なぜ若者は高級車やスポーツカーに憧れなくなったのか
車が富のやステータスの象徴だった華やかな時代はもはや終焉している。
バブルの頃は当時の若者間のカースト制度や女性からの評価に自分の車が直結する時代だったと聞くし、もっと昔のまさにクレしんのオトナ帝国に出てくるトヨタ2000GTの時代は子供たちに強い車への憧れがあったと聞く。
古本屋で昭和を特集した本を見たとき、街に登場したスポーツカーに子供たちが集まっている写真を見かけて「この頃の車への情熱や憧憬って凄いな」と思ったものだ。
更に当時は外車への舶来品信仰が強く、子供たちは街で見かける外車のエンブレムを見つけた数を競いながら登下校をしていたとも聞いたことがある。
今の時代は若者が来るまでステータスを競い合う時代でもなければ、女性も軽自動車で男が迎えに来ようが何とも思わず、逆に車に拘っているようなオタクは車は充実しているのに乗せる人がいないという時代だ。
それどころかもはや車の所有はコストパフォーマンスが悪いものになり、駐車場代もかかる都会では維持費がかかる上に公共交通機関が充実しているため、それで十分だという現実的な時代になっている。
頑張らなくてもいい時代になり、楽になったともいえるがその一方で日本社会自体が衰退しかけている。貧しいことがもはや当たり前になり、富を夢見る動機が減ってきている。
「車に憧れない最近の若者を見て寂しいと思う」という昔を知る世代、そして情熱的な時代に憧れる若い世代も当然存在する。
ここでまず前提として自分の車に対する立場を明らかにしておきたい
・某掲示板に騙されて時間をかけてマニュアル免許を習得した。
・ボロい中古の軽自動車を所有
・都会にいる間は免許を取れと言われていたものの必要ないという事で拒否していたが、自動車社会の田舎に戻ったことで重い腰を上げ免許を習得してからもうすぐ1年になる。
・車に興味が無いわけではなく、免許を取っていなかった時期も憧れていた。
・ゆとり世代
・イタリア車好き
・車への情熱があった時代のエネルギーに憧れている。
・その一方で最近の若者が車に興味が無い事も理解できる。
更にMTを苦労して習得したのに、今普通にATで乗っているという何がしたかったのかよくわからない立場でもある。当初はガンダム的なメカ操作に憧れてマニュアル免許を習得したのだが、正直AT楽だなと思い中古車もATを運転している。
そんな自分が昔の若者と今の若者を比べて思うのが「貧乏だけど憧れはあった昔の若者」と「貧乏であることを受け入れ憧れすら持たなくなった今の若者」であるように感じる。
若者がアルバイトを一ヶ月間本気ですればBMWを買えたバブル時代はともかく、昔の若者が必ずしもいい車を持てていたわけではない。
しかしそこには「憧れ」や「夢」があり、いつか手に入れようという情熱があった。
憧れるのはタダなのだから高級車やスポーツカーを手に入れる自分の姿を男子ならば想像していたのだろうと推測する。
今の若者の問題点は「憧れはタダ」であるにもかかわらず、高級なものに憧れなくなってきているところにある。
現状買えなくてもいつか自分は出世して高級外車やスポーツカーを買えるようになるという根拠のない自信があった昔の若者と、どうせ世の中そんな裕福になっていかないという事を肌身で理解して夢すら持とうとしなくなった今の若者に違いがある。
高度経済成長期ぐらいの若い世代は寝る前に自分が出世して成金になってマイホームやマイカーを持つ姿を想像していたが今の若者はその想像すらしなくなった。
高級車がいつか欲しいと思っている自分は少数派で、車、いやそれ以前に高い物にもはや興味が無い人が多い。
まさに卵が先かヒナが先かというような話で、若者が夢を持っても無駄な社会が悪いのか、憧れること自体はただなのにそれすらしなくなった今の若者の方が悪いのか、おそらくそのどちらでもあり、どちらでもないだろう。
そのほかの要因としては娯楽が多様化して他に出費が増えたという事も存在するだろう。可処分所得が減ったのは必要な出費が増えたという事にも原因が存在する、昔ならばスマートフォン代など必要なかったのだ。
スケール感が小さくなったことでいえば、若者間のステータスがソシャゲの課金データにもなっているところにあるだろう。
いいね!の数やソシャゲの課金データで競い合うスケール感の小さな争いで満足する今の若者が悪いのも事実だが、所有する車で競い合うスケールの大きい争いができた時代は幸運な時代でもあったことも事実だ。
小さなことで満足する野心の無い若者も、小さなことぐらいしか手に入れられない社会も両方悪いのではないかと自分は考えている。
例えばインドや中国のような新興国の若者が出世意欲や起業意欲が高く野心家が多いと言われるが、彼らは高級車やスポーツカーへの憧れも持っているだろう。
現状手に入れられなくとも根拠のない自信と野心を持っている若者が多い社会と、夢すら持たなくなった若者が多い社会とどちらが将来的に期待できるのかといえば前者だろう。
スタートラインはむしろ中国やインドの若者の方が現時点では後方にあったとしても、そういった情熱や野心に突き動かされている新興国の若者にいずれ日本の若者は追い越されていくことになる。
今の日本の若者は「周りもそうだから」と少し言い訳していて、「コスパ悪いしそれって無駄でしょ」という理由が初めに出てくるようになっている。
実は世の中の経済発展を考えたときに無意味なものへの憧れがある方が活気は溢れているのであり、ネットが普及させた「コスパが悪い」という言葉に日本人全員が染まりきると本当に貧しい社会しかやって来なくなる。
日本人の関心事が「タダでも抱ける憧れ」から、憧れる事にすら疲れて諦めて「介護どうしようかな」という時代になって来ている。
介護や生活というそういう現実的な事があまりにも大きくなりすぎて、憧れる暇すらなくなり気力も無くなってきている。
憧れはタダであり、その憧れが多い社会の方が活気には溢れているし将来的に期待できるがその憧れですら心理的な負担になりつつある時代になったともいえる。
更に同世代にそういった憧れを持っている時代遅れの若者が少なくなったのもこの風潮に拍車をかけているだろう。
自分が特別でもなく将来の夢は叶えられないという現実を知ったのが最近の若年層でもあり求める物や夢の種類が変容しつつある。
これは想像でしかないが高度経済成長期にしてもバブル期にしても、身の回りの同世代を見渡せばいい車に乗っていたりそういう先輩がいたり、そして友達が実は車を買ったとかそういう話が日常の光景になっていたのではないか。
逆に今の若者は、そんな話を滅多に聞かないし街でいい車を見かけても自分とは縁のないただの日常の背景にしか思わなくなっている。
例えばいい車を止めている家を見たときの反応は今と昔では異なるだろう。
昔の若者は「この家金持ちだな、自分もなってやろう!」と思っていたが、今の若者は金持ちの家だなと思うだけまだマシでそのことを特別意識することすらなくなっている。
ナチュラルに富に興味が無く、貧乏である事にもコンプレックスが無い。
そして身の回りにも景気がいい話が無く精々ソシャゲの課金額が多いという話題しか聞かない、みんな似た様なもので現実なんてそんなもんだろという安心感がある。
軽自動車でもいい時代どころか、車持っていない人も増えてそれが普通のことになって来ている。
メルセデス・ベンツやフェラーリを見たときの反応は日本の若者と中国の若者では間違いなく違う、その違いこそが両国の未来の違いなのではないかとも思う。
車という極めて象徴的かつ分かりやすい富の象徴というのは今になって思えば必要だったのではないかと自分は考えている。
分かりやすい憧れというのは必要でそれに向かって皆が邁進している方が実は景気が良くていい時代で、「個性が大事でみんな違ってみんな良い」が許されると夢を持つ人よりも妥協する人の方が多くなる傾向がある。
五輪やワールドカップも大衆全員が熱狂し皆流行に流されていた時代の方が、コスパ重視して流行叩きする時代より華やかだったように思う。
「流行興味ない」という人が集まりやすく一体感を味わえるような時代になるとスケールの大きい物は現れにくくなる。
自分自身は2ch脳ではあるが「流行ってどうでもいいし、コスパ重視するのが情強だろ」という2ch脳の人が増えすぎるとあまり良くないということが判明したのが日本人総ネット民化現象の結末だ。
テレビ叩きが生み出しのも結局やらせ監視社会で、嘘を許容できない息苦しい社会でしかなかった。
「高い物に憧れるって無駄だよね、日常のささやかな幸せが大事なんだよ」的な価値観よりも日本人は馬車馬のように富や経済に突っ走ってたエコノミックアニマルだった時代のほうが幸せだった。
今は若者が夢の話をする事すら忙しいほどに疲弊していたりそれを意識高い系として冷めた目で見る時代になり、ユーチューバーを見てSNSの承認の数で満足するスケール感の小さい時代になった。
もちろんその一人一人は一切悪くは無いのだが、寂しい時代だなとも思うし自分自身その一人になりつつあることに気付く。ついに自分までもが高級車に興味ない若者層の一人になって来ているなと最近気付いた。
少し前の成り上がろうとしていた時期は積極的に高級車の画像を調べてたが最近は全然見なくなった。底辺に居つきすぎている自分がいる、居心地がよくなっているような感覚もある。
貧乏でありなおかつ貧乏を許容している若者が今は多いし、みんなそうだからという安心感がある。
貧乏だけど憧れがあったのが昔の若者で、ここが最大の違いなのだろう。情熱すら持たなくなって野心が無い典型的なゆとり世代になりつつある。
日本中の若者が高級車に憧れる時代の方がエネルギーはあった。
ビートたけしが「出世していい車に乗ってやろう、良い飯を食べられるようになってやろうと思っていた」とインタビューで語っていたけども、そういう若者は減ってきている。
バブル崩壊で確実の日本人の経済大国としての自尊心にヒビが入り、中国に経済で追い抜かれたことで完全に心が折れてしまった。
それ以降成金という夢を持つ事自体が馬鹿馬鹿しいものになり、"癒し"が大事になった。
そういう価値観の変化の末路が日本の衰退という現実を知ったとき、結局世の中が成金趣味の方がよかったんじゃないかとも考える。
日本の自動車メーカーが「車に情熱があった時代のエネルギーをもう一度」的なコマーシャルを流して若者に情熱を伝えようとしているが、それを今の若い世代は冷めた目で見ているか、そもそも興味を抱かない。
そういう暑苦しい言葉に興味がなくなったとも言えるし、情熱を持ってもどうせ無駄に終わるという事を肌身で理解している。
しかし野球選手の所有車の話題に盛り上がってた時代の方が華やかだったのではないかと、その時代のエネルギーを想像して憧憬を抱く自分がいる。
スーパーカーに集まる昭和の子供たちのエネルギーが後の日本の発展を支えた。
中国のモーターショーのスケールを見てそれをただ下品な成金とだけ批判する姿を見ると、今の日本の寂しさや衰退と比較せずにはいられない。かつて日本は世界最先端のモーターショーが開催される国だったはずだ。
本田圭佑が空港にフェラーリで駆け付けるのも「わかりやすいスター象を作り子供が憧れるようにするため」と言っているが、その姿を冷笑する若者よりも憧れる人の多い世の中の方が間違いなく活気はあるだろう。
アフリカのサッカー選手が金色に拘り、車をゴールドに染める光景は良く見かけるがそういうエネルギーが今の日本人には必要なのかもしれない。メイウェザーやクリスティアーノ・ロナウドが愛車を顕示することも社会のエネルギー情勢には役に立っている部分がある。
そういう富の顕示を自重して皆で慎ましく質素に貧しくなろう、というのが今の日本人の価値観であるように思える。
バブル崩壊というトラウマででお金を使うことが悪という風潮になってしまった。
日本人が富や発展に興味関心を失えばあっという間に貧困国に落ちぶれるだけなのではないかと自分は考えている。
今自分が貧しい若者も憧れはタダなのだから途方もない夢をもっと描いてもいいのかもしれない。
成り上がりたいという意識をどれだけ持てるか、成り上がりたいという意識を強く持っていいる方が将来は明るい。
「底辺であることを認めてはいるが底辺でいいと思ったことは一度もない」
そんな底辺名言を考えずにはいられない。
これ以上ないというそこを味わったとき程もっと高いところに行ける。 底辺で終わるつもりはない、こんなとこで終われない、そういう意識を持てるかどうかに人生はかかっている。
「ギリギリでいつも生きていたいから」と デビューし「つまらねぇ毎日抜け出すぜ」と歌っていたグループを見て育った世代がそういう野心を持っても良いのかもしれない。
しかし最近の自分は本当にそういう意識の高さが無くなってきている。
徐々に頑張っても無駄だという感覚に支配され始めてきているのだ。
その地域では富裕層の集まる「勝ち組エリア」を散策して将来の華やかな自分を想像したり、高級車の画像を調べたりすることが一時に比べて明らかに減った。高級レストランやバーのような華やかな食事について調べることも少なくなった。
どうしてもそんな夢を描いても無駄だと感じるようになって来ている。少しでも可能性がを感じられているときはその情熱を燃やすことができるが、その見込みがないことを知ると逆にそんなことをしている自分が虚しくなる。
そして夢や憧れを持たないようになっていくという構造が存在する。
真の問題は若者がわずかでもその可能性をリアルな感情として抱けるかどうかなのだろう。
「焼肉」「寿司」などのワードに加え「高級」とい加えて調べてその画像を見ながらカップ麺を食べる、そんな底辺行為の中では野心の高いことをしていたがそれすらしなくなった自分がいる。
それで満足するわけじゃない、「いつか食べられるようになるぞ」と思いながら安い食事を食べていた。これが本物の底辺だったらただ食べてるだけだが、カップ麺と安酒という情けない食生活の中でも遠い未来や本当の自分を想像してかろうじて野心を保とうとしていたのがかつての自分だった。
しかし今は成り上がることも這い上がることも考える機会は減少している。
本当の自分は今の自分だし、未来はもっと酷いと冷笑するようになってしまった。
高級車の画像も本当に調べなくなったし、見ても虚しくなり興味が無くなりかけている。高い車で旅行に行く事も想像しなくなった。
今の自分にはもう一度あの頃のエネルギーが必要なのかもしれない。
そして自分に限らず若い世代の多くが諦めた夢を取り戻して成り上がる事を夢見れば日本はもう一度輝けるのではないだろうか。