好き勝手やれるからスケール感のある事ができるのが独裁政権だろう。

とはいえ日本も戦後初期の新幹線が作られていく時代の開発に懸けるエネルギーや高度経済成長の時代の話は光と影があって体験して見たかったという思いもある。

漠然と今の世の中につまらなさや閉塞感を感じていると過去に思いを馳せるようになる。

冷戦初期のソ連で北極に近い場所を移動するソ連軍戦闘機や艦船などの姿を想像すると浪漫あるよなぁとも感じるし、独裁政権や悪役陣営の怪しいイメージが自分は好きなのだろう。

 

機動戦士ガンダムで言えばジオン公国の首都ズム・シティも憧れがある、そういう創作の世界の話も想像してワクワクする自分がいる。ガンダムSEEDの方プラントのアプリリウス市とかもかっこいいと思うしその辺設定もっと見てみたいな。プラントでザフト軍用のモビルスーツ作ってる姿も見たいし、カーペンタリア基地のように基地系列もかっこいいなと思う。

「大規模感」というか「大正義感」というか、スケールのでかい話がやっぱり面白い。強いエネルギーで発展していく雰囲気自体への憧憬とでもいうのだろうか、街が変わりゆく激動や刺激を自分は求めているのだろう。

田舎にいると気付くんだよ、また一つ店が閉鎖したなという事に。子供の頃に合った店がどんどん無くなっていくことのあの何とも言えない寂しさを日本人の多くが今リアルタイムで経験しているだろう。

その寂寥感とまさに正反対なものが発展していく激動の世の中の情熱だ。

 

仮にこれから大規模感のある開発が行われるとしたら宇宙開発だろう。

ただこのこの宇宙開発も現代ではコストパフォーマンスが悪くて割に合わないものになっている。冷戦期だったから米ソの威信をかけた開発が行われていたが、今は宇宙開発も徐々に下火になって来ているらしい。

米中冷戦の時代が激化すれば国力を競うために宇宙開発がもう一度盛り上がるかもしれないが、今は残念ながらそういう時代ではない。

大規模な建築物や巨大な開発が行われない時代になって来ているのは少し寂しい。軍事でもどこも軍縮ムードで、税金の無駄遣いができないからしょぼい物しか作れなくなってきている。

ドイツという敵に続きソ連という敵が消滅して西側もやることが無くなった感は否めない。ソビエトというラスボスを倒した後に訪れたのは情熱の無い寂しい世界だったとアメリカ人は思っているのではないか。

ただのテロ対策が精いっぱいな時代になって、弱小国に対してワンサイドゲームをする時代になった。少し前のイラク、そして最近ではシリアで大正義感ある争いは無くなってきている。

戦争をエンタメやスポーツ感覚で語って不謹慎ではあるが、ワールドカップで言うとグループリーグのどうでもいい試合ばかりで、準決勝や決勝のような組み合わせが無いことは盛り上がりに欠けるよなぁと。

 

発展していく感が味わいたければやはり中国や東南アジアに旅行しにいくのが一番なのだろう。

マレーシアは今本当に来ているらしく、首都のクアラルンプールはかなり日本人が過ごしやすいとも言われているし、インドネシアのジャカルタやベトナムのハノイもエネルギーがある。

そういう旅番組が自分は結構好きで、少し前にみた旅番組の景色が懐かしく感じることもある。

中国も共産党一党独裁だからできることもあり、日本で言う大阪規模の都市が中国全土に存在するほど巨大国家になっている。冷静に考えてアフリカの総人口以上の人口が中国一国に存在するというのはスケールが大きくて当たり前なのかもしれない。

 

それで言えばインドとアフリカもかなり今来ている国で、10年前の未開なインドというイメージは無くなってきている。中国が人民服を着て自転車で走っているというイメージもとっくの昔のことになっていて、子供の頃にちょっとだけそういうイメージがあったぐらいだ。

これからインドが中国のようにイメージが変わっていくだろう。インドの核開発の話もワクワクするもので、インドの技術者がどんな感じで核開発をしているのだろうかという現場への想像力も掻き立てられる。

 

日本がエネルギーある開発をしていたのは明治の近代化か戦後復興の時代だろう。

これも意見が分かれる物で、明治時代の東京近代化戦後昭和の高度経済成長どちらがワクワクするかというのも意見が分かれる。東京駅のような西洋風の建築が作られていく過程か、東京タワーが出来上がっていく過程かどちらがワクワクするだろうか。

 

「花の都東京」として日本人が東京に憧れた時代の話は今にないエネルギーがある。

日本にそれまでなかったものが東京から出来上がっていく感は今中々ないし東京に憧れる理由も減ってきている。

「東京に凄い物できたらしいぜ」的な話題は今の時代無くなってきている。せいぜいハロウィンで仮装大会をして、それを冷めた目で見るという時代になって来ている。

東京が偉そうな時代で、東京から何か新しい物が発展していきそれが全国に波及していくというやり方が実は日本にとって最も適したスタイルだった可能性はある。

「東京に行けば凄そう」みたいな漠然とした憧憬は無くなって気付くけど、今になってみればやっぱり必要だったなとも思う。昭和や明治の頃の東京への憧れ凄かったんだろうなという思いもあるし、大正時代のハイカラ文化で喫茶店や洋菓子店が普及し始める頃もかなりワクワクする。

 

浪漫で言えば満州国の完成形を見てみたかったなという思いはある。五族協和の王道楽土、日本の生命線、首都新京、アジアの多民族国家、そこに憧憬がある。

満州国は悪いイメージで語られがちだけども、建築物や施設を見るとかっこよく日本にはない最先端の設備もあったようだ。

日本植民地時代の京城も興味があるし、当時の大連や旅順なんかも夏目漱石の「満韓ところどころ」にあるような旅情がある。

「行ってみたいな、よその海」という歌詞があるけども知らないから幻想や旅情を抱けるのかもしれないし「ここではないどこか」に思いを馳せて旅に出たいと思うのは人間の本能なのだろう。

 

独裁政権の話で言えば、スペインとポルトガルの大航海時代に新大陸を目指して海出たというのは当時の国王や女王が支援していたという話も聞く。そういうことができるのがやはり強固な政権なのだろう。

現在の日本でも青年海外協力隊というものがあるが、あれは簡単になれる物なのだろうか、そんな簡単なものではなさそうではあるが興味を持ったら調べてみたい。

 

冷戦時代のモスクワの街並みや、毛沢東がいたころの北京、ヒトラーが作ろうとしていた第三帝国の世界首都ゲルマニア、今は存在しない満州国、今より閉鎖的だったころの平壌、想像と現実は違うのかもしれないがそういった場所に憧憬を抱く。

日本人がパリに行ったらがっかりするという事は良く言われるが、知らないから良いのかもしれない。

過去は甘美だ、知らないから幻想を抱けるのだろう。

壮大な計画でエネルギッシュなことが進んでいく激動の時代、その空気感や情熱に思いを馳せることも体験していないからむしろ楽しいのかもしれない。

ここではないどこか、今ではない過去か未来、つまらない今と対極にある幻想にも似た世界が自分の心に今日も一滴の希望を与えてくれる。