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負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ今ネットで「陰キャ認定」が増えているのか

最近2chやまとめなどのどこを見て「陰キャ」という言葉に出くわす。昔のネット民は自分たちは社会のはぐれ者で陰ながら2chでネチネチやって「リア充」に逆らってるという自覚があったしむしろ自分たちは日陰者だと思っていた。

それが今やネット民がネットで強がって、他人を陰キャ認定して自分は「お前らと違うから」的な雰囲気を出している。

 

まず思うのがネットの2ch見てるような連中が実際そこまで陽キャなはずがないということ。2chに書きこんでネットで強がってるような奴が世間で実際どれだけ陽キャだと思われているだろうか。

実際陰キャという言葉を使ってる人の10人に1人ぐらいしか本当の陽キャはいないだろう。(ネットの基準では)陽キャ、みたいな奴ほどネットではイキる。

 

なんJ民は特にこの言葉を使う傾向があって、「陰さん」とかいってるけどあいつらのほうが絶対陰で、「リアルであったらコイツ絶対俺より陰だろうな」って奴に陰キャ認定されているのがネットの恐ろしいところだ。

なんJ民のオフ会みたいな画像を見たら典型的な陰キャなのは最大の皮肉である。

更に彼らなんJ民はサッカー選手を目の敵にして「ヒョロガリ」と叩く。実際はヒョロガリなのに自分のことを棚に上げて叩く、もしくは異様に自己評価が高いのがネット民の特徴だ。

まぁなんJ民って皆野球選手並みに速いボールを投げられて、足も速くて恵体ですからね。サッカー選手など彼らからすればワンパン余裕なのである。なお実際はヒョロガリの模様。定型文でしか話せない奴らが陽キャなわけねぇだろ、って話ですよ。

 

要するにネットとは異様に自己評価の高い奴や虚言癖のある奴が、匿名であることを盾にイキって誰かに勝った気になる場所なのだ。

そういう奴がサッカー選手をヒョロガリと叩いて、実際自分より陽な奴を陰だと叩いてストレスを発散しているのである。

 

タチが悪いのが反論すればするほど自分の陰度が上がってしまい、一度言われたらスルーするしか対抗策がないところである。先制攻撃をした側が有利であり「言われないために先に言う」「やられないために先にやる」という構造になっている。

陰キャと先に言われたら負けだから自分が先に言ってしまおう、誰かを陰キャ認定したら自分は陽キャになった気がする、そういう理由なのだろう。

この言葉を使ってる人は「陰キャと言われたくない人」「自分が陽キャだと思いたがっている陰キャ」が大半で、実際10人中1人ぐらいしか陽キャしかいないんじゃないだろうか。

 

しかも最近陰キャ認定の基準もガバガバで、本当にネット民基準の陰キャ認定に引っかからない人なんてむしろいない。

「そんなんで陰キャ認定されたら全員陰キャだろ」というようなガバガバ基準で認定しまくっており、逆に陽キャになる基準も簡単である。

都合のいい基準で自分は陽キャにして、誰かを陰キャにする。

例えば性格が明るいブサイクも一応陽キャと言えば陽キャだ。そういううるさいだけのブサイクがネットで得意げに陽キャと言っても滑稽である。自分が陽に入ると思ってるなんJ民がガバガバ基準で陰キャと認定しているのが実態だ。

 

「お前のその程度の条件で陽キャになれるなら俺だって陽だわ、お前の陽の基準低いなぁ~ってかお前リアルで会ったら絶対俺より陰だろ」って奴がネットではイキってる。

サッカー選手をヒョロガリ扱いして勝ち誇り、本当は自分より陽な奴を陰認定して上に立った気分になる、それがなんJ民という種族である。

ほならね俺みたいに全く知らない集団に飛び込みで混ざってサッカーしたり、街中にいる日本語話せない外国人に話しかけてアドリブトークしてみろって話でしょ?

自分語りになるけど、それすらできない奴にネットでは陰キャ認定されることがあるんですよ。直接あったら自分の方がむしろ陰になるから陰キャだと言えないような相手にもネットではイキって言うことができる。

 

結局陽キャと陰キャって何なんだろうね。

自分のイメージでは陽キャ=パリピぐらいのイメージだけど、普通の事してるだけで陽キャだと思ってる奴最近いるでしょ。ただちょっと明るいだけでもう陽キャになれる時代、ちょっと静かなだけで陰キャになる時代。

前者がうるさい嫌われ者のブサメンの可能性もあるし、後者が実は女子に人気のイケメンの可能性もある。

 

最近の緩い基準ではゴールデンウィークに外出するだけで陽キャみたいな勢いになってるし、GWどこも行かなかっただけで陰キャ認定される。

ちょっと待てと、「GW外出しない陽キャ」なんていくらでもおるやろって話ですよ。ついでに「GWが外出する陰キャ」もいるといえばいる。

休日外出しなくても友達が家に来るパターンがあるし、フレンドとボイスチャットでゲームする奴もいる。逆に外出しても一人で行動して誰とも話さなかったら前者とどっちが陽で陰かって話でしょ。

この前「一人で小旅行したこともない陰キャ」みたいに書き込んでる馬鹿がいて、コイツの基準じゃ一人で旅行するぐらいで今の時代って陽キャになれるらしい。

当然その旅行先で誰かと友達になったりしたのかって話で、店員との事務的な会話以外しなかったら陽キャでもなんでもないし部屋で友達と遊んでる奴のほうが陽キャなんだよね。

結局こういうのってくだらないレッテル張りで、うわべだけで判断して「隙あらば陰キャ認定」ブームになってる。前述のように「陰キャだと言われたくないから先に言ったろ」の精神である。

他人を陰キャ認定する基準も、自分を陽キャの枠組みに入れる基準もガバガバ。

まとめると匿名掲示板の民度ってその程度って話ですね。

昔のワイ「アニメの声優に芸能人を使うな!ちゃんとプロをつかえ!」

今のワイ「なんであんな声優神格化してたんだろうな」

昔の自分はとにかくアニメを神格化してたし声優も神格化していたし、芸能人がアニメに絡んで来るなという典型的なアニメファンの1人だった。

でもアニメにそこまで熱狂しなくなって、今は「芸能人使ってもりあがるならそれでいいんじゃないの」と思うようになったし、ジブリ宮崎駿のように逆に素人の音声も悪くないなとも思うようになった。

ガンダム富野由悠季も声優に対して習った発声方法ではなく、自然な発声方法を要求していたし今自分はその意見に共感できるようになった。

 

芸能人でも上手い人はいるし、逆に今ジブリとかみて芸能人の声のほうが自然で「作り物感」がしなくてこれはこれでアリだなと思う。

アニメファンとしてトガった思想を持ってた頃は「神聖なアニメに芸能人が絡んで来るな」と思ってたしジブリみたいな一般人向けアニメは価値がない」ということも思っていた。

クラスの中で自分だけが知ってる深夜アニメや萌えアニメをものすごく神格化してて、それはそれで楽しい時代ではあった。ただアニメオタク文化自体がにわか化かして、逆張りしたい自分は今あえて声優至上主義に反発するようになった。

上坂すみれステマしてる人見ると元気だなって思いますよ。

 

昔の自分もアニメや声優を持てはやしてたのはいわば世間やリアルに対す逆張りで、アニメや声優がにわか化してきたら今度は逆張りで実写化や芸能人声優を持てはやす

逆張りをするということだけはブレてないのが自分である。

漠然とネット文化やオタク文化が発達して普及して盛り上がればす凄い時代が来ると思っていたけど、そうじゃなかったということに気付いた。

サブカル系評論家が共通して言っているのが「昔は良かった」という話であり、人間そうやって老害になっていくのだろう。

実際2006年の涼宮ハルヒぐらいの時ですら過去のオタクからすればもうすでににわかで、今やハルヒ世代が今のアニメはにわかだと叩いている。

かつてオタク文化やアニメ文化を持てはやしてた自分は、今逆に芸能人の魅力に気づくようになったしスポーツも今になって応援するようになった。

結局自分がアニメやネットに求めていたのはアングラ感であって、にわか化してその雰囲気が変わったら飽きて今度はメジャーな文化のファンになったのが自分である。

 

その結果何かリアルに逆らう情熱もなくなって「芸能人がアニメに絡んで来るんじゃねぇ」とも思わなくなったし、逆にそこ排斥しようとしてるオタクって今更そのノリ古いよなさえ思う。

ネットがもっと閉じた場所だったときは「俺ら」みたいな共同体幻想のようなものがあったけど、今やネット民ってむかつくだけの「おまえら」でしかない時代になった。

昔のネット民が使う「おまえら」は親しみを込めて言っている部分もあったけど、今の時代ただ見下すために「おまえら」という時代である。

 

もう今やオタクアピールをする芸能人や一般人も増えたし、かつてオタク文化自体メジャーになった。逆にそうなったことで自分はアニメや声優に興味を無くすようになった。

今や海外サッカー選手知ってる人のほうがリアルで話すときはうれしいし自分自身も結構変わったのかもしれない。話すのはガンダムについての思い出話ばかり。

昔のワイ「翠星石を知っているとは同志でござるな」

今のワイ「おっディ・マリア知ってるのか!良い選手だよな~!」

アニメ知ってる人と会っても、逆に知識が2010年ぐらいで止まってて逆にサッカーは滅茶苦茶見てるからそっちのほうが話し合うようになった。声優とかも最近の人は全然知らないし、逆に芸能人は結構詳しくなった。

「芸能人全然知らんけどアニメだけでええんや」って言ってた自分はもういない。漠然とネット民としてリアルに逆らってた頃の自分はもうしないし逆にメジャーな文化持てはやして最近のネット民叩く側になってるという皮肉。

 

もう声優とかアニメを神格化して幻想見る時代じゃないんだろうなって。あの頃のネットやオタク文化が楽しかったから、神格化できてたけど今は現実に気付く。

「声優ファン=選民」でもなくなったし腐女子もヤバイ奴が減ってファッション感覚になった。

声優ファンになるのも腐女子になるのもオタクになるのもきっかけは増えたし、同機は軽くなった。すべてのオタク文化はカジュアル化の運命にある。

戦艦趣味も艦これでだいぶ入口は広がったし、かつてコアなオタク文化だったものがどんどん浅くなってきている。浅くなったというよりも、全体的な密度が濃い物ではなくなった。未だに間違いなく凄いオタクはいるけども、同時ににわかな人も増えたしそういってる自分も昔はにわかだったのである。

 

逆に今自分の中ではサッカーのようなメジャーなものをコアに突き詰めるということが楽しくなっている。あまり誰もが選ばないものを楽しむという趣味から、メジャーなものをものすごく突き詰める趣味になったのかもしれない。

むしろサッカーのほうが避難所や専板のようなところにいる人って滅茶苦茶詳しくてオタクっぽい人が多くて昔のアニオタ、声優オタコミュニティみたいな雰囲気がある。

結局自分は声優やアニメが本当に好きだったわけではなくただ逆張りしてコアな雰囲気を求めたいだけなのである。コアな場所を求めて今日もネットを彷徨う。

elkind.hatenablog.com

ハルノートを受け入れていたらどうなっていたのか

日本の歴史のターニングポイントを考えたときにハルノートの通知は良く語られることである。戦争回避はどのあたりまで引き返せば可能なのかということもよく議論され事実上の最後通牒ともいえるハルノートは開戦を回避する最後の機会だったとも言われている。

 

ただこのハルノートは実質降伏勧告ともとれ、日本が日露戦争以降積み重ねてきたすべてのものを破棄することは日本の世論としても不可能な部分があった。実際日比谷焼打ち事件のように国家の利益に関する分野で妥協すれば当時の血気盛んな日本国民から攻撃を受ける可能性もあり、選挙が存在する民主主義国家ではそう簡単にできない事でもある。

また2.26事件のようなことも起きておりこの時代政治家が狙われるという危険性は今以上に大きかったのだ。逆に国際連盟脱退時の熱狂的な歓迎のように、大国に妥協しなかったときは英湯として迎え入れられる状態にあった。

 

こういった状況で受け入れていればよかったと結果論で語ったところで、当時の理論でいえば天と地が入れ替わってもできないような事だったのかもしれない。

ハルノートを受け入れていれば戦争を回避できた、しかし当時の日本の情勢でそれは不可能だった。その上ヨーロッパではドイツが快進撃を続けてもうこの際うるさいアメリカやイギリスを倒してしまえばいいという流れになっていくのはある意味自然なことかもしれない。

 

また受け入れたところで当時の日本に残された道は限られておりいずれ行き詰まっていただろう。その中で既存の体制を完全に変えてしまおうというドイツのような勢力が現れたときその方向に乗っかろうというのは当時としては明るい未来のように思えたかもしれない。

実際世界恐慌が起きて世界がブロック経済化して植民地を持たない国は本当に厳しい状況になっていた。その中国利権に関しても国際連盟を脱退して孤立してABCD包囲網があって、援蒋ルートから大量に物資が送られなかなか中国との戦争が終わらない状況にあった。

しかも中国にいる日本の民間人が何度も危険にさらされるようなことがあり、とにかくこの状況を打開しなければならなかった。更にアメリカ政府にはソ連のスパイも紛れ込んでいたり、アメリカ政府に対するロビー活動で中華系住民からの根回しもありアメリカの対日感情は非常に悪化していたという裏事情もある。

そこでアメリカがハルノートを突きつけてきて日本としては服を脱いで土下座しなければならないような状態になったというのが歴史の流れである。

 

ただハルノート関連の交渉中にもアメリカ側も妥協したり譲歩する案が提案されてもいてもう少し粘り強く交渉していれば戦争が回避できた可能性はあるだろう。

ただこれはこれまで何度も言われてきたように「交渉下手」な日本人ではなかなか解決できなかった、そしてその結果開戦へと至ってしまった。

自分は戦前の文化にも素晴らしい物があると思っているし、空襲によって損失した建築物には美しい物もあったと思っている。それゆえになんとか開戦を回避できていたらとおもわずにはいられないし実は満州国は撤退しなければならない中国には含まれていないとも言われている。

満州国を何とか死守して、アメリカとの協議を進めて大陸の利権を分け合う方向に持って行けてれば開戦は回避できたのかもしれないが、それができたら苦労しないという話である。満州は日本の生命線である」と言われた時代に、満州の放棄は大日本帝国の衰退を意味するものでもあった。

 

結果論で言えばそもそも早いうちに「大日本主義」から「小日本主義」に舵を切って、内需の拡大や国内の開発を充実させるべきだったのかもしれないが、コンパクトな国家運営がトレンドになるのは戦後であり当時の価値観はまだ列強が領土を奪い合う時代でもあった。

結果論を言うならば台湾、朝鮮、南洋諸島、そして満州で我慢しておくべきだったのかもしれない。仮にその領土を今も維持できていれば日本は産油国だったし、北方領土樺太、千島列島、竹島なども奪われていなかった。国内旅行で台湾やパラオに行けた時代があったのは歴史の浪漫である。

 

ただ人間欲張り過ぎて失敗しすべてを失うことがある。実際自分も似たような体験があり、何かを得た状況や追いつめられた状況に陥ると判断能力は鈍るのである。結果が出揃った後世の時代に冷静に判断して、昔が間違っていたと言うのは簡単だ。

 

それに加えてあの時代最大の要因がやはりドイツだろう。

あまりにもドイツが上手く行き過ぎて「勝ちムード」のような雰囲気が出てきたことで日本の軍事関係者、外交関係者の親ドイツ派が勢力を伸ばすようになった。山本五十六のようにアメリカを知り尽くしている人がいたにもかかわらず、ドイツとの同盟を模索する勢力が力を伸ばしていった。フランスをわずか一ヶ月で降伏させたときは衝撃だったに違いない。

これも実体験なのだが電車が出発寸前だったのでとりあえず良く確認せず乗ったら目的地とは別の方向行きだったということがある。

「間に合わなそう」「急がないといけない」と感じたとき人間の判断力は鈍る。電車の乗り間違えに限らず日常でこういう経験は多くあるのではないだろうか。

日本は行き先の違う電車やバスに乗ってしまったのである。アドルフ・ヒトラー車掌の電車に乗ってしまったことが運の尽きだったのだ。

 

さすがの日本も単独で米英とことを構えることは無かっただろう。

ドイツが早期に敗戦していれば日本もやっぱりやめとこうとなったかもしれないし、そもそも日独伊三国同盟自体烏合の衆だった感は否めない。結局持たざる者同士が同盟を結んでもそれほど力にはならず、むしろお互い戦火を広げるだけの結果となってしまった。

よく言われることだが結局ドイツが真に同盟を模索するべきだったのはソ連であり、独ソ不可侵条約をなぜ破棄してしまったのかというのは最大の謎である。

ただそもそも我が闘争に書かれているようにゲルマン民族の東方への生存権拡大が公約でもあり、ドイツ側から仕掛けなくても結局ソ連側から侵攻していた可能性もある。

結局あの時代どこの国も対立する運命にありよほど外交交渉に長けた天才が各国に現れなければ開戦は回避できなかったのだろう。

 

仮に当時に戻ってハルノート破棄を阻止できていたら、または日独伊三国同盟の締結を阻止できていたら歴史はどのようなものになっていただろうか。 はっきり言えるのはあの時代世界経済は最悪の状態にあり、日米開戦をしなくても既に日中戦争が行われていた上にジリ貧であることは半ば確定していたということだ。

仮になんとか今日まで日米戦争を回避できていたとしても領土は却って負担になり、治安も良くなく大国との戦争の脅威におびえ、民間技術の発達もなく貧しい状況で軍事予算だけは湯水のように使われて生活は向上していなかったかもしれない。

更に中国との戦争も解決できず植民地の独立運動も過激化し、徴兵されて派兵されてそこで命を失っていたかもしれない。

財閥や身分制度もあって、浪漫だけでは語れない実情もやはりある。

 

戦後日本がこれだけ技術が発展したのも、予算や人材が民間技術に投入されたからであり例えば戦後航空機の開発が制限され事で航空技術を鉄道方面に使うことができた。それが今でいう新幹線である。

アメリカと仲良くして領土は最小限にして、技術や予算を民間のものに使うというという時代が訪れ、むしろ日本の経済力は飛躍的に向上した。

戦前のGDPランキングにおいて日本は最盛期でも世界10位ほどだったようである。戦後2位の時代が長く続き、今でも3位を維持している。そう考えると戦後のやり方は間違っていなかった。

戦前は浪漫ある時代だったと情景を思い描くことができるのもある意味今の日本だからできる事なのかもしれない。

 

大日本帝国がどうなっていたか、その究極の完成形を見てみたいという思いもあるが現実にはあの時代輝かしい未来が待っていたとは考えにくい。

大日本帝国が続いていたら今の日本の戦闘機はどうなっていたのか、文化はどうなっていたのか、都市の雰囲気はどんなものだったのか。その浪漫は当然あるし、戦前も間違いなく良い物がある。大日本帝国満州国の完成形には浪漫がある。

 

ただ時代や世界が不幸な方向へと向かう大きな波にさらされていたのである。

時としてどうしようもない大きな流れがやってくるのだ。地球に氷河期がやってくるように、あの時代どうしようもない経済の悪化が訪れていた。その荒波にいろんな国が呑み込まれてしまった。一国の努力だけではどうしようもない流れがあったのだ。

そういった悪い流れの極致がまさにハルノートの通告であり、最後は戦争になってしまった。現代人がこの歴史から学ぶことがあるとするならば、今度悪い流れが訪れたときに同じような結末を迎えないようにする事なのではないだろうか。

elkind.hatenablog.com

スペイン人がスポーツや芸術に対する情熱を真面目に使ったらどうなるのか?

スペイン人とは基本的にあまり努力をしたがらない人々であり、いわゆるラテン気質な人たちである。

情熱の国スペインといわれるように、楽しい事や盛り上がることへの熱意は素晴らしい物がありスポーツ大国、芸術大国である。料理も建築も素晴らしく美しい文化やかっこいい文化は非常に多い。

自分自身そのスペインに惹かれており憧れの国でもある。

 

例えばスポーツでいえばスペインは球技大国でありサッカー、バスケットボール、テニスなどは世界的な強豪国である。とくにサッカーに対する情熱はすさまじく1年間のテレビ番組の視聴率ランキングではトップ10すべてがサッカーの試合だったというのだからその人気は本物である。

スペインにおいてサッカーはもはや宗教であり、生活の一部でもある。サッカーを中心に生活が動いているのがスペインだ。

リーガ・エスパニョーラの強豪チームはUEFAチャンピオンズリーグを立て続けに制覇しており、数年前まではスペイン代表も非常に強かったし現在もスペイン人選手が世界各国で活躍している。

テニスも強くラファエル・ナダルはテニス史上最高の天才の1人であり、バスケットボールも世界ランキング2位の実力を持つ。

 

芸術に関しても偉大な国でありサルバドール・ダリパブロ・ピカソは芸術史を語る上で欠かすことのできない存在だ。

また建築においても巨匠ガウディを生み出しており、サグラダ・ファミリアグエル公園などは世界的な観光名所となっている。

料理もシーフード料理が多く海産物が好きな日本人にとって口に合う物が多くワインも素晴らしい。スペイン語という言語も非常にかっこよく自分自身も今勉強している言語である。食、芸術、スポーツ、言語、そして人々、そのすべてに魅力があるのが情熱の国スペインだ。

 

しかし唯一の弱点があるとするならば経済だろう。

今スペインの若者は半数が失業状態にあるとされ、PIGSの一員として欧州経済においていわば落ちこぼれのような状態にある。他の分野での高い才能がありながら先進国になれない、むしろそれどころか欧州の落ちこぼれにすらなっている。

 

なぜこうなっているかと言えばやはり彼らが努力をあまり好まない楽天的な人々だからだろう。ラテンの人々はあまり長期的なプランで努力をし続けることが得意ではなく、楽しいことを毎日楽しみたいという考え方を持っている。

高田純次の名言に「明日の1万円より今日の1000円」という言葉があるが、まさにそういう高田純次気質の人が大勢いるのがスペインである。

外国人が出るテレビ番組を見たときにスペイン人のゲストが「スペイン人は努力とかあまり好きじゃない、頑張ることが好きじゃない」と語っていたのだがそれがラテンの文化なのである。シエスタで昼寝をして美味しい物を食べてそこまで頑張らなくて、経済が落ちぶれてもサッカー楽しいと毎週熱狂して過ごしている。

 

そんな生活はもしかしたら頑張りすぎてしまう日本人にとって参考になるかもしれない。自分はそういったスペインの文化が好きで、「努力教」が支配して「仕事」が神格化されている日本の文化よりも魅力的に映る。

経済で言えばもちろん日本の方が圧倒的に優れているのだが、人間の幸せとは経済だけではないしスペイン人のほうが人生を楽しんでいるように見える。

日本が悪いというよりももう少し肩の力を抜いて、頑張り過ぎないことを覚えてもいいんじゃないかなとも思う。頑張らなくてもいいし今日が楽しければそれでいい、そんな楽天的な生き方があっても良い。

 

ただ仮にスペイン人がその楽しい事への情熱を経済や軍事などに投入して、もう少し真面目に頑張り続けたら一気に経済が回復してかなりすごい国になりそうだなと感じることもある。

実際無敵艦隊の時代や、ラテンアメリカに進出した時代があり世界最強の国だった時期がある。それゆえに今もスペイン語が通じる地域は多く、スペイン語圏を形成している。

世界の海を支配し太陽の沈まない国と言われたスペイン、そして今も芸術やスポーツでは世界屈指の彼らが努力や情熱の方向を変えたらどのような国になるのかというのは気になる部分だ。

努力をしないだけで才能は間違いなくあるのがスペイン人であり、本気を出せばヨーロッパの覇権国家にすらなれるのではないか。

 

実際スペインのサッカーを見ていても彼らは本当に技術力や想像力があり、好きなことに対しては凄く実力を発揮する。長期的な計画に関してもスペインサッカーの育成組織は素晴らしい。仮に彼らがそういった能力を発揮できる分野を国際競争力の基礎になる部分でも見つけることができたらスペインは復権するかもしれない。

楽しみを極めることが評価される時代が来ればスペインは躍進するだろう。

21世紀は好きなことで勝負する時代でもある。

もしかしたら21世紀はスペイン復活の世紀になるかもしれない。

芸術、スポーツ、そういった楽しいことが世の中を動かす時代がやってくればきっと彼らは世界を面白くしてくれるだろう。 

elkind.hatenablog.com

大日本帝国とは何だったのだか再考すべきだろう

大日本帝国について語る時、現代日本人は何を思うだろうか。あの時代日本が新興国として現れ世界に冠たる帝国を目指そうとしたことは事実であり今では考えられないスケールで物事を考えていた時代があった。

 

結局1945年にその帝国は崩壊するが大日本帝国にはどのような意味があったのだろうか。一つ言えるならば大日本帝国というのは未完成に終わり、物語の途中で夢破れた国である。

明治維新以来イギリスやドイツに憧れた日本人の壮大な夢であった大日本帝国の完成形とは一体なんだったのだろうか。歴史イフとして完成形がどんなものだったかは興味があるし、その想像を巡らすとロマンを感じずにはいられない。

つまり大日本帝国は浪漫だったのである。

100年近く前のことを今の価値観で判断することは間違いだろう。

あの時代日本は必死に生きていたし、その中で懸命に夢を思い描いていた。

それが今となっては悪しき帝国主義と判断されるだけであり、本当にあの時代を判断したければ当時の価値観を想像する必要がある。

 

戦前の日本、いやすべての歴史上の国や出来事を理解するためには想像力が必須なのである。想像力が人間が今の価値観だけで昔を判断すると間違いが発生する。歴史を語るには想像力が必要なのだ。

あの時代のことを今の世界に例えて見ると理解の手助けになる。

例えばあの時代日本の子供たちは大空に憧れていた。戦闘機は最先端の兵器であり国防の要でもあった。そして戦闘機パイロットは頭脳、肉体ともにエリートであり少年たちの憧れでもあった。レシプロ戦闘機も今見れば古いものだが当時は最先端技術が使われた最新兵器だったのだ。

 

今の日本で人気な職業といえばサッカー選手であり、昭和の時代は野球選手や相撲の力士などが人気だった。

そういった少年の憧れとして戦闘機パイロットが存在した時代、それを今に当てはめて想像したとき自分はある種の浪漫を感じずにはいられない。

零戦の映像などを今見ることがあるが、当時子供たちに戦闘機がどのように見えたのだろうかと思うと今では味わえないような昂揚感があったようにも思う。

 

元々日本人は歴史上ほとんどの時代が戦闘民族であり、世界屈指の戦好きの好戦的な民族である。現代の価値観ではそれらは批判されるが大人しく優しいことが美徳とされる時代と昔の好戦的な時代とでは価値観が違う。

そういう時代に航空機に憧れを思い描き、夢を抱いた人々がいた。

今以上に日本が凄い国だと思えて、軍事が最先端の憧れだった時代は一人の少年としてはある意味幸せだったのかもしれない。

バブルの時代にかっこいい車に憧れていたように、男というのはかっこいい機械に憧れる本能がある。それを全力で感じることができた戦前の日本は決して暗黒の時代のようには思えないし、いろんな浪漫や憧憬があった時代に生きることができたのは幸せだったように思う。

そういう軍事やミリタリー、かっこいいものが嫌いだという人はあの時代を不幸な暗黒時代のように語るが、それは少し想像力が欠けている。

 

今の中国人も中国が覇権主義を掲げ空母や戦闘機を開発してアメリカに対抗して世界一になろうとしてる姿に昂揚感を感じているのではないだろうか。

結果論で語るだけでは何も真実は見えてこない。

歴史とは常に過程の連続なのである。

連日領土が増えて、世界の大国としてアジアで唯一欧米と渡り合えて空母や戦闘機など最先端のものが開発されて、日本人が偉大な民族だと思えていた時代はある意味幸せだったのではないだろうか。その時代にいたら物凄く楽しかったのではないかと思う。

 

今の価値観があるからそれが間違っていると判断できるが、何も知らずあの時代の1人の国民だったときにその昂揚感を感じないことの方が難しい。

恐らく戦前を批判している人も、あの時代にいたらそこに喜びを感じていた可能性があるしバブル時代の熱狂を見ても日本人は自国が世界トップレベルになろうとしているときに喜びを感じるのである。

いや、それは日本人に限らず近代国家の人間ならば世界中誰もが感じる事でありあの時代国家や軍隊、領土というのは今以上に価値があり心のよりどころでもあったのだ。

娯楽が増え、市民生活が裕福になった現代だからそこに価値を見出さなくても楽しいがあの時代紛れもなくそこには希望や憧れが存在した。

 

今でもオリンピックやワールドカップで日本が活躍したときは熱狂する。そしてそれは日本に限ったことではない、世界中で行われていることだ。

昔は国家間の競争そのものがオリンピックやワールドカップのような立ち位置だったのである。

大日本帝国を再考する時に考えなければならないのは今以上に国家という組織体が世界史において重要な時期にあったという大前提である。

あの時代を不幸な時代だった判断するのは最終的な結末や戦後に訪れた繁栄を知った上で語る結果論にすぎない。 現代人が今の価値観であの時代を不幸だと決めつけることはあの時代を生きた人々に対しても失礼だとも感じる。

あの時代の過程にいると想像し、時代背景を考察した時に別の姿が見えてくる。

大日本帝国や戦前、いやすべての歴史について考えるときに必要なのはそういった想像力なのではないだろうか。

ドイツは欧州の新しい指導者になれるだろうか

昨今の欧州情勢は混沌としておりテロ問題、難民問題も含め悪化の一途をたどっているように見える。イギリスがEUを離脱したり、フランスでも国民戦線が台頭したりその他の国々でも右派政党やポピュリズム政党が現れ既存の体制のNOを突きつける流れが形成されている。

国内がテロや難民であふれかえれば欧州が右傾化、一国主義化していく流れは避けられずかつてのように欧州内で対立しあうナショナリズムの時代がやってくるかもしれない。国家というものの存在感がなくなり連合へと向かうのがトレンドだったが、今ではまずはEUからの独立、そして欧州の各国でも地域主義を掲げる勢力が独立へと向かおうとしている。

例えばスペインではカタルーニャ地方、イギリスではスコットランドがここ最近ニュースをにぎわせた。

 

そんな混沌と分裂の時代に欧州はどこへ向かおうとしているのか。

混沌の時には自然と強い指導者が求められるのが世の常である。そう考えたときに今最も欧州で力があるのはやはりドイツだ。欧州連合は実質ドイツ第四帝国ともよばれており、ドイツが今欧州では1人勝ちしているとも言われている。

「強いドイツ」が再び欧州の指導的立場を目指す時代がやってくるのだろうか。

イギリスがEUを離脱した今ヨーロッパの真の支配者はドイツとなるのだろうか。

ヨーロッパという地位の価値やプレゼンスが近代に比べて下がった今、彼らが復権を目指そうとしたらもうドイツを指導者にするしかないのかもしれない。かつてアメリカ、ソ連に対抗しようとした欧州連合は更に台頭するアジア、アフリカとの競争も行わなければならなくなった。

 

もしEUがただの烏合の衆になってしまえば21世紀の戦いにおいて欧州の権威は失墜するだろう。もう欧州の国々が一国で世界の中で大きな存在感を持つ時代は終わっている。それにもかかわらず今分裂の時代へと向かおうとしている。

その分裂に危機感を持つヨーロッパの人々がある日「強力な指導者」としてドイツを中心に据えるときがやってくるかもしれない。ヨーロッパ人には漠然としたドイツへの不安が存在する為これまでドイツとしても表立ってはヨーロッパの中心になろうとしてこなかった。

しかし時代が進み第二次世界大戦の歴史が過去のものになり、欧州の危機が迫ったとき彼らはドイツの指導的地位を求めるかもしれない。

ドイツが周辺諸国から支持され求められるようになったとき、第四帝国が誕生するのではないか。かつて軍事力によって半ば強引に勢力を拡大したドイツが今度は経済力によって「ヨーロッパの人々の民意」によって勢力を拡大するかもしれない。

 

北風と太陽の話ではないが昔のドイツは北風のようなやり方で欧州の指導者になろうとした。しかし今は多様なやり方で暖かく欧州の指導者に迎え入れられるのではないか。真に尊敬され頼られる国として欧州をまとめる立場になったとき悲願のドイツ第四帝国が完成する。

もしそうなったときドイツはどのように変化していくだろうか。ドイツ人が欧州の頂点に立つという悲願が達成されたときドイツ、そして欧州はどのような時代に向かうだろうか。

今度こそドイツが欧州の主人公になれる時がやってきたのだろうか。

 

欧州の長い歴史で見たときどの時代もその時代のトレンドを作り出す勢力が存在する。もし今度ドイツが主役になったとき、ドイツの影響は何をもたらすのかは興味深いところだ。仮に彼らの力が拡大したときドイツ語の重要性が高まり、ドイツ文化が欧州に更に広まる時代がやってくるだろう。

ドイツ文化圏が拡大し、もしかしたらドイツ文化が世界にも波及するかもしれない。

ドイツ語、ドイツ文化が流行り、ドイツのやり方が推奨される。そうやってヨーロッパのドイツ化が達成されたとき、3つの帝国が成し遂げられなかった「世界に冠たるドイツ」が完成するかもしれない。

 

ドイツの国家には「世界に冠たるドイツ」という歌詞が存在する。公式にはその1番の歌詞が歌われることは少ないが、その歌詞を正式に廃止していないところを見ると彼らの中にはまだそういった野心があるように見える。

考え過ぎだろうか、しかし虎視耽々とドイツは地位を拡大し確立しようとしているように思える。

ドイツによって指導される欧州が再び欧州としての力を取り戻した時世界はどのように変わるだろうか。そしてその新しい欧州、すなわちドイツ第四帝国は世界とどう向き合うだろうか。近代以降常に欧州に大きな影響を与えているドイツだが彼らは終わりゆくヨーロッパの救世主か、それともこれまでのように戦争の火種となるのか。いずれにせよドイツはやはりヨーロッパにおいて高いプレゼンスを持つ国であることは間違いないだろう。

日本人は人生を変えるために海外にいくべきなのか?

最近海外に行っていい人生を見つけたみたいな番組が多くて「世界の日本人妻は見た」という番組もある。

今行き詰った日本の状況で海外に夢を見出す人は多い。華やかではない日常から抜け出して新しい世界に夢を見出すというのは誰しもが思う事だ。

 

あの番組を見て海外生活に憧れていきたいという人は多いのではないだろうか。自分はそれほど見たこともないし、むしろなんで「世界の日本人夫は見た」がないんだろうなと思ってるから見る気にもならない。

 

やはり日本人男性が海外に行って結婚したら「若い美人を求めに行った」みたいなマイナスな見方をされるせいなのだろうか。日本人女性が海外に行って結婚することを美化する風潮があるのに、男性が行くと偏見もたれるあたり何か差を感じるなぁとは思っている。

考えすぎのように思えるけど、実際の所海外に行くべきなのは日本人男性も変わらない。

むしろ日本の男性ほどこの国を見限るべきだとさえ思う。

30代、40代の男性の婚活奮闘記みたいなのがあるけど実態ほんと酷いなぁと思うし、最近では40代になると1000人に3人しか結婚できないとも言われている。

逆に日本で日本人との結婚にこだわる必要ないと思うんだよね。

 

婚活に参加して「おばさんにも相手にされなくなった」って嘆いてる中年男性のブログを読んだことがあってそこで「おばさん探しして媚びうるより独身生活を満喫したほうがいい」みたいなことが書かれてたのを見たことがある。

そういうの見ると海外に嫁探し行く方が現実的なんじゃないかなと思うし、人間の本能として強い子孫を作るために外部の血を求めるというのがある。

日本人女性が海外に行くことばかり奨励されてるけど、むしろ今の時代日本に引きこもってないで海外に挑戦するべきなのは日本男児なのではないだろうか。

 

「海外で日本人妻になる」みたいなことを持てはやすこの国なんてもういいじゃん。なんで男の方は持てはやされないどころか偏見もたれるんだろうなぁって思うよね。

ようするにそういう国なのよ。そんな国で婚活し続けてもなかなか幸せになれないように思う。もちろん海外が幻想ばかりではないけど、かといって日本に幻想が存在するわけでもない。

 

それで海外に行って人生を変えようという話になるのだけれども別に日本で恵まれてて日本で勝ち組になれてる人は別に行かなくてもいいし十分日本で幸せになることもできる。

ただその勝ち組になれなかった人がワンチャン海外で人生を変えようとするのが今回語る海外脱出についてのテーマである。希望の持てない国に居続けるのがナンセンスであり、海外に夢を見ても全然OKなのだ。

まず日本で人生変えたいと思ってる人は「人生終わった感」「もうこれ以上変わらないんだろうという閉塞感」みたいなものを味わっているのではないだろうか。

正直自分もその一人で、大学を中退したことで社会のレールから外れてしまいだいぶ無駄なブランク期間を作ってしまった。

 

ただ海外ってそういうブランク期間をあまりマイナスに考えず、「その間勉強してました」「こういう活動をしてました」みたいなものが認められる文化がある。

逆に日本でそんなブランク期間がある奴はまず怪しまれるし、新卒至上主義だったり年齢を意識することが多い。また日本の就活事情も求めるものがおかしくて、この国で一回失敗したら普通の人生にすら復帰が難しくなる。

 

そんなかんやで諦めてしまいもう日本で頑張る気にもなれないと人生を諦めかけていた時に自分は「もう一度人生をやり直そう」として海外に「脱出」することを計画するようになった。

まだ具体的なプランがそこまであるわけではないが漠然と「滅茶苦茶人生変わるだろうな」という思いがある。終わったと思ってた人生に「まだ人生を新しく始める場所っていくらでもあるな」と光がさすようになった。 

これは単に感覚的な問題で「数年後海外で生活する」という事を考えたときに、急に新しい人生イベントが将来に広がっているような感覚を持てるようになったという話である。

自分の中で漠然と一生日本で生きていくんだろうなと思って、その日本で失敗したことでもう希望を感じられなくなり、世界が崩壊したかのようにさえ思っていたがこれはただ単に自分の視野を狭めていただけだったのである。

10代の頃に思い描いていた明るい未来に近い物を再び感じられるようになったしとにかく新鮮味に欠けていた自分の人生に「新しい世界」が加わるようになった。

 

正直自分って無能で日本社会でも行き詰ってて何の希望も感じられず停滞して人生を諦めていた。「そんな人間が海外で上手くいくわけねぇだろ」ってのもわかるが、とにかくただひたすらに変化や刺激が欲しかった。

ある程度想像がつくことや今の生活がちょっと良くなる程度の事にそこまで希望も持てないし、大体似たような生活が続くぐらいしか想像できなくなっていた。

もう人生変えようみたいな気力もなく、努力する気もなくなっていた。

そこで海外に出て新しい人生を始めようという漠然とした光がさしたことで急にやる気が沸いてきて、その良くも悪くも劇的な変化に魅力を感じるようになった。

 

日本社会で特に失う物もなく、何も得られなかった人ほど思い切って海外で人生を再スタートするという考え方があってもいい。

良い方向に変わるか悪い方向に変わるかは不確定要素だけれども、とにかくありとあらゆることが変わることは間違いない。もうこの日本での日常に飽き飽きして、希望も感じられない人間は思い切ってこの日常を打破して海外に活路を見出してもいい。

日本人って驚くほどに海外で生活することが選択肢にはいっていなくて、島国に居つくことが当たり前の感覚になってしまっている。

日本って世界の200分の1の国でしかなくて、その1つの国で失敗したからといって人生の失敗じゃないんですよ。むしろまだ190か国以上の候補があるわけで無理に一つの国に居続けることの方がおかしいともいえる。

「島国民族だから視野が狭い」みたいな言い方は嫌いだけども実際惰性で面倒だから日本に消極的に住み続けている人も多い。

 

日本で負け組の人が一生日本で惰性で生活してても人生もったいないと思うし、一回きりの人生思い切って海外で生活してみるのもありかもしれない。むしろ負け組ほど海外にワンチャン活路を見出すべきなのである。

少なくとも人生計画の一つに加えるだけでも将来に対する意識も変わってくるし、「ある程度負け組として決まっちゃった感あるな」と思ってる人ほどガチで海外に行く計画を考えて見るのも良いのではないだろうか。

 

実際自分もその一人で、5か年計画で「語学」を磨いて「学費や生活費などの留学資金」などをためて日本で果たせなかった大学卒業を海外で果たそうと計画を立てている。しかも英語を使う国ではなく、ほとんど勉強したことがない言語の国に行くことを考えていて、実質ゼロに近い状態からのスタートである。

ピース綾部だって40近くなってほとんど英語が話せないのにアメリカに渡米したのである。それみて勇気づけられたし挑戦者になることに遅いも早いもない。

日本で挑戦することにもう新鮮味を感じない時、海外で挑戦を考えると途端に面白そうだと思えるようになる。

挑戦には必要なのは根拠のない自信や希望だ。

夢は大きいほど、今と違うほど、そして未知のものであるほどワクワクする。

日本で頑張ってももう程度が知れてると言う人は人生を変えるために海外挑戦を視野に入れてみてもいいかもしれない。 

elkind.hatenablog.com

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