負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

最近ワイドショーに不倫報道が多すぎると思ってる奴wwww

去年の1年間のワイドショーで扱う不倫報道の時間が、一昨年に比べて倍以上に増えたという話を聞いた。

確かに去年はどこもかしこも不倫ネタを取り扱っているイメージがある。

そして今年ですら初っ端から既に小室哲哉が不倫だとか言われ始めており、この傾向は今年も続きそうだ。

 

この「ゲス不倫」から始まった不倫報道ブームもややヒステリックすぎると感じている人は多いだろう。騒ぎすぎなほどにどこも不倫報道一色になっており、一昔前に比べて病的なほど不倫に厳しくなっている。

正直自分はなぜ世間がここまで不倫に盛り上がるのかが理解できない。

 

そこで考えてみたのが昨今の世の中は晩婚化や独身者の急増が問題としてと言われているが、実は世間的にはまだ結婚経験がある人の方が多数派であるということだ。それこそ自分の両親も結婚しているわけであり、身の回りを見れば既婚者の方が多いのである。

 

おそらく実際に結婚している人や結婚経験がある人にとっては、不倫ネタというのはいつ自分に関わるかわからない深刻な問題なのでどうしても興味を惹かれるのだろう。

不倫報道がどうでもいいと思っているのは自分のような未婚でなおかつ結婚願望がそれほどない人間に限られているのだ。

できないし、しようとも思っていないというという人にとっては本当に興味もない事でありただただ世間が不思議でしかない。

なぜあれほど世間が不倫報道に釘付けになるのか、それが理解できないのは自分が結婚の縁のない人間だからなのだろう。

 

自分の関係が無い物には興味がわかないし、関係があるものには興味がある、ただそれだけのシンプルな事実である。

そして未婚化や晩婚化だの騒がれているがなんだかんだで世の中は結婚する人やしたことがある人の方が多数派なのだという真実だ。

 

ただ自分はそのことに虚しさを感じているわけでもなく、結婚できない自分を嘆くようなことをするわけではない。本当に興味が無い事なのでただ不思議に思い、なぜかと考えた時「そうか、まだ世の中は結婚する人の方が多数派なのか」とと気づいただけである。

 

自分がむしろ嘆いているのは夕方に放送されるテレビ番組がワイドショーばかりになっているということの悲しさにある。

夕方の子供向け番組やアニメも少なくなり、露骨に少子化になっている現実が虚しく感じる。もう今の時代子供向けに放送するものは視聴率が取れず、昔以上に子供はマイノリティとして追いやられている。

特に田舎では放送されている番組自体が少ないのでなおさら子供向けアニメが減少している。

日本社会全体が露骨に高齢化してきており、子供向けの物がどんどんと少なくなっているというのは日本の今を表しているように思えるのは考え過ぎな事なのだろうか。

 

昨年の紅白歌合戦はかなり大胆に若者向けにシフトしたがそれゆえに従来の視聴者が離れ、別の局が放送していた昔の名曲を特集した番組が意外な視聴率を叩きだすことになった。

街のおもちゃ屋さんやカードショップ、ゲームショップも少なくなり、子供向け番組よりも主婦層向けのワイドショーが増え、だんだんと若い世代がマイノリティになって来ている現実を感じざるをえない。

 

もう小学校から帰ってきて夕方に放送しているアニメを見て、それを翌日学校で話したり友達と一緒に見るという光景は地域によっては過去のものになって来ているのだろう。

そもそも子供たちはユーチューバーを見る時代だろうし、子供の人数が多くて華やかなコンテンツが栄えていた時代というのはもうセピア色の世界に消えかかっている。

 

そしてその少子化の原因がやはり晩婚化や未婚化なのも事実だ。

結婚している人がまだ多数派とはいえこれから減少する運命にあり、実際「結婚できない」と嘆く人は増えてきている。不倫報道に過度に騒ぐ世の中も考え物だが、不倫は自分に関係ないという未婚者が多数派になる世の中はもっと悲しいだろう。

まだ不倫が世間の話題の主役に慣れる時代は幸せな時代のかもしれない。

「家族」難民 生涯未婚率25%社会の衝撃 [ 山田昌弘 ]

 

悲報:高梨沙羅ちゃん、成功して人が変わる

何かに成功して成り上がり人が変わるという話は良く聞く話だ。

今最も日本の世の中で「この人変わったな」と感じさせるのがスキージャンプ選手の高梨沙羅選手だろう。

 

何よりもまず騒がれているのはその容姿の変化であり、本職のスキージャンプで結果が出ていない時に「化粧に熱中しすぎて本当の目標を見失っている」と言われることも多い。

実際問題、高梨沙羅が化粧に目覚めてからはまるで人が変わったようにあか抜けて行った。昔の天真爛漫な姿が好きだったというファンは多く、典型的な女子高生が大学デビューしたような姿に寂しさを感じる人は多い。

正直なところ自分自身も化粧にはまる前の普通の女の子のような雰囲気に親近感を覚えていたので、知っている女子が急にメイクに目覚めていて同窓会でめちゃくちゃ変わっていた時のような寂しさを感じないわけでもない。

なお同窓会にはいかなかった模様

 

もちろん女性は男性が考える以上そういったメイクやおしゃれが楽しいと感じる上に、それが時とし自分の趣味そのものになることもある。

例えばそれは男が筋トレにはまるようなものであり、一度はまりだすと他者の目線を気にせず自分の美学やこだわりに突き進んでしまうことと似ている。

 

それにメイクを覚えなければそれはそれで「公共の場で化粧もしないマナーの無い女性」と批判されるのも事実で、高梨沙羅もそういった年頃になったと言える。

化粧をあまりしていない女性アスリートと言えば卓球の石川佳純が存在するが、正直に言うと全盛期のようか可愛さは無くなっている。そしてそうなるぐらいならば多少なりともメイクをした方が良いと感じるのも事実だ。

 

よほど顔が整った美人でもなければ年齢には抗えない現実があり、メイクをしなければ劣化したと騒がれ、メイクをすればあか抜けてオシャレに目覚めた女子大生のようだと批判される。

どちらにしても女性アスリートというのは容姿に厳しい目線が向けられる運命にある。

 

ちなみに自分は女子サッカーの田中陽子という選手が好きなのだが、全盛期に比べれば確かに見る影もない。しかし自分はそれも大人になったという事で受け止めており、プレー自体が好きなので今もファンを続けている。それは同時に自分も年を取ったという事であり、美人アスリートの容姿が変われどもプレーを応援し続けるというファンでありたいとは思う。

 

容姿だけを応援するのであれば最初から女性アイドルを応援し続ければよい話であり、あくまで競技面でのプレーがあってこその女子アスリートである。

 

また高梨沙羅の容姿以外にもう一つ変化があるとするならば、それは金銭感覚にある。

なんと2000万円のベンツのSUVを所有しているらしく、本人は車の雑誌で「好きな物に囲まれている方がパフォーマンスがあがる」とも語っている。

 

メイクを覚えて金銭感覚も変わり、肝心のスキージャンプでの成績も下がり、あの頃の純真な高梨沙羅ちゃんはどこにいったのかという寂しさは当然ある。

しかしこれは甲子園球児が髪を丸めて坊主にして炎天下で過密日程の試合をしている姿に対して、理想の青春像を投影するかのような自分勝手な願望に過ぎないのだろう。

選手本人の意思を無視した自己満足の理想像を投影することに意味はあるのだろうかと考える。

 

「スポーツに懸命に打ち込む理想の爽やかな若者が存在していてほしい」という考えや嗜好を押し付けるような人にはなりたくないと自分は思う。

更に言えば、成功者がお金を使って裕福な生活をする事に反対するような社会というのは発展の見込みがない後ろ向きな世の中であろう。

 

成功しても謙虚であり慎ましくあるべきだという美徳は確かに美しいが、スポーツの世界に華やかな夢を感じさせる選手がいても良いのではないか。

野球やサッカーだけではなくスキージャンプの世界でも頑張れば20代前半でメルセデス・ベンツの高級車を運転できるし、思う存分にメイクをしてスター扱いされるということを高梨沙羅は示している。

卓球の水谷隼も卓球の世界の賞金をアピールし夢を伝えていた。

 

野球選手が「野球は儲かる」という下世話な話をすることは賞賛されるのに、なぜ女性アスリートには慎ましく謙虚な姿を求めるのか、そこに日本社会の矛盾を感じる。

サッカーの本田圭佑も子供たちに夢を与えるという理由で派手な装いをしてフェラーリで空港に到着するというパフォーマンスをしたことがあるが、今の閉塞感漂う日本社会に必要なのはこういった派手な人たちなのではないだろうか。

 

スポーツに限らず「スター不在」と言われるが今の世の中だ。

みんなで貧しくなろう、誰かが裕福なことは気に入らない、そういった後ろ向きな風潮になって来ているように感じずにはいられない。

自分は決して成功者ではないが、成功した人間が明るく振る舞うことには反対ではない。次なる成功者が生まれるためには、その前例となる先駆者が必要なのではないか。

謙虚さという美徳がこの社会をがんじがらめにしている、昨今の世の中を見ているとどうしてもそう感じてしまうしまう現実がある。

【ももクロ緑】有安杏果さん、引退するってよ

ももいろクローバーZの緑こと、有安杏果が引退するという知らせが入ってきた。

本人いわく「普通の女の子としての生活をしてみたいという想いが強くなった」というのが理由らしく、引退後の予定はまだ決めていないようである。

 

何の予定もない日々を人生で一度過ごしてみたいという理由も、子役時代からずっと芸能界で生活してきたからこその思いなのだろう。

我々一般人が芸能人に憧れるように、芸能人もまた一般人に憧れているのかもしれない。

ももいろクローバーZといえばアイドル界では一定の地位を築いており、今も現場のファンには人気が根強いと言われている。

テレビや一般メディアへの出演は全盛期に比べて確かに少なくなってはいるが、現場のコンサートやライブなどは面白くリピーターが多いのがももクロの特徴でもある。

 

そういった熱狂的なファンにとってはメンバーの一人がいなくなるというのは寂しいことに違いない。

ももクロの緑と言えば「ぼっち説」やメンバーからはぶられている説があったものの、一度5人で包み隠さず話し合って絆を深めたという話を聞いたことがある。

更に幼少期に難しい病を乗り越えたという話も聞いたことがあり、ファンではないものの個人的に気になっているアイドルの一人ではあった。それだけに少し残念な話ではあるが本人が自ら進んで引退を選んでいるようなので、その選択を尊重したい。

 

それにしても最近芸能人やアイドルの引退が相次いでいる。

去年の最大のニュースといえば安室奈美恵の引退、そしてアイドル界ではハロプロのももちが引退した。

芸能界に居場所がなくなってフェードアウトしたというよりも、まだ十分通用し需要があるような人が引退していったという意味では有安杏果のケースと共通しているかもしれない。

 

有安杏果

今もなおコア層には根強い人気があるだけに、この地位を手放すのは傍から見ればもったいない事のように思える。

就職という意味でも「ももクロのメンバー」以上の就職先があるかどうかは分からない。ただ「元ももクロ」という肩書があれば地方局のアナウンサーに就職できる可能性がないわけではなく、実際AKB48にもそういった進路を選んだ卒業生が存在する。

 

また「5人でももクロ」というイメージがあるだけに、4人になるというのはファンの心理としては複雑あのではないだろうか。

悪い去り際で脱退するわけでもないので後味は悪くないが、それゆえに寂しさが勝るかもしれない。ずっと応援してきたファンではないのであくまで推測でしかないが、しばらくは"ももかロス"のようなものが続くファンも現れるだろう。

 

アイドルの引退や脱退というのは難しい問題で、特にいい人がいなくなることほど寂しい物は無い。あのメンバー良い人だったのに、というメンバー程いなくなってしまう。

AKB48と違って常に新メンバーが追加されるわけでもなく、5人の中から1人が去っていくと言うのは大きくイメージにも関わる。

4人体制のももクロが新しいグループになっていくのか、ももクロでも卒業がスタンダードになっていくのかはわからない。

 

そもそも、ももいろクローバーZ自体が初期のももクロから大きくイメージを変えてブレイクしたグループだ。

そんなももクロならまたここから新しいイメージに変わることもできるかもしれない。

 

これまでのももクロといえば「青春感」をイメージしていたが、メンバー全員が10代ではなくなった今、新しいコンセプトに生まれ変わることも起こり得るだろう。

分かれは新たなる旅立ちのきっかけといえば綺麗ごとだが、有安杏果本人も爽やかに見送ってほしいと思っているはずだ。

今回の有安杏果引退をきっかけに、次なるももクロが登場するのならばそれは良い別れの一つになるかもしれない。

elkind.hatenablog.com

お酒をいくら飲んでも幸せにはれないよな・・・

相変らず新年にもなったのにまだお酒に依存する生活が続いている。

お酒を飲まない日は気分が悪い時、もしくはお酒自体が手に入らない時に限られている。

なるべく飲まない日を増やしていくことが今年の目標だが、そういう時は「お酒を飲んでも幸せにはなれない」と言い聞かせることにしている。

 

いくら酒で一瞬だけ現実逃避をしても現実は何も変わらない。

それどころか良いから醒めた後に押し寄せる現実感はより残酷なものになる。

 

しかしそんなことは分かり切っているのにまたお酒に手が伸びてしまう。

最近の自分はもはや物欲も薄れ、即自的な酒の快楽だけを求めその日が楽しければいいという生き方になっている。ワンナイトフィーバーして昨晩なぜあれだけ1人ハイテンションだったのかと、翌朝気分の悪い中で自己嫌悪感と葛藤しながら後悔することになる。

 

ワンナイトフィーバーと言ってもお酒を飲みながらただ自分が好きなジャンルの動画を見ているだけに過ぎないが、その時だけは人生が楽しくなる。見るものは最近海外の物ばかりになっている、好きなアイドルの音楽番組でのパフォーマンスだったり海外ユーチューバーの動画だったり、そしてスポーツ関連の物も多い。

あとは海外のネット民が作った昔の日本のネットの雰囲気を感じさせる面白動画なども最近自分の中で流行っている。

なるべく身の回りの日常というものを感じさせないものや、楽しかったころを感じさせる懐古向けのものを選ぶようにしている。

そうやって海外の華やかな世界に夢を見るか、昔懐かしの日本の物を見て過去に逃避することしか楽しみが無い。

もうなるべく日常や現実を感じたくないのだ。

 

しかしアルコールの酔いは必ず終わる時が来る、その時また現実に引き戻されるのだ。

一体何をしているのか、我に返ったときそこには後悔しか存在しない。

冷静になれば現実の自分しか存在しない、そして様々な課題が山積していて嫌になる、先行きも暗く現実を直視すると全てが悲しくなる。

 

昨晩の自分は何をしていたのだろう、なぜあんなことを考えていたのだろう、そう後悔しながらもまたその楽しさを求めてしまう。

これはもちろん本当の幸せではない、偽りの幸せに過ぎない。

お酒ばかり飲むことで見失っている幸せがいくらでも存在するのだろう、しかしそれにはもう手が届かないということが何となくわかってしまっているのも辛いことの一つだ。

手に入らない本当の幸せと、手に入れる事の出来る偽りの幸せなら後者の方を選ばざるを得ない。

 

お酒

普通が遠い時代になった、並の幸せすらも叶わない時代になっている。

明るい希望よりも心の闇を抱えて生きなければならない時代に生きている。

お酒を飲んでいなければ不安が波のように押し寄せてくる、しかしたった一瞬であってもそこから解放されたいと願う時がある。まさにこの画像のように様々な不安をぼかし曖昧にすることができるのだ。

 

お酒を飲んでも本当に幸せにはなれないと考えている傍から既にまた飲みたくなってきている自分がいることも事実だ。

いくら飲んでもまた同じことの繰り返しだと冷静にならなければならないはずだと言い聞かせる。お酒を入れていない精神状態に耐えられるように戻していかなければならない。

ただただ無駄に気分を悪くさせるだけでしかない、そういった負の側面をもう一度見直すべきなのだろう。

 

しかし飲まなければ不安と後悔に苛まれる。

信じていたあの頃の未来が遠ざかりもう手に入らない、こんなはずではなかった人生も嫌になる。あの頃はいろんなものが面白くなっていくだろうと信じていたし、自分の人生も輝かしいものになると信じることができていた。

現実には普通すら遥かに遠い人生しか存在しないし、生きていることに価値を見出すことができない。

配られたカードで勝負するしかないと意気込んでいたころは遥か昔、今は生まれが悪かった、もっと恵まれた人間に生まれていたら、何か一つでも優れた物が自分にあったならと言い訳ばかりしている。

一度レールから外れ歯車が狂った人生はこれほど修正が難しいとは思ってもいなかった。

 

大人になったら楽しい人生が待っていると思ってたよなぁ。

いろんな場所に行けるとも思ってたし、いろんな出会いがあるとも思っていたし、いろんなものも手に入ると思っていた。

もっと世の中には面白いことが溢れていると信じていた。

 

こんな負け組の自分より遥かさきに行っている人ですら幸せそうではない。頑張っていい職に就いてそれなりに収入はあるのになかなか結婚できないという人を見ると、そこまでやっても幸せはまだ遠いのかと感じる。

人生という物は一体どれだけ苦労し頑張らないといけないようにできているのだろうか。生まれながらに恵まれた人間を除けば幸せはあまりにも遠すぎる。

そんな幸せじゃない人がむしろ今の世の中では多数派になって来ている。

そんな時お酒ぐらいしか自分の味方になってくれる存在はいないのだろう。

偽りの幸せであっても手に入らない幸せに比べれば少しは癒しになる、虚しいがこれが現実なのだから。

 

胃のケアには生薬の力を

創作のモチベーションを最強の保つ方法を思いついた件

自分で創作活動をしていると最も問題になるのがそのモチベーションの維持だろう。

実際自分で創作していて虚しくなったという人は多く、インターネット上の投稿でも途中で辞めてしまっている作品が多い。

自分自身ここ最近は絵も小説も書いておらず制作からは遠ざかっているが、何気なく創作論を知人と話していた時に基本的なことに気付いた。

 

それは「世の中には自分好みの作品がもう登場することは無い」、または「自分の好みに合った作品は有限」という悲しい事実である。

もう世の中のオタク文化はかつての物ではなくなり自分好みのものは今後生産されることが無い、それならば自分で自分好みの物を作るしかないのだ。

例えば具体例として自分が求めている作品は絶望的に先行きが無い。

 

1:厨二病的なロボットアニメ

2:過激な革命を描いた小説

 

まず「厨二病的なロボットアニメ」だが、これは具体的には機動戦士ガンダムSEED、機動戦士ガンダム00、そして新機動戦記ガンダムW、そしてコードギアス反逆のルルーシュのことを意味している。

 

自分がガンダムファンを自称しておきながらここ最近のガンダムシリーズをほとんど見ていない理由は、素直に言って自分好みの作品がもう存在しないからに尽きる。ガンダムAGE以降のシリーズは自分の好みとは相いれないため、自分は現役のガンダムファンからは遠ざかりほとんど懐古厨のような状態になっている。

さらに近年のアニメから「コードギアス反逆のルルーシュ」のような衝撃を受けることも無く、ほとんどアニメ熱を失っていた。

時代は日常アニメの全盛期になり、壮大な戦争や過激な戦いは求められなくなっていく。「デスノート」のようなダークヒーローものの作品も無くなり、俺TUEEEEをしたいだけの「なろう小説系」のラノベの時代になった。

 

「世の中がちゃんと戦争をしなくなった」と言えば何を不謹慎なことを言っているのかと思われるかもしれないが、アニメの中で壮大な戦争を行っていた時代はもはや過去のものになりつつある。

巨大勢力同士が工業製品として製作した兵器同士が架空の世界でぶつかり合う作品は極めて少なくなっているのが現実だ。

そもそもロボットというジャンル自体がもう若者受けしなくなり、時代はモンスターや能力で戦うことこそがかっこいい風潮になっている

ゲームもソーシャルゲームの時代になり、自分の感性は時代遅れのものになりは何もかも時代から取り残されている。

 

自分の好みを追求しようと思えば、それらが奇跡的に重なるような作品はもう今後現れないだろう。

ヒイロ・ユイ「教えてくれ五飛、もうモビルスーツはこの世の中に必要ないのか?」

壮大な戦いにロマンを求める自分に現代で居場所はない、そう気付いたときそういった作品を作れるのは自分自身しかいないことに気付くのだ。

 

ガンダム自身はまだ現在も続いているコンテンツだが自分が好きなW,SEED,00のように複数のガンダムが存在し、それらを操縦するキャラクターのデザインがジャニーズ風の美少年のパイロット達となると最近はそういう物も存在しない。

前述の三作品が自分の好みに合い過ぎていたがゆえに他の作品には満足がいかない。

そして今後サンライズもそういった作品を作りはしないだろう、そもそもガンダム自体がかつての比べて勢いを失いつつある。自分好みの新作が発表される以前に、まず新作が今後コンスタントに作られるかどうかすら不透明だ。

 

コードギアスのような厨二病全開のアニメも今後は現れないだろう。

「ソードアートオンライン」のような異世界転生物なら存在するが、自分はあくまでミリタリー要素や現実の国家と通じるような世界観での戦いが見たいという嗜好が存在する。

ジャニーズ風のイケメンのキャラデザ、ロボットやミリタリー要素、政治や歴史要素、そして盛大な戦争の中にある厨二病感、これらが都合よく重なる作品などもう今後登場しないだろう。

結局これを満たしたければやはり自分でオリジナルガンダムを作るしかない。

 

ここに「キャプテン翼」にあるような各国の強豪国のエースに特色があり、国際舞台で競い合う雰囲気という好みや「タイタニック」や「もののけ姫」のようなかっこいい主人公やロマンの雰囲気、「青春アミーゴ」のようなレトロな雰囲気を加えれば、もうこれらの嗜好を揃えられるのは自分しかいないのだ。

自分にしか理解できないようなこだわりは自分にしか実現できない。

更に自分の好みと世間の好みが逆行しているならば、なおさらその作り手は自分しか存在しないということになる。

愛と幻想のファシズム(上)[ 村上龍 ]

 

更にもう一つの「過激な革命を描いた小説」というのも今日日なかなか存在しない物になっている。

具体的な作品名を言えば村上龍の『愛と幻想のファシズム』なのだが、自分にとってこの著作があまりにも理想的すぎて代替作品を見つけられないという状態になっているのだ。

そもそも現代の若者から情熱が消え去りもはや革命や暴動というものは過去のものになりつつある。そんな情熱の無い時代に対して抱く寂寥感を満たすのは架空の世界にしかない。

 

そういった過激な暴動やテロリズム、虐殺、戦争や独裁に向かう雰囲気、そんな昂揚感は村上龍にしか描けない。そして結局のところ村上龍の著作も"有限"なのである。

自分はまだ村上龍作品の中で読んでいない著作が存在するが、読んでしまえばそれは一度読んでしまったものとして新鮮さを失い未知の体験ではなくなる。

 

未知の体験は有限だ。

実際、自分が愛してやまない『愛と幻想のファシズム』も最初に読んだ時、数年ぶりに読んだ時の楽しさはもう存在しない、それが虚しい。

村上龍自身も既に高齢化しており、彼が永遠に執筆してくれるという保証はない。

 

こうなってしまえば結局は自分が書くしかないのだ。

とある芥川賞受賞作家が言っていたが「自分の好みに合う物は自分で作るしかない」ということばは真実である。

まして自分の好みが世間の流行と逆行しているならばなおさらその生産者は自分しか存在しない。市場に存在しない物は自分で作るしかない、それは例えば自分の家に完全に合う家具は日曜大工でハンドメイドするしかないことと似ている。

 

個人創作というのはいわば日曜大工のようなものだ。

創作とはそんな大層な物でもない、ただ自分の家に合うようなものを自分で作るように、自身の感性に完全にフィットするものは自己生産するしかないだけの話である。

時代が壮大な戦いを求めなくなり日常のささやかな幸福を希求する時代に突き進もうとしている中で、第二次世界大戦やコズミックイラのような世界にはロマンがあると言っている人間は今時頭のおかしい人間でしかない。

1980年代に執筆された村上龍の作品を今更美化してもあまり共感は得られないだろう。

 

自分の求める物が古くなり現役で制作する人が消えてしまった、そういう行き場のない人々が自分の為だけにコンテンツを生産する時代が来るのではないか。

正直に言えば今のインターネットというのはもはや個人創作の時代ではない。

個人創作に夢を見て自分の作品がネットで盛り上がっていくという幻想を抱くからこそ挫折し、そして虚しさを味わうことになる。

 

「誰かのためではなく自分のため」

そんなことを歌う歌詞は多いが個人創作とはまさにそのようなものだ。

自分好みのものは自分にしか作れない、自分が本当に好きなものを作る、その原点に戻ることも大事な事なのかもしれない。

個人創作に夢はもうないだろう、既にそういう時代ではなくなっている。ネットに投稿される物は年々プロフェッショナル化、高クオリティ化しており、今更個人の小さな手作りの物が評価されるわけではない。

 

究極のところは創作というのは自己満足であり、最大の消費者は自分ということになる。

もう第三者やネットに期待する時代でもなければ、個人が新しいトレンドを生み出せる時代ではないだろう。

そして「第三者に期待する時代ではない」というのは自分の創作が誰かに評価されることを期待しないほうがいいという意味だけではない、もはや誰も面白いコンテンツを生産することは無いという意味でもある。

 

最近「アーマードコア」というゲームが完全に新規作品制作から撤退したという話を聞いたことがある。

資本主義という現実にコンテンツは抗えない、売れない物は資本主義の世界では作れないのだ。結局どれだけ自分の好みの物であっても資本主義の原理がその理想を打ち砕くならば、最終的な生産者は自分しか存在しなくなる。

企業というものはボランティアで本当に素晴らしい物を作ろうとしているわけではない、あくまで資本主義という世界の中で戦っているに過ぎない。だからこそ本当に良い物は現実に淘汰される運命にある。

 

世の中がだんだんとつまらなくなっていっているのか、自分が単に時代に付いていけなくなっているのか、その答えは分からない。

しかし自分好みのものを作る人々も消え、そして自分の感性を理解する人も存在しなくなった現代において最後に頼れるのは自分しかいないのだ。

自分の理解者も存在しなければ、自分のために何かを作ってくれる人もいない、それならば自分のためだと開き直ることも必要になる。

世の中に本当に面白い物はもう存在しない、今後も"あの頃"のようなものが登場することはないだろう。自分の思い出の中にだけあるような世界は自分にしかわからない。

 

更に言えば創作というのは自分が当事者や主人公になれると言うところに最大の利点がある。

自分がその世界を思い通りにできる、厨二病的な表現かもしれないが作家というのはまるで手の上で世界を動かすことができる。

そこには誰かの作品を享受する以上の昂揚感が存在する。どんなゲームも誰かが描いたストーリーを後追いにするだけに過ぎないが、自分で描くストーリーというのは自分でさえも知らない体験なのだ。

あの日、あの時RPGの世界で体験した壮大な冒険以上の世界がそこにはある。

誰もそのストーリーを知らない、そして自分自身も。

想像は全てが自由だ、どれだけの内容であっても許される、何もかもが可能だ。

人から理解されることなんて考えない方が良い、自分の好みに振り切って自分のためにだけに作ったものの方が実は第三者から見て面白いのではないか。

他者から理解されることを捨てたほうがむしろ他者から理解される。今すぐ理解される必要もなければ、そもそも理解されるために作る必要すらない。

 

自分好みのキャラクターをいくらでも登場させられる、自分好みの演出や展開も自由、そして資本主義という原理に囚われずに永遠に制作が可能だ。

自分の好みをすべて揃えられる、そして自分の好に合ったかつてのようなコンテンツをもう誰も供給してくれないだろう。

自分の理想に合致するものはもう市場に登場しない、だからこそ自分で作るしかない切実な事情がある。

もう世界に期待してはいけない、あの頃の未来も存在しない。

 

しかしそれゆえに自分のためだけだとさえ開き直れば創作の情熱は維持できる。

いつか明治時代の文豪のようにどこかの旅館に数か月泊まりながら、1人架空の世界に集中して壮大な世界を描いてみたい。

創作の世界にはこの世の中に存在しない約束の地が存在するのだから。

小説家になる方法 本気で考える人のための創作活動のススメ

 

長友佑都「日本人は姿勢が悪くて表情が暗い人が多い」

長友佑都のツイッターへの投稿が少し炎上気味になっているという話がサッカー界で話題になっている。

長友佑都の謎の"イタリア目線"や意識高い系発言がうざがられているのは、もう数年前からの恒例行事でサッカー界のダルビッシュ有のような存在でもある。

その前も本田圭佑のツイートが炎上したりと、サッカー選手もTwitterの炎上戦線に徐々に参加しつつあるようだ。

 

自分は長友佑都のこういうキャラクターはよくわかっているので何とも思わないし、確かに事実な部分はあるのでそこまで批判しようとは思わない。

本当に長友佑都のことは尊敬しておりサッカー日本代表において史上最高のサイドバックだと考えている。セリエAにおいてこれほど長期的に活躍した選手は中田英寿以来である。

 

しかし「日本人の表情が暗くて何が悪い」とは言いたい。

今の日本人に明るい表情をしろといっても無理だろう、この国のどこに明るくなれる要素があるというのか。夢の無い国に生きている人間が明るくなれるはずがないのだ。

ビートたけしも「最近の日本人は下を向くようになっちゃって表情に元気がない」と言っていたが、もう疲弊しきった現代日本人に明るい表情をする力など残されていなくて当然である。

 

三丁目オールウェイズの夕日の時代でもあるまいし、何か漠然と素晴らしい未来が広がっているかのような時代ではないのだ。日本人としての自信となるようなものもない、現実を見ればかつて下に見ていた国に追い越されているのが日常だからだ。

まるでかつて「日本は神の国だから負けることは無い」と子供の頃に教えられていたら敗戦したように、「日本は世界一の先進国」だと教えられて育った世代は現実に直面している。

世界一の先進国で裕福な国なんじゃなかったのかよ、と今の若者世代は貧困の中で叫びたいだろう。

 

長友佑都

自分自身はサッカーが好きで日本代表も応援している、そして長友佑都の著書も持っていて個人的に好きな選手の一人ではあるが時々スポーツ選手の発言は「成功者目線」の発言に聞こえることがあるのも事実だ。

日本代表に上り詰めて、イタリアで優雅な生活をして女優の平愛梨と結婚していたらそりゃ表情も明るくなるだろう。

その一方で例えばブラック企業で酷使されて日々パワハラに晒されて、結婚適齢期も過ぎて誰にも相手にされない孤独な人間が明るい表情ができるわけがないのだ。

姿勢矯正パッドをそういった人が付けただけで表情が明るくなるのならば苦労はしない。

 

長友佑都の大学サッカーの補欠からセリエAのインテルにまで移籍したストーリーは本当に尊敬に値する、彼の努力は本物でありそこを否定するつもりは無い。

しかし努力が報われなかった人や夢を諦めざるをえなかった人も大勢いる時代に、運のいい限られた成功者目線で語ることは今の日本人には受け入れられないだろう。

 

確かに国民性が暗くなってきているのは事実だ、本来ならばそういった長友佑都のような成功者に前向きに憧れるような国のほうが幸せだろう。

日本人の国民性がどんどんと後ろ向きになり、炎上させて揚げ足を取る事しかストレス発散の方法が無くなってきていることは本当に悲しい。

主要国の若者で自己肯定感が最も低い国は日本だというデータも存在する。

しかし陰険な方向に向かっている日本人一人一人は日々の生活を懸命に生きており、何も悪いところは無い。

本当に悪いのは一人の個人がそういった陰険な性質の人間になってしまう社会そのものであり、夢の無い国にした人々だ。

生まれながらに陰険な人間はそれほど多くないはずだ、陰険な社会に育てられたから陰険な人間に育った、それだけのことなのだ。

 

長友よ余計なことは辞めておけ、今はワールドカップに集中する時だ。

大体日本人の表情を明るくしたければあなた方日本代表が次のワールドカップでいい成績を収めることが最大の方法なのではないか。

姿勢矯正パッドではないだろう、本当に世の中の人々が求めているのはワールドカップでの好成績だ。そのほうがよほどてっとり早く皆が明るくなる。ワールドカップでベスト8にでも進出すればその経済効果は計り知れない、日本代表として頑張ることがよほど確実な手段のはずだ。

 

それに明るい表情をしていないのは日本人だけではないだろう。

ACミランのサポーター、つまりミラニスタはもっと暗い表情をしているのではないか?

今回のツイートはイタリア語で「ミラニスタは表情が暗いね、きっと順位が低いからだろう。まぁ何位か調べる気にもならないがね」と煽る勇気があれば長友の発言は許されたはずだ。

長友のツイートを批判する人も「そういえば君はインテルに入団してからセリエAで優勝できていないはずだから、まずインテリスタの表情を明るくしたらどうかな」と皮肉めいた書き方をすれば面白くなるだろう。

しかしそういう皮肉の余裕もないほど世の中荒んでいるのだろう。

ユーモアも余裕もない人、そしてがちょっとした冗談すら許せない暗い表情の人も増えた。今回の長友佑都のツイート騒動を見て現代社会を象徴する炎上の一つだと感じた。一体日本社会はどういった方向に向かっていくのであろうか、ただひたすら誰かの批判のためだけには躍起になる社会が到来するように思えてならない。

バーチャルユーチューバーって今後流行ると思う?

バーチャルユーチューバー論や考察は結構盛んらしく自分もその存在を知ってから、その可能性や未来について考え始めている。

この盛り上がりというのは黎明期特有の一時的なブームに過ぎず、単なる目新しさに過ぎないのか今後バーチャルユーチューバーというのが当たり前の存在になっていくのか、それはまだ未知数なところがある。

 

日常アニメの時代がはじまり、けものフレンズに行き着き、更にその日常系の極致がまさにバーチャルYoutuberなのではないかと自分は見ている。

つまりユーザーの多くが難しいアニメや壮大な世界観よりも、日常のささやかな癒しや手軽に視聴できる利便性を優先してきた結果が現在のバーチャルユーチューバーなのではないかという考え方だ。

もう今のアニメファンはアニメの世界ですら壮大な夢を見ることを望まなくなっている。

 

自分自身が既に毎週同じアニメを楽しみにするという習慣は過去のものとなっており、一つのアニメ作品を全話見たという経験は数年前にまで遡らなければならない。

端的に言えばアニメを見ることがもはや面倒なものになっている。

自分自身がかつての情熱を失い現代社会に疲れているということは大前提として、昔に比べて面白いアニメも減り視聴も難しくなったという背景が存在する。

インターネットも一昔前のように「ネット民は全員教養としてアニメを見ていなければならない」という風潮も無くなり、インターネット上の流行についていくためにアニメを見る必要も無くなった。

 

「けものフレンズ」の時は若干その雰囲気はあったが、全盛期ハルヒやけいおん!の時代に比べればだいぶネットもオタク的な人以外の層も増えてネットの中でも趣味や娯楽が多様化した。

今以上に一昔前のネットはオタク文化一色だった時代があるが、今は世間がオタク化したように逆にネットも一般化している時代になっている。

 

そんな中でわざわざ苦労していわゆる萌え系の深夜アニメをもう見る時代でもない中で、かろうじて日常アニメやソシャゲがその変わりになってきたという時期が続いていた。

そしてもはやそういったアニメやゲームの時代ではなくなり、二次元のキャラクターが好きな層も今後ユーチューバーに移行していく時代が遂に訪れようとしている。

 

「一般人」と表現すれば語弊があるかもしれないが、いわゆる一般人が芸能人よりもごく普通の存在に見えて親近感を感じさせるユーチューバーを見る事に移行していったように、今後オタク層もアニメやゲームといった"権威あるコンテンツ"のキャラクターから、「バーチャルユーチューバー」といったカジュアルなコンテンツに移行するのではないか。

 

既に数年前に「今のアニメ視聴者は30分見ることに耐えられない」というようなことが指摘されており、より短いアニメが模索されていた。しかし決まった時間に視聴することや録画が必要なアニメという媒体自体がもはやオワコンになり、気軽にいつでも順を追わずに好きな物から見れるバーチャルyoutuberが今それらを駆逐しようとしつつある。

 

スマートフォンが登場したことによってデジタルカメラ、ノートパソコン、腕時計、携帯音楽プレイヤーなど諸々の機器が物の見事にオワコン化しそれらの市場規模は大きな打撃を受けた。

自分はバーチャルユーチューバーは「キャラクター界のスマホ」なのではないかと考えている。

つまりバーチャルユーチューバーさえ見ればキャラクター目的で漫画やアニメを見る必要もなければゲームをする必要もない。既にソーシャルゲームに本格的にキャラクター産業が進出したことによって、いわゆるギャルゲーのような恋愛ゲームは完全に衰退した。

元々割られたら終わりだったギャルゲーよりもユーザーが積極的に課金してくれるソシャゲのほうがキャラクター産業としては優良な分野だった。

今や自分の「嫁キャラクター」を求めている人の多くはソシャゲをしており、どのジャンルのキャラクターを重視するかというのは時代によって変化しつつある。

 

バーチャルユーチューバーはソシャゲのキャラクターに比べれば所有欲は薄れるが、課金の必要も無く視聴者に直接話しかけてきてくれるので誰かと共有しているという親近感はある。

更に現在もスマートフォンを所有していない層や、所有していたとしてもゲームまではする気になれない層というのは一定数存在しパソコンでも見れるyoutubeという媒体は強い。

 

結局のところアニメのストーリーや世界観を真面目に見ようとする視聴者は少数派で、実際はほとんどのファンがキャラクター目的で見ている現実がある。

そのキャラクターだけに初めから特化しているバーチャルユーチューバーが今後新たなトレンドになっていく可能性は高い。

もうわざわざ難しいストーリーを考えて、様々なキャラクターを揃えて毎回背景まで手書きで書いて作ったアニメというのは今後面倒な物でしかなくなるのではないか。

大部分のオタク層は実はもともとアニメを真剣に見ておらず、ただ嫁キャラクターが欲しいだけでありその部分に最初から特化できているAIのユーチューバーというのは即自的だが効率的でもある。

 

消費者側も製作者側も効率を重視した結果行き着いたのがバーチャルユーチューバーなのだとすれば発展の可能性は大いに存在する。

しかしこれも黎明期だからこその現象で、今後この分野が注目されるならば大手ゲーム会社やアニメ会社が本格的に参入しより高度なグラフィックで作られたバーチャルyoutuberが登場する可能性もある。

その時に黎明期のキズナアイやカグヤルナを知っている人は「初期のカクカクしたチープなほうが味わいあってよかったんだよなぁ」と懐古するかもしれない。

出始めの頃のユーチューバーも今より素人感があり、手作りで作っているような雰囲気があった。

 

しかしその頃を懐かしむ人々よりも、今現在の高クオリティの物を楽しむファン層の方が多く、将来的には今以上にクオリティの高いバーチャルユーチューバーが増えているだろう。

本家ユーチューバーもソシャゲも黎明期の頃から進化して、初期の雰囲気は確かになくなったが市場規模や影響力は拡大した。

 

ただそれは同時に製作費の高騰や新規参入の難易度上昇などの問題を発生させることにもなる。

初期のソーシャルゲームは従来のゲームに比べて開発費が安く済むことや課金システムによって収益が得やすいというメリットがあり夢のある市場だった。しかし参入する企業が増えると競争が激化し今ではソシャゲすら製作費が膨大にかかる時代になっている。

Youtuberも初期は素人が作ったものがうけていたが、今では事務所に所属する有名ユーチューバーによる寡占化が進んでいる。

 

バーチャルユーチューバーも結局は同じ運命を辿ることになるだろう。

登場し始めの黎明期だからこそちょっとチープなCGや適当な会話内容でも支持されているが、今後徐々に高度になって行って従来のアニメやゲームの製作並に力を入れて作られる時代が来るのではないか。

そうなれば製作費が高騰し初期のようなグラフィックでは生き残れなくなり、最先端CGで本格的に作られたバーチャルユーチューバーだけが生き残っているかもしれない。そしてそれが新しい文化だと持てはやされるだろう。

その時に初期の時代を知るファンは昔を懐かしむのか、それとも発展した世界を歓迎するのか、それはまだ現時点ではわかる由もない。