負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

底辺の自分がネットの片隅で駄文を量産する理由

正直に言えば自分の文章は美しくも無く、正しいことを書いているわけではない。ただ単に底辺の人間がその場の思い付きで人生について語っているだけの駄文だらけのブログだ。

 

更に言えば自分は一時ブログを削除しようとすら思っていたこともある。

ただそれでも感情や思想、日常の発散場所として利用するのもありなんじゃないかと思って思いとどまったのがこの語り場を始めた経緯だ。自分の人生の記録として、この時こんなことを考えていたなということも振り返ることができる効果もある。

それゆえに少し前に書いていたことと今書いていることに違いや矛盾が生じることもあるのだが、「少し前に考えていたことはもう古くて」という椎名林檎の曲に登場する歌詞のように考えというのは移ろい変遷していくのも出もある。

 

何より自分のやることが執筆しか他に楽しい事がないという生活の実情もある。

漠然とインターネットの世界に面白い物があるのではないかと期待しているより、自分で書いたほうがいいのではないかとも思うようになった。

それが結構自分の中で暇つぶしになっていることもあるし、どこの誰かか知らない人が少しでも息抜きに読んでくれたらそれはとてもうれしいことだと思う。

アングラ感のあるブログを作ろうとしていて、そこに集う人がいて社会の吹き溜まりみたいな場所になってくれたらという理想もある。

「社会の吹き溜まり感」とか「アングラ感」みたいなものが自分の好きなもので、寂れた場末の場所というか最近のネットから失われつつある個人っぽさも大事なんじゃないかなとも考えている。

底辺

楽しくない生活の中で考える事の記録、それがたとえ駄文の量産だったとしてもそれをもしかしたら必要としてくれる人がいるかもしれない。

つまらない生活の中では絶対発散の場所が必要で、同じようにそういうつまらない物をむしろ拠り所にする人の一瞬の暇つぶしにでもなればとも考えている。

時に誰も言えなかった過激な事や受けの悪いことも書くことはあるし、それが回り回ってバタフライ効果のような感じで世界のどこかに小さな変化をもたらしてくれればという思いもある。

みんな幸せなわけじゃない、つまらない人生を送っている人間はここにだっているから安心してほしいとも大袈裟だけど考えていたりする。

寂しい人間が虚ろな表情をしながら読んでいても、それはむしろ自分が理想としていたことでもある。

 

世の中で不満持ってる人が共感してくれればそれはそれでいい、この考えちょっと変だけどもしかしたら世の中に同じこと思っている人がいるんじゃないかなという思いもある。

 

「お前の苦労理解できるわ」とか「俺に似た奴がいる」「自分みたいにキツイ状況にいる人がいるんだな」とかそんな感じで見てもらえればいいんじゃなとも思う。

インターネットというのがSNSに代表されるように、幸せ自慢大会みたいな場所になって来て自分を大きく見せる時代になって来てる中で、寂しい底辺の生活をしている人がいることも伝えたいし世の中には本当はそういう人が大勢いる。

社会はそんな明るくない、もっと現実があるし良いところしか見せようとしない今のネットは居心地の悪さも感じる。

 

最近のネットの風潮についていけない人の居場所みたいになってくれればいいし、自分自身が何よりそういった記事を読んでくれる人をありがたいとも思っている。具体的にこういう人が読んでいるというのはわからないけども、少しでも読んでくれる人がいるなら続けていきたいな、と。

 

吹き溜まりでもなんでもとにかく普通では書けないことも書いていく場所にしたいしそれでいいんじゃないかなぁ。本音で飾らないことをただ黙々と書き連ねる、最近の雰囲気の変わった掲示板やSNSでは誰も書けないことを独りだから匿名の人相手に書ける。

流石に自分の暗い面白くない人生を一人で抱え込んでもこれは辛いけど、ネットの片隅で、もしかしたら誰かが見てるかもしれない。

 

そんな場所に自分の記録、そして誰かの暇つぶしになるなら、たとえ駄文であっても書き連ねたい。

だらだらと底辺の人間が独り語りして、それを独り暮らしで誰にも相手にされない人が夜中にお酒でもちびちびと飲みながら読んでいる、そんな姿を想像している自分もいるしそれが理想でもある。

人生は理想通りに上手く行く物ではない、最底辺に落ちぶれて恥ずかしい蔑まれる人間になってしまう事もある。

 

元々自分はブログを始めるときに「綺麗に使おう」とか「ウケよう」とか「よく見られよう」とかそんな期待をしていたけど今はそう思わない。ダラダラ文句や不満を書く誰も言いたがらない過激なことを書くとか、とにかく最初に思っていた理想の綺麗な使い方はもうやめようと思った。

 

どうせ削除してネットから消え去ろうと思っていた時に踏みとどまって、それが10年後「こんな荒んだ時期があったんだな」と懐かしむときが来てもいいのかもしれない。そういう個人の記録であったとしてもそういうのが現代文学の一つなんじゃないかなという壮大な考えもある。

雑記ブログというのはいわば雑誌であって時代の反映でもある。それは大きな時代というよりも、人生という名の一人の個人の時代の発露なのかもしれない。

だから自分はたとえそれがネットの片隅で、そして駄文であったとしても書きつづけたいのだ。