負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

宗教は孤独を癒す居場所としての効果がある

自分は典型的な日本人にありがちな無宗教という名の多宗教であり、とりわけ何かを熱心に信仰しているというわけではない。

強いて言うならばサッカーのFCバルセロナを宗教感覚で応援して神道の世界観が好きなぐらいぐらいで、熱心な仏教徒でもなければキリスト教徒でもなく、新興宗教にも傾倒していない。

 

更に宗教に熱心な人に対して少し偏見を持っているタイプでもあり、同じ学校にエホバや創価の人がいたら少し身構えてしまう感覚が無いと言えば嘘になる。

無宗教と言いながらクリスマスや除夜の鐘、お正月などを楽しみ、新興宗教はちょっと怖いなという目で見るような典型的なパターンの一人だ。

 

ただその認識が変わったのは自分がキリスト教の教会に誘われていったときのことである。面白そうな季節のイベントがあるということで、正直「飯目的」で教会に誘われて自分は行って、暇なとき何回か週末通ったことがある。

知り合いの付き合いと興味本位と飯目的で行ったというのが実情で、今も決してキリスト教徒でもなんでもないが「楽しかったな」とは今になって思う。

 

思ってたのと違ったというか、普通に良い人たちだと思ったし人間としては面白い人が多かった。

今自分がいろんな人と疎遠になったり外出機会も減って事実上引きこもりに近い状態になると人が多い場所が恋しいという感覚にも陥る。

讃美歌を歌ったり、聖書を朗読したり、神父が面白い話をしたり楽しい空間ではあった。しかもその神父も実は元々飯目的で教会に参加したということが始まりらしい。

当時の自分は国家神道の復古と、戦前の天皇制を理想としていたためキリスト教の競技には批判的だったが空間やコミュニティとしての観点で見た場合には非常に楽しかったことを覚えている。

 

おそらくそういった教会に通っている人の中には「居場所」を求めている人が多いのではないかというぐらいに、温かみはあった。

よく新興宗教のドキュメントや報道などを見て、孤独な若者が居場所を求めて集まっているというようなことが言われているがその感情が凄くわかるようになった。

 

また新興宗教に対する偏見も奈良県の天理市を訪れたことで変わるようになる。

興味本位で自分は日本最大級の宗教都市である天理市に2回ほど行ったことがあり、今になってその場所が懐かしく思う自分がいる。

「ようこそおかえり」という言葉が掲げられており、信者だったら総本山に参拝に来た時嬉しいだろうなと思うしイスラム教徒がメッカに行くような感覚なんだろうなとも思った。

信者は法被を着ていることが多く、外国人の場合国籍が書いてあるのだが地球の裏側のブラジルからも来ていて驚いたし、駅について早々呪文を唱えているような人もいて異様な空間ではあった。

ただその怪しい雰囲気がだんだんと心地よくなり、また行きたいなと思っている自分もいる。

これもきっと「居場所」を求める感覚の一つで、寂しい人間は宗教に行くと癒されるというのも分かる。

 

オウム真理教の後継団体「アレフ」に最近若者が集まっているらしく、実際20代でアレフに入った人は人生に行き詰まり「洗脳されてもいいや」という感覚で現実から逃げるように入信したと語っていた。

もう一つの「ひかりの環」は信者同士で集まって、年に数回神社巡りをするらしいがそれも楽しそうだなとは感じた。

 

そう言うのを見ると孤独で発狂しそうになったときは最後の手段として宗教の場に飛び込むのもありかなと考え始めている自分もいる。

向こうはビジネスで信者を増やしたいだけかもしれなくても、そんな自分を必要として歓迎してくれる人がいたら嬉しくなるのも分かる。

そして似たような信者同士で仲間意識を持つというのも孤独を紛らわすことには役立つのだろう。

流石に今の所そこまで追い込まれていないが頼る場所が無くなり追い込まれたときは逃げるようにして宗教に洗脳されに行く人もいるのは事実だ。

それだけ社会が閉塞感に満ちているという事でもあるし、信者を責めることはできない、そして本人たちは楽しいのも事実だろう。

 

実際自分が言ったプロテスタントの教会でも同世代がいて、話が合ったりしてその辺の奴とは違う感覚があったし人間としてはまた話したいなと思う自分もいる。他にもいろいろ気さくに話してくれる人がいたり、みんな仲良さそうで独自の空間があった。

そう言うのを新しい信者を騙そうとしているみたいな偏見で見ていた自分もいたが、集まってるのは自分と同じような人たちというか、それぞれ居場所を求めにやってきているような人が多かった。

もう今はその地域にいないため、行く事もないのだが懐かしいなとは思う。

 

宗教というのは結局のところそういうコミュニティが目的で、人間というのはそういう人が集まる場所が好きなのかもしれない。

行きつけの居酒屋や喫茶店と一緒だったり、友達感覚の親近感重視のユーチューバー動画見たりとか、本質を辿れば全部似ているようにも思う。

「あの教会楽しかったな、あの街面白かったな、あの店また行きたいな、あのサイト面白いよな」という感情は自分の中では全部似たような近い物があることに気付いた。

遥か遠い昔はお寺が地域の人々の集まりで、気軽に困ったときに行くような場所だったと聞くがそういう寄合所というのは人間は必要としているのかもしれない。

 

オタク文化がそれを代替している時代もあったり今でもアーティストのコンサートなどは来ている客全員濃いみたいなこともあったりする。

地下アイドルのイベントに何で行っているのかと疑問にも思うが、ファンの人たちはその空間が絶対楽しいと思っているだろう。

ももクロはテレビで全盛期に比べて見なくなったが、現場のイベントはかなり盛り上がると聞く。宗教も結局そういうリピーター文化、コミュニティや空間の居心地の良さを本人が感じればファンも信者も本質は同じなんだろうなとも思う。

 

それで言えばスポーツの現地観戦も一体感が目的で、その一員になれば凄く楽しいはずだ。Jリーグのゴール裏のコアサポーターも当人たちは絶対楽しいだろうし、応援団体に入って一体感を味わって試合後勝った時は一緒に飲みに行ったりするのも楽しそうである。

宗教もローカルアイドルも興味ない自分は、案外J2,J3の地方巡りが肌に合っているのかもしれない。南米でサッカーが宗教のような存在になっているのもある種の共同体意識なのだろう。

「過激な奴ら」とか「変な奴ら」と見られたとしても、その側に入っていると一体感がある。変なデモをして白い目で見られている人たちも、同じく白い目で見られている仲間がいればむしろコアな仲間意識を満たせるのだろう。

 

反原発のデモ行進は何回か見たことがあるが、太鼓叩いて原発反対と叫びながら歩いている人は本当はそこまで原発に興味が無くて何かに反対している昂揚感が目的なんじゃないだろうかとすら思う。

それほど孤独を癒す仲間意識を感じられる場所というのは貴重な物なのだ。

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その一方でノートのほうにも書いたけれども、環境変われば本当に行く場所や居場所が無くなる。この記事では田舎には喫茶店も居酒屋も教会も無いと書いているのだが、書いた後よくよく考えればなぜか田舎に「エホバ」がある事に気付いた。

 

ただそのエホバは地元からは白い目で見られているというか、怪しい場所扱いは小学校の頃はされていた。

自分が住んでいる町の人は全くそのエホバに行っている人がいる気配は無く、遠いところからわざわざ辺鄙な場所に訪れにやってきている印象がある。

日曜日は本当に車がもの凄く多く停まっていてこれもある種の居場所目的なのだろう。

さすがにエホバは自分の好みでもないし、勧誘をさせられたりお布施が多かったりして大変そうだというイメージがある。実際最近は来ないが、子供のころはエホバの人が来て言ってることに笑ってしまったことが懐かしい。

 

かつてオウム真理教があれだけ勢力を拡大したことには、バブル経済についていけなくなり孤独を感じた人の求心力となった背景がある。

今ユーチューバーやSNSが流行っているのも、漠然と皆どこかに「居場所」を求めていることの証左でもあるんだろうなと思う。かつて自分も個人サイトがあった頃のゲームのチャットみたいなところに入り浸っていた時期があったわけでそれを批判することもできない。

 

結局今の世の中外出はお金がかかる物で、最低限近くのフードコートで過ごすというのがライフスタイルになっている人は多い。

居酒屋も外飲みは結構お金がかかり、喫茶店やカフェも場所代や雰囲気代混みの値段でやや高い部分はある。自分に丁度いい店が見つかるとも限らない。

 

そう言う意味で昨今のユーチューバーというのは家で気軽に見れるし、自分のペースで見ていられるというのが人気の理由なのかもしれない。ネットは選択肢が多いから自分に合ったものが見つかりやすい。

 

よく天理や創価が3世以降の信者離れが進んで衰退しているとも聞くし、アレフが拡大していくこともない。日本で新興宗教が衰退したというのはオウムのせいもあるが、ネットで十分孤独を癒すことができるようになったというのが大きいのかもしれない。

「ヒカキン信者」という表現が去れたりするし、ネットではよく信者という言葉を見かけるが手軽に宗教っぽいことができるようになったというのも宗教が必要なくなった理由だろう。

それを言えば自分はメッシ信者であり本田圭佑信者でもある。

何か信仰したり、同じ信者同士で仲間意識を感じる事って気持ち悪いけども本人たちは滅茶苦茶楽しいことは間違いない。変な目で見られたとしても変な目で見られてる人同士だと一体感があって、それが心地よく感じる。

 

未だに中核派は活躍していて本社の寮のような場所で共同生活し革命を企てようとしているらしいが、そのアジト内の仲間の距離感は近くて当人たちは楽しそうに見えるのも事実だ。

過激なことを一緒にやっているという共同体意識が彼らを時代遅れの革命に導いている。例え革命が実現できなくても、「いつかできるかもしれない」と思いながら共同生活して仲間内で過激なことを言い合っていれば一体感がある。

 

田舎でこうやっていろんな人と疎遠になって孤立するとそういう空間のありがたさも分かるようになる。

その究極の行き場所が2chにある「孤独な男性板」なんだろうなとも思う。あれこそ最も意識が低い居場所の一つだろうし寂しい奴ら同士で一体感味わっていればそれはそれで一種のコミュニティの一つともいえる。

かろうじてネットのアングラ感があるのはこういう専門板になるのだろう。

そしてそれ以外のカジュアル化した大部分の表面だけのネット空間よりは結局リアルのほうが本当の濃い空間になりやすいというのはいつも自分が言っていることで、その一つがまさに教会なのだろう。

このご時世宗教にはまる奴らって絶対濃いわけで実際そうだった。

漠然と「濃い奴ら」を求め、孤独から逃れるのならばあえて宗教に飛び込んでみるのおすすめかもしれない。

 

葬式や法事の雰囲気が好きな奴いる?

唐突に昔が懐かしくなる現象が最近続いているのだが、今度はお葬式や法事の雰囲気が懐かしくなってきた。

不謹慎なのかもしれないが、子供の頃に親に連れられて行った葬式や法事って謎のワクワク感があったよなぁと思うのだ。

 

実は自分は成人してから一度もそういった法事に行ったことが無いので、もうかなり昔のことになる。

家族構成や住んでいる場所などにも関わってくる問題でもあるので世間的に実際どのくらいの頻度なのかわからないが、とにかく自分が法事に参加したのは10年以上前のことになる。

子供の頃に親に連れられていく法事と、大人になってから参加するマナーが問われる場とは異なるだろう。スーツを着たり、料理代を出したり、大人としてのマナーがあったり長時間正座でお坊さんの念仏を聞いたりしなければならない。

 

一方子供のころはそれは大人がやることだからどこかで暇をつぶしてきなさいと言われ、同じく来ている他の親戚の子供と遊んだり兄弟と過ごしたりしていて、きっとその光景が懐かしいのだろう。

土日に家族とどこかに外出するというプレミア感のようなものがあったのかもしれない。親戚でなくとも親の友人の葬式なども参加したことが子供の頃にはあり、とにかく知らない人の所に行けることが楽しかった。

料理も美味しかったり、独特のお寺の雰囲気、そして知らない場所に行けるワクワク感、そして子供は面倒なことを免除されていたりまだその意味がわからなくただのイベントのように感じる。

そういうセピア色の世界にある遠い過去だから楽しかったと美化されているのかもしれない。

 

そして成人してから大人としていくとその煩わしさに気付くことになるだろう。

自分が近いうちに行くとするならば母方の祖父がそろそろかなという時期で、数年以内に参加しなければならなくなるだろう。

ただ現状だとあまりにも遠すぎて交通費が払えないため物理的に参加できない。スーツもどこやったかなというレベルで社会不適合者そのものの自分がいる。

 

自分を一番大切に可愛がってくれた祖父の葬式に交通費払えないし法事用のスーツないから行けない自分が情けないが、別に行かなくてもいいと思ってる自分もいるのも事実だ。

まともな大人になれなかったというだけの話で、ここまで来たら大事な祖父の葬式にすら参加しない薄情者になってみてもいいかもしれない。

新幹線代や飛行機代というのは地味に高い物で、場合によっては宿泊費も含まれるイベントに参加する人は凄いなと素直に思う。

 

地元の高校から同窓会の誘いが来たのだが、近くにもかかわらず参加しない自分がいる一方でおそらく県外からわざわざ参加しに来る人もいるだろう。

しかもその高校は県外から進学してきた人もいるので地元に泊まれるところがあるのかは心配になる。仲良かった人の所に泊まるというケースもあるかもしれないが、とにかく「みんなちゃんと社会人やってんだなぁ」と尊敬せずにはいられない。

 

そもそも言う程再会が目的で同窓会に参加する必要あるかと言われれば、本当に仲がいい人は今も連絡を取り合っていて独自に会っているだろうし、わざわざ近況の姿を見たいとも思わない自分はやっぱり社会不適合者なのだろう。

 

葬式や法事も本当に会いたい親戚なんかは、既に年末帰ったり行ったりとかで会う機会があり、再会目的で行ったとしてもあまり大したことにはならない。

 

それで言えば結婚式も本当に参加したのは4歳ぐらいの頃であまりにも遠い昔のこと過ぎる。

最近身内に結婚した人はいるのだが、最近ありがちな結婚式開く余裕がないパターンで結婚式への参加は無かった。自分が開くこともないだろうし、結婚するような友達もまずいない。

そう考えると結婚式もレアなイベントで、これも大人になると参加費やご祝儀なんかも必要になる。大々的な結婚式を開催で来たり、わざわざ他人の幸せのためにお金を出せる余裕がある人って中々いないんじゃないだろうか。

そもそも結婚する人が減っている時代にその中で更に結婚式開催の余裕がある人がどれだけいる事やら。ちょっとした知り合いが結婚式に参加したという話ぐらいしか聞かない時代になってきている。

いつかその結婚式を開けなかった身内のために結婚10周年ぐらいの時に何かイベント支援して上げられないかなとは思っているが、これは離婚していないことが大前提になるだろう。

 

結局大人になるとマナーやら参加費、交通費やら様々なものが必要で休日がつぶれる煩わしい物になり、子供の頃に何の負担も無く行ってた頃とは違う。

冠婚葬祭がイベントとして楽しかったのは子供の頃だからの話なのだろう。

ゆとりって勝ち組と負け組の差がめちゃくちゃデカいよな

ゆとり教育世代も既に30代が登場し始めた昨今、それぞれの人生が鮮明に分かれ始めている。

自分自身そんなゆとり世代の一人だが、この教育を受けて思うのが勝者と敗者がくっきり分かれる教育だったという事だろう。

 

「これだからゆとりは」とよく言われるが、反論するのであれば優秀なゆとりは本当に優秀な人が多い。その一方で駄目なゆとりも本当に多く、自分自身その後者なので典型的なゆとってる甘ったれてる奴だと言われても仕方がないと自覚している。

 

自分のような駄目で無能なゆとりを個人として批判するのは全く構わないが、優秀なゆとりまで巻き込まないでほしいというのがせめてもの願いだ。

優秀な人はいくらでもいるため一括りにしないでほしいし「これだからゆとりは」と一括で批判するのではなく、あくまで個人で判断してもらいたいという思いはある。

ゆとり教育が間違っていたという十字架は自分のような駄目なゆとりが背負うべきであり、優秀な人までをも批判するのは間違っている。

そもそもゆとり以前の世代も駄目な人間と優れた人間は両方存在したわけであり、世代でまとめること自体がナンセンスなのではないかとも思う。

 

一部は非常に優秀だが大多数は無能、それがゆとり世代でもある。少数の勝者と有象無象の敗者を量産した、それがゆとり教育だった。

 

そんなゆとりの権化である自分は間違いなく社会の底辺に落ちぶれた負け組だ。

最もゆとり世代の評判を下げている存在の一人が自分だろう。

大学進学率が50%を超える今、大学に進学したにもかかわらず中退し無職のニートに落ちぶれた自分は何も持たない無能でしかない。社会に適合できず、社会人文化とは相いれない社会不適合者になってしまい底辺の人間として紛れもなく哀れで惨めな負け組だ。

職業スキルを身に着けられる高校に進学したわけでもなく、勉学の普通科に進み、結果的にその大学からも去ることになった人間というのは今の時代において最も無能な存在である。

高校で何らかのスキルを身に着け卒業後即座に就職して職歴や技術を磨いてきたわけでもなければ、大学で成長し優良企業に内定し順調に人生を歩んでいるわけでもない。そのどちらにも遠く及ばないのが自分だ。

 

かつて「こいつらは勉強ができない馬鹿だ」と見下していた人に今は見下されているし、自分よりもっと勉強ができた本当のエリートにも当然見下されている。

小学校の頃全く勉強ができない人がいたが、彼らは今手に職をつけてバリバリ働いて出世している。自分より勉強ができた人は最近かなりいい職に就いたと聞いた。まるでニートの自分とは違う。

だから同窓会にも行かないし成人式にも出なかった、会うのが怖いのだ。

 

その上自分は帰宅部であり社会人の上下関係の文化にも相容れない。

ゆとり、帰宅部、大学中退、まさに負の役満だ。

その上貧しい家庭に生まれ、田舎の貧困層として育ち、両親の不仲などにより人格まで歪んだ経歴を持つ。

何の成功体験も無く、ただ負け続けてきた哀れな人生を過ごしてきた真の無能であり負け組だ。

最後の駄目押しとして現在はアルコール中毒にまで落ちぶれており、もはや自分より下を探すことの方が難しい。

親が悪い、社会が悪い、世の中が悪い、周りが悪い、間違っていたのは俺じゃない世界の方だ、とにかく自分の存在なんて無かった事にして楽に消え去りたい。

そんなことしか考えなくなる。

 

そんな時に順調なルートを歩み活躍している同世代を見るとコンプレックスに苛まれるし、下の世代で将来有望な人間を見ると嫉妬に狂いそうになる。

結局世の中、上級国民や元々持つ人間が勝つんだなと冷笑し始めることが日常になっている。

「世の中くだらねぇ、しにてぇ、全部消えてくんねぇかなぁ・・・」と酒の酔いも苦しくなったときはネガティブな負の感情や憎悪が芽生え始める。

持たざる者や身分の低い者には最初から居場所が無いのだ。

 

とにかくゆとりは負け組に落ちぶれる奴と勝ち組になる奴の差があまりにも大きい。

プロフェッショナルの流儀という某国営放送の番組のテーマソングに「僕らは横一列になってスタートを切った」という歌詞が出てくるがあんなもの大嘘だ。

横一列ですらない、最初からスタートラインが違う。

まだ学校の徒競走はマシだ、一応横一列でスタートできるからな。

だけど人生という徒競走はもはやそれぞれの走るスピードに差がある上にスタートラインまで違う。そんなん勝てるわけねぇだろ、ただでさえ足の遅い人間がスタートラインまで後方ならもう絶対に追い付けない。

「世界に一つだけの花」は花屋の店先に並んだ花はそれぞれ違うけど全部綺麗だと歌っているが、それも大嘘だ。まず花屋に並ぶだけですでに選別されたエリートで、その前に切り捨てられた有象無象の醜い花が存在するのだ。

自分はそうやって並べる価値も無く、不必要でいらないと切り捨てられた存在なのだろう。

 

ゆとり教育の実態というのはそういうものだ。

元々出自が良い上級国民や持つ者は徹底的に有利だが、生まれた場所と環境や生まれ持った才能が悪ければ徹底的に落ちぶれてひねくれ者が出来上がる。

華やかに活躍できる人間と、本当に不幸な結末にしかならない最底辺の無能がいる。自分は後者だったんだなぁという現実を今噛みしめている。

大口径の拳銃があれば酒を酔いつぶれるほど飲んだ後口に突き刺して発射したい、そんなことしか考えない夜がある。

 

自業自得な部分もある、本当は周りに感謝しなければならないことも多い。

それでもいろんな物事への憎悪の感情が募る、そしてそれ以上に自分が憎い。

なんでこんな最底辺の人間になっちゃったんだろうなぁ、と思う日々だ。

それでもこの時一国の宰相に上り詰めるだろうという不思議な確信があった。

 

【男の肌もケアで変わる】

今の時代やはり暴力革命は成立しえない

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

 

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

 

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

 

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。

matome.naver.jp

このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

 

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

 

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

 

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

 

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。

www.news-postseven.com

そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

 

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

 

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

 

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

 

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

 

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

 

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

 

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

 

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

 

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

 

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

 

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

 

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

 

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

 

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

 

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。

アルコール度数9%系の酎ハイが好きな奴www

普段お酒好きを名乗っている自分が愛飲している酒類にはいくつかの種類が存在する。

本当に一番好きなのは果実酒のロックや、値段の良い日本酒、そして居酒屋や焼肉屋で出されるタイプの酎ハイだが、安いウイスキーや焼酎なども愛飲し、ワンカップ日本酒も結構好きだ。

缶ビールも良く飲むが、ややアルコール度数としては効率が悪いため特別な日というか今日は奮発しようという日にしか飲まない。

基本は発泡酒で生ビールは底辺生活なりにいいことがあった日や、自分の中だけでの決起集会の時などに限られる。

少し前までは南米産の安ワインも飲んでいたが最近は遠ざかっている。

 

そんな"底辺の安飲み"として、自分が専ら行き着いた最適解が「アルコール度数9%の缶酎ハイ」である。

具体名で言えばストロングゼロと、氷結の9%タイプだ。

氷結は基本5%だが9%系列も発売している。

しかし中々9%系は見当たらずコンビニでもあまり置いていない。少し寂しいが味としては氷結の9%がこの類の中では最高峰だろう。

 

ストロングゼロはよく言われるが悪酔いするし味もそれほど良くはないが、値段の範囲内や流通量では自分のような酔えれば良いような意識の低い酒好きにはてっとり早くカジュアルだ。

どこにでも売っている上に、定期的にシーズンに合わせた種類の味を発売しており飽きが来ないバリエーションの豊富さがある。

 

あまり味の評判が高くないストロング系だが、その中で完熟ダブル梅は特に味も良し、アルコール度数も良しで気に入っている。しかし田舎に唯一ある近くのコンビニに中々おいてないため量販店まで行かなければならないのが少し億劫だ。

 

ストロングゼロの完熟梅VS氷結9%のマスカット味が自分の中では二強と言っても過言ではない存在であり、氷結5%のレモン味は"にわか"だと思っている。

甘ったるいものを飲みたくない時のためにも甘味の少ないドライやビターレモンも用意してくれているため、バリエーションの豊富さでは右に出る物はないだろう。

 

よくお酒の話題で「ストロングゼロどこに需要あるんだよ」と言われるが、焼酎やウイスキーでは爽快感がないが5%未満では酔えないという層向けに作られているのではないだろうか。

自分自身最初は9%系はがっつり来てキツかったが、今では慣れしまいむしろ3,4%のほろ酔い系だと買おうとすら思わなくなっている。最近現実が厳しくなりお酒に逃避する人が増えているのか知らないが、徐々にチューハイもアルコール度数が高くなってきている。最近ではもはや7%に達する缶ビールまで登場してきており、世間のアルコール志向は強くなってきている。

 

アルコール好きの中で最適解だと言われている「甲類焼酎」という物があるのだが、確かに一人暮らし期間中自分はこれを愛飲していた。

 

ただはっきり言って直接飲むには「激まずい」のがこういうペットボトル焼酎で、ボトル自体が大きく冷蔵庫の場所も結構取るという問題がある。ただでさえ味の良くない物が冷えていないともなると美味しく無さすぎて逆に酔えない。酔えるかどうかは味や楽しさにも関わってくる部分がある。

 

そのため味を紛らわすために何らかの飲料で割らなければならない。

やれタンブラーに氷をいれて、やれ割るためにソフトドリンクや原液を冷やして揃えて、そして飲む前にわざわざ作るとなるとこれが非常に億劫になる。

日本酒でも鬼ごろしのように余り物の粗悪な物を合成したような類のものがあるが、こういう物を直接飲むといまいち酔えなかったり体の調子が悪くなったりする。

大きいペットボトルの甲類焼酎はかなり胃が頑丈ならば冷やさず常温で長期間放置していても問題ないが、さすがに毎日飲むものとしては体への負担が大きい。

 

最低限の味が保障されつつ、缶を冷やしておいてそのまま飲めば何とかなる缶チューハイの利便性を考えたときわずかなコストの差を追求しすぎるのは却ってコスパが悪いという事にも気づいた。最低限の味が保障されていることも実は重要な要素だろう。

その結果行き着いたのが最低限大手メーカーが作る焼酎やウイスキーか、こういった感酎ハイの強アルコール系だ。

 

少し遠い場所にある量販店ならさらに安い缶酎ハイもあるのだが、地方だとそれも遠く、なおかつ買い貯め過ぎると際限なく飲んでしまうようになる。

一本が安いからという理由で、ガンガン飲んでしまうと悪い酔いする上に結局出費もかさんでしまう。

かと言って高級酒は当然無理で、安くてもアルコール度数が低いともったいない。

発泡酒のロング缶と、酎ハイのロング缶があった場合どうしても5%と9%ならば後者を選んでしまう自分がいる。

更に言えばアルコール度数が低いと簡単に飲めるため体内に水分が溜まりやすくなってしまう側面もある。

そういった様々な事情を考えたとき、総合的に自分はアルコール度数9%代の缶酎ハイか、安酒であっても最低限大手メーカーや地元メーカーが作ったような焼酎を愛飲するようになった。有名どころでは黒伊佐錦や霧島系列で自分の場合「白霧島」を特に好んでいる。黒キリと白キリなら断然白キリ派で、実際量販店やコンビニを見ても白の方がよく売れている印象を受ける。他には地元メーカーが販売している物も飲んでいる。

 

お酒好きの中にはウイスキーが一番酔いやすいと言う人もいるが、少し前まで自分も飲んでいたという過去形になる。ウイスキーも本当に味を知ろうと思えばもっと奥が深い世界があるのだろうが、コンビニや量販店で最も安い物しか飲まない自分は味覚の問題で結局、缶酎ハイか焼酎に回帰した。

自分だけで使える冷蔵庫があればバリエーションも増えてくるかもしれないが、限られた冷蔵庫のスペースに少量で保存できるものか、常温で保存しても最低限味の良い物になると限られてくる。

 

ここ最近の自分の生活は基本的に9%のチューハイか、25%の焼酎になっており、たまに発泡酒を交える感覚でループしている。

特別好きというわけではないが、ついつい手が伸びてしまうのがこういったアルコール度数の高いが意識は低い缶チューハイだ。

流通や入手のしやすさ、保存の手軽さ、アルコール度数の高さ、そして炭酸の爽快感、これらを四拍子でそろえているとなると結局ストロングゼロか氷結に行き着く自分がいる。

そして全国にそういった意識の低いお酒好きが多いからこれだけ売れていたり流通していたりするのかもしれない。

お酒の胃へのダメージには漢方生薬

戦争占い、あなたはどのタイプ?

血液型占いってだいぶ衰退したよなぁという昨今、あまり占いという物自体見なくなった。むしろ数年前の血液型ブームが異常だったのかもしれない。

 

しかし世の中に「占いなんて非科学的だろ」とマジになる人が増えすぎて、遊びとしての占いもかなり少なくなった印象を受ける。小中学生がちょっとした心理テストにワクワクするように、遊びとしての占い文化は残っていってほしいとも思う。

血液型だけが批判されているが、そもそもそれを言えば星座占いも明らかにおかしく、非科学的だと言って全てを排斥してしまえば世の中から面白い物は消えていくだろう。

 

ネットでも昔は「芸能人占い」みたいなものがあって、生年月日や名前を入力すれば機械的な判断で占う物が多かったし自分もやっていた。

実はただ単にどんなジャンルでも作れるテンプレツールがあるだけなのだが、そういうものが好きな年頃というのは誰にでもあるのではないだろうか。

個人的な体験として昔面白かったのは「銃占い」という物があってハンドガンやサブマシンガンなど自分をどのタイプの銃に分類するかという物だった。

 

そんな適当占いのノリで、自分は実に不謹慎な占いを考えてみた。

「戦争占い」である。

よくありがちなあなたはどのタイプ的な心理テストであり、血液型同様4種類に分けた。

あくまで個人的に考えた一発ネタではあるが、占いや心理テストなんて元々そんなものだともいえる。

 

では自分が戦争や戦の指揮官だとしてどの戦争をやってみたいだろうか?

良い子の皆、戦争占いの時間だよ!(非常に不謹慎な占い)

 

1:独立戦争

第三世界における植民地独立戦争や、ナチス・ドイツに占領されたときのフランス亡命政府などがこのタイプになる。またアメリカも元々は独立戦争によって建国をした。

パルチザンやレジスタンスもこのカテゴリーに入るだろう。

外圧勢力や海外の支配勢力に対する行動の一つとして独立戦争および独立運動を定義したい。

 

2:侵略戦争

近現代で言えば典型的な例としてナチス・ドイツやアドルフ・ヒトラー、戦後ならば中華人民共和国によるチベット侵攻などもこのタイプだ。

先進国同士の戦いから、小国への一方的な侵略や植民地獲得戦争などもこのカテゴリーに入る。

 

3:革命戦争

政権の転覆や奪取、封建体制の打破などがこのタイプだ。

典型的な例で言えばバチスタ政権を打倒したフィデル・カストロやチェ・ゲバラ、ロシア革命を成し遂げたスターリンやレーニンなどが当てはまる。

独立戦争と似ている部分もあるが、外国からの解放というよりも自国の体制の変革を目指す運動だ。

日本ならば明治維新もその一つに数えることができるし、ナチス・ドイツも政権獲得までは革命であったと言える。

 

4:防衛戦争

このタイプは侵略国に対して防衛するタイプの戦争であり、典型例で言えば独ソ戦のソビエト側や第二次世界大戦における連合国が当てはまる。

戦局が好転すると攻勢に発展するケースもあり、必ずしも防衛だけではない場合もある。

 

 

・1の独立戦争を選んだ方

あなたは誰かの命令に従うことがあまり好きではありません。

誰かに支配されることを望まず、また強者の言いなりになっている弱者に対しても共感し助けてあげたいと考えるタイプです。また人から頼られることも多い頼もしい人望があります。

しかし助けたいという思いや、支配から逃れたいという思いが空回りしてしまう事もあるでしょう。

 

おすすめの職業:解放軍のリーダー、独立運動家、被害者会の会長

似たようなタイプ:シャルル・ド・ゴール、ホー・チ・ミン、マハトマ・ガンジー、ナセル、ダライラマ14世

 

・2の侵略戦争を選んだ方

軍隊を率いて他国に攻め込むことに惹かれるあなたは、現状からの拡大路線に夢を見出す野心家です。

天才タイプや芸術家タイプの側面もあり、攻勢にある時は多大な功績を残すことがあります。壮大な夢を見るためドリーマータイプとも言えるでしょう。

しかし留まるところや現実を知らない余り行き過ぎてしまい、劣勢になるとパニック状態になる事もあります。

その一方で閃きに長けており大勝することもあり、それが諸刃の刃ともなります。

 

おすすめの職業:独裁者、将軍、社長

似たようなタイプ:アドルフ・ヒトラー、ナポレオン、石原莞爾、フランシスコ・ピサロ、織田信長、チンギス・ハン

 

・3の革命戦争を選んだ方

あなたは情熱的で曲がったことが許せない正義に溢れたタイプです。

間違いや世の中の不合理に対して黙って見過ごすことはできません。とにかく変化が好きなタイプであり、革新者やイノベータータイプと言えるでしょう。

しかしややロマンチストな傾向があり、1人だけ盛り上がっていて空気が読めないこともしばしば。

そのため、時に暴走して過激なことや極端なやり方に走る傾向があるでしょう。自分だけの世界観や理想に溺れないようにしましょう。

 

おすすめの職業:テロリスト、労働運動家、政治家、煽動者、クーデター首謀者

似たようなタイプ:ウラジーミル・レーニン、フィデル・カストロ、伊藤博文、朴正煕

 

・4の防衛戦争を選んだ方

一見平和主義者や現実主義者にみられがちですが、この中では最も狡猾なタイプです。

時として相手に攻撃をさせる事や、先に手を出させる手法を多用します。

無謀な拡大路線は望まず、現実にあるものでやり繰りができる優秀な経営者やリーダーも多く、部下や配下、後輩への思いやりもあります。

しかしトロッコ問題のジレンマに置いては躊躇なく多数派を守るために少数派を犠牲にすることを厭わない非情で現実的な側面も持ち合わせているでしょう。

籠城戦のような戦いへの忍耐力もあり、長期的な物事の見方ができます。

 

その一方で現実で妥協することも多く消極的だと言われることもあり、狡猾な戦術家なのか消極的な日和見主義者のどちらにもなる可能性を秘めています。

 

おすすめの職業:参謀、経営者

似たようなタイプ:ヨシフ・スターリン、チャーチル、ヴォー・グエン・ザップ、マンネルヘイム、呂文煥

 

みんなどのタイプだったかな、君ならどんな戦争や闘争、運動がしてみたい?

 

これらはあくまで適当な占いに過ぎず、例えば血液型にも様々なタイプがいてA型のようなO型や、AB型要素もあるA型なども存在する。占いに根拠がないことは当然だという前提で見るならば人間というのは4つのタイプでは分類できず、もっと多様な物でもある。

 

これは歴史においても同じことが言える。人は一つの区分によって反べすることができなくて当然なのだ。星座占いですらたった1か月の誕生日の違いで大きな差が出るはずがなく、冷静に考えれば占いやタイプ分類というのは不毛でもある。

 

歴史も一つの見方ではなく解釈によって様々な考察がされる。

人によって感じ方はそれぞれなのだ。

 

革命家がかつて抵抗していた帝国主義者になることもある。

例えばスターリンや毛沢東、金日成は独立や防衛のために戦ったが後に侵略者側になっていく。逆に侵略戦争もより対極的に見れば防衛戦争だと言えることもあり、防衛戦争を行った側もかつては侵略戦争を行っていた例は多々存在する。

独立や革命についても武力的な方法と非暴力の方法が存在し、その中でも多数に意見が分かれる。

 

今回自分が「似たようなタイプ」として出した具体的な歴史上人物も、別の解釈によっては他のカテゴリーに分類されるかもしれない。

ちょっとしたお遊びネタではあるが、興味を持った人物がいたらぜひその人について調べて見てほしいなと思う。

そのきっかけになれば良いなと思ってこんな占いを考えてみたし、人間の性格同様に軍人や政治家も少ないタイプに分類することは難しいと改めて感じることができた。

「たかじんのそこまで言って委員会」ってNPになってつまらなくなったよな

自分のかつての日曜日の過ごし方と言えば「たかじんのそこまで言って委員会」を休日の昼間に見る事だった。ちょっと過激な討論番組で特に西日本では有名で、「問題番組」的な扱い方もされていた。

番組のボリュームも大きく、更に語られる内容や出演者も多岐にわたっていた。

時の総理大臣や有名政治家も出演したり、裏の業界に詳しい出演者も出演したり非常に豪華な番組だった。

 

もちろんそのスタンスは今も続いているが、最近めっきり自分は見なくなってしまった。

「NPになり始めてから委員会つまらなくなったよなぁ」と思っている人は結構多いらしく、自分もその一人だ。

まだ番組が続いているという事を見ればある程度人気を維持できていることは間違いないが、もはや固定視聴者層をがっちり固めているだけで日曜日昼の名物番組のような扱いではなくなっている。

 

たかじんの委員会が劣化した理由には大きく分けて2つある。

1:やしきたかじんの番組ではなくなった

2:単なる保守層に媚びた右翼礼賛番組になった

 

まず第一に、やしきたかじんが司会を務めていたが急逝して現在では辛坊治郎がメインを務めている。「たかじんの番組」から「辛坊さんの番組」になったことで、結局自分はたかじんが「やっぱ好きやねん」だったんだと再確認した。

決して辛坊さんが嫌いなわけではないのだが、メインの司会を務めると違和感があり番組の雰囲気も違うように思えてくる。

 

更に自分が見限り始めた時期に三宅久之が津川雅彦になったことで、本当にただの右翼番組になってしまった感はある。自分は保守論客応援側で見ていたのだが、それはあくまで一般番組の中で保守論客が奮闘するのが好きだったからだ。

更に竹田恒泰までレギュラーとして定着して以降、完全に左翼をいじめる番組というか田嶋陽子を集団で叩く番組になってしまった。

 

自分は田嶋陽子の思想に共感しているわけではないしむしろアンチなのだが、「ヤバイ左翼」として頑張ってほしいという思いもあった。

そして三宅久之とバトルしてた頃はなんだかんだでお互い歴戦の信頼感みたいなものがありそれが非常に好きだった。

なんだかんだで三宅さんは紳士だったが、津川はひたすら傲慢に見えた。

政治思想で対立していても個人ではリスペクトし合っていた三宅と田嶋の黄金カップリングも、津川雅彦になってから完全に田嶋陽子を批判する番組になったし、そこに井上和彦や竹田恒泰が乗っかってくる構図があまり好きになれなかった。

 

更にその頃からですらメンバーが変わり果て、最近では知らない人たちばかりになっている。いつの間にかその津川雅彦もいなくなり、勝谷誠彦や宮崎哲弥、そして山口もえもいなくなっている。

勝谷誠彦に至っては兵庫県知事選に立候補していたらしく、最新の雰囲気が変わりすぎていて「丸くなった感」が否めない。

逆に言えばそのニュースしか知らない程自分の政治熱も下がっていったのかもしれないし、それゆえに見なくなったのかもしれない。

 

今はどうなっているか正直見ていないのでわからないが、一時保守層に媚びたような作りが増えすぎてそれ以降一般視聴者や革新や左派に見限られた側面はある。

彼らの主張に賛同しているわけではないが、かといって「日本すごいですね」系の番組や「海外の反応」みたいになると面白くない。

 

たかじんという中立がいる中で、ガチガチやりあう番組だったから面白かったが今は固定視聴者層向けの内輪番組になってしまったことでかつての過激さが無くなってしまった。

番組全体として丸くなったし、小者化が進んだような印象は否めず、もうネットでたかじんの委員会持てはやしてる人がいたら今時時代遅れだなとも思う。

 

たかじん生前に委員会を見ていたら"ヤバイ奴感"があったけが、今は普通にどこにでもいるネット右翼なんだなぐらいにしか思わない。

一見すると保守的に見えた宮崎哲弥や勝谷誠彦には実は左派的な思想もあったが、井上和彦や竹田恒泰になってくるとただのよくいる量産型ネット右翼の上位互換にしか見えない。

逆に言えば左翼のほうも劣化していて、田嶋陽子ですら結構先鋭的だったなと思わせられる。左右双方おもしろくなくなったという言葉に尽きる。

 

日曜日の昼間にもかかわらず限界にに挑戦するディープな番組だったから面白かったものが、身内向け番組なり固定視聴者層に媚びたような内容になってしまうと逆に面白くない。

やしきたかじんが「絶対東京には進出させない」と言っていたからローカルで自由にやれていたものが、そのローカルですら自由にやれなくなったのは世相を反映しているだろう。

「自分の好きな番組が劣化した論」はよく聞く。

ゴールデンに進出してから駄目になったとか、番組の趣旨が変わり始めてから面白くなくなったとか、おそらく自分の「そこまで言って委員会」への思い入れはその感情と似ているのだろう。

もっと端的に言えば「過激な奴が過激じゃなくなるとつまらなくなる」という法則が当てはまる。

もう戻ってこないたかじんがいた日々に思いを馳せながら、もうNPになって見ることもないに委員会にさよならを告げたい。 

 

そんなことを言いながらも後日実際にNPを見たのだが、予想通りつまらなかった。

シンプルに言うのであればトゲの無い普通の討論番組になったという印象だ。確かに有益な情報は多く、識者の話自体は興味深い。ただこういう番組ならわざわざ見る必要はないしいくらでも変わりの番組は存在するという印象を受けた。

ローカルだからやれていた過激さが無くなり、そこまでいって委員会の名物だった発言の自主規制もこの時は一度もなかったのは名物がなくなったようで寂しく感じた。

やはりあの頃の委員会は戻ってこない、この番組はやしきたかじんだから作れていた番組で本当はその時に終わっているべき番組だったのかもしれない。

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