負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

体育祭や運動会は本当に必要なイベントなのか?

秋の季節と言えばスポーツの秋と言われるように、学校では運動会シーズンとなる。

自分はそういった運動会や体育祭が本当に嫌いで、夏休みが終わるとキツい練習が始まることに嫌気がさしていた。

 

「体育祭で活躍する運動できる男子」へのやっかみや嫉妬などではなく、単純に練習量が多すぎる事や集団行動への過度な美化に対する不満の方が大きい。

 

体育祭が完全に無駄なことだとは思わないし、なんだかんだで懐かしい部分もあるのだが「そこまで本気でやる事なのか」という疑問はある。運動が好きな生徒が必ずしも体育祭を楽しみにしているというわけでもなく、辞退してよいと言われれば運動部からも辞退者が続出するだろう。

 

結局のところ体育教師が指導欲を満足させるためのイベントでしかなく、行進の精度を過度に高める事や組体操を高度にやる事の意味が自分は感じられない。

日本社会特有の「効率の悪さ」が凝縮されたようなイベントであり、もっともらしい理由をつけて前時代的なことを未だにやっているのだから日本が時代遅れの国になっていくことにも頷ける。

時代遅れなことを聞こえの良い理由でいつまでも続けているのが日本社会であり、体育祭や集団行動を過度に美化することは「いつまで昭和や20世紀をやっているんだ」と批判されても仕方がない。

北欧の教育などではこのような過度な順位づけで生徒の自信を削ぐことはタブー視されているのだが、日本の教育は未だに20世紀の考え方で停滞している。

 

こういうイベントが楽しみな部分もあり、日本以外の国でも似たような行事やその国特有の文化は存在するのだが練習量を増やしてまで完成度を高める必要はないはずだ。

 

ホリエモンが「学校の掃除って掃除機でやればいいだろ、大体欧米では生徒に掃除をやらせない」と言っていたが、こういう非効率性を指摘する人間が叩かれがちな風潮はあるように思う。

 

「それっていらなくないですか?」という人に対して、効率だけが全ては無いという曖昧な理由で反論し、無駄な規制ばかり残すのが日本という国だ。

また「それを批判している人間はこういうタイプの人間だ」というレッテル張りも行われるため、誰もが批判されることを恐れ結局は意見を自分の中で封じ込めて同調圧力に従ってしまう。

 

体育祭に関して自分は完全に廃止するべきとまでは言わないが、異常な練習量を費やして毎年やるものでもないのではないか、他にやることがあるのではないかという思いが強い。

更に言えば露骨に女子と男子で練習内容に差があり過ぎることも理不尽だと言える。

この頃からすでに男女差別が始まり、女は楽してよいものだという価値観が刷り込まれ始めている。

最近どこかの修学旅行で同じ料金にもかかわらず女子だけ個室で、男子だけ団体室だったことが問題になったが「日本男児たるもの理不尽に黙って耐えるものだ」という価値観がいまだに根強い。

それを言えば女子生徒側にも理不尽なことはあるのだろうが、とにかく体育祭に関しては不平等な印象が否めない。

男女の体力差以上に練習のハードさに差がある、これを慣習や伝統だからという理由でなぜ放置しているのか。

 

今では騎馬戦は廃止されているが現在でも怪我のリスクの大きい組体操の練習は続けられている。

「危ないから」という理由で何もかも廃止すれば、遊具の無くなった公園のようになってしまいかねないが組体操に関しては考え直すべきなのではないだろうか。

 

今思えば体育祭の暑い中での練習も「早く終わればいいのに」と思っていたが、懐かしさも確かにある。そして結局本番当日は謎の達成感もあった。

しかしやはりそれは美化された思い出補正であり、今も現場で続けることではない。

「苦労したけど懐かしい」という慣習を後世の世代に押し付けるのはやはり上の世代が気を付けなければならない事でもある。

「運動会無くなると少しさびしい」「自分の子供の運動会に参加したい」「最近の体育祭はやることがぬるい」という意見もあるが、変えていく勇気や変化への寛容性は必要だろう。

 

学校の授業全体に言えることだが、ゆとり世代もだいぶ変わったと言われてきたが、今の世代もかなり変わっている。そしてその前の世代も、更に以前の世代に比べればやはり変わっている。

「最近の子供の給食は豪華でうらやましい」というが、それを言えば自分たちも絶対に上の世代からは羨ましがられていた。

そう考えた場合、最近の子供たちの運動会で練習量が減り、練習メニューが軽くなってもそれを「これだから根性が身につかないんだ」という大人になってはいけないように思う。

休むことは悪い、苦労すればいい大人になれる、そういう価値観が強すぎる。

「掃除機で掃除やれば早いだろ」と思っていたホリエモンが社会的には成功し、丁寧に掃除をすれば心も磨かれると教えていた教師は無名で終わっている。

 

批判ばかりで代案を出さないのもアンフェアなので、仮に自分が体育祭の代わりのイベントを考えるのであればディスカッションやディベートの授業や大会を増やしても良いのではないかと思っている。それも日本語だけでなく英語での部門も増やしてみてはどうだろうか。

日本人はあまりにも議論が下手過ぎる現状を見て、その教育はまだ足りないと言わざるを得ない。自分の頃もディベートの授業自体はあったがお粗末であり、現に議論ができない大人が多すぎる。

インテリ層が集まる政治議論ですら稚拙なレッテル張りに終始している現状を見たとき、それは日本の教育が悪いという事に行き着く。

 

何も堅苦しい感じではなく、日常で使えるような面白い内容にしても良いのではないだろうか。

この前テレビで「野球かサッカーか」という番組があったが、自分はそういう内容でも良いと思っている。休み時間に自分たちの趣味でどちらが良いかという内容の事を、授業ではもっと本格的にやる、そういった日常会話の延長を極める形でも良い。

 

個人の自由が保障され、国際的にもそういう時代になっていく今時、組体操や行進でしっかり揃っているかという事に注力している日本の教育をの効率の悪さを見ると本当に未開な時代遅れの国にしか見えてこない。

そしてそれを懐かしいと言うだけで美化する大人がいることも問題だ。

ポストモダンの時代において未だに近代型の個人を育てようとしているのが日本だと言える。

 

そんなことよりもっと自分の頭で考える事や、意見を持って主張すること、ディスカッションやデイベートができる成熟した大人になる事、自分はそちらの方がよほど大事なことであるように思うのだが、どうやらこの国はそうではないらしい。

お酒を飲むと面白い夢が見れる

夢というと睡眠中に見るものと初来の夢というように志や目標の2つの意味がある。

今回の場合前者を意味するが、「睡眠中に見る夢」について自分は特別な思い入れがある。

 

自分は現実が楽しくないから夢や妄想が楽しいと思っている人間だ。

「いい夢を見れたらその日は楽しい」という人は多いが、もはや夢が一番楽しい物になっている自分がいる。

 

凄く変な夢を見たり独自の世界を見たり、意味が分からない物が多いが、比較的自分は夢の内容を覚えているタイプだ。

よく「夢日記をつけると人格が破綻する」とか「ニートや引きこもりの夢には過去の人物が芸能人がでてくる」と言われるのだが、まさに自分はその境地に達している。

懐古の夢ばかりみたり、自分の知っている芸能人やスポーツ選手ばかりで、自分の夢に現実は誰もかかわってこない。どこか懐かしいがそれが何かわからない、そんな世界観に入り浸っている。

 

正直に言えば今の自分はニートと引きこもり状態であり、もはや現実において誰かと知り合うことが無く人間関係は矮小な領域に定められている。

ニート初期のころは積極的に外出しようとしていたが、最近では様々なことが億劫になるもはや誰とも話さない1日が当たり前になり、せいぜいコンビニか地元の商店にお酒を買いに行くことぐらいしか外出の機会が無い。

 

非常に些細な事なのだがコンタクトレンズをどこかで紛失して以降、生活リズムが変わり、そういう小さなことが意外と日常に影響を与える。

別に外が怖いというわけではなく、お金があれば積極的に外出し様々な人々と話したいアウトドア派なのだが世の中余りにもお金がかかることが多すぎる上に、希望を感じなくなるとあらゆることが億劫になってしまう。

 

「バリバリ働いて、いろんなこと楽しみます」という体力がある人は現代の社会情勢において希少になりつつあり最低限に済まそうとする人が増えてきている。インターネットをみれば大概のことが揃う時代になり、電話しか外部との通信手段がなかった時代とは違う。

 

しかしそのインターネットにも拠り所が無くなり、もはや最近の自分は妄想か夢か読書しか楽しみが無いという極めて闇の深い状態になっている。

あらゆることがつまらなくなった結果、「夢って最強じゃね?」という境地に行き着いた。

 

基本的に自分は深酒し寝付くことが日常的な生活リズムであり、次の日起きても気分が悪ければ何時間も寝ているという腐敗した生活を送っている。

そういう生活において何が起こるかかというと「情報の習得が限られるため過去の情報で補おうとする」という現象が脳内で起こり始めるのだ。

・基本的に誰とも出会わない

・いつまで寝ていられる

・過去に見た夢が新しい夢を補完する

・アルコールが脳機能に強い作用を果たす

・夢しか楽しみがなくなる

これらの要因が重なり独自の世界を形成し始めるのがニートでアルコール中毒者の脳内構造だ。

 

変な表現かもしれないが非常「濃い」夢は見れる状態になる。深酒の中悪酔いして寝たり寝なかったりして、レム睡眠状態になりやすい。

つまり完全に睡眠しきってはいないため、明瞭に物事を考えている状態と脳を休ませている状態の中間状態が頻発的に発生する。

「実はただ妄想しているだけだが夢だと認識している状態」も発生し、非常に曖昧な空間を行き来するがゆえにリアルに近い物や、そのリアリティに少しだけ睡眠状態の要素が加わった空間が発生することが多い。

 

更にお酒を飲んで脳感覚が麻痺していたり異常が発生しているがゆえに独特なイメージや、封印していた潜在的な空間をイメージすることになる。

かつて大塚愛が『ユメクイ』で「僕は今夢旅の中 あの星の島までも飛んで行ける」と歌っていたが、壮大な世界を夢見ているのだ。

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よく明晰夢やVR、仮想空間という言葉が使われるが人間の脳機能というのは実はまだ解明されていない程にポテンシャルを秘めている。

「人間の脳は実は10分の1しか日常で使われてはいない」というが、自分は夢で見た空間の凄さを考えると逆に起床しているときに考えることのレベルの低さに愕然とする。

起きているときはある意味で意志と常識、そして習慣で考えている部分が存在し、逆に睡眠中はそのような慣習にとらわれず脳機能を完全に活用しようとしている。

 

より端的に表現するのであれば夢はもっと自由に考えているとも言える。本当に考えていたい事や求めていることは夢に現れるというのはフロイトが分析していることであり、潜在意識のようなものが夢想空間には出現する。

アニメや漫画で「夢オチ」というパターンがあるが、現実の夢ではそこまで明瞭で論理的なストーリーは構成されにくい。

 

それゆえに混沌とした状況も発生しやすく、常識では考えられないようなイメージが何らかのインスピレーションになることもある。

 

夢で見た空間を芸術のヒントにするというのは芸術家全般に見られることであり、「枕の近くにメモ用のノートを置いている」というアーティストは多く、これは科学者についても言える。

湯川秀樹が中間子の存在を天井の模様でひらめいたということを語っていたような曖昧な記憶があるが、要するに寝ているか寝ていないかのような曖昧な時間帯にはアイデアの着想を得やすい。

 

自分がこうして深酒をしているのはある意味で「脳機能を破壊したほうが面白い」と考えているからでもある。つまりお酒を飲むことであえて脳機能を滅茶苦茶なカオス状態にして、そこから何かを生み出せないかという考えだ。

極端に理想主義者現実主義者の人間はこういった酔いしれるのではないだろうか。文系に置いては芸術を希求するもの、そして科学においては真理を希求する物、その双方が最終的には理想や美学に行き着く。

文系も理系も、本当に達観した人間は美や幻想しか求めなくなる。心理は何かと考えすぎた同じ結論に別のベクトルから辿り着く。

 

常識にとらわれたくないという漠然とした思いがあり、いわゆる「素面」状態の時の自分はありきたりな事しか考えられない。

アルコールというのは脳機能を麻痺させ快楽に導く一方で、ふさぎ込んでいたものを解放させる作用があるのではないだろうか。そしてそこに夢という別の空間が加わることでその相乗効果はミックスされる。

 

何も高尚な考えではなく「お酒飲んだ時面白い夢を見た」という日常にありがちな話であり、「それって本来人間が封印していた衝動や、まだ発揮されていない脳機能なんじゃないかな」というのが自分の疑問だ。

 

お酒を飲んだ後面白い夢を見れる理由は何なのか、これは一種の幻覚症状なのか、それとも潜在意識や脳機能におけるポテンシャルの発露なのか、そういった研究に興味を抱く自分がいる。

 

人間は想像で何かを補う生き物であり、それによって革新を成し遂げてきた。

もしかしたら「夢」に人類の進歩の可能性はあるのかもしれない。

ということで、自分は今晩もまた人類の偉大なる進歩のためにお酒を飲んで夢を見ることにする。

誰にも似てない夢の背中を追いかけて追いかけていく。

後先なんて今は知らない、退屈な時間よりもドラマティック手に入れるまで。

北朝鮮の核保有は極めて合理的な選択

6度目の核実験を断行し、もはや完全に核保有国として定着している北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)だが、彼らの対米政策は実は極めて合理的だと見ることができる。

 

「頭のおかしい独裁政権が暴走している」とみる見方は極めて短絡的で、北朝鮮はそれほど馬鹿な国ではない。北朝鮮をネタにする風潮があるが自分は「アメリカに負けなかった国」として評価している。

 

つまり北朝鮮は強固な反米路線を取りながらも結局一度もアメリカに負けたことが無い。

朝鮮戦争に置いては本土決戦を行ったがアメリカ軍を排除したし、冷戦終結後世界中の社会主義体制が崩壊していく中で生き残ることに成功した。

 

彼らのプロパガンダを擁護するわけでもなく朝鮮籍というわけでもないが「アメリカに負けない政策」を非常に独特な形で形成した。古典的な独裁国家や社会主義体制でありながら現在も存続できているというのは非常に希少なケースだ。

 

共産主義体制における世襲政治というのも非常にレアであり、「金王朝」と呼ばれるように同じ体制を探すことは不可能だという意味でガラパゴス化している。

真のガラパゴス国家はある意味北朝鮮であり、ここまで来ると逆に保護しても良いのではないかとさえ共産趣味の者としては考えている。

実は日本にとって完全に敵性国家というわけではなく、「緩衝地帯」と考えれば東アジアの平和に貢献しているともとれる。北朝鮮が東アジア諸国の注目を一身にになっているため決定的な対立には至らない。

 

歴史の見方というのは複雑で、条約を破棄し対日参戦を行ったソビエト連邦は紛れもなく未だに北方領土を不法占領している悪なのだが彼らにも実は功罪が存在する。

つまり米ソ冷戦のおかげで実は日本は再軍備を実現でき、なおかつ経済発展を果たすことができたし、本土決戦を避けて戦後復興の土壌を維持することもできた。

北方領土と樺太は生贄になったが間違いなくそれ以上のものは手に入れることができたという考え方もできる。

 

「領土を獲ったから悪い」とか「ミサイルを打つから悪い」とか、そういうヒステリックな物事の見方しかできない人が日本に増えてきているのが現状だ。

イギリスのような何枚も舌があるような国は、ある意味で捻くれた物事の見方ができる。

拉致問題はないと否定していた社会党や共産党のような左派でもなく、短絡的な見方で情緒的に北朝鮮を批判する右派でもない、そういう立場の人間があまりにも少なすぎる。

 

「アメリカに負けた国」の日本としては負けたほうが良いとも考えているし、アメリカに負けたことが無い北朝鮮の凄さも評価するべきだろう。

逆に韓国は「アメリカに助けられた国」でもあり高齢者には特に米軍に感謝する人が多いようだ。

 

朝鮮戦争において北朝鮮がアメリカを中心とした国連軍に負けなかったのは、中国からの義勇軍やソ連からの技術提供に助けられたからだ。

例えば北朝鮮が初期の侵攻において利用したT34や、ミグショックに代表されるMIG15、そして極秘裏に実戦投入されていた当時の最新鋭アサルトライフルAK47など朝鮮戦争は実は戦史的に見てみるべきものが多い。

第二次世界大戦後における新しい戦術のトレンドはこの戦争で作られており、世界初の本格的なジェット戦闘機同士による戦闘が行われた。第二次世界大戦末期にドイツ軍がジェット戦闘機の雛形を投入してはいるが、それらの発展型が朝鮮戦争では行われた。

 

日本に与えた影響としては戦争の特需景気であり、日本は実はタブーに切り込むならば「戦争のおかげで復活できた国」でもある。直接参戦していないだけで、戦後も間接的に戦争に加担してきた国であり、「戦後の日本は戦争をしていない」というのはただ単なる綺麗ごとに過ぎない。

 

似たようなケースで言えばベトナム戦争で北ベトナムが敗北しなかった理由も、立地が重要だったからでありロシアや中国と陸続きの共産主義国家は負けないという実例のモデルケースになったともいえる。

戦争というのは攻める方が難しく、なおかつ民主主義国家は戦争を継続しにくいという特性がある。

 

日本人が抱きがちな誤解として「北朝鮮はアメリカと協調して韓国の援助を受けたほうが発展できるのではないか」という物がある。

現状北朝鮮は中国と協力できており、なおかつ朝鮮労働党高官クラスは民主主義の波が押し寄せると確実に特権を失ってしまうため発展などこれ以上望んでいない。

また脱北し韓国社会に溶け込もうとした人がことごとく社会の底辺であえいでいるため、北朝鮮で一定の権力を持っている層は時代遅れであっても現状の金王朝体制を維持したいという人が圧倒的多数派だ。

 

更にこれは自分の俗説でしかないのだが、「アジア人は体制に順応的」という説を唱えている。

ハンガリー動乱やプラハの春、チャウシェスク政権の崩壊のように一定の自発的ムーブメントが東側の体制では起こり総本山のソビエト連邦も崩壊するが天安門事件はそれほどの規模にならず結局中国は現在も共産党一定独裁が続いており北朝鮮も労働党が支配している。

改革開放路線であり実質的に市場経済を導入しているベトナムも含め、共産党幹部が民衆に最終的に首を取られるという状況まで進まなかったというのはアジアの民衆が比較的、西洋人の衝動に比べて大人しいからなのではないか。

ソ連の構成国だったカザフスタンは、ソ連時代からの大統領が今も現役であり北朝鮮が崩壊しない最大の理由は実は彼らが大人しいからだともいえる。

どんな恐怖政治であっても崩壊する時は崩壊するが、北朝鮮が崩壊しない理由は実は朝鮮民族の気質にまで及ぶ問題なのではないか。

 

日本も戦争をしていなければ大日本帝国は崩壊していないわけであり、朝鮮の独立運動も実は彼らが美化するほどではなく溶け込んでいる人の方が多かった。

自力で独立したわけではなく、これは台湾人についてもあてはまる。

 

その意味で朝鮮労働党の政治システムはアジア民族だから通用するやり方でもあり、東欧や中南米、アフリカで同じことをやっていたら今ごろ既に崩壊しているだろう。

社会主義がアジアで独特な変容を遂げたと言われるが、とりわけ北朝鮮についてそれは顕著な傾向にある。

通常の論理では北朝鮮が核兵器を持つ事は整合性が少ないが、「社会主義のガラパゴス」である北朝鮮に置いては合理的な選択だと言えるだろう。

なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか

戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

 

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

 

連合赤軍オウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

 

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

 

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

 

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

 

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

 

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

 

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

 

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

 

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

 

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

 

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

 

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

 

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

 

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

 

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

 

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

 

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

 

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

 

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

 

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

 

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

 

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

 

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

 

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

 

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

 

大人しい世代癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

 

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

 

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

 

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

 

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

 

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

 

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

 

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

 

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。 

 

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

「サバゲーマー」って民度高くなったよな

無法者や荒くれ者だった人々が徐々に大人しくなっていくという事例は様々な場所で起きている。

その時代を美化するわけではないのだが、少し寂しく感じる自分もいる。

 

その意味ではまさにサバイバルゲームエアガンの愛好家は今では民度が高く、マナーが良い人が増えた。

イケメンのアイドルが「グループのメンバーとオフの時サバゲーするんですよ」と言っても何の問題も無くなり、サバゲー雑誌にすらイケメンが登場するようになった。昔のエアガン雑誌は美人が仕事でミリタリー衣装を着ていることが多かったが、今は彼女らまで本当にサバイバルゲームを愛好している。

 

非常に驚いたのが男性アイドル誌を読んでいて、イケメン俳優がサバゲーをしているというページを見つけたことである。男性アイドル誌というのは当然ながら女性の読者が多いが、そのような雑誌に軍服を着てエアガンを持っている男性俳優が登場することは昔では考えられなかった。

 

今のサバゲー界やエアガン業界を見ていて思うのだが、「良いイメージ」を打ち出そうとしているように見える。実際世間からの印象が悪く、威力規制が行われるなど負の側面があったためイメージの向上は必要不可欠だった。

 

しかし古来からのエアガンファンとしてはエアガンを無理に爽やかなものにしようとすることに違和感があるのも事実だ。

変な表現かもしれないが「危険な趣味」としてエアガンに惹かれていた自分がおり、暴走族や走り屋と呼ばれた人たちも、乗り物で暴れ回ることがクリーンになってしまえば逆に興味がなくなるのではないか。

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最近暴走族が珍走団と言い換えられ激減しているが、イニシャルDの世界のように「若者のヤバイ趣味」だった時代の雰囲気が浄化されたり逆にダサいイメージになってしまえば衰退してしまうだろう。

それはもちろん非常に良い事であり、暴走族の騒音に悩まされることも無ければ、エアガンマニアが公園の電球を割ることもなくなった。

 

エアガンを買ったときに「危ないことに使ってはいけない」という例で公園の電球を割ってはいけないと書かれているのだが、正直なところ今日日エアガンで悪さをする人はもういないだろう。

エアガンファンやサバゲーマーも極めて紳士的になっており、これはバイクに乗っている人がマナーの良いダンディなおじさんばかりになったことと似ている。

 

自分は小学生のころからエアガンファンだったのだが、「サバゲーマーって怖い先輩多いんだろうな」と漠然と感じていた。威力の高いエアガンを子供が隠れて買うという昂揚感を楽しんでいたのは事実であり、逆にいざ成人してしまえばかつてほどエアソフトガンに情熱は無くなっている。

 

「ヤバイ無法者の集まりなんだろうな」と覚悟していたら、意外とスタイリッシュな趣味になり市民権を得てしまい、かつてのような雰囲気は無くなってしまった。

 

昔サバゲーマーが「俺らは世間から見たら鉄砲のおもちゃ持って軍服来て戦争ごっこしてるヤバイ奴ら」と自称していたが、それが全然普通のことになってしまえば謎のプレミア感は無くなってしまう。

昔のコスプレイヤーというのが本当にアニメが好きな人々の集まりだったが、最近ではチヤホヤされたいだけの女が増えたことと似ておりサバゲーマーも普通の人たちの集まりになった。

もしかしたら自分の勝手な妄想だったのかもしれない、中学時代に思い描いていたサバゲーマー幻想というのは勝手に作り上げた存在しないイメージだったのだろうか。

 

おそらく今の10代のエアガンファンはルールを守ってしっかり10歳以上用エアガンを買っている人が多いはずだ。

なぜなら「俺中学生だけど18歳以上用エアガン持ってます」とSNSに書けばそれは炎上してしまうのだ。

 

逆に自分がリア厨だったころのエアガンコミュニティは誰もそんなルールを守らず当たり前のようにR18のエアガンをアピールしていた。

今それをすれば"大人達"に注意されてしまうだろう。

世の中から寛容の精神が無くなり、悪いことをしている子供たちを許せなくなっている。

 

最近の不良は窓ガラスを割らない、最近の子供たちはいたずらをしない。

それと同じでもう中学生や高校生が大人用のエアガンを隠れて買う事も無くなっている。

「俺18歳以上用エアガンなんてガンガンネット通販や地域の店で買ってたからね」という個人的な体験を語ればガチで炎上してしまうリスクさえある。

 

今の時代エアガンの規制は本当に厳しくなっており、「準空気銃」として規定されるようになっている。

非常に残念なことなのだが威力規制が厳格になり、もはや現在スナイパーライフル型のエアガンやスナイパーには浪漫以外の価値が無くなってきている。

昔のサバゲー界というのは「スナイパーだけは少し威力をオーバーしていて良い」というローカルルールがあったのだが現在はどのエアガンも1ジュールを超えてはいけないとなっている。

 

デジコンのターゲットという伝説的なガスガンがあり、これは強い物では3ジュールの威力がありベアリング弾ですら発射することができた。自分はそのデジコンに憧れを抱いており「大人になったら買う」と決めていたが、結局威力規制によってネット通販サイトからも消えてしまったため、結局一度も手にしたことが無い。

 

ヤバい物がネット通販から消え去り、最近ではメルカリへの怪しい出品も厳格に取り締まられるようになっている。

間違いなく良い事ではあるのだが「グレーゾーン」が徐々にネットから絶滅していることの寂しさも感じる。

「リアルでできないことができる」というのはもはや過去形であり、インターネット上も現実と同じようなモラルが求められるようになっている。

 

アブトマット、ムカミ・カマウ、バイオハザーダーの3人が誰だか知っている人がいたら相当なエアガンファンだろう。彼らの行方をもはや知る由は無いが一般市民として普通に生きているのではないか。

 

失われていくネットの光景、整備され浄化されていく世界、悪いことに対して寛容ではない監視社会が形成されつつある。

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エアガンファンやサバゲーマーのモラルが向上しファンが増えて偏見で見られることは無くなったが、差別されていた頃が懐かしいという謎の感情もある。

「黒人の人権が保障されるようになったら逆につまらなくなったよなぁ、エミネムみたいな白人がラップやり始めたら面白くないよなぁ」と言ってるアフリカ系アメリカ人のように「サバゲーをスポーツ扱いしてくれるようになったけど、逆にちょっと寂しいよなぁ」と考えているコアなサバゲーマーがいるのではないだろうか。

 

その辺の山に勝手に入ってBB弾飛ばしまくって荒らしていたら、今ではバイオ弾を誰もが当たり前に使い環境に配慮するようになったし、ちゃんと許可を取った場所で健全にサバイバルゲームをするようになった。

 

小学生が「銃撃戦しようぜ」といってゴーグルもつけずにサバゲーごっこをして、18歳以上用使ってる奴がチートだった時代はもう戻ってこない。

内戦地帯の子供がいつか「俺実銃で紛争に狩り出されてたんだよなぁ」と懐かしむことがあるならば「俺の地域では銃撃戦日常茶飯事だったからね」という言葉は都会の子供には通用しないのだろう。彼らはオーバーウォッチで済ましてしまい、そのゲームをしている子供ですらクラスではヤバイ奴なのだ。

 

「田舎のヤンキーは未だに窓ガラスを割っている」というノリかもしれないが、「田舎のキッズは地域のお祭りで勝った中国製エアガンで撃ち合っていた」という光景があった。

地域の祭りでエアガンを買うことが一つのイベントだったり、ネット通販で威力の高いエアガンを親にばれないように買っていた時代はもう戻ってこない。

子供にエアガン売ってくれたあの町の小さな商店は今は閉店している。

中学生にエアガンを売ってくれたお店はもはやエアガンを取り寄せず最後に売れ残ったガスブローバックガンを引き取るような形で買うしかなかった。

 

趣味として市民権を得ようと頑張っていて、いざ認められるようになると逆につまらなくなる。

普及させて普通の人たちにも触れてもらおうという努力は実はそれほ幸福な未来をもたらさない。

インターネットというツール自体がその典型例であり、誰もがネットを利用するようになればそれは現実の延長線にあるものでしかなくなる。

 

「日常」というものに浸食されない独自の空間を求めていたらいつの間にか日常の一部になり普通の人たちがいる場所になったという事例は多くの場所で見られる。その結果衰退していき結局何も残らない。

 

マニアックなものを無理に普及させれば劣化してしまうというのはこの10年のオタク文化全体の教訓なのかもしれない。

よく京都のお店で「一見さんお断り」という老舗があるが、それは実はその文化を守る意味では最善の策だったのではないか。

京都人はある意味で陰湿だからあの文化を守れているわけで、オタクも陰湿で面倒な人が多かった時代の方が今となっては良かったようにも思う。

変な例えかもしれないが「京都の一見さんお断りのお店すげぇんだろうな」という感覚にも似たものが「サバゲーマーってヤバイ奴らの集まりだったんだろうな」という感情に似ている。

それは幻想なのかもしれないが、その幻想を感じさせる何かはあった。

京都のお店は無理にチェーン店に対抗し明るい物にしようとしてこなかったからむしろその伝統が続いている。

サバゲーマーよ、そしてオタク文化よ、今我々が見習うべきは京都人なのかもしれない。

note.mu

中二病革命小説の執筆計画

自分が最近はまっている「最近のネットからヤバイ奴消えた論」を考えていくうちに一つの創作意欲がわいてきた。

ヤバイ奴がいないならば創作や妄想の中で作り出すべきではないのか、そしてその作品に影響された人が次世代の"ヤバイ奴"になってくれるかもしれないという思いもある。

自分自身が『愛と幻想のファシズム』や『コードギアス反逆のルルーシュ』に影響された立場であり、自分好みの物語を望むのならば結局は自分で作ることの方が早い。

 

『新世紀エヴァンゲリオン』は実際に愛と幻想のファシズムに影響を受けて作られており、おそらくコードギアスの監督やガンダムSEEDの監督も村上龍のその小説を一度は読んだことがある世代だろう。

 

いわゆるゆとり世代や平成生まれのオタクやマニアが触れてきた作品の遠因には愛と幻想のファシズムがある。

その「中二病の聖書」とも言える小説を現代版としてリメイクするような内容でも良いのではないかと考えている。

現段階における構想としては自分をモデルとした人物をナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスに似た役割として登場させ、愛と幻想のファシズムにおける「ゼロ」こと相田剣介のポジションとして考えている。ちょうど芸術家気質でアルコール中毒者の変態がゼロならば、私エルケンは適役だろうと痛い自己投影をしている。

 

そして愛と幻想のファシズムに登場する「フルーツ」と呼ばれるキャラクターが存在するのだが、彼女の配役はHKT48の指原莉乃だと考えている。

ナチスの重要人物として「意志の勝利」に代表されるプロパガンダ映画を制作したレニ・リーフェンシュタールという女性がいるのだが、彼女を指原莉乃に当てはめるというのも面白いと妄想している。

自分は指原莉乃ファンだと公言しており、ネタ的な意味合いでも指原を模した人物を登場させたい。

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問題は政治結社の党首として誰をゲッベルスが支えるかという事なのだが、鈴原冬二の配役に現在悩んでいる。

実はもともと自分が好きな某J事務所のメンバーを考えていたのだが、高校生クイズにおける伝説的な天才「田村正資」でも良いと考え始めている。

実際自分は田村正資が参戦した高校生クイズ大会に参加しており、それゆえにその大会で開成高校チームを率いて優勝した彼に強いカリスマ性を感じている。

アドルフ・ヒトラーの愛人として知られるエヴァ・ブラウン役に付いては、愛と幻想のファシズムで登場していないがAKB48の渡辺麻友も"俺メンバー"として登場させても面白いかもしれない。

自分が好きな人物を作中で描きたいという思いが根底にあり、この作品のテーマ自体が「ゆとり世代による革命」でもある。

ゆとりオールスターのような感覚でいろんな人物を出すことも面白く、引退後の本田圭佑が資金援助などで関わってくる展開も面白い。

 

SS親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの配役についても現段階では定まっていない。

親衛隊についてはこのオリジナル小説内では某J事務所を意識したような組織にしようと考えているため、長官が美男子だと作品としても映える。『愛と幻想のファシズム』に登場する山岸良治は私設武装組織クロマニヨンのトップであり実質的に親衛隊長官として成長していくことになるが、不良の少年でもあり某J事務所のメンバーならその姿が似合うだろう。

J事務所でデビューできず解雇されたメンバーでもよいが、トップが崩御した後、事務所の勢いがなくなり離脱者が相次いだという設定で最もセクシーなあの男を出しても良いかもしれない。

 

逆に本来ヒムラー役として考えていたのが個人的なプライベートの友人なのだが、彼とは非常に政治議論や文化考察などについて議論する仲であり元々その友人を配役として考えていた。

しかし自分は更に適役が存在することに気付いた、ヘルマン・ゲーリングだ。彼は自分と同様に軍事マニアやガンダムオタクでもあるため空軍のトップや国家元帥を務めたゲーリング役でも面白い。

 

その他のメンバーとしては必ずしもナチス・ドイツの再現というわけではなく、様々なメンバーを登場させたいと思っている。たとえば第二次世界大戦においては満州国の建国に携わった石原莞爾も個人的に好きな歴史上の人物であり登場させたい。

 

また初期の政治活動に携わるメンバーなども充実させたい。

例えば考えているのが東大理3、つまり実質的に日本の最高学府である東京大学医学部に在籍するという設定で考えている。彼が薬物の製造に携わり様々な政敵の暗殺に関与するという展開も面白い。

彼とはインターネットのアングラサイトで知り合ったという設定であり、革命に協力しようとする極左の青年でも良い。

 

愛と幻想のファシズムでは極右も極左も登場するのだが、東大安田講堂事件において三島由紀夫と論争を交わしたような当時の若者をイメージしたい。現代にそのような人物が存在するとは思わないが憧憬も込めてオリジナルキャラクターとして作り上げる計画を練っている。開成田村の友人という設定でも良いが、そもそも自分が彼らとどう出会いタッグを組むのかというストーリーについては現段階では考えていない。

まだ完全に青写真の段階であり、中二病的な妄想でしかないのだ。

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中二病やネットのアングラな部分という意味では、「初カキコども」や「邪気眼」コピペを書いたような人が今どういう生活をしているかは気になる。昔ネットにいたようなこい奴らが集まって革命を計画していくというのが大まかな流れだ。

もう現代においてアングラ掲示板で革命について議論する人々など存在しないのだが、それを再現したようなストーリーにしたい。

今の時代にいないようなコアな奴らというイメージであり、凄い才能があるが引きこもっている人間や芸能界の闇について知っている登場人物なども考えていく予定だ。

 

酒鬼薔薇聖斗という元祖中二病を尊敬する人や、秋葉原加藤を賞賛する人が多かった時代のネットの雰囲気を不謹慎ながら自分は好んでいる。

例えば現在ISISがSNS上でホームグロウンテロリズムという言葉に代表されるように若者をテロに走らせているが、そういう危険人物が大勢いる欧米のネットと、今の日本のネットのあまりにも平和すぎる姿を比較して自分は違和感を抱く。

漠然と感じる「最近のネット面白くないな」という雰囲気を投影したような内容でも面白い。

オタクですらSNSすごーい!と言って仲間意識を感じたいだけの人が増えた現代に一抹の寂寥感を覚える自分がいる。そういったワクワクしなくなったネットから新しい地下革命が始まっていく、そんな中二病的な妄想だ。

 

全体的に問題作とされるような過激なシーンを増やす予定であり、強制収容所の建設や新兵器の開発、結党からの地下活動など中二病全開で書いていきたい。

ナチスの結党が1920年だとすれば、この新しい政治結社の結党は2020年、そして2033年における政権の掌握、その後の世界大戦も含めた"壮大なスケール"で描く。

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ここでまさに生きてくるのが自分のオリジナル武器であり、憲法改正後「日本国防軍」として発足する旧自衛隊の兵器もデザインしていければ面白そうだと考えている。

ドイツ軍が4号戦車やティーガー、パンターを率いて壮大な陸戦を行ったように自分が軍事マニアになった原点に戻り痛い妄想をして戦車戦を描きたい。

 

オリジナル戦車についてはノートの落書きも含めて何度も描いたことがあり、それをデザインすることを楽しみにしてもいる。10式戦車の次の戦車という設定でも面白そうだ。

 

また近未来の兵器として「ドローン」を応用した兵器を考案したいとも考えている。ドローンの軍事利用は非常に効果的だと考えており、ドローンを巨大化させたような新型機動兵器の登場も描きたい。昔は東工大が日本最強のオタクの集まりだと言われていたが、古典的なオタクとして東工大出身者の設計士を描くことも面白そうだ。

オリジナルキャラクターに関してもデザインできる事であり、今の創作意欲は戦略機動伝ガンダムKindよりむしろこの中二病革命小説に向いている自分がいる。

 

2039年に第三次世界大戦が始まり、その後どういった展開にしていくかは漠然と思い描いているがロシア連邦への侵攻を考えている。

まるでサッカー少年が「自分はいつかワールドカップでブラジル代表と対戦する」と思い描いているように自分はロシアと戦争をすることを夢見てきた。

ゲッベルスになった自分が第二次日露戦争において戦意高揚のため総力戦演説を行うという中二病的な妄想もしたことがある。

1936年のベルリンオリンピックはドイツの国威発揚を担い、聖火ランナーが導入されるなど近代五輪における革新的な役割があった。

2036年に行われるという設定の日本ワールドカップは非常に盛大で華麗な大会になり、日本代表が優勝するという設定も面白そうだ。

本田圭佑監督率いる日本代表が躍進し一気にナショナリズムが高揚していくというストーリー展開でも良い。こういった詳細な描写が作品にリアリティをもたらすことを自分は村上龍の『愛と幻想のファシズム』で学んだ。

 

その後水素爆弾の実験を行い核保有国であることを宣言する。

全ては最終戦争に向けた準備であり、核戦争への勝利に対して何ができるかという描写もしていきたいが戦争の勝敗がどうなるかに関してはまだ構想段階であり決めていない。

 

新しい政治結社は基本的に中道右派路線のファシズム政党だが、むしろ極左の勢力を取り込んでいきたいと考えている。

自分はフィデル・カストロのリアリストな側面を高く評価しており、彼は必ずしもチェ・ゲバラが美しく掲げる理想のように左派思想に特化することは無かった。勝てる政治がどうかという視線で考えるカストロと同じように、あくまで日本では右派が勝利しやすいからというだけでしかない。

それゆえに天皇制については維持するが、自分が理想と考える戦前の天皇制ファシズムに回帰するかどうかはまだ決めていない。

ネットの安易な右派思想の媚びたような小説にもしたくないし、そういう作品を作ることが目的ではない。

最近自分は中途半端な右派も左派も嫌いになってきており、新しい政治概念が必要だとも考えている。愛と幻想のファシズムで面白いのが、極左の法律学者の青年と極右の雑誌編集者が共存しているところであり「ディープな奴らが集まってる感」に自分は惹かれている。

 

現代においてもシールズのようなお祭り騒ぎで平和という言葉に酔っているだけの連中は面白くないし、大艦巨砲主義に常駐しているようなネット右翼も浅い人間が多い。

自分はとにかくそういう浅い奴らに対して憎悪の感情を抱いている。

逆にマルクスの『共産党宣言』や『資本論』、レーニンの『国家と革命』や『毛沢東語録』を読み漁っているような左翼や、三島由紀夫や谷崎潤一郎、川端康成の著作を読み込んでいる浪漫派右翼にも共感する。

 

単純にストーリーを表現するならばヤバイ奴らが集まってヤバイ政治や戦争を行うという話なのだが、あまりにも話が大きすぎるため断片的に様々なシーンを少しずつ日々の生活の中で妄想しながら構想していきたい。

創作論として時折その話をここに記すことも良いかもしれない。

ちなみに公表の仕方については同様にこのブログ、そしてピクシブに投稿することを計画している。

 

なぜ中二病は革命を起こしたがるのか

中二病の妄想でしかないのだが自分はそろそろ日本に革命が必要な時期だと考えている。

現代の日本は完全に衰退時期に入っており、現体制を維持すれば困難な状況の直面するだろう。

現体制とは何かと言われれば、政治システム、憲法、社会制度、文化的な風潮、その全てを意味し根底から改革しなければならないと自分は見ている。

 

日本という国はより大きな枠組みを変えなければならず、根源的な改革を必要としている。

例えば自分が最も敵視しているのは「超少子高齢化社会」であり、この構造を変えなければならない。カナダの人口に匹敵する3500万もの高齢者層が存在しており、もはやこの国内に一国に相当する高齢者が存在する。

 

この構造を放置してしまえば日本がこれからも若者に不利になる状態が続き、新しいエネルギーは何も沸いてこないだろう。

高齢者ばかりが住み、何も生み出さない社会になった日本に価値はあるのだろうか。

 

日本はもはやシルバーデモクラシーの状態に達しており、「選挙に行かない若者」と揶揄されるがどれだけ頑張っても政治的に報われないという諦めにも似た感情が多くの人を支配している。

 

自分自身過去記事において「日本から脱出しなければならなくなるまでの猶予期間は20年」だと書いたが、この20年で大きな政変や社会システムの改革を実現しなければならない。

elkind.hatenablog.com

今から20年後と言えば2030年代だが、ナチス・ドイツが政権を獲得した年が1933年であり100年前の出来事だと言える。。アドルフ・ヒトラーが全権委任法を成立させ文字通り独裁者になった年だ。

2033年の政権奪取を目標とするならば残された時間は非常に少ない。

国家社会主義ドイツ労働者党の設立は1920年であり、そう考えると2020年には既に前身となる革命組織や政党を作り上げていなければならない。

 

しかしナチス・ドイツのやり方は現代では再現することが難しい。

実はナチスは極めて民主的な方法で政権を獲得しており、「若者に有利な社会を作る」という大義名分だけでは実行できない。民主主義では単純に高齢者やその予備軍に数の暴利で滅ぼされるだけだろう。

 

そうなれば極めて強硬な手段に出なければならないが、今の時代に暴力革命を起こせる確率は低く、そのように獲得した政権が維持できるとも思わない。

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「革命をどう起こすか」ということについてまだ青写真の段階だが、2033年に間に合わせるには既に何かが始まっていなければならない。

戦争や紛争のどさくさに紛れて政権を奪取するという方法も現在の状況を鑑みたとき困難だろう。

絶対的に体制を変革せしめなければならない理由が少なく、むしろ現状維持を得策だと考える層の方が多い。

ナチス・ドイツの誕生背景は第一次世界大戦による敗戦、そしてワイマール体制の行き詰まりが理由だったが今の日本に誰もが抱える共通した不安や不満は存在しない。

人口構造の変革を目標とするだけでは、その変化を望まない層の方が多い。

 

これも中二病的な妄想でしかないが自分自身がアドルフ・ヒトラーやフィデル・カストロになる事よりも、例えばヨーゼフ・ゲッベルスやチェ・ゲバラのような役割でありたいとも考えている。

例えばカリスマ性のある演説を行う"総統候補"を擁立し、自分がその演説の下書きを書くことも面白いだろう。自分が直接大衆の前で演説するリーダーになることは難しいが、実は隠れた役割を果たしているというイメージを思い描いている。

 

強制収容所を作るかどうかに関しては、それ以前に人権意識の変化が必要だろう。今の時代は「人権」という鎖によりあらゆることががんじがらめにされている。しかし人権という概念自体常に時代によって変容してきた。

概念は形として存在するわけではなく、あるようで無い物だともいえる。それゆえにこの変化こそ最も自由な物であり、それによって新しい改革を実現できる。逆に言えば改革の実現には概念の変化が先立たなければならない。

その概念の変革がもし革命だとすればそれは可能だ。

 

問題は国際社会からの非難にどう耐えられるかだろう。

むしろ先進国が強制的な人口構造を変革しなければならない状態に来ていること多くの西洋諸国とも共通しており、長期的な社会システムを維持するにはやはり人口の"伐採"は不可欠だろう。

例えば安楽死制度を導入するだけでも十分な効果がある。

必ずしも高齢者を全員排除しなければならないわけではなく、生きていくことが困難な人が安楽死を選べるようにするということが理想に近い。

技術革新によって例えばシンプルな物で言えば「若返り」を実現したり再生医療によって介護が必要ない状況にまで回復させたりすることができるようになるだけでも大きな進歩が見込める。

 

社会保障予算の改革も必要であり、年金の一部を「若者手当」として若年層に普及させることも必要だろう。

若者が夢を持てず、行動をするための時間や資金が存在しないことが自分は停滞の根源だとも考えている。

 

革命家が社会を変革しなければならない思う背景には理由が存在する。

例えば古典的な例で言えば帝国主義者に弾圧されている民衆を見て立ち上がろうと決意する光景だ。資本家に搾取される民衆を解放させるために彼らは闘争を実行するようになる。

 

自分が社会を変えなければならないと思い始めた介護現場で働く身内の姿を見たからだ。更に「老老介護」とも言われているように、高齢化した子供が自分の親を介護するという構造も歪に思えてならない。

結婚もできず夢も叶えられずただ親の介護の為だけに生きているような人が存在することも事実だ。

そういう姿を見ているともう日本が何かを生み出す活力が無い事は必然であるように思わずにはいられない。

更に厚労省が年金を支払うべきだと主張する"プロパガンダ"に満ちたポスターで「自分たちが子供のころは恵まれていなかったのだから不公平ではない」という台詞を語る高齢者を描いており、「年金は投資ではない」というような説得も使われる。

そこまで嘘をつくのであれば年金という名前ではなく、「若者が高齢者を支えるための税金」として強制的に取り立てたほうがよほど潔いだろう。

 

そういう日本の姿を見ているとやはり海外に"脱出"しなければならないという思いにも駆られる。

自分自身決して日本が嫌いだから日本を捨てようと考えているわけではない。

あくまでこの20年で大変革が実現できなかった場合に見切りをつけようとしているだけであり、社会制度が変われば生涯暮らしていく価値がある国だ。

 

そしてこういったことを考えている人が現状少なすぎること自体が最大の問題だろう。

日本人は比較的社会に対して不満が少ない国民であり、仮に不満を抱いていてもデモをするより我慢を選ぶことが多い。

不満を発露することよりも耐え忍ぶことが美徳とされる農耕社会の伝統がある。

「今の社会が面白くないのは仕方がない」という諦めにも似た感情があるのだろう。

「どうせ変わらない」というフレーズは良く聞かれる言葉であり誰もが停滞を容認している。

 

おそらくこういう社会への不満や変革への強い意識を語っていた若者が多かったのが学園闘争を行っていた1960年代から1970年代にかけての時代だろう。

自分はゆとり世代としてある意味その時代の情熱が羨ましい。

なぜ自分が生きている現代はこれほど強い刺激が無い時代なのかとも考えている。

「革命を起こしたい」という考え方が中二病的な物だとすれば、そこにワクワクしている自分がいることも事実だ。

『愛と幻想のファシズム』という小説や、『コードギアス反逆のルルーシュ』というアニメを見て影響される中二病でしかないのだが、そういう刺激を求めていた人が多かったのが戦後昭和なのだろうとも思う。

 

もっと遡れば2.26事件で決起した将校や、右派による革命ならば三島由紀夫がクーデーターを実行しようとし自衛隊基地で演説を行ったときに付き添った青年たちのような情熱がなぜないのだろうかとも思わされる。

 

よくゆとり世代は大人しいと言われ、何かに逆らって行こうという意欲が少ない世代でもある。

「反抗」や「反逆」に対して惹かれるエネルギーすらもはやない若者が増えているのだろうか。エネルギーが無いと言うよりもはや抵抗が魅力に感じない世代なのかもしれない。

 

革命の起こし方を議論しているゆとり世代などもう存在しないのだろうか。

トロツキーが世界革命を主張し、スターリンが一国社会主義革命を選択した時代の情熱は当然存在しなければ、日本の大学生が互いにトロツキストなのかスターリニストなのか議論していた光景ももはや絶滅している。

「社会主義研究会」のようなサークルが存在してそこで政治議論が行われているような景色すらもはや存在しないのだろう。

既に「左翼は新しいことをし始める革新」だという認識すら古く、左翼がかっこいい物だと思っている世代すら既に高齢化しているだろう。

「左翼は新しい」という考え方が古く、その一方で右翼も稚拙になってきている。

友達同士でお酒を飲みながら政治議論をするわけでもなく、真面目に情熱的に議論すること自体が若者の間で避けられるようになってきてもいる。衝突を避ける若者が増えており、そもそもディベートやディスカッションのような習慣も無い。

 

サッカー日本代表の本田圭佑がバラエティ番組に出演しない理由を知っているだろうか。

彼は「自分は本気で話したいがバラエティ番組ではどういうトーンで話せばいいのかわからない」と主張している。

本気で語る人に対して傍観者が増えて冷めた目で見るようになったことは間違いなく、真面目な人間どころか情熱的な人間すらダサいという扱いになっている。

 

熱い人間やマジに語る人間というのが「絡みにくい人」になっているのが現代で、衝突を避けるタイプの人が増えたのだろう。

そんな社会世相を見ていると「今日日革命って起こるもんじゃないよな」とも思う自分がいる。昔のアングラ掲示板で社会変革やその手法について議論していたような人は消えて、SNSでイイネ!を押しあうだけの表面的な関係が増えたのかもしれない。

 

ゆとり世代がなぜ反抗しないのかとか、今の日本人が社会に不満を持たず行動しないとか、熱くなることがダサいとか、そういうのはおそらく「支配者」や「既得利権層」にとって凄く統治しやすく楽な事だと言える。

不良や問題児がいないクラスは教師にとっては凄く快適で秩序を維持しやすく問題が起きるリスクは少ない。

 

「最近の不良はなぜ窓ガラスを割らないのか」、そして「最近のオタクはなぜ国会議事堂を攻撃する計画を立てないのか」という議論に行き着くことであり、不良もオタクも別のベクトルで大人しくなっている。

元気な若者が減った論でいえば、退学処分されるような悪さをする不良も滅多におらず爆発物を作るようなオタクもいなくなった。

 

抽象的なことかもしれないが様々なジャンルで個性のある人は減ってきている。

ガチでヤバイ不良も減ったしガチでコアなオタクも減ったし、芸能人も昔のようなスターが減った。

よく「今のアイドルは普通の子ばかり」が言われるが、普通の人間が増えている現象があらゆるところで起きているというのが現代かもしれない。誰もが理想に興味が無くなり親近感があるようなアイドル持てはやされ、次世代の社会にする希求も存在しない。

 

不良すら存在せずちょっと悪いだけのDQNが大半で、暴走族も絶滅して暴力団ですら社会の常識に適応して、オタクや腐女子も普通の人が増えた。

SNSで炎上するような人も減り、ヤバいサイトを運営するような管理人も減った。

 

そんな状況から社会の概念を覆すような新しいコンテンツが生まれてくることも無ければ、革命者や革新者も現れないのは必然と言えるだろう。

 

なぜ「バカッター」が最近少なくなったかというと、これもやはり世の中に秩序が形成されたからだ。

バカッターが減ったことは間違いなく良い事なのだが、いざ減ってみると面白くないと思う自分もいる。

 

社会でヤバイことをやろうとしていた人間が徐々に減っていったように、ネットでヤバイことをやろうとする人間も減っていった。

精神的なエネルギーや衝動が減衰し、皆大人しくなっていくという現象はあらゆるコミュニティや社会において共通することなのかもしれない。

「なぜ最近の世の中もインターネットもつまらないのか」というと、結局皆大人しくなり嫌われないために無難なことをするようになったからなのだろう。

 

今のツイッターユーザーは悪いことをして目立とうという人よりも、誰かのタイムラインを汚さずフォローを解除されないようにすることを心がけるようになった。

常識のない人間が多かったはずのツイッターですら今では秩序を形成し、社会不適合者の多かった「2ちゃんねる」ですら普通の人が増えた。

 

個性を大事にしようとしていた時代の方が個性が無くなり、個性を弾圧していた時代の方が個性の強い人間がいた。

「先公」が竹刀を持って体罰をしていた時代の方が不良も逆らいたかったわけで、逆に学校全体が大人しくなればいつの間にか皆静かになっていく。

殺伐としていた2ちゃんねるも、普通の人が利用して常識人ばかりになると急に荒らしたり罵詈雑言を書き込んだりしたりする人も減った。

今の時代早口で何かを語りいつか何かやばいことをやり始めそうなオタクも減っている。

「秋葉原に行けばヤバいオタクがいるんだろうな」と憧れていたら、「どうせアキバにいってもただの観光地化してるだろ」と思うようになった自分がいる。

 

オウム真理教があった時代に「マホーポーシャ」 と呼ばれるPCショップがあり、信者が格安の労働力でパソコンを作っていたという伝説があるのだが、そういったアングラも今の時代見つけようとすると難しくなっている。

 

オタクに憧れた世代がオタクになると全体的に浅くなるのは、AKB48に憧れた世代がAKBになり始めると個性のあるメンバーが少なくなることと似ているだろう。

結局のところ「憧れて始めたような人間」というのは全てにおいて本家より劣化しているとも言える。

大学の学生運動に子供の頃に憧れてた世代も自分が大学生になっていた時は既にそういう革命ムードではなくなっており、AKBに小学生の頃憧れてAKBに入った子も今は神7もいなくなり世間のブームも終わっており、電車男のオタクに憧れていたら今の2ちゃんねるは雰囲気が変わりオタク文化も薄くなっている。

 

「黎明期」への憧憬は何事においても存在することであり、やはり何もないところから最初に始めた人々、そしてその存在にいち早く気づき始めた人というのは凄いのだろう。

「オンライン対戦やってるガチFPSゲーマーすげぇ」と思ってたら今の時代既にFPS自体が昔に比べて人気が無くなりつつある。マウスでFPSやることが最先端だと思っていたら、パッドでFPSやる層が主流になり最近ではスマホFPSにまで移りつつある。

それで似たような話で言えば「サバイバルゲーム」もにわか化が進んだコンテンツの一つだろう。

「サバゲーやってる奴らってマジでヤバい奴だろ、かっけぇ~俺もいつかサバゲーマーになるぞ~!」と思っていたら、自分がエアガンに憧れていた頃の雰囲気はもうなくなっている。

 

「軍事オタク」も萌えとミリタリーを組み合わせたようなジャンルから急増したファンが多くもう昔のような"精鋭感"はない。

そしてその"濃い"時代のサバゲーマーですら実は玩具のエアガンで満足しており、カラシニコフ銃を自作しサリンを巻こうとしていたオウム真理教に比べればカジュアルな存在なのだ。

 

それでいえばまさしくアドルフ・ヒトラーやナチスが好きな人も「にわか化」をしているだろう。

少し前の時代にヒトラーやナチスを賞賛していれば本当に危険思想を持った人物の様に見られていたが、「ナチスかっこいい」と言う事があまりにも普及しすぎたせいで逆にプレミア感が無くなったと考えている自分は変人なのだろうか。

自分が実際に中二病時代にヒトラーやスターリンを持てはやしていた時に比べて、ナチス再評価のムードは極めて浅い印象を受ける。

「10年前の軍事サイトやミリタリーマニアはもっとヤバかった」というのも思い出補正なのだろうか。

 

すげぇ奴らがいるんだろうなと期待していざ自分がその世代になったときに期待外れだったというケースは様々なジャンルで起きているのかもしれない。

「不良マンガ見て地元の不良高校に入って、ガチでヤバイことしようと思ったら案外皆普通だった」、「学生運動に憧れて受験勉強を頑張って入った大学では誰も革命を考えていなかった」という感覚のように、漠然とオタクやネットユーザー、軍事マニア、革命家に憧れていた自分は面白くない現実に直面している。

 

「もっとネットの奴らってヤバかった気がするんだよなぁ」という変な感情が自分を支配している。

こういう革命理論を語ったところで、ガチでこの話に共感して革命を持ちかけてくる人もいないわけで「2033年に政権獲れるわけねぇだろ」という見方をする人の方が大半だとも思う。

もうそういう熱いムーブメントが起きていくような空間ではなくなり、まさにネットはオワコン化しているのだろう。

革命やテロリズムについてアンダーグランドな掲示板で議論していると期待していたら誰もが「いいね!」の数を気にしているだけの一般市民でしかなくて、コアな話をしていると思ったら、なんJで定型文で馴れ合いをしている人ばかりだった。

「熱い奴」や「コアな奴」がインターネット上からすら姿を消しつつある。

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今のDQNは案外、人を殴ったことも無い人が多くて漠然と持っている反抗意識もかつての不良に比べれば小さい。釘バットを自作したり窓ガラスを割って、無免許でバイクを運転する不良はもはや絶滅危惧種であり、「校則」の範囲内で少しだけ悪いことをしている。

それと同じで、革命や独裁政権に憧れる人間も本気で最終戦争を行う気概も無く、強制収容所を作り戦犯として裁かれる覚悟も無い。

第三次世界大戦を起こして最終的に敗戦し、絞首刑になるか青酸カリを飲んだ後ワルサーP38やPPKで自害するかなんて覚悟をしている人間はいない。

東京で国会議事堂を燃やした後、北京かワシントンかモスクワのどれを攻撃対象にするか議論し合う仲間もいない。

アメリカ本土上陸を行う作戦について本気で計画する人間もいなければ、南京入城の再現を行おうと考えている人間もいない。

占領したパリでエッフェル塔を背景に写真を撮る妄想をする人もいないだろう。

 

もしかしたらそういう人は存在するのかもしれない。

しかしそういう妄想を安易に口にできないというのが現在のネット社会になっている。今のネットというのは誰か、いや「世間」が見ているという意識があまりにも強すぎる。

 

バカッターも2chの殺害予告も明らかに少なくなった、誰もがネットでも悪いことをしてはいけないという事に気付いた。不良が教師を殴って退学になる馬鹿をやらかさなくなったように、ネット掲示板ですら誰もが見ていることに気付き自由に書き込めなくなった。2chはまとめサイトにすぐにまとめられ、ツイッターですら取り上げられる時代になれば自由に意見を言えなくなる。

 

個人の独特な考え方が徐々に許されなくなり、そのコミュニティで反応が良いかどうかが優先されるようになった。自分のように個人ブログでガチで語るような人間は減り、ツイッターでリツイートされるかどうかが大事なった。

「ロックなアーティストが減った」と嘆くロックミュージシャンのように、自分は最近のネットから面白い反逆者が減ったと嘆いている。素行の悪い不良が殴りあうよりも平和な学校のクラスで楽しく過ごすことが重要視されるようになったように、今のネットはいいね!でお互いを承認することが大事になった。

 

「ワイン飲んだ後、総統地下壕で爆撃音聞いて青酸カリ飲みながら拳銃自殺する人生が理想だよなぁ」という意見に対して「悪いが俺はスターリンや毛沢東のように勝たせてもらう」と語り返してくる人もいない。

「じゃあおまえに日本初の水爆実験やらせるよ、政治犯を北海道で強制労働させるか」と語ることもない。

 

何だろう、俺の人生って大量虐殺した奴らの死体を処分する強制収容所を作ることも無く、開発された新兵器に名前を付けることも無く、核実験を断行することも無い上に、最後拳銃自殺で終わることも無く歴史の教科書に載らず虚しく死んでいくんだろうなぁ。