負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

読者のレベルに合わせた小説は面白くない

現代の文化というのは資本主義や商業主義に適合しなければならないため、大多数の人に合わせたカジュアルな物が多くなっている。

世の中頭がいい人と頭が良くない人、頭を使う人と頭を使わない人ならば圧倒的に後者が多数派なのである。

 

そのためその大多数の大衆に向けて簡単なものを提供するということが昨今の風潮になりつつある。たとえばこの傾向がもっとも顕著なのが文学界だろう。

 

東進の林修はテレビでこのような趣旨のことを発言していた。

とにかく今の小説は簡単になりなるべく難しい言葉を使わず簡単にサクサク読めるようになっている。本が売れない時代において出版社はなるべくカジュアルな小説を出そうとするため文章間のスペースも広くなり1ページ当たりの文字数も少なくなってきている。

逆に昔の文学は難しい言葉のオンパレードであり、1ページにびっしり書かれていた。

現代文のエキスパートは公の場でこのことを指摘した。

 

確かにその傾向はあるだろう、世の中が徐々に"長文アレルギー"になってきていることは間違いない。たとえばネットの掲示板も昔は本当に濃密な人々が喧々諤々議論を交わしていたのだが、今はそういう場所ですら長文は避けられるようになっている。

またツイッターという144字のSNSが普及したことでこの現象は加速しており、その144字すら完全に使い切ることは長文ツイートとさえ言われる。

今の時代は144字ですら長文なのだ。

実際ツイッターを見ても長文でしっかり描いている人はカジュアルな雰囲気の中で真面目に語っている浮いた存在のようになってしまう。

ネット環境も活字アレルギーの多数派向けに変化しつつあり、真剣に語る人は空気が読めない人になってきている。メッセージアプリなども長文で語ると少し面倒な人に映り、長い文章を書けない人や読めない人が急増している。

 

これはもしかしたら世の中の娯楽の多様化と、現代人の多忙化が関連しているのかもしれない。

やることがいくらでもあり一つの事に時間を費やせない時代に、悠長に文章の世界に時間を費やしていられないのである。

簡単に要点だけをまとめて重要な部分だけを効率よく取り入れることが求められている。

文学も空いた時間に簡単に頭を使わずに楽しむことが求められている。

本を読むという比較的知的な楽しみを求める層でさえ今はカジュアル化してきており、そしてカジュアル化は商業主義、資本主義、そして多忙化の時代においてダーウィンの進化論で言うところの適者生存なのである。

 

誰が悪いというわけでもなく背景に大きな構造が存在しており、これはもはや避けられないのかもしれない。

実際自分もこの傾向を批判しておきながら短い文章のやり取りやわかりやすい定型文による会話が繰り広げられる掲示板の書き込みやそれをわかりやすくまとめたものを見ることが多いし、報道なども先に要点をまとめているものの方がありがたいと思っている。

他人の長い主張や冗長な作品、煩雑な情報に付き合っていられない時代になっている。

 

また提供者側のスタンスも変化してきているだろう。

昔の文学者、具体的には戦前の文学者は「我々は高度なことを突き詰めたい、理解できる人だけがついてきてほしいし理解できない方が悪い」という考え方に近かった。

一部の選ばれたエリートが本を発売できていた時代において、文学は高尚な物であり読者側もそういった知的階級に憧れていた。また世の中の文化をリードしていくという自負があった。

 

しかし現代に近づくにつれ出版数は増加し、大量生産と大量消費の時代が訪れる。

更にテレビというメディアが増え、現代ではインターネットという新時代のツールも登場している。ラジオと文章しか大衆への状況提供手段がなかった時代とは違い、他の種類のメディアとも競争しなければならない時代になったのが戦後だともいえる。

戦前も勿論映画はあり、音楽もあったが戦後はテレビが国民的に普及し現代はネットで誰もが多数の情報にアクセスできる時代になったことでより伝わりやすい情報メディアが選ばれるようになる。

 

供給する側が選別され少なかった時代には難解な思索を思う存分追求することができたが、今の時代に置いてはより多くの人に理解されるために読者側に合わせなければならない時代になっている。

読者が文学者の知識に追い付こうとしていた時代から、文学者が読者の知識に合わせようとする時代になった。

 

そしてこれは文学だけに限ったことではなく、ありとあらゆる文化においても言える事だろう。たとえば前述のような短文SNSの登場はその象徴であり、現代人は一つの事にゆっくり時間を使えなくなっている。

アニメなども現在は1クール日常アニメが急増しており、「考えずに見られるアニメ」が求められている。またユーチューバーのように子供でも楽しめる娯楽が台頭しており、世の中が簡単で身近な物を希求し渇望し始めている。

 

現代人は考えたくもないし難しい事から遠ざかりたい、そんなことをする余裕はなく皆忙しく疲れているのである。

そして実は資本主義の時代においてこれは良い事でもある。実は賢い人が頭がいい人が多い社会というのはそれほど資本主義的にはあまり良くないのだ。

「コスパが悪い」という言葉があるが、頭がいい人は考えて商品を購入するため購買意欲が低くなる傾向にあり財布の紐が固いことが多い。

一方あまり考えない人というのは良くも悪くも行動がシンプルで、とにかく体力と情熱があり良く働き、そしてよく消費活動をする。実は資本主義社会において大多数の人が後者だった時代の方が活気があり盛況としているのである。

日本経済が低迷しているのは先のことを考え「コスパが悪い」という言葉を多用する人がネットだけではなく現実でも増えたことが原因でもあり、購買意欲が低く貯蓄率が高いのはこの問題と関連している。

中途半端に大衆の知的レベルが向上することは実は経済や資本主義の面で考えたときにそれほど良いことだとは言えない。

 

小説もこれと同じで、難解な小説を好む人が必ずしも出版業界や小説家、文学者にとって良い消費者だとは言えない。

一つの難しい本をずっと読んでいて、しかもそれが図書館で借りてきたような本ならば市場には何も影響をもたらさない。

それよりは世間で流行っているカジュアルな小説を話題についていくために読みもしないのに購入する消費者の方が出版関係者や書店としては助かるのである。

難解な事や高尚な事、真実に近づくことが正解だとは言えないのもまた真実だと言える。

時代が変化したことで正解も変わったのだから、簡単でカジュアルな小説が増えたことも一概に悪いことだとは言えない。

 

しかし個人的な考え方としてはやはり読者のレベルに合わせたような小説は面白くないと思っており、むしろ一つの本をずっと読んで考えているようなタイプである。

世間で流行っているから小説を読もうと思ったことは一度もないし、流行についていきたければ素直に芸能の話題でも多く取り入れたほうが良いと思っている。文学というのはそういった流行からは閉ざされた閉じた濃密な世界であって欲しい。

中世ヨーロッパの哲学者が自室にこもり著書を執筆し、周りで起きている戦争に終戦まで気付かなかったというエピソードを聞いたことがあるが本来、文学や哲学というのはそういった探求の世界なのだ。

 

例えば今現在自分は歴史用語や専門用語が多用される小説を読んでいるのだが、これが非常に面白い。

自分がわからないことを書いている小説は面白く、理解することの喜びもあり新しい知識や視点を得られることも楽しい。

それが自分の興味があるジャンルに関連しているならばなおさら面白いだろう。

自分は漠然と「小説家は自分より凄い人であってほしい」と考えているし、芸能人やアーティストにも同じことを求めており昨今重視される"親近感"にあまり興味がない。

もちろん例外はあるが特に文学においては基本的に尊敬できる人物が書いた物を読みたいと思っている。

 

最近の"なろう作家"が書いたようなライトノベルに惹かれないのもまさにそれが理由で、やはり読書という比較的頭脳を駆使する行動においては高いレベルのものを読みたい。読書というのは労力がかかることであり、その対価として高品質な物や高度な情報を得たいと思っている。

労力をかけずに簡単に楽しみたいならば他にいくらでも娯楽があるためにそちらを選べばよくわざわざ活字を読む必要もないだろう。

 

親しい人が書いた小説ならば例外だが、基本的に無名の素人の文学を読むのであればそれは自分が書いたほうがいい。

しかしそんな批判をしておきながら自分もいつかは小説を書きたいと思っている。

元々大学も文学部志望だったため、この世界には憧れがあり現在もそういった創作活動の準備はしている。

 

そこでやはり思ったのが読者のレベルに合わせたような小説を書いても何も残らないという事であり、思う存分難しいことを書きたいと思っている。

最大限に難解なことを突き詰めたほうが自分にとっても成長になるだろう。

また一般の人が読者に合わせるような文章を書くというのは合わせるというよりもなんなるレベルの低下に過ぎない。

本当に知的レベルが高い人が大衆に合わせて書くのであれば良いが、そうでもない人が読者に合わせるようなことをしたらただ何に手を抜いているだけでありクオリティが更に低下する結果にしかならない。

つまり一般の人間は全力で書いたほうがちょうど良い難しさであり、難解なことを懸命にやろうとしてようやく知的レベルの高い人がが書いた大衆に合わせて執筆したレベルになるのである。

 

また現代の潮流として、むしろこれから高品質かつ難解な事への回帰が始まるのではないかとも考えている。

過度なカジュアル化や親近感重視の時代が進行し、それらが氾濫しすぎた結果、その反動として高尚な物への回帰が訪れるのではないか。人間というのはいずれ飽きるものであり、やはりレベルの高い物の方が面白いという再評価がされる時代が来るかもしれない。

「ネットには頭をあまり使わない人向けの質が低く中身のない物しかない」ということに愛想を尽かした人々がまた新しく何かを始めるのではないか。誰もがカジュアルが何も考えずに楽しめる物やただそこに生じるコミュニケーションやコミュニティばかりを求める時代は終わりを告げるのではないか。

つまり文化のルネサンスがこれから始まるだろう。

 

現に自分はネットに動画が大量に溢れている時代よりも、テレビがまだ力を持っていた時代やネットにおいて動画がレアだったフラッシュ全盛の時代を再評価し始めている。提供される物が選別されていた時代の方が、実は多様化細分化の時代よりも濃密だった。昭和の時代や20世紀にまで遡らずとも少し前まではその時代の名残があった。

消耗品としてネットの意見重視で1クールアニメが量産される時代やSNSの流行が大衆文化を席巻する時代がそれほど良い時代だとは思えない。

 

よく言われるのがプロ野球とJリーグの比較論でチームが多すぎると却ってよくわからなくなり一つ一つのありがたみや個性がなくなるという事に近い。自分自身はサッカーファン側なのだが、理論としてはこの考え方に賛同できる。

海外サッカーにおいても興味があるのは上位チームだけで、大部分は興味が無く冗長な存在でしかない。

毎回バルセロナやレアル・マドリードが下位相手に大量点差で勝つ余裕の試合をするのであれば、界のチームは連合チームでも作ったほうが試合内容自体は面白くなるだろう。サッカーのリーグ戦の面白さはそれだけではないのだが、世の中の文化としては選別されたものの方が良いという事は言えるだろう。

 

サッカーの話で言うならばチームは強くないが地元だから応援するといういわば親近感や愛着の問題であり昨今の文化もそうなっている傾向がある。

ネットに有名人は自分に近い感じがして握手会に行けるアイドルは自分のことを覚えてくれるから親近感を抱ける、そして応援に熱が入る。

いわば現代文化というのは降格圏や下部リーグにいる弱小チームのような人やコンテンツが増えている状態だともいえる。

自分もまさにその一人であり弱小チームの中で更に弱小的な存在なのだが、当事者でありながら昨今の傾向はいずれ終焉するだろうと悲観的に感じている。

 

まだサッカーの場合は弱小チームと言えどもリーグには20チームだが、現在の文化はいわば1部リーグに100チームほど混在する時代になっている。更に2部リーグにも500チームぐらい存在する時代においてもはやわけがわからない状態だ。

AKB48グループも年々、数だけは拡大しているが神7を多くの人が覚えていた時代に比べて華やかさは失われた。それどころか誰も知らないような謎のアイドルグループも増えている。

その結果有名人気取りをした誰も知らないような勘違いアイドルが増えている。

 

このように選べるものが増えるというのは実はそれほど良いことではなく、選択肢が増えるほどそれぞれの個性は低下することになる。

自分に合ったものを選べるというのは聞こえが良いが実際はそうではなく、「親近感」というもので錯覚しているにすぎないのだ。

 

ポケモンで最初の3匹が草、炎、水の3タイプだからよいわけであってこれが18タイプ全て選べたら御三家の意味合いが却って薄れてしまう。それどころか今の時代は18タイプに留まらず良くわからない必要のないような謎のタイプが追加されている時代でもある。

新しいタイプとして炎タイプに統一していれば良いのに熱タイプが登場しているのが現代文化だ。

そうなればどのタイプを選ぶかという議論もあまり活性化せず、それぞれが好きなものを選んでいるだけで皆それぞれ好きなものを選んでればいいし自分には関係ないという雰囲気になってしまうだろう。

 

そしてネットや現代の細分化時代はまさにその状態を引き起こしているのである。

ポケモンが18タイプ選べて、Jリーグに100チーム存在しているような状態が現代のあらゆるコンテンツに当てはまるのだ。

意味が分からないため本当に好きな人だけにしかわからないし、それぞれの質が低いため後世には何も残らない。

 

一見するとポケモンで18タイプを選べるならば本当に好きなタイプを選べるし、Jリーグなら本当に自分に近い町を応援できるだろう。

自分は御三家のタイプより氷タイプの方が好きなため、それを選べるならば確かに嬉しい。

しかし草、炎、水の3タイプから選ぶことで御三家選んでる感がありそれが大きな話題として盛り上がるのだ。本当は18タイプを選べることにそれほど価値が無いわけであり、自分が好きなタイプを選べてると言う事自体にに自己満足しているに過ぎない。仮に岩タイプを選んでいる人がいたら、氷タイプを選んだ自分にとってはどうでもいい他人でしかないのだ。

 

それよりは3タイプで何を選んだかという話題が盛り上がる方が本当は楽しいし、御三家も後の世代の人も話題にして覚えているのである。

例えばジョウト地方はヒノアラシ、チコリータ、ワニノコだということはポケモンファンならば覚えているがこれが毎シリーズ18タイプ収録されていればもはや次のシリーズの時には誰も覚えていないだろう。氷タイプや岩タイプで三段階進化する最初に選べるモンスターが登場したとしても、これまでの御三家に比べて印象にも残らない地味な存在にしかならずその時だけの楽しみにしかならない。

その時は本当に自分の好みに合ったモンスターが選べることが嬉しいが、後から振り返ったときに何も残らず誰も話題にせず消えていく。

 

サッカーも同じで現実にはチームが多いJリーグよりもチームが少ないプロ野球の方がわかりやすく盛況としている。それぞれのチームが閑散として一部のサッカーファンしか興味が無くメディアにも取り上げられないよりは、チームの数が少ないほうがファンも集中してどのチームが好きかというのが話題の共通項として盛り上がるだろう。

「このタイプを選べてうれしい」「地元にチームがあるのは嬉しい」「あのアイドルは自分のことを覚えてくれてうれしい」という事の裏で実は失っている者が多くあるのだ。

 

そしてこれは大衆文化の多くについて言えることでもある。

小説を筆頭に芸術もこれと同じで個人のレベルに合わせたようなものが乱造される時代には何も残らないだろう。商業主義としては前述のように間違いなく正しいのだが、商業とは無縁の個人までもがそれをするというのは何も文化的に価値がない。

 

自分も絵や小説を投稿し公開していこうとしている立場だがあまりウケを考えずにひたすら自分の好きなことを追求したいと思っている。自分はこれから小説を書くにあたって少し話をレベルを落とそうと考えていたが、むしろ引き上げて自分ができることを全てしたいと今は考えている。

前述の「一般の人は全力で書いて丁度よいレベルになる」論にも通じるが、ネット上の無名の投稿者までが大衆に迎合するようになれば本当の似た作品しか残らず、現にどの投稿サイトも独創性のないテンプレばかりになっている。

一時的に人気が少し増えたところで結局何も変わらないし夢は叶わない。

 

そしてこのような考えに至ったのは最近自分が読んだ小説を見てやはり作者が自分の高いレベルで突っ走っている作品は面白いと感じたからでもある。

そういう作品の方が結局は受けるし歴史に残るし、消耗品として終わらず大きな影響を与える。

ちなみにこれまで具体名を出してこなかったが自分が読んでいる小説は村上龍の『愛と幻想のファシズム』である。この小説は非常に多くのクリエイターに影響を与え、例えば新世紀エヴァンゲリオンの登場人物には愛と幻想のファシズムで使われていた名前の影響を受けたキャラクターが多い。その過激な作風はクリエイターに限らず多くの人に影響を与え、今も名作や問題作として語り継がれている。

 

この『愛と幻想のファシズム』を読んでやはりレベルの高い小説は間違いなく面白いと再確認した。

専門用語や固有名詞が多用され、作者の哲学が語られ、歴史の象徴的なエピソードが随所に記述されている本作品は非常に読みごたえがある。

小説投稿サイトで一時的に閲覧数を稼ぐためにそのサイト受けする人気のテンプレ小説を乱造してもその他大勢で埋もれてしまうのだ。少し人気になったという錯覚意外に得られるものなど何もない。

 

そしてこれは自分がイラスト投稿サイトでも感じていることだ。

見る人が微増することに意味は無く、そのために自分の信念を捻じ曲げても何も残りはしない。

 

それよりも何かを作る人間というのは大袈裟かもしれないが、本当にトップを取り時代に革新をもたらす覚悟で、チャレンジャーとして挑まなければならないのではないか。

それぐらいの覚悟がない人間が「ちょっとやってみた」程度でネットに参入してくることが現代文化が劣化していることの根源ともいえるだろう。

制作や創作をする提供者側が本気で自分のやりたいことを追求する時代に戻らなければ現代文化はただの一時的な消耗品となり、いずれ誰も見向きもしなくなるだろう。

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ガムを食べる事でアルコール依存を脱却できるか

先ほど近くのコンビニに寄ってきたのだが、自分の中で大きな進歩がみられた。

それはお酒コーナーを前にしても自制を効かせて酒類を買わなかったという事である。これまで自分は近くにあるこのコンビニで何度もお酒を買ってきた。割高なお酒を定期的に買うのだから地域経済に貢献する良い客だっただろう。ここで何度もお酒を買い、遠くにある量販店よりもすぐに寄れる為、なにかあったらここに行き結局はお酒を買っていた。

 

しかし今回は禁酒生活の真っ最中であり、自分としてもまたコンビニに行けばお酒が欲しくなってしまうのではないかという不安があった。

その不安は杞憂に終わり、自分は特にお酒が欲しくもならず今は買ってはいけないと言い聞かせることができた。まるで人が変わったようにそこを通り過ぎることができたのだから自分でも驚きだった。

 

そして今回新しい試みとしてガムを日々の嗜好品として取り入れることにした。

本来は必要な物だけを買って帰るつもりだったが、ボトルのキシリトールガムを見つけたので試しに買ってみることにした。しばらくガムを食べていなかったので美味しそうに見えたことと、何か口に入れたくなったときにちょっと食べるのにちょうど良いと思ったからだ。

自分がこれまでお酒を飲んでいたのは何かを飲食することに楽しみを見出していたからでもある。

 

その清涼感が頭のリフレッシュにもなる上に、歯にも良い。

更に何かを噛むという事は頭脳への刺激にもなるため本を読むときなどに丁度良い。何かを口に入れて気分を変えたい時に、こういった粒ガムは手軽に食べることができる。

また少し割高ではあるがお酒に比べれば非常に安い。一粒当たりの値段はそこまで高くなく、またいろんな味が入っているタイプのため飽きが来ない。

700円少しの値段だったが、お酒ならば1日で飲み干してしまう量でもある。これで何日も持つならば非常にコスパが良い。10粒食べても大した値段にはならないどころか、2,3日で食べきっても問題がないほどだ。

 

それほどお酒を飲んでいなかった頃はこういったボトルガムは貧乏性として少しずつしか食べなかったが、今回は嗜好品として食べたい時によく食べる方式を取り入れたい。

結局こういうボトルガムは少しずつ食べていたら結局飽きて食べきらないことが多い。

結局飽きたり長時間空気に触れた状態にすることで味が劣化したりするので、もっと頻繁に食べても差し支えは無い。

ひたすら味の為だと割り切ってガンガン食べても良いし、言うまでもなくお酒より安い。また味も非常に良いため、まずい安酒を酔う為だけに飲むことよりよほど健康的であり楽しい。

 

ジュースで代用すればそれもまた高いが、ガムならば小分けにしてちょっとずつ自分のペースで食べられるというのもいい。机の上に置いておけば食べたい時に食べられるというのは地味ながらメリットが大きい。

とにかく何か味が欲しいという時に粒ガムは頼もしい味方になりそうだ。今まで安易にお酒に頼っていた部分を代用できる。更に自分は子供の頃ガムが元々好きだった。その頃に戻れるならばいくらでもガムを噛んでいたい。

 

長期的にそれほどお金がかからない上に、気軽に摂取できるためちょっとしたときの気分転換にもなる。

お酒を辞めた代わりに取り入れるのだから遠慮なく食べても良いというのは心強い。

さっそく食べてみて現状かなり感触はよく、アルコール依存対策の一つとしてまたお酒が飲みたくなったときに落ち着かせるのに役立ちそうだ。

少しずつでも何か新しい楽しみを見つけ、ちょっとした進歩に喜びを見出す、そんな地道なことが大事なのかもしれない。ここしばらくガムで代用し様子を見ていきたい。

断酒生活3日目に突入、ここが正念場

最近続けている断酒生活は今日が3日目になる。

一昨日と昨日は無事一滴も酒を飲まずに乗り切ることができた。朝を快適な状態で迎えられるというのは非常に喜ばしいことだと改めて思う。

朝が不調というのは前日の快楽を犠牲にする価値が十分にある。しかもここ2日お酒を飲んでいないことで出費も抑えられているためその達成感もある。時間をかけて体を綺麗に戻していくという挑戦はやりがいがある。

 

しかし3日目というのは以前挫折したことがあり、アルコール依存状態に陥ってからは乗り越えられたことが無い難所になる。

その時は2日目の段階ですでに酒を買いに行き明日のために準備していた。その後反動のように1週間にわたり飲み続けて結局また元に戻ってしまった。

ダイエットのリバウンドのように、一度何かを我慢すると次それが解放されたときに以前より悪化してしまうことがある。

二週間分の酒を買いためたはずだったのに一週間で切らしてしまう程ハイペースで飲んでしまった。

 

今回は前日に明日飲んで発散しようという予定を立てていなかったので、断酒生活を順調に続けられるかもしれない。一回目の失敗に学んで徐々にお酒ない状態に慣れようとしている。

やはり地味に聞いているのが小説を読むという習慣で今回はこれがあることで何もやることが無いときにお酒に走ることを避けられている。何も楽しい事ややることが無いから即自的な快楽に走ってしまうが、黙々と読書をする習慣を作るととりあえず何かをしたい時の暇つぶしになる。

また音楽を聞くというのも十分しらふ状態でもテンションが上がることに貢献することも発見した。

今までの自分は酔っているときのテンションをさらに高めるために音楽を聴いていたのだが、そうでない時に音楽を聞いても楽しいというかつての感覚を取り戻しつつある。

 

アルコール依存になると、飲んでいない時は何をしてもつまらないという錯覚に陥り積極的に何かをやろうとしなくなってしまう。考えることはただお酒が欲しいという事だけになってしまうのだ。何かを楽しむにはまずお酒を飲んでからという思考回路が形成されてしまう。

「そんなことをやっても楽しくない、まずは酒を飲みたい」という発想になっていく。

あらゆることがアルコール無しでは楽しめなくなるのだ。

 

そのため今の自分は地道に飲んでいない時に楽しむ方法を少しずつ探し、なるべく自暴自棄にならないようにしている。散歩をして自販機でジュースを買って飲むだけでも陰鬱とした気分の発散にはなる。

 

それでも時折まだお酒を飲みたいと思う時がある。

ふいにかつての生活や習慣が懐かしくなり、もう一度その時のような体験をしたくなる。これだけ我慢したのだからご褒美でこれぐらいならいいのではないか、そんなことを考えてしまうのだ。そして積み重ねてきたものをまた元に戻してしまう。

何かをつまみにお酒を飲む晩酌を一度楽しんでしまえば、それが次の日もしたくなる。一日だけ限定で楽しむということができなくなり、毎晩の習慣になってしまう。これがまだ働いている人が夜に一日の疲れを癒すためにするならば問題はないだろう。

しかし自分のような暇を持て余し、やるせない鬱屈とした思いを貯めこんでいる無職の人間はやることが無ければそれが1日中の行動になってしまう。

 

「飲めるときは飲む」という習慣になり、ただひたすら1日を怠惰に過ごすことになる。それ以上の快楽が無いことで、てっとり早く楽しめるお酒に頼ってしまうのだ。

そして徐々に貯金が浪費されていく。

一度快楽を覚えればそれが毎晩の事になり、そして終いにはすべての時間を費やすようになり、破滅する。

かつての自分がまさにそうだった、ただ醜く怠けて何かを先延ばしにし終局へ向かっていた。ウイスキーを薬のように毎日飲み内臓を傷つけるという狂気の沙汰のような生活をしていた。底辺の負け組の象徴のような哀れな人間だったのだ、そしてそんなことをしていても何も変わらない。

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人間は本当は餓えている状態のほうが良い。

元来人間や生物というのは常に食糧や快楽にありつけている状態の方が珍しいのだ。現代人は三食毎日食べるということが習慣になっているが、人類が登場したころは農耕もなく狩猟採集の生活を行っていた。

そして人類の歴史を紐解いたとき農耕を開始してからの時間は非常に短く、更に近代国家が形成されより食料供給が安定するようになった時代は更に短期間になる。

 

生き物というのは不思議なもので食べないことが不健康のように思えるが、実は毎日食べていることの方が不健康になりやすい。餓えて人間が息絶えるまではかなり時間がかかり、水さえあればなんとな生活できる。

胃に常に何かがある状態より、何も入っておらず餓えている状態の方が自然なのである。

ましてそれが人類が発明したアルコールという物ならばより不自然だ。

酒は人間を堕落させてしまうのだ。

アボリジニという偉大なオーストラリア原住民のハンターは、西洋人が持ち込んだアルコールによってその感覚を完全に失ってしまった。今アボリジニはオーストラリア政府の補助金に頼り酒ばかりを飲んで暮らしている。

 

現代人は快楽や食欲が満たされていることで狩猟をしていた頃の感覚を失っている。

本来人類は氷河期さえも乗り切る強い能力があるが、現代人の多くが無人島に何も持たずに送り込まれただけで息絶えるだろう。

常に快楽に恵まれている状況では本能を失ってしまう。

まさに今までの自分は毎日酒におぼれあらゆる感覚が鈍っていた。

感性を研ぎ澄まし、眠っている潜在能力を発揮する為にもこの断酒生活は重要なのである。人生を変える飛躍を遂げるには、これ以上酒におぼれ能力を衰えさせていてはいけないのだ。

断酒で人生を変える、もうそれしかない追いつめられた段階に今の自分は来ている。

徐々に酒断ちが上手く行きつつある

禁酒や節酒を意識し始めてからしばらく経つが、少しずつコツをつかみ始めてきている。

まだ完全にお酒を断つことはできていないのだが、徐々に「お酒を飲んでいない時間」に慣れつつある。本来ならばお酒が入っていないしらふの時間が当たり前なのだが、アル中になってくると逆にしらふの時間がおかしな感覚に感じるようになってくる。

 

その特殊な感覚を正常な感覚に戻すことが復帰への第一歩となる。

完全にお酒を辞めることや1日飲まないで過ごすことをいきなり目標にしては続かない。最初はお酒を飲んでいない事自体に慣れていくことからスタートしていく必要がある。

 

そういう意味で昨日は無事禁酒に成功した。

少しずつお酒を飲んでいなかった頃の感覚を取り戻しているし、酔っていない時間の過ごし方を工夫するようになっている。

深呼吸をして落ち着く、笑顔になる、冷静になろうとする、そういったメンタル面の小さな工夫から始めてすぐにアルコールに頼るという状況を作らないようにしている。

一度お酒に依存した生活に陥ると、何かあったらとにかく飲んで解決しようという発想になる。

 

まずこの発想から変えていかなければならない。

お酒はそこまで絶賛するほどのものではなく幸せをもたらしてくれるものではない。目先の少しの時間のまやかしにしかならず、その内頭も痛くなり次の日はお腹の調子も悪くなりやすい。更に気づけば貯金が減っている。

こんな酷い飲み物は無いという認識をして、そこまでして飲むものでもないという思考作りをしていく必要がある。犠牲にするものがあまりにも多すぎるのだ。

酒を敵視するという考え方をするぐらい極端な考えに振り切らなければ、依存症の脱却は難しい。人間というのは自分が嫌っている物を摂取したがらないため、お酒が嫌いになればよいのだ。

 

やる気や精神の安定をアルコールに頼ることが習慣になればお酒が入らないと何もできなくなる。頑張ればお酒が入っていない時にもやる気は出せるし、かつては飲まずにもエネルギッシュになれていたことがあったはずだ。

そして酔っているときの楽しさより、酔った後苦しんでいるときのことを考えるようにする。少しずつだが飲みたいという気分を抑え、そして飲まない状態に慣れていくようにする。

 

自分は昨日飲まなかったことで、1日が酒によるダメージが無い状態からスタートするという当たり前の事にありがたみを感じるようになった。またお酒を飲んでいなくても面白い状況があることに気付き始めている。

正確にはかつて当たり前だった感覚を取り戻しつつある。

リハビリやダイエットのように時間をかけた長期戦になるだろう。体も頭も元に戻していくことには時間がかかる。

 

前回2日ほど断酒生活をした時はとにかく飲みたくて仕方がなかった。

しかし今回は徐々に飲みたいという思いが消えつつある。

飲まないで過ごしたことの喜びが、飲む喜びを上回るようになれば大きな進歩だ。

お酒が入っていないことで頭も体もクリーンな状態であることに喜びを見出すようになれば、アルコールを入れたいという思いがなくなる。

もちろんまだお酒を飲みたいという感情はある。

それを少しずつ抑えることが最初の始まりだ。

 

自分が今回酒断ちが上手く行っている理由として、あまり美味しいお酒を知らない事や買えないことも理由にあるだろう。

金銭的に余裕があり美味しい酒を知っており快適な環境で飲むことができる人は相当難しいことは想像がつく。

自分の場合安酒を家で飲むことが限度なため、美味しくもない酒を酔う為だけに飲むことへの楽しむを抑えることができつつある。

 

しかし酒の場という環境に面白さを見出している人や人間関係が関わっている人、美味しいお酒を簡単に手に入れることができる人などはまた複雑な要因が絡むだろう。

一人で美味しくない安酒を飲んでいるだけでも十分楽しいのだから、楽しい場所で美味しいお酒を誰かと飲むことができる人は中々それを立つことが難しいだろう。

自分一人だけではなく他社との生活習慣が関わってくる場合断酒はさらに難しくなる。

美味しいお酒と料理に恵まれている人も同じだ。

目の前に高級酒と高価な料理があった場合、正直なところ自制を効かせる自信は無い。更に今でも辛い時はやはり酒に助けを求めたくもなる。

 

そういう時に飲みすぎたときの頭への不快感や翌日の体調の悪さなどをどれだけ考えることができるかが重要になるだろう。少しずつでもお酒に対する良い印象を自分の中で減らしていき、飲んでいない時間になれるようにしていく習慣が必要になる。

本来それが当たり前だという感覚をほんの少しずつでも取り戻していく。

そんな地道な進歩を積み重ねていくことが最終的な酒断ちに続く道なのではないだろうか。

絵を描いてる人には性格悪い人が多い

よく芸術家には人間性が悪い人が多いという話を聞く。

実際に歴史上の画家や音楽家などを見ても中々の性悪人間が多い。

そしてそれは歴史に名を遺した著名な芸術家だけでなく、一般のアマチュアでも同じことのように思う。

 

自分の場合イラストサイトで絵を投稿しているのだが、とにかく性格が悪い人が多い。ネット全般に言えることだが良い人が1人いれば悪い人が9人いる。

しかも皮肉なことに日に日に自分も性格が悪くなっていっている。ネットやると自然と性格の悪い9人側の人間になっていくのだ。

 

絵が上手くなればなるほど反比例するように性格は悪くなっていく。

これは絵に限らずおそらく芸術全般に言える傾向のように思う。

何かを極めようとすれば人格の面で犠牲にしなければならないことがある。

 

実際匿名掲示板などでイラスト投稿者の本音を見たときに、その醜い本性や本音を垣間見ることができる。とにかくこの手の芸術の世界というのは嫉妬が渦巻く嫌な空間でもある。

更に自分自身が日に日にその醜い心の持ち主になって言っていることも実感する。

例えば絵の世界というのは上手い人間が絶対であり、そこには階級社会が存在する。無条件で自分より下手な人間を見下しており、上から目線の態度で相手にもしないのである。

まるで学校のスクールカーストと同じように結局は似た者同士でつるむことが増える。

逆に自分が下手だと自覚しておらず自意識過剰な人も大勢いる。

多くの人が自分より下を相手にせず、なおかつ自分を過大評価している。

 

そしてそんなことを考えている自分がまさに性格の悪いイラスト投稿者の権化だろう。

自分は最近こんなことを思っている。

「ボランティアでわざわざ誰も見てないし相手にしてないような絵にコメントしてやったのに返信も寄越さないなんてどんだけ偉そうなんだよ」と。コメントがあったら嬉しいだろうなと思って利他的な思いで褒めてやったのに返信すらしないような人が結構イラスト投稿サイトにはいる。

正直「お前何様だよ」と思わずにはいられない。

 

まだ人気絵師のような人がコメントが多すぎて返信しないことにしてるというならばわかる。しかしろくに閲覧数もない上に反応もされてないようなしょうもない絵をわざわざ見てやってコメントまでしてやったのに、感謝の一言もないのは身の程知らずにも程がある。自分が人気イラストレーターと同じ立場だとでも思っているのだろうか。

 

そんな人に対して「すいませんでした、わたくしみたいなド下手な人間があなた様に素晴らしいイラストにコメントしても何も嬉しくありませんよね」と思ってしまう自分がいる。

「ボランティアでコメントしてやってる」という押しつけがましい考え方の方がよほど性悪なのだが、誹謗中傷でもない上に絵の詳細な部分まで見て大したこともない特徴をわざわざ褒めてやってるのに返信すらしない事は少し残念だ。

もちろん本当に参考やヒントにする部分もあっていろいろな人のイラストを見させてもらっているのだが、何の返信もないとそんな嫌な気分にさせてしまったのかと思わずにはいられない。

 

更に言えば世間に対しても本来は見てくれてるだけでありがたいのに「なぜ世の中は自分を認めないんだ」というようなこれまた嫌な考えを持ってしまっている。

コメントされない上にコメントしてやっても返信されない、どれだけ自分は世の中から軽んじられ無視され続けているのだろうか。

世の中そんなに自分のことが嫌いか、所詮その程度のどうでもいい人間でしかないのかと自己嫌悪に陥る。

 

どんどん性格が悪くなっていく自分がおり、これではいけないと思いながらも醜い感情がわき出てくる。

上手い人は上手い人しか相手にしないし、下手な人にかぎって自分を過大評価してるし、そんなことを考えてる自分も嫌だし性格悪い人しかいないのが絵の世界である。

自分の場合はイラストサイトだが、小説投稿サイトや音楽投稿サイトなどでもこのような嫉妬が同じように渦巻いているだろう。

 

ただ著名なアーティストもアスリートも人格で褒められた人はむしろ少数派なのだ。

たとえばスタジオジブリの宮崎駿や、ガンダムシリーズの富野由悠季などは人間性クズの象徴だろう。

自分は宮崎駿と富野由悠季に憧れて尊敬もしているのだが、性格が良いだけの人間はあの領域にたどり着けないだろう。

宮崎駿も富野由悠季も映画「君の名は。」が流行ったときは嫉妬根性丸出しで知らないアピールや見てないアピールをしていた。

上には嫉妬し下は見下す、そして自分は絶対だと信じる、これが芸術家やアーティストのメンタリティでもありむしろその感情がなければならない。

自己愛性パーソナリティやサイコパスでもなければアートの神髄は究められない。

スポーツの世界でもトップクラスの選手で人格的に善人だという人のほうが稀である。なぜならば善人は淘汰され競争に勝ち残れないからだ。

時として人を踏み台にしてでも這い上がり、人間性を犠牲にしてでも生存競争に勝たなければならない。

 

よくサッカーの世界で「フォワードは人間性がどれだけクズでも点取った人が正義」と言われるが、絵も同じくどれだけ性格が悪くても上手ければ認められる。

クリスティアーノ・ロナウドのような味方のゴールに不満の態度を見せる選手や、もはやサイコパスではないかという人格破綻者のズラタン・イブラヒモビッチが世界屈指のストライカーなのである。

サッカーは人間性の良さを競うスポーツでもなければ、絵は性格が良ければ上手くなるわけでもない。むしろ嫉妬を反骨心にして努力をする人間の方が結局は生き残るのである。性格が良い事と実際の実力は相関するものではない、これはどのジャンルにもいえることだ。

 

むしろ性格が悪い人間の方が面白い事さえある。

芸能人を見てもたとえば指原莉乃はとてつもなく性格が悪いひねくれ者だがむしろそれゆえにコメントが面白く魅力的なキャラクターになっている。

小説家などでも自分は村上龍が好きなのだがこの人もまた斜に構えた物事の見方をしているという描写が多い。

性格が悪い捻くれ者でなければその視点は浮かばないというシーンは多い。

逆に真面目で善良な考えの人間が書いた小説など面白くもないだろう。

 

そしてこれはインターネットの書き込みも同じだ。

綺麗ごと程つまらない物は無く、捻くれた書き込みほど面白い物は無い。当たり障りのない優等生の考えは見ていて飽きる。

ネットが社会の負け組の巣窟だったころは嫌な書き込みが多かったが、今は「そんな考えは不謹慎」みたいな人が必ず現れる。

よく「日本人の陰湿さがネットには現れてる」というが、陰湿で捻くれた考えの方が見ていて面白いのだ。むしろ「日本人は陰湿だ」と言っている人の方が自分を棚に上げていてまるで自分は善良であるかのような言い方をしているのだから性格が悪いだろう。

 

世間一般の建前では素晴らしい考え方でも実際は綺麗事でしかないことが多い。そういった自分は優良な善人だと思い込んでいる人間ほどつまらない存在は無い。自分は善人だと思っている人が本当に善人なことの方が稀だ。

そしてそういう人間ほどいざという時は醜い本性が露呈する。

日本人に限らず人間は陰口が大好きであり、必ず醜い感情を持つ生き物なのだ。

 

むしろその醜い根性は自分が人間だという証でもある。

原始時代の厳しい競争においては良い人というのは生き残ることができなかった。今生きている現代人は誰もが他人を蹴落としてでも生き延びてきた人間の子孫なのである。性格が悪いということは生命力が強いという事でもある。

これまでの自分の人生を振り返ったとき、誰もが一つの真実に気づくだろう。

「良い奴は評価されない、いつも嫌な奴ばかりが得をしている」ということに。真面目に生きることなど損でしかない上に報われないし評価されない。

ただ自分個人としては性格がいい人の方が好きだし、そんな人を評価したい。自分は性格は悪いかもしれないが、かといって性格悪いこと自体を評価するわけではない。やはり良い人が報われる社会であってほしいとは思う。

 

絵が上達するほどに人格が歪んでいくことは間違いない。

その一方で自分は性格の良さを評価されるため絵を描いているわけでもないのだ。サッカー選手も人格者だと思われるためにボールを蹴っているわけではないだろう、ゴールをするために日々練習をしている。

そしてそれで多くの人が楽しめば、それは人を幸せにしているともいえる。

お笑い芸人も性格が良い人の方が少ないが、それで人を笑わせて誰かを幸せにしてる。

自分も良い絵を描いてそれで楽しんでもらいたいと思っているし、面白い作品を作ることが最大の目的でもある。

イブラヒモビッチにしても富野由悠季にしても、指原莉乃にしても性格が良ければそもそも有名になっておらず何も残せていなかっただろう。むしろ自分が好きになるのはそういった人格的におかしい人間やひねくれ者ばかりだ。

人間性が腐敗しているほどに面白いことができる。

 

確かにジレンマはある、絵を描くほどに性格が悪くなっていく自分が嫌になる。その一方でそれは創作に必要な事だと考えることもできる。

悪化していく性格から発生する不満や嫉妬、それをいい形で作品や活動、競技に反映できる人は何かを成し遂げたとき英雄になる。

逆に何もできなければただの嫌な人間で終わる。

実力さえあればすべてが変わる、何も価値がないと扱われていた人間への手のひら返しが始まる。

これまで軽んじられ続けてきた今の自分に必要なのは圧倒的な実力だけだ。

酒を飲んで楽しくなってもそれは続かない

禁酒生活を始めてからしばらくたったが正直に言って順調ではない。

朝起きて真っ先に酒が欲しくなったり昼間から飲んだりする機会は減ったが、それでもやはり飲むのは辞められない。

飲まない日や飲む時間を遅い時間帯にできた日などが少しあるくらいで、相変わらず変わっていない。

地道な進歩なのか、停滞なのか判別もつかない曖昧な日が続いている。

現状を表すならば禁酒や節酒を意識し始めたという段階に過ぎないのが自分の生活の実態だ。

 

禁酒を始めて最初の2日間は達成することができたが、翌日すぐにお酒を買いに行き反動のように飲んでしまった。

更にその時に買いためた酒類がもうすぐ切れかかっているためどうしようかと迷ているのが今日である。

スーパーのお酒コーナーに久しぶりに行ったのだが、それだけでテンションが上がりワクワクしていた自分がいた。お酒コーナーはなぜあれほどワクワクするのだろうか。

 

子供のころはスーパーや量販店に入れば真っ先にお菓子コーナーやおもちゃ売り場に行っていたが、大人になるとお酒コーナーに来た時が一番テンションが上がる。夢のような空間が広がり、いつかそれらを買い占めることを想像する。

まるでこの場所にあるおもちゃとお菓子を全部手に入れたいと願う子供のように、お酒の国に行きたくなる。

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禁酒2日目に考えたのは「妥協案」だった。

つまり今までの昼間から大量に飲む生活を辞め、寝る前に酎ハイを2缶、もしくはロング缶ならば一本にするならば経済的負担も1日200円程度に軽くできると考えた。

それを守るという約束で買いに行ったのだが、案の定「あれば飲む」という状態に陥り予想以上に早く買いためたものを切らしてしまった。

早速買い足しに行こうとしている自分がいるのだが今は自制している。

 

やはりお酒を飲んで楽しくなっても仕方がない上に、それは続かない。

「今お酒を飲めば楽しくなれる」というポジティブなことを考えがちだが、実際にはそう長く続かず結局後から辛くなるだけでしかない。

とにかくこういったアルコール依存対策として重要なことはテンションが上がってこない塞ぎ込んでいる状態に打ち勝つ事でもある。

安易に気分を盛り上げるために何も考えずに酒に頼ろうとしてはまた同じことの繰り返しだ。そして現にここ数日禁酒を決意したにもかかわらず同じ過ちをしてしまった。

 

また楽しくない状態の時にどう気分を変えるかという工夫もしていかなければならない。

今の所もっとも効果があると感じたのが「読書」である。

何もすることが無くただ気分が上がってこない時には、読書をすると時間を上手くやり過ごせることに気付いた。テンションが盛り上がらない状態があることや人生が楽しくないことをまずは受け入れないといけない。

「今楽しくないのは仕方がないこと」だと自分に言い聞かせてストイックに努力したり自分で楽しくする方法を工夫しようする必要がある。

 

お酒に依存してしまうのはメンタルが弱いからでもある。

自分で楽しくする術を考えて、そして精神的に辛い状況にもタフに挑もうとすることが大事なのかもしれない。

少しずつだが今の自分はお酒が入っていない状況を増やすことはできるようになってきた。昨日も最後まで飲まずに一日を終えられる寸前にまでいったため、昼間飲まないということはできるようになりつつある。現に今も飲んでおらず残りわずかにある酎ハイも冷蔵庫に入れてないしあまり飲みたいとも思っていない。

この記事を書いている間に少し冷静になり突発的な飲酒欲求も収まってきた。

こういった禁酒日記を少しずつつけることも助けになるかもしれない。

禁煙やダイエット人気などはネットによくあるが、お酒も同様に自分の中で記録をつけて少しずつでも進歩してっている実感を得ることが助けになる。

 

これまで酒が埋めていた心の溝を別の何かで代替していかなければならない時期に来たのだろう。やはり健康の面でも飲まないに越したことは無い。また現実的に貯金も少なくなってきていることは事実だ。

 

繰り返しになるが、そんな絶望の状況において読書をする習慣を取り入れることは今の自分の心の支えになっている。

自分がまだお酒を知らなかった頃に読んでいた思い出の小説を懐かしみながら読んでいるのだが、それがとても面白いため、つまらない毎日に一つささやかな楽しみが加わった。少しでも何か心の支えになる物があるというのはお酒しか楽しみがなかった生活を変えてくれる。

今までならお酒を飲んで盛り上がろうとしていた状況で、黙々と静かに小説を読むことを選ぶようにはなってきている。

 

お酒を飲んでテンションを上げることは長く続かない、結局飲みすぎて頭が痛くなるだけだ。

静かに小説を読んだり絵を描いたりする事は地味だが、長く続くため「省エネスタイル」ともいえる。

お酒を飲むのはいわばハイオクの燃料を入れて大排気量のスポーツカーを高速で走らせるようなものだ。

一方お酒を飲まず地味なテンションでいるのは軽自動車をレギュラーで長時間、制限速度内でゆっくり走らせるようなものである。

 

今まで自分はアルコールというガソリンを燃やし大排気量の車で最高速で走ることに慣れ切っていたため、お酒が無い状態の刺激の無さやテンションの低さに耐えられなかった。

スポーツカーで走り回ることは楽しいかもしれないが、これからはそんな生活から引退して軽自動車でゆっくりと走るしかない。

これは例えに限らず、実際に高級車を維持できなくなったらそれを売って、安い中古車に乗り換えてまたいい車を買えるように頑張るという話は良く聞く。

つまり今の自分はお酒を一時的にやめて、しっかりと元の生活に軌道修正して今度は更にいい酒を飲めるように頑張る必要がある。

 

安酒を肴も無しで飲んでいたら体調も悪くなる上に楽しくもない。

それよりはいつか高級料亭で最高級のお酒を味わうことを夢見て、今ストイックに努力をした方がいい。

 

こんな底辺生活をいつまでも続けていてもジリ貧になるだけだ。

そんな人生のために生きているわけじゃないし夢もまだ捨てたわけじゃない。

「これでいいのか」と問い詰めることがこれからの人生の分岐点になるだろう。

酒を飲んで今この場しのぎの楽しみを得ても仕方ない。

今飲むことは何も幸せを生み出さない、よし、また禁酒生活を再開しよう。

負け組の底辺を脱却して人生を逆転する、そのためにも今はお酒とは縁を切らなければならないのだ。

少しずつだが進歩していきたい。

少子高齢化対策には本当に移民しかないのか?

日本の人口ピラミッド構造はかつて歴史上のどの国も経験したことが無い領域に足を踏み入れようとしている。

このままいけば未曽有かつ絶望的な超少子高齢化社会が訪れる事は間違いない。

 

その果てに今の若年層は高齢者層の世話をするためだけに働く人生が訪れ、年金が貰えず疲弊した頃に切り捨てられる。そしてその時日本はもはや先進国ではなくなり、外貨も稼げず国際社会の競争から完全に脱落しているだろう。

資源の無い日本で労働力も補えず、国際競争力も落ち数少ない体力のある残された人々は高齢者や既得権益層に搾取され手元には何も残らない。

要するに今の若者はこのままいけば数十年後、貧しい国で貧しい生活をして高齢者の世話をするためにだけに働かされて何も実現できない人生が待っている。

もはや本人の努力ではどうにもならない程に根本的な欠陥が日本社会には存在する。

 

この少子高齢化の社会構造を解決する方策としていくつかの方法が議論されているが、自分は4種類の解決策を提示したい。

1:移民を入れる

2:安楽死制度を導入する

3:富の再分配を行う

4:自分が移民する

 

真っ先に解決策としてあげられるのが第一の解決策である「移民の受け入れ」だ。

人口が増えていく構造が終了している以上、人為的に新しい国民を受け入れなければならないという議論は多く見かける。

個人的に移民は条件付きなら賛成だ。

つまり無作為に受け入れるのであれば治安が悪化し、西欧諸国のような現実に直面するだろう。日本という国は欧米の後追いをする国であり、特に西欧諸国、北米諸国が実行したことを取り入れる傾向がある。

 

しかし現実に西欧諸国を見れば移民政策や多文化主義が様々な社会的な歪をもたらしていることは明らかだ。

更に日本という国は島国であり他民族と日本列島において共存するという歴史をほとんど経験していない。わずかながら他民族を受け入れてきた時期があるが、西欧諸国が受け入れてきた移住者と比べてそれほど多くないにもかかわらず様々な問題が発生している。

 

また移民というのは一度受け入れた場合、よほど強権的なことをしなければ後戻りできないという一方通行のシステムであり現実に西欧諸国はその後遺症に苦しんでいる部分もある。

日本の移民受け入れに関してはもう少し慎重に考えるべきであり、単純に労働力を増やすという考え方はできない。

一定以上の教養や財産を持った移民なら受け入れるという条件を課すならば賛成だが、おそらくこれからの日本の状況を考えたときそういった上位層の優秀な移民はわざわざ日本を選ばないだろう。

 

つまり移民を受け入れるならば治安が悪化しこれまでの文化が大きく変化することを覚悟で、教養的であると認定することが難しい層の人々を受け入れるしか方策がない。

 

良い移民には来てほしいが母国において高水準の教育を受け一定以上の財産を持つ上位層の移住希望者はわざわざ多種多様な移住先が存在する国際社会において日本を選ばない。そのためその基準に満たない移住者を受け入れるしかないというのが日本の移民政策に突きつけられている現実だと言える。

 

"理想的な移住者"に恵まれないため財産を持たず高等教育を受けておらず、日本語も話せないという層を受け入れるしかない。

民族的にも文化的にも近いアジア出身者ならば適応しやすいが、これから発展の可能性が大いにあるアジアの国からわざわざ少子高齢化を迎える日本を選ぶ人はそれほど多くないだろう。

母国で食事にも困窮しているような難民層を受け入れるぐらいにしかこれからの日本には魅力が無く、もはやそれならば少子高齢化と共に衰退していくことの方が最低限の治安は保証されるだろう。

 

次にこの少子高齢化の解決策として2番目の「安楽死制度の導入」という物が上げられる。

理想としては一定の年齢に達した場合健康に問題が無くても安楽死を選択できるという社会にしたほうがよいが、こういった過激な変化は非現実的であり難しいだろう。

ベルギーのような日本人が進んでいると考える西欧諸国でも安楽死制度を採用してるが現実的には抵抗がある。

苦しむ本人もその介護や医療費の負担に喘ぐ周りの人間も不幸なのだが、こういった合理的な選択をすることができないのが日本という国でもある。日本人は情緒的な民族だと言われるが、このような判断を理性的に行うと大きな反発が起きてしまうため不可能である。現在の感情を度外視し長期的な視点で見る事は日本人が最も苦手とする事だ。

 

3番目の「富の再分配」は最も現実的に不可能な事だろう。

今の日本社会は高齢者層が多くシルバーデモクラシー状態になっているため民主主義的な解決方法を想定するならば実現は難しい。富の再分配どころか若者から搾取し良い部分だけを味わう世代の犠牲にならなければならないのが今の若者である。

この傾向はむしろ加速し今後"敬老ファシズム"の時代になる。老人が全てを支配し高齢者至上主義時代が訪れる。

彼らは民主主義を数の暴利で支配しておりもはや新しい世代は立ち向かうことができない。

そのため若者から政治への情熱や関心が失われているのは必然と言えるだろう。

選挙に行かない若者と批判されるが、一票の有効投票数が数倍に拡大されない限り改善は実現できない。そしてそのような優遇策は民主主義という概念を根底から否定する物でありやはり実現できない。

 

数少ない政治に関心のある者も日本の政治議論というコンテクストにおいてはネット上で右派と左派がレベルの低いレッテル張りや人格批判を行うことに終始しており、現実的な解決策は発案されず当然ながら実現もされない。

若者が集まって「年金廃止しろ、富を再分配しろ、既得権益を手放せ」というデモをしても難しい。

この少子高齢化社会から逃げ切れる高齢者層は自分の事ばかりで若年層を支援する気が無い上に、民主主義において最も有利な「数」を支配している。

そして今の若者は政治的な解決方法を諦めている。

 

以上の理由から2番目の「安楽死制度の導入」と3番目の「高齢者層による若年層への富の再分配」の実現性は低い。

人権という言葉を乱用する勢力と既得権益層に反発されるため、民主主義制度の中でこういったラディカルな政策は実現できない。これらの解決策は独裁政権でも現れない限り不可能であり、現実的に議論する価値はそれほど存在しない。

 

このような状況では社会の大きな変革を悠長に待つよりも自分を変える方が早い。

それぞれの人間が自分の人生と生活がある。

この変化を恐れる国においていつまでも改革を待っていてはいたずらに時間が過ぎていく結果にしかならない。

この状況で必要なことは「日本が移民を受け入れるべきか」「日本の少子高齢化をどう解決するべきか」という実質的に解決不可能な問題を議論することではない。

 

発想の転換が必要であり日本の少子高齢化をどうすればよいと考えても無駄でしかない。実行できない机上の空論ばかりを唱えても何も生活も人生も変わらないだろう。

残酷な現実だがもはやこの国は変わらない構造になってる。

さまざまな抵抗勢力や既得権益層が変化を妨害し、未来よりも目先の利益に執着している。

 

今必要なことは移民を受け入れるのではなく、自分が移民するという考えだ。

それが第四の解決策「自分が海外に移民する」という事である。

これまで日本人は我が国に移民をどう受け入れるべきなのかという事ばかり議論してきたが、自分たちが移民になる可能性については考えてこなかった。

 

しかし日本人は中世の時代は東南アジア、近代の時代南米や満州に移住していた時期がある。実は鎖国気質のようにみえて海外に移住していた時期は存在するのだ。

そして日本の歴史において今最も海外移住が必要な時期に来ている。

日本人という民族は日本列島に住み、日本国籍を保有していることが条件ではない。その社会の構造やシステムに身を置くことが、自分がどのような人間であるかを完全に定義するとは限らない。例え海外に移住しても日本人としての心が失われ消えゆくことは無い。

自分は日本や日本人が嫌いなわけではなく、むしろ日本人が生き残るにはどうすればよいかという生存戦略を考えてる。

 

もはや日本の若者層は無条件で外国語を勉強しなければならない時期に来ている。

生活の為、生きるために必死に海外への移住を模索しそのために語学とスキルの習得を求めるしかない。

インド人が英語勉強しないと社会の上位層になれないどころかまともな書籍も読めず知識すら得ることができないのと同じように、日本人も外国語が必要な時期が目前に迫っている。人間というのは必要性を感じたとき、どれだけ遅くとも外国語を習得できる能力がある。

日本人が日本語だけで暮らせた時代は幸福な時代だった。

 

高齢者層が自分たちが最も尊いと考え、自身の利益だけを追求するならば若年層も同じ考えで対応しなければならないだろう。

着々と訪れようとしている敬老ファシズムにNOと突きつけなければならない。

海外という新天地、そしてその地で生き抜くための語学やスキル、今の日本の若者が必要としているのはこの2つだ。

絶望的な少子高齢化社会という沈みゆく船と心中するのか、いち早く抜け出すのか、そのことを真剣に考えなければならない日は刻一刻と迫っている。

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