負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

外山恒一のアングラバー巡り記事が面白い

ネットで有名な"危険人物"といえば外山恒一もその一人だろう。

10年前の2007年、東京都知事選に出馬しその時の政見放送が有名になった伝説の男だ。

動画のMAD素材のような使い方をされ、盛大にネタにされたことで多くの人が見たことがあるのではないだろうか。

思想は極左から極右に転向したファシストだと自称しているが、やはりその思想の源流には左派系の流れを汲んでいる。

 

そう言った詳しい事はともかく、抽象的かもしれないが「アングラ感」や「危険人物感」が好きで、その怪しげな雰囲気に傾倒している。

自分が漠然と追い求めている「政治的に危険な雰囲気」に近い物があり、そういう雰囲気を味わいたくなったときは時々調べることがある。

変な言い方かもしれないが"ファン"のようなもので、ネットが失いつつあるアナーキズム感に惹かれているのかもしれない。

 

思想的には極左であり極右であるところが面白く、最近のネット右翼的でもないし、かと言ってただの良くありがちな平和を叫んで満足なレベルの低い左翼でもなくちょうどいい塩梅がある。

 

結局のところ自分は政治を「コンテンツ」として楽しんでいるのかもしれず、その雰囲気自体が好きな層なのだろう。

右翼も左翼も中途半端に馬鹿真面目な面白く無い層と違って、外山恒一の書くことは読みごたえがある。

「危険人物感」みたいな感覚が自分は好きなのかもしれない。

situation.jp

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そんな外山恒一の文章で最近気に入っているのが飲み歩き記事で、自分が漠然と追い求めている「政治的なアングラ感」に少し近い物がある。

何も高度なことを批評したいわけではなく単にお酒好きとして「地方の反体制派の拠点になっているバー面白そうだなぁ」と思ったのだ。

 

「濃い奴や変人多そう」という抽象的すぎる感覚を抱く記事で、この記事を読んでいつかそういうアングラバー巡りしたいなと想像するようになった。

ここではないどこか幻想のようなもので、危険思想をもったヤバイ奴らが多そうなところに行ってみたいと思ったり、そういうところで「同志」を見つけたいとも思う。

寂れた場末のバーで政治や社会の話で意気投合し、革命を志していく日がやってくるかもしれない。

 

思えばなぜか酒場から出会う話は多い。

自分が好きな『愛と幻想のファシズム』も主人公とその協力者が出会うのは、カナダのイヌイットが住んでいる地区にある寂れた地元のバーである。

小説的というか中二病な幻想なのかもしれないが、「どこかのヤバイい酒場」みたいなものを一度は想像するのではないだろうか。

『アンダルシアに憧れて』という曲でも地下の酒場は出てくる。

 

自分自身は圧倒的に家飲みが多くあまり外で飲むことは無いが、お金があるならば外で飲みたいと思っている立場だ。

数回しかない外飲みの記憶だが、リアルに閑散として薄暗いバーが通りに合ってそこでカクテルーを飲んだというのが懐かしい。

自分はチェーン店とか華やかなお店があまり好きではなく、寂れてる場末の酒場客の入っていないような喫茶店が好きだったりする。

二つ並んで店があるならば小奇麗オシャレで若者が多そうな場所よりも、ガチで客が入っていなくて薄暗いところで独り寂しく飲む感じが好きなのだ。

 

漫画のシーンでも酒場は印象的で、手塚治虫の『アドルフに告ぐ』という作品があり、なんとなく美人女将がいる和風の北酒場みたいな場所で飲んでいるシーンを覚えている。

読んだのが中学の時だったため曖昧なイメージしかないのだが、その風情に惹かれて「いつか日本海の荒波にさらされてるような寂れた場所にある居酒屋で寂しく飲もう」なんてことを考えていた。

『アドルフに告ぐ』を読んだことがある人ならば「そんなシーンあったかも」と思うかもしれないし、『愛と幻想のファシズム』を読んだことがある人は冒頭のカナダのイヌイットが集まる酒場のシーンが懐かしく感じたのではないだろうか。

 

旅情というか風情というか、そういう感覚を自分は持っていて、外山恒一のこの北陸でかつての反体制派を探す飲み歩き記事も勝手に想像して補完して面白いなと思った。

反オタク文化なのに、オタクの方が自分を知っていたみたいな話題も面白い。

 

自分がかつて関西で立ち寄った寂れたバーも今思えば懐かしく、中年女性が切り盛りをしていて明らかに顔見知りだろうという男性客が1人やってきたことを覚えている。

あの町の薄暗い寂れたバーで飲んだカクテルの味は今も旅情を感じさせる。

 

ただ単にバイトが事務的に接客しているだけのお店よりも、こういった個人経営の店のほうが話が弾むというの何も酒場に限らずカフェや喫茶店にも言える。

そう言う場所のほうが客同士の距離感も近く、常連客と結構仲良くなったりすることもある。

「名物客」な人がいて噂話に聞いて、実際にその人に遭遇したときのプレミア感はちょっと嬉しい。

変な店やこじんまりとした個人経営店に集まる客というのはその時点である意味洗練されており、面白い奴に合う確率は高い。

 

最近自分は漠然と「最近ネットのアングラ感が無くなった」と嘆いているが、政治活動が盛んな地域にあるカフェやバーに今はそういう面白い奴らがいるのではないかと思い始めている。

結局面白い奴を探そうと思ったら結局リアルが大事で、今の時代むしろ面白い奴やヤバイ奴はとっくにネットに見切りをつけてリアルに潜んでいるのかもしれない。

 

ただやはり問題はお金がかかることで、毎日バーを巡れる時点で既に時間とお金に余裕がある層なのだ。

ブルジョワジーとプリレタリアートで言えばバーに潜んでいる時点で前者だ。本当のプロレタリアや貧困層は部屋で安酒に入り浸ることが精いっぱいなのだ。

部屋で安酒を飲むことすら財政的に厳しくなっている自分が、バーを巡れるようになった時点で既にある程度裕福になったということを意味する。

そうなると満足してしまい革命など興味がなくなるのではないかとも思うし、仮に自分が革命精神を維持できたとしてもブルジョワ酒場にいる連中が革命や政権奪取を夢見る事やそのリスクに打って出ることは無いのではないだろうかとも思う。

 

つまり「アングラバーに行けば政権転覆を考える危険思想を持った奴に出会える」というのは幻想で、その時点で既にブルジョワジーなのだ。

面白い政治思想持ってそうだなと思ったら、ただ単に左派で安倍政権打倒!とか言ってるだけの浅い奴だとそれはがっかりだし、右派でも近隣諸国の悪口を言いたいだけのつまらない奴だったらそれもがっかりだ。

それ以前に大多数がノンポリで、人生についてもあまり考えていないのだ。

そしてその尊敬してる外山恒一ですら実は既に既得利権層側になっていて、例の政見放送をやらかした時のような情熱はおそらくないだろう。

 

オードリーの若林がキューバに旅行に行って、ガチで反米闘争をやっていた頃の軍人にテキーラを飲まされまくったという旅行話をしていたが、そういう熱い奴や危険な奴は日本にはもういないのかもしれない。

むしろ南米で地下酒場巡りをして「コロンビア革命軍の残党」みたいなヤバイ奴と遭遇するような、危険で刺激ある体験を自分は求めている。

そしてそれはきっとものすごくお金がかかることで、結局部屋で安酒を飲むことに終始するし、逆に自分もその程度で満足する情熱しかないという皮肉だ。

 

「実は東大安田講堂占拠事件に参加していた」みたいな全共闘世代の人が日本にいるかもしれないが、多分そういう人はどこかの高級料亭で飲んでいて自分じゃ会えない。

そんなレアな話を聞かせてくれるのは余程親しい仲であり、自分の周りにいるのは結局ただの地方の一般的な酒飲みだ。

 

「想像の中にある酒場やヤバい客」と、もはや地方の居酒屋にすら行けず部屋で安酒を一人飲むしかない自分とのギャップというのは大きい。

 

ただ実は有名なクリスマスソングを書いたのが雪が降らないカリフォルニア州出身の作詞家だったみたいな話で、こういう想像エネルギーを創作に発散できればいいのかもしれない。

実際自分が昔書いた小説のワンシーンにあるバーの描写が今では思い出になっている。文章にしてはいなくとも想像したワンシーンが今でも懐かしいことがある。

行ったこともないしそんな世界なんてない幻想が実は何よりも旅情や風情がある事は多い。

elkind.hatenablog.com

かつて自分が執筆した「田舎のお酒自販機記事」はたまに読んでくれる人がいるらしく、おそらくその記事を読んだ人は独自に想像したのではないだろうか。つまり文章だけの記事というのはそこから想像をめぐらす物であり、もはやその人が想像した独自の空間は現実の自分とは違うだろう。

 

外山恒一のアングラバー巡り話にも通じる事なのだが、人が酒飲んでいる話というのはどこか旅情を感じさせるので面白い。

旅行記や小説などでも自分はお酒を飲んでいるシーンがあるとワクワクする。

海外旅行やローカル旅行で現地のお酒を映している人はなぜか好感を持たずにはいられない。

 

そして自分自身、自分で書いたお酒話を読んで懐かしくなっているときがある。おそらく旅行記をつけている人は自分でその旅行記を読むように、自分がお酒を飲んだ時というのは後から懐かしくなる。

「お酒を辞める」と言って結局また呑んでいる自分がいるし、ここではないどこかに思いを馳せる時良い友になる。

いつかどこかのアングラ酒場で自分は同志を探しているかもしれないし、独り酒をしながら酔いつぶれているかもしれない。

そしてそんな未来を想像しながら自分は安酒をあおるのだ。