負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

体育祭や運動会は本当に必要なイベントなのか?

秋の季節と言えばスポーツの秋と言われるように、学校では運動会シーズンとなる。

自分はそういった運動会や体育祭が本当に嫌いで、夏休みが終わるとキツい練習が始まることに嫌気がさしていた。

 

「体育祭で活躍する運動できる男子」へのやっかみや嫉妬などではなく、単純に練習量が多すぎる事や集団行動への過度な美化に対する不満の方が大きい。

 

体育祭が完全に無駄なことだとは思わないし、なんだかんだで懐かしい部分もあるのだが「そこまで本気でやる事なのか」という疑問はある。運動が好きな生徒が必ずしも体育祭を楽しみにしているというわけでもなく、辞退してよいと言われれば運動部からも辞退者が続出するだろう。

 

結局のところ体育教師が指導欲を満足させるためのイベントでしかなく、行進の精度を過度に高める事や組体操を高度にやる事の意味が自分は感じられない。

日本社会特有の「効率の悪さ」が凝縮されたようなイベントであり、もっともらしい理由をつけて前時代的なことを未だにやっているのだから日本が時代遅れの国になっていくことにも頷ける。

時代遅れなことを聞こえの良い理由でいつまでも続けているのが日本社会であり、体育祭や集団行動を過度に美化することは「いつまで昭和や20世紀をやっているんだ」と批判されても仕方がない。

北欧の教育などではこのような過度な順位づけで生徒の自信を削ぐことはタブー視されているのだが、日本の教育は未だに20世紀の考え方で停滞している。

 

こういうイベントが楽しみな部分もあり、日本以外の国でも似たような行事やその国特有の文化は存在するのだが練習量を増やしてまで完成度を高める必要はないはずだ。

 

ホリエモンが「学校の掃除って掃除機でやればいいだろ、大体欧米では生徒に掃除をやらせない」と言っていたが、こういう非効率性を指摘する人間が叩かれがちな風潮はあるように思う。

 

「それっていらなくないですか?」という人に対して、効率だけが全ては無いという曖昧な理由で反論し、無駄な規制ばかり残すのが日本という国だ。

また「それを批判している人間はこういうタイプの人間だ」というレッテル張りも行われるため、誰もが批判されることを恐れ結局は意見を自分の中で封じ込めて同調圧力に従ってしまう。

 

体育祭に関して自分は完全に廃止するべきとまでは言わないが、異常な練習量を費やして毎年やるものでもないのではないか、他にやることがあるのではないかという思いが強い。

更に言えば露骨に女子と男子で練習内容に差があり過ぎることも理不尽だと言える。

この頃からすでに男女差別が始まり、女は楽してよいものだという価値観が刷り込まれ始めている。

最近どこかの修学旅行で同じ料金にもかかわらず女子だけ個室で、男子だけ団体室だったことが問題になったが「日本男児たるもの理不尽に黙って耐えるものだ」という価値観がいまだに根強い。

それを言えば女子生徒側にも理不尽なことはあるのだろうが、とにかく体育祭に関しては不平等な印象が否めない。

男女の体力差以上に練習のハードさに差がある、これを慣習や伝統だからという理由でなぜ放置しているのか。

 

今では騎馬戦は廃止されているが現在でも怪我のリスクの大きい組体操の練習は続けられている。

「危ないから」という理由で何もかも廃止すれば、遊具の無くなった公園のようになってしまいかねないが組体操に関しては考え直すべきなのではないだろうか。

 

今思えば体育祭の暑い中での練習も「早く終わればいいのに」と思っていたが、懐かしさも確かにある。そして結局本番当日は謎の達成感もあった。

しかしやはりそれは美化された思い出補正であり、今も現場で続けることではない。

「苦労したけど懐かしい」という慣習を後世の世代に押し付けるのはやはり上の世代が気を付けなければならない事でもある。

「運動会無くなると少しさびしい」「自分の子供の運動会に参加したい」「最近の体育祭はやることがぬるい」という意見もあるが、変えていく勇気や変化への寛容性は必要だろう。

 

学校の授業全体に言えることだが、ゆとり世代もだいぶ変わったと言われてきたが、今の世代もかなり変わっている。そしてその前の世代も、更に以前の世代に比べればやはり変わっている。

「最近の子供の給食は豪華でうらやましい」というが、それを言えば自分たちも絶対に上の世代からは羨ましがられていた。

そう考えた場合、最近の子供たちの運動会で練習量が減り、練習メニューが軽くなってもそれを「これだから根性が身につかないんだ」という大人になってはいけないように思う。

休むことは悪い、苦労すればいい大人になれる、そういう価値観が強すぎる。

「掃除機で掃除やれば早いだろ」と思っていたホリエモンが社会的には成功し、丁寧に掃除をすれば心も磨かれると教えていた教師は無名で終わっている。

 

批判ばかりで代案を出さないのもアンフェアなので、仮に自分が体育祭の代わりのイベントを考えるのであればディスカッションやディベートの授業や大会を増やしても良いのではないかと思っている。それも日本語だけでなく英語での部門も増やしてみてはどうだろうか。

日本人はあまりにも議論が下手過ぎる現状を見て、その教育はまだ足りないと言わざるを得ない。自分の頃もディベートの授業自体はあったがお粗末であり、現に議論ができない大人が多すぎる。

インテリ層が集まる政治議論ですら稚拙なレッテル張りに終始している現状を見たとき、それは日本の教育が悪いという事に行き着く。

 

何も堅苦しい感じではなく、日常で使えるような面白い内容にしても良いのではないだろうか。

この前テレビで「野球かサッカーか」という番組があったが、自分はそういう内容でも良いと思っている。休み時間に自分たちの趣味でどちらが良いかという内容の事を、授業ではもっと本格的にやる、そういった日常会話の延長を極める形でも良い。

 

個人の自由が保障され、国際的にもそういう時代になっていく今時、組体操や行進でしっかり揃っているかという事に注力している日本の教育をの効率の悪さを見ると本当に未開な時代遅れの国にしか見えてこない。

そしてそれを懐かしいと言うだけで美化する大人がいることも問題だ。

ポストモダンの時代において未だに近代型の個人を育てようとしているのが日本だと言える。

 

そんなことよりもっと自分の頭で考える事や、意見を持って主張すること、ディスカッションやデイベートができる成熟した大人になる事、自分はそちらの方がよほど大事なことであるように思うのだが、どうやらこの国はそうではないらしい。