負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

宮川泰介君、日大アメフト部やめるってよ

先日記者クラブで行われた悪質タックル問題の会見、自分は生放送で断片的に見ていたがかなり大きな論争を巻き起こしているようだ。

 

最初この問題が起きた時、また世間が新しいバッシング対象を見つけて騒ぎ立てている程度にしか思わなかったのだが、今回の日大アメフト部による悪質タックル問題はこれまでの問題とは一線を画している。

ただ単に野次馬的に芸能人の話題を騒ぎ立てている事とは違い、もっと大きな構造的な問題や背景についての問題提起であり、日本社会が長年抱えてきた問題がここに来て噴出してきたといったほうが適切だ。

 

もっとマクロな視点でこの問題を見なければならないし、単なるバッシングとは違い明確な社会問題だ。

 

この会見で自分の印象に残ったことは大きく2つある。

・命令に逆らえない構造があったこと

・問題を起こした選手が自分の責任だと反省し、アメリカンフットボールから退くこと

 

どす黒い組織の闇として悪質なタックルを命令されたり、日本代表から招集されても行かせてもらえずスタメンからはずされたり、そういった理不尽なことは今回暴露された。

日本人の問題として、理不尽に苦しめば成長するという美徳を信じきっているところが諸悪の根源だ。悪気があることもあるが、時としてそれが悪気のない善意の名の下に行われている事さえある。

未だにこの価値観が社会に浸透しており、未だにブラック企業や上司によるパワハラ問題などが絶えない。

ちょうど働き方改革や部活動改革が議論されている時期に、こういった現場で起きているリアルな問題が白昼に晒されたころは大きな意義がある。

 

そして真に問題なのは、今回ある意味で組織的な構造の被害にあった立場の選手が、今度は自分がやられたことをやる側になるという問題だ。

これは社会や仕事、部活、学校の上下関係などあらゆる部分で散見されるが、自分がされたことを今度は上の立場になった時するという人間そのものが持つ悪習をどうしても人は辞めることができない。

これは日本に限ったことではなく、イギリスのスポーツ文化でも何度も問題にされている事であり、インドの映画でもそういったシーンが出てくる。

こういった悪い風習を自分の代で終わらせる勇気を持った人は定期的に出てくるが、それでも悪習を踏襲する側になる人の方が圧倒的に多数派だ。

 

また今回の問題を機に宮川泰介選手はアメフト部を辞め、今後アメフトとも関わっていくつもりは無いと会見で話したが、それに対して「辞めないでほしい」と考える風潮も問題だ。

アメフトが楽しいという感情がなくなったと彼は語っていたが、それは自然な感情だし辞めたいと思ったら辞めていいはずだ。批判されるべきは楽しいという感情を失わせた日本のスポーツ文化そのものが持つ構造の方である。

 

辞めることに対して残念だというネガティブなイメージで語られるが、自分はこれがむしろ腐敗した文化から抜け出し新しいスタートのきっかけになればよいと考えているし、やり直しがきく機会であってほしくも思う。

あくまで宮川泰介、ずっと閉鎖的な部活動という異質な環境で生きてきただけであり、知る機会や疑問を提起する機会を与えられなかっただけだ。

内田監督と話す機会もなかったと語っており、末端の人間だけが責任を問われ、上層部は雲隠れするというのは日本社会の闇を表している。

 

そもそも仕事は辞めてはいけないとか、続けることが美学だという日本のその価値観は変えていかなければならない。

「やり通す」ということを日本人はよく美化する。

それは良いことをやり通すなら確かに美徳だが、悪いことを続けたり弱い立場にある人を利用する言葉の魔術として使われていることの方が多いのではないか。

一度辞めた人や失敗した人に対する寛容さがこの社会には欠けている。

撤退することを転進と言い換えた戦前の構造と酷似しており、日本人は辞める事や諦める事に対してどうしても悪いイメージを持つことが多い。

自分の学生時代はまだ部活が強制入部に近い時代であったし、一度はいると3年間やり抜くことが一人前の人間になるための過程だという考え方が根強く、なかなかやめられない人を多く見かけた。

 

ここからが真の問題で、日本社会というのはどうしても部活動経験者が多く、そういった文化が労働文化にも強く持ち込まれている。

冷静に考えれば部活動的な上下関係というのは異常でしかないのだが、それが仕事や社会に広く持ち込まれているのが日本社会が抱える大きな問題だ。

その狭い世界観の中ではそれが普通の事だと考えてしまい異常なことに気付かない。

またそういった部活動文化の源流は、軍隊文化に行き着くところがあり、それが姿を変え部活動や社会に現代も蔓延している。

 

よく戦争の中ではその命令の理不尽さに気付かず、やるしかないのでやったという話を聞くが、組織の中にいるとどうしても正常な判断ができなくなってしまう。

特に日本人の場合「社会」や「組織」というものを信奉している部分があり、ナチュラルに個人を組織の下におく考えを持っている。

軍隊が人命を軽視した時代から、仕事に携わる個人の尊厳を軽視する時代になっただけであり日本の本質は変わっていない。

日本の仕事文化はどうしても末端の人間の善意や奉仕に依存しているところがあるのが現実だ。更に逆らえないことをいいことにやりたい放題であり、反対することができない日本人の国民性も上手く利用されている。

相手の選手にタックルして壊せと命令されて実行に移したケースは、かつて上官に抵抗しない捕虜を撃てといわれたら撃ったのと一緒であり、なんら変わるところは無い。

今回辞任した内田監督が旧軍の指揮官であり、宮川選手は二等兵だ。

 

今回、宮川選手は「命令されたとはいえ実行に移したのは自分なので反省している」と言っていたが、これが社会的に大きな問題になっていなかった場合彼は今後むしろいつか命令する側になっていただろう。

自分もそうさせられてきたのだから、そういった価値観は日本社会の中で何度も見かける光景だ。

そういった悪しき部活動文化を持ち込む人がまだ日本には多いし、部活動を経験していない人はまだマイノリティだ。

 

自分のように中学、高校共に帰宅部だった人間は部活動もやってこなかったのかと社会に出れば軽んじられる側であり、なおかつゆとり教育を受けた人間なのでそのギャップにも苦しむことになる。

 

学生時代ゆとりを持っていいと言われて育ったのに、いざ社会に出るとゆとりを持つことは禁じられ悪い風習を押し付けられる。

その上、部活動的な文化や価値観まで労働の現場には蔓延しており、立派な社会人になることが美徳だという効率の悪い価値観に染まらせられる。

今でこそ部活動文化に疑問を呈することは少しずつではあるが認められるようになってきた。しかし以前は部活動をしていないと言うだけで本当に、人間性に問題があるのではないかとまで見られていた時代があったし今もまだ完全には改善されていない。

部活や仕事というのはこの社会において、神聖不可侵の美徳や宗教のような存在である。

そこに適応できない者はマイノリティとして排斥され、白い目で見られる。

批判されるのは悪い構造ではなく、そこに適応できない個人の方だと見なされる。

日本的な労働文化や部活動文化に反対する人は非国民、これがまだ日本の現実だ。

乃木坂46の西野七瀬さん、無事文春砲が直撃する

坂道系列グループといえば、もうスキャンダルのことでしか話題にならない印象がある。

乃木坂46がスキャンダル集団であることはもう何年も前から有名で、その妹分の欅坂46も案の定後を追うように、先輩の背中を見習って同様のことを起こしている。

 

自分がAKB系列のアイドルに以前ほど興味を持たなくなったというのもあるかもしれないが、外部に伝わってくる情報は大抵こういったスキャンダルニュースだ。

なぜ自分がそこまで興味もないのにこういった情報を知っているかといえば、それは自分の習慣としてスポーツの話題を見ていると、そのサイトがアイドルまとめなどと提携している場合自然に目につくからである。

 

下衆な話だが国内アイドルに情熱を無くした今、自分が興味を寄せるといったらどうしてもこういった話題になってしまう。

 

今回の西野七瀬というメンバー自体に関しては、名前は聞いたことがあるが顔は浮かばないという程度の認識だった。乃木坂の中では有名で主力メンバーであり、元々握手会での人気が高くいわゆる「ガチ恋」と呼ばれる真剣なファンが多かったようである。

それゆえにファンのダメージやショックも大きく、荒れているという事態になっている。

西野七瀬だけは信じられるというファンも結構いたようであり、それゆえに衝撃は大きい。

 

そもそもスキャンダルが怖いならば最初から乃木坂46は地雷として避けておくべきだったように思わなくもないのだが、入れ込むファンはそれでも多いようである。

AKB系列がブームになってもう10年以上経つ上に、乃木坂もかなり古参グループになっているのだから、その実態ぐらいわかって当然なのではないかと考えるのは自分が部外者だからだろうか。

あの乃木坂に清純なメンバーなどいるわけないだろうにというのが正直な本音だ。

逆にまだアイドル性を本気で求めているファンが残っていたことのほうが信じられない。

そしてファンの方には失礼ではあるが、正直自分にはこの西野七瀬の可愛さが良くわからない。

よくありがちな顔というか、最近のトレンドを平均的に反映した美人という感じがしてあまり惹かれない。

乃木坂自体全員同じ顔に見えるし、その妹分の欅坂はもっと同じに見える。

 

なんというか坂道系列は結局「プロ」ではないんだなというのが彼女らの感覚であり、やはり部活の延長線上の域を出ないように思う。

まだ本当にプロフェッショナルなグループがスキャンダルが出たとしても、それは本当に凄い人たちの別世界の事なのでなんとなく許容できる部分がある。

しかし西野七瀬本人というよりも、この手のグループ全般に言えることだが、本当に一般人をちょっとレベル上げたぐらいの人が普通に一般人の感覚で遊んでいたら駄目だろうというのが自分の意見だ。

それは現実を感じてしまいげんなりしてしまう。

 

プロフェッショナルなことが提供できず、素人感を売りにするのであればそれはファンサービス以外何の価値もないわけで、そこを裏切るのであればもはや何の価値もない。

 

こういった秋元系列のグループは良くも悪くも、入るのも出ていくのも簡単で大学に関して言えば私立文系でそこまで偏差値も高くないような雰囲気に近い。

 

自分が理系だったから私立文系を恨んでいるというわけではなく、むしろ自分も文系ではあるのだが、どうしてもそういう大学の感覚でアイドルをやっているように見える。

だからこそ自分はジャニーズや韓流のように本当のエリートを最近は評価しているし、逆に同様に軽い雰囲気を感じる女性声優や地下アイドルなどには魅力を感じない。

最低限プロをやっていて、その合間に遊んでいることはそこまで問題ないように思うが、部活的な感覚でやってプロを全うしてもいないのに遊んでいるという人たちを応援する気にはなれない。

 

そろそろこういう素人の感覚がもてはやされる時代も終わり、一周回ってまたプロが求められる時代が来るのか、それともまだこの風潮が続くのか。

坂道グループもここに来ていよいよ終焉が近づいているように思えてならないし、それは当のファンの人々も認識しているようである。

欅坂も先日主力メンバーのスキャンダルが発覚していたし、いよいよここに来て乃木坂と共に姉妹そろって共倒れになりそうだ。

自分の行動力の無さが情けない

また一週間が虚しく過ぎようとしている。

実はここ最近、そろそろ行動をしないといけないと考えて計画を立てていたのだが結局惰性で先延ばしにして数週間が過ぎようとしている。

典型的な明日から本気出すパターンで、その明日は永遠にやってこないという状態だ。

 

いろいろ言い訳を考えたり、今日はこれをやったのだから自分の中では一生懸命やったと納得したりしていつの間にか時間が過ぎている。

そもそも地元に出戻ってからすでにもう2年が経とうとしており、本当に何をしていたのかという虚無感が大きい。

全く何もしていなかったわけではなく達成したことも無いわけではない。

例えば自動車免許を取得したことはこの2年間で大きなことではあったが、いまいちそれを上手く活用できておらず人生を劇的に変えるという事には至っていない。

 

なんというかとにかく行動力が無く、すべてがだるいという結論に行き着く。

というよりも現代人の多くが今の時代行動力が欠如しており、何もかも最低限で済ますような時代になっている。

ワンマイル族だとか言われるが、職場や学校と家を行き来して仕事が終わった後や放課後、そして休日には特に何もしないというライフスタイルが定着している。

仕事終わりにジムに通ったり、ボルダリングやエステに行ったりする人は相当意識が高い人だし、そもそも地方だとそんな施設すらろくにないのが現実だ。

仕方ないからネットサーフィンをして、ユーチューバーでも見ながらストロングゼロでも飲んで意識低く生活するという事を毎日惰性で続ける。

そんな生活をしている人が急増している。

 

何かが欲しいとか夢を実現したいとか思っても、そこに至るまでの過程があまりにも面倒で結局いいやと現状に満足する。

希望や欲望よりも、目の前の労力の方が気になり、ダルいという感情を優先してしまう。

それほど世の中に面白いものがあるわけでもなく、別にそれを追わなくても批判されることは無いし、似た様な人が大勢いるのでこんなものかと納得できる。

日本人全体が小さなもので満足するようになったとも言えるし、身近に手にはいる範囲内の物でもそれなりに充実できるものが多くなった。

景気低迷や少子高齢化という暗い時代に、ちょうどネット社会が到来して見事にその相性が重なった。

 

自分と似た様な駄目な人を大勢見つけられるし世の中皆そこまで意識高く生きてないことに気付くと、そこまでして手に入れる物でもないなと諦めがつく。

現実的にできる範囲内の事を最低限やっていればいいという考え方の人が増え、日本はゆるやかに停滞していくのだろうが、悪いのは夢を追わない個人ではなく夢を追っても無駄な社会構造だとか、そもそも夢が存在しない世の中の方だ。

 

そんな言い訳を思いつけば自分の現状も仕方がないと言い聞かせられるし、そんな虚しい生き方でも惰性で続けていれば気にならなくなる。

昔思い描いていた夢ももう興味が無いし、手に入れられなかったものへの情熱もだんだんと薄れていく。

失っていく物に対してもそれほど後悔の念が沸かないようになるし、とにかくいろいろとダルい、それだけだ。

 

行動しないといけないということが頭では分かっていながらも、体が動かない。

前に進もうとする意欲が一切ないというわけではないのだが、それよりも億劫さが勝ってしまう。自分にできることはたかが知れているし、一緒に情熱的にやって行こうという仲間もいなければ誰かのためにやる必要性も感じない。

やらなきゃいけないということは理解しているが、本当にその状況に追い詰められないかぎりそれはまだやらなくても間に合う時期だと考えてしまう。

その結果自分は過去に受験に失敗して今に至るわけだが、その教訓を生かせず今日も同じことをしている。

まぁこれが自分の人生なのだろう。

note.mu

結局アニメは放送中しか盛り上がらないのが弱点

アニメ最大の弱点に気付いてしまった、それは放送中止か盛り上がらないという致命的な構造だ。

特に昨今大量生産されている1クール型のアニメはその12話の間しか盛り上がらず、放送が終わればブームは下火になり、そこに群がっていたオタク達は冷淡に去っていく。

この冷たさや後の祭り感が自分は虚しくなったからもしかしたらアニメを見なくなったのかもしれない。

 

最近アニメで流行った作品といえば『ゆるキャン』の名前を良く見かけたが、それですら最近徐々に下火になりつつある。

あの作品は冬の寒い時に、暖かそうなキャンプを見るから楽しかったわけで放送が終了し季節が変われば、そういうムードでもなくなっていく現実がある。

お祭りが終わればまた日常に戻っていかなければならないし、今後もうネットが一つのアニメで盛り上がるような事はもう無いだろう。

けもフレですごーい!と言っている人なんてもうどこにもいない。

所詮一瞬のブームに群がる人々など仲間であるかのように思えて、終わった後は去って行く他人でしかないのだ。

 

だからこそ明確な放送期間が存在せず、日々投稿が続けられるバーチャルユーチューバーは安心感があるし現代に適応したコンテンツになろうとしている。

放送期間中にしか盛り上がらないアニメの弱点を克服したのがバーチャルユーチューバーなのだと考えれば画期的だ。

 

またこういった男性ファン主体のアニメというのは、熱しやすく冷めやすいファンが多くなりがちで深みや濃さは無い。

逆に女性ファン主体のジャンルというのは、ずっと語り続けるようなファンが多くコミュニティがそこに存在し続けるというのが大きい。

例えばもう数年前のアニメを熱く語っている男性オタクはほとんど存在しないが、ジャニーズのようなアイドルだと古参グループにも現役で語るファンが大勢いる。

男性に比べて女性の心理が複雑なところもあるのかもしれないし、一度好きになったら女性ファンはずっと応援し続ける傾向がある。

これはアイドルに限らず声優などにも言えることで、女性声優は消耗品のように変わるが男性声優は未だにあの人がやっているのかということが多い。

 

昔のオタクはもっと二次元の嫁を本気で愛していたよなぁという懐古になってしまうが、今の男性オタクは非常に浅はかな気質になっているように思う。

ネットでも定型文や短文でしか語れないし、単純な事しか考えていない。

オタクはこじらせてナンボであり、面倒だからこそ良かったが今のオタクコンテンツは全てが簡単でカジュアルな物に向かいつつある。

 

男性であっても例えば軍事や歴史といった硬派なジャンル、アニメならガンダム、あるいは特撮に集まっているファンは重厚なファンが多い。

野球はなんJに影響されたライトファンが増えているが、逆にサッカーはコアな評論家が多く自分は気に入っている。

日常アニメやバーチャルユーチューバー、なんJというのはてっとり早く浅い人間が集まる場所のような世界になっているのかもしれない。

難しいことは避けたいというのが現代人の本音だ。

 

そしてやはりお祭りが終わり日常に戻っていかなければならないというのは寂しい。

それはオリンピックやワールドカップが終わる寂しさにも似ていて、アニメが最終回を迎えるというのは虚無感がある。

オンラインゲームやソーシャルゲームがサービスを終了することとも似ているだろう。

 

その悲しみが虚しいからこそ終わりのないコンテンツに自分は居場所を求めているのかもしれない。

例えばジャニーズは近年有名なグループが解散するという大きな出来事はあったが、基本的に解散することは稀でなんだかんだで活動は続いていく。

グループの勢いが落ちたとしても、むしろ女性ファンはそういう不遇の時にこそ燃える傾向があり、逆に盛り上がることも多い。これはブームが過ぎ去れば何事も無かったかのように去っていく男性ファンとの最大の違いだ。

 

ガンダムも終わるといわれながらも、根強いファンがおり議論は連日続いている。

他にロボット関連作品が作られなくなったことにより、仕方なくガンダムに移住する層も存在するため意外とこれからも息が長そうだ。

 

放送すれば一気に盛り上がらなくなる1クールアニメより、バーチャルユーチューバーの時代になっていくようにこれからはそのコンテンツの持続性というものが求められるのではないか。

むしろ日常がいつまで続くかわからないという不安の方が大きい時代に、しばらくは安泰であるという保障性はもはや貴重な物になっている。

現れては消えていくチェーン店より変わらない味を提供し続ける老舗が良いし、何も起こらないことがむしろ幸せな時代だ。

続いていく事はかけがえのない事なのだ。

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エネルギーが無い人間は駄目人間なのか?

自分が良く使う言葉として「無気力」というワードがある。

これは自分の中で頻出単語であり、やる気が無い、停滞感がある、ダラダラしてしまう、先延ばしにしてしまいがち、などとにかく駄目な人間が使いがちな言葉を良く使ってしまう。

 

ここ最近感じることが、情熱ある人はどんどん進んでいくなという事である。

というよりも情熱を傾けられるものを上手く見つけて、なおかつそこで活躍で来たり恩恵を受けられたりすると人は進んでいく。

自分が応援していたり気にかけていたりする人は芸能人にしろ、ネットにしろ、アスリートにしろ何人かいるのだが、気づけばどんどん先を進んでいる。

しかしそこに対して嫉妬という感情を抱くことは無く、好きで見ている人達なのでむしろ勇気づけられている。

逆に期待はしていたけど思ったほど成長していない人に対しても共感を抱くし、これから這い上がって行ければというモチベーションにしてもいる。

 

多分、本当の意味で情熱が無い人というのはいないように思う。

一般的に価値があると信じられているものに対してエネルギーが沸かないだけで、自分の好きなものや相性の良いものに対しては物凄く情熱を傾けられるというのであれば、気力が欠如しているとは言わない。

 

例えば自分は普通に仕事をすることに対してまるで情熱を感じられず、一般の社会人として溶け込んでいる人のことを尊敬するとまではいかないが、そこまでできるのは凄いと感じる。

それは身近な自分の家族を見ていても思うし、人づてに聞いた学生時代の級友の話しや、地元で見かける知り合いなどを見ていても思う。

 

しかし逆に彼らから見れば、自分が俗世間から離れ、ここまでどうでもいいことを追求して考える事の動機は理解できないだろう。

多くの人は「考えるより動く」ことに情熱を傾けているし、世の中では考える前に動くことが立派だとされているが、自分は典型的な頭でっかちな「動くより考える」というタイプだ。考えることが好きな人は世の中では面倒な人として扱われる。

その上それは知的労働や生産的な活動を行っているわけでもなく、無駄な事ばかり考えているので意味がない。

 

ただ今後、AIにいろんなものが大体されていく時代に人間ができる物とは何か考えた場合、こういった無駄なことを考える事が一つの人類の生きる道になるのではないかとも考えている。

これ自体が無駄な思考であり、別にこう考えたからと言って今すぐ自分に何かの恩恵がもたらされるわけではない。

 

しかし世の中、実は無駄な物の方が溢れていて、くだらないものほうが需要がある時代になっている。

自分が昔フラッシュ動画やMAD動画を見ていたのも、おそろしくくだらないからであり、今ユーチューバーを見ている人もそれがくだらないからだろう。

 

そんなことを言えば子供がやる遊びのほとんどが、大人からすれば滅茶苦茶意味がないように思えて何をそこまでやっているのかと疑問に思う。

 

つまりくだらないことに情熱を傾けられなくなったら、それは大人になってしまったという事なのだ。

社会というのは無駄なことを許さないし効率を求めなければ生き残っていけないようにできている。そこで人間は無駄なことをしないように成長していくし、必要な事しかしなくなる。いや、無駄なことをする暇などないというのが適切な表現だろう。

 

ただよくベーシックインカム論にあるように、ミニマムな生活して最低限に暮らしてるけど時間だけはあるというライフスタイルにも限界はある。

今の時代駄目人間や底辺というものが肯定されすぎていて、本来ならエネルギッシュにやっていたはずの人までこっち側に来てしまっているのではないかとも感じる。

人間というのはやらなくていいことは、どうしてもやらないようになってしまうし、そもそも昔から楽をするために様々な発明をしてきた。

 

いざ好きなことをしろといわれても、やることが無い人の方が多くて、例えば「趣味が見つからない」という悩みを持つ人は多い。

自分もものすごく好きなことを情熱的にやるときと、だらだらくだらない物を見ていたいだけの時がある。それどころか何もやりたくない時があり、最近は「何もやらないことが最適解」なんて言葉を考えてただゆっくり無気力に座るか横になる貸しているだけのこともある。

 

例えば電車の中でしきりにスマホをいじっている人が多いというか、もはやそういう人しかいないが、自分にはそこまでするものがあることが不思議で、それが仕事でなかったとしても世の中の人忙しいなと感じる。

 

かといっていつまでも何もすることが無い空白の状況に人間は耐えられるようにできていない。

結局大部分の人は自由に時間を与えられても困るだけで、何かやらなければならない状況下におかれているほうが幸せだったのではないかとも考える。

お見合いが衰退して自由恋愛の時代になって、好きな人と愛し合っていいと言う時代になると、逆に好きに恋愛することが分からなかったり、好きにやろうとしても上手く行かなかったりという問題が起きて未婚率が急増した。

 

恋愛に限らず、人生の生き方にしても、趣味にしても「好きにやっていい」と言われると実は好きにやれる人しかできないという状況になってしまうのだ。

ゆとり教育で個性を大事にしていいと言われれば逆に個性のある人が減ったように、反発する物が無ければ人は何もしなくなる。

労働時間が今より長かった時代だからこそ、それをどこかで発散しようとするから世の中にはいろんな活気があった。

 

結局のところ日本人は自発的に狩りを行う狩猟民族ではなく、計画や自然に左右されてその中で生きる農耕民族としての歴史が長く、近代になってからはそれが「社会」であった。

 

「社会人」などという言葉がステータスとして語られる国は世界的に見て中々存在しない。

パックンが「連帯責任という言葉は英訳するのが難しい」という言葉を使っていたが、厳密に正しいニュアンスで訳そうとすると「社会人」という言葉も日本的な意味では外国語に翻訳できない。

 

なぜ日本ではそこまで社会人であることが清く正しく求められるのかという疑問と共に、実は社会人というアイデンティティを押し付けられている方が日本人は居心地が良かったのではないかとも考える。

 

年齢や出身地、職種以外の事でいざ自分を規定するとなれば日本人にその習慣は根付いておらず、なかなか話の糸口が見つからないという事は多い。

 

自由恋愛になると恋愛できなくなるし、個性を容認されれば逆に個性がわからなくなるし、自由に生きていいと言われれば逆に路頭に迷う。

大部分の人は結局凡人でしかなく、レールに敷かれて上から何かを押し付けられていた時代の方が幸福度は高かった。

時間にしろ生き方、個性、恋愛、権利にしろいきなり「自由」を与えられても日本人はその使い方以前に概念が分からない。

FreedomとLivertyがどちらとも「自由」と造語されている時点で日本の近代化は独自の路線に行かざるをえなかった。

そんなことを考え、その概念が日本語に翻訳することの難しさに気付いていた人は既に明治時代にいて、それは福沢諭吉という超有名人である。

自由にしていいと言われると、逆に途方に暮れてしまうのが日本人だという事が明らかになりつつある。もちろん好きなことを出来る人も多く、出来る人と出来ない人の差が大きくなっているのが現代だ。

 

それでも今の日本では好きな事を追求する文化が発達しており、だからこそオタク文化が発展してきた。

しかしこのオタク文化も、既存の押し付けられた一般文化に対するアンチテーゼや逆張りだったからこそ濃密に発展してきた背景があるため、近年オタクが容認され市民権を得るようになると逆に浅はかな物になって来ている。

 

それどころかむしろオタクの世界の方がかつての上から押し付けられるものを、それが流行だと受け入れてきた一般文化のようになって来てさえもいる。

けものフレンズが流行れば皆で「すっごーい!」と言って一体感を味わえば幸福だし、バーチャルユーチューバーが流行れば皆そそくさとそこに行く。

結局大衆の本質は変わっておらず、忙しく疲れ切った現代の中で主体的に考える余裕などないのだ。

 

かつて流行にも興味を持たず、食後の飲み会を断ってでも、好きなことに情熱を捧げる協調性のないオタクが多かったからこそオタク文化は濃密さがあった。

しかしごく普通の人々がオタク文化に入らざるを得ないと、そこには同時に一般性ももたらされる。

 

つまり前述の昔だったら普通に生きてた人が駄目人間になれるようになった話と同じで、一般文化に流されていた人が今はオタク文化に行かざるを得ない時代になってしまった。

図工の授業などを振り返ればわかるように、「好きな絵を描いて良い」と真っ白な画用紙を与えられて、何かを描ける人はそこまで多くは無い。

画題やテーマを指定されればまだ描けるかもしれないが、それすらない場合何を描いて良いのかわからないという人が続出する。仮に描けたはいいとしても、それが良いものかとなると別だ。

 

このように大部分の人が「好きにやっていい」と言われれば実は困るわけで、それはまさに今の日本社会をあらわしている。

上手く情熱を傾けられる好きな物が見つかり、そこで生きていける人やそのために必要な努力ができる人にとっては今の時代まさに理想的な時代だ。

しかしいざ好きにやれと言われて出来る人や、それ以前に好きなことが見つかる人のほうが少数派で、現代はいろんな人が迷っている。

 

実は親の後継ぎで仕事をしていた時代や、縁談で人生が決められていた時代、社会のレールに従い、流行を押し付けられ、同調圧力の中にいた時代の方が安心感はあった。

周りを気にせず自分が独特な存在だと思い、自由という権利を心の底から謳歌し、それが至上価値だと信じられる外国人のような生き方は日本人には向いていない。

 

そうは言いながらも昔に戻ることはできないわけで、今の日本人はその過程にあるのだろう。

元々狩猟民族だった西洋人が数百年の歴史によって勝ち取った自由と、元々農耕民族だった日本人がいきなり急速に近代化を得て海外から学んだ自由は異なって当然だ。

自由というのは自分で考えてやらなければならないという事でもあるし、誰にでも上手くできるわけではないから難しい。

そのもどかしさのようなものが世の中を覆っているのが今の段階ではあるが、それが真の自由化の過程である証なのかもしれない。

ポケモンは海外向けになって情緒が無くなったと思ってる奴・・・

よく最近のポケモンは日本市場より海外市場を重視するようになり、雰囲気が変わってしまったと言われる。
具体的にはBW(ブラック・ホワイト)シリーズから海外デザイナーを起用し始め、XYの頃からは全世界同時発売が基本となっていく。

それに伴い舞台設定も日本の地域から、BWのアメリカのように海外が定番になっていく。最新版のサンムーンはハワイであり、XYはフランスだった。

 


例えば初代のカントー地方はそのまま関東であり、ジョウトは関西、RSのホウエン地方は九州で、DPのシンオウ地方は北海道であり北方領土や樺太まで含まれている。

コガネシティが大阪の雰囲気を表していたり、エンジュシティが京都というように日本的な雰囲気が色濃く表れていて日本人に合った情緒を感じさせるのがポケモンの特徴だ。


日本のコンシューマーゲーム市場がまだ大きく、日本がゲームの最先端の国だった頃は日本人向けにゲームを作ることがゲーム会社にとってもよかったし海外はその次だった。

 

しかし今はゲームといえばソシャゲの時代であり、日本人のライフスタイルにコンシューマーは合わなくなってきており、かつてあったような面白いRPGなどは中々作られなくなってきている。

グローバル化時代において、日本向けだけに特化したジャンルというのはもう厳しい時代になっていて今後日本にはソシャゲしかなくなっていくだろう。

アニメももう壮大な物は作られず、アニメファンは簡単なものしか求めなくなり、ついにはバーチャルユーチューバー見てれば満足だという時代になった。


ゲーム会社が衰退する日本のゲーム業界を見限って、海外向けになっていかなければ生き残っていけないという事情は仕方がないと言えば仕方がない。

今後思い出に残る懐かしい情緒のあるゲームはもう登場しないんだろうなと思うと寂しいし、逆に言えばいい大人がゲームの世界に没頭してその旅や冒険に満足してる時点でスケールが小さいのだろう。

かといって海外旅行に頻繁に行けるような大人にもなれなかったわけで、もはやゲームにも創作にも、リアルにも大して面白い冒険や旅はない時代になっている。

壮大な旅をしようと思えばできるが、あまりにも敷居が高いし失うものも多いし、現代人にそこまで行動力はない。

自分のようにいつか旅をしたいと思って旅情を馳せている人間はまだ意識が高い方であり、もう最近は若者が東京に憧れない時代だ。

 

そういった冒険心すら日々の衰退する日常の中で失っていき、1マイル族とか言われるように身の回りの日常のささやかな幸せがあれば良いという現実的な考えが主流になっている。

 


そんな何もない日常に適応している時に、それでもふとポケモンで盛大な旅をしたころが懐かしくなる時はある。

確かに自分の中でXYはそこそこやりこんだので思い出には残っているし懐かしい。

BWシリーズも結構面白いダンジョンや仕掛けは多かったし、レート導入のように本格的なオンライン対戦の先駆けとしては画期的だった。

しかしそれ以降、ポケモン界隈も勝って数値を高めることが正義となり、趣味嗜好で語るファンの思い出話よりも明確な攻略情報が重視されるようになり雰囲気も変わっていく。

基本的に男性ファンやゲーマーというのは感性よりも理性で結論を求める傾向にあり、どうしても男性主体コンテンツは理論的な答えや最適解が重視される運命にある。

それでもポケモンはまだ女性ファンが多いジャンルだが、和気あいあいとした雰囲気は徐々になくなりガツガツとしたガチ勢が占拠するムードが漂っている。

 

個人的にはルビー・サファイア時代のいわゆる第三世代と呼ばれた時代に、合成ポケモンや個人サイトが流行っていた時代が懐かしいしあの頃に三値をしっているからレア感があったと懐古している。

RSのホウエン地方は大自然の中を冒険している感があっていいとか、初代のシオンタウンに着いたときは本当に恐怖だったとか、金銀でカントー地方に行けたときの感動は凄かったなんて話も最近は聞かなくなっている。

それどころかもはやファイアレッド・リーフグリーンでナナシマに行けたときの喜びも色あせた思い出になっており、こういった懐古話をつらつらと語るファン自体が少なくなってきている。

どこも有益で確実で、無駄のない攻略情報ばかりになりファンの気質としても情緒は無くなってしまった。

ゲーム動画なども面白い動画よりも、対戦に役立つ解説動画の方が人気になっているらしく技術的な進歩に対して人間的な温かみは無くなっている。

これは人間の文明が幾度となく直面してきた問題でもあるのだろう。

 

その結果その雰囲気や風潮に疲れた自分はかつては育成もしっかりしていたがもうポケモンから実質引退しており、サンムーンはクリアしていないし、ウルトラSMにいたっては購入すらしていない。

案外やめるとすっきりするもので、気分は楽になる。

ついには毎回新作を追う事もやめ、気に入った時だけ買えばいいという感覚になれ果てている。

 

最初の内は3D等身大グラフィックも良いなと思っていたが、やっぱりドット絵の頃の方が味わい深かったなと思うようになっていて完全に「ポケモン老害」と化している。

やはりウルトラビーストの存在を自分はどうしても許容することができなかったし、ジムや自転車の廃止は適応できなかった。

あれほど新作の時だけ文句をつける金銀厨を忌み嫌っていたのに、自分がその成りたくなかった存在になってしまったのだ。

 

なんというか自分好みの続編がどんどん作られなくなっていくし、時代に自分の感性は追い付かなくなっていくのだろうなという感じずにはいられない。それでいえばスマホでフリック入力はできないし、ポケモンGOもすぐ辞めたし、自分の慣れた物があるとそこから外に出なくなってしまうように人はできているのだろう。

 

海外のポケモンファンは日本向けに作られていたものをあえてやっていたから楽しいと思っている層と、完全に海外向けにシフトしてからファンになった層ではギャップがあるのだろうかとも考える。

しかしサンムーンの評価は海外の方が高く、外国人ファンは喜んでいるように思う。

 

完全にマンネリ化を受け入れ既存層向けに特化することを決めたのがガンダム、大胆な改革を行った結果ファン離れを起こし新規層も増えなかった遊戯王、そして現状のところ上手く改革が進んでいるポケモン、と明暗はそれぞれ分かれている。

 

かろうじて今の自分がポケモンに情熱を感じるとしたら不思議のダンジョンシリーズなのだが、これも新作が出る気配は今のところなく、日本人向けのゲームは全てソシャゲに一極集中していくのだろう。

唯一期待しているとすればswitch系列で、スイッチで自分好みのポケモンが登場すればもう一度情熱は復活するかもしれない。

もしくはポケスペシリーズのように漫画版を楽しむかだ。昔は読んでいたのでもう一度ゆっくり懐古目的で、そして読んでいない新作も見てみたいという思いもある。

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ただそもそも、良い大人がゲームの世界に壮大な冒険を求めること自体が本来間違っているのだ。

大人になるとお菓子で満足できなくなりもっと美味しい物を食べたくなるのと同じで、所詮ゲームというのは子供だましのお菓子でしかない。

本当に刺激を得る冒険をしたければやはりリアルに旅行なり冒険なりをするべきであって、ゲームの世界は実は狭い世界に過ぎない。

その街にいるキャラクターも生活感があるようにみえて実際は設定されたデータでしかなく、深い人生論を語り合うことなどは無い。しかし現実にどこかの個人経営の飲食店に紛れ込んだらコミュ力さえあれば、知らなかった人とも仲良くなれる。

 

そもそも日本的情緒が欲しければ素直に日本を旅したほうが良いとも考えている。

最近テレビ番組に録画していたいろんな旅番組を見たのだが、これが結構面白くまだ日本には行っていないところが多いなと再評価している部分もある。

登山スポットだけでも自然はかなり恵まれており、離島なども多い。

そして「海外」という追加ダンジョンも無限に存在するわけで、RPGが好きで育った人は本当は大人になったらリアル旅行に行くべきなのかもしれない。

本当は自分もここで旅記事を書きたいし、いつか車で気ままに全国一周に出たいと夢を見てもいる。自転車だけで南米やアフリカを縦断する日本人がいる時代に、最近冒険感のあるゲーム無いよなぁなんて言ってるのはスケールが相当小さい。

 

更に昔の人の旅行記などを見るとスケール感がさらに大きく、樺太の全体像を確かめた上に、情報が無い時代に極東のシベリアにまで行った間宮林蔵凄すぎだろと驚愕している。

現地の先住民の生活に溶け込んで信頼を経て、その先の情報を教えてもらい道具を貸してもらって行くというのは完全にRPGだなと驚いた。アイヌ民族だけでなく更に北方の別の先住民とも出会い親交を深めていき奥地へ進んでいく過程は冒険心をくすぐる。

間宮林蔵・探検家一代—海峡発見と北方民族

 

他にもネットで読めるちょっとした旅行記なども予想外のドタバタがあって面白いし、クレイジージャーニーのような奇想天外な旅番組も見ていて楽しい。

何かが起こるのが旅だが、RPGの旅はある程度予測がつく物が多いし長年ゲームをしていると慣れてしまう。

 

しかし現実はどこまでも予測不可能な世界が広がっている。

何もわからないところに情報も持たず飛び込むから面白い。

攻略本や攻略サイトを見ながらテンプレルートで進んでいくRPGが何も面白くないのと同じで、安定したものをやるだけの人生は何も面白くない。

アイテムの取りこぼしは行くべき観光地を逃したみたいな話で、それもまた旅の良さの一つだ。

今の時代完璧にやろうとしたり失敗しないようにしたりすることが目的になり過ぎているように思う。

新しい発見が欲しければ、実は現実はゲーム以上に広大なのだ。

本田圭佑のプロフェッショナルの流儀が楽しみすぎる

今度また本田圭佑がプロフェッショナル仕事の流儀に出演するらしく、これで確か3度目の出演になる。

放送は5月14日なので今から楽しみにしている自分がいる。

本人も公言している通り、今回のロシアワールドカップという最後の戦いに向けて「ラストミッション」というのがテーマになっているようだ。

 

ワールドカップ後は引退するのか、Jリーグに復帰するのか、それとももう一度欧州に挑戦するのか、それともアメリカに行くのかは分からないし、東京五輪にオーバーエイジ枠として参加する可能性も無いわけではない。

そもそも今のメキシコ、パチューカを選んだこと自体衝撃であり良くも悪くも何をするかわからない存在として常に自分の憧れであり続けた。

 

思えば2010年の南アフリカワールドカップからずっと追い続けてきた存在なので、すでにもう8年の月日が経とうとしている。ブラジルワールドカップの惨敗からも4年であり、本当にいろんなことがあったなと感慨深い。

 

実はというと今の自分の「本田圭佑熱」のようなものは以前ほどではなくなっていて、本気で憧れているというよりも惰性で見続けているような部分がある。

ある意味自分にとって原点とも言える存在だった。

ただ今の状況になって、今だからこそむしろ本田圭佑のこれまでの言動を参考にするべきなのではないかと考え直している。

 

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例えばプロフェッショナル仕事の流儀に本田が初めて出演した時は、確かまだロシアリーグ時代で中々移籍できず、半月板損傷というキャリア最大の危機に直面している時だった。

極寒のロシアに幽閉され、なおかつ絶望的な怪我とも戦いビッグクラブ移籍とも言える不可能とも思える夢をファンですら諦めかけていた。

あの時の「悲壮感」にも似たものは、スケール感は違うかもしれないが今の自分にとって近い状況にある。

今思えばあの時の本田の悲壮感は半端ではなかったし、そこから復活を果たし実際にACミランへと移籍する。

 

しかしこのACミラン時代も決して順調にはいかず、本田のキャリアは不遇の時の方が多い。そもそもサッカーというスポーツ自体、試合中にボールを保持して活躍している時間は限られていて大抵の時間はもどかしく、相手ボールを追いかけまわしているだけに過ぎない。

無駄とも思えるようなプレッシングを懸命にやったり、激しくフィジカルコンタクトを行ったり、中々パスがこなかったりと、そもそもチャンスに恵まれず出場できなかったり、怪我と戦っていたりと楽しくない時間の方が多い。

 

活躍している時や楽しい時の方が少ない、ただそのわずかなチャンスを狙って日々努力するという典型のような選手がまさに本田圭佑だ。

「サッカーの神様はいると信じている」

「神様どれだけ俺に試練あたえんねんと思うけど、時々ちゃんとご褒美をくれる」

「まだビッグクラブに行けると信じてますね」

「サッカーで心が折れたことは無い」

「自信しかない、自信が無けりゃやってられないでしょ」

「この状況にいるのは世界で自分一人しかいない」

「才能が無いから辞めろと言われたらどれだけの人が一瞬で夢を諦めなあかんねん」

「サッカーは一試合で天と地が入れ替わる」

うろ覚えではあるが、今思えば深いことを言っているなと思う。これだけ批判されたサッカー選手は過去に存在しないだろうし、今もネットを見れば本田関連の話題にはすぐ批判的な意見が飛び交う。

 

情熱があった頃の自分は本田の奮闘する姿や発言をよく心の支えにしていたなと思うし、逆に今ではそれらを忘れかけている。

 

本田圭佑はとにかく未開拓な地に挑戦するチャレンジャー精神があり、新しいことに対してよく「楽しみですね」とか「ワクワクしてますね」という言葉を使う。

不安な時ほど楽しみだと言い聞かせることも大事だ。

今の停滞している自分を打破するために、環境を変えようという計画を立てていて、それこそいきなりメキシコのパチューカを選んだような挑戦をしてみたいとも考えている。

不安の方が大きく中々踏み出しきれないが、そろそろ本田圭佑を見習って意識高く前を向いて行こうという思いもある。何のために8年間も本田を追い続けてきたのか、あれほど憧れていたじゃないかと、最近くどいほど自問自答して伸びしろを探している。

 

本田圭佑の何が面白いかと言えば、何を考えているかわからず予想がつかないところにある。とにかく逆境の中でそれでも前を向き、考え続けるタフな精神力に刺激を受ける。

 

本田はもっと大変な状況でやっている、本田ならこういう時どう考えるか。

 

おそらく今回のプロフェッショナルの流儀では序盤、ACミラン最終シーズンの殆ど試合に出られない状況や日本代表からも遠ざかっているどん底の状態から始まるだろう。

ミラン時代初期の頃はまだ試合に出場して批判されていたが、終盤はほとんど試合に出ることなく不遇時代を過ごしていた。

代表からも遠ざかり、そもそも今回のロシアW杯は出場が危ぶまれていた。

 

よくここまで盛り返した裏には凄まじい努力があったに違いない。

もちろんここまで持ち上げられて、ワールドカップ本戦で醜態を晒せば日本サッカーの歴史上最も叩かれるだろう。

それでもそのリスクを引き受け、むしろその状況を楽しんでいるように見える。

プレッシャーを自分で自分にかけることはよくアスリートがすることだが、今だからこそ本田圭佑のその意識の高さを見習うべきなのかもしれない。