もう充実感とかいらないから楽に生きたいと考え
人は何のために生きているのかと考えれば考えるほど虚しくなる。
これまでの自分は手に入りもしない充実感や昂揚感を無駄に追い求めてきた。
ただいつの間にかそこにはたどり着けないことに気付き、心身ともに疲弊し上手く行かない現実に苛まれてきたのだろう。
いろんなことが面倒に感じる、例えば虚無感を満たしたり昂揚感を得るために飲むお酒だってよくよく考えれば、飲むまでも飲んでいる時も飲んだ後もやることが多い。
特に今日だって飲み過ぎた後は二日酔いが大変で、そこまでして昂揚感を得ようとして何になるんだろうなと馬鹿みたいになった。
もう人生の充実感とかいらないし、どうせ手に入らないんだし、もういらないかなと思うとすっきりする。無様に横になっている時、一瞬もう孤独は嫌だから誰か一人に愛されたいという考えがよぎった。
ただその後少し寝て、また目が覚めたら、いやもう充実感とか充足感とかそういうことを求める心理自体が無駄だなというか徒労だなと気づいた。
恋愛にしても結婚にしても、みんな理想は手に入らないで昨今は諦めている人の方が多い。
一時の幸福感のためにやることが多すぎるし、いつ消えるかもわからない。
実際婚活して現実悟って諦めの境地に辿り着いたみたいな人な人は増えてるし、もう孤独でもいいし、夢もかなわなくていいし、諸々どうでもいいから楽になりたいという考えになったほうがすっきりする。
自分の行いが誰かに認められる事を目指すとか、何かで1位になるとか、何かの能力を高めるとか、他人との比較や競争も現代の疲労感の一因なのではないか。
もっと言えば世の中が明るい方向に向かって行ってほしいとか、希望にあふれる時代になってほしいとかそういうのはもっとどうにもならないだろう。
世界を変えるとか思ったところで、世の中が自分の理想通りに変わるなんてことは無い。
じゃあ現実を諦めてネットを面白い理想空間にしようというのが昔の考えだったけど、これも実際にはかつてのネット民が思い描いていたほどのユートピアにはならなかった。
そのために自分もいろいろネットで活動をしてきたけど、正直自分を見ている人はもうROM専ユーザーと無課金ユーザーばかりで、これ以上いい方向に向かっていく気もしなくなってきたし、この状態が続きそうなら全般的に活動を縮小傾向にしていこうかなと考え始めている。
なんというか本当に楽しんでみてくれてるのかなぁと不安になるというか・・・
ネットで何かをしても楽しいという実感が最近は少なくなってきたし、人生全てにおいて夢見たところで無駄だよなぁということが増えてきた。
自分に限らず昨今SNS疲れをする人も増えてきてるし、ユーチューバーとか目指したところでもう今後はセミプロ基準が求められるようになっていく。現実どころかネットですら夢に溢れていた時代は終わろうとしている。
日本経済だってGDP3位で中国に追い抜かれたとかいったところで、もう落ちていくのは避けられないのだから、むしろ30位ぐらいでいいやという考えになったほうが楽だ。
日本に限ったことではないけども、学校教育の段階から、通学、授業、宿題、人間関係、部活、下校、受験、学校行事などと、忙しいことを疑問に思わない人間に改造させられていく。
大学に関しては日本の方が諸外国の大学に比べ、卒業が用意で遊ぶ時間が多い傾向にはあるけど逆に卒業して、社会に入っていけばこれまた一気に忙しくなる。
こんな忙しい生活を何十年続けた先に何が待っているというのだろうか。
忙しい事やハードなことを苦に思わない人向けに社会は作られている。
アスリートやアーティストのように自分の好きなことを実現できて、それで忙しいならば充実感に満ちた人生になる確率は高いが、一般の人間となるとそうはいかない。
それこそ今後AIに人間のやることを代替させて、人間はなるべくやることを減らすという方向に向かったほうがいいのではないか。その社会の実現のためには充実してバリバリ生きていく事よりも、楽に気ままに過ごすことがいいというタイプの人間が増えたほうが良いような気もする。
手に入りもしない充足感を一般の人間が無理して目指すよりは、楽に生きたいという本音をもっと大事にしてもいいのではないだろうか。
充実しているように見える人生も実はやってみれば本当にハードスケジュールで大変だということが多い。必要最低限のものだけは手軽にそろって、何もしなくても良い世の中の方が、不安は感じなくて済むしかえって充足感も得やすくなるように思う。
無理に充足感も昂揚感燃える必要はないんだからお酒は飲まなくてもいいと考えたり、幸せになる必要はないんだから婚活に翻弄されることも無いと諦めたりしたほうが、むしろ幸せなのではないか。
何もしなくていいというのは特別な楽しみがあるわけではない。
ただし楽ではあるしそれがむしろ幸福なのではないか。
「これでいいのだ」ではないけど、世の中無理に追い求める必要もない物の方が多いし、自己実現は誰だってできる物じゃない。そもそも現代人は理想の自分を求める傾向が強すぎたのかもしれない。
近代以前は個人という概念は今よりも希薄だったが、それで不幸だったかと言えばそうでもない。
根拠なき不安や、何かもわからず満たされない思い、それらはきっとこれからも続いていくだろう。
充実した人生を求めるという答えのない旅の果てに理想郷はまってはいない。
大きな幸せというよりも、一つだけ好きな街を見つけられて、一冊だけ好きな本を見つけられて、余生を静かに暮らせればそれでいい人生だったじゃないかみたいな生き方の方が本当の幸せなのかもしれない。
人生のワクワクする楽しみが年々少なくなっていく感覚
この先続いていく人生に希望を持って生きていくにはやはり何らかの楽しみが必要だ。
人生に意味は必要ないとしても、楽しみが無ければ張り合いがない。
別に個人の小さな人生に大層な意味なんて必要なくて、楽しければ良いのだが、その楽しみが年々少なくなってくる。
ここ最近の自分はとにかく何らかの楽しみを探そうとしているのだが、人生は上向くどころかむしろつまらなくなってきている気がしてならない。
なんというか長いよなぁ人生ってという果てしなさに駆られる。
今でさえつまらないのに人生100年時代をこれから、おまけに衰退していく世の中でどう楽しんでいけばよいのだろうかと考えると途方もない。
先に何も楽しみが待っていないような感覚に陥ると、急に人生は虚しく感じる。
自分の人生に限度も見えてきたというかある程度現実を悟り、夢も情熱も感じなくなっていく。
希望通りの人生にはならなくて、これから現実の社会を生きていかないといけない感覚はどうしようもなく虚しい。
いつまでも好きな事ばかりしていられないというか、大人になっていかないといけないんだろうなという現実がそこにはある。
もうそろそろ現実を生きる大人になることを目指して、惰性で生きていくだけの人生が続くのかと思うと、楽しかった時代の終わりが悲しくなる。
例えば世の中にある娯楽やコンテンツは徐々に面白くなくなっていくというか、自分が楽しめない側の人間になっていくことが増えた。発売が楽しみなゲームやプラモデルも少なくなり、新作が楽しみなアニメや漫画なども減っていく。
コンテンツがつまらなくなっていくというよりも、現実社会を忙しく生きるうちにそんなことしてられなくなって、終いには興味もなくなっていくというのがそのメカニズムかもしれない。
10代の頃の自分と違うのは「毎週楽しみにしているアニメ」がなくなったことだろうか。正直今リアルタイムで追いかけているアニメは無く、かといって今更過去作を見る気にもなれない。
自分好みのアニメは作られなくなるし、そもそもバーチャルユーチューバーの時代になって来ているし、テレビ番組もまさにユーチューバーの時代にシフトしている。
従来型の文化が徐々に変化していき、次の文化が育て行く事自体は歴史の流れで繰り返されてきたことだが、それが必ずしも面白い方向に向かうとは限らない。
じゃあ代わりに現代のネット文化が面白くなってきているかと言えば、そうではないように思う。自分が好きだったころのネットの雰囲気と今は違うし、それを変えようとしたところでもう抗えない時代の流れがある。
20世紀型の文化が残りつつも、ネットが少しずつ普及して来る00年代の文化からもはやネットがリアルに逆転するテン年代の文化になった。
その00年代の文化もバブル崩壊以降華やかな文化は徐々に下火になっていく。
80年代の雑誌文化がなくなったとか大型テレビ番組が少なくなっていくとか、失われた20年で景気が低迷して派手な車やバイクに憧れる時代でもなくなったとか、日本人は海外旅行や留学に行かなくなったとか、そういうことを上げればキリが無い。
その時代までは遡らなくとも、ネットはフラッシュ動画や2ちゃんねるの時代から、まとめサイトやニコニコ動画の時代になり、そしてもうユーチューブの時代になったなと感じる。
現実とは違うバーチャル空間であると錯覚できた時代のネットと違い、もう今はいろんなことがリアルの現実前提となっている。
ネットにしか居場所が無い人こそ、現実への反発で新しいことをやる人が多かった時代から、むしろ現実における信頼度や信用のほうが大事な時代だ。
アニメも「制作側が露骨にネットのネタを意識したものは寒い」と言われていた時代から、もはやバーチャルユーチューバーのようにネットで直接やる物が受けるようになった。
便利ではあるがもう完全にネット前提の社会になったし、ネットも現実前提になった。
ネットが学校には見つからない秘密基地のような遊び場だった時代は終わったのだろう。秘密基地作りなんて馬鹿なことしてないで、現実の学校生活を生きていかないといけないことに気付いていく。
実際秘密基地を題材にしたゲームの設定が最近の子供たちの事情と違うので、通信アプリで指定した場所に集合するという物語になったいう話もある。
子供は学校のLINEグループで、大人は会社のグループに縛られる世の中だ。
ワクワクしなくなったという意味では、ネットが対抗していたテレビもいざオワコンになると物寂しい気がしてくる。
現代人のライフスタイルが多様化してテレビというメディアも時代に合わなくなっているのだろう。実際一時テレビを再評価していた自分も、ここ最近やはり見るのが面倒だしそもそも面白い番組もないなという感覚になっている。
それは戦前、新聞や雑誌が国民的なメディアとして共通項だった時代が終わったのと同じで、テレビも役目を終えていくのだろう。
以前ほどオリコンランキングの権威がなくなって、歌番組が流行を作り出すという文化やそれを見るという習慣も無くなった。
かろうじてミュージックステーションは日本全国で見られているという感覚はあるし、実際SNSでも話題にはなる。ただかつてのような豪華さは薄れてきているし、似た様な話で言えばお笑い番組も少なくなってきている。
現代のネットに適応できるものだけが生き残るという意味ではゲームもテレビも、そしてネットそのものも同じだ。ソシャゲやDLCに適応できなかったタイトルは続編が作られず終了していくし、テレビもSNSでの参加を重視する番組が増えた。
もちろんネットの普及や現実との連動が全て悪いというわけではなく、ネットのおかげで人気が下火だった業界や競技が活気づいたというケースも存在する。
これも二種類あって例えば将棋のようにエンタメ方面に楽しみ方をシフトした場合と、対戦ゲームやTCGのように競技性に重きを置いた場合がある。
あくまで自分の意見ではあるが、ネットの攻略情報で競技性を加速させたゲームはことごとく面白くなくなっているように思う。ポケモンや遊戯王のように地方ローカルで盛り上がっていた時代の方が、ガチでやること前提でもう子供が参入できなかったり、攻略情報調べること前提のストーリーになったりしているよりは楽しかったはずだ。
そういった競争型コンテンツは結局トップ層についていけないで離脱する人や、対戦に疲れる人、そして参入障壁が高いと忌避する層が続出して、最終的には一部の人しかやっていない閉鎖型コンテンツになってしまう。
また人間の性質として自分がかつて経験するものにしか興味が無いというのもあるのではないか。ゲームでいえば自分が子供の頃にやったタイトルを大人になっても続けてるだけのことが多いし、アニメも自分が見ていた頃の作風の方が好きだという人が多い。
味覚と一緒でいろんなものに対する好みも幼少期に確立された物が、三つ子の魂百までという言葉のように変わらないのだろう。
だからこそ新しい趣味の発見というよりも、自分がかつて好きだった感覚を取り戻すという方向で行く方が良いと自分は考えている。
これからの時代に期待するというよりも、自分が好きだったものをもう一度見つける方が面白い。
無理にユーチューバー見るより古い番組を見たほうが面白いみたいな話で、もう今のゲームに期待するよりレトロゲーをやった方が良いだろうし、特撮でも見て昔のおもちゃをリサイクルショップやオークションサイトで探し回ったほうが楽しいのではないか。
実際古い時代、とはいっても2,30年前ぐらいの本の方が面白かったりするし、歴史などのように今は無い時代の物の方が想像する楽しみがあったりする。
それらに影響を受けて今の時代にリメイクするような形で、自分好みのものを作るという手法も存在する。
事実、TCGなどでも古い時代のカードを買い集めて当時のルールでデッキを再現するというのがかなり流行るようになっているようだ。最先端の環境について行こうとするとどうしても高額になるし、復帰したところで特に対戦するわけでもない場合や、民度の低いプレイヤーばかりだとなると現役勢であることに魅力は無くなる。
もういろんなものが上向いていかない時代に、未来に期待するのは無駄に思えてくるのも事実だ。確か新たに拡大していくジャンルも無いわけではないが、感覚的についていけないこともある。例えばスマホが普及したからと言っても完全に普及しているわけではなく、ネットを見ないで過ごす人は意外と多い。
またあらゆるジャンルに共通しているが、流行という物は繰り返される。
リバイバルブームだとか、かつての年代のモードファッションだとか言われるように終わったように見える物も、またどこかで戻ってくるかもしれない。
そもそも最先端の流行というのはそれまでになかったものを無理やり探し出しているだけで、本質的にはそこまで面白くないことも多い。
結局ベストセラーの食品がいつまでも美味いという意味では、多分これからもコカコーラやチーズバーガーは変わらない。
人間はこれまで知ってる範囲内のもので十分と言われれば寂しく感じるが、別に探したところで何か新しい物があるわけでもない。あったとしてもそこまで面白いわけではないし普及しなければ意味がない。
新しい技術や新素材が開発されたところで、市場の原理でそれが普及しないなんて現象は世の中に溢れている。
「新しい物はそう簡単に出てこないので、これまで好きだったものへの情熱を失わず、どれだけ楽しみを持続させられるかが大事」
脈絡のない話だったけどもまとめるとそんな感じだろうか。
お酒を飲むと向上心が無くなり、意識が低くなる
人生に希望が無くなりやる気が削がれていくことによって、その虚無感、敗北感、挫折感を紛らわすようにお酒の量が増えていく。
また世の中でこれから生きていくことの途方も無さや面倒さを感じると、現実から逃れたくなる。
ハツラツとした希望を探そうとしても特にこれから人生で楽しみなことがそう簡単に見つかるかと言えば、なかなかそうはいかない。
そういった考えに行き着いてしまう程、お酒というものは人間から向上心を奪っていく。もちろん飲み方にもよるが、いわゆるアルコール依存症のような形でだらだらと飲んでいるとつくづく無駄な行為をしているなと思い、ただ疲れるだけでしかないと気付く。
さまざまなモチベーションが低下して、かつてあったような情熱も失われどうでもいいと言う感情に支配される。
一体何をしているのかという自己嫌悪感と共に気分の悪い時間帯が過ぎ去るのを待つ。本日はもうそろそろ潮時だとして早いところ、お酒は辞めている。
ただ同時に虚しさも押し寄せる。
確かに禁酒や断酒をしていると向上心が戻ってこないことも無いのだが、現実に向上心を持ったところで自分のやる事と言えばたかが知れている。
つまりお酒を飲もうが、飲まないでいようがたかが一人の人生に変化もないというか、まだ即自的な楽しみがある分、お酒を飲んでいる方が充実感を一瞬だけは得られる。
まだダイエットや筋トレなどの打ち込んでいる人を見れば充実感があるように見えるが、お酒を辞めたところで大して喜びも無いのが現実だ。
お酒を辞めて人生を前向きに生きていくといったところで、充実した幸せな人生があるわけでもない。
逆に言えばこれまで楽しみにしていたものが楽しめなくなったというのもお酒のせいなのかもしれないが、いずれにせよ同じく虚しい人生だけな今と変わらない。
自分の場合肥満ではないが、例えば筋トレと並行して禁酒を始めるという案もある。また読書や語学、創作に以前のように集中するということもできるかもしれないが、どうしても変化には時間が必要だ。
もちろん現実の人生を生きていかなければならないので、何かしらの努力は必要だが、その果てしなさであったり、限界が見えている感のようなものが虚無感を誘う。
また再スタートを切っていくだけのモチベーションや励みもないというか、ある程度現実を悟ってしまった感覚が押し寄せる。
人生など仕方ないから惰性で生きている人は世の中に溢れているし、湧き上がるような希望を持っている人の方が少ないだろう。
人生には手に入らない物の方が多いし、徐々に人は現実を諦めていく。
そんな時に即自的に一瞬だけでも幸福感を得られて、物足りなさが紛らわされるアルコールという快楽物質は心の隙間に入り込んでくる。
確かにそんな酒類に依存すれば向上心は低下するが、同時に向上心をこれから持ったところで何をするのかという途方も無さもある。
お酒を飲んでいない時のメリットを何とか探すのであれば頭が不快感に襲われない事や、後に陰鬱な気分になることが無い事、そして翌日起きやすい事と、浪費は避けられること。そして失っていたはずの楽しみを再発見する可能性が少なからずあるという事だろうか。
ただ少しの間辞めたところで、そもそも向上心や希望、期待感を持ったところで人生は無駄だという事を悟ったからお酒の深みにはまっているのだから、その時代に逆戻りしたところで特にやることも無い現実はある。
お酒の充実感は一時的と言えども強力であるがゆえに、代替品もまた見つからない。例えば風俗、ギャンブル、タバコなどに行ったところでやってることはそこまで変わらない。そうは言え、大体世の中そのくらいしか楽しみが無い人も多く、幸せじゃない人の方が多いくらいだ。
人生なんてそんなものよというか、特に意味は無い。
だからこそそれが虚しいし、今日は飲めるんだという日は何か変わり映えの無い日常の中に幸福があるようで嬉しい。
現実の範囲内で生きなければならないとするならば、その現実の中でそこそこ手に入りやすいのがお酒でもある。
それ以外の幸せはあまりにも遠すぎるがゆえに、近場にある物で満足する、それがまさしく意識の低い生き方だ。
お酒によって新鮮な感覚が鈍化しているのかもしれないし、鈍化しているから酒でしか効かなくなっているのかもしれない。いずれにせよ自分の中でこれからの現実を生きていくだけの希望や期待感、人生の楽しみというものが日に日に減りつつある。
ついにはお酒ですら無駄に思える日があるし、ただ疲れるだけだと虚しくなる時も増えた。
この虚無感を乗り越えるだけの精神的な強さと、その後を生きていくだけの希望や楽しみをどう見つけていくか。
ただ同時に惰性で同じことを続けていたいという甘えもあるし、こんなことを考えるのは酔いも冷めてきたときだ。
世間的には希望とされている物も、自分に縁がない物や手に入らない物であれば意味がない。逆に言えばそこに辿り着くための向上心をお酒が奪っているとも言えるという堂々巡りだ。
お酒はくだらない、ただギャンブルなどと同じでくだらないとわかっててやるのだろうし、そもそも世の中くだらない事の方が多い。
良い物だと思うから未練があるわけで、実にくだらないと思えば他の事も見つけやすくなる。ただそれが見つからないというのを何度も繰り返すのが人間の闇なのだろう。
ダイエットのリバウンドのような物で、禁酒するとそのぶり返しが来る。
こうして頭を整理してみるとお酒を飲むという事は心底くだらないと分かるが、逆にこれからの人生を冷静に考えるとそちらもまた虚しい。
お酒を辞めることもすぐにはないが、同時に小さな向上心を大切にもする。
そして時間をかけても希望を見つけや楽しみを増やしていく。
マジで平成最後の夏が終わるぞ会議
俗に平成最後の夏と言われている今年の夏もついに残り数日となった。
この夏を振り返って自信を持って「夏を楽しんだ」と言い切れる人はどれだけいるだろうか。
自分の夏を思い返して、総括してみればそれは「無駄に酒を飲んで終わった夏」でしかなく、やりたいことはあまりできなかったという不完全燃焼感が強い。
後悔というか夏が終わっていく寂しさ、やりきれなかった物足りなさが涼しくなってきた風と共に押し寄せる。
かといって今から残りのラストスパート仕上げて悔いの夏にしようという気力も沸いてこず、もう夏は終わっているという感覚だ。
想像していたほどの夏ではなく、期待しすぎていたゆえにその落差が大きい。
それもただ自分に甘えて酒を飲んで過ごして、行動していなかったので仕方ないと言えば仕方ないのだが。
勉強していなかった受験生が偏差値が伸びなかったと悔やんだところで、それは本人の努力不足だから仕方ないのと同じだ。
基本的に自分のこの夏の生活パターンは明るい時間からお酒を飲んで、その後飲み過ぎて暗くなってからは寝込んでいるという展開が多かった。
夏らしいイベントを無理やり探すならば、田舎にある酒自販機で手に入れた酒をいつもの場所で飲んでいたら、近くで晩酌をしていた謎のおっちゃん二人と一緒に飲むことになったのが思い出の一つだ。
どちらも年金生活に入っているような二人で、テラスで飲んでいてちょくちょく自分がそこで一人酒をしていることに気付いていたらしく、それで誘ってもらった格好だ。
あの日は夕焼けが綺麗でこのテラスの夏の雰囲気いいなぁと思って、おっちゃん二人に昔懐かしの地元の話をしてもらったことを覚えている。
「めんこでいつもこいつは強かったんじゃ」みたいな時代の話や、自分の年代までは小学校の教科書は配布式じゃなかったというレトロな話を聞けたので貴重な体験だった。
自分も含めて三人とも酔っているので初対面ながらフランクに話せて、世代を超えた交流が面白く、この夏の情緒はきっとこれからも思い出であり続けるだろう。
いわゆる第三のビールや、最近増えているアルコール度数の高い発泡酒を日ごろから飲んでおり、それを自分もわけてもらったのでこの日はタダ酒できたのはお得だった笑
おつまみなどもわけてもらって、変える時は三人ともよく分からない状態まで酔い切っていた。翌日非常に気分が悪かったので相当飲んだことになるが、今ではひと夏の楽しい夜だったと思える。
もう一つ夏らしい思い出と言えば地元の夏祭りで学生時代の地元の同級生と再会したエピソードがある。毎年8月の始まりの上旬に行われる恒例のイベントで、田舎の実家に近いので見るだけ見ようと、そんなに遠くでもないので雰囲気を味わいに行っている。
露店は十数店出されるような規模で、かき氷に多くの人が並んでいたが、良い大人になってくると焼き鳥や焼酎のほうに興味がいく。
また昔は地元で有名なおもちゃ屋が出店していたのだが、経営者が高齢化して数年前からはこの「夏の約束の地」は無くなっている。
自分がエアガンとかんしゃく玉という悪事を覚えた思い出の場所も今は無いし、昔の夏祭りはおどろおどろしい見世物小屋もあったと聞くので、年々夏祭りも健全化されてきている。
カップルで溢れていると思いきや田舎なので来ているのは家族連れが大半、会場全体が薄暗いこともあって男一人でいてもそこまで場違い感はなかった。
面白かったのがこんなSNSでも話題にされないような地方の花火大会でも、科学の進歩でハート形の花火があったり、青色の発色が綺麗になっていたりという発見があった。
本当にまともな娯楽も無い田舎なので、年に一回の夏祭りだけは地元の団体が張り切って力を入れている。そこそこ客入りも良かったので、過疎化の町の恒例行事としてはまだ数年間は続きそうだと安心した。
実際同級生と再会したぐらいなので、子供の頃の思い出が今も懐かしく皆参加しているのだろう。
その同級生数人と会って子供の頃の思い出を話したのだが、「結局ゆとり世代が会うと未来の話ではなく懐古の話になる」という説がまた実証された。
よく動画サイトに「90年代生まれが好きなアニソンメドレー」みたいなものがあるけれども、もう今のゆとり世代になる未来にそこまで希望も情熱も無いので、そういったBGM集を聞いて楽しかったころの思い出に浸っているのではないだろうか。
「最近の大学生が会うと思い出の話しかしない」と言われているが、これは「俺らおっさんになったよなぁ」と気取りたいわけではなく本当にそれぐらいしか話すことが無いのが実情だからだ。
その昔の同級生と会っても、皆そんな積極的に現状を語ろうとせずニート率高く、まぁ今の時代そんなもんかとある意味安心もした。
自分だけがこんな駄目な生活を送っていると思ったら、結構みんなそんな感じなんだなと思えたのは収穫だった。まぁ自分に同情して話を合わせているだけなのかもしれないが、そこまで前向きに話さないのを見るとそこまで誇れる現実も無いのだと思う。
よく「同窓会は社会で成功した人の自慢大会になる」と言われるけども、ゆとり世代くらいになってくるとそこまで社会でバリバリ上手く行ってる人なんて少数派で、懐古話くらいしかすることが無い。
ちなみにその同級生集団の中には女子もいて「そういえば俺この頃、女子と普通に話してたな」とう典型的な非リア充あるあるに陥った。
基本的に女子は普通に彼氏がいるので、ひとり身は俺だけか・・・というのは思わないことも無かったけども、それよりも懐かしさの方が大きかった。
それも派手に遊んでいるというよりも昔からの彼氏と続いているとか、大してイケメンでもないとかそんな感じで、まぁ皆それぞれ現実の生活があるんだなという感じだった。
そしてそろそろ既婚者も普通に増えているなというのもちらほらとあったけども、自分は特に結婚に興味は無いので焦りを感じるようなことはなかった。
まとめると「まぁ皆ほどほどに生きてるな」という感じで、それぞれなんだかんだで地元の祭りが懐かしいし、会えば懐古の思い出話ばかりという典型的な最近のゆとり世代マイヤンのような感じだった。
「思い出話ぐらいしか語ることがお互いに無い」というケースは、もう今の時代全国にありふれているのではないだろうか。
子供の頃の思い出を越えられないゆとり世代というか、いい年しても大人になりきれないぬるい大人達みたいなしょぼーい感じの雰囲気が何ともよかった。
小中高にかけての「これ俺しか覚えてねぇだろ」的な話を案外相手も覚えていたり、逆に自分も覚えてないようなことを話してくれたりと、田舎の少人数クラス特有の絆はまさしくマイルドヤンキーという感じだった。
もう都会志向の時代でもないし出世に興味が無く余暇時間の方が大切だという、意識低いゆとり世代のこの生ぬるい感じは嫌いではない。
ただ最初のエピソードのように一緒に意識低い発泡酒飲んだおっちゃん達も似たような感じだったというか、昭和の話しかしなかったのでまぁ大体日本人はこんな感じが平均像になっていると思う。
「巨人大鵬卵焼き」といって昭和の子供たちが好きな三つの物を表した言葉があるのだが、これがリアルに通じたのが時代を感じさせるというか、わりと自分が持っている昭和知識が生きたのは中々面白い経験だった。昔の人の方が実は歴史の話が通じて面白いし、懐古話を出すととても喜んでくれる。自分の知識が間違っていなかったことを確かめられるどころか更に深められるのでお互い一石二鳥だ。
昨今、「自分の世代の話しか分からない」という人々が増えているけれども、ちょっとした知識があるだけで世代を超えて話が盛り上がるというのはとても有意義なことだ。
それにしてもやはり夏が終わるのはどことなく寂しい。
冬が厳しい北国の人々はよりこの感覚が強いと聞くが、比較的温暖な地域の人間でもこの感覚になる。
「10日あれば夏休みの宿題は終わらせられる」という根拠のない自信を持ったところで、どうせ忘れましたと言い訳することになる。
夏の恒例行事とも言える大型番組がこれから立て続けに放送されれば、夏の終わりを実感する時が来る。
自分は今年の夏何かをしただろうか、いや何もしていない。
ただそんなどことない物足りなさと共に、夏は過ぎ去っていく。
その名残惜しいような寂寥感もまた晩夏のひと時だ。
社会人が創作活動をする上での難点について
ネットっていろんなタイプの人種というか社会階層の人がいるんだなと言うのが面白くて、創作界隈でもそれぞれの事情を抱えていることが多い。
その中でも最近面白いと思ったのが「仕事を辞めたり求職したりして時間ができたことで、久しぶりに絵を描き始めたら自分が本当に好きなことを再発見した」というパターンだ。
就活をして社会人として長らく過ごしているとそんなスキルは必要とされず、社会に埋没した人間として様々な社会人的な規範やマナーを要求されるようになる。
そんな慌ただしい日々の中で心と時間の余裕を失っていき、疲弊し自分の本当に好きなものを忘れて「社会人」として世の中に適応していく。
いつの間にかあれだけ子供心に好きだったものへの情熱を失っていき、絵や小説、漫画を書かなくなっていく。
特定の個人というよりもネットには意外とこういう人が多く、クラスに2,3人は絵を描くのが好きな人がいるという現象に似ているかもしれない。
自分はネットの創作活動がもっと盛り上がって発展していってほしいと思っている立場であるし、何もかもプロ化されたハイレベルな物だけが全てではないと思っている。
民間芸術、民芸品、民俗学のようなもので末端の個人が作り上げるアール・ブリュットのような世界観に惹かれている。
それぞれが個人のセンスで本当に好きだと思う物を作っているところに真の芸術は現れるのではないか。
だから自分が最初何気なく鬱気味になり退職し、しばらく失業保険や貯金をやりくりし惰性の日々を送っているという人を見かけたとき、その人が昔やっていた絵を再開した時に衝撃を受けた。
「そうか日本の世の中にはもっとこうして埋もれた才能がある」というか、磨けば光るセンスに溢れた人がまだいくらでもいるのだということに感銘を受けた。
この実例は本当に氷山の一角でしかなく、学生時代に趣味で授業中に落書きをしているような創作欲求は今もこの社会にありふれている。
求職して時間ができてちょっとまた絵を描いてみようとなって、SNSにあげてみてそれほど広まっていくわけでもないけど、ちらほらと誰かが見てくれれば自分の絵は世の中に出ているという実感を得られる。
こういった体験はまさに一人で絵を描いていたらクラスの誰かの目に留まって、面白いじゃんと言ってもらえる感覚に似ているかもしれない。
元々ネットに絵をアップするというのは本質的にそのぐらいの感覚だったはずなのに、いつのまにか商業の延長線上の存在になって今日に至る。
というよりも最初はその領域で十分に楽しいのだが、いつまでもそうしていられる時間は続かず現実とも戦っていかなければならない。
例えば休職期間中に久しぶりに絵を描き始めて創作の楽しさを再確認したからといって、いつまでもその時間は続かない。
きっとその人がまた社会人に戻ったたら絵を描く時間も情熱も失われ、また終わりなき日常に生きていく使命を強いられるだろう。
徐々に絵を描くという感覚を取り戻し、ネットで見られているという実感に喜びを覚えて自分のスタイルを試行錯誤し工夫していく。そして描き上げた絵は、個人のセンスが思う存分に発揮されたものだった。
社会人としてやらなければいけないとされている行為に苦しみ、退職を選ぶことになった人にもこれほど本来は面白い要素が備わっていた。
どうも今の日本社会というのはこうした原石を、多様性を否定することによって潰し続けてきたように思う。
中には社会生活の中で懸命に時間を見出して創作に励んでいる人も存在する。
時間的に融通の利く職種をやりながらも、小説を書いている人も存在しているというケースも多い。
しかしこういった人もいつの間にか、社会のブラック労働やハラスメント問題について広めることが日常になり、社会人として創作をすることよりも日常との戦いが現実の課題になっていく。
それほど日本社会で自分の好きな活動を続けるシステムは整っておらず、社会人になれば「もう遊んではいけない大人=社会人」となっていく。
こういった「社会人になって以降合間を見つけてネットで創作活動を始めた」というケースはこれから増えていくはずだ。
しかし自分自身大学生という時間が有り余っている時期からネットで投稿を始めたという実例に対して、社会人や離職者として始めた例に対しては非常に難しいと言わざるを得ない。
社会人になって小説を書いているという人の話を自分は時間を割いて読もうとは思わなかったし、休職してイラストを描き始めた人のSNS上でのイラストは面白いと思ったもののこれからいつまでも続くという予想はできない。
創作の現実の厳しさを知っていると、こういった社会人になって以降創作を始めた層が本来大人の世界の中で押さえていた才能を発揮することに期待したい一方で、そう簡単ではないという現実もある。
他の業界に例えるのであれば、昔やっていたゲームに大人になってから復帰した人がそう簡単にその世界で上り詰めていくのは難しいという話に似ている。
自分としてはこういった新規層を応援したいし、それでもっと個人創作文化が盛り上がって活気づいていってほしいという思いもある一方で、もうそういった風潮ではないという現実もわかる。
日本全国に昔は絵を描いたり物語を空想していた少年少女というのは無数に存在する一方で、社会に適応することが求められたり、創作には創作なりの世界があるという現実もある。
本質的にいえば学生時代に遊びとして続けていたことを大人になってもやっていくかということで、自分としても「続けてください」としか言いようがないのが現状だろうか。
創作の萌芽としての社会人になってからの活動再開、こういった新しい流れが加わってくることによって今の創作界に従来とは異なる刺激が入ってくるべきだ。
昔は絵が得意だったけど社会の中で生きていくにつれてそんなこともしなくなったという事例はもったいないし、本当はそういった層がどんどんと新しい風を吹かせていくべきだと思う。
本当に自分の好きなセンスを発揮して新しいことをやっていくという新時代の芸術運動が巻き起こるとするならば、それは一度社会の強制力によってそれを辞めさせらた人々から沸々とわきあがってくるエネルギーや衝動を発端にするのではないだろうか。
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本格的に平成最後の夏が終わろうとしている切なさ
日本人にとって夏の終わりはどこか寂寥感を感じさせる風合いがある。
もしかしたら世界共通の物なのかもしれないが、夏の次に来る秋にそれほどワクワクするものが無いことと、子供の頃に夏休みが終わる寂しさを経験しているからかもしれない。
特に今年は平成最後の夏であり一つの時代の終わりを意味することが、その感情に拍車をかけている。
もちろんまだ今年が終わるわけではないのだが、夏が過ぎればあっという間に残された時間も過ぎていくだろう。
正確には「今年も」という表現が適切なのかもしれないが、不完全燃焼でまた夏が過ぎていきそうだ。夏をやり切った感じはしないし、まぁこんなものかというがっかり感の方が大きい。
特に自分の場合寂しさを感じるとお酒に逃げてしまうのでどうしても飲み過ぎてしまい、翌日が二日酔いの気分の悪さから始まることが多い。そのためどうしてもネガティブな感情が駆け巡り、自己肯定感が低下して虚しくなっていく。
いつまでもそんなことをダラダラ続けていても仕方ないので、気合を入れてなんとか起きようとする。これで起きれたときはまだ前日のお酒の量は控えていた部類だが、酷い時は夕方まで陰鬱さに支配される。
本当に何をしているんだろうなぁと馬鹿馬鹿しくなるし、そもそも自分が平成最後の夏を盛り上げようみたいなテンションになってることも無駄に思えてくるし、現に夏は終わろうとしている。
そういえばなんか去年の夏も革命だとかどうのこうのいっていたが、結局反応は冷ややかな物で白けてるなぁと情熱を無くしていったことを覚えている。
今年の夏も一人馬鹿になっていろいろとやろうとしてきたもののそれほど響かず、何やってるんだろうなぁと後悔し始めている。まぁこんなものか、今時盛り上がろうとか厨二感がどうのこうのとか革命論だとか熱く語っても冷笑される時代だしなぁ。
そんなかんやで今年も大して盛り上がらなかったなぁというか、そもそも最近の日本のネットはROM専で終わる人のほうが多数派だとか、まぁ俺が絡みにくいつまらない人間なんだろうなぁとか。
大体一人ワールドカップ盛り上げるぞと言ってた時からスベッっていて、今時情熱がどうとかの時代でもないし、世間が盛り上がるのはそれこそバッシングの時だけだ。そういう風潮もまた今の日本社会をつまらなくしているのだろう。
いやそもそも大半の人は夏は予定があり、十分リア充を満喫できているからとかそもそも忙しいのではないか。
なんだろうなぁこの虚しさというか、空回りしてるダサさ。
正直もう自分の中で夏は終わっている気分だし、夏盛り上がれなかったなら秋祭りだ!とか言ったところでどうせ白ける事はもう予想がついてるような・・・。ユーモアある反応もっと増えて欲しいなぁと思うけど、noteとかでもノリのいい反応よりもただスキの交換だけで終わるし、そもそももうピクシブもめっきり反応減ったなぁとか、そもそも創作のやる気もあまり活気づかない。
そういえば去年の夏は一時的に創作熱が復活していたけど、今年はその気も沸かない。大体反応のしょぼさは予想付くし、今時厨二アングラ感!とか言ったところであまり理解してくれる人はいないし、そもそも利益にならない。
なんかもういろいろとダルいなぁとネガティブな感情ばかり湧いてくるけど、本当はこんな夏を送りたかったわけじゃないんだよなぁ。今年が始まったときはもっと夏は面白くなるだろうと思ってたというか、そうしようと思ってたけど結局惰性でここまできたな。noteとかも滑ってるし盛り上がろうぜとか言ったところで白けた結果にしかならないのはもうなんとなくわかってきた。
ただこれが夏ってもんなんだろうな。
大体子供の頃の夏休みだって色んなことしようとワクワクするものの、惰性でダラダラと過ごし結局大して予定もやれず終わって二学期が始まる。理想の冒険なんてゲームの世界にしかないし、そもそも宿題に追われる。
世間の子供たちは宿題に追われているだろうし、非リア学生は青春の夏が何もなく終わりゆくことを悔やんでいるだろう。
そもそも社会人はバカンスなんてないし、替りに現実がそこにあるだけだ。
うん、まぁこれが平成最後の夏の現実だ。
架空戦記とかSFってオワコンなんかね・・・
おっさんコンテンツという言葉を使いたくはないが、架空戦記はもう完全に中高年男性向けのジャンルになっている気がする。
今の創作界隈において、女性層に支持されないというのは致命的で男性にしか需要が無いジャンルってことごとく活気が減衰しているよなぁと寂しい思いに駆られる。
もう架空戦記とかSFと言われた時点で、おっさん感マックスというか若い世代は興味ないし、女性は絶対に興味を持たないだろう。
そこで問題になるのが自分がやりたい創作ジャンルを良く考えると、ことごとく架空戦記物ばかりで「今時こんなことやっても先行きないよなぁ」なんて邪な考えも浮かんでくる。
コンテンツとして架空戦記やSFを復活させようとなると何をすればいいのかというのをここからは考えていきたい。
まずyoutubeで「架空戦記」と調べて出てきたのは、ほとんどがゲーム関連でWarthunderというロシア産の戦争ゲームを題材にしている。同じ動画サイトならば昔はニコニコ動画でサクラ大戦系のMADがあったり、RedArmyという古典ゲームの動画が多かった印象がある。
またツイッターで調べるとガールズ&パンツァーに関連したものが多く、次いで模型が多いことが分かる。
ピクシブだと同じくゲームを題材にしたものが多く、ゲームか模型か萌えキャラの時代だ。自分で完全に架空戦記を作ろうとするとやはり難易度が高い。
それこそ1960年代から70年代にあったような硬派なSFは無くなって、機動戦士ガンダムシリーズが登場したことが日本でSFが衰退した理由として上げられている。
そしてそのガンダムもいよいよ若者受けしないコンテンツになり、ビルドダイバーズのような作品が実際の戦争ではなくゲームを題材にしたところで、戦いを好まない今の世代には受け入れられない。
結局のところ日常アニメの時代になり、ゆるい定型文のセリフをSNSで呟けば一体感を得られて楽しいとか、その時代すら過ぎ去り今はバーチャルユーチューバーという時代になっている。
ようするに疲れ切った現代日本人はアニメの中でまでもう戦いたくはないし、頭を使うアニメよりも頭をからっぽにして見れる作品を好んでいる。
他にもっとカジュアルな楽しみがあるためわざわざ架空戦記やSFの壮大な世界に思いを馳せる動機は無いのだ。
自分はゆとり世代なのでむしろ最近の日常アニメが好きな世代に本来は近いが、どこかその風潮に対する違和感を抱く。
昔ながらの古典的硬派なサイエンスフィクションではなくとも、ガンダムやエヴァンゲリオン、コードギアスのような作品も十分に戦争を描いており、とにかくこういった戦いを描いた作品が受けない現代に疎外感がある。
そもそも遊戯王やポケモンによってモンスターやカードの時代になり、ロボットアニメといえば今ではかろうじてシンカリオンが子供受けしているものの、乗り物が題材であって兵器ではない。
シンカリオンはトランスフォーマーに近く、ゾイドワイルドはビーストウォーズに近いだろうか。乗り物にしろ動物にしろ、こういったメカ的なものはまだ存続しているが下火産業に近いと言わざるを得ない。
落合陽一が今の若者が近代の論争に興味を持たなくなり、スマートフォンの新機種が何になるかに関心が高いのは「適応」だと肯定していたが、近代の政治や歴史についての一定の素養がこれからは前提として通じなくなっていくだろう。
マルクス主義は宗教だったのかだとか、ソ連は壮大な実験国家として何をもたらしたのかとか、ナチス・ドイツを登場させた時代背景についてだとか、そんなことを議論できる人は少なくなってきている。
西洋文学を読解するにはある程度、聖書の素養が必要なのと同じように、架空戦記もまた近代の世界観についての教養や素養といったものを必要とする。
前提として求められる知識が多いジャンルというのはこれから敬遠されるだろうし、コンテンツを生産できる人も少なくなってくる。
基本的にミリタリーファンはやや面倒な人が多いので、細かい突っ込みどころを指摘される傾向がある。
コードギアスやデスノートですら矛盾が多いと言われてきたが、もはやそういったゆとり御用達の作品ですら近年では面倒な物として避けられるようになって来ている。
女性層が参加するという意味では、ガンダムは何も考察要素のある設定や、人間同士の戦いを描いた硬派なストーリーがうけた要因ではなく、キャラクターや声優による人気によって今日まで支えられてきた。仮に戦記物が人気を現代に維持するには、こういった本題とは別の楽しみ方をどれだけ拡充できるかが重要になるだろう。
理想として描きたいものは、近未来を題材にした作風の物である一方で、今日日そういうものが受ける時代ではないなというのも現実だ。
昔に比べて最近の本は文字数が少ないというのと同じで、難しいものはその時点で避けられるし、それを理解できるようになることが自分の成長にもなるという考え方も少なくなってきている。
模型作れる人少なくなって来てるとか、FPS好きな人はそこまで実銃に関心が無いとか、萌えとミリタリーを組み合わせたゲームで実はキャラにしか大半のユーザーは関心が無いとか、そういう時代の風潮を考えると、そりゃ架空戦記はおっさんコンテンツになっていくよなぁとは思う。
昔のSFや、史実を題材にした作品でなければ真の架空戦記ではないという硬派なファンはもうそこまで多くは無い。広義の意味で架空の世界で戦争を描いている物は架空戦記という基準にすれば、まだこれから表現の余白自体は残っている。
もっと最近の若者のセンスに合うようなエモいスタイルや、厨二的でスタイリッシュな雰囲気をどう作れるかがカギになる。
そろそろ日常感や親近感ばかり重視される風潮に対して逆張り出来る人が現れなければならないし、自分もそうなりたいという思いはある。
ただこういった情熱が簡単に表現できて伝われば、そこまで架空戦記は苦戦していないだろう。
落合陽一の現代への適応論ではないが、戦いが求められない時代に対して、どうジャンルとして復権させるかというのは非常に難しいものがある。
現代人が平和的な志向になり大人しくなり、日常の癒しに幸福を求める時代は、良い事と言えばものすごく良い事で、近代を超克してようやく人類は戦いの無い時代を見つけようとしている。
近代論について語るより、アイフォンの新型がどうなるかやSNSで他人の生活が気になって、ユーチューバーが配信で何を食べたかに関心を寄せている時代は間違いなく平和だ。
原発問題で安全が脅かされると思いきや、何事もなかったように日常が再開され、異様な熱量を持っていたシールズが敗れ去って消えていく時代は安定していると言えば安定している。
スティーブ・ジョブズのような従来のクリエイターは新世紀がどうなるかを考え、アートとテクノロジーによってそれを革新させることを考えていた。
何かしらの使命感や哲学、新時代へのビジョンというマクロな視点があった時代から、日常をどうするかというミクロな視点が重視されているのが現代だとするならば、今更近代の遺物とも言える架空戦記に戻る必要はあるのだろうか。
国家が壮大な予算をかけて軍事開発や宇宙開発をする体力を持ちえない時代に、果たして近未来の戦記を描くジャンルは成立するのか。
例えばガンダムは増えすぎた人口をコロニーに移民させるという前提は、人口爆発が危惧されていた時代の話であり、冷戦真っただ中の空気感があったから成立した。
手塚治虫の火の鳥は25世紀から人類文明の衰退が始まり、回帰路線になっていくと描かれているが、その衰退は当時の予想より早くやって来るだろう。
そもそも戦争が巨大兵器同士を戦わせて決着をつける物だという概念自体が、20世紀的な考え方をしているし、AIの時代だと言われている時代に人間が介在する余地はあるのだろうかとも考えられる。
かつて架空戦記やSFが華やかに描かれていた時代にはなかった、テクノロジーやアイデアが存在し、時代の流れも予想とは大きく異なっている。
もしこれから架空戦記を描くとするのであれば、昔ながらの構造やテーマにしていれば単に古臭い骨董品という批判を受けるだろう。
そういった新時代の発想まで想像しなければ現代に新鮮味を持って受け入れられないだろうし、当時の作品だってその時代の感覚では非常に斬新なことを描いていた。
今にない物をどう想像するか、その人類が持っているはずの限りない英知を駆使すればまた面白い作品が登場するかもしれない。