負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

朗報:ワイニート、ついに働き始める

しばらくの間、実質ニートブログとして記述してきたがこれからは社畜ブログになりそうである。社畜というよりは身内の仕事に加勢しているというイメージに近いのだが、いずれにせよ労働という神聖な行為を行い、「日本仕事帝国」の"臣民"として貢献できそうである。

 

これまで自分はこの仕事至上主義の日本社会において、ニートという非国民の反逆者であり続けた。去年の11月にアルバイトを解雇されて以来役8か月にわたる"抗戦"をし続けてきたがついにこの社会の圧力に降伏し労働者としてその軍門に下ることを決めた。

半年以上無職という名の英雄として粘り続けていたが、この社会の荒波に自分は対抗し続けることができなかった。

一つ目は貯金という補給がいよいよ尽きようとしていたこと、そして二つ目は身内という世論によりこの戦いの継続が困難だと判断せざるを得なくなったことがこの終戦の原因である。

 

この8か月にわたるニートとしての偉大な抗戦は、社会という圧力により駆逐させられることになったのだ。

時として自分はニートであることを誇りにすらしていた、仕事を神格化する日本という国において無職であり続けそれを公言するという事は人格を否定されるリスクを伴っていた。この国において仕事とは人間の価値そのものなのである、それゆえに仕事をしていないという事は存在価値が無いに等しい物として扱われ人格のすべてを否定される。

 

そんな自分の現状を見ていよいよ身内もしびれを切らし、いわば強制徴用のような形で

仕事戦線に狩り出されることになったのだ。

 

しかし自分にとってこれは同時に天佑でもあった。

生活に行き詰まり現金を必要としていた自分にとって日払いで給与が得られるというのは魅力だった。次の振込が待てない程に追い詰められたことが何度もあるため、とにかく日払いで手に入るという事は自分にとってありがたい条件でもある。

 

また身内との仕事という事もあり、それ以外の人間関係は必要なく基本的には自分のペースで労働に勤しむことができる。

自分は人見知りというわけではないのだが、日本人というのは仕事になると人格が変貌するため労働環境における人付き合いは苦手としていた。

 

例えば欧米における安い仕事というのはいわゆる移民がやる気など見せずに、仕方なくこういった底辺の労働を行っているという雰囲気が漂っている。それに対してその国の人々も「安い仕事をしているのだから仕方ない」と気にも留めないが日本という国は薄給の職業に対してもプロとしての精神を求めるのである。

「仕事は尊い」という絶対的な信条があり、どれだけ安い仕事であってもプロとしての態度や姿勢を過剰に求める。

やる気を見せて全力で丁寧な仕事をして欲しければそれだけ給料を上げるべきなのだが、最低時給ギリギリの仕事に対しても「仕事をさせてもらっている」という下等な立場を末端の労働者にも求めるのがこの国なのだ。

またその職業の経験者は、自分より遅く始めた者に対して無条件に上位の立場となり自分もされたのだからという理由で悪しき伝統を受け継ぐ傾向にある。

自分が下の立場の時嫌な思いをしたのだから、自分が上になったときその時の憂さを晴らすために偉そうにするというのが日本人のやり方だ。

 

とにかく日本人というのは異様に「仕事」を神格化しており、人格さえも変貌してしまう。

そんな忌まわしき労働文化がはびこっているこの国において、一度レールから外れた自分が迷い込むことはまさに子羊がサバンナに放り出されるようなものであった。

たかが仕事でしかないのになぜかこの国の人たちはそれで人格を判断し偉そうにする、その文化に自分は適応することができなかったため長らくニートであり続けた。もう仕事という行為そのものが嫌だったのだ。

 

また自分は自由時間がないことを極端に嫌う。

とにかく「明日何かをしなければならない」ということが不安で仕方ない。中高帰宅部だったこともあり、とにかく自由時間がないということに慣れない。

また大学時代はほとんど出席せず、それゆえに中退することになるのだが一度自由を味わった人間というのは中々制約に戻ることができないのだ。

もともと学校自体も嫌いだった、それは人間関係が上手く行かないからという理由ではなく単に誰かから強制的に制約を強いられることが耐えられなかったのだ。

 

日本の学校制度というのはいわば規則的な生活リズムや誰かから何かをさせられることに慣れるための準備期間という側面が強い。

近代国家の優秀な歯車の一つとなるために明治時代に導入された学制の伝統が今も受け継がれ、制約の中に人間を押し込めることが日本では美徳とされている。

 

そういった規則や規制、制限を忌み嫌う自分にとってまさに労働という環境は耐えられない物でしかない。しかし今回かろうじて身内しかいないという環境によって、くだらない「社会人としての常識」とやらを逐一指摘されることが無いというのは気楽でもある。日本の職場におけるこういった指摘はただ単に下の者に対してマウントを取るための憂さ晴らしや粗探しでしかなく、本当は本人のことなどどうでもいいと思っているのだ。

上の人間に対して理不尽に偉そうにされることも、下の人間に対して権威を振りかざすことも、どちらも自分には合わないのだ。

縦社会という物は自分が憎悪する対象の一つであり、日本人が大好きな「上下関係」は、自分にとって大嫌いなものでしかない。

 

こんなことを考える自分はおそらく社会不適合者なのだろう。

日本社会というのは何も考えない人間の方が生きやすいのだ。

人生の意味、生きる目的、生きがいとは何か、そんなことは考えない方がいい。ただ黙って言われたことをやっていればいい。

中途半端に頭がいい人間よりも、勉強はできないが体を動かしガツガツ働くことのできるタイプの方が結局は出世するのだ。

小中学時代の同級生の話を聞いても、自分より明らかに勉強ができないと思っていたタイプが案外手に職をつけて今勝ち組ルートを歩んでおり、中途半端に何かを考えるタイプだった自分はこのように悲惨な負け組に落ちぶれている。

 

自分の人生が何かと考えることは無意味で、ただ先祖代々受け継がれてきたことを何も思わずやる人生の方が日本人は向いているのだ。

「好きな生き方をすればいい」という風潮になったことでむしろ不幸な人が増えたのだ。人生は自由だからというが実際に自己実現できて快適に生きられる人は少ない。

そういう時自分の人生が思い通りにならないと苛まれるのだ。

 

しかし人生を思い通りにするという概念すらなく、村社会の一員として決められたことを全うするだけの人生が普通の生き方だった時代はそんなことを思う余裕すらなかった。

そしてそれが本当は幸せだったのではないか。

下手に人生は好きに生きていいと言われるから、実はそれが綺麗事でしかなく弱者を騙すための嘘でしかないと知ったときに人は不幸を感じるのだ。

 

実際世の中を見ても好きに生きようとした人よりも、親の跡継ぎや身内の伝手で決められた人生を生きている人のほうが幸せになりよい収入を得ていることの方が多いではないか。

好きに生きて自己実現できて人生が楽しいと感じられる人は一部の才能の持ち主や努力家に限られる。

そしてそれが実現できなかったとき他の人は羨ましい人生を生きているのに自分の人生はなぜ惨めなのかと思い悩む。

広大な可能性があるという嘘に踊らされる人生よりも、決められた範囲内で懸命に生きようとする人生の方が実は幸せなのかもしれない。

 

自分がここ数日始めさせられた仕事というのは肉体労働である。

いわゆる3Kの仕事、つまりキツい、汚い、危険という仕事をしている。

その上、薄給なのだが交通網も整備されておらずまともな仕事も残されていない辺境なので選択肢が少ないのも現実だ。

この猛暑の中で外仕事をしており、自分がなりたくなかった「汗水たらして働く大人」になってしまった。ダサいと思っていた姿になっているのだ。

ほんの少し前までクーラーも効いていない部屋で冷えていない酒しか飲めないことにい苛立っていたが、今では外仕事を黙々とこなしお酒も飲まずに過ごすというストイックな生活を送っている。

 

またこの仕事が決して楽しくないわけではない。

完全に単調で疲れるだけの労働というわけではなく、やりがいや達成感が皆無ではない。体を動かすことに充実感を感じないことも無く、頑張って働いた時には喜びを感じる時もある。何もしていなかった時期が長かったため、仕事を終えた後にその1日でお金を生み出せたことに安心感を覚える。今までは減り続ける貯金と先行きの見えない人生に苛まれていたからだ。

 

数年前、派遣バイトをしていた時に高校を中退し日銭を稼ぎに来ていた少年と話したことがある。その時に彼が言ったのは「何もしなかった日の夕方は、今日働いていればお金になったのにと後悔することがある」という事だった。

その少年の言葉を励みにするわけではないが、確かにその日を終えるときに、最低限お金になったという事は充足感をもたらしてくれるし、何もせずに終えた日は不安に襲われる。

 

結局底辺の人間にとって働くことは苦痛だが不安から逃れられる手段であり、働かないことは楽だが将来の不安に苛まれるという二択でしかない。

ニート生活の時期は明日何もしなくていいという代わりに、いつその明日がなくなるやもしれないという恐怖があった。

一方今は働いていることで最低限何かをしているという実感はあり、また得られる給与を貯金することで再びニート生活を再開する資金にすることもできる。

今は「つまらない仕事だが、人生に負けたのだから仕方ない」と言い聞かせてもいる。無理に楽しもうとするよりは、つまらないことを仕方なくお金のためにしていると言い聞かせたほうが気楽なのだ。

仕事に意味は必要ない、ただお金のために嫌なことをするしかないのも現実だ。

 

そんな人生のやるせなさを感じる時自分が参考にしている物がある。

それは漫画カイジで描かれているシーンであり、借金を背負った主人公がコンビニで「途中、途中」と言い聞かせながらアルバイトに勤しむシーン、そしてギャンブルに負けて地下に落とされた伊藤カイジが仲間らと共に3か月間地獄の労働を行うという話だ。

とりあえず自分は今の仕事を3か月とまではいかなくても1か月続けていようと思っている。お金が少し溜まったからいきなり辞めるというのも格好がつかないため、その後何らかの出稼ぎ労働に出かけてフェードアウトするかのような形で以前の様なニート生活に舞い戻ろうと考えている。

そのようにして貯金を貯めた後にまた人生について考え直し、次なる行動を開始したいと思っている。いわば今回の労働は人生を逆転させるための一手を打つための布石なのだ。まとまったお金が無ければ何も始まらないし人生は打開できない。

 

とにかく今は自由時間が無く、ほぼ「働くために生きている」という状態に近いのだがこれも今まで逃げ続けてきた付けを背負っているから仕方ないと言い聞かせている。

むしろ一度も仕事中心で生きたことが無いのであれば、その体験をしてみるのも良いのかもしれない。自分はこれまで月収10万円を超えたことが無い、そして最長で続いたバイトは2か月でしかない。

それもフルタイムではなく週に5日などではなかった。

 

しかし今の仕事は週6日勤務であり、週休二日制などという甘い条件ではない。この部分は身内に合わせなければならないのだが、むしろ自分は休日など必要ないとすら思っている。

下手に休日があるとその日の終わりに「明日仕事がある」という嫌な思いをするからである。これはサザエさん症候群と言われるのだが、日曜日の夕方にあるサザえさんのエンディングを聞くと明日が月曜日だという事を思い知らされ気分が悪くなってしまうという現象である。

休日が無い方が潔く諦められるため、休みを挟む必要などない、これもまたそう言い聞かせている。

 

仕事のために生きてるような生活だがそれも生きるため、仕事がつまらないのは当たり前、仕方なく金を稼ぐためにやっている、どうせ辞める、下手にポジティブな意味合いを見つけるよりもネガティブな現実に納得したほうが気楽だ。

別にそこまで面白くもなく嫌な仕事だが、仕方なく明日も仕事に行くしかない。

今は我慢の時、嫌な仕事を金のためにやるために働きに出る。

負けた人間は底辺を味わうしかないのだ。

だが、それでも絶対に這い上がる。

こんなクソゴミのような底辺人生の言いなりにはならない。

主人公が惨めな小説って面白いよな

最近の自分の楽しみと言えば専ら読書になっている。

趣味や娯楽としての読書は心に安らぎや非日常の昂揚感をもたらしてくれる。自分のタイミングやペースで気ままに読んでいられるため、何も楽しみが無くつまらない人生を送っている人間にとってよき心の友でもある。

アニメのように決められた量を見る必要はなく、ゲームのように誰かより上手くなる必要はなく、人脈もお金も必要ないため何も持たなず人生に疲れている負け組にとっては数少ない娯楽だ。

 

しばらく自分は読書という趣味から遠ざかっていたのだが、ある日数年前に読んだ小説が懐かしくなり読み始めたらその魅力に再びとらわれた。惨めでつまらない自分の最底辺人生とは違う世界がそこには広がっている。

アニメや漫画に興奮するような10代のエネルギーがもはやない自分にとって、しみじみと小説を読む習慣は唯一の癒しなのだ。

とにかく底辺の貧乏人でもお金がかからないというのがこの趣味の魅力だ。

読書

前述の自分が読みたいと思った小説を探し出すため本棚を整理し、読みたい本以外は全てしまったのだが、それでも数年前に買いためた本がいくらでもあるためしばらくは困らなそうだ。

 

最近自分は世の中のあらゆるものがつまらなく感じるようになっている。

特にインターネットは面白くないと思うようになった。もうどうせ今の時代ユーモアや独特なセンスを持つ人は減り、くだらない事しか書いていないためわざわざネットの世界から面白いものを探し出そうとは思わなくなった。

 

自分がネットをし始めたころは無限大の世界が広がっているように思えたバーチャルな世界も、今ではそのくだらなさの方が目につくようになった。ネットから面白い人が消え去ったのか、それとも自分が面白くない人間になってしまったのかはわからない。

それよりは古本屋で買った、遠い昔に発売された本を読み解く方が未知の世界が広がっているように思える。

積極的にネットの世界から何かを探し出そうとは思わなくなり、机の上に置いてある本を手に取ったほうが面白いことや新鮮味のあるが書いてある、そう思うようになっている。

 

最近読破したのは村上龍の『愛と幻想のファシズム』で、過去にそのことについても触れているが30年前に発売された小説とは思えないようなリアリティや先見性があることに再び読んだことで驚かされた。ソ連崩壊前が舞台にされているため、当然ながらソビエト連邦も登場する。小説の内容が以前よんだ時に比べて理解できるようになったことは自分の中で成長したと言えるところかもしれない。

 

そういった自分が知らない頃にタイムスリップするという体験もまた心を躍らせる。

昔発売された小説を読むことでその時代に行く事もできるし、その小説を読んでいた数年前の自分に戻ることもできる。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫) [ 村上龍 ]

 

 

みすぼらしい惨めな生活の中の地味な娯楽だが、むしろそういう人生を送っている方が創作の世界に傾倒できるのかもしれない。小説に没頭するというのはある意味で逃避に近い行為でもある。

 

現実から逃げたい人間ほど小説の世界に自分の居場所を感じることができる。

自分がこれまで読んできた小説の世界はある意味で"思い出の場所"となっており、現実が悲惨な時ほどその世界に思い入れを感じやすくなる。

むしろ人生が上手く行ってない時ほど小説が面白く感じられるのだ。なぜならば読書という行為は労力や集中力を要する物であり、他に楽しいことがある時にわざわざそのようなつまらないことを私用とは思わないからだ。

本当に何もすることが無い時、読書はかけがえのない居場所となる。

 

そして今自分が新たに読み始めたのが同じく村上龍著の『オールドテロリスト』である。この小説も数年前に偶然書店で見かけて購入したのだが、とにかくこの本は自分の中で重要な著書になっている。

この小説に登場する主人公は非常に惨めな中年男性であり、実際に貧困を経験したことが無ければ描けず、そして読者側も共感できないような描写が存在する。

例えば妻子から見捨てられ、勤務していた出版社にはリストラされ、彼は安アパートで安酒をあおり生活していたという描写が出てくる。商品の値段が1円単位まで気になり、抑うつ状態に襲われ精神安定剤を常用し鬱病患者のブログなどを読み漁っていたというようなシーンもある。

『愛と幻想のファシズム』が若き新世代のカリスマのハンターを描いているならば 、『オールドテロリスト』は等身大の惨めな男性を描いている。彼が満州国出身の老人たちによる"世直し"を目的としたテロを取材していくというのがこの小説の構成になっているのだが、真の魅力はその生活感あふれる貧困生活の描写だろう。

オールド・テロリスト [ 村上龍 ]

 

 

自分にとってこの小説が重要なのは、人生が上手く行っていない時にまさにこの世界に逃避していたからだ。

自分の人生が虚しくやるせない時、同じような境遇の登場人物を描いた小説はどこか共感できる部分がある。

2年ほど前に自分はこの小説を同じく現実逃避のため安酒をあおりながら飲んでいた。そもそも村上龍の小説はなぜかお酒を飲むシーンが多い。これはきっと作者の経験が現れているのだろう。

自分もそういったアルコール依存症に陥っていたため、こういった描写は他人事だとは思えないのだ。また流行の曲や国際情勢を反映したリアリティのある固有名詞や場所も登場する為イメージが沸きやすい。そういった描写はただ映像作品を見るよりも、活字で想像したほうが思い出に残りやすい。

 

自分はそういった「過去に自分が読んだ小説」を懐古目的で読み始めているのかもしれない。人生が上手く行ってない時に読んだと上述したが、今はその時以上に上手く行っていない。

悲惨な底辺人生は今でも続き、この苦境を抜け出すことはできていない。自分はこの数年そういった貧困や、やることなすこと上手いかない状況と付き合っている。

そんな状況で辿り着いたのは読書だった。

そこには自分が住む世界とは違う世界が広がっている。

つまらない毎日とは違う世界がそこにはある。

 

村上龍の小説に共通することだがとにかく過激なことが起こる傾向にある。

そういった非日常の出来事があるというのもまた魅力だ。小説や創作というのはそういった日常とは違う世界を体験するためにあるのかもしれない。

「日常アニメ」も実際は本当の日常ではなく、欲しくても今では現代人の手に入らない理想の日常なのだ。

 

変わらない日常、つまらない事や理不尽なことが繰り返され何もうまく行かない人生の中で逃避する場所があっても良いはずだ。

そしてそれは自分が作る側でも同じことなのかもしれない。自分はいつか小説を書きたいと思っているが、この今のつまらない人生を送っているときに考えたことに影響を受けることは間違いないだろう。それが創作の土台となるはずだ。

 

小説や読書は人生が上手く行ってない時ほど楽しめる、そして自分が創作する立場になった場合もコンプレックスや虚しくやるせない思いがあったときの方が良い物が作れるのではないだろうか。

つまらない人生だなと思いながらこことは違う無限の世界が描かれた文学の世界に自分は明日も思いを馳せるだろう。

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今のロシアにアメリカに対抗する力は残されていない

アメリカ合衆国とソビエト連邦が超大国として世界の覇権を争ったのはもはや30年前の事である。ソビエト連邦は1979年から始まるアフガニスタン侵攻を切っ掛けに衰退の一途を辿り結局1991年に世界初の社会主義体制は崩壊することになる。

 

その後成立したロシア連邦はエリツィン政権時代にかつての大国としての矜持は鳴りを潜めることになり、プーチン政権発足までロシア人は「強いロシア」を待たなければならなくなる。

 

この後に登場したウラジーミル・プーチンは21世紀における傑出した政治家の一人であり資源を武器にした外交政策により再びロシアを躍進させ、ひと時はBRICsの一員として次世代をリードする大国にまで押し上げた。

プーチン

ここまで見れば順調なのだがプーチンはこの後最大の失策を行うことになる。

「クリミア併合」と言われる歴史的な出来事はその後のロシアの命運を大きく左右することになる。

一見すると無血で領土を取り戻すことに成功し、実際プーチン政権の支持率も急上昇したのだがこのことがロシアを「次世代大国レース」からの脱落をもたらす契機となる。

すなわちその後に課された経済制裁がロシア経済を大きく落ち込ませ、訪れるはずだった輝かしい未来への扉を閉ざすことになってしまった。

 

例えば2018年にロシアでサッカーのFIFAワールドカップが開催されることをどれだけの人が認識しているだろうか。

ワールドカップがもうすぐ始まるという意識すら希薄であり、実際ロシア側もこのイベントを大きく盛り上げるムードを形成できていない。

世界最大のスポーツイベントを控えているにもかかわらず閑散としているのがロシアの実情なのだ。

ロシアでワールドカップが開催されると決まったときは、自分自身躍進したロシアでサッカーの世界大会が開かれることに期待していたが現状はその未来予想図とはかけ離れている。ロシア経済は落ち込み一人あたりのGDPでは世界70位前後の貧しい国になっており大国とは言えない。

 

またそもそも米ソ冷戦においてもソ連がアメリカに対抗できていたのは1970年代までであり、その後は実質的なワンサイドゲームが展開される。ロシアがアメリカに対抗できていた最大の理由はやはり世界で2番目に核兵器の配備に成功できたという事であり、核大国やミサイル大国としてその差を埋めていたのが実態となる。

アメリカが異常な力を兼ね備えすぎていると言えばそれまでなのだが、正攻法ではやはりどの国も米国には対抗できない。

 

更にロシア人の気質として彼らは必ずしも裕福な生活を求めておらず、最優先するものは国防や安全という意識が強い。彼らが頑なに末端の領土にこだわり続けるのは何も侵略的な意識から来るものではなく、我々が想像することができない国家保安意識に拠るところが大きい。

端的に言えば歴史的経験も含めて彼らは非常に不安を感じやすい人々であり、侵略された歴史が多いがゆえに領土の安全を何よりも大事にする。それは時として裕福な経済発展よりも重要な物であり、更にロシア人は貧しい生活に慣れている側面がある。どんな苦境も耐え忍ぶ習慣があり、厳しい時はウォッカと共に生きてきた。

「クリミアを併合せずにいれば今頃裕福で楽しい生活がおくれるのではないか」と考えるのは西側的な価値観であり、彼らはロシア本土の防波堤が一つ増えたことに安心することを優先する。

 

例えば日本人からすると北方領土や竹島が返還されたところで生活がそれほど裕福になるわけでもなく、自尊心が満たされるだけでしかないという事を理解しているためそれほど返還要求運動は活発化しない。

現代において一つの領土や拠点がもたらす地政学的な意味合いは希薄になっており、尖閣諸島が中国に領有されたところで実感として大きな変化は得られない。

いや、実際には非常に大きな意味を持つのだが民間人が得られる時間としては小さいというのが実態だ。

しかしロシア人はその意味合いを非常に重要視する。

北方領土が帰ってきたところで何か変わるわけでもないと軽く考える日本人と、一つの領土の意味合いを大きく重視するロシア人とでは認識の大きなギャップが存在する。

つまりプーチン政権のクリミア併合を失策と考えるのは西側の発想であり、東側、特にロシアの発想では歴史的大偉業なのである。

ロシア

ロシア連邦は資本主義を舞台にした経済競争ではもはやアメリカに対抗する手段を失ってしまった。

次世代を新興国としてリードする可能性があったがそれをふいにしてしまったロシアは、次なるゲームで世界に対抗しなければならない。

それが冷戦時代のような覇権主義やイデオロギー闘争なのか、それとも新しい手段なのかはまだ現状において判断することはできない 。

おそらく核兵器を廃絶することには積極的にならないだろう、これか彼らにとって最大のカードだからだ。核さえあればあらゆる格差を逆転することができるというのは既に北朝鮮の外交が示している。世界的に認められた核保有国という既得利権を手放す理由は無い。

 

しかし今後の世界情勢は核や軍事力による力が全てを左右する時代ではなくなるだろう。

その時にロシアが武器にできる物は現状見当たらないというのが現実であり、アメリカに対抗する力は残されていない。中国にように資本主義の新たな寵児になることはできなかったロシアがこれから何を目指すのかは見えてこない。

 

新興国が続々と登場する21世紀においてエネルギー問題は非常に重要な要素となる。

その時に有利になる国は資源や領土を持つ国か、技術革新を起こせる国のどちらかだ。ロシアはその貴重なカードを資本主義に応用するタイミングを失ってしまった。

仮にプーチン政権以降、国際協調派が台頭しその豊富な資源を応用することができればロシアは現状を打開できるだろう。しかし現実的にロシアは保護主義に走り、プーチン政権の支持率はロシアの歴史上に類を見ない領域に差し掛かっている。

 

どのような政治家が自国や国民に真の利益をもたらすのか、その判断の時には聞こえの良い言葉を巧みに操る勢力が選択されやすい。

またロシア人の価値観としても即自的な富よりも重要なことがあるという考えの方が根強い。

次世代の新興国として台頭するタイミングを失ったロシアは次にどのような行動を取るだろうか。彼らが冷戦時代にアメリカと渡り合っていた甘美な日々に思いを寄せることがあるとするならば、我々が現代には起こり得ないと思っている光景を目にすることになるかもしれない。

現代ロシアの経済構造 [ 塩原俊彦 ]

 

日本人っていつまで原爆ビジネスやり続けるんだろうな

毎年終戦の季節になって思うのが「いい加減日本の夏って陰気すぎないか?」という事だ。

いつまでも、うじうじと敗戦のことを暗いトーンで語りづつけ毎年日本人総動員の「戦争反省会」が始まる。おそらく1945年よりも前の日本の夏はこんな季節ではなかったはずだ。しかしあの敗戦から日本の風物詩に「敗戦」が加わることになる。

空襲、沖縄戦、広島と長崎に落とされた原爆、特攻作戦、そして玉音放送、もはや様式美だ。

火垂るの墓を見て泣いたアピールをするのが日本人にとっての夏だ。

 

「歴史の悲劇を語り継いで同じことを繰り返さないようにしよう」という考え方自体は素晴らしいのだが、日本人は具体的な検証をする事は後回しにして様式美の悲劇に涙して反省した気になっているように思えてくる。

 

日本人は感動が好きだと言われるが、戦争に関しては悲劇を語り悲しい気分になること自体が目的化しているように思える。そしてその悲劇的なムードを内心楽しんですらいるのではないか。

泣ける映画を求める人のように、泣ける戦争を太平洋戦争に求めているのが日本人だ。

 

最近SNSなどで「泣いたアピール」が増えていると言われているが、日本人はどこかで情緒的になることを求めているのかもしれない。そして戦争の悲劇を語ることも実際は悲しいムードになること自体が楽しみになっており、平和を実現しようという大義名分に酔っているだけにしか見えない。

原爆

特に原子爆弾については毎年同じで、相変わらずこの季節になると「犠牲者に哀悼の意を捧げましょう」というトーンで語られる。しかし実際のところ大部分の日本人にとっては他人事であり、「哀悼を捧げている自分」が好きでしかないのだ。

核兵器のことなど現代日本人にはイメージできないことであり、なんとなく哀悼ムードになっているから従っているだけでしかない。

 

また疑問に思うのが原爆が落とされたのは広島と長崎の両方だが、なぜ広島ばかり取りざたされるのかは疑問だ。

多少穿った見方なのかもしれないが広島は原爆ビジネスを上手く確立し、長崎はその利権にあやかることができなかったかのように見える。

情緒的に原爆について騒ぎ立てる姿はどうも「平和ビジネス」のように思えてならない。当の広島県民でさえいい加減鬱陶しいと思っており、宗教的な教育にはうんざりしているのではないだろうか。

 

国民総動員の反省会が繰り広げられる陰気な夏はいつまで続くのだろうか。

逆に言えば戦勝国にとっては夏と言えば誇らしく楽しい季節なのである。結局戦争に負ければその末代まで恥となり、それは敗戦国の人間にとって原罪なのだ。

一度負ければすべてが否定され、異論は許されない。別の方向を向いただけで世界はまだ全体主義が根付いている。

「とにかく戦争と日本は悪かった、絶対に異論をはさむな」というのがこの国の教育だ。

反省ムードを強制することもまた全体主義なのではないか、いい加減陰気な夏はもう終わりにしても良いのではないか。反戦を叫ぶ人々も本当は平和のことなどどうでもよく、ただ単に綺麗ごとを叫んでいる自分が好きなだけでしかない。

 

少なくとも現在の日本の夏は本当に平和を祈る季節ではなく、ただ反省ムードを煽り立てたいだけのものでしかない。

日本の場合、敗戦の歴史が少ないためここまでヒステリックになっているがほとんどの国が敗戦や占領の歴史を当たり前に経験している。一つの戦争や悲劇をここまで大袈裟に考える国はそれほど多くは存在しない。

 

しかもその実態は「悲劇」に涙をする"涙活"になっているのだから本質とはかけ離れている。戦争の話を聞いて涙を流し、犠牲者に共感した気になることが目的化しており、もはや「敗戦」というものが一つのコンテンツにすらなっている。

敗戦ビジネス、原爆ビジネスが蔓延しており時に政治利用すらされている。

具体的な検証や論理的な考察はほとんどされず、ただ情緒的に戦争は悪かったと煽り立て「悲劇」への共感が陰気なムードの中で強いられる。

この国の人々は自分たちに関係する感動や悲劇で泣きたいだけでしかないのだ。

そんな夏を日本は何十年も繰り返してきた。

本当に戦争の悲劇を繰り返さないように願っているならまだしも、単にお決まりの様式美で涙を流すことが目的の"慣習"には付き合ってられない。

日本人はあと何度この陰気な季節を迎えればよいのだろうか。

なぜ平和主義者ほど過激な人が多いのか

平和主義者というのは文字通り平和を愛する人々であり、主に反戦や非戦を主張する人々を指す。特に日本では先の大戦により多くの犠牲者を出したため「平和」という言葉は崇高な概念として半ば神格化されている。

そんな平和を擁護する平和主義者だが彼らの言動を見ていると本当に平和を愛しているのか疑いたくなるような過激な言動が多い。

平和主義者ほど攻撃的であり、反差別主義者ほど自分の差別には無自覚である。

 

例えば自分の気に入らない政治家に対して口汚く罵り、時には彼らの生命さえ否定しようとする。そんなことを何の抵抗もなく口にできる人々が反戦や平和を掲げることに違和感を覚えずにはいられない。

彼らは平和の為なら何を言っても良いと思っている。

自分たちの正義の為なら何を言っても良い、というのは彼らが執拗に批判する全体主義者と変わらない。

 

「平和」「反戦」という言葉は美しく紛れもなく素晴らしい理念である。

しかしそういう言葉が暴言を吐く人々に悪用されているのも事実であり、むしろ彼らの方が反戦や平和という概念を汚している。

また彼ら自称平和主義者の言動や教養は非常に浅く、彼らが「平和」という言葉を声高に叫べば叫ぶほどその言葉が陳腐に思えてくる。自らの言動に既に矛盾が生じているのだ。

「平和を叫ぶ人はどこか怪しい」というイメージが付けば、本当に平和を望み実行しようとしている人々の活動まで疑われた目線で見られるだろう。実際に日本で左派が政治的に勝利することが少ないのは、そういった思想を掲げる人々の軽薄さが信用されていないからだろう。

本当の左派や平和主義者は存在せず、ほとんどが自分がインテリだと気取るためのファッション目的でしかないのだ。

 

平和、平等、反戦、そういった綺麗な言葉が品のない人々に多用されればイメージは悪化する。

こういった綺麗なフレーズは非常に便利であり、使えば自分たちを正しい主張を行っているという印象を作りやすい。それゆえに中身のない主張であっても綺麗なフレーズで着飾れば正しい主張であるかのように受け止められることがある。

逆に非常に論理的な主張であり現実を語っている主張であっても「戦争賛美者」などのレッテルを貼れば議論は有利に進む。

平和が大事だと言っていればなんとなく良い人のように見てもらえるのである。そして現実的な解決策を示そうとする人にはレッテルを貼れば悪人に仕立て上げることができる。

平和主義者

「平和叫んでる自分はかっこいい」

「いいこと言ってる私が好き」

彼らの真の目的は平和などではなく、単にその主張をして得られる昂揚感でしかないのだ。そんな人々に平和や反戦という言葉が悪用されてはならない。

単なる「革命家ごっこ」をしたいだけの平和主義者が日本には多い。

かつての革命家と同じ気分になりたい、帝国主義の打倒を掲げたい、そんな悪役と戦うシチュエーションに人というものは憧れる。

わかりやすい悪役ファシストとして右派の政治家をターゲットにして口汚く罵ればもうそれで立派な革命家ごっこが楽しめる。

 

戦争が大好きな悪役を仕立てげて攻撃すればそれが平和活動となる。

そしてその悪役に対して正義の味方として戦ってる時の快感を味わうのが日本の平和主義者だ。

議論の都合が悪くなれば「アイツは戦争が好きな悪い奴」と認定することで自分を正当化する。しかし彼らの言動を見れば非常に過激であり、平和主義者なはずなのに攻撃的なことが多い。

 

「平和」という言葉は魔法のフレーズであると同時に、危険でもある。

どんなに支離滅裂な考えも「平和」というシールを貼ればよい考えに見えるのだ。

そしてそれがこの言葉の危険な部分でもある。

色んな人がその効力を頼りこの言葉を使おうとするため当然悪用する人もいる。

間違ったことも「平和のため」と装えば綺麗に見える。

パッケージをよくすれば悪い商品でも購買意欲が上がるのと同じだ。

日本の政治議論が成熟させるためにはこういった表面的な言葉だけを投げつけあう体質を変えなければならないだろう。

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第二次世界大戦の日本は巨大な戦略でアメリカに負けていた

第二次世界大戦における日本とアメリカの戦いはマクロな視点で分析する必要がある。

日米の対極的な特徴としてミクロな視点で考える傾向が強い日本と、マクロな視点で分析する傾向にあるアメリカの違いが上げられる。

また同じ枢軸国のドイツも近視眼的な物事の見方をし、目の前の問題に対しては類稀なる解決策を提示するが、大きな視点での判断力は欠けていた。

その一方でアメリカと同じ連合国のイギリスはマクロな視点を最も得意とする民族であり、いわゆるアングロサクソンはこういった長期的かつ広大な戦略を得意としていた。

枢軸国側が連合国側に敗戦したのはこの違いに拠るところが大きい。

 

そして日本とドイツは戦前と変わっていない部分が非常に多い。

戦前は自国が絶対的に正しいという価値観を押し通しそれ以外の見方を排除したが、現在は自国が絶対的に間違っているという教育を行っており特にドイツは法律にまで定めている。

極端から極端に変化しただけであり、柔軟性を欠いているという意味では何も変わっていない。

違う意見や物事の見方を許さないという意味では全体主義が続いている。

 

また日本に関しても「お国のため」という言葉が「社会のため」に変わっただけであり、日本人として国家に奉仕することを美化する価値観が社会人として社会に奉仕する価値観に変わっただけでしかない。

日本人は「社会人として」という言葉が非常に好きであり、仕事が人間の価値を決めると信じている。

全体主義的な傾向は今も根強く、その一員になれない者は白い目で見られる。

例えば海外で若者の失業率は半数を上回る国もあるが、日本では定職についていない者が非常に差別的な目で見られる。

かつて戦争に協力しなかった人が批判されたのと同じように、現代日本では大人になっても社会人として社会に貢献できていないのならば非国民なのだ。

 

また日本とドイツの特徴として現場の人間は非常に優秀であるが、上層部が腐敗していることが多いという部分は共通している。

例えば戦前、戦中の批評において自分は現場の軍人を批判しようとは思わない。彼らは自分の出来ることを懸命にやり通した。

その一方で大本営は好き勝手やり現場の指揮官は苦労させられることになる。

第二次世界大戦において日本軍最大の戦犯は大本営の無謀な計画にある。

第二次世界大戦

「日本は追いつめられて武力を行使するしかなかった」と言われるがそういう状況に追い込まれている時点でマクロの戦略では負けていたのだ。危険なギャンブル的な賭けをするしかない状況に追い詰められている時点でそれは負けに等しい。

 

危険な賭けをしなくて済む状況、その前段階で戦う前に勝ちが決まっているような状況を作り上げることこそ優秀な国家運営だ。

米英、アングロサクソンに対して日本人はそこで負けていた。

アングロサクソンは戦争を始める状況作りが抜群に得意であり「なんとなくこの戦争には正当性がある」という空気作りに長けている。

更に空気作りだけでなくその時点ですでに戦争に勝てる状況作りをしっかりしている。

こういった数十年単位のマクロな国家運営においてアメリカ、イギリスを中心とした連合国は枢軸国の何枚も上手だった。

そこがアングロサクソンの近代国家と、日本人が後追いで作り上げた近代国家との差だったと言える。

そして現在の日本の教育においても本質を見極める事や大きな視点で物事を見ることは軽視されている。

 

また日本軍最大の問題点が「勝因の分析」を行わなかったことにある。太平洋戦争の序盤、連戦連勝だった日本軍はこれまでの勝ち方がこれからも通用すると考えてほとんど勝因を研究することがなかった。

「勝ちに不可思議あり」と言われるが、勝因の分析は戦いにおいて最も重要な事であり、偶然が勝利をもたらしていることも多い。

一方米軍はどんな戦いも徹底的に分析していたためミッドウェーの戦いという重要局面に勝利し戦局を逆転することに成功した。

 

また日本海軍は零戦の後継機の開発に遅れ、大戦末期まで投入されることになる。

日本軍の兵器は長期的に戦争を戦うという視点がなかったが、これはドイツ軍に関しても同様のことが言えるだろう。これに関してはそもそも長期的な戦争が不可能だったため短期決戦をするしかなかったという事情はあるが、そうしなければならない状況になったこと自体が問題だろう。

 

戦争というのは現場だけが全てではなく、本当のメインは「検証」を司る司令部であり、背後の大きな戦略が戦争でもある。

更に戦争というのは政治の一部であり、外交といった要因も絡んでくる。

第二次世界大戦における敗戦の理由は同盟国選びに失敗したことも挙げられる。

「持たざる者同士で集まっても烏合の衆にしかならない」ということが日独伊三国同盟の教訓ではないだろうか。

 

例えばドイツがソビエト連邦を独ソ不可侵条約を発展させ枢軸国に引き入れることに成功していれば三国同盟ではなく四国同盟として善戦できたのではないかというのは架空戦記で語られることだ。

また戦前のアメリカはナチス・ドイツに投資を行う企業などが多く、友好な関係を築ける可能性はあったが日本の参戦が反ドイツ感情を高まらせ結局連合国は団結していくことになる。

一方で日本側としてもドイツがソ連に侵攻することは予想しておらず、完全に計画が狂わされることになる。

日本はアメリカを参戦させドイツはソ連を参戦させ、完全に連携は破綻していた。

 

本来ならば同盟を結ぶ以前に互いの国について分析する必要があり、ドイツ側は日本と同盟を組むことが米国が参戦するというリスクを考慮しておく必要があった。また日本もドイツやナチスについて分析し彼らの目標がソビエトにあったことは熟知しておく必要があったはずだ。

独ソ不可侵条約も表面上の約束に過ぎず、それを信頼しきってしまったことが日本の敗因だったのかもしれない。イギリスならば「いずれこの条約は破棄されるだろう」と歴戦の経験から予想していたのではないか。

 

日独伊三国同盟は国際社会の余り者同士が仕方なく集まっただけにすぎず、実態は空虚な物だった。もちろん歴史的な背景を見たとき、そうせざるをえなかったことも事実ではある。事の発端は世界恐慌にまで遡らなければならない。

戦後の日本人に求められていることは戦前の日本人ができなかったマクロな視点での分析だろう。

戦前と変わってないという意味では、第二次世界大戦末期の象徴的な悲劇だけを感情的に取り上げる光景がその象徴だ。

そろそろ情緒的に太平洋戦争を語ることから卒業しなければならないのではないだろうか。

ノンフィクション太平洋戦争 真実の敗因と敗戦の功罪 [ 坂本廣身 ]

 

なぜ日本の戦争特番はドイツやイタリアを取り上げないのか

毎年夏の季節になると先の大戦について取り上げた番組が放映される。

日本人にとって夏といえば敗戦の季節でもあり、国民総動員の反省会が強制される。太平洋戦争の敗戦は今もなお日本人が責任を負わなければならないとされているのだ。

 

そんな反省のシーズンだが日本の戦争報道は根本的に欠けている部分がある。

「反省しなさい」と言われたところで日本人の大部分があの戦争がどういった者なのかを把握していない。よくわかりもせず自分たちが経験したことのない遥か昔のことをひたすら悪いことをしたとだけ教えられ頭を下げさせられたところで何の意味があるのだろうか。

分かりもしないことを反省させられ謝らせられる、それが日本の夏だ。

 

まず日本の太平洋戦争に関する報道は「第二次世界大戦」についてではない。あくまで第二次世界大戦の中の太平洋戦争という枠組みでしか語られることが無い。基本的に第二次世界大戦とは日本とアメリカだけの戦争ではなく、枢軸国と連合国の戦争だったのだがこの認識すら一般的ではない。

漠然と日本とアメリカが戦争をしていたとだけ報道されて、悪いことをしたという論調だけが繰り返される。

 

なぜ第二次世界大戦が起きたのか、なぜ負けたのか、何が悪かったのか、そもそもただ単に悪い事だけだったのか、そういう多角的視点が欠けており毎年様式美のように戦争の悲劇だけが語られ日本人総動員の「反省会」だけが行われる。

日本人は戦争を反省していないという人々もいるが、良くわかりもしない物を反省しようがないのである。

 

特に大きな枠組みとして同じ枢軸国だったドイツイタリアに関する報道は非常に少ない。日本の夏と言えば神風特別攻撃隊や原爆、そして玉音放送、戦争末期の悲劇が様式美のように報じられるが、同じ戦争末期にドイツやイタリアがどのような戦いをしていたのかが軽く触れられるだけでそこを掘り下げようとしない。

結局のところ日本人の戦争観というのはアメリカと戦ったという事だけでしかなく、欧州方面の出来事は他人事なのだ。

この季節に放映される戦争映画なども大抵は日米に関連した作品ばかりであり、ドイツ軍などを取り上げたものは少ない。仮に放送されるとしても民放ではなく衛星放送等であり、お決まりのように火垂るの墓のような作品を放送する。

 

まだ欧州方面の出来事について触れないことは譲歩できるが、アジアや太平洋方面でイギリスと戦っていたことの報道も非常に少ない。戦後日本の伝統と言えばそれまでなのだが何もかもがアメリカに関する物ばかりで、日本が戦っていた方面ですらイギリスやフランス、オランダに関する考察はお座なりにされている。

 

極めて矮小かつ決まりきったことしか取り上げないため、日本人は歴史の実態を把握することができていない。

毎年原爆や特攻隊の悲劇を取り上げて、それで歴史を理解した気になって反省会をして終わりでしかない。

 

しかし実はドイツやイタリアも事情は似ているのかもしれない。

おそらくイタリアに関してはこれほど敗戦ムードはなく、むしろ市民がムッソリーニ政権を倒したと美化さえしているのではないだろうか。

そしてドイツもホロコーストやナチスについて取り上げるだけで、アジア方面の戦いは他人事のように報じているかもしれない。

つまり枢軸国というのは戦中の連携もお粗末なものであり、戦後もお互いに他人事でしかないということになる。むしろ日本人のほうが第二次世界大戦におけるドイツに詳しい人が多くドイツ人は日本に関心を持っていないという印象さえある。

 

また日本の戦争特番全般に言えることだが、軍事面で深く掘り下げた考察が少ないのも問題だろう。零戦とグラマンの比較やチハとM4シャーマンの比較、米軍はなぜM1ガーランドを実践に投入で来ていたかなども説明があっても良いのではないか。

日本が戦争に負けた最大の理由は資源や工業力の差だったことに加え、技術においてもやはりアメリカは進んでいた。

B29に搭載されたノルデン爆撃照準器、レーダーの実戦投入、第二次世界大戦参加国で唯一半自動小銃の大量配備に成功したことなど、技術力に差があったことも考察するべきだろう。

 

「技術では日本が勝っていたが物量で負けた」という幻想についても詳細に解説しなければ同じ過ちを繰り返すことになるだろう。現在でも日本が衰退しているにも関わらずそのことを頑なに否定しようとする人がいるが、日本は優れているはずだという思い込みが敗戦を招いたことも事実だ。

日本が世界的な技術立国になるのは戦後の事であり、戦前は東洋の国としては西洋に対抗できていたという水準に近い。

一方アメリカは現代でもドキュメント番組で徹底的に考察し、むしろ日本軍に関する分析はアメリカの方が的確なことが多い。一方日本はと言えば感情的に戦争の悲劇を語るだけで、アメリカ軍について分析をすることは少ない。

 

戦争というのは武器や兵器によって行われるため、この分野に対して解説することは必須なのだが"軍事アレルギー"が蔓延する日本ではこういったことがはばかられる。そんなことはどうでもよいからとにかく反省しなければならないという風潮が強い。

軍事について考察すること=ミリタリー趣味と直結して考える人も多く、こういったことが真実から理解を遠ざけている。

軍事について考察することでその背後にある工業力の実態についても見えてくるのだが、こういったことが不自然に排除されているのが日本の戦争報道でもある。

もちろんこの分野に関しても日本とアメリカだけを殊更に取り上げるのではなく、他の参戦国についても考察する必要があるだろう。

 

また日本人の「自分と関係あるものにしか興味がない」という体質は第二次世界大戦の前にあった第一次世界大戦への関心の無さにも表れている。この第一次世界大戦が第二次世界大戦の遠因になっているにもかかわらず、日本は直接的な参戦国ではないのでどれだけ悲劇的な事であっても無関心なのだ。

 

更に戦争や歴史に限らずスポーツなどについても同様だ。

日本人は日本人選手にしか興味が無く、サッカーのワールドカップを除いて基本的に日本人選手が参加している試合にしか興味がない。

野球の世界大会などでも日本が負けた途端、放送が深夜の録画放送にされることなどがその典型だろう。世界的には無名な選手でも日本人が盛り上がっていればそれはスターだというガラパゴス的価値観が形成されている。

 

戦争も自分たちが関係している第二次世界大戦の中の太平洋戦争にしか興味が無く、悲劇的な気分で戦争を語った気になりたいだけでしかない。

スポーツは日本人が関係している「感動」にしか関心が無く、戦争は日本が関係している「悲劇」にしか興味がない。

要するにそういう国なのだ。